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自殺大陸  作者: ししゃもふれでりっく
閑章~パンとドラゴンがあっても、神様を食べればいいじゃない~
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第10話 永遠の長さ

10.



 雪の降る日だった。

 降り積もる雪が社を白く染めて行く。最初にこの場所に訪れた頃より少し古ぼけたその社との付き合いも長くなってきたものだ、と彼は苦笑する。

 これで何度目の雪の季節だろうか。

 周囲に立つ木々は白く染め上げられ、紅色の囲いもまた、白く染まって行く。今ならば、その塗装を剥いで食材にもできるだろうか。


「まだ難しいですかねぇ」


 呟き、感慨深げに柱に手をあてる。しばらく呆とそうしていれば彼の手を、雪が白く染めて行く。降り積もった雪を食べたのももはや懐かしいとすら感じる程に前だった。

 腕に積った雪を払い追い落とし、はらはらと落ちる雪を産みだす空を、曇天模様の空を見上げる。

 パンドラが目を覚ます事なく、眠り姫の如く延々と眠り続けて早二十年という月日が流れていた。あの頃と比べれば、彼の年齢も倍程になっている。それだけの時間が過ぎた。彼女と一緒にあった時間はとても短い時間であった。束の間のように短い時間だった。

 それまでの人生と同じ時間、あるいはそれ以上だろうか。ただ彼女が目覚めるのを待っていた。幸せな時は一瞬で、辛い時は永遠で。そんな戯言が真実かのようにさえ思えるぐらいに。

 だが、それでも彼はそんな自分を憂いた事はない。

 眠り続けているという事は死んでいると言う事ではないのだから。

 人生の半分以上を、彼女の為に遣っている事も別段彼は気にしていなかった。彼にとって彼女は世界でたった一人の妹。たった一人の彼女の為に神様すら殺してみせたのだ。たかだか二十年ぐらい目を覚まさなかったからといって、彼が諦めるわけも、見捨てるはずもなかった。


「ウェヌスさん、ウェヌスさん。あれは……」


『うん。お母さんだね。珍しいね、入口で……貴方を待っているのかな?』

 彼の肩、耳元で小さく翅を震わせながら口を開いたのは、洞穴で蜘蛛に囚われ死んでいた小さな個体であった。俗称としては妖精、と称するようだと彼が知ったのは神殺しを行った後、ガラテアにお願いして天井に穴を開けて貰い、地上へと戻り、パンドラの母に聞いた時の事である。

 耳を澄まさなければ、風の吹く音や翅音にすら消え去ってしまいそうな程に小さい声。その声は酷く穏やかな物だった。優しげでもあった。そんな声を出すのが悲しみに自らを殺そうとしていた元神様であるという事は、彼にとっても信じがたい事だった。が、彼女自身の言を元にすればその妖精は元神様であるのは間違いなかった。そもそも、あの時に捕まえた小さな妖精は死んでいたのだから、そんな事でもなければ生き返る道理もない。


「まぁ、他に誰がいるという話ですが」


『うん』

 彼の語り掛けは、傍から見れば、まるで独り言を言っているようだった。

 パンドラの作り上げた物語から再び名を借りて、ウェヌスと名付けた妖精に神様であった時の記憶はない。全く無いか、と言うとこれもまた違うようだった。夢の中で自分は神様であった、そんな風に他人事のように彼女は自分という存在を認識している。神様が嘆いた意味も、物語のようには理解しているが、実感としては理解していない。彼女の中に残っているのは、いいや、彼女にあるのはただ、誰かを助けたいと願う思うぐらいのもの。失った友人であるエルフの神様を想い、その代償として誰かを守ろうとしているのだろうか?それとも我が子である人間が傷付くのが見ていられないという事なのだろうか?その真実は誰にも分からない。ウェヌス本人すら理解していない。ただただ傷付いた者がいればその者の所に行き助けたいと願う生物。今の彼女はただ、それだけの存在だった。

 どこかの誰かのために、そんなウェヌスの姿に妹を思い浮かべ、いつものように苦笑する。煩い妹が目覚めない事が思いの外、寂しいのだろうか。残念なのだろうか。曖昧な自身の感情を、しかし、否定する事は、彼にはできなかった。

 そんな彼の感情の流れを理解したのか、ウェヌスは肩の上から彼の顔を見上げていた。そんな小さな彼女の視線を感じ、リオンはウェヌスへと視線を向ける。どうかしましたか?と。

 見れば見るほどに小さな妖精だった。蜘蛛の巣に囚われ最初に死んだのも分かるというものだった。酷く弱いこの個体を神様が選んだ理由もまた、彼には理解できない。一番近い場所にたまたま五体満足の死体があったから、そんな単純な理由かもしれない。考えるだけ、理解しようとするだけ無駄だった。所詮、彼は彼でしかなく、相変わらず料理の事ぐらいしか分かり得ないのだから。

 だが、そんな彼とて考える事はある。もしかするといつかまた神様は目覚めるかもしれない、と。ウェヌスが神様の嘆く理由を理解し、実感を取り戻して眠りに付き、代わりに神様が目を覚ますかもしれない、と。或いは、時の流れと共に夢から覚めるように、時間が過ぎれば目を覚ますかもしれない。幸せな夢ならば尚更そうかもしれない。楽しい時は一瞬でしかないのだから。そんな懸念だけは彼の中にも、そしてウェヌスの話を聞いたガラテアにも残っていた。


「そういえば、ティアはそろそろ帰って来るんですかねぇ」


 ここにはいない義娘を脳裏に思い浮かべるながら、首を傾げる。

『ひぃぃ』


「大丈夫ですよ。食べられませんて」


 成長したガラテアは彼にべったりという事はなくなり、一人で行動する事が多くなってきていた。彼自身、義娘をここ一月程見ていない。放浪娘がどこに行ったのかは彼も知らない。ふらっと出て行っては帰って来る。ここ十年近くはそんな感じだった。いつも通りであれば、そろそろ帰って来る頃であろう。母親の墓所の掃除だけは欠かさない良い子だから、などと親馬鹿な思考をしていれば、焦れたのか社の入り口に居たパンドラの母が駆け寄って来た。


「―――リオンさんっ!」


 ぱたぱたと駆ける姿は見ている彼が心配になるほど酷く危なっかしい。慌てている様子だが、しかし、地面を覆う雪に足を取られ、時折こけそうになっていた所為で歩いているのと大差ない速度だった。どうにも気持ちだけが先走っているようである。

 そんな彼女との付き合いも長くなった、と思う。そして、同時にそういう所は相変わらずだ、と彼は苦笑する。姿形も昔と変わらず若い娘のようであり、彼と並べばそれこそ兄妹のようだった。

 見ていないと危なっかしい年上エルフを待っているのも忍びない、とウェヌスを一瞥した後、彼も彼女へと近づいていく。

 歩くたびに地面を覆う雪が僅かに沈む。いつも通り腰には包丁を、肩には頭陀袋とウェヌスを乗せて。


「どうかしました、ユーノー君?外に出ているなんて珍しいこともあったものです」


 ユーノー、そう呼びかけた彼の目の前で、彼女、ユーノー=ミノア=コスキーは胸に手を宛て、動悸を押さえていた。

 そんなに距離がなかったのに流石である、などと思っていた事はおくびにも出さず、彼女の動悸が収まるのを待つ。だったら初めから待っていれば良かったのに、というのも彼は口に出さなかった。


「―――パ、パ……ハァ、ハァ」


「いえ、貴女にパパと言われる筋合いは」


 ぽり、ぽりと猫の耳のような髪を掻きながら、さてどうしたものか?とパパと言っているエルフに目を向ける。

 例えパンドラの誕生を願っていなかったとしても、彼女とて母親という自覚はあるようだった。あの日からリオン達がいない時には彼女が一人でパンドラの面倒を見ていた。その事には彼もとても感謝している。そして、エルフ達がここに近寄らなくなったのは彼女の功績といえる。これもまた、彼は感謝していた。

