第6話 パンドラの函
6.
「………で?」
泣いた猫が泣きやみ、自分のした事の恥ずかしさに突然、慌てるように離れ、離れてふいに何事かに気付いたのか、リオンの後ろを見ながら、そう呟いた。
「で、と言われましても。とりあえず、ミケネコ君の食事を作るのが先な気がします」
答えながら使い古した袋を岩石の散らばった床に置き、次いでリオンは腰を下ろす。
以前と同じように、床に座り、しかし以前と違う場所に座る。
鉄格子の内側。今の二人の間には遮る物はなく、パンドラも彼が料理している姿は良く見えるだろう。そんな日常が戻ってきたとでも言うべき安堵感に、リオンの口からほっと吐息が漏れる。彼も人の子だった。ガラテアがいたが故にずっと緊張続きという事はなかった。だが、それでも自然と残る物はある。そんな僅かに残っていた緊張が、帰るべき場所に帰って来て、漸く全てなくなった。
そんな安堵の吐息と共に袋から、先程ガラテアが地面から引き抜き、リオンが切断した突起を取り出す。
彼の仕草、その凡庸とした姿にパンドラは、隠せない笑みを浮かべながらも、リオンに後ろから張り付いた存在をじっと、焦点の合わない瞳で見つめていた。当然、パンドラの視線にリオンが気付くはずもなく、彼の手はナイフで輪切りにされた突起をさらに細かく輪切りにし続けていた。
「うん。ありがとう。……で?」
そんな気付かないリオンへの苛立ちであろうか。パンドラの口からは、感謝の言葉と共に、どこか凄みのある言葉が飛び出した。
僅かに首を傾げているその姿は、彼女が健康体であれば可愛らしさの一つもあろう。容姿と相まって大層可愛らしいであろう。だが、今の彼女はリオンと最初に会った時のようにげっそりとやせ細っており、御蔭であまり可愛らしいとは言えなかった。もっとも、その分、迫力は増していたが。
それを悟ったのかどうなのか。突起に向けていた顔をあげ、パンドラに視線を向け、惚けた様子で、否。いつもの様子で、いつもこの場所で見せていた様子で、リオンは笑う。
「げっそりしている割には思いの外元気ですねぇ、ミケネコ君」
言いながら、しかし彼の手が止まる事はなく、薄くなった突起に袋から取り出した粉末状の物を振りかけて行く。
「心労だしね。……で?」
「あぁ、なるほど。何があったのか?とかですかね……ほら、例の洞穴に入って、そのまま今の今まで地下にいたわけです。その辺りは色々書き残してありますから、具体的な所はまた後にでも話します。だから、安心してください」
「いや、そうじゃな……ううん。一応、聞いておく」
「そこで、私も思ったわけですよ」
「何をよ」
瞬間見せたリオンの表情は、自分の考えた事の楽しさに喜ぶ子供のようだった。それはとても素晴らしい物になるに違いないと思いながら、留めていた堰が壊れたかのように洞穴内で思いついた事をリオンは語る。
「また色々行ってみようかなと思うわけですよ。外にしろ、この中にしろ。あぁ、ちゃんと帰ってきますので安心してください。それで、ですね。色んな所に行って何かを見てくる、そこで見た物、感じた事、食べた物をまとめるという事までは出来たとしても、私にはそれを物語にできません。なので、是非、今度はミケネコ君を主人公に冒険話を、と」
「あ、うん。それは了解。食べた物の話は絶対に書かないけど」
相変わらず手は食材に向いてはいるものの、珍しく熱を持って語るリオンに思いもよらなかったのか、パンドラはその勢いに乗せられて生返事をしていた。そんなパンドラの返事に、リオンはさらに楽しそうな、嬉しそうな表情を浮かべ、脳裏に今後の行動を思い浮かべていた。
久しぶりに湖の中を潜るのも良い、山へ行くのも良い。あるいはもっと違う場所に行くのも良い。楽しい所もあれば面白くない所も辛い場所もあるだろう。そこで体験した全てを伝えよう。それらが物語になれば面白くない場所も、辛い場所もきっと楽しい場所になるだろうから。
思い巡らし、コロコロと表情を変える彼を見て、パンドラは一瞬頬を緩めたが、次の瞬間には、違った、そうじゃない、そうじゃないと頭を横にふりふりしていた。
そして、そんな挙動不審なパンドラを見て、考えを止め、じっとパンドラを見つめていれば、既に慣れ親しんだ背中に伝わる暖かさを思い出す。それで、漸く、パンドラが何を聞きたいのかを彼は理解した。
「そうそう、大変なんですよ、ミケネコ君。聞けばミケネコ君でもびっくりすると思うんですけど。いやもう、これは本当に凄い事なんですよ、ミケネコ君」
「ミケネコミケネコ煩い。そんな何度も何度も言わないでよ。私はミケネコじゃないんだからさ。……で?今度こそ聞かせてくれるのだと期待したいんだけど?」
「子供が出来ました」
「あ"ぁ"!?」
「なんですかその発情期の猫みたいな鳴き声は」
