第9話 たった一つの想い
9.
失った腕を動かそうとしては、それが無い事を思い出す。
失った物は元には戻らない。そんな分かり切った事を何度も、何度も確認しながら彼は自らの左腕を失った事を理解していった。
時折訪れるのは幻痛。
存在しない肘から、手首から、手の平から、指先から痛みが伝わって来る。自然、リオンの眉間は寄り、耐えるように歯が鳴る。
失った事を認めたくない彼の脳がそんな痛みを産み出していた。
だが、それを感じれば感じる程に、傷めば痛む程に、彼は別の理解を深めて行く。自らの思い、自らの感情を深く、深く理解していく。水の底に落ちるように、ゆっくりと、ゆっくりと沈みゆくように。
きっと、こんな痛みなんかより、彼女が失われればもっと痛かったに違いない。
それを味わいたくないと願う。
素直に、そう思っていた。
失う事は一瞬で、訪れる痛みは永遠で。
パンドラが死んだと思った瞬間、彼に襲って来たのは虚無感だった。彼をもってしても現実を理解できなかった。焼け焦げる彼女の姿に、残念、などという簡単な言葉では表せない程の虚無感を抱き、それを認めたくないとばかりに呆然と声を掛けた。
例え楽しい時が一瞬で、後に訪れる苦しさが永遠だとしても、三人一緒であれば耐えられる。そう思っていた。けれど、逆に言えば三人でなければ耐えられないのだ。一瞬とはいえ失われる瞬間を体験した事により、尚更彼はそう思う。痛みだらけの生だとしても彼女がいれば、彼女らがいれば耐えられる。けれど、それを失う事は……。
故に、彼は動き始めた。このままでいれば三人が二人になる。それを座して待つわけにはいかない。希望があるというのならばそれに縋る。意地汚く。泥の中を這うように、溺れながら藁を掴むように。いるかどうかも分からぬ神にすがり、その神を殺すためにこうして洞穴の中を行く。
浮かぶ炎に照らされた洞穴。
先を行く義娘の姿に頼もしさを覚えながら彼はその後を続く。
この道程は永遠よりもきっと短いだろう。いつか振り返れば一瞬だと感じられるに違いない。だからこれは一瞬の辛さなのかもしれない。だが、例え一瞬だとしても、彼一人では無理に決まっていた。幾ら化け物を相手に料理が作れたとしても、それで逃れる事が出来たとしても彼はただの人間でしかない。魔法すら使う事のできぬ弱い生物。いつしか疲れに気を失い、無残に殺され、喰われ、死に至るだろう。何もかもを失った事だろう。自分の後に続く者もなく、続く物もなく、何を残す事もなくただただ無残に、無意味に彼の人生は終わりを迎えた事だろう。
一瞬の辛さすら一人では耐えられない人間。例え、ここにはいない彼女のために今の苦しさを耐えたいと願ったとしても、敵う事もなければ、叶う事もない。耐えきる力もなければ、耐えきる心すらない。なんと弱く儚い生物であろうか。
けれど、彼は一人ではない。
彼にガラテアという義娘がいたからこそ、この瞬間はありえたのだ。彼女がいたからこそ、この一瞬を彼は耐えられる。勿論、肉体だけの話ではない、ガラテアがいるが故に彼の不安も薄れていた。彼自身、そんな不安を覚える自分がらしくないと思う。だが、彼にとってパンドラが失われた瞬間を目の当たりにした事は、彼に大きな虚無感を、不安の種を産み出させるには十分な出来事だった。
守られてばかりだ、と義娘に目を向ける。
ガラテアは今、この瞬間、この場所に存在するために産まれて来たわけではない。だが、それでも彼女が今ここにいる現実を、幸いを彼はありがたいと感じていた。誰に感謝しているわけでもない。まして神に感謝を捧げているわけでもない。ただただ、彼は彼女が産まれてくれた事に、彼女がここにいてくれたことに感謝していた。だが、それも彼が諦めなかったからこそだった。彼が諦める事なく生きていたが故に、彼は洞穴で義娘と出会った。彼が諦めていれば、ガラテアが産まれる事はなかったであろう。例え産まれたとしても母親と同じように無残に喰い殺されていたに違いなかった。彼が諦めを受け入れなかったからこそ、今この時がある。
「パパ、痛い?」
リオンの視線を感じたわけではない。洞穴に入って以後、時折、振り返ってはリオンに近づいて来て心配そうに彼を見上げていた。何度も、何度もそうして繰り返し聞いてくる義娘に愛おしさを感じ、大丈夫だと残った右手で彼は彼女の髪を撫でる。そうしていれば次第、くすぐったそうに、安心したようにガラテアが目を細めて安堵を浮かべる。
ちなみに、見かねたガラテアにより彼の手からは荷物が奪われており、今の彼は手ぶらであった。空いた手の使い道は料理を作るか、ガラテアを撫でるかぐらいのものだった。特に片手での料理は慣れたものであった。出来あがった物を他人が見ればまさか彼が片腕で料理を作っているとは思わないだろう。皮肉にも以前片腕が折れた状態で洞穴を闊歩していた経験が活きていた。
「中に入った頃よりはだいぶ楽です」
パンドラに結われて以来、ガラテアのお気に入りとなった、彼にとっては撫で辛い髪型。側頭部で尻尾のように結われた髪。それを何度も、何度も彼は撫でる。いつ撫でてもしっとりとした艶のある金色の髪。さらり、さらりと指先の間を流れるように抜けて行く感触をしばし堪能する。
そんな風に義娘を撫でていると、ふいに彼は昔を思い出す。それはもはや遠い過去となった少年との会話だった。
『マリオン、小さい子は守らないとだめなんだぞ?』
『小さい子?』
それは、いつものように自慢げな物言いだったと彼は記憶している。手の平を自分の目線から下げて、これぐらいだな、と笑いながら少年は言っていた。
『自分より後に産まれた子達は守らないと駄目なんだ。マリオンみたいに女の真似ごとばっかりしていちゃあ駄目だ』
『じゃあ、私、貴方を守らないといけませんよ?』
『俺は良いんだよ。マリオンより強いからな』
瞼を閉じれば今でもからからと笑う少年が彼の脳裏に思い浮かぶ。
『弱くて、自分より小さい子を守れ、と?』
『そうだぞ。女なら尚更守らないといけないんだぞ。ま、あれだ。女の真似ごとしてるマリオンは俺が守ってやるから、他の奴らの事はマリオンが守るんだぞ?』
『機会があれば』
『おう』
遠い過去となった少年。もう二度と届く事のない場所。あの時もまた刹那のような時だったと今になって思う。そんな刹那を、そんな性もない会話を酷く鮮明に覚えているのは彼にとってそれが儚くも楽しかったからだった。そういう意味では、パンドラが小さな幸せを大事にしているのが彼にも分かるというものだった。
「ティアには守って貰ってばっかりですね」
