第2話 日々の情景
2.
焚火の火が消えるのと同時に宴が終わる。片付け終えて店の中に入り、引き続きしんみりとした時間を過ごす。店内を照らすのは淡い松明の光。その光にぼうと浮かび上がるドラゴン師匠の横顔は大層綺麗なものだった。からん、とグラスに入った氷を鳴らし、次いで喉を鳴らす。以前にも見た仕草が、相変わらず酷く似合っていた。そんなドラゴン師匠の横で、私も同じ様に真似をしてみても、様になるはずもなく、ただちびちびと頂いた酒を舐める。
舌を通り、喉を通る感触はさながら水のようだった。
どれだけでも飲める。私にすらそう感じさせる程に飲み心地の良いものだった。その割に味はしっかりしており、酸味の効いた柑橘のような味だった。酸味が少しぴりりと舌を痺れさせるものの、それもまた心地よいものだった。これの原材料はあまり想像したくはないけれど、そこからこうも満足できる品を作り上げるリオンさんはやっぱり凄いのだ、とカウンターの奥で店長をやっているリオンさんに目を向ける。
「どうかしましたか?」
「いえ、美味しいな、と」
「それは何よりです。ティアなんかずっと飲んでばっかりで感想のひとつも言ってくれませんし」
くすり、と笑う。それにドラゴン師匠が何かモノ申すかと思えばそれもなく、淡々とグラスを空にしてはリオンさんにグラスを渡していた。
「呑み過ぎです」
「いいじゃない」
「まぁ、良いですけどね」
そんな二人の柔らかいやり取りが、どうにも可笑しく思えた。こうして見る分には普通の親子だった。というよりも夫婦と言った方が良いだろうか。いや、寧ろ兄妹やら姉弟にも見える。そんな想像をしていれば、くすくす、と自然と笑みが零れる。
「夫婦といえば……ジェラルドさんにガントレットを作って貰わないと」
酒精の影響だろう。リオンさんが言った通り、多少痛みが引いていた。その腕を見つめ、それを守る防具の事を思う。今回の洞穴の成果を思えばきっとそれを作って貰えるぐらいのお金は手に入るだろう。寧ろ、採って来たものを材料とするのも良い。エリザが前に使っていた剣と同じ材質なら丈夫なのは間違いない。……もっとも、その所為で重くなっては本末転倒なのだが……我ながら、自分の力の無さに少し辟易する。力があったからといって良い事ばかりではないだろうけれど、それでも我が身を守る物ぐらいは装備していたい。
「ジェラルド、前にも聞いた名前ですね。……とはいえ、別の所でも聞いた名前ですねぇ……どこでしたっけ」
思い出すように首を傾げ、顎に手を宛てる。見た目が若く見える所為で、貫禄というものはあまり感じられない仕草だった。
「街で武器屋をやっている方です。元騎士団長だとか」
「あぁ、思い出しました。ジェラード君ですね」
「何ですかその美味しそう名前。というかお知り合いなんですか?」
「小さい頃に少々」
「リオンさんの小さい頃っていつですかね」
「遠い昔ですね。いえ。私ではなく、彼のです。まだ彼が幼い頃に、そういう風に自己紹介されたものですから。とはいえ、お城での一件からすれば、彼は覚えてないみたいですけどねぇ」
「ジェラルドさんが小さい頃……想像がつきませんね」
人に歴史あり、である。この人達の場合、歴史が深すぎて把握しきれないけれど。まだまだ他にも色々とありそうだった。
「ま、ティアに頼むよりは良いものが出来あがるでしょうね。この子、不器用ですし」
「昔に比べればましよ、まし」
「私の情緒ぐらいには、でしょうが」
自覚はあるのか、という突っ込みを入れて良いものかどうか悩んでしまった。
そうこうしている間に、グラスが空く。その空いたグラスをリオンさんが手にとり、再び酒を注ぐ。
「本当に、二日酔いにはならないんですよね?」
「大丈夫ですよ。賭けても良いです」
「負けそうなので止めておきます」
「信頼ありがとうございます。あぁ、そうでした。カルミナさん。改めて店長代理ありがとうございました」
そう言ってカウンターの向こうでリオンさんが深く頭を下げる。
「いえいえ。あ、そうです。知り合いの人に御店に来て頂けるように言っておいたので来られるかもしれません」
「そう言う事でしたら、もうしばらく店長代理をしていて頂いても構いませんが……寧ろ、飽きるまでして頂いても構いませんが」
「その間リオンさんは何をしている気なんですかね?」
「勿論、料理です」
意味ありげにドラゴン師匠を見て、ハァとため息を吐いた。
「……あぁ、そっちに集中したい、と」
「ご理解が早くて助かります」
料理の仕込みだけならまだしも他の雑事……掃除、洗濯……を全部やっていると料理に専念できないという事である。掃除洗濯が店長の仕事か?という疑問はさておいて、ドラゴン師匠も妖精さんもその手の事はさっぱりだし、メイド服を着た元貴族の幽霊様も同様だろう。
「給金もしっかり出しますので……これぐらいで」
「承りました。あ、一応依頼という形でお願いできると……」
物凄い勢いで満面の笑顔を浮かべつつ反射的に答えてしまった自分は、現金な人間なのだと思う。えぇ。
「えぇ、そこは安心して下さい」
もっと先に聞く事はあったのだけれど、何故私達は今こんな阿呆な取引を成立させているのだろう。私が二人の空気に呑まれたのだと思いたい。
「……私の周りに居るのは変な人間ばっかりねぇ」
「誰のことですか」
「鏡、持ってきた方が良い?」
「いりません」
そんな私の返答にくすり、と一つ笑みを浮かべ、次いでくいっと喉を鳴らしてグラスを空けてからドラゴン師匠が立ち上がった。
「じゃ、パパ、私は行くわ。パパに言われた約束まだ果たせてないからね。で、さっさと終わらせるから、その間にカルミナちゃんは怪我を治しておきなさいな。治ったら、今度こそ神様を殺しに行くわよ……いえ、殴りに行くんだったかしら?」
ケタケタと笑い、立てかけてあったドラゴンから毟り取った甲羅を片手にドラゴン師匠が店の奥へと向かう。
「行ってらっしゃい、ティア」
「行ってくるわ、パパ。あ、差し入れお願いね」
「賜りましたよ」
「ありがと。じゃあね。……それと、パパの作ったお酒、最高に美味しかったわよ」
背を向けたまま手をひらひらと振ってドラゴン師匠が姿を消した。何とも小憎らしい退場だった。間違って格好良いとさえ思ってしまうほどに。
そんな娘の姿に苦笑するリオンさんに、そういえば、と問いかける。
「神様といえば……妖精さんは」
「奥の部屋にいますよ。テレサさんに見て貰っています」
「あ、それでテレサ様がいらっしゃらないんですね」
「はい。いつもならば一度寝入ると目が覚める事はないのですが……いえ、夢を見る事はないのですが、今回はあったようですしね。それで念のためにテレサさんにお願いしました。……流石にもうないとは思いますけれど」
私を助ける為に。見たくもない現実を直視して、嘆いた。その結果起こった事を思えば、少し思う所もある。けれど、ぐっと歯を堪えて笑う。
「……今までになかった事です。それもこれもカルミナさんの御蔭ですね」
「と言われましても」
「まぁ、そこは私が勝手に期待しているだけですので御気になさらず。とはいえ……」
「はい。嫌がられても勝手についていきます。腕が治って、リオンさんを殴ったら次は……神様です」
とっても優しくて、だけど馬鹿な神様の目を覚ましに。死にながら夢を見続ける必要なんてないのだ、と。夢を見るのならば、もっと違う夢を見て欲しいと、そう伝えるために。神様を恨み、死にたいと願う人達もこの世界にはたくさんいるだろう。この世界なんて壊れてしまえと思う人もいるだろう。生きていれば必ず良い事があるなんて言える世界じゃない。常に死は近く、悪辣で悪意に満ちた世界だけれど、けれど、それでも、私は神様に悲しんで欲しいとは思わない。世界が壊れてしまう事を望みはしない。ここは皆のいる場所だから。だから、つまり、結局私の身勝手なのだ。私は、私の夢を叶えるために、神様の目を覚ましたい。
だってほら、皆の中には妖精さんもいるのだから。
そんな風に胸の内に自分の夢を、自分の想いを秘めていれば、
「……そこは先に神様でも構いませんが」
そう言ってリオンさんが苦笑していた。
「そこは諦めて下さい。……それにしてもどうやって行くんですかね?私なんかが付いて行っても大丈夫なんでしょか?誰も到達……いえ、リオンさん達は行った事があるのかもしれませんけれど」