 パンドラを殺そうとして神様に殺されて『死んだ事にされている』エルフ達の事、そして神の嘆きが止まったことで、当面、パンドラが生贄として捧げられる事はなくなった。信心深いエルフ達は、これ以上パンドラに構って神の怒りに触れる事を恐れた。それが原因で再び、神が怒りと共に世界を、我が身を壊す事などもってのほか。故に、パンドラに触れぬようになった。特に信仰心の高かった一部のエルフに至っては森から姿を消したともユーノーから聞いていた。

 もっとも、またいつ何時、パンドラを生贄として利用しようとするかは分からない。人間の神に怒りを買うかもしれないと知りつつ、それが罪であると理解しながらパンドラを作り出したのはエルフなのだから。それこそ神の眠りが覚める事と同じぐらいに、いつエルフ達の気分が変わるかは分からない。それがいつかは流石にユーノーにも分からない。そもそも彼女はパンドラを産ませるために選ばれた生贄であるのだから、尚更だった。畜生扱いをしている人間を相手に、強制的に子を孕ませられたのだから、彼女の扱いなんてそんなものだ。

 ともあれ、当面はエルフ達がパンドラに触れる事はないだろう。

 だが、直接手を下さなくとも、都合の良い存在を巧く利用しない手はなく、相変わらずパンドラを利用しているのは事実だった。

 エルフ達の今のパンドラの使い方としては、エルフの『罪』は全てパンドラにあるとするものだとユーノーはいう。エルフは善であり、パンドラは悪である、と。それは小さな集落をまとめるための施策であり、曰く、『悪い事をしたらパンドラのようになる』と。神の嘆きを越えて、尚更に種族保存の意識が高まったのだろう。昨今は、産めや増やせやであり、産んだ子にはそうやって教えながら育てているとのことであった。

 社の地下に、函に閉じ込められたエルフ達の『希望』はもはや失われていた。もっとも二十年前にガラテアによって函は壊されたのだから、それも当然なのかもしれない。いや、彼女はまだそこに居るのだから変わらず『希望』は残っているといえようか。

 今の内にパンドラをどこかに移してしまおうか?そんな事を彼らも考えた事がある。もっとも、それが出来るなら最初からパンドラを連れ出している。きっと目を覚ませば心砕きながらもエルフの為に牢にいる事を是とする妹のなんと馬鹿な事だろうか。再三連れ出して行こうか?と思いながらも彼女の意志を優先する辺り、兄馬鹿であった。もっとも、神様ですら殺して見せたのだ。彼女が死を受け入れるというのならば、世界が彼女に死ねというのならば、彼にも思う所はある。

 そんな事があった結果、他のエルフが近寄らなくなったのを良い事に、彼らによって地下牢は色々と変化を遂げていた。鉄格子は全てガラテアによって引きぬかれ調理器具の材料にされていた。もはや、牢とは言い難い場所になっていた。地下にある家と言った方が良いだろう。見つかった瞬間に大変な事になるかもしれないが、しかし、エルフがこの場に近寄る事をガラテアが許す事も、もはやない。妥協案としてここに住むのは良い、けれど他の生物が近寄る事を彼女は二度と許さない。もっとも、パンドラの言う事など聞かないと言っている以上、妥協する謂れもガラテアにはないが、所詮、ママっ子であり、パパっ子である。『パパに言われたら仕方ないじゃない。またお酒作ってくれるって言うんだから仕方ないじゃない!』という酷くどうでも良い妥協理由を宛がわれたが故に、ここに家を作る事にガラテアは賛成していた。安いドラゴンである。

 酒に弱い義娘の、将来の心配はさておいて、彼女がいない時にエルフ達が現れる事もあるだろう。そこはガラテアに後を任された彼の肩に住んでいるウェヌスがそれを担う事になっていた。

 ドラゴン程強くはない。だが、エルフよりは弱くはない。元より軽量ではあるが、妖精自体の戦闘能力は非常に高い。傷一つで爆発するような生物を相手に負ける事もない。……もっとも、ガラテアに色々と虐められた結果、トラウマになったのか対ドラゴンでは役に立たずである。がくがく震えて怯えるばかりである。

 そんなウェヌスの普段は、祈りに費やされていた。パンドラが目覚める事を願い、祈る。ただそれだけに費やされていた。

 傷付いた者がいればその者の為に延々と祈りを捧げる。ウェヌスは例え、永遠の時が掛ったとしても祈り続ける事に苦はないのだろう。二十年の間、ウェヌスはずっとパンドラのために祈りと舞を捧げていた。朝になると社の前にある囲いの辺りで延々と舞う。夜になれば松明の光の中で祈りと舞を捧げていた。誰に宛てた祈りでも舞でもない。ただ、ただ祈っていた。

 パンドラの心が癒える時を。

 そう。

 パンドラの心は、傷ついていた。

 目が覚めれば、死にたくないけれど死ななければならない世界だと彼女はまだそう思っているのだろう。時折、魘され首を掻き毟り、喉が焼けるのを何度彼は止めた事だろうか。数え切れない程、なのは間違いなかった。寝入る前に受けた甘い毒が、パンドラを苦しめていた。夢の中ならば優しい世界にいられるのだから。神様のように嘆きながら世界を壊す事もなく、自分の産まれに、状況に憂う事なく安穏と過ごすことができる。自分がいなくなっても誰も生贄に捧げられる事はなく、外にも出られるだろう。悪い目でも綺麗な世界を見られるだろう。あるいは旅をする事もできるかもしれない。

 そんな安穏を捨てて、目覚める事にどれほどの意味があるのだろうか。

 ずっと彼女一人であれば、大丈夫だったのだろう。けれど、強固な、それこそ誰にも壊される事のない強い強い壁が、彼らとの生活で少しずつ壊れて行った。水滴が岩を穿つように、優しい毒が彼女の壁を壊したのだ。だからこそ、それを願ってしまった。死ぬ事のない世界を。安らかに過ごせる優しい世界を。その世界に居続ける事を。

 想いは叶わないと知りながら生き続ける事はどれほど辛いのだろうか。だったら、安穏とした夢の世界へと逃げたいと願うのは当然だろう。

 そんな彼女を、馬鹿な子である。

 そう彼は思っていた。

 もう憂いは無い。もう死ぬことはないのだ。パンドラが死ぬ事で喜ぶ者などいない。切り札として、エルフ達の派閥の中で利用される事はあれど、今の状況を思えば、殺してしまう事にはあまり意味はない。あるとすれば、彼女の他に混血のエルフが存在する場合のみだ。今の所、そういった者達がいるという話をユーノーからは聞いていなかった。加えて、特に強くパンドラを生贄としようとしていた急進派とも言うべき者達は、その信心故に森から去っている。パンドラに傷を付けて死んだ者達の所為で自分達は神の怒りを買ったのではないか?逃げた方が良いのではないだろうか?そんな下らない馬鹿馬鹿しい理由であった。もっとも、それは彼女が生贄に捧げられる可能性が更に低下したという事でもあり、彼らにとって都合の良い事であったが故に、彼らが森を出て行った事なぞ、特に気にする程のものでもなかった。

 いつまで経っても目覚めない妹。

 それをずっと見守っていた母親が、今ここにいる理由。

 それは、


「―――パンドラがっ!」


「ミケネコ君がどうしました?」


「―――目をっ……」



「まったく。マリオンって酷いよね。鉄格子をなくしちゃったらどこまでが牢かわかんないじゃない……私はここまでは出て来られるようになるじゃない」


 懐かしい声が彼の耳に響く。



「じゃあ、最初から抜いておけば良かったですね。あぁ、何なら社ごと壊せば」


「それは駄目」


 社の入り口。そこから出ないように、相変わらずそんな馬鹿な枷を自分に掛けながら、彼女はその入り口から、その陰から顔を出し、その場に、軒先に座った。


 焦点のずれた瞳が、陽光の下。

 彷徨いながら、彼を探していた。



「やぁやぁ、ミケネコ君。おひさしぶりですね」


「そうじゃないでしょう?」


「そうですね。御帰りなさい、ミケネコ君」


「ただいま、マリオン。ちょっと遅くなっちゃったね」


 彼が社の階段を昇れば、その音に、その風の流れを理解したのか。律儀に彼がその階段を昇り終えるのを待って、パンドラの横に辿りついた時を見計らったかのように、パンドラはリオンへと抱きついた。