「パパの事、今度こそ守る。ミケネコの事も……」
「ありがとうございます。お願いしますね」
もっとも、彼の義娘は彼に守られるような存在ではない。だがそれでも守りたいと願うのは父親としての性だろう。そして、ここにいない彼女の事もまた、義娘同様、守りたいと、そう思う。彼より小さく、彼よりも後に産まれたものであるが故に。それは憐憫ではない。だからといって男女愛であるとかそういう類でもまた、無い。彼にそんな情緒はなく、彼に理解できる感情を無理にあげるとすれば、そう。村で培ったもの。血の繋がった者達の集まりでの生活。例えば血の繋がった、それこそ少年の言っていたような、そんな家族を守りたいと願うような、そんな思いであった。
「どちらに向かえば良いのか分かりませんが……」
それも前に進まねば出来はしない。
前に進んで、元の場所に戻る事もあるかもしれない。だが、それでもその度に選択肢は狭まって行くのだ。何度も何度も、失敗して、時折疲れる事はある。けれど、それでも尚、前に進む思いがなければ、今の彼は無い。ガラテアの母の分身、尻尾を相手に何度失敗した事だろう。それでも尚、諦めなかったからこそこの場に彼はいるのだ。なれば、彼はいつもの通り彼を貫き通すだけ。
守りたいと願うのならば、尚更に。
自然、手の平に力が入り、それを感じて義娘が顔をあげる。
「パパ?」
「前に進まない事には、ね?」
どれだけ掛るかも分からないあてのない旅。
たった一つの想いを胸に神の居る場所へと向かう。
―――
流れのない淀んだ空気。汚れ、腐敗した匂いが洞穴に充満していた。
奥へ進めば進むほど空気は淀んで行く。流れる風はなく、化物の動きに、彼らの動きに合わせて僅かにそよぐだけ。もっとも、そよいだ結果、体臭が腐敗臭に混じり合い、更に不快な匂いを辺りに撒き散らすだけであった。
世界の誕生から死に続け腐敗し続けて作り出された、まるで毒に包まれたような空間であった。
その臭いから逃れようと狭い通路を通れば死臭が鼻腔を擽り、そこから抜け出そうと巨大な空洞を通れば巨大な何かがそこを通過したかのように、引き殺され潰され乾いた生物が壁にシミを作り、死臭を振り撒いていた。
どこに向かっても漂う腐敗と死からは逃れる事はできない。
そんな空間に彼らが足を入れて既に半月程が経過していた。
鼻にも服にも髪にも匂いが染みつき、もはや鼻が機能しなくなりかねない程であった。幸いにして、リオンがその匂いすら打ち消すような強い匂いを放つ食事を作り上げていた事によって、彼らの鼻だけは今もまともに機能していた。もっとも、まともに機能するからこそ、居心地が悪いのは事実であるが、止むにやまれなかった。リオンの鼻が使えなくなれば料理どころの話でもないのだから。
とはいえ、そんな匂いも、料理ももはや食傷気味になる程に彼らはその場に居続けた。結果、彼はいつしか芳香剤を作り出していた。
壁に這う生物を、地に這う生物を、壁に付いたシミを、沸いていた蛆を慣れたように片腕で捌いて行き、ガラテアの作り出す炎にて炙る。そうして出来あがった粉をガラテアと自分に振りかける。瞬間、彼らの周囲に野に咲く草のような清々しい香りが充満する。混ざった物が何かを理解しているが故に一瞬訝しげな表情を浮かべたものの、この父親であるとばかりに納得したのか、次の瞬間にはガラテアの表情には笑みが浮かんでいた。すんすんと鼻を鳴らす仕草は酷く愛らしいものだった。人間より更に敏感であるが故にリオンよりも苛々していた事だろう。義娘の笑顔が戻った事にも気を良くし、彼と彼女は更に奥へと進む。
そんな風に強引に死臭から逃れ、それが漂う場所を抜けられたのは更に十日を過ぎた頃だっただろうか。
抜けた先に、彼らは地底湖を見つけた。
地底に産まれた湖の水は流れを作り、それがどこかへと流れ、淀みを何処かに流し去る。その場所は酷く静謐な場所だった。何物にも汚される事なく、その場にあった。炎に照らされれば、底までも見通せる。オケアーノスよりも尚深く、尚透明な湖だった。
もっとも、それが安らぎになるはずもなかった。
生物にとって必要な水分。そんな綺麗な水が集まる場所に何の生物も見当たらないという事実に二人は首を傾げ、意気揚々と水に触れようとして足を止めた。
じわ、じわ、と溶ける音が聞こえていた。
その音に二人の足が止まったのだ。
その湖は酸で出来ていた。湖を作る壁自身を溶かす程に強力な酸だった。時間を掛けて自らの生息範囲を広げようとしているそれは、まるで生き物のようだった。水分が欲しいと近づく愚かな生物を取り込み、溶かし喰らい尽くし、そしてどこかにそれを流す様は排泄のようで、尚更彼らにそんな思いを助長させる。
とはいえ、飲めないなら飲めないで利用用途はある、という男がリオンである。
きっとリオンが調理に使うだろうと気を利かせたのかリオンに確認する事もなく、そんな湖の水をガラテアが汲み、ガラテアお手製の歪んだ金属製の瓶に詰め込み、袋へと入れる。そんな義娘の心遣いに苦笑しながら、リオンは揺れ続ける洞穴に、その揺れに体を任せる。これもきっと義娘が得意な事なのだろう。だが、これくらいは自分でやるべきだと、彼は目を閉じ、神経を集中させる。
それが、今の彼の役割だとでもいうかのように。
視界を閉じ、触覚に集中する事でぐら、ぐらと体が揺れる方向を理解する。右、左、上、下。あるいは斜めだろうか。襲ってくる揺れがどの方向から入って来て、どの方向に抜けて行くのか。それを感じながら、揺れの中心を想像する。
きっとそこにいるのだ。
世界を揺らし、壊しているのならば、その揺れが一番強い場所、そこに神様がいるのではないだろうか。揺れが強くなるにつれて、彼はそんな理由を付けて道を選んでいた。
そうやって死臭漂う場所を通り、こうして地底湖に辿りついた。もはやどれだけ日が過ぎたのかもわからない。少なくとも一月近くは経過しているだろう、そんな程度の感覚だった。朝もなく夜もなく。時間の感覚など彼らにはもうなかった。時折、意識を失う様に休憩を挟む事はあれ、動ける間はずっとそうやって揺れの中心を探し、そこに向かって歩き続けていた。
確信などあるはずもない。
辿りついた先に神様がいるかどうかなど分かりはしない。だが、止まりはしない。彼も、そしてその義娘も止まりはしない。
神様がいなかったらどうだと言うのだ。別の手立てを考えれば良い、そんな風に諦め悪く考えながら、先へ、先へと進んで行く。
揺れの強い方へ、強い方へと。
湖を越えて、更に奥へと向かう。