「ま、まさかと思ったけど……ど、どこで子供なんて作ったのよ!作り方知らないとか言ってたくせに!マリオンの嘘吐き!地下にいたとかいうのは嘘で、ずっとそいつの所にいたのね!相手はどこの馬鹿よ!ほら、連れて来なさい!今すぐ燃やしてあげるわ!」
びしっとリオンを指差しながら小煩く。その姿は、確かに子猫のようであった。
「馬鹿限定とは酷いですね……いえ、作っても無いですし相手もいないですよ。……ほらこの子です。ティア、これがミケネコ君ですよ。言った通り、耳が長いでしょう?」
リオンの背中に抱きついていた、或いはその背に隠れていたガラテアがこそこそとリオンの背から顔を出し、次いでリオンから離れ、パンドラへと近づいて行く。
「初めまして!ミケネコおばさん!」
言い様、再びリオンの所へとタタタと戻って来る。
「本当に長いね!ねぇ、パパ、ちょっとぐらいなら齧っても良いよね?」
「齧ったら駄目です。でも、良くあいさつ出来ましたね、ティア。流石、『私の』義娘です」
「えへへ。あ、あと。パパが言ってた通り、ちゃんと煩いね!」
「えぇ。煩いからこそのミケネコ君です」
よしよし、と頭を撫でる親馬鹿がいた。リオンだった。
「マリオン。……なんかおかしくないこの子?」
「『私の』義娘に失礼な物言いですね」
「でかくない?何年物よ。実は私と会う前から子供がいたって事なの!?」
「いやいや。地下でティアのお母様に頼まれただけですよ。それと、爬虫類は成長が早いんですよ、ミケネコ君知らなかったんですか?」
「爬虫類!?それでその目?……うぅん?マリオンが食べてないのが信じられない……じゃなくて」
一旦、ため息に似た息を吐き、パンドラの肩ががっくりと落ちた。
そして、呆れたような、諦めのようなそんな表情を浮かべるパンドラに、リオンはガラテアを撫でる手を止め、訝しげに視線を向ける。そんな彼を待っていたかのように、再度の吐息と共にパンドラが呆然とした表情で口を開く。
「そっかー、地下で爬虫類と子供作っちゃったかー。そりゃね。マリオンは確かに変な人間だけどさぁ…………それはちょっとないかなぁ、と私は思うのよ」
「何を仰るミケネコ君」
「そっかー。爬虫類にまけちゃったかー、私」
「いやいや、更に何を仰る」
「私、勝ってる?」
「はっはっは。何を馬鹿な事を。ティアの可愛さには敵いませんね!」
「この親馬鹿めっ!」
やいのやいのと姦しく。
だが、これが二人の日常でもあった。そんな懐かしさを覚えたのはリオンとパンドラどちらが先だっただろうか。自然と、いつのまにか彼らは笑い合っていた。
「パパとミケネコおばさん楽しそうだね!私も混ざる!」
そんな二人を見ていたガラテアが、そこに混ざろうとリオンとパンドラの間、座るリオンの足の上に。胡坐をかきながら調理するリオンの足の間へとちょこんと、座った。その動きは慣れたものだった。そしてリオンの方もこれまた慣れたもので、そのまま調理を続けていた。
「また、おばさん……私、おばさんなの?ねぇ、マリオン、私おばさんなの?私がおばさんなら貴方はおじさんよね?ね?」
その一方で、おばさんと呼ばれて打ちのめされていたパンドラであった。私はまだ、若い、と呟きながら。
「ティア。ミケネコ君がへこんでいるのでおばさんはやめてあげましょう」
「じゃあ、ミケネコ?」
「……そうですねぇ。ティアの名前、ガラテアはミケネコ君が考えてくれた名前ですから、ミケネコ君は言うなれば、ティアにとって名付け親です」
「ママ?」
「そうと言っても良いかもしれませんね」
「ママ?……ミケネコママ?……ママ?……んー。それならミケネコがいい!」
リオンを見上げながら、きゃっきゃと嬉しそうに何度も何度も『ママ』やら『ミケネコ』と口にしている姿を見れば、パンドラをママと認めるのが嫌だとかではなく、単に『ミケネコママ』という呼び方が、呼び辛いだけのようであった。
そのガラテアの懐き様にリオンは少し安堵する。リオンには刷り込みによって懐いてはいるものの、ガラテアの本質はドラゴンである。『楽しみにしている』とは口にしていたが、会ってみない事には分からない。洞穴内で彼らが遭遇した数多の化物と同様に、パンドラが殺される可能性もなくはなかった。リオンが言えば間違いなく止まる。だが、彼が止めなければ成り立たない関係であって欲しくはないとリオンが願ったのは、やはり彼にとって二人ともが大事な存在だったからだ。だからこうして、自然とパンドラに懐いたガラテアを見て、リオンは嬉しさを感じずにはいられなかった。
「まぁ、ミケネコ君もおばさんと言われるよりはミケネコと呼ばれる方が良いんじゃないですかね?」
「じゃあ、ミケネコでいいよね!」
「私、ミケネコじゃないんだけど……というか、マリオンの方がよっぽど猫っぽいと思うんだけど……ハァ。もう、良いわ。で、どういう事なの?ちゃんと説明しなさいよ」
