第1話 相変わらずな彼ら
この物語は百合成分32%+悪ふざけ30%+洞穴成分20%+うざいドラゴン8%+陰鬱さ10%でできております。
1.
腕に巻かれた包帯、その内側から痛みが伝わって来る。感覚が戻って来た証拠なのだろう、とそう思う。気だるさと疲れも一気に襲って来たように思う。そんな痛みの元凶を、もう片方の手で触る。私が持っていた荷物は、ありがたい事に師匠が持ってくれている。御蔭で、今の私は手ぶらだった。もっとも、胸元には相変わらず妖精さんが挟まれているのだけれども。
「触らない方が良いわよ。パパと違って生えないんだから」
甲羅と銛と荷物を片手に持ったまま、ドラゴン師匠が小首を傾げながらそんな事を言う。言われるまでもなく、触った所で何の意味もない。それでも、痛みがあればそこを押さえたくなるのは人の性だと、そう思う。
「リオンさんと比較されても」
「まぁ、そうよね。あんな人でなし他にはいないし」
その言葉にうんうんと頷きながら向うのは、城の敷地内にある白亜の塔。罪人の処刑場でもあるその場所だった。
ドラゴン師匠の美貌にやられたのか、或いはマジックマスター然としていた所為か門番が私達を止める事もなく、すんなりとその塔に近づいた時だった。
人の神様の悲しみが世界を襲った。
地面が揺れ、その揺れと共に塔が揺らぐ。
その揺れに私の体は自然と倒れ、地面に突っ伏した。怪我を庇った所為で体を支える事もできず、顔面から地面へ倒れ伏した。幸いにして怪我はなかった。それよりも、耳朶を打つ倒壊音の方が遥かに私を傷付ける。
倒れた状態から顔だけを塔に向ければ、塔の中層部分に斜めに亀裂が入り、自らの重みに耐えられず塔が潰れて行くのが見えた。そこにあるもの全てを内包したまま、自壊していく。さながら、塔自らが自分を壊すかのように。そんな風にさえ思えるほどだった。
あっという間だったといえる。一瞬だったとも言える。
白亜の塔が、私達の目の前で崩れ去った。
「予想よりも早いわね。全く、無理なんかするからよ」
「…………」
ドラゴン師匠の叱責に似た言葉、それに応える言葉を浮かべる程の余裕などなかった。倒れた事である意味安定したようには思えたが、しかし、地面の揺れは未だ続いている。立ち上がる事すらできず、その揺れに身を任せるしか私には出来なかった。
次第、地にヒビが入り、それはいつしか、隙間に落ちて行けそうな程に幅広く拡がりを見せる。そして、当然、そんな風に地面が割れればその上に立っている建物とて無事であるわけがない。
「ほら、捕まりなさい」
「ありがとうございます」
長く続いたように感じたその揺れが収まった頃、揺れなど一切感じないとばかりに立ったままだったドラゴン師匠が私に空いた手を差し出してくる。
「見てよ、カルミナちゃん。城の方も割れているわよ!」
「……なんでそんな嬉しそうなんですか」
ドラゴン師匠に釣られて城を見れば、傾いていた。
巨大な城が、それを支える地面が割れた事で、傾いていた。
所々に入ったヒビは城を倒壊させるまでには至らなったようだが、それでも酷いものだった。つい今しがたまでトラヴァントの力を、勇壮を体現したような城が、廃城のようで、もはや遠い過去の遺物にさえ思える程だった。
そこに住まう者達とて、その全てが無事ではないだろう。塔のように崩れ落ちたわけではない。だから、死んでいる事はないかもしれない。けれど、怪我ぐらいは……怪我に弱いエルフ達もいるのだ……。城に目を向け、エリザやレアさんのことを思う。
「でも、そうね。殺す手間は省けたかもね」
そんな私の心配を笑うかのように。死んだ父を思い、ケタケタと天に向かって笑うドラゴン師匠は、やはり人でなし、だった。
短い時間とはいえ、客分として城にいたというのに、城の者達への心配など欠片も感じられない。正直、こんなドラゴンなんて放置して、エリザ達の安否を確認したいとさえ思う。
「それじゃ、まずは瓦礫の山の王様を引っ張りださないとねぇ。ほら、行くわよ、弟子」
けれど、そういう意味ではリオンさんも知り合いである。死なないのだと知ったけれど、それでも心配だった。
言われるがままにドラゴン師匠の後を付いて歩けば、ドラゴン師匠の言う様にまさに瓦礫の山だった。
もはや元の形は殆ど見られない。中にあったであろう物があちらこちらに散乱しており、陽の光の下で見えたそれらは、酷く……そう酷く赤黒かった。そして、そこから香る匂いに一瞬、洞穴の中を思い浮かべた。
「あれよね。人間の方が遥かに悪辣よね。私だったら喰うか殺すかぐらいだもの。私ってほんと、優しいわね」
拉げ、潰れ、その殆どが壊れていたものの、一見してそれらは拷問器具だと分かった。赤黒いのは数限りない血を吸った事で出来あがったのだろう。トラヴァント300年の歴史がそこにあった。
「……」
見ていて気分の良いものではない。そしてこれがリオンさんに使われていたかと思うと……私には、視線を逸らすぐらいしかできなかった。
そんな逸らした先が、僅かに動いて見えたのはきっと運が良かったのだろう。自然、体がそちらに向かう。近づけば、小さな、けれど嘆き、叫ぶような声が聞こえて来た。