次第、再び空気が淀んで行き、手に入れたばかりの酸を用いて化物の体を溶かしながら今までとは違った匂いを醸し出す芳香剤を作り出しては振り撒いて行く。そうやって時折、
匂いの元を変えながら、洞穴とは思えぬ健やかで清らかな香りを生み出しつつ彼らは進む。
彼がこの道程を記録として残していたのならば、きっと芳香剤の材料と『進んだ』ぐらいしか書く事はなかっただろう。時折遭遇した生物を殺しては進み、食べては先へ進む。そんな作業の様な行程を延々と繰り返していたのだから尚更だった。
だが、神を殺す道程など残す必要もない。
神殺しを神話として語り継ぐ必要もない。
そうして残される事のない物語が進んだのはさらに日数が経過した後だった。
―――
もっとも、それが彼らにとって意味をなすのはまだしばらく先という意味では、進んだというのは語弊があるのかもしれない。彼と彼女らにとってそれは他愛のない、それこそ記録に残す必要もない事だったのだから。
「どこかで見たような気が」
そういって、リオンは立ち止った。
立ち止った瞬間、地面の揺れが体に伝わり、ぐらりと体が傾く。日に日に強くなっていく揺れを感じながらリオンは視界に映るソレを見上げた。
天井付近、彼の身長の数倍はあろうかという高さにソレはあった。彼の周囲を守りながら灯りの役目をしていたガラテアの産み出した六つの炎。その一つが、彼の視線に合わせるように、天井付近へと近づき、近づけばソレの姿がより鮮明に彼の視界に映し出された。
初めて来た場所なのに見覚えのあるソレに猫の耳のような髪がくてっと傾ぐ。
「パパって相変わらず鈍いよね」
「……ティアは相変わらず辛辣ですねぇ」
「ふふん。ほら、私の服!」
自慢気に胸を張り、つんつんと自分の服を指差すガラテアに、こんな所でも元気なものだと思う。やはり彼にとっての幸いは、ガラテアが居た事だろう。義娘の元気な姿を見ていれば、それだけで閉塞された洞穴の中でも元気も沸こう。そんな自らの元気の源の指摘に彼はソレに思い当った。パンドラが作り上げたそれが、元は何であったのかを。
「と言う事は、ここは山が沈んだ所ぐらいかもしれませんね。なるほど、こういう新発見もあるものですか」
巣があった。
三次元的に張り巡らされた巣。天井を基点として張り巡らされた幾何模様は、それこそ天使などとは比べ物にならない程に美麗なものであった。以前見た時と素材は同じである。しかし、その形状は、組み合わせ方は比べ物にならない程であった。精緻であると称せば良いのだろか。単に美麗であると称せば良いのだろうか。天井を見上げる彼の口が知らず開いていく。彼をして、この幾何模様をどうにか料理に使えないかと思えるぐらいに。そう。模様を、である。糸を、ではない。普段の彼であればその素材を調理する事に終始するだろう。だが、これに対しては違った。その形こそを使いたいと思った。そして、同時に彼は自分の料理がまだまだ足りない事を自覚した。見るだけで圧倒されるものを、料理を通して作り上げたいとそう、思った。
そんな彼の常人には理解しえない納得を余所に、その芸術的なまでに精緻な構造を作り上げた本人はガラテアを見て、そそくさと逃げて行った。
逃げて行く蜘蛛の姿。
以前より一回り大きくなっているように見えるのは、見ない間に色々捕食した結果であろう。その成長の結果、このような三次元的な構造を持った巣を作り上げられるように成長したに違いなかった。
そんな精緻で芸術的な巣である。
芸術に誘われるように捕らわれる者も当然居る。
主の居なくなった巣には、またぞろ色々な生物が捕らわれていた。
それらは軒並み、蠢いていた。中には標本のようにその身を糸に包まれ、巣から吊られ、ふらふらと揺れている者もいたが、蠢いている事には変わりなかった。
逃れようと、命を奪われないようにと蠢いていた。
うぞろ、うぞろと細かな蟲達があちこちに囚われているのが見えた。勿論、蟲だけではない。身の丈はリオンの腰までぐらいだろうか。下半身だけが動物のような毛で覆われた二本足で頭が魚という珍妙な生物が囚われていた。彼よりも大きな海老に似た生物が囚われていた。あるいは爬虫類、或いは哺乳類。そして、その中にはいつだか娘に喰われた、曰く美味しくない小さな生物もまた、何匹も捕まっていた。普段から集団で行動しているのだろうか。小さな翅を使って空を飛んでいる時に三次元上に張り巡らされた蜘蛛の檻に囚われたのだろう。その証拠に、一か所にわらわらと群れを成して捕えられていた。蠢いていた。蜘蛛の糸を噛み切ろうと歯をガシガシと鳴らし逃れようとしていた。そんな中、特に小さい個体が彼の目を引いた。
目を引いたのは、単に死んでいたからに過ぎない。他の者達はまだ生きているにも関わらず、死んでいたからに過ぎない。それは、その集団の中で一番弱い者が死んでいるだけに過ぎない。自然の摂理のままに、一番弱い者から死んだだけ。その死んだ個体に、自然と彼の目が向いた。もっとも、
「死んでからそんなに経ってないんですかね。腐ってもないし、干からびてないですし」
「採っておく?」
「はい。袋に入れておいてください。色々試しながら食べてみる事にしましょう。周りのもお願いしますね」
所詮、その程度である。殆どの生物は死んで腐敗する直前が一番うま味が出て美味しい。だから、単に彼の目が向いただけだった。もっとも、腐敗し尽した後の方が彼にとってはやりがいもあるので、そのまま放置して腐りきった所で調理する気満々であった。
「きっと美味しくないよ?前食べた時も美味しくなかったし」
言い様、風を産み出して空に浮き、ガラテアがその小さな個体を巣から引き剥がそうとすれば、捕えられていた他の者達が一斉にガラテアを見て、次の瞬間、怯え出した。カタカタと歯が別の意味で煩く鳴った。他の場所からも同じ様に恐怖に汚染されたように逃れ、暴れようと捕えられた者達が更に蠢きだしていた。
そんな生物達の気など勿論理解するわけもなく、その小さな個体をガラテアは袋に詰める。気を利かせて腐敗しやすいように他に入っていたものをどかして袋の奥へと詰めているのがリオンからも見えた。
「あれは生だったからでしょう?そこはうまく調理してこそです!任せておいてください」
ぐっと拳を握りながら力説する。が、次の瞬間には疲れた、と手を下ろした。
「小さいけど、でも、人型だよ?きっとエルフみたいで美味しくないよ」
「そうは言いますが、ティア。前の蜘蛛に生えた感じのアレは美味しく頂いていたじゃないですか」
「あれはどちらかというと人と言うより、化物寄りじゃない?」
