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自殺大陸  作者: ししゃもふれでりっく
終章~でも、やっぱり私はモツが食べたい~
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第5話 誰が天使を呼んだのか

5.



 街の喧騒に導かれるように教会の中から人が出てくる。天を仰ぎ、歓喜に満ち溢れた表情で祈っていた。一人、二人、三人。時の流れと共に人の数が増えて行く。大人達は皆、今の辛さがなくなるようにと天に祈りを捧げていた。膝を付き、頭を垂れ、天使が我が身を救ってくれるように、と。終わるはずの鐘が鳴り止まない。きっと天使の出現に喜びを隠せず、数も忘れて鐘を鳴らしているのだろう。

 生きようとがんばっていた人々の姿が、懐かしいとさえ思えるほどだった。つい先日起きた大きな地震。塔は倒れ、城は傾きヒビが入り、街にも小さくない被害があった。だから、何かに縋りたくなる気持ちは分かる。

 だが。


「っ……」


 アレに縋った所で救いはない。

 言葉通り、空を埋める程の天使。今の所小さな個体しか見られないのが幸いなのだろう。大丈夫だろうか。そんな心配をした。逃げられるだろうか。そんな心配をした。だが、それも一瞬。大丈夫なわけがない。逃げられるわけがない。

 腰に手を宛て、包丁を確認する。こんな小さな包丁でどうにかできるはずもない。けれど……

 ぎり、と歯を鳴らし、動きを待つ。

 天使達は滞空しながら、蠢いていた。それは、まるで何かを探しているようにも見えた。テオさんが聞いたという噂、それが真実だったのだろうか。分からない。少なくとも天使達が現れたのがエリザやゲルトルード様が要因ではないという事はドラゴン師匠の言葉から分かる。一度現れたのならば、次にすぐに現れるものではない、と。だとするならば、やはり天使に見初められた者が他に居るのか、或いは見初めようとしている者がいる、と言う事だろうか。考えた所で分かるはずもない。それ以前に、今そんな事を考えても意味が無い。

 浮かんだ感情を誤魔化すように意味のない思考が浮かんでは消えて行く。熱に浮かされるように何度も浮かんでは消えて行く。

 視線を逸らし、一度目を瞑って頭を振り、次いで包丁と貰った鍋の取っ手を強く握る。そんな仕草が少し私を落ち着かせた。

 目を開き、見上げれば当然、変わらず、あちら、こちらと天使が蠢いていた。

 紛うことなく、現実だった。

 存在するかも分からぬ目で地上を見下す天使の姿。奇怪な幾何形状の天使達が蠢く姿は、さながら壺の中に大量に入れられた蟲が蠢いているようで、吐き気を伴う程の恐怖以外の何物でもない。だが、それでも人々はそれに希望を見出していた。

 けれど、見出していない者達もいる。

 最初にそれを発見した少年達だった。

 一緒に居た少女が空を見て泣いていた。その少女を庇うように両手を広げて強がる少年の足は震えている。一緒に居た他の少年、少女達も同じだった。知識を持つ者にとっては救いだとしても、知識を持たぬ者にとってはあんなもの化物と大差がない。そして……知り過ぎた者にとってはやはり、化物だ。きっと、天使の存在を知らなければ私もああやって群衆に交じって喜んでいたのだろう。天使が与えてくれる奇跡をああして待っていただろう。それは幸せなのだろうか?いいや、悩むまでもない。不幸に決まっている。


「…………」


 自然、足が動いていた。間違いなく、この場は戦場になる。喜んで死にゆく馬鹿を助ける義理はない。けれど、泣いた幼子達を助けるのに義理など必要ない。理由なんていらない。

 そんな風に私が動くのを待っていたのだろうか。私を弄ぼうと待っていたのだろうか?いいや、きっと違う。けれど、視界の奥で、私と全く同時に天使が蟲の翅のような、鳥の羽根の様な翼をはためかせながら、空から降りて来た。

 一匹、二匹……幸いにしてそれだけだった。青白い身体を支える体躯に見合わぬ白い翼。それをはためかせ、優雅に、ふわふわと、人々の歓喜の叫びを堪能しながら、カラン、カランと鳴る鐘の音を背景音にしながらひらり、ひらりと翼をはためかせ、互いに交差し合い、時折上昇し、下降する。まるで、踊っているようだった。それが更に群衆を湧き立たせる。

 そして、そんな天使が向かう先、そこは塔のようになっている教会の頂上とも言うべき場所。塔の先端、鳴り続ける鐘がある場所だった。

 教会の者たちはこぞって、まるで悲鳴のような雄叫びを挙げていた。彼らの宗旨からすれば当然なのだろう。自らが奉る者達が現れ、あまつさえ自分達の下へと降りて来てくれたのだ。喜びがないわけがない。あぁ、当然だ。そんな事があれば喜びが無いわけが無い。けれど、当然……その喜びが続くわけもない。

 カラン、カランと鳴る音が次第に大きくなっていく。天使達が翼によって風を作り出し、それが鐘を鳴らし、鳴らして……鐘、それ自体を吹き飛ばした。

 瞬間、耳を押さえて難を逃れる。予想したのはきっと私一人だったのだろう。仰ぎ見て居た者達は軒並みその音に表情を歪めていた。

 耳を押さえながら崩れる教会の塔に目を向ければ、続く風によって塔自体が崩れていく。先日見た塔のように、彼らの信仰それ自体が、信仰を奉るその場所を壊した。

 落下。

 轟音。

 そして、悲鳴。

 一瞬にして世界が……塗り替わった。

 瓦礫に潰され、見ず知らずの人達が死んでいく。けれど、誰も見向きもしなかった。瓦礫の音が先日の地震を想起させたのだろうか。我先にと逃げる者が殆どだ。中には逃げようとして身体が竦んでいる者もいた。教会の者達は呆然としていた。だが、それさえも喜ぶ者もいた。天使が世界を浄化するために訪れたのだ、と。世界に存在するその全ての不浄なものを清浄にするために壊したのだ、と。そんな事を大声で叫ぶ者もいた。その声に呼ばれるように天使が教会の者達の下へと降り、その青白い身体を開き、ぐしゃり、とその男に喰らいついた。それでも尚、嬉しそうな表情だった。笑ったまま、喰われ、死んでいった。

 ぎり、と歯が鳴る。

 だが、そんな馬鹿な奴などどうでも良い。狂信のままに死にたければ死ねば良い。所詮名前も知らない馬鹿な人間だ。そんな者などはどうでも良い。


「間に合え、私っ」


 走る。

 塔が崩れ落ちた所為だろう。壁が、屋根が今にも落ちそうになっていた。教徒の死に気付き、なおさら、皆が急いでその場から逃げて行く。逃げ足を早くする。しかし、だからこそ。そんな者達に邪魔され、その場から身動きできない小さな少年、少女達。

 彼らの下へ私みたいな力のない人間が向かった所で何の意味もないだろう。けれど、そんな私でも……今まで自殺志願者として洞穴を探索していたのだ。少しはましになったのだ。だから……

 けれど、そんな私の希望が叶うわけも無かった。離れ過ぎていた。少年達同様、逃げる人々が邪魔だった。いつもは狭いと感じないこの道が酷く狭く感じた。ぶつかりながら、避けながら、心だけが急ぐ。けれど、やはり離れ過ぎていた。手を伸ばせば届くなんてそんな甘い距離ではない。ドラゴン師匠やエリザや先輩やゲルトルード様なら一瞬で駆け付けられるような距離……それが、私には遠かった。

 崩れる建物が……少年を、少女を襲う。

 悲鳴をあげる暇すらなく、瞬間、血が飛び散った。


「あ……」


 飛び散ったのは……


「テオ……さん?」


 人々に視界を防がれていた所為で気付かなかった。崩れゆく教会から慌てるように出て来て、車椅子から、勢いを付けて腕の力だけで飛び出し、転がるように地面を移動し、子供達を突き飛ばし……その足を瓦礫が襲った。

 痛みに耐えかねたテオさんの声にならぬ声が一際、大きく耳に響いた。

 元より歩けぬ身体。そして、今、またしても足を潰された。膝より下はきっともはや形を成してすらいないだろう。治りかけた所へのさらなる痛みは恐怖すら想起させるに違いなかった。

