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自殺大陸  作者: ししゃもふれでりっく
閑章~パンとドラゴンがあっても、神様を食べればいいじゃない~
73/87

第8話 神様の殺し方

8.



 始まりがあれば終わりがある。

 明けない夜がないように、そんな彼らの穏やかな日々もまた続かない。

 彼らの人生の何分の一ぐらいだっただろうか。彼らが今まで生きてきた長さを思えば比較的、長いといえるだろう。彼の義娘であるガラテアにとってはその生きた時間と殆ど変らない。

 だが、少なくとも彼は、それを短かったと言う。

 楽しい日々は短いものなのだ。

 楽しい時間は一瞬なのだ。

 それはきっと誰もが同じ認識だろう。人でなくとも、時の流れを感じられる者であれば誰であっても。

 楽しければ楽しいほど時の流れは早く感じられる。それはきっと、真理に近い何かなのだろう。

 ならば、その逆は永遠だろうか?

 残酷で苦しい日々は永遠で、楽しい日々は刹那で。そんな儚い時間だけしか楽しめない人生を生きていくことに何ほどの意味があるだろうか。きっと、意味などない。いずれ全ては死んで無に還るのだから。けれど、それを理解し、それでもなお、そこで真摯に生きていくことにこそ意味がある。そんな風に考える少女の思考など彼には理解できなかった。まして、どこかの誰かのために死ぬことを運命づけられ、それを是としている者の台詞ではないと彼は思う。いや、だからこそ、なのだろうか。

 歪んでいる。

 そう思う。

 彼自身、自分が歪んでいることを理解している。そんな風に歪んでいる彼女に同情する事も、その境遇に怒りを覚える事もできない事のおかしさを、彼は義娘の存在を通して知った。

 そんな彼でも分かるほどに彼女もまた歪んでいる。『人でなし』と言えるぐらいに歪んでいる。彼女に比べればまだ彼の方が『人』だろう。

 人間も、エルフも、生物そのすべては、自己を守るように作られている。自分の身が一番大事なのはどんな生命だとて同じである。だが、彼女は違った。他者を基点とした行動をしている。自己を蔑にして利他を求める。そんな生物は生物として真っ当な存在ではない。そんな彼女を作り出したのは彼女の生まれであり、成長した環境なのだろう。自分の今が環境によって作られたからこそ、尚更に彼はそう思う。パンドラがいつから牢にいるかを彼は知らない。その生の大半を薄暗い牢の中で苦しみながら過ごしていれば、そんな短い幸せのために生きていられるなどという境地に達するのだろうか?『他人』のために命を失う事を是と出来るのだろうか?

 答えが返る事のない問いだった。

 もしかするとそれは彼女の精一杯の強がりで、偽りなのかもしれない。だが、少なくとも、彼女がこの状況を是としている時点で、そこに大差はない。

 生まれを罪であるとパンドラは言った。作られたとエルフ達に言われていた。そんな彼女が希望と呼ばれている。だが、それでも牢の中である。希望は牢の中。きっと、どちらのエルフの立場も大差はない。彼女に悪であれと願っているのだ。罪の証たれ、と。馬鹿馬鹿しいと彼は思う。生まれることに罪などありはしない。生んだのは親達なのだから。あるとすれば、その親たちにこそであろう。もし彼女が罪であるというのならば、その罪はエルフ達にこそある、と彼は思う。もっとも、彼は彼女に罪があるとは思っていないが……。

 彼女が神への生贄として捧げられ、死ぬこと。エルフにとっては大事な事なのだろう。だが、彼にとっては何の意味もない事だった。そんな意味のない事でパンドラを失うのは酷く残念な事であり、止めたいとさえ思っていた。死なぬならば彼女の好きにすれば良い。暗い地下牢に囚われている事を是とするのも、エルフに傷を付けられている事も。死んで冷たくなってしまわないならば、別に構わない。けれど、そうでないのならば、止めたいと思う。彼だって『人』なのだ。それに、彼の夢を叶えるには彼女がいなければいけないのだから。

 けれど、彼女はそれを受け入れている。今の立場を受け入れている。

 そんな彼女を阿呆であると思う。馬鹿であるとも思う。

 時折、そんな話になっては阿呆だの馬鹿だの言い合いをしているものの、互いに譲る事はなかった。それなのに喧嘩になっているわけでもないのが、尚更に彼と彼女のおかしさを助長していた。

 『人』には分かり得ないのだろうか?

 パンドラとそういった事を話すたびにリオンの頭には疑問ばかり浮かぶ。

 そんな疑問ばかりが浮かぶ中、彼が彼女との会話で理解している事といえば、彼女に死なれると夢も叶わなければ帰る場所もなくなるから困るという事。そして、きっと今の彼女を産み出したその最初の切っ掛けが自分の父親であり、父親が何かをした結果、彼女が誕生し、自らを罪であると自称する彼女の今があるという事。そういう意味では、碌な事をしない父親だと思っていた。が、同時に彼女が『居る』という碌な事には感謝すら覚えていた。

 彼に理解できていたのは精々、それぐらいだった。

 もっとも、彼がそんな事を理解していてもパンドラの何が変わるわけもない。

 『人』と『エルフ』の境界線。

 辿るのはその平行線。それが故に、いつしかそんな風に話し合う事も少なくなっていった。

 時折思い出したように言い合ってはいたものの、おかしいのはお互い様。

 いつもそんな平行線を辿って終わっていた。

 そんな二人の平行線を橋渡しできるのは、彼の、彼らの義娘であるガラテアだけであろう。彼らの中では一番まともな生物である。人間とは違う尺度であろう。だが、喜怒哀楽、そのすべてを正常に持っている。その内、父親に甘える事もなくなり、ドラゴンとしての本能が強く出ることであろう。そうして人間のいう所の喜怒哀楽その全てが薄れて行く事だろう。