「アルピナ……様?」
感情のままに、誰かに向かって叫んでいた。
「あぁ、パパそこに居たの」
「師匠?」
言い様、風が世界に現れた。今の今まで存在しなかった風が、突風が瓦礫をどかしていく。恐ろしいまでの風の強さ。それが瓦礫に当たり、それらを取り除いて行く。きっと、私みたいな軽い人間なら空すら飛べそうな……ドラゴン師匠の魔法だった。
器用さの欠片もなく、一つ一つ取り除くというような精緻なものではない。大雑把に全部吹き飛ばしてしまえ、と言わんばかりの勢いで瓦礫の中が取り除かれて行く。
そして……
久しぶりに見た知り合いが死体だった。
一見すると上半身だけは無事のように見えた。だが、その表情を見ればすぐに分かる。血の気はなく、表情は痛みに引き攣り、口腔からはどす黒い血が未だ流れ出ていた。その背には尖った瓦礫が刺さり、腹より下、下半身が巨大な瓦礫に潰され、吐血と合わさり、周囲には血の華を咲かせている。生きているわけがない。誰が見てもそう思える姿だった。
久しぶりに見た知り合いが泣いていた。
死体に縋りついて泣きじゃくる知り合いの姿が、酷く、酷く心に響く。皇帝の代理として8年もの長い時間、この国を支えるために人としての感情を押し殺し、『皇帝』であった彼女が泣いていた。頑なに、強固に作れられた『皇帝』という名の堰を切ったそれは、止まる事がなかった。『賭けはどうしたのじゃ!』『私が勝ったのだぞ!早く目を覚まさんか!』そんな訳の分からない言葉を紡ぎながら、泣き続けていた。この現実が、現実ではないと思いたいと言わんばかりに。悪夢から目覚めたいと願う幼子のように。瓦礫が取り除かれた事すら気付かず、延々とそんな言葉を繰り返していた。国の為に自らを殺した少女が一人の人間として生き返った。その事にだけは少し嬉しく思えた。けれど、生き返って最初に覚えた感情が悲しみだというのは酷く、悲しい事だった。
そんな少女の悲しさを止める事が私に出来るのだろうか?そんな疑問と共に、自然、足がアルピナ様の下へと向かう。が、そんな私よりも先に、我が物顔で塔へと向かうのは死体の娘。荷物を地面に置き、風に流されるように泣いている少女の下へと向かう。
「邪魔よ、そこのお嬢ちゃん」
いつものように皇帝ちゃん、と言わなかったのはドラゴン師匠も気付いたからだろうか。今この場で泣いている少女は『皇帝という概念』ではなく、ただの人間だと。好いた男が死んだ事に、たった一人のために泣いている少女なんて皇帝でもなんでもない、と。
けれど、そんな少女なんて、ドラゴン師匠にとって興味も沸かなければ、ただただ目的を邪魔する存在であったのだろう。リオンさんの体に縋り付いて泣くアルピナ様を引き剥がし、次いで、ぐいっとリオンさんを瓦礫から引き抜いた。
「ちょっと!?」
肉の裂ける音が耳に残る。
骨の割れる音が耳に残る。
内臓の千切れる音が耳に残る。
血の吹き出る音が耳に残る。
「ん?何よ?どうせ生えてくるし、少しぐらい良いわよ。ほら、お嬢ちゃん。続きやりたかったら、下半身の方にして頂戴……って何よ、幼子みたいに。だらしないわね」
見ればアルピナ様から流れる透明な涙が、紅色に染まっていた。引き裂かれ、飛び散った血がアルピナ様の顔を染め上げていた。そして、現実を思い知らされたからだろうか?その血を受けて、その匂いだろうか?それとも感触だろうか?それを受け、悲鳴と共に感情を持て余したアルピナ様が気を失い、その場に倒れた。本当に、ただの少女のようだった。常に皇帝然としていたアルピナ様とは思えないぐらいに、ただの少女だった。
慌ててアルピナ様に駆け寄ろうとすれば、上半身だけとなったリオンさんを大事そうに抱えて、師匠が戻って来た。大事にするなら瓦礫をどかして抱えてくるべきだと思う。えぇ。
「……グロいです」
「存外、図太いわよね、貴女。そこのお嬢ちゃんみたいに倒れれば可愛げもあるのにね」
「師匠は全く可愛げがありませんね」
「失礼よ。ま、でもだからこそよね。流石、『私の』弟子」
「それはともかくとして、そんな状態でもリオンさんは……死んでないんですか?」
アルピナ様へと視線を向け、とりあえずは無事な事を確認してから、次いで死体に目を向ける。
漂う匂いに吐き気を覚える。洞穴内とは違い、清浄な空間でのそれは思いの外、体に、心に響く。周囲に散らばった拷問器具が尚更にそれを助長していた。
「何がともかくなのよ。失礼な弟子ね。……で、パパだけど、ちゃんと死んでいるわよ。死んでも死なないだけよ。少ししたらちゃんと生えて来て元通りになるから安心なさいな」
「安心は、出来そうにありません」
言い様、死体から視線を逸らす。図太いと言われたものの、どちらかといえば、あまりにあんまりな状況に感情が追いつかないだけだと、そう思う。
「何よ、不出来な弟子ね。……ほら、言っている間に人でなしの再生開始よ」
ドラゴン師匠によって引き裂かれたはずの内臓が、皮膚が、骨が、時と共に再生していく。いいや、まるで、時間が戻っているかのようなそんな錯覚すら感じる。世界の理から隔離されたかのような、時の流れから見放されているかのような、そんな風にさえ思えるほどに奇妙な光景だった。