 それを、自然と彼は受け入れる。

 相変わらず、小さな体だった。

 その彼女を胸の内に抱きしめ、幼子にするように、曖昧な色をした髪をゆっくりと、撫でる。

 お帰りと伝わるように。待っていたと伝わるように。優しく、それこそ食材以上に気をつけながら、傷付けてしまわないように。髪を撫でる。

 左手で。



――――




「ちょっと、マリオン。腕、あれ?最後にみた記憶が正しければぶっとんでったような気がするんだけどというか、折れ曲がってたよね?」


 抱きしめられて数秒後の話である。あるいは抱きしめてから数秒後のことである。


「あぁ、生えました」


「生えましたって……爬虫類じゃないんだから」


「言葉通りです。まぁ、でも確かに爬虫類っぽい感じですよね。自分でもそう思います」


「ティアじゃないんだから。……あと、マリオンの肩にいるそのちっちゃい女の子、何?もしかして、また浮気なの?」


「何を仰るミケネコ君。この方は妖精のウェヌスさんです。なお、中身は神様です」


「ちょっと何を言ったの今」


「はっはっは。ちょっと神様に会いに一番下まで行ってきましたら、なんかこう。巨大な脳みそみたいなのがあったので喰ったり、喰わせたりしていたら、産まれました。いえ、生き返りました、ですかね?」


「もうちょっと正確に伝えろ、この馬鹿」


「……面倒くさいですねぇ、ほんと、ミケネコ君は。ちゃんと書き残してありますから後で見せますよ。……いえ、そういえば書いてなかったですねその辺り。どうしましょう?ウェヌスさん」


 問うリオンに、さぁ、と小さな首を傾げられた。


「ちょっと!」


「ともあれ、ですよ。ミケネコ君。この子とティアの服をお願いしますね?起きてばかりで申し訳ありませんけど」


「まぁ、それは構わないわよ。こんな可愛らしい子に麻袋をかぶせる貴方のセンスが私には許せない……で、ティアは?」


「さぁ?一か月前に旅に出たっきりですねぇ。そろそろ帰って来るんじゃないですか?ほら、きっと今日あたりに」


 パンドラが社の軒下とはいえ、外に出ているのだ。どれだけ離れていてもその臭いを感じて戻って来るだろう。鼻の良い子だから、などと言う阿呆な事を考えていれば、パンドラに訝しげな表情をされるリオンである。


「パパ大好き!なティアがマリオンと一カ月も離れる事が出来るようになったの?」


「えぇ。あの子も大人になりましたしねぇ。もう、子離れも済ませていますよ」


「親離れはまだまだ先、と……って。マリオン。それだと答えになってないよね?」


「なってませんねぇ」


「ちょっと」


「まぁそれはともかくとして、今はティアより、ウェヌスさんと一緒に居る事の方が多いですねぇ」


「やっぱり、浮気なのね」


「浮気も何も……いえ、なんでもありません。とりあえず、雄か雌かも分からない妖精さんですよ?食べるならまだしも」


 瞬間、ウェヌスが拳でリオンの頬を殴った。

 がきり、と骨の折れるような音が鳴った。


「痛いですねぇ」


 右手で頭を押さえながら、不満気にウェヌスへと顔を向ければ、ウェヌスはぷいっと顔を逸らす。


「なんか凄い音がしたんだけど、大丈夫?」


「あの世が見えました。まぁ、その辺りも書いて……はありませんので、後で話しますよ。腕が生えた理由でもありますしねぇ」


「……結構、経ったのよね」


「えぇ。二十年ぐらいは経ったんじゃないですか?」


「うん。お母様からそう聞いている……お母様、どちらに?」


 そんな二人の会話を聞いて手を口元に宛てながら、小さく笑みを零していたユーノーが踵を返す。向かうのは社の外、囲いの外。森の中へと。


「―――席、外しますね?存分に甘えなさい」


 柔らかく声を掛けるユーノーを見上げるパンドラ。並んだ二人は、本当に姉妹のようであった。


「何の気遣いですか」


「―――水入らず、ですよ。パンドラ」


「それこそ何の気遣いですか」


 兄妹水入らず、であろう。

 うんうんとユーノーの言葉に頷くリオンであった。

 そんな訳知り顔の二人に呆然とするパンドラを余所に、ユーノーは森へと、エルフの集落へと向かっていった。嬉しそうな、珍しく嬉しそうに笑みを浮かべながら。


「で。久しぶりに見たのに何でそんなに若いのよ。何?どんなもの喰ってるのよ。ってあんたに聞いた私が馬鹿だった!」


「えらくテンションが高いですねぇ、ミケネコ君」


「……その辺りの説明もあるの?」


「ありますねぇ。同じ理由です。実践するのが一番なのですが、まぁ私も痛いのは嫌なので……あいや、つい今さっき実践されましたけれども」


「良く分かんないけど、じゃあ、後の楽しみにしておくわ」


「永遠に後にしてほしいです」


「死ぬじゃない」


 軒先に座る二人。その片方の肩から妖精が飛び立った。

 嬉しそうな表情をしたウェヌスが、空を飛び、紅色の囲いにて舞う。体全身で喜びを表しながら延々と。

 その姿を追う様にパンドラが視線を向けたが、見えていないのだろう。すぐにリオンの方へと視線を向けた。相変わらず焦点はどこかずれているが、そんな彼女の瞳を見るのも久しぶりだと、リオンは自然、嬉しくなった。


「彼女が、ウェヌスさんです。泣いた神様の見ている夢といえば分かりませんよね」


「うん。まったく。どこかで聞いた名前だってぐらいは分かるけど……まず、その泣いた神様って何?」


「はい。神様は辛くて辛くて悲しくて悲しくて、それで自分を壊そうとしていたのです。怒りなんかじゃありませんでした。とっても、優しい神様でしたよ」


「……そうなんだ。良かった。怖い神様じゃなくて」


「えぇ。まぁ、食べましたけれど。食べさせましたけれど」


「……だよね、マリオンだもんね」


 呆れた様子のパンドラであった。少し眉根を寄せているのは無限に沸いてくる疑問の全てが、『マリオンだし』で納得できそうな自分に嫌気がさしてのものであろうか。

 とはいえ、そんな彼女の心情など彼に分かるはずもなく、彼はただただ言葉を続ける。


「今はもう、自分を殺そうと嘆く事もありません。ですから、ミケネコ君が生贄になって死ぬ必要ありませんよ。ですから、ゆっくり生きて下さい」


「ありがとう」


「どういたしまして、妹さん」


「っ…………知っていたんだ」


「えぇ」


「そっか……」


 俯き、どうにか口を開こうと何度も唇を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返すそんな彼女に、彼は苦笑する。そんなつもりがあって言ったわけではない、と。


「謝る必要はありませんからね。貴女は私の妹というだけで良いんです。それだけが唯一絶対の真実です。私の妹に罪なんてありません。ですから、謝らないで下さい。……それに、兄は妹を守るものですので」


「ありがとう……マリオン」


 肩を並べ合い、お互いの手を握り合い、二人して横に並ぶ。

 暖かい日だった。優しい日だった。

 そんな素敵な日を、二人だけの時間をぶち壊すのは、当然の如く鬱陶しい存在である。

 つまり、うざい、ドラゴンである。


「あーっ!ミケネコだ!パパ!どういう事よ!ミケネコが目を覚ましたなら早く言いなさいよ!」


 竜巻と呼べば良いのだろうか。

 空から、黒い服に身を包んだ絶世の美女が風に乗って降って来た。絵になる光景だと彼は思うし、是非絵画にでも収めてほしい所であるが、描き手である肝心の彼女が見えていないのが残念であった。ちなみに、その美女の両手には天使の死体が掴まれており、嫌な匂いを放っていた。色々と台無しである。