 だが、それでも彼らの中では一番まともである。

 自分の感情に従い、己の為に自由気ままに行動できる。

 生物として当たり前の要素。それがガラテアの内にはある。

 そんなものが欠片でも、ガラテアの百分の一でもパンドラの中にあればまた違ったのかもしれない。

 そう。

 少なくともパンドラがあの場所に居続けなければ穏やかな日々は終わっていなかった。

 リオンが夢見た光景もすんなり叶っただろう。三人で森を散策し、山を散策し、川を泳ぎ、湖で戯れ、洞穴を一緒に散策する。そんな穏やかな日々の中で、もしかしたら彼と彼女の間に子が生まれた可能性もあろう。エルフが言う人の神様の怒りによって世界が壊れても、それでも産まれた子を前に、尚生きようと彼らは努力したかもしれない。怒りを鎮めるためにどうにかしたのかもしれない。そうして彼らの内の誰かが死ぬまで穏やかな日々は続いていたのかもしれない。

 ……だが、そんなこと、ありはしない。

 それは彼女がそこにいる限り、決して叶う事のない見果てぬ夢。悪夢のような夢だった。そんな悪夢を望む思いが神に届く事はない。怒れる神にそんな思いが届くはずもない。

 森を散策し、山を散策し、川を泳ぎ―――そんな穏やかで優しい夢物語。パンドラの描く物語よりもなお、夢を物語るそれ。

 ありえない情景だった。

 彼女がそこにいる限り、絶対に見る事のできない情景だった。

 まして、彼と彼女と義娘の間に、もう一人などと、そんな光景がありえるわけがなかった。



 胎を焼かれれば、子が出来るわけもない。



―――



『ここ数年、世界が動く事が多い。大地の胎動は世界を壊していく。それはあの場所を、私が行った、通った想い出の場所を壊すものでもある。過去を壊し、未来を壊し、この世界の行く末は崩壊しかないのだろうか。それがこの世界の運命なのだろうか。それもまた神の導きなのだろうか。願わくば神の導く先が変わる事を』


 そんな言葉をパンドラが綴ったのは、ガラテアが生まれて三年の年月が流れた頃だった。恰好つけすぎな言葉だな、とそれを読んだ二人は思った。そんな二人の態度にパンドラは不満気な表情を浮かべていた。

 それも当然。

 確かに彼女の言葉は正しかったのだから。

 彼らの思い出は消えていく。

 大地の揺れと共に崩れ落ちて行く。

 一つ、また一つと。

 近くにあった山はもう、無い。

 山が割れ、沈み、あれだけ遠くまで見通せたあの場所も、もはや大地と変わらない高さになってしまった。遠くを見渡した頂上も、黄金色の金属を拾った沢も、それを食べた場所も、ガラテアが初めて作った拙い刃の出来た場所も、パンドラの為に雪を集めた場所も、ガラテアの服を作るために蜘蛛の糸を取った場所も、もはやその全てが存在しない。

 彼が洞穴に迷い込んだその入り口は彼が洞穴に迷い込んだ時にはもう潰れている。その後に辿った道。ガラテアの母親の尻尾と競い合った場所も、真実腐る程の量を投げ捨てたその場も、生きる為に松明の欠片を拾った場所も、腕が歪んだ場所も、もはや、ない。

 エルフの森もまた同じだった。

 幸いにして牢の中は鉄格子が歪んだぐらいだが社の屋根にはなぎ倒された木が覆いかぶさり、ぽつ、ぽつと水が社の中に流れて行く。その水が社を腐らせていく。エルフ達の住んでいた村の跡はもはや見る影もない。同じく倒れた木々が小屋を押し潰していた。そしてオケアーノスと呼ばれた湖もまた。湖の淵が割れ、流れ出した水は濁流を作り何処かへと流れ去った。水面は下がり、一部は干上がっていた。結果、蛙達の居た島は大きくなり、しかし、その島に住まう蛙達の数は減っていた。流れることなく残った水は、滞った水は次第、次第に湖を汚して行き、泳いでいた魚達を殺していく。気ままに湖に潜って魚を取る事なんて、もはや出来ない。

 彼らの想い出はもはやパンドラの記録にしか残っていなかった。

 そして、未来もまた同様だった。

 沈んだ山。割られ、崩れ、沈み、平らになったそこには小さな背の低い木々が生えていた。きっと長い年月が経てば森になるのだろう。終始雪が積もっているように真っ白になったのは沈んだ影響だろうか?森となれば、その雪に彩られて綺麗な森になるのだろう。だが、森になる前に無慈悲に潰えるに違いなかった。きっと揺られ、揺られて大きな穴が空いてしまう事だろう。

 山が沈んだ所為で遠くに酷く背の高い山が見えるようになった。黒い噴煙と遠くからでも見える炎を見れば、炎の山と言いたくなるような場所だった。そんな珍しい場所に、そこまでいこうか?そんなこともリオンとガラテアは考えた事もあった。だが、そこもきっと辿りつく前に崩れてしまうのだろう。

 過去が失われ、未来もまた失われている。

 それを、その想いを彼女は綴ったのだ。

 長く続くこれを、彼女は、そしてエルフ達は『神様が怒っている』と言う。

 これが怒りなのだろうか。果てる事のない神の怒りは自らを殺すというのだろうか。彼にはそれが良くわからなかった。泣こうが、怒ろうがどうでも良い。この揺れが止んでくれるのならば、どちらでも構わない。


『人の神様が死んだらさ、私達も……もう会えないのかなぁ?それは、嫌だなぁ』


 耳に残る、小さな呟き。零れ落ちた感情。思いが滲んだ昨日の会話を思い出し、彼は、なおさらにそう思った。

 けれど、彼の思いなど、彼らの思いなど、そこに住まう者の思いなど一切関係なく、大地の揺れは止みそうにはなかった。

 想い出と共に世界が壊れていく。

 記憶の薄れと共に世界すら壊れて行く。

 止まる事のないそれに、いつしか終わりを感じる者達も出てくるだろう。

 いや、既にいる。エルフ達だった。一度自分達の世界の終わりを経験している以上、それに対しては酷く敏感のようであった。不満の先は当然の如く、弱い物へと。一番弱い物へと。牢に捕らわれたパンドラへと向かう。