その姿に忌諱に似た苛立ちを覚えたのは、その現象が自然の摂理ではありえないからだろうか。それとも、大陸を助けるためにがんばった人がこんな風になっているのが許せなかったからだろうか。自分の事なのに、分からなかった。
「ちなみにあっちはその内消えるから、パパが二人とかいう事にはならないわっ」
「ならないわ、とか言われても、何と言いますか……」
何とも言えない。
そんな会話をしている間にもリオンさんは更に再生していっていた。
腹が再生し、下半身に差しかかった辺りで視線を逸らした。そんな私への気遣いか或いは日ごろ服を着ろと言われているかは分からないが、その場にリオンさんを捨て置いて、再びドラゴン師匠が瓦礫の所に行き、下半身を取り出そうとした辺りで、腰から下がこの世界から消えて行くのが見えた。まるで最初から無かったかのように。
けれど、ドラゴン師匠はそんな事分かり切っていた事と言わんばかりに、脱がせる手間が省けたとばかりにそれを持って再び戻って来る。そして、再生していくリオンさんにズボンを……上半身は元々裸だったようで着せる物が無かった……履かせていた時だった。
「アルピナ様っ!」
メイド服姿に身を包んだ女性、メイドマスターが慌てながら、姿を現した。
珍しくも息を切らせているのは急いで走って来たから。それでもスカートを乱さない仕草は流石だという場違いな想いを抱く。ともあれ、本来であれば学園長が来るべき所にメイドマスターが来たのはきっと学園長が城にいなかったから、だと思う。
そんな風に冷静に分析という程でもない分析をしていれば、メイドマスターがドラゴン師匠を目の当たりにして、足を止めた。
「マジックマスター様!ご、ご機嫌うる……あぁ、じゃないっ。アルピナ様をご存知ではありませんか?」
一瞬、輝く様な笑みを浮かべた事に相変わらずだなこの人、と思った次の瞬間には表情を硬くし、アルピナ様について問い掛けてくる。恐る恐るだったのはきっと城の中から塔の倒壊が見えたから、だろう。
「あぁ、お嬢ちゃんならそこにいるわよ」
瓦礫の上で血まみれになって倒れているアルピナ様の姿に、メイドマスターの表情が引き攣った。
「今は気を失っているけど、五体満足よ。私のパパの御蔭で。『私の』パパの御蔭で!」
その自慢げに胸を逸らす仕草が、大変、鬱陶しい。
アルピナ様に一切の怪我がない事からリオンさんが庇ったという事は分かる。故に、リオンさんをパパ大好きなドラゴン師匠が持ち上げるのも分かる。が、その娘である所のドラゴン師匠が何をやったかといえば、アルピナ様の気を失わせただけである。
じっとり、と責める様な視線をドラゴン師匠に向けても、ふふん、と偉そうなだけだった。鬱陶しい事限りない。まぁ、でも、ずっと泣き続けるよりは意識を失っていた方が良いのかもしれない……。とりあえず弟子である私は、師匠の功績は認めてあげない事にしようと思う。えぇ。
ともあれ、そんな事情を知らないメイドマスターはドラゴン師匠の言葉に見るからにほっとした様子を見せた。
「ま、後は任せるわ。それであれよ。パパは死んだし、もう連れて行っても良いわよね?嫌と言ったら倒壊させるけど」
何を、と聞く必要もない。城を、だ。
「あ……はい?」
アルピナ様の下へと走りだしそうなメイドマスターが首を傾げ、視界に入ったのだろう。いや、より正確に言えば漸く認識したのだろう。ドラゴン師匠が抱えるソレを。そして、僅か、顔を歪めた。きっと職業柄死体を見慣れているにもかかわらずそんな表情を浮かべたのは、先程から珍しく色々な表情が顔に出ているのは、今の状況が故に、だろう。
「……もしやアルピナ様をお庇いになって」
「そそ」
そして、ドラゴン師匠はメイドマスターからの返事を待つ事もなく、荷物を手に、リオンさんの腕を引っ張り、ずり、ずりと引き摺って行く。もはやこの場には用もなければ興味もないと言わんばかりに。
「あの……」
そんなドラゴン師匠に声を掛けようとして、掛ける言葉が見つからなかったのだろう。メイドマスターが、口を開いては閉じて、を繰り返す。
「メイドマスター。リオンさんは大丈夫ですから今はアルピナ様のことをお願いいたします……」
「死んだのですよね?どこが大丈夫なのですか……」
アルピナ様やマリアが悲しみますね、そんな風に付け加えて、悲しげな息を吐いた。
「いえ……その。見れば分かると思いますが」
ドラゴン師匠にずりずりと引き摺られながらも、体が再生しているのが見える。
「まさか、再生しているのですか?……そんな馬鹿な事が。死んだのに?いえ、生きていてもあんな再生の仕方……」
メイドマスターが呆然と、口に手を宛て、呟く。リオンさんが死なないのを知っていた私でもやはり見間違いか、と思ってしまうぐらいなのだから尚更だろう。
「はい。だからこそ、リオンさんは色々と知っていたのです。ずっと、ずっと……」
「だから、あの絵に……ディオーネ皇帝時代にどなたからか賜ったという絵にマジックマスター様が……」
僅か怯える様な、震えるような声だったのは、それも致し方ない事なのかもしれない。