「言おうにもティアがどこにいっていたかなんて私、知りませんし」


「天使狩りに決まってるじゃない」


「それは分かりますけど……そこに置いておいてください。後で解体します」


「ん。お願い」


 カツン、カツンと音を鳴らしながら近づき、近づき切った所でようやくパンドラの視界に入ったのか、入った瞬間、パンドラが驚きと共に喚き出していた。



「ちょっと、ちょっと何よティアなのよね?あのちっこくて可愛いティアなのよね?それが、なに!?何なの!?しかもなにその体型。ばかじゃないの!?ふざけんなよ!?」


「ちょっと何怒ってるのよミケネコおばさん。さすがに意味が分かんないわよ」


「おばさんとかいうんじゃない!あーもうなによ。この耳を犯すような声音。いやらしいわ!それに何よその服!おかしいでしょ!どこがとは言わないけど零れそうじゃない!」


「だって、パパに裸じゃ駄目だって言われるんだもん」


「そりゃそうよ!?」


「ミケネコに貰った服は脱皮してから着られないし。ちっちゃいんだもん」


「脱皮!?脱皮したの!?ティアが脱皮って」


「何よ、私は爬虫類なんだから仕方ないでしょう?」


 胸元を支えるように腕を組み、言い様、見せた流し目が酷く淫靡であった。男であれば誰もが我を忘れ、虜にされるであろう。さながら、紅玉の瞳が作り出す、魔法のようであった。


「何というか、何と言うか。あぁ、あのとっても可愛かったティアはどこにいったの……」


「ここよ、ここ。あ、ミケネコ。目覚めたなら私の服、作ってね。材料はいっぱいあるから何着でも作っていいよ?」


「物凄い作業量をさらっとお願いされた感じがするんだけど!」


「ミケネコ君はほんと、煩いですねぇ。……ほんと、懐かしい」


 笑う。

 人間が、混血エルフが、ドラゴンが、そして神様の移し身が。

 神様だって泣いていたこの大陸の上で。

 笑う。


「さて、じゃあ、あれですね。お祝いですね。復帰祝いをしましょう」


「パパ、私何か手伝う?」


「ティアは例のアレを持って来て下さい」


「良いの?……一度空けたら、全部空けるわよ?全部軒並み無くすわよ?パパが言ったってこればかりは止まらないわよ?止めないわよ?止められないわよ?」


 嬉しそうである。嬉しさに紅色に染まる頬がまた、美麗であった。


「構いませんよ。今日は許します」


「やった!パパ、大好き!愛してる!」


「……パパの作った酒が、に聞こえるのは気のせいですよね、ティア」


「………えへ」


「目を逸らさない。あと、ティアももう良い歳なんですから……えへ、はないでしょう。可愛いのは認めますが」


「だったらいいじゃない!ほら、もっと褒めていいのよ?遠慮なんてパパらしくないわよ?」


「はいはい。ティアは世界一可愛いですよ」


「ふふん!」


 安いドラゴンであった。

 そして、しゃきん、と腰元につけていた仮面を付けて、格好をつけ始めた。


「ちょっと!なんでまだあるのよ。ティア、それは止めて頂戴」


「なんでよ。格好良いわよ?」


「格好良くはないかなぁ」


「ちょっと、ミケネコおばさん」


「誰がおばさんよ」


「パパの妹なんだからおばさんでしょ?」


「……まぁ、そうだけどさぁ」


「それに年齢的にもおばさんでしょ」


「人間だったらね!」


 やいのやいのと姦しく。

 そんな二人を眺めながら、リオンは笑う。

 求めていたから。

 こういう光景を彼は望んでいたのだから。


「ありがとうございます」


 誰かに、そう言いたくなった。

 告げて、楽しくはしゃぐ二人を余所に、彼は地下へと潜る。

 産まれて既に三十数年。

 その間培ってきた全ての技術を使い切り、最高の料理を作り上げようと。

 ただこの一瞬のために。

 後に続くであろう永遠からすれば、瞬きよりも短い、刹那よりも短い時間、限りなく零に近い最高の時を過ごすために。



―――




「夢を見ていたの」


 パンドラが何故目を覚ましたのか。

 そんな予感を感じさせるものは一切なかった。しいて言えば、時折魘されるように自分の喉を掻き毟る事ぐらいだろう。それでも目を覚ます事は無かった事を思えば、何が原因なのかは彼には分からず仕舞いであった。ウェヌスが祈ったからだろうか。それも確かに是であろうが……。そんな事を思いながら、パンドラの言葉に耳を傾ける。


「とても楽しい夢だった。これが現実だったらどれだけ良いか、なんて思うぐらいに楽しい夢だった」


 食事を終えて再び、月明かりに照らされながら、社の入り口に座る二人。語るのは主にパンドラであり、リオンはすっかり聞き役だった。今まで眠っていた分を、近く、しかし、離れていた時間を取り戻すように間を開けず、ずっと喋っていた。時折、咳き込むのは喉が渇いてのものだろう。幾度目かのそれに、合わせるようにリオンは水の入った碗を渡す。


「ありがとう」


 受け取り、パンドラが喉を鳴らす。

 長い年月を寝ていた体。しかし、寝て過ごしていたにもかかわらず、パンドラの体は健康そのものであった。相変わらず華奢であるのは確かだったが、それでも今の彼女からは不健康という印象はない。

 こく、こくと動く喉。

 それを眺めながら、リオンは声をかける。


「ちなみにどんな感じの夢ですかね?」


「秘密」


「……酷い猫もいたものです」


「誰が三毛猫よ。単に、夢よりも今の方が私は楽しいってだけ。だから、言う必要もないかなって」


「夢見るよりも、夢叶うよりも現実の方が良いですか」


「そそ。私はこっちが良いんだよ、きっとさ。どんなに辛くても、死にたいと思う事があっても私はこっちが良い」


「夢は見ない方が良い、と?」


「そこまでは言わないけどさ。今は現実を見ていたいかな」


「言いますね」


「マリオンの変な料理も夢の中じゃ、想像の埒内だしねぇ。いやぁ、起き抜けにあんな変なもの食べさせるなんて、マリオンって酷いよね」


「……ミケネコ君の夢の中で私、何を作ってたんですかねぇ」


「ふつーの料理だよ。ふつーの」


「それじゃあ、目を覚ましたくなるのも分かりますね」


「どういう意味?」


「現実の方がもっと美味しいですからねぇ」


「……格好良いんだか格好悪いんだか分かんない」


「格好をつけてるつもりはないんですが……ティアとは違って」


「やめて。思い出させないで」


 そう言って顔を顰めるパンドラに、ついついリオンは笑う。次いで、社の屋根の上でウェヌスと一緒に酒を飲んでいる義娘を見上げれば、相変わらず仮面を付けて格好をつけているようであった。


「そういえば、いつからああなの?」


「ティアですか?思いの外、最近ですよ。ようやく仮面をつけられるようになったからって、はしゃぎ過ぎです」


「だから、言わないでよ」


「許してやって下さいな。あれでもミケネコ君の事心配していたんですから……山一つ削り取るぐらいに」


「ちょっと!?」


 黒い噴煙と遠くからでも見える炎。炎に包まれた山、それがガラテアの手によって壊されたのは、神が死んで以後暫く経っての事だった。いつまでも目覚めぬパンドラに、それを行った者達への怒りが日に日に募り、怒りを発散すべく突然飛び出して行き、ガラテアは山を壊した。一度で崩れるものではなかったが、鬱憤を晴らすにはちょうど良かったのか、時折そこに赴いては山を削り取っていた。次第、山であったものはすり鉢状に削り取られ、いつしかそこに水が溜まり、木々が生えてきた。そして、その木々が大人になり、その場所が森のようになったのはつい最近の事であった。