 お前は生贄なのだから。神に捧げられる生贄なのだから、死んで世界の崩壊を止めろと。生贄だけではない。彼女に聞いた『希望』という言葉すらもはや意味がすり替わっているようにさえ思える。『昨日、そんな事を言われた』と昨日パンドラから、話を聞いた時に彼はそんな事を思った。

 洞穴の中を歩きながら、その時の会話を思い出す。

 ガラテアがいようといまいと洞穴内には危険は幾らでもある。だが、彼の意識は完全にそちらに集中していた。いつしか、足を止めるぐらいに。


『私、死ねば良いのかなぁ』


 彼の脳裏に浮かぶパンドラの表情は、どこか乾いた笑みを浮かべながら、俯き加減だった。告げる彼女の姿にいつものように馬鹿な事を言い始めた、と彼は一つ息を吐いて、いつもの楽しそうな笑みを浮かべた。


『良くはないですね』


『きっとさ。マリオンとティアがいなかったら、私、もう死んでいたよ。二人の所為だよ。二人の所為で死ぬのが怖くなったんだよ。なんてね。二人に会えて私は幸せだよ。小さな幸せかもしれないけれど、私にとってはすごく大事なもの』


『それは、どうも。……で、ここから出るという選択肢は相変わらずなしですか?』


『私が逃げたらさ、どうなると思う?』


『恐らく、他の生贄が用意されますね』


『そう。私が逃げれば他のエルフ達に、それに人間にも迷惑を掛けるから。逃げられないよ。それにさ、やっぱり私を産んでくれたからさ。そこには感謝しているし、生きていて欲しいと思うんだよね』


『その博愛主義的な発想、私にはさっぱり分かりません』


『うん。だと思う』


 それを気に、会話は一度止まった。うな垂れるように互いに吐息を吐く。そんな微妙な空気がその時、流れていた。しばらく無音続いた後、手持無沙汰に金属細工に励むガラテアに一度声を掛け呼び寄せ、パンドラは手を動かし始める。何もかもを忘れるように、思いのその全てを大きな画布にぶつけていた。

 彼女は絵を描いていた。


「ほんと、器用ですよねぇ」


「パパ?」


 記憶に引かれる彼から思わず声が零れ、それに反応して娘が隣へと。そうして二人並んで歩きながら、二人は昨日の会話を思い出していた。



―――




「もうすぐ終わりですかね?」


「そのつもりだけど。今回は前みたいに破らないから安心して頂戴」


 崩れゆく世界を前に、パンドラは子供の絵を描いていた。明るく、陽のように美しい少女の肖像画を。その少女が生きた瞬間を描きとめようと。神の怒りに負けて全ては無駄になるかもしれない。けれど、それでも彼女は一心不乱にそれを描いていた。例え、この世界がなくなったとしても、それでもなお、世界は美しかったのだ、と伝えるために。人の神様が怒りを持って壊すこの大陸はこんなにも素晴らしい物なのだと、この薄暗い牢の中でも、それでもこんなにも綺麗に微笑む少女が居てくれる事を世界に、神様に伝えんがために。

 それを彼は後ろで見ていた。

 そして描かれている本人は楽しそうに笑っていた。手には雪兎を持っていた。何故それを持っているか?なんて事にはきっと何の意味もないのだろう。彼が記憶している限り、いつも持っている物は違った。大きな画布の外周から中心に向けて描かれて行く絵画。それゆえに、その場所にガラテアが何を持っていようと関係がなかった。たまたま今日は雪兎だった、というだけだ。ちなみに、言葉通り雪で出来た兎であり、列記とした生物である。その雪兎はガラテアの手の内から逃れようと暴れ、暴れた結果、自分自身の体温があがり、溶け始めていた。その溶ける雪兎を魔法で復活させている辺り、義娘は優しい、とばかりにうんうんとリオンは頷いていた。捕まえたのも溶かした原因も間違いなくガラテアではあるが。

 そんな雪兎とガラテアの地味な見栄えのしない攻防が繰り広げられている手の内だけが不自然に描かれていない。

 そこだけがすっぽり絵から抜け落ちていた。そこさえ描いてしまえば、絵に生命が宿るのではないだろうか、そんな風にさえ思える程の迫力だった。ただ、彼も親馬鹿である。本物の方が可愛らしい、とものたまっていた。


「ん。なんか駄目。ねぇ、マリオン。今日はもう休むね……後で倉庫に片付けておいてくれると嬉しい」


 そんな彼の思いなど知る由もなく、パンドラはその部分だけを残して、筆を置いた。きっと次に筆をとったときにその場を埋めて完成なのだろう。手を止めたパンドラの横に立ち、完成間近の絵画を見ながら、パンドラに向いて頷いた。


「了解ですよ」


「うん……おやすみ…………ねぇ、マリオン」


「何です?」


「このまま人の神様が死んだらさ、もう会えないのかなぁ?エルフの神様が死んで、エルフ達は助かったけど、でも全部じゃない。皆が助かったわけじゃない。だから、皆怖がってる。この大地の揺れを、崩壊をとっても怖がってる……また、壊れて今度は皆死んじゃうんじゃないかって。ねぇマリオン。人の神様が死んだらさ、私達も……もう会えないのかなぁ?それは、嫌だなぁ」


 小さな呟きだった。

 感情の零れ落ちた言葉だった。

 だが、矛盾した言葉だった。生贄として死を願われ、それを是としているにも関わらず、そうではない状況を願った言葉。思わず出てしまった言葉だったのだろう。はっと気付き、気まずそうにパンドラは顔を伏せた。その姿を、しかしお構いなしに気付かないふりをして彼は続ける。