自殺洞穴の最下層。
何万という人間を飲み込んだ死の洞穴。誰も……いいや、たった二人だけが到達したその場所に一体全体私なんかがどうやって行けるというのだろうか。ドラゴン師匠がいればそれはそれで楽かもしれないが、それでもこの腕のように怪我をする事もあれば、死ぬ事だってあるだろう。
「そうですね。普通に行くしかありません。毎回、場所が代わりますので」
「……どう言う事です?神様の寝相が悪いとかですか?」
「まぁ、確かに寝相といえば寝相かもしれませんが……」
聞けば、最初に到達した時とその後ではその場所が毎回違うという。
神様の嘆きに大陸が割れる事で地上では山が沈み、大地が割れる。堤防は壊れ、森は沈む。その地上の影響を洞穴が受けないわけがなく、それが原因で洞穴内に新たな道が出来たり、穴が空いたり、壊れたりして洞穴が変わる。勿論、神様の嘆きが内側から洞穴を壊す事もある。特に酷いのは神様が居た場所の付近だそうだ。加えて、神様とは関係なしに洞穴内に生息する生物によって道が作られたりもする。自殺志願者達が何人もの死を経て作り上げた地図なんて洞穴の表層を少し抑えている程度で、長い時の中では全く意味をなさない情報でしかないようだった。
そんな色んな要素が重なり合い、結果、神様のいる場所は毎回変わるようだった。
「御蔭で最初以外は死んでばっかりです」
「生憎と私は一度しか死ねないんですが」
同時にため息を吐く。間違いなく理由は別だった。
「あ、そうだ。師匠に穴を空けて貰ってそこを落ちて行くとか」
妙案だと思った。思ったのだが、言った瞬間、リオンさんが苦そうな、嫌そうな表情を浮かべた。
「と、思いますよねぇ。いやー、二度目の時に楽をしようとして、ティアに穴開けて貰って落下すると良いとか思っていたのですが……ねぇ?」
ねぇ、と言われても。
「何かあったんですか?」
「何があったといえば、死にました。まぁ、あれはちょっと中々味わいたくない死に方なので……加えて余計な時間も掛りますし、出来れば普通に行きたいかな、と。それにカルミナさんが来て下さるとなりますと、流石に」
「……何があったんですかほんと」
死んでも死なない人が、それ程嫌がる死に方とは何なのだろう。今日のあれも大概だったとは思うのだけれど……。
リオンさんが口を割らない限り、考えても分かりそうになかった。ちょっと不満気に口を尖らせてみても、どこ吹く風。リオンさんは軽く笑うばかりだった。
それはきっと私にとって知る必要のない事なのだろう。知り合いの死に目を話の種にするのも確かに不謹慎だった。まぁ、その知人で死人は目の前でのほほんとしているのだけれど……ともあれ、神様の下へは普通に洞穴を進むしかないと分かった。だったら、これ以上そんな話をしていても怖くなるだけなので、話題を変えた。
「話は変わるんですが、オケアーノス何冊か頂いても良いですか?師匠は良いと仰ってましたけど……」
「どうぞ、どうぞ。腐るほど、言葉通り腐った物もありますのが、どうぞご自由にお持ちください。読んでくれる人が増えたらあの子も喜ぶでしょうしね」
「ミケーネさん……ですね」
「はい。私の最愛の妹です」
「……妹?恋人とか奥さんではなしに?」
「なんで私がミケネコ君と恋人なんですか?」
不思議そうな表情で首を傾げられた。
「いえ、てっきり」
恋人だと思っていた。永遠の愛を誓い合った二人だと思っていた。そんな風に考えていた事がちょっと恥ずかしくなってきた。酒精の影響も相まって頬が火照って来る。恥ずかしくて穴に埋まりたい。言い訳をすれば、私もなんだかんだと永遠の愛を夢見る女の子なのである。えぇ、きっと。
「母親違いの妹ですよ。母親が純血エルフさんの、この世界で最初の混血エルフさんです。パンドラ=ミケーネ=コスキー。なのでミケネコ君です」
「パンドラ……それが『最初の方』のお名前」
「えぇ。私の大事な、とっても大事な妹です」
遥か遠い昔を思い返すかのようなその表情。しかし、その言葉は過去系ではなかった。今も、ずっと……大事にしているのだ。忘れ得ぬ想い。それは、私が思っていた永遠の愛ではないけれど、確かに、永遠の愛といえるものだろう。今となってはもはや遠い昔の刹那の時。それを忘れぬ事がどれだけ凄い事なのか、とても分かるなんて軽々しくは言えなかった。
「そういえば、師匠はパンドラという名前を覚えてなかったみたいですけど……」
「恥ずかしがって誤魔化しただけでしょう。覚えていない事はないですよ。ティアにとってミケネコ君はママですしね」
あれは照れているようには見えなかったけれど……。
「母親、ですか」
「えぇ。育ての親という奴ですね」
それを聞いて、少し納得した。何があったかは詳しくは分からない。けれど、ドラゴン師匠の純血エルフへの怒りの根源は、そこだという事だ。ずっと覚えているから。ずっと忘れないから。ずっと忘れたくないから……。そんな忘れ得ぬ想い出を穢したのが純血エルフ。だからこそ、ドラゴン師匠は大嫌いなのだろう。
天使の事もそう。純血エルフの事もそう。
「パパっ子で、実はさらにママっ子なんですか?」
理由を知ってしまえば、とても家族想いの良いドラゴンに思えるから不思議である。
「ああ見えて実はそうなんです」
くすり、と笑った。
しかし、こんな話を聞けば、やっぱり、二人が夫婦だったかのように思えてくる。
娘がいて、それを二人で育てるなんて夫婦以外のなんだというのだろう。例え現実には兄妹で、夫婦ではなかったのかもしれないけれど、そんな関係にしか思えなくなった。異種族で、兄妹で、永遠の愛を体現した者で……聞けば聞く程、なんともテレサ様が好きそうな題材に思えてくるからちょっと申し訳なくなってリオンさんから目を逸らしてしまった。リオンさんにとってそれは現実でしかないのだから。その綺麗さは物語のようで、けれど、決してそうではないのだから。
でも、しかしこれでは……アルピナ様や学園長やゲルトルード様に脈はないだろう。うん。皆さん残念でした、私に出会って不幸になった結果だと思って下さい、と結局、そんな馬鹿な思考に引き摺られていればリオンさんが、何時の間にか空いていた私のグラスに酒を注いでいた。
「それで、何冊持っていきます?十くらいならあると思いますけど」
「えっと……じゃあ、お言葉に甘えて五冊お願いします」
ディアナ様、司書さん、アーデルハイトさん。後は私と先輩用、エリザとレアさん用。
「承知しました。ちょっと取ってきますので待っていてください」
そういって、リオンさんが席を外した。
一人、薄暗い店内に残る。
残された私は、スツールに座り、からんとグラスを鳴らす。からん、からんと。ドラゴン師匠の真似をしながら、格好付けて一人、呆とリオンさんの戻りを待つ。
少し、寂しいと感じたのは今の今まで話をしていて、さっきの食事が楽しかったからだろう。先輩がいれば、もっと楽しかったに違いない、なんて事を思えば尚更に今の寂しさが引き立った。
そんな寂しさに、ふぅ、とため息一つ吐こうとして無理やり止めた。
止めて、両手の指先で頬を押し上げて、態とらしく笑顔を作る。
皆でまた一緒に。
そんな夢はまだまだ叶いそうにない。けれど、それでも笑いながらがんばろう、改めてそう思う。
そんな風に変に頬を押さえていたからだろう。腕から伝わってくる僅かな痛みに、表情が引き攣った。
「……痛い時に笑うのは難しいです」
痛みといえば、あの時の女性……テオさんは無事だろうか?そして同時に、あの時にしていた教会の人の話を思い出し、次いで、ディアナ様のことが脳裏に思い浮かんだ。
「とりあえず、ディアナ様に報告にいかないと……」
また、きっとお小言を言われるのだろうな、と思う。とはいえ今回は成果もあったのだ。許してくれると思いたい。それに……オケアーノスを進呈すれば少しはお小言も少なくなると思いたい。
そんな風に四方八方、或いは右往左往だろうか。色んな事を考えていれば、リオンさんが本を抱えて戻って来た。
「はい、どうぞ。あ、ついでにカルミナさんの荷物も持ってきました。てっきり、ティアのかと思って。すみません」
「いえいえ。ありがとうございます」