「まぁ何やら最近になってエルフさん達がそこに移り住んだらしく、凹んでいました」


「良く殺さなかったわね」


「美味しくないらしいですしね。それに、ミケネコ君が嫌がるでしょう?」


「ありがと。……やっぱり、あんな事されてもさ、私が産まれたのはあのエルフ達がいたからだもの」


「そこだけは感謝しておきましょう。それ以外は私もあんまり感謝したくありませんが」


「ありがとう、お兄ちゃん」


「それちょっと気持ち悪いんで止めてくれます?」


「ちょっと!?」


「ミケネコ君は大人しくマリオンとか呼んでいれば良いんです」


「……そっか。うん。そうだね。今更だもんね」


「えぇ。今更です」


「二十年の間に色々あったよね……」


「まぁ、それなりに」


「色々、教えてね」


「じゃあ、そうですね―――」


 語り部が変わった。

 彼女が目を覚ますまでの二十年以上。その間にあった事、特に印象的であった事柄などは記録に残している。稚拙な文体であり、ただの日記のようなものであったが、パンドラが目を覚ました時に伝えるために彼は色々と書き残していた。それを一つ、一つ読み聞かせながら、怒られ、笑われ、苦笑され、そんな事を繰り返し、時を過ごす。

 緩やかな時間に思えた。

 穏やかな時間に思えた。

 最初に気付いたのは、いつも通り、当然の如くガラテアであった。


「パパ」


 屋根の上に立ち上がり、眼下のリオンに声を掛ける。

 掛けられた声にリオンがガラテアを見上げれば、一瞬の内にその手の内に小さな炎が産まれる。

 闇夜に照らされる彼女の双眸は真っ赤に燃え、口元には薄らと笑みを浮かべている。ほぅと吐息が漏れたのはパンドラの口から。大人のになりより一層『美』というものに近づいたガラテアに見惚れたのだろう。


「ティア?何かありました?」


 そんなパンドラとは異なり、リオンにとってはガラテアの容姿など慣れたもの。声を掛け、何ごとかと問えばガラテアはケタケタと笑う。いいや、哂うだろうか。闇夜を見上げ、しかし、見下していた。


「何かあったのよ。……お酒だけにしておいて良かった。でも、これは流石に喰い切れるかしら?」


 視線はそのまま、リオンの言葉に応え、次いで手の内に産まれた炎を闇夜へと。リオンには何も見えぬ闇の中へと投げ入れる。

 空を飛ぶように流れて行く炎の塊が、一瞬彼の視界に何かを写したと思ったのも束の間、ぱぁんと軽い音が周囲に鳴り響く。そして、次の瞬間にはどすん、と地に重量のある物質が落ちた。


「あはははっ!ウェヌス、手を出すんじゃないわよっ」


 言い様、手に掴んだウェヌスを、軽く手首の振りだけでリオンの下へ投げ、それをリオンが巧く手に掴んだのを確認する事もなく、空へと舞い上がる。


「ティア、痛いです」


 手首の振りだけで投げられたものの、ドラゴンの力である。相当に高速で投げ付けられたウェヌスの体を受け止めた彼の手は、その指先は折れ、衝撃を吸収しきれなかった腕が半ばから折れていた。骨は皮膚を破り、血が流れ出ていた。そこから伝わる痛みに、顔を顰めながらも彼は、何事もなかったかのようにウェヌスへと目を向ける。あんな速度で投げられても五体満足で失神しているだけな辺り相変わらず頑丈である、などと呆と考えていた。

 だが、そんな彼とは違い、パンドラは大きく目を開け、今この瞬間に起きた事に驚きを隠せないでいた。


「マリオン!?」


「あぁ、大丈夫です。すぐ、治ります。最近、ティアの私に対する扱いが雑で雑で」


「……もしかして、それが?」


「はい。神様を食べた呪いみたいですね。体に一定以上の変化が現れないように勝手に元に戻ります。便利といえば便利ですが……。あぁ、それと。死んでも死なないみたいですよ、私。どうやら人間の神様を食べた事が、思いの外、他の神様達にも悪印象だったみたいですねぇ。幽体になって他の神様の下へ行く事が出来ないように、とかが理由だと思っているんですが、本当の所は分かりません。とりあえず、杜撰な気はしますが。嫌いなら嫌いでもっと別の扱い方もあるでしょうに」


 死ぬ事がないのならば、無限に時を重ねて他の神の下へも辿りつける。自らを殺されたくないのならば、地の底にでも埋めて出て来られないようにすれば良いのに、と彼は思う。


「こんな事をされると逆に食べたくなるのですがねぇ。他の大陸とやらには生きていると行けないんですかね?でも、エルフさん達は渡って来たんですよね?謎です。その辺り、ミケネコ君は何か知っています?」


「マリオン、なんでそんな呑気なのよっ!馬鹿なのっ!?」


「はい?」


「死なないんだよ?死ねないんだよ?」


「ずっと料理できますねぇ」


「この馬鹿!」


「ほんと、ミケネコ君は煩いですねぇ」


「永遠なんて人間に耐えられるわけないじゃないっ」


「ちょっと考えを改めました。この先がずっと辛い時間であっても、小さな幸せを糧に生きていけるかな、と。今、この瞬間感じられる短い、ほんの一瞬でしかないような、そんな小さな幸せだけでも、永遠を生きるには十分です」


「そんなわけ、ないじゃない……」


「おかしいですね。ミケネコ君なら賛成してくれると思っていましたけど……あ、元に戻りましたねぇ」


 流れていた血は止まり、腕も、指も元通りだった。まるで何も無かった事にされたかのように。彼という存在が世界から無視されているかのように。彼に与えられた変化は消え去った。


「マリオン、馬鹿だよ。私なんかのために」


「たった一人の家族ですからねぇ。ミケネコ君がいなくならないといけない世界も、ミケネコ君が大好きなこの世界がなくなるのも嫌だったもので……まぁでもこんな体になったのは結果論ですし、私にとっても想定外ですよ」


「……ほんと、馬鹿だよね。マリオンって」


「最初に死んでしまうはずだったんですがねぇ……最後になりそうです」


 人が死に、エルフが死に、ドラゴンが死に至り、終には神が死に至る。そのはずであった。それが自然であり、それが現実であった。だが、おやを殺した者はその自然から、摂理から爪弾きとなった。

 罪である。

 神を殺した罰である。

 この世界で最も罪深い人間、それがリオンだった。


「ミケネコ君の物語だと私、王様ですしね。王様とやらは思うがままに物ごとを運ぶもの、でしたよね?だから、やりたいようにやらせて頂きました。その結果がこれです。まぁ、受け入れるしかないですよ。それに」


「……何よ」


「不機嫌ですねぇ……それに、ミケネコ君曰く、私には情緒がないらしいですから、まぁ永遠ぐらい大丈夫でしょう」


「無理よ」


「なんなら、賭けますか?」


「……良いわよ」


 それは何の意味もない賭けごとであった。互いに結果を知る事のない、終わりのない賭けごと。永遠に決着の付かない二人の勝負。


「じゃあ、私が勝ったら、もう一回くらい産まれて来てください」


「無理に決まっているじゃない。馬鹿なの?それとも負ける気満々なの?」


「失礼な。勝負の結果がミケネコ君にも分かるようにするには、そうでもしないと駄目だからですよ」


「……だったら、ずっとこのとっても素敵な世界を守ってあげていて頂戴。もしまた神様が泣いたらあやしてあげて。神様が我が身を殺さないようにずっと見ていてあげて頂戴。私が勝った時の報酬はそれで良いわ」


「相変わらず馬鹿な博愛主義丸出しなのは良いとして、詐欺っぽいんですが。……それだと私、勝っても負けてもミケネコ君の報酬支払う必要がありませんか?」


「煩いわよ。どうなの?乗るの?」


「酷い猫もいたものです……のりますよ。私から言い出した事ですしねぇ。とはいえ……私には殺す事しかできませんけどねぇ。ずっと夢を見させるぐらいです。ミケネコ君が目覚めたようにきっと神様もいつか目覚めるんでしょうねぇ……こんな甘い夢なんてありえない、とか言って」