 きっと、パンドラがこうして弱音を吐く事は、もうないだろうから。


「でしょね。世界がなくなれば、生きて行く事はできないでしょうし」


「それは、嫌だなぁ……あんな綺麗だった所がなくなるのもいやだなぁ……ねぇ、マリオン。今、世界は奇麗?」


「ミケネコ君自身の目で見ていれば良いじゃないですか」


「駄目。私が離れたら……ううん。それに、もう殆ど見えないんだよね。以前よりもっと酷くなってる」


「……あんなに上手に絵を描いている癖にですか?」


「うん。だから割と想像で描いてる」


「今、私の事見えてます?」


「あんまり。……だからさ、もっと近くで良く見せて。覚えていたいの……ううん。駄目。やっぱり今日は良い。明日、また、明日……お願い」


「ミケネコ君?」


「私、怖くなった。それは本当。諦めていたから。皆の為だからって諦めていたから。いえ、私が死んで皆が助かるなら良いと思っているのは本当。でもね。……今は、マリオンとティアと一緒に過ごしているこの時が失われるのが一番怖い。とっても、怖い。……私が死んだら、皆助かるのかな?私が死んだら、皆、本当に幸せになれるのかなぁ?マリオンとティアも助かるのかなぁ?私が神様に捧げられたら、本当に皆助かるのかなぁ?……ねぇ、マリオン、教えてよ」


 夢という名の毒を知ってしまったからこそ。

 それを願ってしまったからこそ。


「私に教えられるわけないじゃないですか。自分で信じてない事を信じさせる言葉なんて私は知りません。私に出来るのは精々、料理と、ミケネコ君を外に連れて行くぐらいです」


 人の神様が、仲の良かったエルフの神の子の命を求めるはずもないのだから。自らの大陸に住まわせるほど大事にしている者達の命を求めるはずもないのだから。自分の子が死ぬ事を喜ぶ親などいない。義娘の頭を撫でながら、そんな当たり前の事になぜ、頭の良いエルフ達は理解できないのだろうか、そんな疑問を抱く。

 彼には分からなかった。エルフの考えていることが分からなかった。

 だからこそ、尚更に無意味だと思っている。

 彼女が生贄として捧げられる事を無意味だと。それを是とする事もまた意味のない事なのだと。


「……時々、鋭いよね。馬鹿なのに」


「……ミケネコ君。前から言っていますけど、基本的に好き勝手やるのは良いんですが、ミケネコ君が死ぬとなると私も動こうかなと思いますよ?ミケネコ君がいなくなったら帰る場所がなくなりますしね?」


「マリオンならお願いしたら、止めないでいてくれるんじゃないかなぁ?私が嫌だと言ったらマリオン、しないでしょ?」


「ミケネコ君が本当に嫌なのは、死ぬ事でしょう?」


「ほんと、こんな時だけ……怖いだけだよ。このまま生きて皆が死ぬよりも……私だけが死んで皆が助かった方が」


「ほんと、格好付けるのが好きな煩い猫ですねぇ。……まぁ、私が止めなくてもねぇ?」


「私、止めるよ?止めちゃうよ?だって、ミケネコの事を守るって約束したからね。それに、ミケネコ!たまにはパパと私の言う事も聞きなさいよ。ほんと、ミケネコって我儘なんだから」


「ティアに言われるぐらいですから相当ですよミケネコ君?」


「もう……二人ともありがとう。でも―――」


 言葉に詰まり、顔を伏せる。その内、瞳を閉じて彼女はいつしか眠りに付いた。


「また、明日」


 そう呟いて。



―――



 そんな昨日の会話を思い出しながら、彼らは洞穴の中を歩いていた。

 こつん、と頭に触れた感触で意識が洞穴へと戻って来る。


「揺れ過ぎです」


 揺れと共に壁から欠片が落ちてくる。それを頭に受け、つぶやく余裕があるのも、いい加減に揺れに慣れて来た所為だった。

 そんな揺れる洞穴内に今日も今日とて彼らは来ていた。ガラテアの母のいる場所を掃除して、『また明日』とそう呟いた彼女の下へ急いで戻る。その予定だった。その予定が崩れたのは、本当に些細な事だった。

 揺れが新しい道を作ったのだろう。

 興味本位で新しい道を通って辿りついた先が、彼らの物置だったこと。

 それが彼らの予定を崩した。


「やだ。一回帰るの!それぐらい、お母様も許してくれるよ!」


「まだ早いと思いますけどねぇ」


 自由気ままな彼の義娘が、楽しみを殺がれた事によって不満を募らせていた。新しく出来た道、それの続く先が自分達の知っている場所だった、そんな経験をしてしまえば唯でさえ未来が失われている現状、やる気がそがれても仕方のない事だろう。彼も、娘ほどではないが、やる気をそがれ、疲れがにじみ出ている様子であった。加えて、最近はずっと大地が揺れ続けているがゆえに尚更だった。義娘のように浮く事ができるのならばまた話は別だが、彼は人間で、そんな事は出来なかった。

 戻ろうと言うガラテアの言葉を止めなかったのはそんな疲れもあったからだろう。

 いいや、それよりも昨日の会話が記憶にこびり付いていたからだろう。結局洞穴に入ってもその言葉ばかりが頭をよぎっていた事を思えば、その方が理由としては大きかったに違いない。生贄だか希望だかとして彼女は死ねと言われ、流石にそんなすぐにと言う事はないだろうと、考えてはいた。だが、本当にそうだろうか。二人が離れている間に他のエルフ達に……。そんな思いに引き摺られて、彼にしては本当に珍しく、いや、初めての事だった。恐らくエルフ達がまだいるであろうにも拘らず、早々に、パンドラの下に戻ろうとした。

 結果。

 彼らにとっては良かった事なのだろうか。

 悪かった事なのだろうか。

 遭遇した。いや、遭遇というのは可笑しいだろうか。遭ったわけでも、見たわけでもなし。金属で出来た扉、ガラテア以外開ける事の出来ぬ重厚な扉。それを越えて、僅かに音が聞こえて来た。もっとも、微かに、という程度でしかない。声とも思えぬ音。それが金属を越えて聞こえる者など、それこそドラゴン娘以外にはいないだろう。