 だが、それでもテオさんの目は死んでいない。


「わ、私の事は良いから、早く逃げなさい!」


 救われた子供達は泣きながら、鼻水を流しながらそれでもテオさんへと駆けつけようとして、しかし、テオさんからの叱責を受けた。けれど、憤慨している様なテオさんのその表情は間違いなく偽物だった。痛みに耐えながらのそれは、酷く身体に負担が掛る事だろう。けれど、それでも子供達に逃げて欲しいから、助かってほしいから、そんな思いが伝わって来る。その想いを受け子供達が逃げて行く。けれど、全員ではなかった。離れようとする子供達の中、先程泣いていた少女が、いいや、今も泣いている少女がそれでもテオさんを救おうと近づこうとしていた。


「いいから離れなさいっ。この場にいては駄目です」


 逃げ惑う群衆の中に再度の叱責が響き渡る。それは幾分か柔らかい声だったように思えた。その言葉に、涙ながらに少女が、何度も何度も振り返りながらその場を離れて行った。

 そんな少女の姿にテオさんは笑みを零し。次いで、天を見上げた。

 ……そして、今度こそ。そこに浮かんだのは真実、怒りだった。嘘偽りなく怒りに満ちた表情だった。その怒りに反応したのだろうか。教会の上空を我が物顔で飛んでいた一匹の天使がテオさんへと近づいて行く。優雅に、滑空し、上昇し、すぅとその場で上下に回転しながら、馬鹿にするように。弄ぶように。


「天使様。これが、救いだというのですか?天使様は死が救いだと、そうおっしゃりたいのですか?世界は揺れ、城が壊れ、街は壊れ、それでもなお、必死に生きようとしていた人々の救いが、死だというのでしょうか?……天使様は私達に死んでしまえと、そう言いたいのでしょうか?」


 先程喰われた教徒に目を向け、ぎり、と歯を鳴らしていた。

 教会を出た時から、最初からきっと、そのつもりだったのだろう。肩に掛けてあった弓。転がった所為で僅か傷の入った弓を手に。

 弓を引く。

 己が信仰に弓を引く。


「私は、死を救いだなんて……思わないっ」


 天使が自らの、自分達の救いであると願い、それを信じていた。それを自ら殺そうと構える姿。あぁ、その姿がどうしてこんなにも輝いて見えるのだろう。あの時、死を願った姿など欠片も見えない。瓦礫に髪を汚し、泥に顔を汚され、二度と動かぬ足からは延々と血を流し、けれど、震える腕で、震える指先で、それでも尚、闘おうというのだ。どこかの誰かのために。出てこなければ怪我をする事もなかった。出てこなければ天使を信じ続けられたかもしれない。隠れていれば、良かったのに。それでもなお、彼女は前へ出て闘おうというのだ。

 そんな輝く様な無謀な姿をもっと見たいと思った。

 けれど。


「……駄目ですよ、テオさん。教会の人が皆の前で天使に弓を引いたら、きっと大変な事になります。離れて見ている馬鹿な人もいるみたいですし。……ですから、ここはカルミナちゃんが請け負います。まぁ、負けそうだったら、その時は仕方ありません。手助けお願いしますね」


 間に合った。


「カ、カルミナ……さん?」


 今、この場で教会の者が天使を殺すことは……さらなる混乱を招く。

 いいや、そんなのはただの方便。


「まだ、そこに居ますよね、子供達。この馬鹿な修道女シスターを助けてあげて下さい」


 この場を離れたと思っていた子供達が、遠巻きに様子を見ようとする馬鹿な大人達の足元に隠れてテオさんを心配していた子供達が、私の言葉に呼応するように、駆け寄って来る。


「なんで……貴方達早く、逃げなさいっ。カルミナさん。貴女もはやくっ」


 全く。


「明日は私と一緒に来て貰わないといけないんですから、こんな所で死んで貰っては困りますよ?……というか、テオさん。私、貴女の願いは叶えてあげません。……二度も私の前で死のうとした罰です」


 自らの信仰を、産まれてからずっと信じてきた物を壊し、自らを盾にして子供達を守ろうとするような、そんな馬鹿な人……私は嫌いじゃない。

 そんな人には生きていて欲しいと思う。

 だから、ここは私が……なんとかがんばるとしよう。

 私の願いを叶える為に。

 周囲に不幸を振り撒くとしよう。


「さぁ。天使なんて全部、私が不幸にしてあげますよ」


 

―――



 などと啖呵を切った所で、弱い人間が強くなれるはずもない。

 空を我が物顔で舞っている天使を睨みつけた所で、相手が怯むはずもなく。ただ、この瞬間、降りて来ているのがこの一匹だけで良かったという安堵と共に、右手で腰から包丁を抜いては眼前に構え、左手は腰の下の鍋に手を掛ける。これから戦闘をしようとしている人間の格好ではないな、そう思えば自然、口元には笑みが浮かぶ。

 どよめいたのは遠巻きに様子を見ていた逃げない馬鹿な人達から。逃げれば良いのに。逃げてしまえば良いのに。きっと知らずにはいられないのだ。皆が見ているなら自分も。そんな感情だろう。自分に被害がないのならば好奇心に負ける。そんな人達が、遠巻きに、他人事のように、テオさんを助ける手伝いをする事もなく、ただただ笑う私に、忌避感を覚えているようだった。

 まぁ、そんなどうでも良い事など、今は良い。

 誰が笑おうと、誰が哂おうと、誰が嘲笑おうと。

 今はそんな事よりも。

 悠長に、遊ぶように私に向かって降りてくる天使へと構える。

 もっとも、


「さて、何から始めましょうかね?」


 考えた所で取り急ぎ出来る事といえば待つ事ぐらいだ。私には空を飛ぶ事もできなければ、遠くを攻撃する事もできない。だったら、侮りながら近づいてくる天使を待つだけだ。時間を稼ぐだけだ。

 一匹、二匹、小さな個体であればそれぐらいは何とかできるかもしれない。けれど、空を覆うような何百、何千の天使をどうこうできるはずもない。故に、この事に気付いたお人よしが来てくれる時間を稼ぐのが今、一番重要だ。私が倒す必要なんて全くない。そういう格好良い事は物語の主人公にでも任せたい。けれどまぁ、テオさんを殺そうとしたこいつくらいはどうにかしたいものである。

 白い翼が揺れ、風が生み出される。けれど、それで飛ばされるような事はなかった。髪が乱れ、服が揺らぎ、砂埃が立ち、前が見え辛くなる。けれど、そんなもので死ぬわけが無い。だったら、間違いなく近づいてくる。間違いなく侮られている。とってもありがたい話だった。


「折角、料理人っぽい格好なので、調理してあげます。下手ですけど」


 愚にもつかない言葉は自分を奮起させるため。怖いものはどうあがいたって怖い。

 相手が近づけば近づくほどに。

 後少し、大人一人分ぐらいの高低差だった。ここから何がしかで攻撃されればなすすべもない。それこそ鐘を吹き飛ばした時のように。が、天使にとっては所詮、人間なのだ。何を探していたかはわからない。何のためにここに現れたかは分からない。が、少なくとも今、私を侮っているのは確かだ。

 所詮、人間は天使にとって弄ぶべき生物なのだから。

 だから。

 幾何的な要素を組み合わせたその青白い身体、子供の丈の半分ぐらいのその体に向かって、包丁を振り回す。恐れ、警戒しているのだと分からせるように。こんな包丁でも天使に攻撃が効くのは実証済みだ。それに小さければ割と普通の武器でもどうにかなるのもまた、実証済みなのだ。結果、ありがたい事に振り廻す包丁に、この生物は多少なりと警戒を見せた。それが己を殺せる存在である、と。

 だったら、その警戒すべき物を壊してしまえば良い、と判断したのかは分からないが、包丁に吸い寄せられるように翼をはためかせ、私の右手に向かってくる。

 それを、足を使って避ける。横に、横にとテオさんから離れるように、教会の入り口へと近づくようにして。

『何たる事を!』

 そんな罵声が飛んだ。崩れつつある教会の中、そこから覗く者達がいた。教会の中で天使が与える運命に従おうとしている者達。近づく事もせず、ただ傍観する教徒。それが私に罵声を浴びせる。けれど、そんな馬鹿を気にする程、私には余裕が無い。それに、嘲られ、罵声を浴びせられても、今の私には叶えたい事があるのだ。