本に傷がつかないように薄い布も貰ってそれを巻きながら一冊、一冊、頭陀袋に詰めて行く。
「あ、これは進呈しますね」
テオさんの服を切って作った袋の中にあった洞穴の壁肉。それをリオンさんに渡せば、リオンさんは嬉しそうにそれを受け取った。
「これはまた随分、深いところまで行っていらしたんですねぇ。それでは、折角ですからつまみにしますか」
「是非」
そう言ってリオンさんが仕込みを始めた。
小奇麗な包丁で肉を薄く、向う側が透けて見えるように切る。次いでその辺りに置いてあった調味料に手を掛け、味を付けて行く。そして、それをさっと焦げ目がつくかつかないかぐらいに火を通す。皿に並べ、周囲に一見して普通の野菜を並べて行く。一見じゃなかったら腐っているのが丸分かりなのが珠に傷である。そこにまたさっとリオンさんが何かを振りかければ、その腐った部分がじゅくじゅくと酸に溶ける金属のような音を立てて、溶けだし、肉の周囲を埋める。さながら腐った水で出来た湖の中心にある肉の島のようだった。そんなものをどうぞ、と笑顔で出すリオンさんは、私に何か恨みでもあるのかと思いつつ、そこから香る匂いに鼻を歪ませる。まるで汚水の様な匂いだった。いやまぁ、腐っているのだから当然だろうけれど。とはいえ、である。見た目が不味かろうと、匂いが酷かろうと美味しい物は美味しいのだ。私はそれをもう十分に知った。食べずにケチをつけるなんてもはや私には出来ない。それに、まさかリオンさんがまずい物を出すはずもない。鼻をつまみながら、口に入れればその肉は泥のような味がした。
口腔を埋め尽す泥の味の肉に、自然体が拒絶反応を示し、吐きだそうになった所、リオンさんが手首でグラスを動かすような仕草を見せてきたので、それに従った。
瞬間、口腔内に広まったのは、酒の酸味を帯びた柑橘の味だけではなかった。何がどう反応したのかさっぱり分からないけれど、泥のような味が口の中で甘い何かに変わり、瞬間、それを味わうために噛もうとした、が、その暇もなく肉が、口腔から消えて私の中に流れて行く。喉を埋め尽すようにじわじわと流れて行くのが分かる。それが不快ではなかった。身体の芯が震え、それもまたとても、とても心地よく……と思えば再びフォークで肉を刺し、口腔に入れ、次いで酒を煽る。そんな事を繰り返していれば、何だかとても気分が良くなってきた。
「初めは泥かと思いましたけど、とっても美味しいですね!」
「お酒のつまみ専用の味付けですからね。酒が無いと駄目なんですよ。いやー、見た目と最初の味わいの所為で気に入ってくれる人がいなかったんですが、流石カルミナさんです」
褒められたのだろうか?悩ましい所だった。
そんな風に私はお肉とお酒を頂きながら、いつしかリオンさん自身も軽くつまんでは次いで喉を鳴らしながら、そんな風に時間を過ごした。
そうして暫くして、つまみがなくなった所で、一度グラスを置いた。
どれだけ呑んだのだろうかもはや分からなかった。これで明日二日酔いにならなかったら本当に凄いと、そう思うぐらいに。
「明日、ディアナ様の所に行こうかと思います」
「はい。まぁ、私が止めるような事でもないのでご自由に。どのみち、カルミナさんの怪我が治らない事には行けませんしねぇ……ま、それぐらいなら誤差範囲でしょう。どうせ神様の下に行くにはかなり掛るわけですし」
「はい。出来る限り早く治したいとは思いますけれど……こればかりは」
「怪我に良い食事ぐらいなら幾らでも用意しますので、用事がすんだらまた戻って来てくださいな。部屋の方もそのままにしておきますのでどうぞご自由にお使いください」
「助かります」
ここを追い出されたら、また街の宿屋などを探さないと駄目なので非常に助かる話だった。
「とはいえ、どうせお小言頂くと思うとあまり行きたくはありませんけどね……奴隷なので仕方ないです……まぁ、かなり自由にさせて頂いているとは思いますけど」
「心配なのでしょうねぇ」
「ですかね?……投資の価値はあったのかなぁ?と今でも疑問に思いますけどね。でも、次に何か成果をあげたらリヒテンシュタインの名を頂けるそうですから……あったと思われているのかな?」
「元々あったんでしょうねぇ、と今は言っておきますかね。……先程、ティアに聞きましたけど、ティアの作った下手くそな貞操帯はカルミナさんがつけているのでしょう?だったら……まぁ、そういうことです」
「また意味深な」
「あれはトラヴァントの宝物になっていたものです。あれを自由に扱える人がカルミナさんにそれを託した、という点でさて、どういう話になるのやら。アルピナちゃんですらその存在を知らなかったわけですしね」
「また悩ませる気ですか?リオンさん。殴られる理由を自分から増やす事ないですよ?」
「いえいえ、そういうわけではありませんよ。……まぁ、私にとっては割とどうでも良い事ですので御気になさらず」
「そこまで言われて気にならないわけがないじゃないですか」
「でしたら、ご本人に聞いてみたらどうです?」
「そうします。教えて頂けるか分かりませんけど……」
その後、お酒を飲みながらしばし無駄話をして、その日は眠りについた。
―――
「だから何故貴女は、表にも出せない成果を挙げてくるのかしらね!」
ディアナ様は激怒した。
二日酔いになる事もなく意気揚々とリヒテンシュタインの屋敷に来て、オケアーノスをディアナ様に進呈した時である。傷が付かないように巻いた布を外し、みすぼらしい想定の書物の表紙を開いた瞬間だった。爬虫類の瞳がぎらん、と私を睨んだかと思えば、次の瞬間がこれである。
「私にとっては確かにこの本は価値のあるものです。寧ろ、良く手に入れた、と言っても構いません。頭を垂れる事はできませんが、それに等しいぐらいには感謝しています。で、どこで手に入れたのかしら?教えてもらえないかしら?」
途中から何だか砕けた口調になり、少し頬を緩めたように温和になり、ぐいっとディアナ様が近づいて来そうになった。が、流石にそれはどうかと思い直したのか、椅子に座りなおしていた。
「や、あの……その。作者の親族の方がおられまして……頂戴したと言いますか。もっとも、それは原本ではなく忠実に作られた写本ですけど……原本はもはや存在しないそうです」
嘘である。原本はドラゴン師匠が冷凍したそうな。『いやー、確かにあれでもずっと残りますね、はっはっは』と軽い笑いと共にリオンさんが教えてくれた。
「是非、その方と会わせて頂きたいところですが……いえ、今はそれよりも、です」
本を大切そうに机の上に置きながら、ぎらり、と再び私を睨む。
「あ。いえ。今度はちゃんと……その。未踏領域なんとかにもなりましたから!第二階層にあるっていう金属で出来た花だけだとちょっと弱いかも知れませんが、ちゃんと証人もいますから!えっと、ギルドばるどぅる?のテオドラ=リドヴィナ=バレンブラッド様です」
頭陀袋からドラゴン師匠に手折って貰った花を取り出せば、ほぅ、とディアナ様が納得した様子を見せた。もっと強い証拠としては洞穴で手に入れた肉があるけれども、昨日、全部食べてしまったので、もうない。そもそも、あれを見せられて即座に分かる人がいるはずもない。だからこその未踏領域なのだから。まぁ真面目に考えるとドラゴン師匠とリオンさんが足を踏み入れているのだから未踏ではないのだけれども。
「バレンブラッド……また、厄介な家の者と接触するわね、貴女」
「えっと、何か問題があるのでしょうか……その、ディアナ様と何か」
「いいえ。私とバレンブラッド家には関係はないわ。彼の家が教会の信徒というだけよ。まぁ、その関連で奴隷に関しては色々言われているのは事実ね」
「あぁ、はい。天使を祭っている教会の、ですよね。伺いました」
「そう。その教会よ……まぁ良いわ。確かにその花があるのは第二階層だと聞きます、嘘ではないのでしょう。けれど、未踏領域となれば証人が必要です。証人としてその方を連れて来なさい。バレンブラッド家の者で更にギルドの者というのには物申したい所ですが、寧ろその方が貴女の成果は広まり易いでしょう。自殺志願者達はその手の噂には敏感ですからね」
「ですが、その方怪我をされておりまして……」
「引き摺ってでも連れて来なさい。早急に」
「そこまで急ぐ事は……」