言葉はきついものではあったが、パンドラの頬は、微妙に紅色に染まっていた。ガラテアに指差され、『どうして御顔が紅いの?』と突っ込まれそうになった所で、パンドラは顔を反らし、顔を伏せた。
「ウダウダ言って私の話を聞いてなかったのはミケネコ君じゃないですか」
「マリオンにそんな真面目な指摘を受けるなんて……」
「失礼な。……まぁ、はしゃぎ過ぎですよ、ミケネコ君。無理しないでくださいな。もう少しで出来ますからね」
「……ありがと」
逃げるようにリオンから離れ、鉄格子を背に、パンドラが座る。
そして、しばし静かな時が訪れた。
物音は洞穴内から伝わる風の音と、リオンのナイフを使う音。それぐらいだった。自然、パンドラの瞼は閉じ、それに釣られてかガラテアの瞼も閉じる。
牢の中の三人。
傍からみれば、両親と子のように見えただろうか。
産まれも違えば種族さえ違う。そんな三人。そんな三人が一緒の時を過ごしていた。互いに異なる時間の流れを生きる者達。そんな三人の接点が『今』だった。
だからこそ、彼女らは瞼を閉じ、この時を堪能していたのだろうか。間違いなく、自分達より先に逝くであろう者がいるこの時を忘れないように、と。この瞬間が永遠であれば良いと願いながら。
そんな静かな時を壊すのは自由気ままな女の子だった。釣られて瞼を閉じたものの、じっとしているのが飽きたのだろう。爬虫類の瞳を開き、きょろきょろと物珍しそうに周囲を見渡し、リオンから離れてあちらこちらへと行ったり、パンドラの下へ行ってはじろじろと爬虫類の目を向けたりしていた。そして、その物音に気付いたのか、パンドラもまた瞼を開いて、ガラテアの動きを興味深そうに見ていた。
そんな我が義娘を余所に、リオンは作業を続ける。
袋からぶよぶよと腐敗した化物の皮を取り出し、そこに再び何かをふり掛け、輪切りにした突起と突起の間に挟んでいく。そして、それをナイフの上に並べていた所で、耳に響く音に気付き、顔をあげれば、鉄格子をぎぎぎっと音を立てて変形させているガラテアと、それを慌てて止めようとしているパンドラが彼の視界に入った。
「ティア。そこは駄目です」
「なんで?」
「まぁ、結局、出るときはそこからになるとは思いますけれど……ミケネコ君が起きている間は駄目です。そこは境目ですから。私達が一緒に居られるのは此方側だけなんです……で、良いんですよね?ミケネコ君」
そのリオンの言葉に驚き、反射的にパンドラが向けたのは、痛みに耐えるような表情だった。その表情に逆にリオンの方がぎょっとして、何か間違っただろうか?と首を傾げる。彼としてはそれで合っている、と思ったからこその言葉だった。
「…………マリオン」
だからこそ、少しの沈黙の後、何度も口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返し、声の無い声を出そうともがくパンドラに、リオンは笑いかけた。喋る必要はない、と。言えない事を、言いたくない事を聞く気はない、と。
一方、二人の間に流れる空気に置いて行かれた感じのガラテアは不満そうに頬を膨らませていた。が、
「っと。ティア、火をお願いしますねー。弱火な感じで」
「うん!分かった」
次の瞬間には満面の笑みを浮かべて父親の手伝いを始めていた。大概気紛れな生物であった。だが、その気紛れな生物が作るものに気紛れさなどはない。ガラテアが慣れた仕草で軽く手を動かしたかと思えば、次の瞬間には轟と音を立ててナイフの上に小さな炎が産まれた。
それを目の当たりにして、パンドラが絶句する。
「魔法をこんな簡単に?嘘……って照明になっていたのも松明じゃないの?……マリオン、この子、何なの?」
目を細め、じっと見つめて、それで漸く照明が松明ではない事に気付いたようであった。次いでパンドラが呆然とすれば、またも頬を膨らませた少女がいた。
「私、何なのじゃないもん!ドラゴンだもん。お母様の子供だもん!」
「……あぁ、ごめん。ガラテアちゃん。そういうつもりじゃなかったの」
「ティア!」
「あ。うん。ティアね。ティア。……でも、そっか。ティアはドラゴンかぁ……そっか、ドラゴンかぁ」
呆と何度も何度も同じ単語を口にしながら、パンドラが黄昏ていた。そして、爬虫類にしてもそれはないだろう、とばかりにリオンをじーっを睨んでいた。もはや、痛みに耐えるような表情は見えなかった。一切合財、一瞬の内に消え去ってしまったかのように。寧ろそんな物は無かったのだと思える程に。だが、それも束の間。
「何です、いきなり」
「ううん。凄いのきちゃったなぁと思って」
「あぁ、そうそう。地下で凄いの見ましたよ。ティアのお母様は山みたいでしたし、口一杯で空飛んでいるやつとか、なんかやたら角ばった感じの翼が生えた生物とか」