 視線を向ければ子供達が協力して瓦礫をどかしていた。もう少し、だろう。もう少しでテオさんをその場から引き離す事ができるだろう。

 もうすぐテオさんが助かる、そんな事で気を抜いたつもりはない。

 だが、天使がそんなに甘いわけが無い事を、私は理解してなかったのかもしれない。

 もう一匹の天使が、教会の、つい先程まで鐘のあったその場所から急速に落下してきた。翼をはためかせる事なく、完全なる自由落下。その事に気付いた次の瞬間には私の眼前に現れ、刹那、幾何形状のその体が開いた。


「っ!」


 咄嗟に身体を沈め、転がるようにその場を離れる。わさ、と齧り落とされた髪が地面に落ちた。


「切ってくれありがとうございますっ」


 愚にも付かぬ罵声を天使に浴びせながら、手の空いていたもう一匹が同じ様に口に似たソレを開いて襲ってくるのを更に転がって避けようとして、失敗した。


「あがっ……」


 抉られたのは背中。その衝撃に身体が勝手に転がっていく。距離を取れたのは重畳。しかし、怪我をしたのは最悪だった。口腔に入った砂埃を唾と共に吐き出し、痛みに耐えながら立ち上がれば自然、背を伝い、足元に血が拡がって行く。

 見れば紅色の血に混じって黒い布が点々としていた。折角、アーデルハイトさんに修繕してもらった服が裂け、背中の肉が削がれたようだった。背から伝わる痛みに顔を顰める。ごめんなさい、ドラゴン師匠。また、行くのが遅れるかもです。そんな事を考え、無理やり笑う。

 ここで笑うのを止めたら、きっと神様が泣いてしまうから。妖精さんはとっても優しかった。私が笑っているのを喜んでくれていた。だったら、こんな状況でも、いいや、こんな状況だからこそ無理にでも笑うしかないだろう。まして、私は神様を殴って泣き止ませるつもりなのだ。こんな所でこっちが泣いているわけにはいかないだろう。

 再度、包丁を構える。

 眼前に浮かび、互い違いに飛びまわる二匹の天使。例えばそれは番が互いの健闘を称えるようなそんな仕草なのだろうか。

 遊ばれていると思った。

 それも当然。

 けれど、遊ばれているならそれはやっぱり好機なのだ。

 そして、口を使って来るというのは更に好機なのだ。時間を稼ぐのも良い。けれど、それ以上の事が出来そうだと、思いついた。

 笑う様に。哂う様に。嘲笑う様に口に似た器官を開いたり閉じたりしながら二匹の天使が私に向かって飛んでくる。

 いいや、襲ってくる。

 右から、左から。逃れる先は前か後ろしかない。だが、人間には後ろには目がないのだ。だったら、死角を作らぬために後ろに下がるしかない。けれど……私はその場に立ち止まったまま。

 襲ってくるなら。


「待つだけです」


 右手に包丁を、そしてドラゴン師匠に作って貰った鍋を腰から抜き取り、羽をはためかせ勢い良く襲いかかる天使に……きっと私が逃げると思っていたのだろう。かなりの速度だった。……その口に、包丁と鍋を突っ込んだ。いいや、寧ろ相手から勝手に突っ込んでくれた。

 瞬間、右手側の天使から白濁した液が飛び散った。それが顔面に、髪にかかり、私を白くする。口元に零れてくるそれを舌で舐め取れば、何とも言えぬ気持ち悪さが身体を襲った。


「くさいし、まずいです。……ともあれ、残念でした。ディアナ様とジェラルドさんと師匠には感謝です……というわけで、もう一匹の貴方は燃えて下さい」


 多少失敗しても腕はガントレットが守ってくれる。だったらその口に直接包丁と鍋をお見舞いしてやれば良いのである。作戦、成功だった。けれど、まだ作戦は途中。まだ、片方が生きている。鍋で身体が裂けるわけもなし。

 だから……左手の鍋の取っ手を全力で握る。

 握れば、炎が産まれる。

 轟、と左手側の天使の口腔に炎が産まれ、その身を焼く。一瞬で焼き切れる程の火力はない。けれど、私が握り続けている以上、炎が止まる事はないのだ。次第、火がガントレットの部分にまで移って来る。一瞬その事に焦ったが、ガントレットがこんな炎で燃えるはずもなく、寧ろ安心して握る力を強めた。

 そうれば更に炎が強くなり、天使が暴れ、離れようとする。だが、ここまで来て逃がす程私も愚かではない。右手の包丁を天使の身体を切り裂くようにして引き抜いて、燃えるもう一匹に突き刺せば、再びぷしゃっと白い体液が私に降りかかる。


「ははっ!これで少し先輩っぽくなりましたねっ」


 ケタケタと笑う。

 未だ天を埋め尽す天使を見上げながら。

 見上げれば更に数体が動きを見せ始めて居た。数体、である。なんとも、ありがたい話だ。少しずつ来てくれるならこれ程ありがたい事もない。

 そんな事を考えていれば、矢が私の下へと飛んできて、腕に刺さった。


「っ……思わぬ所から矢が飛んでくるものですね」


 言い様、包丁と鍋から天使を引き剥がし、地面に捨てる。後で中身だけは回収してドラゴン師匠にあげるとしよう。けれど、今は……

『天使様に何てことを!』

『悪魔だ……黒い悪魔が……邪神の使徒めがっ』

『皆の者!天使様は、天使様はこの悪魔を殺すために御降臨なされたのだ!』

 罵声が響く。飛んできた矢は教会の中から。

 だが、そんな罵声を寄越してきたのは教会者達だけではなかった。遠巻きに見て居た人々の中にもいた。そして、集団とは……群衆とはそういうものなのだ。次第に声が大きくなる。一人が騒げば釣られるように騒ぐ者が現れる。きっと普段だったらそんな事はなかったのだろう。地震の恐怖に怯える日々、建物倒壊の恐怖に怯える日々を過ごし、そして今、歓喜を浮かべた瞬間に、教会が崩れ、人が死に、天使が教徒を喰らったり……奈落から天上へ、そして再び奈落へと落とされた人々だからこそ。

 全く……良かった。これがテオさんに向かなくて。

 例え教会を壊され、潰された人が死に、そして教会の者が死んだとしても、それでも……言ってしまえばそれぐらいの被害しか出ていない段階で天使を殺す行いは、教会の者達にとっても、奇跡を信じる者達にとっても良い事ではなかったのだろう。

 いや、そんな理由ではないか。

 『邪神の使徒』、『黒い悪魔』、教会の者以外は、私が、そんな風に呼ばれたが故に私への罵声に参加したのだろう。天使がせん滅すべき相手が私で、人々が死んだのは私の所為で……。だから、天使はまだ奇跡を見せてくれるために現れたのだと信じているのかもしれない。ここに私がいなければ鐘が落ちる事もなければ、教会が崩れる事も無く、そして人死にが出る事もなかった、と。

 縋りたいのだろう。誰も彼もが何かに縋りたかったのだろう。

 天に漂うあれら全てが一斉に襲って来ていれば話は違ったのだろうか。ここに残った皆が殺されれば、きっと天使を殺す事に納得した者もいるのかもしれない。

 けれど、少し早過ぎた。


「ははっ……全く」


 だが、そんなもの意に反さず。

 もはや、私にそんな言葉は届かない。心の奥底に、あの優しい人達の言葉がしっかりとあるから。

 だから、


「手を出すのが遅いですよ?天使を助けたかったのでしたら、もっと早く私を殺すべきでしたね?」


 矢を抜き、捨てながら笑う。



―――



 飛んでくる瓦礫の破片、矢。

 他愛のないものだった。時折刺さる痛みもまた、別段気にする程の事でもない。殺す覚悟なんてそんな馬鹿馬鹿しい言葉を持ち出すのはそれこそ馬鹿らしいが、彼らにリヒテンシュタイン家を敵に回す気概などありはしない。故に致死性の攻撃なんてものは産まれない。奴隷の証も役に立つものだな、と再び笑えば更に罵声が飛ぶ。