「はい。リオンさん達と私達の生きる時間は違うようです」
私達からすれば途方もない時間を、永遠に近い時間を生きているのだ。だからこそ、何でも知っていた。種が分かれば、何のことは無い。直接、見聞きしているだけだ。だが、その種自身が分からないのが問題だったのだ。
「拷問をした所で何も出てこないわけですね……間違っていたのは私達、という事ですね」
ため息に似た言葉だった。
けれど、それでも再度、ドラゴン師匠の方に視線を向け、引き摺られるリオンさんに目を向けているのは流石だった。伊達や酔狂でこの人はゲルトルード様のメイドをやっているわけではないのだろう。得た情報を確実に伝えるために、真剣な表情でリオンさんを見つめていた。それに、である。ディオーネ皇帝というのは初めて聞いた名前だった。きっと、絵画を見た後にメイドマスターはその出典を調べたのだろう。だからこそきっと、理解できたのだ。そうでもなければ、こんなに察しが良いわけがない。
「私達が許されないのは分かっております。何と言って……」
「悪いのは言わなかったリオンさんなので大丈夫です。聞いてもきっと荒唐無稽過ぎて信じられなかったと思いますけど……。とはいえ、あれを見れば……強制的に理解できそうです。まぁ、大丈夫なリオンさんの事はさておいて、今はアルピナ様を。そして、アルピナ様に伝えてください。リオンさんは大丈夫です、と。もう泣かなくて良いです、と」
色々頭を悩ませて、色々考えて、それで辿りついたけれど、でも、きっとあれ以上の証拠はないと思う。もっとも、だからといってリオンさんに死んで、というのは間違いだ。リオンさんは死なないのではない。死んでも死なないだけなのだ。それはつまり、一度死の苦しみを味わっているという事なのだから。だから、一度死んでみて下さい、なんてそんな事言えるはずもない。
死んでしまう程の痛みを受けて、それで生き返る事はどれだけ辛い事だろうか。想像なんて出来るはずがなかった。死んでしまうほどの痛みを記憶に残し、それでもなお、生きていようと、大陸を救おうと思い行動するのはどれだけ辛いことだろうか。そんな辛い思いをしてまでがんばらなくて良いのではないだろうか。そんな風にも思う。きっとそう言えば苦笑されるだろうけれど……。
以前、依頼を受けた時に『洞穴で何かをしてやろうなんて思わない方が良い』『それは死に至る誘惑です』そんな事を言われたのを思い出す。そんな事を言った人がずっとずっと何かをしようとがんばって、何度も死んでいるのだから……やっぱりリオンさんは馬鹿だと思う。
けれど、そんな馬鹿な人がいなかったら、リオンさんがいなかったら今の私はいない。今、この世界に住まうその全ては、あの人がいたからこそ、あの人とドラゴン師匠がいたからこそ、存在するのだ。
「後悔は後でも出来るわね。承知したわ……それと、エリザベート様達は無事だから、貴女の方も安心なさい」
メイドマスターの声に、はっとする。
エリザの事もレアさんの事も、心配だけれど、メイドマスターがそう言うのならば大丈夫なのだろう。だから……これから先のことを。悔いる事のないように先へと向かう。
今は、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
神様は、目覚めてしまったのだ。安穏とした夢から覚めてしまったのだ。私なんかを助けるために、無理してがんばって、それで苦しんで。だから……今は先のことを。
「お気遣いありがとうございます。では」
「えぇ、ではまた」
振り返り、先に行ってしまったドラゴン師匠を追う。急ごうと走れば腕からの痛みに自分の状態を思い返す。そういえば、そうだった、と。そして同時に私は生きているのだと、そんな事を思った。
そんな腕の痛みに耐えながら、私は、早歩きでドラゴン師匠の後を追った。
―――
それから暫くだろうか。
街にいた人々は、城が傾いた事に驚きと恐怖を覚えながら、そして街の建物が崩れ落ちたり、傾いたりしているのを悲壮な表情で見つめながら後片付けをしていた。そんな中、時折、武装した集団が見られた。割れた地面の隙間からうぞうぞと沸いて出てくる小さな生物を囲んで殺す。そのために集まっていたようだった。巨大な生物、あの堤防で起こったような酷い数の化物が出てこなかったのは不幸中の幸いだったのだろう。
ここは自殺洞穴を有するトラヴァント街。地面が割れれば、当然、そんな事もあるだろう。だからこそ、そんな街だからこそドラゴン師匠がずりずりとリオンさんを引っ張っていても誰も気にしていなかった。
皆、自分の事で精一杯なのだ。今は誰かを心配している余裕なんてないのだ。
そんな風に皆が慌ただしく過ごしている中を歩き、歩いて町はずれについた頃だった。
「漸くお目覚めね、パパ」
そう言って、くすり、とドラゴン師匠が笑う。
「ティア?」
世界の眩しさに目が眩んだ、というわけでもないだろうが眩しそうにゆっくりと、リオンさんが目を開いた。相変わらず引き摺られたままという姿がなんともいえない雰囲気ではあったが、ともあれ……本当に、嘘偽りなく生き返った。