「ちょっと!マ、マリオン……本当に、天使がいたの?」
一転して、その体を震わせていた。恐怖に、過去の記憶に苛まれたかのようにパンドラの体が震えていた。
その姿に、リオンは洞穴に行く前の日に聞いた話を思い出す。子供の頃に見た、と。その時に繰り広げられた光景とはどんなものなのだろうか。ガラテアの母が、まるで山のようなドラゴンがあのように殺されたのだ。エルフであれば、それこそ塵芥の扱いだろう。故に、きっと、恐ろしい事があったのだろう。震えるような事が。或いは……彼女がここにいなければならない理由は、その時に産まれたのかもしれない。
それを言及する気はリオンにはない。今の彼にとっては、感情があちらこちらへと慌ただしく移り変わって大変そうなパンドラを収める事の方が大事だった。
「どっちの事です?口が一杯な方がそうならちゃんと頂きましたけど……いえ、まぁ、そうじゃない方も腐った感じの所だけは頂きましたが……いやー。骨の山になっちゃいましたねぇ」
「お母様の御墓!」
「ですねぇ。ちゃんとお掃除しないと、ですね」
「うん!」
そんな風に、笑う二人を見ていれば、彼女の震えもいつしか止まっていた。それを見て、リオンは少しほっとする。良かった、と。
「角ばった翼が生えている方。なんとも、なかった?なんとも、なかったの?」
「ありませんねぇ。何です?ミケネコ君が見た時にはなんかあったんですかね?って。あぁ、目がどうとか言っていましたっけ?」
「そう……その時から、まともに見えなくなったから。だから、マリオンにも……」
「今のところ何もありませんねぇ。生ではまだ食べていないのでその所為かもしれませんね」
天使も、悪魔も、そしてドラゴンの肉も口にし、それでも彼には『何も』なかった。いや、しいていえば、彼は、もっとそれらを調理したいと思うようになっていた。まだ足りないと思えるほどに。人間の欲望が尽きる事がないように。そんな欲求が確かに彼の中に産まれた。だが、それは彼にとってはある意味で喜ぶべき事であり、特に『なんともない』話だった。
だから、彼は、心配そうにしているパンドラにただただ笑い掛け、大丈夫だと伝える。もっとも、その言葉が彼らしい言葉だった所為で、パンドラはげんなりした表情を見せた。
だが、それでも確かにパンドラはほっと胸を撫で下ろし、次いで、口角が上がった。
そして、そんな風に胸を撫で下ろすパンドラに、じっとりとした、獲物を狙うかのような強い視線を向けるのはガラテアだった。
「んー目?目?ねぇ、パパ。パパ。ミケネコの目って、変な模様が入ってない?エルフって変な目の生物なの?」
視線をパンドラから離さず、リオンの袖を引っ張る。
「エルフが変かは知りませんが……ミケネコ君の目に模様ですか?気付きませんでしたねぇ」
浮かぶ炎の中でナイフを傾けたり、戻したりして焼き加減を調整しながら、言われるがままにリオンは視線をパンドラへと向ける。だが、彼の目には彼女の瞳にそんな不思議な模様があるようには見えなかった。普通の、人間と同じ瞳だった。そこに何があるようにも見えない。
そんな風にリオンが首を傾げていれば、えっへん、と胸を張って彼の義娘が一つ笑う。そして、座るパンドラに近づき、しゃがみ、パンドラの膝に手を置き、上目でじっと彼女の目を覗き込む。
「うん。やっぱり!変な形の模様が入ってるの!」
「模様?自分じゃ分からないんだけど……もしかしてその所為で見え辛いの?天使を見た時に、何かあったとかなのかな?」
「ねぇ、パパ……なんか、見てたら、むかむかしてきた。……パパ、ミケネコの目って取っちゃ駄目?」
「駄目です」
「マリオン、この子、怖いんだけど」
それは蛇に睨まれた蛙の如く。
「この子じゃなくて、ティア!」
「えっと。ティア、私の目取らないでね。私、人間よりずっとかよわいんだからさ。弱肉強食だけど、たまには喰えないのが居ても良いわよね?ね?お願い。良いって言って」
「ミケネコ君が必死です。……あ、ティア。良い頃合いです」
「はーい」
瞬間、ナイフから火が消えた。
「太らせてから食べる気もないですが、どうぞ」
「……聞くだけ無駄だと思うけどさ、久しぶりのまともな食事がこれになるわけだけど、これ、一体、何?」
「そこの穴から入ってすぐのところに生えている生物と、あと諸々ですねぇ」
「あ、うん。やっぱり無駄だったわ」
言い様、リオンからナイフを受け取り、そこに乗った輪切りの突起を口へ流し込み咀嚼する。咀嚼していれば、パンドラの頬が紅色に染っていき、陶然とし始める。
「久しぶりに食べたからとかじゃなくて……なんかこう一段と美味しくなった気がする。料理の腕前、かなりあがった?」