 そして飛んでくる罵声が、よくもまぁ考えつくものだなと思えるぐらいで、ちょっと面白いとすら感じていた。それが更に。

 そんな負の連鎖を作り上げながら、空を見上げる。

 螺旋を描くように動く天使の群れ。

 さながら天から発生する竜巻のように地上を目指していた。向かう先はやっぱり教会で、そこに何かが隠されているようにさえ思えるほどだった。天使を崇める以上、何かそこに大事なものが隠されていて、それが原因で天使が現れたのだろうか。

 そんな事を考える。

 考えていなければ、先程抉られた背中の痛みに腰を折ってしまいそうだった。


「どうしよう……」


 群衆となった人々が逃げてくれるなら良いのだが、逆に注目を集めてしまった事は失敗だったと思う。注目を集めた私の所為で皆殺しに合うというのは流石に気分が悪い。

 とはいえ、言葉でどうにかするには遅い。まぁ、そもそも私にはそんな素敵な言葉を吐ける素養もなければ、立場もない。

 だからといって、テオさんを見殺しにする様な選択肢は私には無かったのもまた事実。そういえば、テオさんは子供達に回収されたのか既に姿は見当たらない。

 それだけが救いかな、と。

 しかし、ここで私が死んでしまってはリオンさんや神様を殴る事もできなくなるわけで。いや、まぁ。幽霊として殴るのもありだろうか。

 考えている間にも天使が地上へと近づいてくる。

 やはり大きい個体はまだ見られない。斥候、あるいはリオンさんの言葉でいえば前菜。やっぱり、テオさんが聞いた噂の通り、斥候を使って何かを探しているのだろう。あぁ、思考がぶれる。

 背中から感じる熱。

 それが私の思考を歪める。


「さて、皆さん。そろそろ逃げた方が良いですよ?」


 一応、大きい声で言ってみたものの、従う者がいるはずもなく。熱に侵されたような群衆を止めるには私はきっと黒過ぎるのだ。こういった場で輝くのは……

 螺旋が歪んだ。

 一匹、そしてまた一匹と輪から抜けて私を目がけてくる。

 あぁ、ありがたい。

 一匹ずつならば、襲われようと喰いつかれそうになろうと先程と同じ様に包丁を、燃える鍋を口に突っ込んでやれる。

 あぁ、全く……見栄えのしない戦い方だ。

 いいや、らしくて良い。

 鈍重で、格好良さの欠片もない、醜く、それでいて必死な感じがとっても私らしくて良い。


「ほら、皆さん。天使を助けたければ邪魔してくださいよ」


 その言葉に、飛んでいた矢や石が止まった。

 寧ろこの場においては続いていた方が牽制になって私にはありがたい。だが、私を殺す気概もなければ、天使の意識が自分に向いては本末転倒。故に、止まった。

 ……それとも、天使自らがその手で私を殺す事を期待しているのだろうか?

 まぁ、どっちでも良い。

 この国の住民が殺される確率が減ったのは良い事だと、そう思うとしよう。

 守る、なんて格好良い事は言えないけれど……がんばって街を元の姿に戻そうとしていた住民が死ぬのは、なんだかんだ言ってやっぱり嫌なのだ。未来を求めていた人達の未来が潰える事は嫌なのだ。今はこうして私を憎んでいるかもしれない。けれど、これが終わればまた皆日々の忙しさに天使の事なんて忘れて、私の事なんて忘れて、天使なんかに縋る事なく未来を求めてくれるだろう。

 そんな情景を思い浮かべれば、くすり、と笑みが零れる。

 神様だって泣いているこの世界で、必死に生きる人々の姿が見たいなんて、私ってなんて酷い奴なんだろう。なんて我儘な奴なんだろう。

 笑えてくる。


「この早漏。さっさと白濁液を撒き散らして萎んでしまえっ」


 近づいて来た天使に、勢いを付けて包丁を振り抜く。

 刺さった、巧くいったと思った瞬間、口を閉じられ、動きを止められた。そして止められた衝撃が、腕に伝わってくる。その状況に私が反応するよりも早く、もう一匹が私を襲おうと急激な加速を見せる。


「ぐっ……」


 刹那、包丁から手を離し、その場から離脱する。白濁液に染まっていた髪が、地に落ちた。ただでさえバランスの悪くなった髪型が更に悪くなった。だが、背中以外に傷は無い。まだ、大丈夫。

 けれど、これで鍋一つ。

 いやはや……カイゼルの言葉ではないが、どういう格好だろうか。

 両手で鍋を構える自殺志願の奴隷。

 全く。

 全く。

 度し難い程笑える。


「生娘一人を一匹で犯せないなんて大した天使様ですね。……あぁ、犯す必要もなかったんでしたっけ?処女受胎とかって。だったら……孕ましてみれば良いじゃないですか」


 握れば炎が立ち昇る。

 思いの外、強い炎。まったく……良い料理ができそうだ。ドラゴン師匠には更に三本ほど酒を持って帰るとしよう。帰れたら、の話だが。

 そんな私の姿に、群衆の中に居た一人の男が、目を剥いていた。四十を越えた頃の男性だろうか。炎に魅入られるように、呟いていた。聞こえるはずもないその声が、しかし、しっかりと耳に届いた。


「なんだ、あれは……皇剣カーネリアン……まさか、皇族……なのか?」


 勘違いだ。

 だが、正す暇もなければ余裕などもっとない。それに正そうが正すまいがどうでも良い話だ。遠巻きに円を描いていた人々にその言葉が浸透していく。どよめきと共に手に持った瓦礫をその場に落とすのが見えた。


「……そうだ。あの顔立ち……若き日のゲルト」


 そんな呟きが耳に響く。だが、続く言葉に打ち消され、結果、群衆は再び私を睨む。

『そんなわけがない!失われたカーネリアンを、あの災害の中から盗んで行ったに違いない!卑しい奴隷めっ!』

『彼奴の姿を見よ!斯様な髪色の人間がいるわけがない!悪魔が化けた姿に違いない!』

 余計な言葉は教徒達から。全く……テオさんは好きだが、他の教会の者は軒並み嫌いになりそうだった。だが、嫌いになるためにもやっぱり生き残る必要がある。

 背中の痛みに耐えながら、力一杯、取っ手を握る。

 産まれ出た炎が、その熱気が、私を襲う。


「生は美味しくないみたいなので、丸焼きです」


 炎を忌避したのか、咥えていた私の包丁をぷいっと吐きだし、距離を取られた。そして、もっと……嫌な事が起こった。

 甘かった。

 本当に甘かった。

 魔法の鍋を使ったことの結果を考えていなかった。包丁なんかより警戒させるに決まっていた。

 突然、十の天使が螺旋から離れ私に向かってくる。そして、それだけではなかった。数匹かが群れを離れ群衆の方へと。そして同じく何匹かが教会の……その残った建物を遊ぶ事なく一瞬の内に壊した。

 阿鼻。

 叫喚。

 かろうじて残っていた教会の建物は更地同然だった。当然、倒壊に巻き込まれた者達がいた。潰され、血を撒き散らした。テオさんのように運よく助かる事などなく、悲鳴を挙げる暇もなく、絶叫を挙げる暇もなく、潰れた。

 様子を見ていた傍観者達が喰われ、臓腑を撒き散らす。血が雨のように飛び散っていく。そして漸く彼らは天使が目指しているのが私などではないという事を理解したようだった。

 そして、こんな時の群集心理というのは、分かり易いものだ。

 我先にと逃げて行く。

 逃げ遅れたものは踏み潰され、怪我を負い、その場に倒れ伏す。一人では逃げられず仕方なく群衆に隠れるように紛れていた幼子や老人が巻き込まれ、足蹴にされていく。悲鳴が響く。助けて、という言葉、痛いという言葉。

 それらが私の耳朶に響き渡る。

 後手が過ぎた。

 私にもっと力があったら、そんな事が叶ったのだろうか。誰も彼もを守る事ができたのだろうか。私はそんな博愛主義者じゃない。けれど、生きようとしていた人達が死ぬのは見ていられない。けれど、見ている余裕すら今の私には無かった。