「あ。誰かいる」


「世話しに来たエルフかと。ほら、あの美味しくない団子とか持ってきたりとか……いえ、後はまぁ色々世話です」


「あー……それでいつも気付いたら綺麗になってるんだ」


「えぇ。まぁ、でもそこはミケネコ君には言わないであげましょう。えぇ」


 言わぬが花。その花が摘まれる姿を頭に思い浮かべながら彼はその場に座る。

 扉に背凭れ、僅かなりとも声が聞こえないかと彼は耳を寄せる。耳から伝わる冷たさにびくり、と体を震わせ、次いで耳を離す。やはり、彼にはがさごそという音ぐらいしか聞こえてこなかった。


「開けたらミケネコに怒られるよね?」


「ミケネコ君が怒られるんじゃないですかね?」


「じゃあ、居なくなるまでここで待ってる」


「そうしますか」


 そうして扉を挟んで彼らと彼女は一緒に居た。きっと、ここで彼らが、彼女が近くにいたのは、運命というものなのだろう。引き寄せ合ったと言っても良いだろう。彼と彼女が出会ったときのように。

 さながら何かに導かれたように。

 呆と壁を背に座るリオンに、ガラテアが中から聞こえてくる言葉を伝えてくる。パンドラの影響を受けているガラテアにとっては、それっぽい口調を真似するのもお手の物。そんな娘の真似ごとを聞きながら、彼は、その口調が、どうにもいつものパンドラではないように思えた。まるで、そう。珍しく憤っているかのようだった。


『そのガラクタを作ったのはあなたたちでしょうっ』


 ガラテアの口から伝わるパンドラの言葉に、違和すら感じる。彼女は確かに煩いエルフであるが、憤りや怒りと呼ばれる感情をあらわにして話すような者ではない。だからこそ、違和を感じていた。

 そんな彼女に応える言葉を、酷く不愉快そうな表情を浮かべて、ガラテアがそれをリオンに伝えてくる。


「いやな声」


 そう前置きして。


『何?もしかして説教のつもり?それに何その態度?もしかして、私達と同列だなんて思っているの?まさか、自分がエルフだと勘違いしているの?生贄として作られた貴女がエルフ?馬鹿馬鹿しい』


『良く言うわね。貴方達がエルフの『希望』として作ったんでしょうが』


『そうよ?エルフの為に作ったのよ。だったら役に立たなきゃただのガラクタ以下じゃない。どうしてまだ貴女は生きているの?死んでくれていると思ったのに。早く。ねぇ、早く死んでよ。エルフの為に。その首掻き切って死んで頂戴』


 そんなエルフの為に、彼女は己の命を使おうと言うのだろうか。

 彼にでも分かる。誰にでも分かる。子供でも。

 彼女の思想が歪んでいる、という事に。


『ほんと、貴女のどこが希望なのよ。お父様も馬鹿馬鹿しい事を言うわね。希望だと言うのならばさっさと止めなさいな。死んで、この世界の崩壊を止めなさいな。貴女一人の生贄で神の怒りを鎮めなさい。生きているだけ私達に迷惑がかかるのよ?さっさと死んで。死んでしまって、私の役目を終わらせなさいよ。全く……こんな汚らしい場所なんて来たくもないわ』


『『希望』だって言っているくせに勝手に私を殺して良いのかしらね?』


『良いに決まっているわよ……だって、貴女の事を守っていた神職の者なんてもう殆どいないもの』


『……何を言っているの?まさか貴女』


『えぇ。想像通り、裏切ってやったわよ?殺して乗っ取ってあげたわよ?今は叔母が神職の座に付いたわ。これでお父様みたいな馬鹿な事を言う奴は少なくなる。貴女の事を希望だなんて馬鹿みたいな事を言っていたやつらなんて……もう殆どいないのよ』


『―――その辺りに。巫女様はまだ……』


 別の声が混じったようだった。それもまた、女だったようである。その声を伝えるガラテアは、酷く困惑した様子だった。例えば、そう、聞き間違えたかのように。


『煩いわね!庇い立てする気!?こいつを庇ってどうするつもり!私らだってあいつらだってどうせ早いか遅いかでしょう!何?なんなら貴女でも良いのよ?どうせ……貴女も』


『おかあっ……止めて下さい。お願いします。その方に手を出すなら、私に』


 その言葉が最後だった。

 次の瞬間、がきり、と音が鳴った。石を砕いたような音。それは、ガラテアの歯の中から。そして、ガラテアは言葉を紡ぐこともなくなり、静かに。ただ静かに、扉を越えて聞こえる声に聞き入っていた。聞き入りながら、怒りを露わにし始めていた。

 自然、風が舞う。

 彼女を中心として、風が舞う。

 彼女は我慢していたのだろう。

 父親が是とする事を考慮して、パンドラが自分達を寄せ付けなかった事を考慮して、それらを尊重して、我慢していたのだろう。

 だが、ドラゴンにいつまでも我慢など出来るわけもない。

 彼女はいつだって、思うがままに行動するのだから。

 だから―――


「ねぇ、ミケネコ虐められてるよ?パパ、殺して良い?殺して良いよね?殺すわよ?殺してしまうわよ?ねぇ?パパ。パパ……エルフ何て……全部殺してしまっても良いよね?よってたかって虐めてるよ?ねぇ、パパ。ねぇ、パパ―――お母様みたいに、ミケネコが殺されちゃう!」


 ―――彼が止める間もなく、扉が轟音を立てて開いた。


「さようなら、『原初の罪』様」


 酷く甲高い耳障りな声が彼の耳に届いた。

 その刹那、言葉を紡いだその女が現状を認識するよりも早く、ガラテアの歯が女の喉仏に到達する。

 次の瞬間、断末魔の如く爆発音が牢を埋め尽した。ガラテアの口の中で、エルフの女の首が、顔が破裂した。一瞬の閃光と共にその顔に血と炎と爆風を受け、それでも尚、ガラテアには傷一つない。そんなものでドラゴンを殺せるわけもない。