「かもね……よろしくね、お兄ちゃん。妹の一生のお願いね」


「いつのまにかお願い事になっていますが……酷い妹もいたものです」


「ところで、マリオン。私らこんなのんびりしていて良いの?なんかさっきから凄い音がしているんだけど」


「あぁ、良いんじゃないですか?ティアががんばっていますし」


 闇色の空が、赤く染まり始めていた。

 さながら彼女の母の魔法の如く。炎が螺旋を描きながら天に向かい、柱を作り上げていた。何本も、何本も。

 響く哄笑と共に時折どすん、どすんと音を立てて地に落ちるそれは天使であった。炎の柱の御蔭でリオンが確認できたのは二十数体。実際にはもう少しいるであろう。既に十を超える数が地に落ちて燃えている事を思えば大軍と言って差し支えのない数であった。

 うぞうぞと翼をはためかせる天使の合間を悠々と抜けながら、ガラテアがそれの体に腕を突き立て、腹の中から体を焼き、或いはその身に歯を立てて引き裂いていた。


「ティアが楽しそうでなによりです」


「……マリオンはだから情緒が無いというか」


 言葉と共にため息がパンドラの口から零れ出る。


「あはははっ!大量ね!天使が大量だわ!ほんと、嬉しくて、全部殺してあげたくなるわねっ!ほら、遠慮しないでもっとこっちにいらっしゃい。殺してあげるわよ」


 空の上で踊るように。くるり、くるりと円を描き、それに合わせて炎の柱が立ち、天使が死んでいく。


「……天使?」


「はい。見えませんか?」


「うん……全然見えない。天使の姿なんて見たくないから丁度良いかもしれないけど……」


 見えているのはリオンぐらいだ、そんな風にパンドラが手を動かす。


「前より悪くなっている感じですかね?」


「うん。マリオンの事が見られるのも今暫くかな。それだけは残念」


「私なんか見ても仕方ないと思いますけど」


「だから、情緒が……っ」


 突然、パンドラが目を押さえ、苦痛に吐息を吐き出し、顔を伏せる。


「ミケネコ君?」


「あ……がっ……」


 瞳を押し潰すかのような勢いで目を押さえる。そんな彼女の様子に、その背に手を置き宥めるように背をさする。だが、何の効果もない。寧ろ、パンドラは首を振り、身を捩り、リオンの手から逃れるようにしてリオンから離れようとしていた。


「だめ……マリオン」


「何が……」


 パンドラの瞳から血が流れているのが見えた。押さえる手の隙間から流れ出した血が手の平を、腕を伝い。当然の如く。そのように作られた者であるのだから当然の如く、体に火を付けた。


「ティア!」


「パパ、邪魔しないで!って……」


 瞬間、大量の水がパンドラを襲う。ガラテアの魔法により作り出された水、それが彼女に発生した火を消して行く。だが、それでも延々と流れ続ける血。涙のように、とめどなく。延々と。泣き続ける子のように延々と。


「何が……」


『天使、呪い』

 彼の肩、小さな言の葉を紡ぐのは意識を取り戻したウェヌス。思い出すように、とぎれとぎれに紡ぎ出された単語を聞きとり、瞬時にリオンはガラテアへと声を掛ける。


「ティア、さっさと全部殺して下さい。遊びはなしです」


「なんだかわかんないけど分かった!」


 言われるがまま、天使の数と同等の炎の柱を産みだし、一つ、一つとその幾何形状を焼き切って行く。それはきっと遠く離れた場所からでも見えるであろう、それ程大きな、そして明るいものであった。

 炎が闇夜に消えたのはそれから少しの時が経ってのことであった。


「ぁ……あぁ」


 天使がいなくなったのと同時だった。

 パンドラの瞳から流れていた血が止まった。何もなかったかのように。何事も起こらなかったように。彼女を焼いていた血が消え、それに合わせるようにパンドラの体が、瞳が、腕が、焼かれたその全てが元に戻って行く。何もなかったように。何事もなかったかのように。

 まるでつい先程のリオンのように。

 神に呪われたリオンのように。


「あの時生き返ったのもこれですか?私と同じ?いえ、違いますか……ウェヌスさん、何かご存知なのですか?」


 血は止まれど、失った意識が戻る事はなかった。そんな倒れたままのパンドラを先程のようにその背を、肩を撫でる。自分に出来る事の少なさに僅か苛立ちを覚えながら。何度も、何度も。

『きっと、天使の呪い。見初められている』


「見初め……」


「パパ、ミケネコどうしたの?」


 空から降りてきたガラテアがリオンとちょうどパンドラを挟んで反対側に座り、心配そうにパンドラを、リオンと同じ様にその頭を撫でる。大事な宝物を愛でるように。優しく、穏やかに。

『天使に玩具にされている』

 小さく呟き、はらり、はらりと涙を流すウェヌス。とても悲しいのだろう。元より優しい神様の移し身。己の子と友人の子の間に出来た最初の存在であるパンドラが天使に見初められ、今の苦しみを感じているのが悲しいのだろう。


「見初められたというのは分かり兼ねますが、幼い頃に天使を見たと言っていましたね……ティアのいうミケネコ君の目の印というのも天使に刻まれたものでしょうか。……呪いというのはやっぱり、回復能力なのでしょうね」


 思えば、最初に出会ったころからパンドラの傷の治りは早かった、とリオンは思い浮かべる。あの時、死ななかったのもこれが原因であろう。死ななかった事を思えば、それだけを思えばパンドラにとってはありがたい事であろう。だが……


「ミケネコ君が目覚めたのも天使が近づいて来ていたからですか?もしかして」


 呪いを掛けたものが近づいた事により、より強くなった呪いが彼女を目覚めさせたのだとしたら……。そんな事を考えるリオンを余所に、パンドラの髪を撫でながら、ガラテアがその双眸を爛々と輝かせていた。


「お母様だけじゃなく、ミケネコにまで手を出すなんて……全部、軒並み私が殺すわよ。天使の神様とやらごと殺してあげるわよ」


 それは怒り。

 そんなガラテアとは対照的に、穏やかな表情で、しかし涙を流しながらウェヌスは空を舞い、祈りを捧げていた。

『お願い……もうこの子を見放してあげて』

 それは悲しみ。

 リオンには決して理解することも、感じることもできない感情をあらわにする二人。たった一人の妹の為に怒ることも泣く事もできない自分の代わりにそうやって怒って、悲しんでくれる者達が居る。その事に小さな感謝を。


「ミケネコ君、今度は早く起きてくださいね。皆、心配していますから。勿論、私もですよ」


 呟く言葉が夜に消えた。



―――



 遥か遠くからも見えたであろうガラテアによる一方的な天使の虐殺。案の定、それを見ていた者達がいた。

 エルフである。

 それは翌日の陽が沈む頃の事であった。

 沈む陽を眺めながら二人座り、一人は屋根の上。もう一匹もまた屋根の上に。昼ごろに目覚めたパンドラと共に社の入り口に座り、ただ静かに時を過ごす。

 昨夜と同じように、ただ時を過ごしている。一見すれば、そう見えた。だが、当人達にとってはそうではない。昨日の影響であろう。パンドラの目は完全に見えなくなっていた。焼けた跡は件の天使の呪いにより治っていた。だが、その呪いによって、彼女の瞳はもはや何も写さなくなっていた。いや、より正確に言えば彼女の瞳の表面その全てが天使によって植えつけられた痣、刻印によって埋め尽くされていた。見えないわけではない。見えるその全てがソレなだけだった。天使がパンドラを見放さない限りはもはや何を見る事もできない。いつだったか彼女がリオンに問いかけた問いの答えを彼女自身の瞳で知る事は、綺麗で、貴い世界を見る事はもはやできない。ようやく社の入り口まで出る事を妥協できた彼女は、しかし、外の世界を見る事すら許されない。どうして世界はこんなにも彼女に優しくないのだろう?そんな疑問がリオンの中に浮かんでは消える。