 十の天使。

 逃げられるわけがない。

 妖精の時のように掴まって齧られて、そして殺されそうになるに違いなかった。

 そう。

 同じ様に。

 殺され『そうに』。

 あの時と同じように。

 殺され『そうに』。



「待たせたな、戦友」


 小さな国の王が。

 その国民が。

 間に合った。



―――




「何が待たせたな、ですか、カイゼル。どうせテオさんが心配で来ただけでしょうに」


「背中抉られてて血塗れの癖に、可愛くねぇなぁお前」


「元より可愛くありません。夜叉ですし。それと、戦わないマスターになったんじゃなかったんでしたっけ?一昨日の今日で怪我が治るわけがないですよね」


「かっ!戦友の危機とあらば手前の怪我なんて気にしていられるかよ」


 腕には包帯はない。

 長剣ただ一本のみ。

 そして、その身体は、見る者に重量感と高級感を与える鎧に包まれていた。それを装備しているにも関わらず気軽に動くカイゼルは、それこそ本当に物語に出て来る勇者のようだった。


「テオさんが心配で、でしょう?ほんと……そんなに心配なら、物語の勇者みたいに身分違いの貴族様との恋愛を成就させれば良いんです。そのために王様になったとかじゃないんですかね?……遠い彼方にある憧ればっかり見ていると、近くが見えなくなりますよ」


「こんな時にほんと、容赦ねぇなぁ、おい」


 かかっと笑われた。そして、否定はされなかったわけである。うん。適当に言ったけど、正解だったのかもしれない。なんて、そんな今日何度目かも分からぬ愚にもつかない言葉が素直に笑って言えるぐらいに……心強かった。


「さて、我が国民。俺の大事な戦友様が危機にあるわけだが……加えて、だ。あそこの気色悪い青白い奴が我らの国の大事な大事なお姫様を害そうとしたわけだが……」


 カイゼルのその言葉は、みなまで言う必要がなかった。

 猛る。

 国民が王の言葉に応え、猛りを見せる。

 総勢百数十名。

 いつか見た女の人達もそこに居る。ボストンさんも当然、そこにいた。


「かっ!……お前ら、戦友が稼いでくれた時間、無駄にするなよ。……ギルドバルドゥール。光の名を持つギルドらしく、相応しく行くとしよう。死を振り撒く存在。こんなモノが信仰だというのならば、その信仰ごと、壊してやるさ。さぁ、行こうか愚かな自殺志願者諸君こくみん。天を埋め尽し、光を塞ぐ馬鹿どもを殺し尽して世界に光を」


 輝く者の象徴。

 まさに王だった。

 王の指示に従う様に一斉に、己が武器を構え彼の国民が走って行く。天使を殺すために駆け抜けて行く。その場に立ち止った私の横を駆け抜けて行く。


「今まで、ごめんなさい。テオを助けてくれてありがとう」


 そう言って通り過ぎた剣を持った女性の名は何と言っただろうか。ミリアだったかクローゼだったかいう名前だったと思う。覚えてなくてごめんなさい。そんな事を言う暇もなく。颯爽と。

 カイゼルの指示の下、カイゼルの前に立ち並ぶ弓兵達が、天使を打ち抜かんと弓を引く。それが開戦の合図だった。雄叫びと熱狂。

 そんな中、大きな荷物を背負った人が近づいて来た。


「……背中の傷、見せて。それと……ごめんなさい。そして、ありがとう」


 この人はセリナさんだったかな。荷物を道端に下ろし、私の背に周る。


「いえ、こちらこそ。ありがとうございます。助かりました。背中だと自分で手が届かないのでどうしようかと思っていた所でした」


「思った程……じゃなかったです。これなら薬だけでも大丈夫かも」


 言い様、背中が丸見えになっているのが幸いしたのか、すぐに薬を塗ってくれた。それが僅か怪我に染みて表情が歪む。


「ま、お前はここで大人しく終わるのを待ってな」


「あれ、真っ先に行ったかと……」


「ずっと隣にいたじゃねぇかよ。そんなに俺の事嫌いかよ」


 言われてみれば確かに居た。指示を出していた。


「いえ、てっきり」


「テオもいない以上、俺が指揮するしかねぇだろ……というのは嘘でなぁ。あれで終わるとも思えんのだが……黒夜叉姫。お前はどう思う?」


 察しが良いにも程がある、そう思った。驚くようにカイゼルを見れば、いつになく真剣な表情をしていた。


「あれで終われば恩の字です。あれの後が出てくる可能性もあります。もっと大きい奴が。……といっても今の状況でも数限りなさ過ぎて……」


「なるほど、な。嫌な予感しかしねぇ。……しかし、天使に襲われる地上つーのはなんかこう、まさに終末って感じだなぁおい。お、とりあえず第一陣は終わりって感じだな」


 流石、著名だという話のギルドメンバーだった。十数体居た天使が次々と殺されていき、地面を白く染め上げて行く。


「ふぅ。やっぱりカルミナちゃんはとっても弱いですねぇ」


「かっ!謙遜謙遜。来る途中にテオに会った。そして、聞いた。……なんというかさ、馬鹿だろお前。あんまりうちのお姫様を泣かせるなよ」


「馬鹿なのはテオさんの方です」


「それも確かだがなぁ」


「まぁ、きっとカイゼルも馬鹿の一人ですよね」


「違いねぇ。いや、そうじゃなくて、だな。……まぁ、良いか」


 笑い合う。

 セリナさんの馬鹿なのこの人達という……主に私に向けての視線がちょっと痛かった。

 その視線から逃れるように戦場を、眼前を見る。一般の人達はもはや殆どいなかった。精々、数人。潰されずに残った教会の人達がいるぐらいだ。もっとも、その人達も仲間が死んでしまった事に恐怖したのかいつ逃げ出そうか、という感じだった。

 そして、天使といえば次から次へと地上に降りて来ていた。来ては切り殺され、射殺されていた。私が弱いだけかもしれないが、こうして見るとやはり脆い。

 見初められた者達のなれの果て。それが一つ、一つと殺されて行く。人だったかもしれない、獣だったかもしれない。或いは最初からソレとして産まれたものなのかもしれない。それが次第、次第と数を減らして行く。

 だが……終わらない。

 救いなのは教会……もはや跡地となったそこを目指して降りてくる事だ。

 街の他の場所に被害がないことだ。

 天使が拡散してしまったら流石のカイゼル達にもどうしようもない。それこそ、多勢に無勢だ。とはいえ、今の所大丈夫だが、いつまでそうなのか、というのは分かり兼ねる。

 こうして何かに釘付けになっている間に全てせん滅できれば…………


「あぁ、やっぱり……居たんですね」


 光を遮る天使の群れのその奥に。

 あの時見たもの以上の大きさの天使が……居た。

 数は……三。

 ドラゴン師匠がいれば物の数ではないだろう。けれど……これはまずい。まともに攻撃が通るかも分からない類の生物だ。いくら著名ギルドとはいえ、皆が皆、カイゼルの持つ剣のような凄い武器というわけでもないだろう。


「カイゼル。今の内に逃げるか、今の内に金属製の花とか以上の硬度を持った武器を持った人を集めておいてください」


「そうか。あいつらか……生憎とそんな豪勢な装備を持っている奴はあんまりいねぇんだが……ま、準備はしとく」


「あと、私の包丁も多分大丈夫なんで使える人が使って頂いても。どこかに落ちていると思います」


「ほんと、お前の装備は訳が分からんなぁ。とはいえ、一つでも多い方が良い。セリナ、回収頼む」


「はい」


 言い様、とととと、と戦闘する者達の間を駆け抜けて行く。荷物を置き、身軽になると大した身体能力だった。いや、寧ろ大した身体能力だからこそあんな大きな荷物を持てていたのか。


「……ま、先が見えるというのは良い事だ。お前ら!あのでかぶつが下りてきたら引け!俺が出る」


「カイゼル一人では」


「やっぱり馬鹿だろお前。誰があんなのに一人で挑むってんだよ。俺らは人間。少しの怪我で死んでしまう可能性のある弱い生物だ。当然、囲んで殺すさ」


「囲むと危険だと思います。一撃離脱を心得た方が良いかと。それと、あそこまで大きなのは見た事ありませんが、牙、そして声に注意して下さい。特に声は直接聞くと耳が壊れる可能性もあります」