「そうよ、私よ。ガラテア様よ。貴方の最愛の義娘様よ。あぁ、最愛の一つ下だっけ?」
目覚めたリオンさんに当たり前のようにいつも通り接するドラゴン師匠から、不思議な言葉が出た。その事に私は、自然と首を傾げてしまった。
「まぁ、そうですねぇ」
そして、そんな風に応えるリオンさんにも少し違和感を覚えた。
その違和感の正体といえば、ドラゴン師匠が一番を求めていない事と、そしてリオンさんがそれを認めた事。まるで二人の間にそれを繋ぐ者がいるかのような。それをお互いに簡単に認めてしまえる相手がいるかのような……こんな状況で下世話だと、自分でも思う。しかし、気になってしまったのが最後、そして、少し考えれば、察しが付いた。今ここにいない人……いや、人ではない。『最初の方』の事なのだろう。
永遠の愛を誓う、例えば婚姻を結ぶ際にそんな上っ面な約束を交わす事もあるという。けれど、それを真に体現できるのはリオンさんだけなんじゃないだろうか。二人の短い言葉の端々に、それを感じてしまった。
死が二人を分かつ時が来ても、それでもなお愛し続ける。……それは物語の様な綺麗さだった。けれど、きっとそんな単純な話ではないのだろう。永遠はきっと……長い。ドラゴン師匠が、人でなしのドラゴンが、酒を飲みながら、人のように物悲しげに俯くぐらいには……
「……おや、カルミナさんではありませんか。こんな格好で失礼」
私が、そんな事を考えていたなんて事に気付くはずもなく、呑気な声でリオンさんがそう言った。あまりにも呑気すぎてちょっと苛立ちを覚えてしまったのは許して欲しい。
「お久しぶりです、リオンさん。で、生き返って早々申し訳ないんですけれど、一発ぶんなぐって良いですかね?」
結果、つい、そんな事を言ってしまった。
「痛いのでお断りします」
即答だった。
言い慣れているのかと思うぐらい即答だった。
「じゃあ、後にします」
「せめて怪我が治ってからにした方が良くないですかね?それだと怪我悪化しますよ?」
相変わらずドラゴン師匠に引き摺られながら、リオンさんが私の腕を、包帯に目を向けた。……釣られて私も自分の腕を見る。確かに、これで殴ったら悪化するだろう。
「殴られる側に心配されるというのも変ですけれど……治るまでに覚悟しておいてください」
「そんな覚悟したくありません」
それも即答だった。
けれど、そんな覚悟をしてこの人は神様の下へと向かっているのだ。神様が泣くたびに何度も、何度も。死にながら、生き返りながら。
「そういえば、アルピナちゃんは無事でした?」
そして、誰もが皆、自分達の事を心配している時に、そんな言葉をこの人は浮かべられるのだ。その事が、素直に凄いと、そう思った。まぁ、単に状況を理解しきれてないだけなのかもしれないし、単に他に興味が無かっただけかもしれないけれども……。
「えぇ、リオンさんの御蔭で無事だったみたいです。塔の瓦礫に挟まって分断されているリオンさんの死体に泣きながら縋りついている所をドラゴン師匠が無遠慮にぐいっと引き抜いた結果、噴き出した血の所為で血塗れになって倒れましたが……メイドマスターが駆け付けてくれてなんとかなりましたけど……」
「それは悪い事をしましたねぇ」
「後で謝っておいてください色々と。いやもうあんな取り乱したアルピナ様を見たのは初めてです。えぇ。年相応ですよね、って同い年ぐらいでしたっけ、私。いや、それは良いとして……ともかくですよ、リオンさん。ほんと後で謝っておいてくださいね。色々と。あと私にも」
笑われた。
思いっきり、楽しそうに笑われた。
「今日のカルミナさんは煩いですねぇ」
「失礼な」
そんな私の言葉が、リオンさんの琴線に触れたのか、また、笑われた。
「まぁ、とりあえずお詫びも兼ねて、家についたら食事にしましょう。とっておきの物を出しますよ」
「そんなことで騙されませんよ?……でも、一応聞かせてください。それってモツですかね?」
騙されそうだった。
何もかも忘れて騙されてしまいそうだった。それもこれも空腹が悪いに違いない。と思っていれば本当にお腹が空いて来たからから困ったものである。これは、騙されても致し方ない気がする。
「じゃあ、主食はモツにしましょうか。メインは長い年月熟成された……」
「パパ!私も!私も!」
「はいはい。分かっていますよ、ティア。今日は特別です」
「やった!パパ大好き!愛してる!」
「それってやっぱり、パパの作った酒が、ですよね?」
「……えへ」
顔を逸らすドラゴン師匠に、引き摺られている父親が苦笑していた。
「なんかドラゴン師匠がえらく可愛らしい……」
ずっとこうだったら良いのに、とさえ思えるほどに。
「というか、お酒ですか?私、もう二度と呑まないと誓ったんですが……」
思い出すのはディアナ様の所で頂いたもの。そしてその次の日の二日酔い。御蔭で、身震いしてしまった。あんな事もう二度と体験したくない。
「大丈夫ですよ、カルミナさん。弱い人でも大丈夫ですし、後に引く事もないのでご安心を。傷にも効きますから薬だと思って試しに飲んでみてくださいな」
「えっと、ちなみに原材料は?」