「それはもう色んな種族相手にがんばっていましたから」
何も洞穴内での戦闘その全てを娘に任せていたわけではない。そもそも食事の為、狩猟としての殺しは幾らでも行っては居たが、場合によっては逃げるような場面もあったわけで、その際には彼の食事が役に立ったのである。もっとも、一応、彼としては化物に御食事を提供しているわけであって、それで相手が死ぬとかを期待していたわけではない。ただ、どうにも口が多い生物との相性が悪いようで、そういう手合いは料理を出すたびに軒並み、自らを殺していた。味を堪能する前にそれとは料理人として残念であるとは思いながらも、現金な人間である。当然、その死体を使って自分達の食事を作っていたりしていた。
もっとも、彼の料理を口に合わないと吐き捨てる者達も居た。悪魔に彼の料理が覿面であったのはたまたまであり、ガラテアの母が酒を気に入ったのは長い時間を掛けた結果である。それ以外の者達、その全てが必ずしも彼の料理に魅了されるわけではない。
だからこそ、彼は努力した。
初対面の生物を相手に如何にその相手が美味しいと思えるものを作れるか?それを念頭に置きながら彼は料理に励んでいたのである。事前の準備を怠らず、手持ちで如何に相手の望むものを提供するか。それを延々と化物相手に行ってきたのだ。意志疎通の取れぬ者達を相手にそれを行ってきたのだ。意志疎通が行える者を相手にする事など、今の彼にとって容易を通り越して、それこそ朝飯前の朝飯作りだ。
そして、今、彼はパンドラが物をまともに食べられる状態ではない事を当然理解できているわけであり、故に、今の料理はとても柔らかく、消化の良い物に仕上がっているはずであった。
その証拠として、パンドラはぶつくさ言いながらもそれを惜しむ様にゆっくりと一枚、一枚、唇で挟み、ついで舌で味わい、歯で噛んで行く。何度も何度も。しかし、何度も行う暇などありはしない。舌が触れるだけで、歯が触れるだけで自壊していき、パンドラの口腔へと、喉へと流れて行く。それぐらいに、柔らかいものであった。その口の中で溶ける感覚が勿体ない、と感じているのか少し不満気な表情をするパンドラに、リオンは苦笑する。冥利に尽きる、と。そして、そんな父親を見たガラテアは不思議そうにリオンとパンドラにいったりきたり目を向けていた。そして、頬をぷくっと膨らませて私も、私も!とせがむ様にリオンの袖を引っ張っていた。
そんなガラテアの仕草に、リオンとパンドラは笑う。
笑い、笑って、リオンが今度はガラテアのためにと料理を作りはじめ、出来上がり、ガラテアとリオン、そしてまだお腹の余裕があったパンドラもまた追加で食事をし、ひと通り食べ終わった頃だった。
「……そういえば、この穴どうしよう」
そんな言葉をパンドラが口にしたのは。
指差し、誤魔化しようのないそれを見て、パンドラがため息を吐く。普段音がない所為か、洞穴内から伝わって来る風の音が酷く煩く、加えて流れ込んでくる冷気が酷く彼らを冷やす。冷える躰をパンドラはいつだったかのリオンお手製の、今となっては所々がほつれた羽毛袋に包まり、暖を取ろうとしたところで、ガラテアが炎を作り出し、そちらで暖を取りはじめていた。
「便利よね」
「えぇ。とっても便利です」
「私、凄いよね!」
「えぇ。ティアは凄い子です。流石『私の』義娘です」
「エルフにはこんなに流暢に魔法を使えるのはいなかったわねぇ……」
「そういえば、魔法、ですか?さっきも言っていましたけど」
「えぇ。エルフはそういう力を魔法って呼んでいるのよ。私はどうも魔法の才能がないみたいだけれどねぇ」
「ハァ?えーとつまり、ティアが火やら水やら風やら氷を作ったり出来るのは魔法というものの所為だったんですねぇ」
「そ、そんなに?ドラゴンって凄いのねぇ」
「はい。他にも何かあるかもしれませんが、どうなのでしょうね。そこら辺は私にも分かりません。とりあえず分かるのはティアが凄いと言う事です。えぇ。流石わた」
「いや、それ、もう良いから」
「えへへ、流石、『私』!ミケネコには『私』が教えてあげるよ!」
「ありがと、ティア。……ほら、移っているじゃない」
「……ぐっ」
教育に失敗したのではない。彼に問題があるのだ、という事を少なからず彼自身、理解した。今後は、パンドラにも一緒に面倒見て貰おうと誓いながら。もう、時既に遅いかもしれないけれども。
「もしかして、その壁も魔法で壊したの?」
そんな馬鹿な事をリオンが考えている間に、パンドラが壁に近寄り、割れた場所をじっくりと眺めていた。
「いえ、それはティアが押して壊しました。いやー見事な壊し方です」
「パパ、もっと褒めていいよ!私、凄い!流石、『私』!」
「マリオンが二人になった気分だわ……でも、押し壊したって……」
「力もありますからねぇ、この子」