首を傾げながら、ドラゴン娘が人を語った。
「まぁ、エルフとかこれに比べれば確かに」
言われ、ドラゴン娘を見上げながら、人間が納得したように頷いた。
「しかし、ティアが美味しくないというわりには、私、化物さん達には割と襲われている気がします。……これはあれですか。ティアの味覚がおかしいんでしょうか?」
「失礼よ、パパ。私はパパの所為で美食家なの。そこら辺の奴らと一緒にしないで」
「なるほど。教育の成果ですね」
「……変なものばっかり食べさせられるけどね」
視線をリオンから逸らし、珍しくため息を吐くガラテアであった。
「あ、ちなみに、パパの腕も美味しくなかったよ」
むしり、むしりと糸から生物を引き剥がしながら、ガラテアが戯言を口にする。
「でしょうね。私の手なんて美味しくないって、昔にも言ったはずですよ。忘れました?いや……でも、あれですね。改めて感想を言われると、自分が美味しくないと言われるのは、嬉しいやら悲しいやら」
振り向き、何を悩んでいるのだろう?と一度首を傾げた後、ガラテアは生きているモノの首を小さな手でへし折りながら、一匹、一匹と命を奪い、ただの抜け殻となった翅の生えた生物を袋に入れていく。もっとも捕えられている方としてはたまったものではない。一瞬ごとに仲間の首が折られて行くのだ。最後に残った個体は叫び、小さな顔に涙と絶望を浮かべた。が、浮かべた瞬間、ぽきり、と小さな音が鳴った。
「やっぱり人型の叫び声は耳に残りますね。……まぁ、それはそれとして、こっちは何か……何なんですかね?」
二匹の魚と言って良いのだろうか。彼の腰ぐらいの生物。下半身は二本足の獣で、上半身は魚で。そんな奇怪な生物同士の下半身が繋がっていた。交わるように互いの足を組み、まるで二匹の生物がくっ付いたかのように下半身同士が繋がっていた。その状態で胴体部分を糸で巻きつけられ、巣に囚われていた。ひく、ひくと時折思い出したかのように震える体を見れば、まだ生きているようだった。
それを見ながら、リオンが首を傾げる。
「生殖中?」
それに応えるのは、ぽい、ぽいと小さな生物を袋詰めしながら交わる生物に目を向けたガラテアだった。ガラテアに目を向けられても怯える風もなく、しいていえば震える体の速度があがっただろうか。それが尚更に、彼に違和を感じさせた。
そして、ガラテアの言葉。
「生殖中?」
再び、くてっと首を傾げるリオンであった。
「うん。ほら、子供作るための行為?」
「子供……ティアが知っていて私が知らないとは」
「ミケネコが教えてくれたもん。女の子には必須知識だって」
一旦捕える手を止め、空中で腰に手を宛てて自慢気にえっへん、とばかりにリオンを見下ろしていた。
「……差別です」
「区別だよ」
「どの辺りが?」
「爬虫類だからって卵をぽこぽこ産んじゃ駄目だって言われたんだもん。パパに食べられるから産んじゃ駄目って言われたんだもん!」
「いやいや、誰が義娘の卵を喰いますか」
「ほんと?」
じっとりとした目で彼を見つめていた。
そこに信頼は見られなかった。
「疑い深い義娘ですねぇ。ティアの子供なら私の孫でもあるわけじゃないですか。それを食べるのは駄目でしょう」
「私の子じゃなかったら良いんだ」
「それは当然では?」
再三、首を傾げた。
「うん。やっぱりパパはそんな変な人間だよね。ミケネコの認識は正しいよね」
しみじみと頷く義娘であった。
そんな義娘にこれが噂の反抗期か、と阿呆な事を思い浮かべながら、その原因を作り出したであろう彼女を脳裏に思い浮かべる。浮かべた瞬間、指を指されて笑われる始末であった。そんな幻想の彼女を脳裏から消し去るように頭を振り、再び袋詰め作業を開始したガラテアへと声を掛ける。
「……ミケネコ君の言う事は聞かないんじゃ?」
「都合の良い時は聞くもん」
自由であった。気ままであった。
そんな義娘に苦笑を浮かべながら、彼は再度その奇怪な生命体に目を向ける。それらの感情を彼が理解できるわけはない。二人絡まり合い、捕らわれたそれが思う事など理解できるわけもない。まして、魚類の事など食材としか考えられない。だが、それでも彼の中で分かった事がある。
「で。雄と雌が何やらこんな風に致すと子が産まれる、と」
言われればなるほど、と納得する事もある。野山で蝶が重なっているのを見た事がある。蛙が島の上で重なり合っているのを見た事がある。他にも思い出す事はある。
「素朴な疑問としては、とりあえず逃げる方が大事ではなかったんですかね?いえ、逃げられないから子孫を残そうとしたとかですか?」
逃げるよりも大事な事なのだろうか。それとも、一度始めてしまえば逃れられないぐらいに体力を消耗する行為なのだろうか。それをせねば生きている意味がないと言わんばかりに。後に何かを残す事に、意義を感じているのだろうか。
「パパもミケネコもそうやって産まれて来たんだよ?お母様は分からないけれど。私も分かんないけど。私のお父様って何なのかな?もしかしてお母様だけで産んだのかな?流石『私』のお母様!」
「そう言う事もあるものですかね?……それにしても、何とも不思議な感じですねぇ」
「こんな所で産んでも囚われの子が産まれるだけだけどね。産まれた瞬間蜘蛛の餌だけどね」
それでも尚、望むと言うのだろうか。そんな運命を決められた子を産み出す事に何の意義があるのだろうか。
「世知辛い」
自然とそんな言葉が彼の口から産み出される。それではまるで、産み出された子を犠牲に、自分達が生き残ろうとしているようではないか。
そんな姿に。
囚われの子を生みだそうと励む魚と獣の合の子達。その姿に、ふいに彼の脳裏にエルフと人間の姿が思い浮かぶ。パンドラの母とそして―――
「ははっ!あぁ、なるほど。それで私に教えなかったわけですか。まったく……変な所で馬鹿なんですから。私がそんな事を気にするはずもないでしょうに」
最初に笑いが、次いで苦笑が浮かんだ。
ガラテアは彼と彼女は同じ匂いがするといった。
それはもしかしたら、血の匂いだったのだろうか。
「いやはやしかし、なるほど。だったら、尚更、守らないとですねぇ」
「パパ?」
「なんでもありませんよ。まぁ、がんばりましょうかね。もう一つ理由が増えましたし」
「パパ?」
「まぁあれです。ミケネコ君はおばさんですねぇ」
「パパ。今の言葉、ちゃんとミケネコに言うからね!」
「……懐柔されている!?」
娘のパンドラへの依存度の高さに辟易しながら、彼は先を行く。
彼にとってたった一人の、世界でたった一人の――――を守るために。