「一言では難しいですが……えっと、最初に作った物は蠅の内臓ですね。そこから色々改良した後に、天使やら悪魔やら、誰かが乱獲した所為で絶滅したトリタマゴとか、店の前にある紅色のアレ、鳥居と言うんですが、あれの塗装が追加したりして中々芳醇な感じに仕上がっております」
「ちょっと!」
何を飲ませようとしているのかこの人は、と言いたい。というか、絶滅したのかトリタマゴ。タマゴドリは現存している事から、トリタマゴの方が美味しかったのだろうか……。さておき。誰がとか言いながら乱獲したのは、この引き摺られている人に違いないとそう思う。えぇ。
ほんと……
「はぁ……」
馬鹿馬鹿しいぐらい、普通だった。
笑えてしまうぐらいに普通だった。
「リオンさんはあれですね。なんというか……ここは悲壮な感じを醸し出して、もうすぐ世界が崩壊するんだ、とか言ってくれると良いんですけれどねぇ」
「はぁ?……と言われましても」
「こう言っては何ですけれど、リオンさんには情緒が無いと言うか」
三度、笑われた。
ドラゴン師匠も、一瞬、呆としたかと思えば、次いで面白そうに、いつものカラカラと馬鹿にしたような笑いではなく、本当に楽しそうに笑っていた。
「何か笑われる様な事言いましたかね、私」
「いいえ。別にねぇ?」
「ははっ。ですねぇ」
意味深だった。
本当に楽しそうな笑いだった。とても、とても楽しそうで、どこか懐かしいそうな表情を浮かべていた。
「でも、確かにその通りよ。パパには情緒がないのよ」
「ちょっと失礼ですよ、ティア。昔よりは情緒はありますよ。ほら、依頼を受けて貰える人がいなくなったら、悲しいですし!」
例えが微妙だった。
「それは、残念なだけでしょう?」
「……そうとも言いますね」
たった一言で論破されていた。そんな馬鹿な事を言いあう二人の、親子の姿を見て、思った。
「ちょっと、何よカルミナちゃん。その可哀そうな物を見る目!」
二人とも情緒がない、と。
―――
社に辿りついた時、その縁側でぼんやりしている白い人がいた。
先程の地震はここまでは影響がなかったのだろう。相変わらず廃れてはいるものの、社が壊れている事はなかった。その事に少しの安心を覚えながら、その白い人に目を向ける。
自身の横に真新しい柄と鞘を携えた例の小刀を置き、手持無沙汰そうにレアさんの栗鼠さんに餌付けしていた。小さなパンを千切っては栗鼠さんにあげ、それを啄ばむ栗鼠さんを嬉しそうに見つめていた。……やっぱり先輩は可愛い物が好きらしい。しかし、どれだけ餌をあげていたのだろう。栗鼠さんが妙にまるっこくなっていた。
「何しているんですか、先輩」
「ご挨拶だなぁ、おい」
掛けた声に、一瞬、驚いたのも束の間、ほっとした表情を見せた後、小刀の下に置いてあった紙を引き抜き、その紙をふりふりと私に見せつけながら、先輩が口を尖らせた。合わせるように栗鼠さんが口を尖らせた。どれだけ構っていたら、栗鼠さんがそんな仕草をするようになるのだろう……。尖った口やパンをほおばった頬がとても愛らしいが、何だか咎めるような視線が痛かった。
「何が貴女の大事なカルミナちゃんは悪いドラゴンに攫われました、だよ」
「いや、私が書いたわけではないので……」
「挙句、傷モノになる前に取りに来る事ね!とか何よ、これ」
相変わらずの先輩の白い肌、その白い頬が少し赤くなっているのが見えた。
「いえ、ですから私が書いたわけでは……」
「全く。全然帰ってこないから心配……はあんまりしていなかったけどさぁ」
「一緒にいるのがドラゴン師匠ですしねぇ」
「まぁなぁ……というかカルミー。その腕どうしたのよ」
「はい。名誉の負傷です。……多分」
「そう。がんばったね」
包帯を巻いた腕を見ながら、先輩が酷く優しい声音で、そう言ってくれた。
「……急に優しいと気持ち悪いですよ、先輩」
「失礼だなぁ、おい。人がどんだけ心配……何でもない」
ふん、と拗ねたように顔を私から逸らしたものの、顔を逸らしたまま視線だけを私の腕へと戻してはまた逸らすという行動を繰り返す。相変わらず真っ白で、相変わらず陽光の下では見辛そうで、けれど、それでも私の怪我の状態を把握しようとしてくれているようで、先輩が私のことを心配をしてくれているのが良く分かった。その事が思いの外、嬉しかった。
そんな先輩の隣へと、私は座る。
ついで、先輩へと顔を向ける。
「ありがとうございます」
「何が、だよ」
再び、ふん、と顔を逸らし、栗鼠さんへの餌付けを再開した先輩の姿に、笑みが零れる。
そんな先輩を見ていると、ふいに、何だか帰って来た、そんな安堵が浮かんだ。
「ところで、先輩」
「なんだよって……おい、カルミー」
「なんです?」
「あれ、店長じゃないか」
「カラスの親はやっぱりカラスなんですかねぇ」
少し遅れてやってきたリオン。社に戻る前に、と二人して行水に行くために分かれたのだが、戻って来たようだった。カラスの如くばたばたっと湖で身を清め、血の付いた服を洗い、きっとドラゴン師匠の魔法で乾かしたのだろう。相変わらず上半身は裸のままだったが、どこから見ても五体満足だった。少し濡れたリオンさんの髪がぺちゃんとはなっていたものの、もはや足まで完全に再生を終えて己が足で立ち、歩いていた。