 けれど、

『それでも世界が好き?』

 そんなガラテアの問い掛けに、

『えぇ』

 一切の躊躇なく、パンドラはそう頷いていた。そんな馬鹿馬鹿しい彼女に、相変わらずだ、と呆れるように苦笑し、ガラテアは屋根の上に昇った。それから陽の沈む頃になるまで、彼らはずっとそこにいた。

 斜陽が彼らを照らす。鳴く鳥の声に耳を傾け、奏でる風に耳を寄せ。世界に音だけしかなくなった彼女に物ごとを伝える。伝えれば応える彼女の声を、言葉を屋根の上に座る義娘が書き留めていた。彼女の代わりに書こうというのだろう。例え見えなくなっても私が代ってあげる、と。そんな優しい義娘の姿を伝えれば、嬉しそうに彼女は微笑んだ。

 そんな穏やかな時間を壊すのは喧騒。

 風の音の中にざわめく物音にリオンが気付いた時には、文字を書いていたガラテアの手が止まり、


「今日は地を這うお客さん?面倒ね……」


 ため息に似た声がリオンの耳朶に響く。ふわり、と彼らの隣に降りて来て、彼らを守るように庇うように前に立つ。紅色の囲いと社の入り口。その中央まで優雅に歩き、泰然と不遜に身構える。ガラテアがそこに辿りつくのを待っていたかのように、木々の隙間からエルフの集団が現れた。

 顔色が悪い。一見してそう思えた。

 集団を構成するその殆どの顔色が悪い。誰もそんな事を望んでいないとばかりに彼らは怯えるように剣を携え、隊列を崩さぬように木々の隙間から現れた。そんな顔色の悪い集団の中で唯一、違う顔色を見せていたのは先頭に居た男だった。手には丸い、薄汚れた布をかぶせた白い布を持ち、ガラテアに負けぬ程に不遜な表情を携えていた。怯えるのは分かる。彼らにしてみればここは『全ての罪』が存在する場所なのだ。穢れた場所なのだ。故に、分かる。だが、不遜である理由は彼には分からなかった。


「それ以上は不許可よ。一歩でも入れば、焼き殺すわよ」


 それは、パンドラに気を使った言葉だった。パンドラが目を覚ましていなければ容赦などなかったに違いない。何だかんだとパンドラの事が大事な義娘にリオンは笑みを零す。優しい子だ、と。

 そんな優しい子は、紅色の囲いを、その周囲を埋め尽すように炎の螺旋を作り出す。そんな物が目の前に出現すれば、当然の帰結。更に彼らの顔色は悪くなり、エルフ達がどよめきと共に足を止める。だが、それでも尚、先頭に立つ者だけは僅かに表情を歪めたのみであった。


「やはり、化物の類か」


 落ち着いた声だった。だが、皮肉気でもあった。忌々しさと憎しみを込めたようなそんな声。


「神なんかを恐れて近寄らなかったエルフ風情が今更何用?大人しく帰るなら生かして返してあげるわよ?二度とここには近寄らないというのならね」


「はっ。畜生と交わす言葉など持たん。が、私とて争いに来たわけではないのでね。用が済めば大人しく去ろう。そして、二度とここに来る事もない。そんな社など好きに使えば良い。必要とあれば別に作れば良いだけだ」


 饒舌だった。恐れから来る焦りではない。まるで最初から用意していたかのような、そんな印象を受ける程に流暢だった。


「あら、存外もの分かりが良いわね。元より私達がここに居る事を知っていた、という事かしら?」


「知っていたかどうかなど、どうでも良い事だ。だが、そうだな。礼は言おう。『罪の証』、『神の怒りにふれた』などという馬鹿げた言葉は都合が良いので利用させてもらったよ」


 その言葉に真っ先に違和を感じたのは、リオンだった。つまり、ユーノーは泳がされていたという事なのだろうか。だとすると、彼女は……。昨日、気を使ったのか森へと戻った彼女は……。


「『希望』と称していた者を良くもまぁそこまで都合良く使うわねぇ」


 吐き捨てるようにガラテアが口にする。


「作った当時は『希望』というのも確かにあったが……もはや、そんなものをソレに求めてはいない。『希望』が欲しければこれもまた、別に作れば良いだけの話だ。元より、『疑い』のあるべき者が外に出なければそれで良かったのだからな」


 パンドラをソレと物のように言いながら、男は語り続ける。


「それを『生贄』に捧げようなどと馬鹿な事を考える者達の所為で余計な手間を掛けさせられたよ。妹にも娘にも全く……手間を掛けさせられた。まともなのは息子だけだ。……そういう意味ではやはり、感謝しておこう。今の『全ての罪』の証であるというのは酷く都合が良い」


 喋りたくてたまらないとばかりに語る男。時折鳴る、くくっと喉に掛る笑いが酷く耳障りだった。その音にガラテアが顔を顰めていた。だが、リオンはその男の言葉に首を傾げるばかりだった。

 パンドラはエルフ達の希望であり、同時に神に捧げられる生贄でもあった。その折衷としてこの場にいたはずだ。或いはここ最近では罪の証であるとして存在しているはずであった。触れてはならぬ禁忌の存在。近寄るべからず、と。だが、その男は、そんなものはどうでも良いとばかりに言っているようにしか聞こえなかった。


「ミケネコ君?」


「マリオン?」


 リオンの言葉に見えぬながらも首を横に振り、分からない、と伝える。


「それがようやく、判明した。昨夜、夜天に舞う天使の姿を見た。それを焼く炎の柱を見た。……やはり、貴様だったのだな。かつて我らの家族を殺した天使を呼び寄せたのは。まごうことなき、罪の証」


 ぎり、と歯を鳴らし、唾を吐く。


「とりあえず、それを作り出した者には罰を受けて貰ったよ」


 そう言って、手に持っていたものを勢いよく投げ込めば、炎の柱を越えて、丸い物体がガラテアの足元へと。

 それを覆っていた、布がはらりとめくれ……

 そこに現れたのは、首であった。

 女の、エルフの首だった。


「ユーノー?なんで首だけになっているのよ?貴女、パパと違って生えないでしょ?」


 呆然としたガラテアの呟きに、がたんと音を立ててパンドラが……社から出ようとして、足を止める。


「良い判断だ。貴様がその社を一歩でも出ればこやつらの命もなかった所だ。貴様と同じく作られた命がな。殺すつもりであったが、こやつらには『まだ』罪はない。殺す理由もまだない。罪のない者を殺すわけにはいかんだろう?半身とはいえ、我らが神の血を引く者だ。疑わしきは罰しない。曖昧なままに殺しはしない。かつてのお前のようにな」


 時折、態とらしく皮肉気に零す笑いが、やはり酷く耳障りだった。言い終わり、後ろについてきていた者達に男が指示を出せば、彼の後ろから剣を首に宛がわれた幼子達が、ぞろぞろと炎の前に立ち並ぶ。熱気にやられたのか顔を背けるが、どの顔も青く、心ここに非ずと言った所だった。誰もが皆、生気を失われている、そんな表情だった。


「故に。こいつらをその社に入れて隔離して頂きたい。二度と表に出ぬように。我らが天使に襲われぬように。その代わり、もう二度とここには手を出さぬ。好きにすると良い。勿論、そやつらが我らの集落に顔を出せば……」


 次々と矢継ぎ早に聞こえる声に、パンドラが呆然と、口を開く。それを見かね、代わるようにリオンが道を行く。

 実験をするならば、一匹よりも二匹、三匹、多ければ多い方が良い。そうエルフ達が思うのは、当然だった。さながら彼が何度も料理の実験をしたように。一度で全て賄えるわけがない。それゆえに、パンドラと同じ境遇の者が他にいてもおかしくはなかった。

 ユーノーがそれを知らなかったのは、彼女に知らせぬように事を行ったからであろう。知らぬ時に、知らぬ場所に隔離されていたのだろう。待遇などパンドラと同等かそれ以下でしかないに違いない。