―――
蜘蛛を追うわけでもなく。ただ行く先が同じであったが故に、蜘蛛の消えて行った奥へと向かう。逃げる蜘蛛にすれ違い様に殺されたのか、腸を撒き散らした生物がそこかしこに見えた。それに何の感慨も浮かべず当たり前のようにそれをその場で拾い上げながら先を行けばいつしか彼らの耳に『声』が聞こえてくる。
最初にその『声』に気付いたのは当然、ガラテアであった。時折うるさそうに耳を押さえる義娘を訝しげにリオンが見ていたのも暫くであり、その音が聞こえるようになった瞬間、彼もまた耳を押さえた。
『アァァァァァァァァァァァァ』
それは女の叫び声のようであった。
地の揺れに合わせて小さく響くその叫び。
甲高い悲鳴のような、沈んだ山でいつか聞いた金属を引き裂いたような音が、仄暗い水の底から浮かび上がる泡のように、じわり、じわりと彼の耳を侵食していく。耳朶の中を蟲が這いずっているかのようだった。その蟲が耳を通り鼻の後ろを通り、目を跨いで脳髄へと向かう。意識が、思考の全てがその音に埋め尽くされ、自然、意識を失いそうになり、膝が崩れ落ちそうになる。それを、進む足を止めて、耐える。
今の彼には耳が片方しか押さえられない。空いた耳から伝わる音に眉根を歪め、歯を食いしばる。だが、それだけでは不十分だった。脳を這いまわる幻の蟲は脳髄を揺らし、結果、吐き気と共に強烈な感情の揺れが彼を襲う。
自然、彼の中で一つの願望が産まれる。耳を引き裂き、その機能を奪いたくなるという願望が。音を聞く機能があるから今の自分が苦しいのだ。なければこの苦しさはなくなる。だったら壊してしまえば良い。引き裂いてしまえば良い。そんな感情に流されそうになる。それを行う腕が、手が無かった事が幸いであった。いや、腕があれば耳を押さえて防ぐ事もできたであろう。
「ティア、大丈夫ですか?」
気を逸らすようにガラテアに声をかければ、大丈夫じゃないとばかりに耳を押さえながら苛立ちに任せて蹴りを入れて壁を破壊していた。がし、がしと鳴る破壊音が、しかし、今の彼には心地よささえ感じる程だった。
「駄目そうですね」
「うん。駄目」
その心地よさに、脳を這いずる蟲が少し減った。それだけで自分を取り戻すには十分であった。だが、これから行く道が、向う道がずっとこんな音に染まっているのだろうか。寧ろ今より大きくなるに違いない。そんな想像に身を震わせる。だが、立ち止まるわけにもいかない。耳を押さえながらでも、歯を食いしばりながらでも、壁を壊しながらでも先へと進む必要がある。
こんな声を聞きながら。
こんなにも心に響き渡る声を聞きながら。
「……匂いならまだしも、ですね」
音が聞こえなくなる料理は作り得ない。毒を盛れば作れるだろうか、一瞬本気でそんな事を考えながら、彼と彼女は先を行く。
時折、壁を壊しながら、壁にナイフを突き立てながら、態とらしく音を鳴らしながら歩いて行く。
そうして数日、いや数十日だろうか。或いは数ヶ月だろうか。響き渡る嘆きの声の中を延々と進み、更に時間が経過した。何日経ったのか何てもはや彼らには分からない。それを気にしている余裕もなかった。少なくとも彼らの感覚的には二人が出会い、パンドラの下へと到達するまでに掛った時間よりも尚、長かったと感じていた。幸せな時間とは違い、辛い時間は長く感じるものだからこそ尚更に。
次第、次第に大きくなる音に導かれるように、誘われるように彼らは歩いていた。
より正確に言うならば、生きていられた。生きて、死体の上を歩いていられた。
死体に染まった洞穴を闊歩していた。
逃げて行ったのとはまた違う巨大な蜘蛛が壁面から落ち、腹を向けて絶命していた。醜い足を持った小さなドラゴンがその足を器用に畳み込み、そのまま絶命していた。己の耳を裂き、頭を割って死んでいるのはリザードマンと呼ばれる生物だろうか。もはや原形を留めぬ姿故にそれも分からない。数限りなく。天使も悪魔も、化物もドラゴンも。数多の生物が死んでいた。軒並み、きっと自らの手が耳に、頭に届く生物、その全てが己の頭を割って死んでいた。
自殺者達の作り出す赤絨毯。
こんなにも生物が死に溜まっている場所は彼らにとっても初めてであった。ガラテアの母が眠る墓よりも尚、死の濃い場所だった。
この声を聞いた時に耳を引き千切りたいと思ったのは彼とて事実だ。だが、頭を割ってまでこの音から逃れようとする生物がいるとは流石に彼も思わなかった。自らを殺してしまう場所へと近づいて、それで自らを殺すという意味の無い行動が彼には理解できない。まるで、そう。彼ら自身の命は彼らのものではなく、何か命令で動いているかのようであった。例えば、ガラテアの母親が殺された時のような、仲間が死んでも、死んでも襲いかかっていた天使達のように。
その事実に、この先に神様がいる事を期待する。流石に自分で作った生物を無意味に殺す命令は下さないだろう。いや、それも是かもしれない。だが、こんな場所で死なせる必要はない。だから、きっとこの先には神様がいる。
それを期待しながら、変わらず続く叫び声に……神様の声に耳を傾ける。
「ティア。確認ですが、この声、怒っているのとは違うように聞こえませんか?」
「と、思う」
もはや慣れるほどにその音を聞いていれば、その声に含まれる感情の類推ぐらいは彼にも出来た。
その声に含まれた感情は、慟哭。
それが純粋な殺意などであれば、彼や彼女は死んでいたであろう。そこに込められた感情が慟哭であったらこそ、彼らは今も生きていられる。数多の生物の死体の上を歩いていられる。血と腐敗だけに包まれたこの場所を生きていられる。
彼には怒りも悲しみもないが故に。それを幸だとも不幸であるとも思えないからこそ。彼はその場に立っていられた。そしてその義娘は生まれながらにして生物としての格が違うが故に。だが、しかし、そんなガラテアであってもここ数日は、酷く元気のない様子であった。リオンに返す言葉数も少なくなっていた。ここに至り、彼よりもガラテアの方が苦しんでいる様子であった。
いつしか彼女は、リオンに手を引かれるようにして道を行っていた。袋を引き摺りながら脂汗を浮かべながら歩いていた。だが、彼女もまた、止まる事はなかった。彼女の宝物を守るために。
「素朴な疑問なのですがね、ティア」
「何?」
「いえ、ティアにあの牢屋から真下に向かって穴をあけてもらえば、もっと早く」
「……パパ、今更過ぎるよ」
「まぁ、そうですよね」
「うん。二歳児に求めすぎたら駄目だよ」
「厳しい義娘です」
「こんな可愛い娘に失礼よ」
そんないつもの戯言にも、もはや明るさはない。