そんなリオンさんの娘である所のドラゴン師匠はまだ行水中なのだろう、姿が見えなかった。ちなみに妖精さんも洗う、とのことでドラゴン師匠に渡しており、もう私の胸元にはいない。いればきっと先輩の視線は釘付けだったに違いない。えぇ。きっと。
ともあれ、そんなリオンさんが、よっと手を挙げて先輩に挨拶する。
「やぁやぁお久しぶりです。こんな格好で失礼しますねぇ」
「カルミー、事の真偽は別として、流石に囚われている人を勝手に連れてくるのは犯罪じゃないの?」
首を傾げ、可愛らしい感じで、先輩がそんな事を言った。確かに皇帝に捕まえられた人を連れて帰って来るのは犯罪かもしれない。が、
「死ぬまで付き合うとは言いましたけど、死んだら無罪放免、後は良いのかな、と」
そんな事を言ってのけたリオンさんに、先輩が一瞬、呆けた。そんな呆けた先輩を余所にリオンさんは服を取りに行くためにささっと社の中へ入って行く。
「カルミー、大正解」
そうして暫くの後に先輩から、ぱちぱちぱち、と軽い拍手が起こった。栗鼠さんも真似しようとして失敗していた。可愛らしい。
「諸々細かい所は違いましたけどね……1200年どころか2500年ぐらい経っているらしいですし」
「2500って……どっちも遠い昔という意味では同じだよなぁ。何と言うか、全く想像がつかない」
どちらも人間の尺度で理解できる時間ではない。十数年生きただけの私達に、そんな遠い昔を想像出来るはずもない。
自然、社を、鳥居に目が行った。
リオンさん達と一緒にずっと同じ時を過ごし、そして廃れたこれらの物達。このまま時が経てば鳥居も社も朽ち果ててしまうのだろう。けれど、それでも二人はずっと同じまま……そんな事を考えていれば、いつしか空を見上げていた。
空だけは、ずっと変わらず二人を見つめているのかもしれない、なんてそんな詩的な事を思った。
暫く私達の間に無言の時が流れる。
「先輩。細かい所は、後で説明しますね」
「宜しく」
「ところで先輩……」
「何よ?何かあるの?」
「あら、律儀な子ね。ちゃんと待っていたのね。残念ながらカルミナちゃんは傷モノになっちゃったから、約束通り、その子は貴女のものよ!私が許すわ!師匠であるこの『私が』許すわっ!」
そんな言葉と共に鬱陶しいドラゴンが空から現れた。金色の髪が水気を帯びて煌びやか光っていた。目も眩むような、というのはまさにこの事だろう。ゆっくりと天上から降りるその姿は女神のようにさえ思える。もっとも、胸元に妖精さんを挟んでいたり、手に例の銛を持って、その先端に頭陀袋をくっ付けていたり、発言だったりの御蔭で何もかもを台無しにしているのだが。というか、
「師匠、書き置きに何て書いたんですか……先輩もそれちょっと見せて下さい」
先輩が懐に、すすっと紙を隠した。
「ちょっと、先輩」
「大人しく待ってなさいっていうのと、傷付けたらこの子にカルミナちゃんをあげるって書いただけよ?」
「何かさっき先輩から聞いたのと矛盾している気が……」
「身の程を知らないなら追いかけてくる事ね、とかは書いたかもしれないわね!もう覚えていないけど!」
適当だった。だが、ドラゴン師匠にしては割と気遣いのある言葉に思えた。
先を行く人を追い掛けて、追い掛けていた人が死んでしまう。そんな事もあるだろう。もしかしなくても最初は追い掛けようとしてくれたのだろうか?追い掛けたいという気持ちを抑え、心配を抱えながら、ずっとこうしてここで何日も私のことを待っていてくれたのだろうか?
「ありがとうございます、先輩。心配掛けてしまいました……」
「ふんっ」
逸らした顔が、やっぱり赤く見えたのはきっと私の見間違いじゃないと、そう思う。
「それはそうと、パパは……と、確認するまでもなかったわね」
「やぁやぁ、ティア。ちょっとぶりです。水も滴る良いドラゴンですねぇ」
「何よ、照れるじゃない、パパ」
そんな言葉と共にリオンさんが社の内側から戻って来る。着替えた姿、割烹着姿を見れば、いつものリオンさんの出来上がりである。ようやく、キプロスにその主が帰って来たのだ。これにて私の店長代理も終わりだと思うと、一抹の寂しさを覚える。リオンさんが戻って来たのは良い事だけれど、でもちょっと残念だな、と思った。
「というわけで、ですね。お約束通り食事にしましょう。白い御方もどうぞご一緒に」
「ん、お誘いとあらば、ありがたく頂くよ。心配事もなくなったしねぇ」
ちらっと私に視線を向け、苦笑を浮かべていた。
「ちなみに、そこのまるまる太った栗鼠さんは……」
「その子はレアさん……エリザの妹の栗鼠さんですからね。食材じゃありませんからね!」
「……分かっていますよ、カルミナさん」
言い様、視線を逸らされた。絶対、分かっていなかったと思う。危うく、先輩の所為でまるまると太った栗鼠さんが今日の夕食になる所だった。
「エルフに比べれば栗鼠は万倍も美味しいと思うけど、良かったわね、あなた。カルミナちゃんに食べられなくて」
ドラゴン師匠が栗鼠さんを見て笑っていた。結果、当然のことであるが、栗鼠さんは怯えて身動き一つ取れず、である。あぁいや、語弊があるか。怯えて、震えていた。