「黙りなさい」
叱責が飛んだ。
「……承知いたしました。ギルドばるどぅるさんの所に行って事情を説明してついて来て頂きます。……あぁ、でも今は医者の所かな」
「どちらでも結構」
ハァ、と見るからに大きなため息を吐いた。そんな状態のディアナ様に色々と聞いて良いものかどうか悩んでいれば、貴女まだいたの?という視線を感じた。
「それで、まだ何か言いたい事でもあるのかしら?」
「あ、はい。お聞きしたい事が数点」
「言ってみなさい。これはそれだけの価値はあるわ……ちなみにだけれど、カルミナ。他にもあったのかしら?」
指先で大事そうに表紙をなぞりながらそう言ったディアナ様は妙に可愛らしかった。
「聞いてみないと分かりませんが、多分あるんじゃないかな……と」
「結構。近々その方は私の名で屋敷にお招きしましょう」
「あぁ、はい。伝えておきます」
来てくれるかは悩ましい所だけれども。今の状況を思えば、面倒だから嫌とか言われそうである。加えて久しぶりに料理を楽しんでいるだろうから尚更である。
「それで、ですね。ディアナ様はお城の方へ行かなくて良いのでしょうか?先輩は脱兎のごとく走って行きましたけれど……」
「状況は把握しております。ですが、私が行ったとしても意味はありません。寧ろ、今の状況を思えば近づかない方が良いと判断致しました」
最悪の場合を想定しているのだろう。アルピナ様とゲルトルード様が崩御された場合に後を担えるのはこの方だけなのだから。
自制心の賜物だろう。アルピナ様やゲルトルード様の事をとても大事にされているのは何も城の方々だけではない。ディアナ様も相当に皇族にはご執心なのだから……。
「それで、次は何かしら?」
「えっと……その私の村の事ですが」
「それが何か?」
「そこに来られていた教会の方の事についてお聞きしたく。その、バレンブラッドの方に聞きましたところディアナ様の領地では教会の方とディアナ様が直接教育に周っていたという事をお聞きしまして」
「えぇ、そうね。背に腹は代えられませんからね。一部は教会の者に頼みました。それが何か?」
「いえ、教会の方にしては教えて頂いた事が教会の話とは違ったもので……でも、当然、私の村に来られていたのはディアナ様ではないので……どこの誰なのかな、と」
「教会も一枚岩ではないわ。そういった者もいる、という事で納得しなさい」
それは、叱責だったのだろうか。寧ろ、言葉を濁されたようだった。まるで、言い辛いと言わんばかりに。
「でしたら、奴隷の身で主にお願い申し上げるのは失礼かと思いますが、その方にお会いしたらお伝えください。大変、お世話になりました、と。御蔭様で今も生きていられます、と」
「そう……今度会ったら伝えておくわ」
遠くを見ながら、何かを思い出すように、ディアナ様がそう口にした。自分で言ったのに何だけれど、その言葉に僅かの違和感を覚える。それは伝えるべき相手を良く知っていると言っているようだったから。暗に私の村に来ていた者が誰か分かっている、という風に言っているようで。数多くいる教会の誰か、ではなく特定の誰かである、と知っていると言わんばかりだった。それを隠される理由は分からないけれど、聞いても無駄なんだろうな、という事ぐらいは私にも分かる。
「それで、まだ何か言いたそうね?今日はあまり時間もありません。……ですが、そうですね。あと、一つ二つぐらいなら聞き入れましょう」
そう言った瞬間、再び本に目が向いたのを私は見過ごさなかった。結果、笑いを堪えるのが大変だった。確かに、時間はなくなるかもしれない。
「何か?」
「いえ、何も。あと一つお聞きしたい事と、もう一つは報告になります。それで私の今日の報告は終わりとなりますのでご安心下さい」
「……私が何に対して安心するというのかしら?」
「いえ……そのお忙しい所、申し訳ないという意味で捉えて頂ければ……」
つい、視線が本に向いた。
「……何か言いたそうね。まぁ良いわ。それで、聞きたい事というのは何かしら?」
「これの事です」
スカートをたくし上げて、貞操帯をディアナ様に見せる。
「はしたないわよ、カルミナ。貴女、もしかして外でもそんな事をしているのかしら?だったら、お仕置きが必要ね……そうね。やっぱり、縄が良いかしら?」
「いえいえ、していません。していませんから!」
室内とか洞穴内とかではした記憶があるが……あぁ、そういえば村を出る時のあれは外だったかな……などというどうでも良い記憶は頭の中から削除するとしよう。保身のために。
「それで、ディアナ様この貞操帯ですが、私以外付けてないみたいなのですけれど……」
「貴女を買ったのは私。それ以上でもそれ以下でもないわ」
有無を言わせぬ恐ろしい瞳だった。加えて、その手には何時の間にか例の包丁を持っていた。
「……逆に」
怪しいという間もなく、
「黙りなさい」
再び叱責が飛んだ。
「貴女がリヒテンシュタインの奴隷である以上、飼い主である私が貴女に何をしようと私の勝手です。この件に関しては、ソレに関しては以後、口を慎みなさい。今度同じ事を口にしたら酌量の余地なく吊るします」
「……はい」
「結構」
どこか取り乱した様なディアナ様の姿。突かれたくない所を突かれたようなそんな印象さえ受ける。けれど、この貞操帯に何の意味があるというのだろう。国の宝物を私なんかに付ける事に本当、何の意味があるのだろう。気にはなる。とても気にはなるけれど、好奇心は猫をも殺す。私はこの部屋に吊るされてディアナ様の酒の肴にはなりたくないのである。
「それで、最後の報告というのは?」
吊るされた自分を想像して、ディアナ様の下に遊びに来た先輩に思いっきり笑われている姿を想像して身震いしている私に、包丁を置いたディアナ様がゆっくりと口を開いた。
「はい。ディアナ様。この大陸は、やはり自殺するようです。物語ではなく、とても悲しい現実でした。もうそれほど時間もないようです。ですから、それを止める手伝いをしてまいります」
そんな私の言葉に一瞬、呆然とし、次いで苦虫を噛潰すかような表情をした後に、はぁ、と深いため息を吐き、額を手で押さえてふるふると頭を横に振られた。
以前話を聞いて貰っていた所為だろう。意味が分からない、という感じではなかった。私の言葉の意味を理解し、そして呆れたようだった。
「…………なるほど、それでこの本の親族という話になるのね。本当に、表に出せない事ばかり巻き込まれるわね、貴女。呪われているのではなくて?」
「確かに呪われてはいますが……不幸を招く生き者みたいですし」
そんな軽口を口にする私に、ディアナ様が再度、ため息を吐いた。
「全く。貴女にはそんな危険な事をして欲しくはないのだけれど……例え私が止めたとしても、止まらないのでしょう?その件に関しては勝手にしなさい」
それは不思議な物言いだった。期待はされているのかもしれないけれど、危険な事をして欲しくないというのは何だか、矛盾を感じる。ディアナ様が言う様に私はリヒテンシュタインの奴隷なのだから。それに……今先ほどの質問の答えは拒否されたのに、これが拒否されないのもまた、違和感を覚えた。
「えっと、どう言う事でしょう?」
「何でもありません。……そうね。ただし、条件があります」
「はい?」
「必ず。どれだけ掛っても良いわ。生きて帰って来なさい。まだ貴女には色々とやって貰う事があります。……そして、未踏領域到達の証としてバレンブラッドの者を引き摺ってでも早急に連れて来なさい。それが条件です。そうすれば、どちらも認めてあげましょう」
「リヒテンシュタインの名」
「いいえ、貴女に与えるのはドラグノイア=リヒテンシュタインの名よ」
「ドラグノイアはディアナ様のミドルネームでは?」
「……察しは良いくせに物を知らない子ね。まぁ、良いわ。さっさとどこへなりと行きなさい!」
「はいっ!」
そして、逃げるように私はその部屋を去った。
去り際、小さな声が聞こえたような気がした。
『これも血ゆえにという事なのでしょね……行ってらっしゃいませ、無事のご帰還を』
きっとそれは、気の所為なのだと、そう思った。それに態々聞きに戻るのも、きっとディアナ様の読書の邪魔だろう。
「リオンさんに他にもないか聞いてみようかな」