大きな、巨大なドラゴンの死骸、腐る事もなく真新しいその肉の上を越え、時にはその死体の中を通過しながら、包丁を肉に刺し、切り落としてはそれを喰らいながら先を行く。もはや腐敗させるための生命すら存在しない。蛆の一つも湧いていないそんな場所だった。例えそんな小さな生物でもその嘆きの中では生きられない。そんな死しか存在しない場所を進む。見た事もないような大きさの天使が死んでいれば、巨大な悪魔もまた自らを裂いて死んでいる。
叫びの中心、嘆きの中心へと向かえば向かうほどに。
巨大な空間を死体が埋め尽していた。
軒並み全ての生物が自殺し尽していた。
自らを殺す事を是として、その中心へと向かって行っていた。
近づけば近づくほどに大型の生物が死んでいた。弱い者から死んでいく。小さな者達から死んでいく。いいや、そうではない。弱い者が先に死ぬのならば、リオンが真っ先に死に絶える。
響く慟哭に乗せられた感情を理解しえないとしても、きっとそれだけであれば、彼が生きている事は出来なかっただろう。
それだけならば、それだけならば天使、悪魔、ドラゴン、化物達と同じだろう。彼らに感情などあるのだろうか。命令だけを聞く者達にそんな機微など理解できるはずもなかろう。彼と同じく何も備わっていないのではないだろうか。無理やりに嘆きの感情を植え付けられても、彼らが死に至るとは言えない。
故に。
それだけではない。
彼らの何倍も何十倍も大きいドラゴンが己の首を引き裂いて死ぬような場所にただそれだけの理由で生きていられるわけがない。
「パパ、なんで……平気なの?」
ガラテアの頬を伝うのは強制的に流れ出た液体であった。拭っても、拭っても、いつしか自然と瞳の奥から流れだすそれを、涙といった。これまでに体中の全ての水分が失われてしまいそうな程の量を流しているに違いなかった。魔法で産み出した水を口腔から取り入れ、袖で涙を拭う。そのガラテアの姿を見れば、自殺している生物に比べればかなり余裕はあったのだろう。灯りとなっている炎も変わらず彼らの廻りを飛び回っているのだから尚更だった。
「最初よりは楽ですが、平気ではないですよ」
俯きながら、足元の死体を、骨を蹴り飛ばし、音を作り出しながら問う義娘に振り返り、口を開く。眉間の寄ったその表情を思えば、彼が楽をしているわけでもなければ、辛くないわけでもないのが良く分かるといったものだ。
「辛いは辛いですが、ティア程ではないんでしょうねぇ。きっと、人間だからじゃないですか?」
「……人間?」
「人間を作った神様が、この場にいるなら。自分の子を痛めつけるような親ではなかったという事でしょう。こんなにも嘆いているのに、優しい神様ですねぇ。ティアが大丈夫なのももしかすると……」
「形?」
「だと思います。あるいは……」
ガラテアの母が人の精を取りこんでいたか、だ。真実など分かるはずもない。少なくとも、死屍累々と自らを裂いて死んでいるドラゴン達とガラテアの違いは人型である、という事ぐらいのものだ。であればそこに理由があると考えた方が妥当なのだろう。もしかすると彼女の母親であれば最下層まで到達する事ができたのかもしれない。いや、どうだろうか。数多の首が先に死に至るか、自らを壊すためにあの彫像のように美麗な体を喰らい尽くすかもしれない。そう考えれば、人間を除いて、ガラテア以外にここに到達できる生物はいなかった。
「ミケネコ君も……いえ」
苦笑する。
優しい神様が嘆き、世界を壊すからこそ、彼はこの場に立っているのだ。
優しい神様が嘆き、世界を壊すからこそ、彼女は死なねばならないのだ。
そんな苦笑を浮かべるリオンに、ガラテアが眉間を寄せる。寄せた瞬間だった。
久しぶりに違う音を彼と彼女は耳にする。
彼らを越えて空を飛ぶ巨大な生物が見られた。山と呼べるほどではない。だが丘と呼べる程には大きいだろう。そんな巨大な生物が、彼らに目を向ける事もなく、彼らの頭上を飛んで中心へと飛んでいく。幾何形状の生物が翼をはためかせて飛んでいく。それの作り出す風に体を持って行かれそうになるのを耐え、耐えていれば、ぷつん、と風が止む。音が止み、再び女の叫び声に似た慟哭が洞穴を包む。そして、遅れて、ぱしゃん、という軽い音が彼らの耳朶に響く。確かめるまでもなかった。白い液体と悲鳴をまき散らしながら、天使が己を壊しただけだ。そんな天使の末路を思ったのかガラテアが、薄暗い笑みを浮かべる。辛そうだった表情から一転、嬉しそうに笑みを浮かべる。
「ティア。涎、垂らさない」
「だって、天使が死んだんだよ!あんなにおっきな天使が自分を殺したんだよ!一杯食べられるよ。私、いっぱい……おなかいっぱい食べられる」
「生食は駄目ですよ、ティア」
「私、あれはあのままが良いの」
「……何とも許し難いのはパパとしてなのか料理人としてなのか」
戯言を。
少し明るくなったそんな戯言を交わしながら。
死体の上を歩く。死体の中を歩く。死体の下を歩く。
「しかし、神様に何があったのでしょうね?」
笑い過ぎたからだろうか。再び、流れ出したガラテアの涙を、笑みを浮かべながら、涙を零すガラテアの涙を指先で拭う。
「死にたいぐらいに悲しい事があったのでしょうか。全部壊してしまいたいぐらいに悲しい事があったのでしょうか。いえ、そうですね。他の神様に虐められて、挙句の果てに御友達だったエルフさん達の大陸が亡くなったのでしたっけ……それは、きっと悲しいでしょうねぇ」
加えて、何もかもがこうやって襲いかかって来る。誰も彼もが自分を殺しに来る。そんな場所に延々と一人。いいや、永遠に一人。
その悲しさを理解する事はできない。だが、永遠に一人でいる事に関しては、彼にも少し理解できた。それはきっと、耐えられるものではないだろう、と。
「人の神様は悲しみに泣いて、泣いて世界を、大陸を壊す、と」
止まらない叫び声に、彼はそう口にした。
泣いた子供を泣き止ます事ぐらいなら彼にも出来るだろう。けれど、泣いた親をどうにかする事など、彼には出来ない。彼に出来るのは料理ぐらいのものだから。
でも、今はその料理もする必要がない。
「さて、ティア。食べ過ぎは駄目ですからね?」
「はーい」
だから、そんな娘が食事をしている間ぐらいは、考えてみようと思った。
きっと、彼女は、そんな一人ぼっちの神様が泣きながら死ぬ事を望まないだろうから……。
「泣いている親をあやした経験はないのですが……」
頭をぽりぽりと掻きながら、呟いた声は、嘆きの声に掻き消えた。
―――
到達点。