「師匠。私がなんでもかんでも食べると思ったら大間違いですよ!」
ちなみに、美味しいと聞いてちょっと心が動いたのは誰にも言えない乙女の秘密である。
「カルミナちゃんは食べるでしょう?貴女って、パパと同じで雑食でしょう?」
呆れたように、見下すようにドラゴン師匠が言ってのけた。
「カルミーはほんと何でも食べるよなぁ」
震える栗鼠さんを白い手で撫で撫でしながら、先輩がそんな事を言ってのけた。
「失礼ですよ、二人とも!ほら、この間だってあれは食べなかったじゃないですか。あの変な鼻」
「そんな稀有な例を出されてもなぁ」
先輩を襲おうとしたあの変な生物の鼻。あんなもの、食べてやるものか。なんて思ったのは……なぜだったろうか。自分でも、今一、良く分かっていない。別段、鼻だろうと何だろうと美味しく食べられればそれで私は良いはずなんだけれど……などと、そんな事を考えていた所為だろう。
「いえいえ。カルミナさん。何でも食べられるという事はとっても良い事です。新作を作ったら是非ご意見を伺いたい所です」
「あ、それは是非」
反射的に、満面の笑みを浮かべて答えてしまった。
結果、二人からの視線が痛くなった。
「では、折角なので外で食べるとしましょう」
しばしの沈黙の後、リオンさんがドラゴン師匠を呼び寄せ、声を掛けたかと思えば、私の荷物と甲羅と胸元に挟まれていた妖精さんを受け取ってリオンさんだけが再び社の中へと戻って行く。銛に関してはリオンさんも持てないようで、その場に捨て置かれた。そういえば、テレサ様が出てこないな、とそんな事を考えていれば、先輩が小声で私に問いかける。
「なぁ、カルミー。この人達、なんでこうも普通なのよ?……いや、片方はドラゴンだけどさぁ。拷問されて死んで、それで何でこうも普通でいられるのよ」
それはさっき私が思った事と同じ事だった。
誰だって思うだろう。リオンさんは嘘偽りなくただ言葉を尽しただけで捕えられ、拷問され、挙句の果てに死んだのだから。そしてドラゴン師匠は大好きなパパを殺されたのに、だ。
死んだ事を恨む事もなく、殺した要因に怒りを覚える事もなく。いつも通り。普段通り。そんな二人の姿に違和を感じても当然だと思う。
きっと、死ぬ事も殺される事も彼らにとっては日常で。だから、それで感情が揺れる事はないのだろう。悲しい事だと、そう思う。けれど、そんな同情の念すらもリオンさん達にとっては瑣末な事に違いなかった。同情されたとしても結局、同情した者が先に死んでいくのだから。二人の生きた時間からすれば刹那でしかない同情なんて、何の意味もないのだろう。鳥の囀りの方がまだ、二人には届くのかもしれない。
「お二人ですし……」
だから、それ以外に言える事などなかった。私にはリオンさんやドラゴン師匠の気持ちは分からない。想像するしかない。けれど、それも所詮、私の想像で、だから、きっと違うのだろう。確信を持って言えるのは、精々、ドラゴン師匠が、大好きなパパが死ぬ事よりも、天使やエルフ達への怒りの方が強いと言う事だけだ。
「……あぁ、うん」
先輩も納得したようだった。空を見上げ、どこか呆れた様な表情を浮かべながらも、確かにそれ以外にないよなぁ、と苦笑していた。きっと先輩にも分からない。人間同士だって同じ時間を生きて、一緒に生活していても、それでもお互いを理解できないのだから尚更だ。
「それはそうと、先輩」
頭を振り、気分を変える。
「あぁ、何?さっきから何か言いたげだったけど」
小首を傾げ、不思議そうな顔をする。何、口ごもってるのこの馬鹿、と言いたげだった。いや、別に口ごもったわけではなく、件ののんびりした二人に邪魔されただけである。
「お城に行かなくても良いんですか?」
「なんでよ?今から食事だろ?」
不思議そうな顔をされた。それで確信したのは、やはりこの場は揺れていなかったという事。だったら、言わないわけにもいかない。だって、先輩が心配しないわけがないのだ。私の事ですら心配してくれた先輩が、ゲルトルード様の事を心配しないわけがないのだ。
「いえ、さっき物凄い揺れがあって、塔が崩れたというか城が傾いたというか、割れたというか……あぁ、リオンさんは拷問で死んだわけじゃないみたいですよ。塔が崩れて瓦礫の下敷きになったから死んだみたいです……いやぁ、あれはグロかったです」
そんな私の戯言染みた言葉を、先輩は途中から聞いていないようだった。
「……行ってくる」
私がまだ話している途中から、横に置いた小刀を腰元に挿し、私が言い終わると同時に、立ち上がり、駆けて行った。
あっ、と言う間もなく鳥居を抜け、木々の隙間を颯爽と駆け抜けて行った。自分で言った手前、確かに行くとは思ったけれど、それでも何だか置いて行かれた気分である。
ついつい、先輩を追おうと手が伸び、腰が浮きあがったのは……だから、その所為だ。けれど、先輩の姿はもう見えず、伸ばした手が届く事はなかった。
ハァ、とため息一つ、痛む腕を下ろし、次いで腰を下ろせばケタケタと笑う声が聞こえて来た。
「折角あの子にあげたっていうのに。振られたわね、カルミナちゃん」
「煩いです」