きっと、小言は言われるだろうけれど、喜んでくれる事だけは間違いなさそうだった。
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リヒテンシュタインの屋敷を出て、次に向かったのは図書館。
中に入れば、何人かの人達がいそいそと忙しそうに本を片付けていた。その中には例の司書さんの姿もあった。大陸の揺れの影響は建物には殆どなかったようだが、中は散々だったという。図書館に入った私を見つけて近寄って来ては司書さんがそんな事を教えてくれた。話を聞きながら彼女の姿を見れば、服は埃まみれになり、彼女自身もまた、疲れた表情を見せていた。
当分終わらない、とため息を吐く彼女に労いの意味も込めてリオンさんから頂いた本を渡せば、目の色を変えて狂喜しだした。ディアナ様同様、にじりよるかのように前のめりに色々と聞いてくる司書さん。そんな司書さんから逃げるように、続いてジェラルドさんの武器屋へと向かう。
状況を思えば、もしかすると城へ行っているかもしれないと思っていたが幸いにして二人とも店に居た。図書館と同じ様に店の中は乱れており、二人して店の中を片付けていた。黙々と作業を進めるジェラルドさんを、こんな時でも楽しそうに話かけ、笑いながらアーデルハイトさんが手伝っていた。
二人へ挨拶し、頭陀袋からやはり同じく本を取り出し、アーデルハイトさんへ渡す。本を手にとり、それに目を向けて、驚いた表情を一度私に向けたかと思えば、次の瞬間には真剣な表情を浮かべる。その姿だけを見ればとても普段のアーデルハイトさんには見えなかった。
ぺら、ぺらと次から次へと捲られる頁。だが、読み飛ばしているようには見えない。目の動きを見れば、物凄い勢いで内容を確認していっているようだった。そして、次第、頬が紅潮していくのが分かった。本物だと確信したのだろう。
別段、それを見計らったわけではない。ひと通り本を読み終え、それを閉じたのと同時に、覚えていたいと言っていたこの人に『最初の方』の事を伝える。
「パンドラ=ミケーネ=コスキー、それが『最初の方』の正確な名前だそうです。今でもその名前を覚えている人がいましたよ」
その再来と謳われているらしいアーデルハイトさんを見て、件のパンドラさんもこんな風なのかな、と想像する。
「それってあの人のことだよね……そっか。本当に、そうなんだね。……パンドラ=ミケーネ=コスキー。それが『最初の方』のお名前……そっか、パンドラ……」
何度も、何度もその名前を、もう忘れないと噛み締めるように呟く姿がまたらしくなかった。
が、次の瞬間に見た姿はいつも通りだった。
「カルミナちゃん凄いよ!びっくりだよ!カルミナちゃんってば超天才!聞かせて!もっと詳しく聞かせて頂戴!もっと私を不幸にして頂戴!好奇心旺盛な私から知る事を奪って不幸にしちゃってっ」
何だか言葉にならない感じに物凄い勢いでアーデルハイトさんが狂喜した。そんな自分の嫁を見て、ジェラルドさんが低い声で笑った。
「お、御礼に三号いる?」
「いりません」
残念そうだった。
夢見心地で狂喜しているアーデルハイトさんに事の経緯を伝え、それを終えた私は、今度はジェラルドさんとの商談を始めた。
頭陀袋の中から例の金属製の花を取り出せば、ほぅと顔をしていたのだが、それが何本も続くと、流石に驚きを隠せなかったようで、絶句していたのが、ちょっと面白かった。
ガントレットの作成をお願いし、それで余った花は買い取って貰った。全部を引き取るのは店の規模としては難しいとのことで幾つかは余ったものの、防具作成の値段も含めて花をお渡しし、買い取って貰える物は買い取って貰った。
そして店を後にする。
暖かくなった懐。この一部は先日の治療費には消えるが、それでも私の懐からすれば、大変暖かい。これで美味しい物でも、と思えど、美味しい物はリオンさんの所に戻れば腐る程……事実腐っているものもあるが……あるのでお安めである。結果、お金の使い道が思いつかなかった。今、ぱっと思いつくのは奢ると言ったドラゴン師匠への酒である。といってもそれもそこまで金の掛る話ではない。借金返済に、とも思ったがそもそも依頼でもないので使えないし、それ以前にテオさんをディアナ様の所にお連れすれば、リヒテンシュタインの名前を頂けるという話なので、そう言う意味ではもう私に借金はないわけである。今更ながらにその事に気付き、ちょっと呆としてしまう。
終わった、という思いと、ここで気を緩めてはならないという二つの思い。
「とはいえ、これで……」
安心して神様を殴りに行けるというものだ。行きにどれぐらい時間が掛るかは分からない。リオンさんにそう聞いた。だから借金返済の期間までに帰って来られるか?という事を気にする事がないのは個人的にはとても良い事だった。戻って来られて早々にどこかに売られるなんて事は考えたくもない。もっとも、大陸が壊れるかもしれないという状況で、お金の事を考えているのもどうにも可笑しな話だけれど……気になる物は気になるという話である。
そんな事を考えながら街を行く。
見れば昨日と同じように皆が街を掃除していた。崩れた建物の破片を集め、地面が割れた場所には石を詰め、それを埋める。その作業をしている人達は昨日とは違い、騎士団の人達だった。当然城の方にも裂かれているのだろう。そんなに人数はいないが、目を向ければ、テレサ様の弟様がそこにいた。汗を流し、自ら陣頭に立ち、街の復興を手伝っていた。死にそうな程に心を痛めていたのが嘘のように明るい表情を浮かべながら街のために働いていた。
そう。
神様が嘆き世界が割れようとも、それでも人々は懸命に生きている。誰も彼も好んで死にたいと思っているわけではない。そんな人達を見ていればやっぱり、この世界が消えて欲しい何て事、誰も思っているわけがない、そう思える。それを、神様なんて凄い存在が分からないなんて、ほんと皮肉な話だ。嫌だったかもしれない、辛かったかもしれない。それでも、神様の下でこうして懸命に、必死に、感謝しながら生きている人達がいるのだ。それを、神様にも少し見て欲しいとそう思う。それにほら、見ていたじゃないか。例えその時の姿が自由の効かない妖精の姿だったかもしれないけれど……それでも夢に見ていたのだから。綺麗で優しい夢をずっと見ていて、そんな事が分からないなんて……もう、言わせない。
私が殴ってでも、前を向かせてあげる。
見上げれば、嫌になるほど青い空だった。この地上の状態なんて知る事もなしに無限の時間を青く、ただ青くそこに居る。遥か昔から神様を、この大陸を見ていた空。
「もうちょっと……待っていてね、神様」
そんな空に向かい、手を握り締め、誓う様に呟く。
そして、再びいそいそと動き回る人々に目を向ける。
そんな人達の動きが、行動が嬉しくて、つい笑みを浮かべれば、いつしか周囲から睨まれていた。何故、こんな状況で笑っていられる、と。
だってこんなにも綺麗なのだから。笑いたくもなる。それに、笑っていれば、神様も微笑んでくれるだろう。こっちを見てくれるだろう。
けれど、そんな視線さえもいつしか消えていた。構っている暇なんて、彼らにはないのだ。だったらやっぱり、こうして手の空いた私が行くのが良いんだろう。そんな格好良い事を思った。
もっとも、今から向かうのはギルドの所だけれども……。
「どこにあるんだろう?」
ギルドの所と考えて、はたと足を止めた。
彼女の……彼らの居る場所が分からない。加えて今の状況で行っても話をしてくれるかは分からない。正直、難しいだろうと考えて、昨日、テオさんの事をお願いした人の下へと向かった。
そして、結果、無駄足になった。昨日の今日の割にはテオさんの姿は既になかった。医者のいる場所、その独特の匂いに鼻が歪みながら聞いた話によれば、今朝早くバレンブラッドの屋敷に戻ったとのことである。というのも、バレンブラッド家のお抱え医者の方が腕は良く、その人に見て貰った方が良いという話だった。医者を抱えるというのは、私の様な人間からすると中々想像がつかないが、貴族であれば当たり前の事みたいだった。
貴族で、教会の方で、ギルドの方で、自殺志願者で。
大概、テオさんもイロモノだと思う。