一歩足を踏み入れれば、地面を埋めるのは水だった。浅い、リオンの足首ぐらいしかない薄い水の層。綺麗で、冷たい水だった。
巨大な空間であった。二人が出会った場所よりも更に広い空間だった。反対側が見えないぐらいに遠い場所であった。天井は球状あるいはすり鉢状と呼べば良いのだろうか。ここは、球状の、巨大な地下空洞であった。
そう。
そこは、遠くまでを見渡す事が出来た。
鈍く光る花々。薄らと自ら発光している花。その花を見て、ガラテアが自然と炎を消した。瞬間、訪れるのは闇の中に浮かび上がる花畑だった。
広いこの空間全てを埋め尽すような数の花々。見渡す限りの花畑。白、黒、青、赤、黄、色取り取りの花が咲いていた。背はそれほど高くなく、彼の膝ぐらいだろうか。水の中に、水底に根を張り、思うがままに花を咲かせていた。
香る匂いも彼が作りだしたような芳香剤とは違い、酷く優しい香りだった。叫びは消えず、しかし、自然、二人の心が落ち着きを取り戻して行く。
肩の力を抜き、その場に座りそうになる己を律しながら、周囲を見渡せば暗がりに一際目を引くのは赤い花だった。他の花々も綺麗ではあったが、しかし、その赤い花の形が、酷く珍しく、彼らはそれに見入っていた。六枚の薄い花弁が放射状に咲く花。この世の物とは思えぬ、神様が直接作りだした花のようにさえ感じるほどだった。
この世の物とは思えぬようなもの。彼岸を越えた向う側に咲く花。彼岸の花。
まさに、この場に適した花に思えた。
「ミケネコ君にも見せてあげたいですね」
「うん」
帰りに一本ぐらいなら貰って行っても良いだろうか。目が覚めた彼女にこんな素敵な花があったのだと伝えよう。そんな事を考えながら、彼女とまた再び会える日を思い浮かべる。
ぱしゃ、ぱしゃと水音を鳴らしながら先を行く。
花々を手折らぬように間を抜けながら、その空間の中心へと向かう。
先程から、彼らの視界に入っている。
見えている。
光を放つ白い花に照らされたもの。
それはこの広い空間の、中心に位置していた。
水底と球状の天井を、天と地を結ぶ程の大きさ。それだけを見れば、一見して巨大な樹木であった。そこに生茂るように生えているのが葉であれば、或いは枝であれば確かにそれは生命の樹と呼べるものなのだったかもしれない。だが、巨大な幹に挟まれるように空中に留まっているのは脳であった。脳から天井へ、脳から水底へ繋がる幹の一つとっても想像を絶する太さであった。
「でっかいですねぇ……見るからに神様っぽいですよねぇ」
「気色悪い」
ガラテアの母よりも尚大きい、脳であった。脳を形作る脳溝、その溝の一つ一つが彼らの身長の何十倍もの幅だった。それが無数に、無限の如く折り重なりそれが出来あがっていた。蜘蛛の巣より複雑に、蜘蛛の巣よりも気色悪く。
その巨大な脳。見る限りではどこにも口は存在していない。しかし、それを中心として嘆きが延々と紡ぎ出されていた。鳴り止む事のない音。作られた音は周囲の花を揺らし、水面を揺らし、天井まで届き、それが振動となって世界を揺らし、己の体を壊す。
神の嘆きが大陸を壊す。
世界を壊す神が、そこに居た。
「食べがいがあるにしても程があります」
「やっぱり食べるんだ」
「勿論です。そのために来たんですから。とはいえ、どこから食べましょうかね」
ガラテアの小さな手から、いつしか引いていた手を離し、ぴちゃ、ぴちゃと水音を鳴らしながら神と対峙する。
人間を産み出した神と子の対面であった。
「何から言えば良いのか悩むところですが……まずは、そうですね。産み出してくれて、ありがとうございます」
ぽつ、ぽつと小さな声が彼の内から産み出される。もはやここに至り、彼我の距離など関係ない。彼は、彼が思うがままの言葉を紡ぎ出すだけだ。
「この世界を、人間を」
そうでなければ、ここに自分はいないから。
「それが幸福だったのか、不幸だったのか。他の方がどう言うかは私には分かりません。駄目な親の子だと言われた事もありました。ですが、少なくとも私は、楽しく過ごして来られましたので、幸福だったのでしょう」
産まれた瞬間に、使役される事が運命づけられていた。
産まれ、育った場所から追われた。
それでも尚、彼は前へと進んだ。
そして出会った。
「きっと、神様には伝わらないのでしょうけれど。でも、まぁ、言わせて下さいな」
一歩、一歩。
続くようにガラテアがちょこちょこと小さな体を動かし、パシャパシャと水音を作りながら彼に続く。
「一人のエルフに会いました。いえ、エルフとは言えませんかね。貴方の御友達の作った子と、貴方の子の間に出来た者ですから、そういうのはなんといえば良いのでしょうか?」
パンドラ。
最初の咎は、最初の罪は、きっと交わった事なのだろう。己の神を殺されたエルフ達を助けてくれた人の神の子供を実験に使った事なのだろう。例えば動物と、例えば化物と交わり子を成したかのようなそんなものなのだろう。呪われた産まれの子。けれど、一方で希望と冠され函の中へと。人と交わる事で生存能力を高めるように作られた者。そんな都合の良い存在を産み出した事。それ自体がエルフの罪なのだろう。
けれど、それでも。
「彼女に会えた事を私は良かったと思います。彼女がそれをどう思うかは知りません。私の勝手な感想ですからね。ただ、そうですね。私にも分かる事があります。散々、馬鹿だなんだと言われていますが……ミケネコ君に」
脳裏に浮かぶ彼女の姿に、苦笑する。
そして、一瞬、息を止め。
「―――私の『妹』に罪なんかありません」
神を見据えた。
「彼女が産まれた事は幸いでこそあれ、罪なんかじゃ決してありません。誰も彼もが彼女の死を願うかもしれません。彼女の母親ですら、きっと産まれて来なかった方が良かったと思っているのでしょう。だから、自分が全て悪いと仰っていたのでしょう。父を逃がせば良かったと言ったのでしょう」
実験動物として望まれたとしても、子供として、一人のエルフとして誰かに望まれて産まれた子はないのだろう。ガラテアとは違い、母にも父にも望まれていなかったのだろう。エルフの村で見た小屋を思い返す。見ない方が良かったと言ったパンドラの言葉を思い返す。自分の父親は五体満足でパンドラの母と交わったのだろうか?死に至る直前でも交わって子を産み出そうとする程に望まれたのだろうか?傷一つで爆発すると言われるエルフを、それを知ってなお求めたのだろうか?きっと違うのだろう。人間を生物と認めていないエルフがそんな気遣いをするはずもない。だから、きっと父は怨嗟の声を挙げながら死んだに違いない、そんな事を思いながら、彼は再び苦笑する。