「だから、エルフって嫌い。天使の次に嫌いっ」


 ぎり、と鳴る歯と共にガラテアの手が動く。炎の柱が寄り添うようにその男を中心に集まり、気付けば、


「な……」


 我が物顔で物を語っていた男が炸裂音と共に一瞬にして骨へと変わる。


「ティア、一匹で止めておきなさい」


「分かっているわよ。こんなもの殺したって何の意味もないんだから」


 残ったエルフ達を睨みつけるガラテアの代わりに、リオンはユーノーの首を拾い、僅かながら顔を歪める。彼女は後悔の念の強いエルフだった。パンドラを産まなければ良かったと言った事もある。だが、それでも彼女はパンドラの母だった。ずっと、この長い年月をずっと母として過ごしていた。そして、彼女には面白い一面もある事を知った。眠っていたパンドラよりもリオンやガラテアとの付き合いも長い。それが故に、残念だと……酷く残念だとリオンは顔を歪める。


「痛み分けとはいかないかもしれませんが、その子達を置いてさっさと帰って頂けるとありがたいですね。これ以上、死にたくはないでしょう?短い命は大事にしましょう?……それとも、料理の素材にされたいのでしたら、遠慮なくお申し出ください」


 元よりその男が以外は怯えていたのだ。更に青くなり、身動きの取れなくなったものを引き摺りながら、彼らは小さな子らを置いて去って行った。


「…………ユーノー君」


 呆気なく失った。

 もう永遠に会う事はない。

 昨日、パンドラが目を覚ました事に喜んでいた彼女が、今日こうして死んでいる。そして未来永劫、生き返る事はない。昨日のように笑う事もない。

 リオンから母を受け取り、胸に抱いてむせび泣くパンドラ。

 その彼女の姿が痛ましかった。こんなにも辛いのならば、目覚めない方が良かったのかもしれない。そんな事を思うだろうか?

 パンドラに寄り添い、一緒に涙を流すウェヌスならば分かるだろうか。神として、悲しみに自らを壊そうとしていた彼女ならば、少しは分かるだろうか。いいや、分かるはずもない。寧ろ……


「ウェヌスさんも、ほら、そんなに泣かないでください……夢から覚めてしまいますよ」


 彼女はもはや神ではない。手の届かぬ場所で死ぬ者を助ける事などできはしない。


「……ティア」


「残念なのは確かよ。でも、私は大丈夫。ほら、私ってドラゴンだし」


「あんなに泣き虫だったのにいつのまにやら」


「パパってほんと……情緒が無い」


 悲しくないわけがない。怒りが無いわけがない。でなければパンドラの前でエルフを殺したりはしなかっただろう。だから、ガラテアとて思う所はあるに違いなかった。


「昨日の今日ですが、永遠は思ったよりも長そうですね……」



―――



 それから再び年月は流れた。


「パンドラ様、今日はとっても天気が良いです」


 一人の少女がパンドラに声をかける。母に縋るように、抱きつきながら、目の見えないパンドラの代わりに世界を伝える。


「そう。だからこんなに心地よいのね」


 口元に薄らと浮かべた笑みを浮かべながらその子を撫でる。


「ほら、がきんちょども。そろそろ行くわよ」


「はーい。リオン様、パンドラ様、ウェヌス様。お世話になりました」


 幾人かの子供達がガラテアに付き従うように並んでいた。各々が荷物を背負っていた。食糧もあれば、松明もある。武器もあれば、防具もある。

 それは、その子達の旅立ちの時であった。


「やだーっ」


「こら!我儘言っちゃ駄目」


 別れを嫌がる子を別の子が窘める。そんな光景を、リオンはパンドラと共にいつものように社の入り口に座り、見ていた。

 ユーノーがいなくなり、『希望』として作られた子らが生きる意味を取り戻し、そうして旅立ちの時を迎えるのに幾日が必要だったであろうか。リオンはもはや、それを覚えてはいなかった。長くもなく、短くもなくといったところだろう。彼らに、彼女らに会った時の事を思い出しながら、そんな事を考えていた。


「マリオン……良いの?」


 穏やかな声だった。落ち着いた声であった。煩かった声ももはや懐かしい。ユーノーが亡くなって以来、パンドラの声音はどこか落ち着いたものになっていた。騒ぎ立てる事もあまりせず、ただあるがままを受け入れているかのような、反射行動のような、そんな風にさえ思えるほどに落ち着いていた。


「ティアが行くと言うのですから、止める必要もないでしょう?」


「そうだね」


 この場に残るのはリオンとパンドラ、そしてウェヌスの三人。あの時ここに隔離された十人近い子らは全てガラテアによって遠い遠い場所へと旅立つのだ。


「長い間帰ってこられないと思うよ」


「短い時間です。何年かに一度くらいは帰って来るようには言ってありますから。それにティアですしね」


「そう」


 パンドラを除いて全て、別の場所に移す、そう最初に考えたのはパンドラ本人であった。閉ざされた場所に存在するのは自分一人だけで良い、と。これもまたリオンからすれば全く意味の分からない博愛主義であり、それでも尚、エルフを許そうというのだ。彼女がここに居る意味などもはや『全ての罪』としてエルフ達の心の安寧を与えるだけでしかない。もはやこの場に居る意味などないにも関わらず、馬鹿馬鹿しいにも程がある、とそんな事を彼女に言った所で今更でしかなかった。


「ほんと、馬鹿ですよね」


「知ってるよ」


 或いは贖罪なのだろうか。母を殺したのは自分の罪だと、そうやって自分を苛んでいるのだろうか。だとしても彼には理解できない。しかし、彼女を一人にするわけにもいかず。彼はただ、彼女の傍に居る事に決めた。


「自覚している所が尚更、訳が悪いです。まぁ、今更です。ほら、見えなくても手を振ってあげて下さいな。皆が、手を振っていますよ」


「皆、どうか、幸せにね」


 ガラテアに付き従い、人間とエルフの間に産まれた子らが旅立つ。遠い場所へ。人間もエルフもいないような場所へ。争いに巻き込まれず、ただ安穏と日々を暮らせるその場所へと向かう。『最初の一人』だけを残し、森を去って行く。

 パンドラには見えない事を理解しながらも、それでも姿が見えなくなるまで手を振る少年、少女達。


「泣き虫になりましたねぇ、ミケネコ君」


「煩い」


 もう、会う事もないだろう。皆が生気を取り戻すためにパンドラはどれだけ我が身を削ったであろうか。己自身、母を亡くしてすぐだというのに、我が身を、心を削りながら彼女ら、彼らの為に行動した。音と指先から伝わる感覚だけを頼りに。時折ガラテアの手を借りながら、目の見えぬその手で本を書き、絵を描き、物語を語る。ガラテアに聞きながら皆の服を作り上げた。見えていた頃を想像しながら、見えているかのように。どれだけの苦労があった事だろうか。リオンには想像もつかないことだった。だが、それでもパンドラはやってのけた。自らと同じ産まれの者達を愛し、慈しんだ。


「ちょっと、疲れたから、寝るね」


「はい。どうぞ」


 言い様、リオンの肩に顔を乗せ、そのまま眠りに付く。時折夢に眉を歪める妹の髪を、背を撫でながら、リオンは呆と空を見上げていた。

 見上げれば、紅色の囲いでウェヌスが踊っていた。手にはパンドラに作って貰った小さな鈴を持って、しゃらん、しゃらんと鳴らしながら何処かの誰かの幸せを願っているようだった。祈っているようだった。


「人でなしなのに、お人よしが多いですね」


 しゃらん、と鳴る音を子守唄にいつしかリオンもまた眠りに付いていた。



 そうして二人と一匹の日々が続いた。

 時折訪れる天使をウェヌスやリオンが殺したり食べたりしながら、時折ガラテアが帰って来ては少年、少女達のその後を語る。育ち、旅立つ者も出て来たという。そんな話で盛り上がり、時にはしんみりと昔を思い出す。

 そんな日々が延々と続く。

 そんな日々が本当の意味で終わりを迎えたのは、それから……百五十年を過ぎた頃である。



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