ともあれ、御蔭で行き先を見失った私は、ドラゴン師匠のためにちょっと高そうな酒だけを買ってリオンさんの御店へと、今の住処へと帰った。
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そうして早、一週間が過ぎた。
再び場所はジェラルドさんの御店である。ジェラルドさんから出来たばかりのガントレットを受け取り、両腕に装着する。
見た目に比して思いの外軽く、それでいて確かな丈夫さを感じる代物だった。加えて手甲と腕を囲う部分が切り離されており、奴隷の証である腕輪が邪魔しないような作りになっている辺りにジェラルドさんの技量を感じた。きっとドラゴン師匠だったらそんな細かな事は気にしないに違いない。えぇ。
ともあれ、腕に付けたガントレットを何度も、何度も見る。自分で材料を……というと語弊はあるけれど、自分で願って、自分で作って貰う事を頼んで、それが出来あがり、それを装備した瞬間というものは何だか嬉しくなるものだ。自然、頬が緩み、ガントレットを付けた手を開いては閉じてその感触を楽しんでいた。もっとも、機能面ばかりが良いわけではない。ガントレットに刻まれた白い花の装飾。それがまた、何とも素敵だった。そういえば、アーデルハイトさんに服を直してもらった時も花の装飾をしてくれていた。夫婦揃って花が好きなのだろうか。ちなみに全体的な色は黒である。指定したわけではないのだけれど……御蔭で更に黒さが増した。
「ありがとうございます」
暫く話をした後に感謝の言葉を伝えて店を出た。
次いで医者の所に寄って、怪我の状態を見て貰った。思いの外、腕の怪我が早く治って来ているのはリオンさんの食事の影響だと思う。ありがたいことである。
きっと、そろそろドラゴン師匠も鍛冶を終えて帰ってくるだろう。ドラゴン師匠が戻ってくれば、すぐに私達は神様の下へ向かうだろう。さぁ行くわよ!さっさと行くわよ!今すぐに!とか言いながら。
「でも……」
けれど、私はまだテオさんを見つけられていなかった。毎日うろうろと街を歩き、色々と話を聞こうとしては嫌そうな表情と共に逃げられる事数度、結果、あてもなく街をうろつく奴隷が一人誕生した。早急にと言われていたのにこれではディアナ様に怒られるに違いない。
ディアナ様の怒り心頭な表情を浮かべてげんなりする。
そして今日も今日とてうろついた後に御店へ帰る。
「ただいま帰りました」
「やぁやぁ、カルミナさん。……おや、それが言っておられたガントレットですね。良い感じですね」
何故か店の入り口、社の前で車椅子を持とうとして苦慮しているリオンさんがいた。
「ありがとうございます。で、リオンさんは何してるんですかね。それ、エリザが使っていた奴ではないですよね」
「違いますねぇ。ともあれ、ちょうど良かったです。カルミナさんにお客さんが来られていますよ」
一旦車椅子から手を離し、手をふりふりと脱力させながらにこやかにそんな事を言う。
「お客さんですか?私に?」
「はい。お若い男の方が二人と、女性の方が一人ですね。車椅子はその女性の方の物です。流石にお客様にこういう事をさせるわけにもいかないので先に入って頂きました……しかし、出来が良いみたいでかなり重いです……」
「ハァ……?手伝いますか?」
男が2人と言われて即座に思い描いたのはカイゼルとボストンさんだった。他の男の知り合いは、さっきまで会っていたジェラルドさんと目の前にいる人ぐらいしかいないのだから。でも、カイゼル達だとすると女性1人……というのがちょっとおかしな感じだった。でも、カイゼル絡みで女の人で車椅子となると……テオさんだろうか。
あれだけ探して見つからなかったのに向うから来てくれるとは……まぁ、先輩が言っていた様な事をされても困るので、バレンブラッドのお屋敷に行くわけにもいかない以上、怪我人が街をうろついていると思う方が間違いなのだけれども……ともあれ、運が良いのか悪いのか。少しの脱力と共に、きっと良いのだろう、そう思う事にした。
「でしたら、そこの袋を持って先に行ってお客様のお相手して頂けません?」
「じゃ、先に行って店長代理がんばってきますね」
ずっしりとしたリオンさんの頭陀袋を手に、言い様、ととと、と降りて行き、店に入れば、椅子に座り、上半身だけ机に突っ伏して寝ている女の人がいた。
一瞬、それがテオさんかと思えば、
「あれ?誰……って、もしかして学園長?」
もしかしなくても、学園長だった。
そんな私の声が聞こえたのだろう。その隣に座っていた教会の人然とした格好の女性がこちらに気付き、花のような笑顔を見せた。
「カルミナさん!」
「はい、店長代理のカルミナちゃんです。テオさん。これはどうもさっそく来て頂いたみたいでありがとうございます。ところで、もう動いても大丈夫なんですか?」
「体が資本だからね。まだ多少は痛みますが大丈夫です。……もっとも、もう自分で歩く事は叶わないのですけどね」
苦笑するテオさん。
言われ、視線を足元に向ければ案の定、足先が無かった。溶岩に足を突っ込んで溶けた足をそのまま残しておけば他の部分まで壊死してしまう以上当然の処置だった。ただの人間は、エリザのように義手や義足を簡単には付けられない。付けられたとしてもかなり出来の悪いものになるだろう。まともに歩ける事がないような、そんな出来の悪いものぐらいしか。
そんな事を考えていたのが表情に出たのだろうか。察したかのようにテオさんが明るく笑った。
「暗くならないで頂戴。貴女の御蔭で生きていられるのですから。生きて、こうしてまたギルドの皆とも会えました。嬉しい事こそあれ、暗くなるような話ではありません。改めて、あの時は私を救ってくれて、死を望む私の願いを叶えないでくれて、ありがとうね、カルミナさん」
がしっと私の両手を握って、うるうると上目遣いをするテオさん。美人さんである。
そんな風に手を握られながら……離してくれなかった……他の二人にも声を掛ける。
「それと、ボストンさんとカイゼルもお久しぶりです」
「よう」
テオさんの隣に座る図体のでかい人、ボストンさんが軽く手を挙げる。
けれど、もう一人、立ったままの男は無反応だった。腕が折れているのだろうか、左腕に包帯を巻き、首から吊るしていた。それだけではなく、足や頭にも包帯を巻いている。良く見ればボストンさんの肩にも包帯が見えた。満身創痍。それがエルフの森での結果のようだった。生きているのは重畳。けれど……見ていて痛々しいのは確かだった。
「こら、阿呆マスター。ちゃんと挨拶しなさい」
「あ、あぁ。久しぶりだな、黒夜叉姫」
訝しげにカイゼルを見ていれば、いつしかテオさんが私から手を離し、ぽんぽん、とカイゼルの腹を突いていた。それで漸く、カイゼルが口を開いた。が、言い終わった瞬間、また呆としだした。
恨まれているのだろうか、そんな風に思った……のも一瞬だけだった。
ボストンさんもテオさんも笑いを隠しきれないようだった。そして、その含み笑いに私も察してしまった。そういえば、そんな話をしていたなと思い出しながら、隠しきれない笑みが零れた。
カイゼルだけは立っている。
より正確にいえば、座ったまま眠る学園長の後ろで突っ立ったまま呆然としているのが、カイゼルだった。
「ついさっきまで、よし、今日は倒れるまで飲むぞ!覚悟しとけよ黒夜叉姫!とか凄い元気だったのにねぇ。ほんと、アホよね、うちのマスター」
どう考えても学園長がいる所為だった。
「恥ずかしい奴だろ?な?」
ボストンさんが皮肉気に笑った。そんな風に言われていても、動かないカイゼルに再度苦笑しながら、カウンターの内側に入り、リオンさんの袋の中身を片して行く。どうせリオンさんが来たらこれを片付けるので、真面目な店長代理としては、先廻りして片付けておくのである。こういう雑事はここ一週間で慣れた物だった。
まず袋の中の一番上に置いてある衝撃吸収用の雑草を取り出してカウンターに置く。
「ちょっと、カルミナさん?ソレ何かしら?」
「見ての通り、雑草ですけど。あ、雑草という名前の花がない事くらい知っていますよ?そういう意味ではこれの名前は分かりません。申し訳ありません。不勉強で」
「いえ、そういう事では……」
テオさんの問い掛けに答えながら次いで雑草をはむはむと小さな口で食べていた手の平ぐらいの大きさの芋虫を取り出し、雑草の上に置く。置けば再びはむはむと口をもぞもぞさせていた。