父に同情しているわけではない。ただ、出来うるならば彼女の事を望んでいて欲しかったと、そう思うだけだ。
「嫌な世界です。あの子が死ななければならない世界は良い世界ではありません」
綺麗な世界だ。
とても、とても綺麗な世界だ。
この場を見ればそんなことはすぐに分かる。どれだけ人間の神が世界を愛していたのかという事など、すぐに分かる。こんなにも綺麗で素敵な場所を作り上げた神が、世界を、自分達の子を愛していないわけがない。
「こんなに可愛らしい義娘もできました。普通の親が子を持つ意味を理解できたとはまだ言えないかもしれません。ですが、とても大事なのは分かります。貴方もそうでしょう?だから、私達がここに居られる。辛くはありますが、それでもあんな怖い生物が軒並み自分を殺してしまう場所に私達がいられるのはそういう事でしょう?とっても良い世界だと思います。唯一、彼女が死ななければいけない世界だと言う事を除いて、ですが」
けれど、彼女を犠牲にしなければ生きていけない世界ならば、彼女が死なねばいけない世界だというのならば、壊れてしまえば良い。そんなものを作った神様ごと、壊れてしまえば良い。
「神様、どうか大人しく死んでください。世界を壊す事なく、無意味に死んでください。彼女が生きていける世界を作るために。勝手な言い分だと言う事は理解しています。どうか、殺されて下さい。大人しくしていてくださいね」
たった一人へ向けた思い。
どこかの誰かの為なんかじゃない、たった一人だけを望み、神を殺す。
「私が、貴方を食い殺してあげます」
それは神を切り裂けるのだろうか。
神に作られた金属でしかないそれで、神を切り刻む事はできるのだろうか。
右手に歪んだ包丁を持ち、
「……でも、そうですね」
一歩、また一歩と近づきながら笑う。
笑ってしまう。
そんなリオンに付き従うようについて来ていたガラテアが、はっと気付いたようにリオンを見上げれば、リオンもまた、パンドラを見据えてその頭を撫でる。
「……ミケネコ、馬鹿だもんね」
「そうですね。あの子馬鹿ですよね、ほんと」
きっと、言われるだろう。一人ぼっちの神様が、泣きながら自らを殺そうとする神様を、ただ食い殺したと伝えたら、きっと煩く、文句を言うだろう。
「死にたいと嘆いている貴方が居なくなる事も、あの子は嫌がるのでしょうね。人間の神様の事が好きだって言っていましたし」
博愛主義にも程がある。
自ら産み出したエルフと人間。それを産み出した者を彼女は好きだと言っていた。それが失われたと知れば、彼女は悲しむだろう。自分には全く関係のない、自分を殺す存在であるにも関わらず。彼女は嫌がるだろう。そうでもなければ、あの場所に居続けるなんて馬鹿な事をやれるわけがない。どこかの誰かの未来の為に、あんな場所で一人きりで耐えられるわけがないのだ。
だから、彼がそう口にしたのは、誰の為でもない。まして、神様のためなどではない。彼女が願うからに過ぎない。
「本当、馬鹿な子なんですよ。貴方に捧げられれば貴方の悲しみや怒りが押さえ込めるなんてそんな馬鹿な事を考えているんですよ。そんなわけないですよねぇ?あなた別にあの子の命なんていらないでしょう?寧ろ逆に悲しくなるんじゃないですかね?」
彼女自身もそれを理解している。
それでも、あの場所から逃れる事ができないのだから、それだったらもう壊してあげるしかないだろう。妥協を産みだすための案は、これしかなかった。
「今だってこんなに泣いているんですから。大好きなエルフと人間の間に出来た子が死んだら、なおさら悲しいでしょう?」
涙を流す機能はなくとも理解できる。
「泣いてばかりいたら、疲れますよ。泣いている親をあやすには、何が良いのかと色々考えたんですが、良いのが思い浮かびました」
右手に持った包丁をくるくる手の内で廻し、己の頭へと切っ先を宛てる。ぽん、ぽん、と突くように。
「夢を見ていてください」
笑う。
悲しみもなく、怒りもないその表情で。
ただ、彼は笑う。
いつものように前を向いて。
「寝てください。眠るように死んでいてください。死ぬように寝ていてください。ずっと、寝ていてください。そうすれば彼女も安心できるでしょう。神様が良い夢を見ているって言えばきっと納得できるでしょう。えぇ」
寝れば、夢を見る事ができる。
泣く必要のない優しい夢を見る事ができる。
例え脳だけの存在だとしても、夢を見る事はできるだろう。
いいや、脳だけの存在だからこそ夢を見る事ができるだろう。
「だから、寝ていられるように、貴方を寝かせるとしましょう。材料は……貴方の、その脳です。こんなにでかいんですから少しぐらい脳を切ったり食べたりしたぐらいで死ぬ事もないでしょう?」
「普通死ぬよ!パパ!」
「ミケネコ君に似て煩くなってしまいましたねぇ……この子は。ちゃんとティアの分も作りますから大人しくしていて下さい」
「パパがおかしいんだよ!あと、私、お腹いっぱいだからいらない!」
「食べ過ぎですよ、まったく。折角の神様ですよ?勿体ない」
そうは言いながらも、彼は義娘に向けて笑みを浮かべる。
「話が逸れました。神様。ねぇ、神様。そろそろ休んだらどうですかね?大陸ができる前からずっと辛い時を一人でがんばってきたんでしょう?だったら、少しぐらい休んでも誰も文句は言いませんよ。楽しい夢を見てください。それはもしかしたら、一瞬かもしれませんけれど……それでも無いより良いでしょう?」
「おやすみ、神様。良い夢を……」
こうして、人の神は人間に殺された。
たった一人の想いによって神は死を迎えた。
だが、殺され、死んで、それでも尚、神は夢を見ていた。
死にながら夢を見ていた。
死んだまま夢を見ていた。
永遠に続く夢を見ていた。
目覚める事のない優しい夢を見ていた。
もう自殺しないように。
自らの悲しみでその体を壊してしまわないように。
死せる神は夢を見る。
洞穴の最奥にて目覚める事のない夢を見る。
そして、それを成した人間は、永遠の呪いを受けた。
神を殺したが故に。親を殺したが故に。
神を喰らったが故に。親を喰らったが故に。
悪魔を、天使を、ドラゴンを、化け物を。神々の作り出した存在その全てを食し、その創造主の一柱すら喰らったが故に。
喰われる事を恐れた神々に恐れられ、近寄る事すら忌避される存在となった。
この世界で最も呪われた者と成った。
そんな呪いを受けた人間が、混血の少女に彼岸の花を渡せたのは、その少女が目覚めたのは、それから優に二十年を超えた頃だった。