「……詳しいな。助かる」


「後はお願いしますね……」


「おう。任されたぜ、戦友。お前は離れて少し、休んでな。逃げられたら逃げても構わんが」


「無茶を言わないでください……正直、さっきから倒れそうなのを我慢していますので」


「ほんと、馬鹿だよなぁ。嫌いじゃないけどな。そういう奴」


「煩いです」



―――



 戦場から離れた建物の影に座り、壁に背を凭れながら、天使とギルドの戦闘を見ていた。

 天使の数が減っているのは確かだった。けれど、まだ数限りない。一体全体何匹ほどいたのだろうか。ドラゴン師匠がいれば嬉しそうに全部殺戮してくれたに違いない。まぁ、今はいないドラゴン師匠の事を思っても仕方が無い。


「第五小隊、一旦下がれ」


 カイゼルの言葉に、言われた小隊とやら……五人が後ろに下がる。代わりに今まで休んでいた者が戦場へと向かう。

 案の定、疲れが出始めた者がいた。

 人間は無限に動けるわけではない。当然のことだった。そして、当然の帰結として、疲れに判断力を失い、天使に喰われる者が出てきていた。


「ぃや……ぃやだっ」


 首筋を齧られ、飛び散った紅色の飛沫。昇る滝のようなそれが、周囲に降り注ぎ、ギルドの面々の気勢を殺ぐ。

 だが、それを見てもカイゼルの表情は変わらない。流石だ、と思った。指揮する者が感情に流されてはいけない。けれど、勿論、カイゼルに感情がないわけではない。ぎり、と歯を食いしばるのが遠目にも見えた。今にもめり込んでしまいそうな程、力強く腕を握っているのも見えた。

 白い天使の体液と人間の血液が混ざり合い、大地を、この大陸を彩って行く。それを見ていると何も出来ない自分に僅か苛立ちを覚える。が、今の私が動いた所で、いや万全だとて動いた所で邪魔にしかならない。精々、セリナさんの手伝いが、怪我人の手当てが出来るぐらいだった。

 立ち上がり、次々と運ばれる怪我人の止血を手伝う。水を貰って鍋で湯を沸かしたり包帯を巻いたり。湯は重宝されたし、エリザが車椅子で生活していた時に、良く包帯を巻いていた御蔭で、そっちの方も何とか役立たずと言う事にはならなかったのは幸いだった。


「怪我人は大人しくしてろよ」


「鏡いります?」


「いらねぇ」


 メンバーの状況を確認しに来たカイゼルに向かってそんな戯言を吐きながら、怪我人の止血を続ける。血気盛んに戦いの場に戻って行く者、そのまま後退していく者。次第、次第と数が減っていく。時の流れと共に、陽の沈みと共に人が減って行く。このまま夜になれば天使による一方的な殺戮の場が産まれる。そんなものが目に見えていた。


「……弓部隊、今一度、天に弓を引け。我が物顔で天にのさばる奴らを引き摺り下ろせ」


 なれば、こちらから攻める、そうカイゼルは判断したのだろう。弓兵がカイゼルの静かな命令に従い、一斉に弓を打つ。届いてはいない。届いてはいないものの、矢によって作られた風を受け、その事に天使が怒りを覚えたのか、何匹もの天使が急降下してくる。そして、戦場には今先程より天使の数が増す。

 乱戦。

 十、二十、三十。

 数が減る。

 人の数も、天使の数も。

 そして漸く。

 陽が陰り、闇夜へと移り変わろうとした時である。

 大型の天使が動き出した。

 自分の出番が来たのだと、そう言わんばかりに。


「かっ!英雄は遅れてやってくるってなぁ……今相手している奴らを掃討後、全員、その場から退避!ボストン、クローゼ、ミリア、セリナ。俺の所まで来いっ」


 すぐさま行動を開始するバルドゥールの面々のなんと統制のとれた事だろう。一面を白く染め上げた後、一気に怪我人のいない方へと後退……私から見れば前進を始める。


「さて……戦友。ちょっと行ってくるぜ?」


 かかっと笑い、剣を手に駆ける。がしゃがしゃと鳴る鈍い金属音を鳴らしながら、その重さを感じさせない程に颯爽と戦場の真ん中へ辿りついた。怪我人だとは誰が見ても思わないだろう。そんな勇者然としたカイゼルの、戦うギルドマスターのお手並みを拝見……しようと思った。

 きっと誰もがそう、思ったのだ。

 陽の沈む速度と一緒に、ゆっくりと地上へと向かって来ていた巨大な、ボストンさんよりもまだ大きいそれは……他の天使とは違い、別の所へと……離れていた、怪我人の……私達の方へと方向を変え、その体躯の何倍もある長い翼をはためかせ、一気に向かってきた。

 それを目に、動ける者は自ら、動けない者は他の者達が連れて急いで逃げる。当然の帰結として……ギルドメンバーではない私一人がその場に残された。

 まぁ、人によっては、残ったと言うかもしれないが。


「ちっ!なんだってんだよっ」


 カイゼルの言葉が届いた頃には眼前に。

 いや、私の上空に巨大な天使が現れる。もはや陽が陰り、見辛くなった結果、更に恐ろしさを増したように思う。見えない事は恐怖なのだから。そして、それに合わせるように小さな天使達も動きを変え、こちらに向かってくる。こちらに駆け付けようとするカイゼル達の邪魔をしながら。

 視線をそちらから上空に居座る天使へと。

 この場を離れて行く他の者達を追う事はなく、まるで、最初から私を狙っていたかのような錯覚さえ覚える。


「そりゃ、最初に殺したのは私ですけど……恨むなら、馬鹿なお仲間を恨んで下さいよ」


 セリナさんの薬の御蔭で多少は和らいだ痛みに耐えながら、鍋を握り、炎を産み出す。

 だが、それでも大型の天使は動かず。

 興味も無し、と空中に浮かび続けている。そんなものでは自分は殺されない、とそう言わんばかりに。

 そして、その巨体の周囲を小さな天使がさながら喜び周る子犬のように、周っていた。何匹も、何十匹も。その巨体を隠そうといわんばかりに。

 わらわらと。わらわらと。

 まだ、これ程いたのか。

 全く、絶望的だ。

 世界が闇に染まって行く。

 私の周囲を覆って行く。

 闇の訪れ。

 カイゼル達が私を助けようとして、近づこうとして変わらず小さな天使達に邪魔されているのが見える。そしていつのまにか後退していた者達も再度戦線に復帰していた。

 だが……もはや、多勢に無勢だった。


「何か用ですかね?生憎と私、貴方みたいなのは趣味じゃないんですよ。あぁいえ、食材としては認めますけどね。どうせなら、他の二体も呼んだらどうです?」


 本当に今日は愚にもつかない言葉ばかりだった。

 そんな発言に応えるように、天に残っていた二体もまた、小さな天使に周囲を囲まれながら、守られるようにして地上へと向かってくる。

 そして、私の三方を取り囲むように停止した。

 右、左、前。

 そして背には建物。

 逃げる場所など、どこにもなかった。


「もてもてですねぇ、私。そんなに私を白く染め上げたいんですか?嫌ですよ……コンビ解消されちゃうじゃないですか」


 睨み合いが続く。いや、天使による一方的な観察が続いていた。

 ある意味、それも時間稼ぎになったのだろうか。

 だったら、天使も大概馬鹿だ。

 どよめきが聞こえて来る。

 歓声だった。今のこの状況でさらに猛る者などいるのだろうか?カイゼルだろうか?いいや、カイゼルの方を向けば必死に戦っていた。怪我人とは本当に思えぬ程に果敢で勇猛で。だから違う。だったら、この声はどこから聞こえるのだろうか。

 いつしか、そのどよめきが戦っているギルドの面々の中からも聞こえてくる。戦いの手を止めてまで、声を放っていた。自らの王への賛辞よりも尚、それは大きいように思えた。

 次第、私の耳にも聞こえてくる。

 称える声だ。

 光を称える人々の声だ。

 絶望に際し、最後の光明を与える者への賛辞。

『まさか……帰って来られたのか』

『生きてもう一度お目に掛れるとは……』

『あぁ……この日をどれだけ待ちわびただろうか』

 この場を離れて行った一般人すらもその歓声に興味を惹かれ戻って来ているのだろうか?