最初は驚いたものの、一週間もすれば慣れる。リオンさんの頭陀袋からは何が出て来ても驚くに値しない。それに……これがまたリオンさんの手に掛ると美味しくなるのだから喜ばしい事こそあれ、おかしなことなど一つもない。
「嬢ちゃん……」
そんな事を考えていれば、はむはむしている芋虫を見て、ボストンさんが図太い声を出した。
「はい?なんでしょう?あ、芋虫は駄目ですか?意外と美味しいですよ?」
「いや、場合によっては食べるからな。喰えない事はない」
流石歴戦の自殺志願者である。
「だが、なんだその色は……」
「虹色ですかね」
次いで、その下にあった物を取り出そうとして、ガントレットを付けたままなのを思い出し、外す。ことん、と音を立ててカウンターに置く。ボストンさんとテオさんが微妙に引き攣った表情になったのはこれも食材だと思われたからだろうか。
「あ、これは食べ物じゃないですからね。食材を手にするのにガントレットというのも駄目ですし、それに折角、出来たばっかりのものが汚れるのは嫌だったので外しただけです」
そんな今更な事を言いながらさっと手を洗い、再び袋に手を入れる。
「やっぱり食材……なのですね」
テオさんのぼやきを聞きながら、袋の中で手を動かす。
さて、次は何が出てくるのだろうか。楽しみである。
こうして手を入れて掴むと次から次へと美味しそうなものが出てくるので楽しいのである。それはもう先廻りして開けたくなるぐらいに……いえ、職務に忠実で真面目な店長代理であれば店長の採って来た食材を片付けるのは当然の責務である。えぇ。
そんな風に一人楽しくなった結果、寝入る学園長の方を向いて未だ立ち止っているカイゼルの事は完全に忘れてしまった。
「次は何が出てくるんだ?」
「今日は……なんでしょうねぇ。あ。なんだか懐かしい感触ですね。アモリイカさんの足……じゃないですね。これ、赤いです」
にゅるり、と手に絡みついたので最初の依頼を思い出してそう言ってみた物の、取り出してみれば赤かった。その赤さに気付く。これはあれだ。ディアナ様の所に初めて訪れた時のあれだ。かなり小さいが同じ種類なのだろう。そして、きっと美味しいのだろうなぁと思えば自然、唾液が口腔に産まれていた。そしてその下にあった金属片やら埃やら砂やら蜘蛛の糸やらネズミの尻尾やらを次々と取り出して行く。そして……一番下にあった物を取り出した瞬間、ずっと引き攣った表情をしていたテオさんが小さく悲鳴を挙げた。
「入れる順番を間違っていませんかね、リオンさん」
どく、どくと未だ血を吐きだしながら動いているのを見ればすぐにわかる。
心臓だった。
「いえいえ、そうやって潰れて血を吐き出す事によって他の食材に良い影響を与えるのです」
そんな私の言葉に、漸く降りて来たリオンさんがぐぅっと手を握りながら力説していた。それも良く分からない理由だった。傍からすれば全くの戯言である。
ちなみにそのぐっと握られた手の内には小さな枝があった。さっきまで持っていなかったと思うが……それにしたって木の枝というのは意味不明だった。
ともあれ、てっきり車椅子を持って降りてくるのかと思っていたが、冷静に考えると店の中をうろつき回るわけでもないわけで……社の中の邪魔にならない所に移動しただけのようだった。
そんな納得を浮かべながら、手に伝わるぶにょんとした感触を持て余して芋虫の上に置いた。虹色が紅色に染まった瞬間だった。
「切り離してからどれぐらい経っているのかは分かりませんけど、まだ動くんですね」
「意外と長く持つみたいです。ティアへの差し入れついでに取ってきました……いえ、結局ティアに採って貰ったので、採って来て貰いました、の間違いですかね?」
「あぁ、なるほど。ちなみに何の心臓です?結構、良い大きいですけど……」
「リザー」
「あ、もういいです。それよりもリオンさんは爬虫類って大丈夫なんですか?」
相手を見下すような表情を浮かべながら、ゆっくりとリザードマンの心臓辺りに指先を刺し入れ、心臓を掴んで引き抜き、飛び散る血に合わせるように哄笑をあげるドラゴン師匠の姿が脳裏に思い浮かんだ。なんて想像がつきやすい光景だろうか。
しかし、種族が違うとはいえ娘と同じ爬虫類を食べる事に違和感はないのだろうか。でも、採ったのもドラゴン師匠なら大丈夫なのかな?
「はい?……あぁ、大丈夫ですよ。あの子も好きですし。それにカルミナさんも気に入ると思います」
言いながら、リオンさんがカウンターの内側に入り、手に持っていた枝をカウンターの上に置けば赤い足が巻き付いた。なるほど、その状態で焼くとかかな?と思っていれば何時の間にかリオンさんが佇まいを正していた。
「改めて、いらっしゃいませお客様。ゲテモノ料理屋キプロスの店長リオンです。以後お見知りおきを」
軽く頭を垂れる。
「店長代理のカルミナです」
慌てて合わせるようにして、軽く頭を垂れる。
そんな私たちを見て、いそいそと襟を直し、姿勢を正し、ゆっくりとテオさんが頭を下げた。育ちの良さが良く分かる仕草だった。次いで、ボストンさん軽く首を縦に動かした。一方のカイゼルは未だ身動きせず、である。
「カルミナさんからはお酒を、という話を聞いておりましたが……つまみや食事でしたらご用意できますので遠慮なしに言って下さいませ。ちなみにお勧めはお任せ料理です」
「では、それでお願いします、店長さん。……カウンターに並ぶ物を見ていましたら、なんだかもっと怖いものが見たくなって来ました」
「剛毅ですね、テオさん……リオンさん、お三方とも怪我されているのでほどほどでお願いします」
「ふむ。そういえば皆さん怪我をされておりますね……では、夜にカルミナさんにお出ししようとしていた物と同じ物にしますかね」
振り向き、戸棚から何かを取り出した。
何の生物の物かは分からないが、それは爪だった。鳥や何かだろうか。そんな風に見ていれば、リオンさんが爪の垢を採り始めた。
「リオンさん、それは?」
「脳ある鷹の爪、その垢ですね」
「いや、脳はどの鷹にもあると思いますけど」
むしろ、脳なし鷹を見てみたい。そんな風に当たり前に会話をしていれば、ボストンさんがげんなりしていた。一方のテオさんは、もはやここはそういう所なのだと割りきったのか、興味深げな表情を浮かべていた。私が言うのもあれだが、割り切り過ぎだと思う。
「というわけで、僭越ながら、食事が出来あがるまでは私がお相手させて頂きます。エールで大丈夫ですか?」
「えぇ。お願いしますね。カルミナさん」
「頼む。それと……ファルコ。お前はいい加減座りやがれ」
「あ、あぁ、そうだな。……い、いやそれよりも店長……あの人は大丈夫なのか!?」
放心状態だったわりに、店長だっていうのは聞こえていたのか。流石有名ギルドのマスターさんである。三人分のエールを注ぎながら、そんな事を思う。
カイゼルがリオンさんの前に座ったのが合図になったのか、リオンさんが顔を挙げて、視線を学園長へと向ける。
「泣き疲れて寝ているだけですし、大丈夫ですよ」
カイゼルが絶句した。
間違っても普通の人はそれを大丈夫とは言わない。
「何があったんですかね……」
店長の情緒の無さに多少の申し訳なさを覚えながら、カイゼルの代わりに私が聞く。
「いえ、それがですね。朝、カルミナさんと入れ違いで店に来て、私を見たら泣きだしまして……いやはや……何と言いますか、何があったんでしょうね?」
間違いなくリオンさんが生きていたことの安堵や、それまでの国の行動やら何やらの御蔭で感情が追い付かなくなって泣いたのだと思います、とは言ってあげない。『はぁ、そうですか』ぐらいの返答が返って来そうなので。それを怒り心頭になりそうなカイゼルの前で言わせるわけにもいかない。
「あんた、いくらあの人が……」
が、それでも遅かった。
リオンさんの言い方が頭に来たのだろう。見た目だけで言えばカイゼルより若く見えるリオンさんである。若造が、自分の懸想する相手を泣かせたとなれば怒りたくもなるだろう。あぁ、懸想しているといえば……。