「えっへん」
そんな馬鹿な親子にため息を吐くパンドラであった。
しかし、壊れてしまったものは仕方なく、どうしようもない状況にパンドラはその場で膝を抱えて座り、抱えたそこに首を傾げて頬を乗せる。
「なんだったら、ちょっと遅れて崩落したとかでいいんじゃないんですかね?」
「確かに最近、大陸が揺れる事は多いけれど……そんな都合良く起こるわけないじゃない」
「あれ、そうなんですか?地面の中はあまり揺れてなかったように思いますが……」
「揺れてたよ、一杯!パパが鈍いだけだよ!」
「……辛辣な娘ですねぇ」
「散らばっている石を積み上げていけば、誤魔化せるかな?」
「ミケネコ君が馬鹿な事を言っています……」
「煩い。まぁ、最悪そのままでも良いのだけれどね……それでも私が出て行かないと分かれば安心するエルフもいるだろうし」
「そうやって、意味深な物言いをする割には、何故ここにいないと駄目なのかとかは言いませんよねぇ」
「……ごめんね」
「いえ、別に責めているわけじゃありません。それに、ここにミケネコ君がいてくれないと私、帰る所がないので」
一緒にどこかで新しく住むという発想が沸いてこないわけではない。ただ、彼女がこの場に執着しているのだとすれば、それを止める理由もなかっただけだ。それで彼女が死んでしまうわけでもなしに。だが、もし、仮に、ここにいる事で彼女が死ぬのだとしたら、彼は彼女を無理やりにでも外に連れ出しただろうか?
確かに、今の彼ならば、義娘の力を借りればそれが出来る。
でもきっと、それでもパンドラはここを動く事はないのだろうと、そんな予感がしていた。例え、死んだとしても、彼女がこの場を離れることはない、と。
「私はここにいないといけない。ここにいないと、不幸が産まれるから。私以外に不幸が訪れるから。……それに私はエルフの希望だから、ね。ずっと、ここにいるの。ずっと。ずっと」
「ミケネコ君が良く分からない事を恰好良さげに言っているんですが……ティア、何の事かわかります?」
「分かんない!」
「もうっ!この馬鹿親子っ!」
「ミケネコが怒ったー。パパー。ミケネコおばさんが怒ったよ!」
「駄目じゃないですか、ティア。おばさんと言っては。ミケネコ君が怒るのも已むなしです。でもまぁ、ミケネコ君が煩いのは仕方ありません。ティア、悲しい事ですが、辛い事ですが、諦めましょうね」
「ちょっと!この御猫様ヘアー、何を教えてるのよっ!」
「うん……私、我慢する。我慢ができる子になるね……爬虫類だけど我慢できる子になるね……ミケネコが煩いのを諦めるためにがんばるね。ミケネコが怒っててもがんばって耐え……ねぇねぇ、ミケネコおばさんって小さいよね?なんで?ねぇ、なんで?エルフって小さいの?ミケネコおばさんだけ小さいの?どうして?」
「ティア、煩いっ!あと、私はおばさんでもミケネコでもないっ!」
「あ!また怒った!ミケネコのばーか!ばーか!……私、煩くないもん!ミケネコと違うもん!……だって私、爬虫類だもん!自由気ままな零歳児だもん!」
「いやー、ティアはきっと大人になっても自由気ままなんでしょうねぇ……良いことですよね、自由って」
「……遠い目しないでよ、マリオン。はぁ……でも、二人ともありがとう」
「何が、ですかね?」
「聞かないでくれて……ううん。……なんでも、ない」
「はぁ?……あぁ、でも、そうですね。もし、その内、外に出たくなったら言って下さいな。どこへなりとも連れて行きますから。例え、世界の果てでもね」
「無いと思うけどね……でも、世界の果て、ね。エルフにとっての世界の果てはすぐそこだけど……この大陸の、世界の果てかぁ。それはちょっと見てみたいなぁ」
「きっと凄く遠いんでしょうねぇ」
「だと思う」
「何々?何の話なの?何の話なの?」
「世界の果ての話よ。ティア。貴女はまだ知らないだろうけれどね。この世界にはね、果てがあるの―――」
そうして、夜が過ぎる。
パンドラの語る物語を、ガラテアは聞き入っていた。その姿に、頭の良い子だなぁと再三思う事を頭に思い浮かべながら、リオンは石を積んで行く。自分で馬鹿にしたパンドラの言った言葉の通りに。ガラテアが壊した洞穴の壁を一つ、一つ選びながら積み上げていく。せめて変な化物が入って来ないようにと考えての行動だが、あまり意味を成すとも思えず、彼自身、首を傾げながらの作業であった。
一度壊れた物は、元に戻る事はない。
戻るとすれば形を変えて、でしかない。壊れた物を元に戻せるというのならば、それは神の御業であろう。当然、彼は人間でしかなく、そんな事が出来るわけもない。万能の存在など、この世界にはいない。
彼も、パンドラも、そしてガラテアであっても、万能ではない。だが、彼らには考える事が出来た。