 血の一滴流せるわけもない。

 例え口の中で爆発されようとも、ドラゴンが死ぬわけがない。エルフの爆発如きでドラゴンが殺せるわけもない。

 燃え続ける顔の無い体を小さな口に咥えたまま、首のふりで壁に投げつければ、爆発と共に隣の牢へと続く壁が崩壊した。投げつけられた死体は見る影もなく潰れ、壁に散らばった肉片から炎が上がる。そんな確認などする間もなく、ガラテアは次のエルフへと向かうおうと首を動かす。

 見えるのは、男、女、男、男、女。

 唯一、倒れている女だけはぼろきれのような物を着させられていたものの、三人の男エルフは武装していた。いつだか見た剣を携えたその姿。最初からガラテアを殺しに来たのだと言わんばかりの格好であった。

 その一番左端、その男に襲いかかろうとガラテアが視線を動かし、瞬間、目を見開いて、動きを止めた。

 男と男の間にいた女の姿に。

 見慣れた姿形に。

 例え、ドラゴンであろうと、ガラテアであろうと、時の流れには勝ちえない。過去に遡って事を成せない。彼女はきっと我慢すべきではなかった。だが、それももはや過去の話。

 ガラテアに続いて彼が牢の中に、彼の帰るべき場所に帰った時にはもう遅かった。

 暗闇にぼんやりと映る姿。

 陽炎のように立ち上る炎に包まれたその姿。

 その見慣れた姿形には、異物が混じっていた。

 腹に刺された長剣は彼女の胎を貫き、背中から抜け出ていた。ぽた、ぽたと流れ落ちながら燃える血。そして、己の首に短剣を宛がったかのようなその姿。恐らく切られ、反射的に押えたに違いなかった。だが、一見すれば自らの首を切り裂き、串刺しにし、自殺しようとしていたかのようにさえ見える、そんな姿。

 短剣により割られた切り口から流れるのは鮮血と青い焔。

 燃焼し、温度が高くなればなるほど青く、青く。

 だらだらと首元から下へ、下へと彼女を焼きながら降りて行く。

 喉の中を焼かれたが故に叫び声はあがらず、ただ見開かれた瞳だけが鮮明に……


「ティ……」


 足が崩れ落ちた。

 膝が崩れた。

 腰が、胸が、腕が、肩が、ばたり、と気の抜けた音を立てて、崩れ落ちた。崩れ落ち、周囲に血が拡がって行く。燃えながら、拡がって行く。彼女の命が流れ出して行く。暗い世界を輝かんばかりに照らしながら彼女の命が……彼女の体から失われて行く。


「あ、あ、あ……ママぁぁぁっ」


 真っ先に叫びを挙げたのはドラゴン。

 喉の奥、ママと呼んだ者が崩れ落ち、そのまま燃えあがっていく様を見て、なすすべもなくただ、叫び、次いでその赤銅の瞳が輝きを増した。

 殺してやる、と。あの時とはもう違う、と。

 その光景を作り出した者達へと……その怨嗟は降りかかる。

 一人、二人、三人。

 呆然とするエルフに喰らい付き、力任せに腕を引き裂き、足を折る。腹に手を突き刺し、内臓を引き千切りながら命を奪って行く。爆発音と悲鳴が牢を埋めて行く。それを見たもう一人は逃げようとして腰を抜かして涙を流しながら糞尿を撒き散らす。だが、そんなもの意に介さず。

 喰らって行く。

 エルフを。

 阿鼻叫喚、爆発と炎に包まれながら、時間を掛けてゆっくりと喰い殺して行く。エルフ達が奪った物が彼女にとってどれだけ大事だったのかを教えんとばかりに。

 そこに居るもの全て、殺し尽そうと……。


「ミケネコ君?」


 そんな彼女とは対照的に、リオンは……呆としていた。


「あれ?おかしいですよね、ミケネコ君?また、明日って言っていたじゃないですか?……なんで、返事がないんですかね?いつもはもっと煩いでしょう?……ほら、いつもみたいに私はミケネコじゃないとかって……」


 燃えて行く体を見ながら。

 爛れて行く皮膚、黒く染まって行く皮膚を見ながら。

 彼は、呆然と燃える彼女へと近づいて行く。

 彼の夢は、とても儚い拙い、しょうもないものだ。

 三人で過ごす安穏とした日々。ただそれだけ。いや、安穏としていなくても良かった。例え辛くとも、隣に誰かがいれば辛くはない。残酷で苦しい永遠の日々さえもきっと辛くはないのかもしれない。そんな風に、彼は思った。例え辛くとも、きっと彼女らといれば大丈夫だ、と。多分、理解は得られないのだろうな、と思っていた。恐らく一番、最初に死んでしまう自分には、そんなことをいう資格などないと思っていたからこそ。

 永遠とはきっと、死ぬほど長いのだから。

 だが、一番最初に死に至るのは彼とは限らない。

 世界は、そんな風に出来ているのだ。

 死に辛くとも、先に死に逝く事はある。

 ガラテアの母のように、幾ら強かろうと殺されてしまえば、死に至る。

 燃えて行く。

 彼の視界の中、彼女が燃えて行く。

 想い出が記憶になっていく。そしていつしか彼の中から消えて、なくなっていく。無に帰る。何もかもが無に帰って行く。

 始まりがあれば終わりがあるように。

 止まない雨がないように。

 明けない夜がないように。

 パンドラと呼ばれた少女が消えて行く。



 胎を裂かれれば、子が出来るわけもない。

 首を引き裂けば、生きているわけがない。

 燃えてしまえば、生きていられるわけがない。



 だが、それでも死なない生物とは何だ。




「マリ……オン……ティアを」


 驚くよりも先に反射的に、リオンの腕が動き、その直線上を飛ぶようにガラテアが、最後に残った、倒れたままの少女と見まごうばかりの女エルフを噛み砕こうとした瞬間、彼の腕がその間に入った。