「秘書として忠告致します。マスター、黙りなさい。言えば言うほど貴方の程度が知れるというものです。全く、男の嫉妬は醜くて仕方ありません。というか誰が見ても分かるじゃないですか。学園長がとても安らかに眠りについているのが。あれを見てもまだ店長が悪いと言いたいのでしょうか?割りと昔からの付き合いですが、あんな柔らかい表情を浮かべる学園長……マリアさんなんて初めて見ましたよ、私。踊れない貴族として有名だったマリアさんが、ソードダンサーと呼ばれるようになった理由を垣間見た気分です。……いえ、それは置いておきましょう」
一旦口を閉じたかと思えば、私が三人の前に出したばかりのエールを一気に飲み干し、だん、と音を立ててグラスをカウンターに置いた。そして、再びカイゼルに顔を向ける。
「テ、テオ?」
「マスター。懸想するだけなら結構。好きにされれば良いです。けれど、我々の所為でご迷惑を掛けた相手に謝罪する事もなしに、自分の気持ちばかり優先させて、学園長ばかり見ているとは、全く、度し難いですね」
刺すようなテオさんの視線にカイゼルがうっと呻いたのも束の間。その燃えあがる太陽のような瞳を閉じ、一度首を横に振り、再度開く。そうすれば、一瞬前まで慌てていた男の姿とは思えない程の力強さが感じられた。まさに小さな国の皇帝の如く、だった。
「……テオの言う通りだな。あぁ。そうだ。俺が礼を逸した。その通りだ。すまんね、黒夜叉姫。それと店長、あんたもすまなかったな」
そんなカイゼルにリオンさんがいえいえを小さく首を振る。何のこともない、と。そんな店長とは違い、店長代理の私といえば、ついつい、思い出した事をそのまま言ってしまった。悪い店長代理である。
「……カイゼルさん。やっぱり、不幸になりましたね?」
店長に懸想する学園長の姿を見て不幸になると良いです、とかそんな会話をしたのを思い出した。
「なんの……くっ!あれかっ!ちくしょう!店長、酒だっ!酒をくれっ!それと、金なら幾らでもある。最高にうまいもん喰わせてくれっ!ほら、お前ら呑むぞ!」
天を仰ぎ見ながら、カイゼルがグラスを空け、テオさんと同じ様にカウンターにグラスを置きながら喚き出した。けれど、今度はテオさんも怒るような事はなく、ただただ楽しそうに笑っていた。
「はい。今暫くお待ちくださいね。美味しい物をご用意致しますので」
その時だった。
どたどたどた、と転げ落ちるような音と共に店の扉が開き、メイド姿の女性が現れた。
そして、周囲を見渡し、学園長を見つけては、ほっとした表情を見せて学園長へと近づいて行き、すぱん、と頭を叩いた。
「ハァ、良かった……まったく、いつまで経っても戻ってこないと思ったら……人を心配させておいて何寝ているのよ!馬鹿なの!?さっさと起きなさい!そもそも私が行くと言ったでしょう!」
いつになく元気なメイドマスターだった。が、それでも学園長が目を覚ます事はなく、寝心地が悪い、とばかりに少し体勢を代えて、安定したのか再びすーっと小さな寝息を立てていた。
「メイドマスター?」
「あら、カルミナ。先日は……って本当に生き返っているのね。流石マジックマスター様の父君ね!流石マジックマスター様の!…………で、そこにいるのはもしかしなくてもテオドラかしら?」
ある意味相変わらずだけれど、忙しないメイドマスターを見るのは中々面白い。と思っていれば、テオさんの方を見て、止まった。まるで仇敵を見つけたかのように、胡乱な視線を向ける。
「あらあら、これはこれは。マグダレナ様ではありませんか」
「ちっ……嫌な奴がいましたね」
「ご挨拶ですわね。でも、そうですわね。それでしたら、私もご挨拶しておきましょうかね。ふふん、いいでしょう?私、マジックマスター様に担いで貰ったのよ!」
「っ!?な、なんですって……ふ、ふん。私なんて、貴女では決して見る事ができない、マジックマスター様の幼少期の御姿を映した絵画を見せて頂いたもの!どう?羨ましいでしょう?」
「な、なんですって……そ、そんな」
カウンターに崩れ落ちるテオさん。
何なんだろう、この二人。特にメイドマスターは突然慌てるように現れたかと思えば、何の話をしているのだろうか。
とりあえず、二人はとっても仲が良いと言う事だけは分かった。
「はっ。マジックマスター様といえば……折入ってお願いが御座います。お父様と呼んで宜しいでしょうかっ」
ずいっとカウンターに身を乗り出すというあんまりな体勢になりながらメイドマスターが、調理中のリオンさんに嘆願していた。
「え、何?え……マジックマスター様の父君なのこの方?若いわよ?私達より若いのに?本当?ねぇ、それ本当!?も、もしかしてこの店に通っていたらマジックマスター様にお会いできるのかしら!?ねぇ、教えて!教えて頂戴!」
「えぇい、煩いわね、テオドラ。黙りなさい」
姦しい。メイドマスターが二人になったようである。
けれど、そんな二人の言動が面白くて、とても楽しかった。
「カイゼルさんも大変ですね」
「テオが元気で何よりだよ。ほんと……ありがとうな、黒夜叉姫」
「私にはカルミナちゃんという名前があります」
「カルミナ。ギルドを代表して、感謝と謝罪を」
カイゼルがそう言って立ち上がり、頭を下げそうになった所で口を挟む。
「たまたまですよ。あと謝罪はいりません。そんな事言われたら私の方がたくさん謝らないといけませんしね?」
「はっ!あれは俺達が勝手にやったことだ。お前に謝罪してもらう理由はないな」
「でしたら、お互い様という事で納得して下さい」
「強情な奴め。じゃあ、ここは感謝だけとするか。カルミナ。テオを救ってくれてありがとう」
「俺からも言わせてもらおう。感謝している。……あの馬鹿を殺さないでくれた事、礼を言わせて貰う。……もっともあいつは現在、再教育中だがな」
にやり、とボストンさんが笑った。
「あぁ、あの時の……いえ、あの人のナイフの御蔭でかなり助かりましたよ?」
「ナイフだけが未踏領域に到達したってのが、笑いどころだよなぁ」
あぁ、もうそんな話が伝わっているのか。まぁ秘書とマスターの関係だったら当然だろうか。そんな風に姦しい人達を置いて、私はカイゼルとボストンさんと話をしていれば、気付く。
「ところで……」
楽しくて嬉しいのは確かだけれど、エルフとの抗争中だというのに、今この場に居ても良いのだろうか?そんな疑問を思い浮かべそれを問いかけようとした時だった。
何時の間にかテオさんもメイドマスターも静かになっており、店内にはリオンさんが調理する音だけが響き渡っていた。
そんな中、メイドマスターが、佇まいを正し、リオンさんに向けて深く頭を下げていた。先程までの喧騒は何だったのかと言わんばかりだった。今この瞬間の静けさを思えば、さながら、蝋燭の最後の輝きのような、そんな印象さえ受ける程だった。
「リオン様……私どもが行った事、それを忘れたわけでは御座いません。ですが、今一度、城へ赴いては頂けませんでしょうか……」
そのメイドマスターの言葉に浮かぶ感情は読み切れなかった。かなりの比率で申し訳なさと後悔が含まれていたことだけは、分かる。血が出そうな程に噛み締めた唇は、或いは殺されても仕方ない、そんな覚悟でもしているのだろう。メイドマスターの今の発言は、それぐらいの意味を含んだ言葉だったのだから。
「マグダレナ……」
頭を垂れるメイドマスターにテオさんが息を呑んだ。それはそうだろう。メイドマスターの立場からすれば、一介のゲテモノ屋の店長に下げて良い頭ではないのだから。カイゼルも、ボストンさんも同じだった。誰もが、メイドマスターとリオンさんへと視線を行き来させていた。
しばし無言の時が流れる。
リオンさんが口を開くまで、間違いなく、その無言の時は続くだろう。
とはいえ、そんな神妙な空気が流れていたとしても、である。私は気にしていなかった。そもそも相手がリオンさんである。こんな状況でリオンさんが返す言葉など簡単に想像がつくというものである。
どれぐらい時間が経っただろうか。漸く料理の手を止め、未だ頭を垂れたままのメイドマスターに向かって、
「面倒なのでお断りします。それよりも良い感じにお食事が出来あがりましたので、貴女もご一緒に如何ですか?自分で言うのも何ですが中々の仕上がりです」
ぼんやりと特に何を考えている風でも無く、リオンさんがそんな事を笑顔で言った。
……ほら、やっぱり。