話も佳境に入り、ガラテアがパンドラの話に目を爛々と輝かせているのを横目に、リオンもまた、石積みを終えようとしていた。大げさに空いた壁は、積まれた岩石によってほとんどが遮られたものの、隙間から入る冷気はなくならず、多少力のある存在が体当たりすればすぐにでも崩れそうであった。まして、知恵のあるものであれば、それこそ彼のように一つ一つ手に取りながら崩す事も出来たであろう。
故に、彼はその積んだ岩石の前で考えていた。彼一人では大した考えは思い浮かばない。彼が考えられる事など料理に関してのみである。故に、彼一人では大したものではない。だが、ここには聡明な者が二人いる。
「マリオン、何、その腕?」
唐突に掛けられた声に振り向けば、パンドラが険しい表情でリオンを見つめていた。ふいに、視線を向けた事で、彼の腕の惨状に気付いたのだろうか。
「あぁ、折れた後に酷使した所為で、変な方向に曲がったという話です」
「何が『という話』よ。おおごとじゃない」
いそいそと牢屋の中を動き、リオンの左腕を恐る恐る手で触れる。
されるがままのリオンは、手持無沙汰そうに右手でぽりぽりと頭を掻きながら、視線を感じて義娘の方を見れば、義娘が膨れていた。
「……ティア、何か?」
「お話、途中だったのに!良い所だったのに!」
「あぁ、それは失礼を」
頬を膨らませて、腰に手を宛てる義娘に、そんな仕草をどこで覚えて来たのだろうと疑問に思いながら、天性の物なのだろうかなどと馬鹿な事を考える。そして、そんな馬鹿な考えを浮かべるリオンの積んだ石に、不格好な壁に、聡明で気紛れな義娘が気付いた。
「パパ、壁焼くの?」
「焼いてどうするんです?」
「どろどろしたのが冷えたら固まるよね?」
「あぁ……なるほど」
「傍から聞いていると恐ろしい会話をする親子よね、貴方達って。でも、確かにそこまで出来るなら壁にはなると思う。でも、溶けたら流れるから元の形は保てないかな」
「あ、そっか。ミケネコの言う通りだね。……じゃあ、凍らせる?ここ寒いから暫くは大丈夫だと思う!その間に、金属とかで埋めてしまえば良いんだよね!扉が良いかな?パパ、また行くよね?お母様の御墓掃除とか!」
「はい?えぇ、勿論です。暫くは地上で良いですけど。……ここから入れるなら楽で良いですねぇ」
「分かった!じゃあ、私、がんばる!」
親の役に立つのが嬉しいのか、はたまた単なる気紛れか。ガラテアは意気揚々と壁に近づき、何の気もなしに手を振る。
次の瞬間、積まれた石の表面に霜が走って行き、ぴしぴしと音を立てて岩石が氷に包まれて行く。隙間は埋まり、もはや最初からそうであったかのように壁を埋める氷塊が出来あがった。暗がりであれば、一見してそれが氷に包まれているとは分からないだろう。
「我が目で見ても信じられないぐらい凄いわねぇ」
氷の壁が出来た所為か、暖を取る用に付きっぱなしの炎に少し近づき、パンドラがそんな言葉を零す。零しながら、ぱちぱちと軽く手を叩く。その音に、一瞬ガラテアは不思議そうにしたものの次の瞬間には、嬉しそうに笑っていた。笑い、パンドラへと近づけば、パンドラがその頭を撫でる。パンドラの華奢で、骨ばった手がこそばゆいのか、ガラテアはくすぐったそうに、しかし、嬉しそうにしていた。
「マリオン、この子頭良いわねぇ。何か色々教えがいがありそう」
「さすが、『私』の義娘ですね!」
そんな事ぐらいしか言えないリオンであった。
「ミケネコ!続き!」
「はいはい。じゃあ、そうね―――」
再び語るのは、神の物語。この世界の神を語る物ではない。彼女が、エルフに伝わる物語を元に作り上げた、『彼』の物語。或いは優しい女神様の物語でもあっただろうか。
話すパンドラ、聞き入るガラテア。それを横目に、荷物の確認と道具の手入れをするリオン。
そんな彼らの姿は、ここが牢の中であると知らねば誰が見ても、やはり、仲の良い親子のようであった。
そんな親子の団欒もいつしか終わりを迎える。
最初に眠気を覚えたのは母親役であった。
藁の上に体を横たえ、静かに眠りについた。
彼女本人が言っていたような心労が祟った、というだけではない。そんな状態で感情が振り回されるような会話をしていた、というだけではない。寧ろその大半は安堵を覚えたが故の安心感から来るものであったに違いなかった。安らかに寝入るその姿を見れば、誰が見てもそう言うに違いなかった。そこに更にずっと満ち足りてなかった胃も満足すれば、意志とは無関係に体は睡眠を欲求する。だが、それを今の今まで彼女は意志でもってどうにか耐えていた。語るために、語り合うために耐えていた。だが、それも限界だったようである。
『また、明日』
明日もまた、三人がいる事を願いながら。彼女は眠りについた。
そんな彼女を暫く眺めてから、彼は腰をあげる。
「ティア。行きましょう」