「ティア!」


 ドラゴンが全力で殺そうと思い動いていたのだ。

 彼の腕が、手が無事なわけはなかった。開かれたガラテアの口に包まれ、次の瞬間には、巨石に撥ねられたかのように彼の体がその場で回転し、その勢いで彼の腕が飛んだ。皮膚はちぎれ、血管は一本、一本引き千切られて行き、どす黒い血を周囲に散らばらせる。ごきり、と鈍い音と共に骨が割れ、そして……ぱぁんという軽い音と共に壁にぶつかり、彼の腕が潰れた。


「っ……ぁがっ」


 かつて折れ、歪んだ左腕がその姿を消した。

 訪れる痛みに、意識が飛びかける。

 だが、まだ駄目だ。まだ、意識を失ってはならない。


「ぱ……ぱぱ?あ、やだ。やだっ……ぱぱっ。ぱぱっ!?」


「ティアっ!いいからっミケネコ君に水をっ」


 それは、彼にしては珍しく大きな、怒声に似た声だった。


「え?あ?うん!」


 瞬間、水が産まれ、パンドラの体が水浸しになり、火が収まって行く。次第、次第と収まって行く。収まったその中、確かに……確かにパンドラの体が呼吸をするように動いていた。


「よかっ……た」


 その言葉を最後に、パンドラの意識は落ちた。

 その声は、喉を切り裂かれたにも関わらず、言葉を成していた。

 彼が目を向ければ、しかし変わらず焼けて爛れた皮膚が見える。だが、確かに生きていた。間違いなく、彼女は生きていた。その事実に、ほっと一息を吐く間もなく、彼の意識もまた、痛みに消えて行った。

 消え落ちる意識の片隅で、彼は、考えていた。

 なぜ、あれで死んでいないのか?と。だが、分かるわけもない。

 彼に理解できるはずもない。

 ただ、彼に分かったのは彼女が生きていて良かった、という自らの感情と……彼女の瞳が――瞳に刻まれた模様が爛々と輝いていた事だけだった。



―――



 彼が意識を取り戻したのは、それから数日後のことだった。

 意識の浮上と共に無くなった左腕から意識を飛ばす程の痛みが伝わり、そしてそれにまた意識を持って行かれ、再び痛みによって意識が戻る。幾度となくそれを繰り返し、漸く彼の意識がはっきりしてきたのが、数日後だった。

 開いた視界の中に映るのは横になっているパンドラ、それを見守るようにじっと膝を抱えて座っているガラテア、そして、殺されずにいた女エルフだった。彼らよりも幾分か年上に見える姿。その腕には古い傷がいくつも付いており、火に焼けたのだろう爛れた部分も見えた。そんな古い傷とは対照的に真新しい火傷が手の平に拡がっている。

 リオンが意識を取り戻した事に気付いたのか、慌てるように彼の背中を支え、その体を起こす手伝いをする。


「―――大丈夫でしょうか?」


 次いで出た言葉に、違和を覚える。いや、言葉ではなく、その声に。彼が良く聞いている声に似たものだった。少ししゃがれた感じに聞こえるのは喉に見える傷の所為だろうか。

 治療の施された、失った左腕を見つめる。消えない痛みはある。血が流れ過ぎたせいだろう、頭も呆としている。だが、それでも生きている。だったら、大丈夫だ。そんな空元気を浮かべながらリオンはその女エルフへと声をかけた。


「……駄目だと思いますが、なんとか大丈夫かな、と」


「―――良かった」


 ほっと胸を撫で下ろす仕草が、酷くパンドラに似ていた。その姿にパンドラの事を思い出し、エルフに向けていた視線をパンドラへと。

 敷物を掛けられたその体。ゆっくりと呼吸に体が上下するのは生きている証拠だった。見えるのは足と腕と、そして顔、頭部だけだった。焼けたはずだった。皮膚は爛れ黒く炭化していてもおかしくはなかった。事実彼が意識を失う前に見た彼女の姿は爛れ黒く染まっていっていた。だが、その名残は僅かに腕に残る火傷や髪が短くなっている所にしか残っていなかった。少なくとも、彼に見える範囲ではその程度だ。焚火に間違えて手を入れてしまった程度の、そんな程度の軽い火傷を負ったようにしか見えなかった。

 その視線に、膝を抱え、顔を隠していたガラテアが気付き、顔をあげ、なきじゃくりそうな顔になりながら、リオンの下へと飛び込んできた。


「パパ……ごめんなさい」


 飛び込んできた瞬間、押さえていた涙が流れ出し、嗚咽を漏らす。感情を持て余すように、彼女は嘆いていた。己が守るべきはずだった者を傷付けられた事に。己が守るべきものを傷付けた事に。そんな我が子の思いを知ってか知らずか、リオンはその解けた髪を撫でる。


「死んでないから大丈夫ですよ。安心してくださいな」


 残った右腕。

 それ一つあれば娘は撫でられる。だったら、大丈夫だ。


「でも、パパ……それだと料理も……」


「片腕でもできますよ。パパはすごいのです。はっはっは……まぁ、しばらくは痛いのが続きそうですが」


 笑い、笑って響いた痛みに表情が引き攣った。だが、それでもなお、笑みを浮かべる。彼は親馬鹿なのである。泣いている義娘をあやす事は最優先事項だ。


「私の代わりに怒ってくれてありがとうございます。私の代わりにミケネコ君を助けてくれてありがとうございます。それと、この方。恐らく……いえ、このエルフさんを食べないでいてくれてありがとう」


 一瞬、びくりとエルフが震えた。


「エルフなんて不味いモノもういらない……」


「じゃあ、もう食べちゃ駄目ですからね。そんなまずいモノ。約束ですよ」


 さらにエルフがびくり、と震えた。


「うん……分かった。私、『パパの言う事』はちゃんと聞くよ。でも、ミケネコのお願いはもう聞いてあげない。私が思う通りにやるもん。自由気ままにやるもん」


「ティア?」


「最初から全部、壊しちゃえば良かったんだ。建物も、牢屋も全部、全部壊しちゃえば良かったんだ……そうすればミケネコ、こんな事にならなかったのに。私、我慢なんかしなきゃ良かった」