 十や二十ではない。少なくとも百、二百の者たちの声。

 陽が沈み闇に染まったこの世界。神は嘆き、大地は揺れ、城は壊れ、建物は傾き、絶望しか見えないこの暗闇の中。

 けれど、そこに光が戻って来たのだとそう言わんばかりに。

 群衆の足音が歓喜に大地を揺らす。

 がしゃ、がしゃと鳴る金属音が世界に響く。


「皇剣オブシダン。己が闇を解放し、世界を照らしなさい」


 玲瓏。

 響き渡る言の葉に光が産まれた。

 そして、次の瞬間、その光を放つ剣が空に浮かんだかと思えば、一閃。天と地上を光が結ぶ。闇が、切り裂かれた。

 教会が崩れ落ちた時のような轟音が周囲に鳴り響き、それと共に、あれほど巨大な天使が一体……その身体を割られ、白い体液を周囲に撒き散らしながら崩れ落ちた。




「ゲルトルード=アレキサンドリア=トラヴァント……再び、皆の下へと戻って参りました。お待たせしました、皆さん。……これより先は、私がお相手いたします。幾千、幾万だろうと……物の数ではありません」



 王の帰還。

 それはこの国の光。

 この国の希望。

 紛い物ではなく、真に救いをもたらす者。

 その帰還の声に、トラヴァント帝国臣民が希望に沸き上がった。



―――




「お待たせ、カルミナちゃん」


 それが皇剣オブシダンなのか、と眩い光を放っている巨大な幅広の剣に目を向けようとして、逸らした。眩しいにも程があった。流石、ドラゴン師匠。傍迷惑な魔法である。


「助かりました。もう少しで白濁液塗れにされる所でしたよ」


「え、何?はく……だく?」


「おいこら、カルミー。ゲルトルード様に何言ってんだよ。切り落とすぞ」


 どこを、だろう。

 そんな声に反応するように声のした方を見て、一瞬、呆然としてしまった。


「えらく格好良いですね、先輩」


「あん?」


 眩しそうに手でひさしを作っているのはさておいて。右の腰に刀が二つ。左の腰に刀が二つ。刀蒐集癖の面目躍如と言わんばかりに計四つの刀を装備した先輩がそこにいた。内一つは例の小刀の鞘である。そして、今抜いているのはその小刀だった。恐らく一番硬いのがそれだという事なのだろうけれど……いやはや。


「四刀流ですか?」


「ちげぇよ。そういう小器用な事が出来るのは学園長ソードダンサーだけだっての」


「あぁ……学園長も」


 金属音は騎士団のものだった。率いているのは軽装鎧に身を包む学園長その人だった。御店ではあんなに面倒そうな感じを醸し出していたのに、こういう場に立てばやはり貫禄がある。両の手にそれぞれ剣を持ち、先陣を切り、踊るように、舞う様に天使を殺戮していく。さながら、絢爛な舞踏のようであった。


「そそ。ま、ちょっと私もちょっと行って来るよ。私の後輩を泣かせた天使様にお仕置きしにな」


「私、泣いてません」


「はんっ」


 鼻で笑い、沈みきった闇夜に消える。

 そここそが先輩の本領を発揮できる場なのだ。

 何もかもを見通すその瞳が十全に活躍できる場なのだ。黒い、真黒なその場こそが。


「恥ずかしがり屋さんでごめんなさいね。でもね。あの子、さっきまで凄く焦っていたのよ……きっとまたカルミナちゃんが無理しているに違いないって……なんで分かったのかしらね?」


「帰り際に街に泊まるのは伝えていましたけど……」


「そう。だったら、そういう事ね」


 くすくす、と楽しそうに笑みを零し、その場で振り返り、オブシダンを構える。


「さて、高みの見物を続ける天使様。お待たせしたわね。カルミナちゃんの代わりに私がお相手するわ……貴方達がくれた呪いの力、存分に使わせて貰うわよ?死にたくなかったら、呪いを解除でもしたらどうかしらね?」


 再び、くす、と笑いゲルトルード様が地を蹴った。

 もはや、身体に違和感はないのだろう。人間とは思えぬ速度で天使に切りかかり、大型の天使の周りに居たそれらを剣の横腹で吹き飛ばす。豪胆というかガサツだった。けれど、力強かった。心強かった。


「……エリザはいないのかな?」


 見渡せば騎士団の人達が松明を焚いていた。御蔭で辺りが見えるようにはなっていたけれど、それでもエリザの姿はみえなかった。……ちょっと、残念だった。


「あぁ、あの子ならエルフの方を見張っているわよ!これを機に来るかも知れないしね。アルピナの指揮よ。それで出るのが遅れたのもあるんだけれどね……っと」


 戦いながら、ゲルトルード様が応えてくれた。随分な余裕だった。それはまぁ、ドラゴンに比べれば弱いのかもしれないけれど……それにしても強いにも程があるな、この人。わりと線の細い身体なのに。エリザも相当強かったけど、ゲルトルード様はまた次元が違う気がする。……とはいえ、呪われた結果なのだから羨む事はないけれども。

 安堵と共にその場を離れ、腰を下ろし、そして再び壁へと凭れる。正直、もう今日は立ち上がれそうになかった。

 しかし、この天使達は本当に何故こんなところに現れたのだろうか。

 大陸を壊すために、神様を殺すために現れたというのならば、洞穴内ではないのはおかしな話だ。これじゃまるで天使は悪い物だと自分で宣伝しに来たようにも思える。さらに加えて、殺されたくなければ、ゲルトルード様が言っていたように、エリザの時みたいに一度ゲルトルード様の呪いを解いてしまえば良いのに……それもしないというのはやはり何かがおかしいと感じる。

 そも、ゲルトルード様が一匹を切り殺しているのに、周囲の天使を相当数、殺しているのに全く動きを見せないのもまた……酷くおかしかった。生物として、自己を守る事すらしていないなんて……それこそ何か理由があってとしか思えなかった。


「……師匠なら分かるかなぁ?」


 オブシダンの所為で光り輝いているゲルトルード様、双剣を持って天使を切り裂く学園長、見えはしないが、しかし、華麗に天使を切り殺しているであろう先輩、長剣を巧みに使い仲間達と一緒に天使を狩るカイゼル、騎士団の人達も、ギルドの人達も、そしていつしか一般の自殺志願者達も混ざって、皆が皆天使を殺して行く。そんな天使の姿を眺めながら、そんな疑問だけがずっと残っていた。

 まぁ、動かないなら動かないに越したことはない。私達にとって不利な話というわけでもなく、寧ろありがたい話ともいえる。


「準備運動にもならなかったわね。後は……まぁ、他の皆に任せるとしましょう。そろそろ、終わりそうですし」


 あっという間にでかい天使を切り殺してゲルトルード様が戻って来た。いつしかオブシダンからは光が消えていた。蓄えていた光がなくなったに違いない。そのオブシダンをあろう事か壁に立て掛け、そして、疲れたわーとばかりに私の隣へと座る。


「なんというか……」


「何かしら?」


「いえ。この国には戦う王様が多いなぁと」


 いくら動かないといってもあれだけの数に守られていたのだ。倒すにしても早過ぎるというか。ほんと、ドラゴン師匠の次にでたらめなんじゃなかろうかこの人。


「何それ」


「なんでもありません。助かりました。ゲルトルード様」


「何のこともありません。それに、貴女達には今よりもっと辛い目に合わせるのですから……」


「殴りに行くだけですよ?」


「ほんと、面白い子ね貴女……あら、貴女?」


「はい?」


「……それ、貞操帯?」


 どうやらいつのまにかスカートの一部が裂けていたようだった。自分で見せるのは良いけれど、見られるのは恥ずかしい。いそいそと裂けた部分を手で隠せば、訝しげな表情でゲルトルード様が私を見ていた。


「あぁ、はい……買われた時にディアナ様に付けられまして」


「その意匠。見た事があるわね……8年、いえもっと前ね……前皇帝の……いえ、あれは母の……」


「……師匠がお作りになった奴で、リオンさん曰くは国の宝だったとか何とか。あの絵画と一緒に渡したとか何とか」


 ディアナ様には貞操帯に関して口にするなとは言われているけれど、ゲルトルード様なら大丈夫だろう。というか、皇帝に逆らえる臣民……いや、奴隷だけれど……はいないと思います。えぇ。