眠りに付いたパンドラに、以前よりもさらにボロになった藁を被せ、ガラテアへと声を掛ける。
きっと、今はまだ、夜。星々が浮かぶ満天の空。夜の帳であろう。それを確認するために。それを確認して、朝だったらそのまま別の場所で時を過ごさなければならない。そして、夜だったら再び戻ってくれば良い。出来れば夜であって欲しい、そう思いながら彼は袋を担ぐ。
「なんで?もっと聞きたい!ミケネコが起きるまで待ってるよ!」
「ミケネコ君がそれを願うから、です」
「なんで?……良く分かんない……でも、パパが言うなら我慢する。多分!」
不満そうな表情だった。次いで、頬を膨らませて腰に手を宛てながら、ぷいっと顔をリオンから反らす。その義娘の姿にぽりぽりと頭を掻きながらも、しかし彼は彼で娘の言いたい事を十二分に理解していた。
我慢する理由が分からない。それは是であろう。彼自身、大して理解できているとも言えない。彼女が何を思ってこの場にいるのか。何故、この壊れた函の中で過ごす事を望むのか。なぜ居続けなければいけないのか。不幸が産まれるから?希望だから?天使が関連しているのか?想像は出来るが、しかし、所詮想像でしかない。だが、それを強く聞こうとも思っていない。もし、仮に彼の中に義憤というものがあれば、無理をして聞く事もあっただろう。だが、悲しみもなければ怒りもないが故に彼がそれを行う事はない。寧ろ、憤っている姿を見せている非人間である彼の義娘の方が、その点では真っ当だった。彼女は産まれた瞬間に母が殺され、喰われた事により、それを成した相手への消えぬ怒りが残っている。生まれながらにしてそんな感情を知っている。
「それに比べて私は、ミケネコ君曰くの情緒がない、という奴ですね……」
憤る娘を宥めるように手の平で撫でながら、そんな事を呟く。その事が、その事実が悲しいと思えない事が或いは、彼の不幸だったのかもしれない。
「ティア。どうか、私の代わりに怒ってください……」
零れたそれは、酷く小さな声だった。
「パパ?」
不思議そうな顔で小首を傾げるそんな義娘の反応に、リオンは笑みを浮かべ、次いで寝入るパンドラへと視線を向けた。
今の彼にとっては、また、彼女と会えて、料理を作ることができて、話ができるだけで十分だった。
いいや。
帰る場所であって欲しいと願うその想い。それを思えば、もはや、十分だとは思っていないのかもしれない。そうでなければ、どこへなりとも連れて行くなどと口にすることもなかっただろう。少なくとも、彼はパンドラの居る場所に居たいと思っていた。それだけは事実だった。そして、それは別にこの場でなくても構わないし、この場であっても構わない。彼女の望む場所であれば、それで良い。そこまで彼は主張しようとも思っていない。
ただ、それでも、
「いつか、そうですね。いつかずっと一緒に居られるようになったら、とっても楽しいんでしょうね。ティアとミケネコ君と私と三人で」
少なからず、そう願っていた。
そして今、こうして外へ行かなければならない事は残念である、そうも思っていた。
「今は駄目なの?」
「ミケネコ君が我儘なんですよ。えぇ」
「むぅ!」
「冗談です。……洞穴で寝ると決まってそんな夢を見ていました」
「夢?」
「えぇ。夢です。とっても楽しい日々の夢です。皆で旅をする、そんな夢です。楽しそうでした。とっても」
「ふぅん。じゃあ……叶うと良いね、パパの夢」
「優しい子ですねぇ、ティアは」
ガラテアが鉄格子をそっと音も立てずに力任せにこじ開け、外へ出て再び鉄格子を元に戻し、二人は連れ立って地上へと向かう。
彼にとっては久しぶりの地上へと。ガラテアにとっては初めての地上へと。少なからずの楽しさを覚えて昇って行く。
それが故に、気付かなかった。
眠っていたはずの、意志とは無関係に意識が落ちていたはずのエルフが、それを聞いて小さく、静かに泣いていたのを彼も、ガラテアも気付く事はなかった。それは嬉しさだろうか。悲しさだろうか。それを知る者はいない。そして、
『私も……』
そう呟いた事もまた、誰にも気付かれる事なく、函の中に消えた。
その日、二度、涙を流した少女は―――
函に穴が空いた。
希望が抜け出ることのできる穴が空いた。
希望は穴の空いた函に自らを閉じ込めた。
だが、一度空いた穴が元に戻る事はない。
所詮、作られた壁など仮初。
彼らは神ではないが故に。
故に。
毒が産まれる。
ほんの些細な毒が少女を蝕む。
蝕んで行く。
『希望』であれと願われた少女が毒に蝕まれて行く。
『罪』であれと願われた少女が毒に蝕まれて行く。
『贄』であれと願われた少女が毒に蝕まれて行く。
―――どこかの誰かのために函にあれと願われた少女は、―――
その毒の名は『夢』。
―――自らの願いを夢見てしまった。