 見るからに怒っていた。

 あちらが言うことを聞かないなら、こっちも聞いてやらない、と。理解のできないパンドラの歪んだ思いなんて汲んでやらない、と。でも、それも……


「早く治ると良いね。早く目が覚めると良いね」


 大事だからこそ。小さなドラゴンのたった二つだけの宝物。その宝物を汚す存在を彼女はもう決して許しはしない。


「はい。相変わらず怪我の治りが早いにしても……早すぎませんかね?」


「うん。火傷とか、喉とか、お腹の所は。でも……お腹の中は駄目っぽいよ?」


「駄目っぽい?」


 パンドラを指差しながら、自分の腹を擦る。


「―――剣に貫かれた胎の中、子宮が引き裂かれ、焼けたと思われます。膣を焼きながら、血が流れ出ていました。その血も昨日漸く収まったぐらいです。確認しようとしましたが、焼けた所為で所々が癒着したようです。開きもしません。エルフの女であれば火に耐性はあるはずなのですが、引き裂かれたのが主因でしょう。外傷はいつも通りすぐに治りましたが、そこは治る様子もありません」


 手の平についた新しい火傷はその流れて来た血を処理したが為なのだろう。身振り手振りで説明する彼女の手に視線を誘導される。

 しかし、淡々とした口調だった。いや、寧ろ淡々として伝えなければ感情が漏れ出してしまいそうだったからこそだろう。


「子宮?膣?」


 小首を傾げるリオンに気付かず、女は続ける。


「―――これで生きているのが不思議なぐらいです。生きているだけ、幸いです。ですが……生きていればきっとまた……何故、この子ばかり。いいえ、全て、私が愚かだったから……」


 首を振り、言葉を止める。

 生贄とも希望とも言わず、ただ己の子を心配するかのように。


「―――貴方方はなんなのです?何故、ここに。エルフの社の地下におられるのです?それに貴方は……」


 子を心配する親のように、彼女はリオンに問いかける。きっと、ガラテアに問い掛けても答えがなかったからだろう、と考えながら彼は口を開く。


「ただのしがない人間とドラゴンの親子です」


 エルフが小首を傾げた。


「―――そちらの御子さんにはパンドラの治療を助けて頂きました。ありがとうございます。あの方達が死んだ事を報告するために集落に戻る必要がありましたので、助かりました」


「ふんっだ!」


「ティア、そんな態度をとったら駄目ですよ?」


「エルフなんて嫌いだもん!殺さないだけましだもん!パパが止めてなかったら殺してるもん!」


「ティア。この方、きっとミケネコ君のお母さんですよ?」


「……ほんと?」


「―――似ていますか?」


「えぇ。そっくりとは言いませんが。もう少しミケネコ君が大きくなったらそっくりになるかもしれませんねぇ」


「―――ミケネコ……可愛らしい名前ね。パンドラの事、ですか?」


「そういえばそういう名前でしたね。まぁ、名前なんて今は良いです……無事で、良かったと思います。本当に、そう思います」


「うん」


「それで、ミケネコ君のお母さん。この後、どうなりますかね?分かります?」


「―――暫くは大丈夫でしょう。あの方々が『神の怒りに触れて』亡くなったので、パンドラを生贄に捧げようとする人達の勢力は弱まっています。あの方が言うほど、パンドラを守ろうとする者達は少なくありません……もっとも、折角作り上げた実験動物を守るようなものですけれど」


「神の怒りに触れて、ですか」


「―――はい。パンドラの胎を焼いた結果、『神の怒りに触れて』亡くなった。そう『しました』。パンドラを汚す事は神の怒りに触れる行為であり、生贄をエルフ達の勝手で殺す事は許されない、と。そういう事に『しました』。ですから、暫くは大丈夫だと思います。……とはいえ、いつまで、とは言い切れません……所詮、私も生贄みたいなものですから」


「生贄みたいなもの?」


「―――いえ。気にしないでください」


「はぁ。……それでも結局、ミケネコ君はいつか死ぬ事になるんですよね?これが続く限りは」


「―――はい……生贄としても、希望としても。救いを産み出さない希望は、いつしか反転しますから。そういう意味の『希望』ではなかったとしても、です。極めてエルフにとって都合が良い存在、それがこの子です。エルフの犯した罪の証であり、エルフの代わりになる生贄であり、そしてエルフの希望でもある……手を出す事が忌避されるならば自ら死ぬ事を願われる。そんな子なのです……全て、私が愚かだったから……私が、あの人を逃がしていれば……」


「ミケネコ君みたいに格好良い言葉使いますねぇ……流石母親さんです」


「―――はい?」


 首を傾げる姿は、やはり親子だな。そんな事を思いながら。


「これからもずっと、こんな事が続くなら、それでミケネコ君が毎度毎度死にかけそうになるというのなら、ミケネコ君がそれでもエルフ達の幸せを馬鹿みたいに願うなら……そうですねぇ。私には、皆の為なんてそんな風には考えられませんけれども……」


 片腕だけとなった男が痛みに耐えながら、立ち上がる。

 愛娘の作った歪んだ包丁を腰に。

 使いなれた頭陀袋を残った右手に。


「どれぐらい掛るか分かりませんが、ミケネコ君のこと宜しくお願いします。母親さんが面倒見てくれるなら安心して行けます」


「―――どこへ?」


「神様にモノを言いたいなら、直接言えば良いでしょう?確か、いるんですよね?」


「―――まさか、洞穴の奥へ?」


「はい。そういう事です。では、ティア。行きましょうか」


「パパ、何しにいくの?」


「怒っているにしても、泣いているにしても……食べてしまえばきっと大人しくなると思うんですよ」


 大地を壊し尽す前に、食い殺してしまえば良いのだ。

 どうあがいても彼女が死ななければならない世界を壊すために。そんな世界を作った神様を喰らうために。

 たった一人のエルフのために。


「じゃあ、ちょっと行ってきます。お土産は期待しないでくださいね、ミケネコ君」


 さあ、神様を殺しに行こう。



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