「マジックマスターの…………これは、ディアナを呼ぶ必要がありそうね」


「えーと……その……」


「別に怒るわけじゃないから安心して頂戴。ただ、国宝と呼ばれる物を勝手に持ち出し、あまつさえ勝手に使用していた理由ぐらいは……聞かないと駄目よね」


「分かったら是非、私にも教えてください。ディアナ様に聞いても貴女を買ったのは私!と言うだけで教えてくれませんので」


「了解よ!」


 軽やかに笑みを浮かべた。可愛らしい感じだった。


「陛下。御無沙汰しております」


 そんな風に座って話す私達に声を掛けてくる者がいた。カイゼルだった。あちらの戦闘も殆ど終わりを迎えたようだった。しかし、偉い慇懃なというか、礼儀正しい言葉遣いにちょっと笑ってしまった。


「何笑ってんだよ、黒夜叉姫。……つか、お前、ゲルトルード様とも知り合いってか。何だよその交友関係は」


「気付いたらいつのまにか、です。いや、本当、何ででしょね」


「しらねぇ……っと。失礼しました」


「いいえ、構いません。……それにしても懐かしいわね、ファルコ。騎士に憧れていた貴方が、軍勢を率いてあんなに風に戦えるようになっているなんてね……時の流れは早いわね。それと、聞いたわよ。ドラゴンゾンビが現れた時には真っ先に向かったって。無茶するわね」


「ゲルトルード様のお言葉とは思えませんが」


 言って、カカッと笑う。


「エルフの件、テオドラからゲルトルード様の意向と聞き及びました。ゲルトルード様の命とあらば、我らがギルド、バルドゥール。微力なれど、御助力致します」


 小さな国の王が、トラヴァント帝国皇帝に頭を下げる。ちょっと不思議な印象を受けた。


「ありがとう。助かるわ」


 とはいえ、である。その不思議さに言及できる余裕はなかった。そんな真面目なカイゼルがやっぱり面白くて堪えられず、しかしまた笑うと何か言われそうなので、さてどうしたものかと悩んだ挙句、視線を逸らすように目を伏せて、指先で口元を隠して笑う事に忙しかった。


「なんだ……よ?……いや、何でもない。気の所為だ」


 それこそなんだろう?


「っと、黒夜叉姫。包丁返しとくぜ。ありがとよ」


「あぁいえ。どういたしまして役に立ったなら何よりです」


「いや、使っては無いけどな」


「……それは残念です」


「近接が過ぎる」


「確かに。包丁ですしね」


「ふふっ……面白いわね、貴方達」


 笑われた。カイゼルの所為である、とじとーっと睨めば、かっ!と一笑いしてカイゼルがその場を去った。


「そういえば、背中どうしたの?背の空いたドレスにしてはちょっと前衛的すぎるわよ?」


「齧られました」


「……その割には、傷はもう塞がっているのね」


「あぁ、そういえば気付いたら痛みがほとんど引いていますね……セリナさんの特製傷薬とかでしょうか。是非腕にも塗って欲しいものです」


 もっとも、血が抜け過ぎた事が原因による身体のだるさは抜けていないけれども。


「ふふっ。それと、髪。なんだか大変な事になっているわね。私が切ってあげましょうか?」


「オブシダンで、ですか?」


「流石にそれは無理ね。首ごと切れるわ……。ちゃんとハサミ使うわよ。これでも昔は、アルピナや他の兄弟の髪は私が切っていたのよ」


「じゃあ、戻って来た……」


「行く前にしましょう。神様に会うんですもの、身だしなみはしっかりとね」


「……殴りに行くんですが」


「それでも、よ」


 曲がりそうになかった。頑固だった。


「……そういえば、オブシダンはゲルトルード様がお使いになるのですか?」


 立てかけられている真黒な刀身の幅広の剣に目を向ける。見るからに重そうだった。切るよりも潰す事に使えそうな代物だった。私が持ったらきっと潰れるに違いない。えぇ。


「自分の皇剣を自分で使うのはちょっとね。……まぁ、それは冗談よ。こういう武骨な方が私、好きなのよ」


「エリザもそんなのが好きみたいですけどね」


「……それは気が合うわね。でも、もう私が貰ったのよ!まぁ、エリザベートはカルミナちゃんにあげたかったみたいだけれどね」


「重くて使えませんしね。私には包丁とか鍋ぐらいがちょうど良いです」


「噂の燃える鍋ね」


「誰が噂していたんですか」


「エリザベートとレアちゃんね。あとあの子」


「あの子……あぁ、先輩ですか。ところで、ゲルトルード様、こっそり先輩の名前を教えてくれたりしませんか?」


「え"?な、名前?あ、あの子の?……えっと、もうちょっと、もうちょっとだけ待ってね。戻って来る頃には……」


 なんだか焦っていた。とっても。


「行く前に是非お願いしたいです」


「ぐっ……意趣返しとはやるわね、カルミナちゃん」


「そういうつもりでもないんですが……あぁいえ。やっぱり良いです。本人から教えてもらいたいですし」


「是非そうしてあげて頂戴。……ほんと、仲良いわね。貴女達」


「いえいえ。そんなことは」


「エリザベートが愚痴っていたわよ。カルミナちゃんを姉さんに取られたって」


「あの駄エルフ……何を言っているんでしょうね」


「エリザベートは年の割には抜けていて可愛らしいわよね」


「ですね」


 戦闘が終わってすぐだというのに、いつしかそんな他愛のない話ばかりになっていた。世間話と言うか、近況報告というか。そういえば、ゲルトルード様と二人というのは今までなかったように思う。こんなに話しやすい人だったんだな、と思った。不遜だけれど。不敬だけれど。


「ふふ。それにしても」


 そんな折、楽しそうにゲルトルード様が私を見る。見られ、ついつい見返してしまう。松明だけの薄暗い灯りに映えるゲルトルード様が綺麗だった。


「はい?」


「いえね。……なんだか、そうね。なんというのかしらね。妹が産まれていたらこんな感じだったのかなと思ってね」


「アルピナ様がいるじゃないですか」


「実の妹がいたらって意味ね。えっと、母が同じ妹ね?」


「えーと、何が違うか分からないんですが。いえ、仰る意味は分かるんですが、アルピナ様も妹には違いない気が……」


「ちょっと分からないかもね。皇族って意外と面倒なのよ」


「はぁ。……それで、えっとゲルトルード様のお母様はアルピナ様が産まれた頃になくなったとか」


「良く知っているわね。その通りよ。子を宿した状態で母子共々亡くなったと聞いているわ。死に目に会えなかったのは一生の不覚というものね。……ま、そんな暗い話は良いわ。あぁでも、もしかしたら、その子のためにオブシダンを作ったのかもしれないわね……エリザベートの事はきっと前皇帝も知りはしないでしょうしね」


「……と、思います」


「ホント、あの子に聞いたけれど全部知っているのね。ありがとう、言わないでくれて」


「何が、ですかね?」


「そうね、何でもないわ。ま、それでね。カルミナちゃんと話をしていると何だか、こう妹と話をしているみたいな気分になるのよ」


「ハァ。先輩も年齢同じぐらいらしいですけど」


「あの子は……私の子供だしね」


「……子供?先輩が、ゲルトルード様の?」


 似てない。全く似ていない。というか子供にしてはでか過ぎると思う。


「あら?聞いてない?養子よ、養子」


「あぁ、そうだったんですか……それで」


 色々と納得した。それで先輩はゲルトルード様の所に行き来できたのか。撫でられて喜んでいたのは母に甘える娘だったわけか。必死になって助けていたのは、母を助けるためにがんばっていたというわけか。案外、先輩も可愛い人なんだな、と思った。そして、なぜだかほっとした。……それこそ、なぜだろう。

 しかし、皇帝陛下の義娘が奴隷というのは良いのだろうか。まぁ、帝国で一番偉い皇帝陛下自身が良いといっているので良いのかな?


「それで……先輩が娘なのに、なんで同い年ぐらいの私が妹なんですか」


「さぁ?私も分からないわね。でもなんというかそんな感じなのよ。ねぇ、ねぇ。カルミナちゃん。試しにお姉ちゃんって呼んでみてくれない?」


「何言っているんですか皇帝陛下」


「ちょっと、カルミナちゃん」


 姉がいたら、きっとこんな感じなのだろうか。不遜だと思ったけれど、ついつい、そんな事を思った。

 そんな風にゲルトルード様と天使の残骸を片付ける騎士団やギルドの面々を見ながら、その日が終わった。



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