第5話 幸せな記憶
5.
例え道に迷っているだけだとしても時間は経過する。
幾ら思いが強かろうと、今の彼にとって時間の経過とは死と同義だった。松明の灯りが消えれば終わり。暗闇に取り込まれ、いつしか食い殺されて終わる。そんな未来を避けるためにも、軽く仕込みを終えた彼は、周囲を歩きまわり、燃える物を探し始める。だが、都合良くそんな物が見つかるわけもなく、ゆっくりと終わりの時間は近づいてくる。まだ猶予はある。だが、その捜索時間は間違いなく、無駄だった。
幸いにしてゲテモノ料理を扱う彼にとって、蟲であろうと砂であろうと黴であろうと苔であろうと悪魔の血であろうとその内臓であろうと食糧となるが故に、餓死だけは避けられた。空腹は思考能力を低下させ、安易な行動に陥らせる。そんな悪循環だけは避けることができた。もっとも彼以外からすれば、未知の領域で未知の生物を食べるという行為自体が既に安易な行動であろうが。
「……この辺りにはない、と」
無駄になった時間を後悔する暇はない。残された松明の数は、今、彼が使っている物と左腕の添え木になっている物の二つ。それがなくなれば光一つない世界の出来上がりである。そして、人間はそんな状況で物を見られるようには出来てはいない。見えない世界を歩き回りながら、生き延びる事ができるとは流石に彼も思っていなかった。いくら彼が化物すら陶然とする料理が作れるとしても光を産み出す事など出来ないのだから。
生み出せない物を、持たない物を欲しても意味がない。ただでさえ無駄な時間を過ごしたのだ。そんな事に思いを馳せる時間はなかった。馳せるのならば、別の事。
「戻れますかね」
呟いた言葉は洞穴から出る事について、ではない。
尻尾が噛み砕き、吐き捨てた松明の欠片のあった場所へ戻る事はできるだろうか?そんな自分への問いであった。そこに戻れば砕けた木々はあるだろうか?それとも今自分がいる場所だけが沈んでしまって、もしかするとあの場所は沈んでいないのだろうか?この付近には燃える物が見つからなかった以上、そこに辿りつけなければ、そこが一緒に沈んでいなければ、他の場所も余り期待は出来ない。
そんな事を考えながら、松明の灯りで尻尾が這った跡を照らし、目を凝らす。その尻尾が這った跡に沿って戻って行く。結果的にいえば、彼の心配は杞憂だった。その場もまた、彼と共に沈んでいた。
砕けた松明の数は相当数。一年以上、毎日のように落としていたせいで相当の松明の欠片が落ちていた。中にはそのまま使えそうな物もある。
喜び勇んで木々の選別をしようとして、彼はふと動きを止める。これは、言ってみれば彼にとって失敗の証である。確かに怪我の功名という言葉もある。そして、これらがなければ灯りの問題は解決しないわけであるが、しかし、この事を純粋に喜んで良いものかどうかと頭をぽりぽりと掻く。そもそも、尻尾が釣れていれば、この場に来る事もなかったのだから尚更に釈然としないようで、目を細めて苦笑いを浮かべていた。
だが、それも一息を吐くまでだった。過去を後悔した所で、届かなかった自分の料理に悪態をついた所で意味がない。現在は過去の延長で、未来は前にしかないのだから。
肩を竦めるように大きく息を吐き、松明と荷物を地面に置く。次いでしゃがみ込み、片手で木々を拾い始めた。
全てを持ち運ぶ事はできず、まだ使えそうな形の良い物から優先して袋に詰めていく。形の悪そうな物、かなり小さい物は袋には入れず横に置いて行く。そんな作業を延々と繰り返す。
そんな単純作業をしながら、彼は周囲を見渡し、現状を把握する。
「とはいえ……」
見上げ、再び頭を掻く。
陽光の一筋すら見ることができず、彼が入った場所はまるでどこか遠い別の世界にでも行ってしまったかのようであった。どれだけ落ちたというのだろうか。彼には想像も付かなかった。だが、それは彼にとって別に問題ではなかった。高かろうが深かろうが問題はない。寧ろ問題は、ここから地上へと至るような道もなければ、昇れるような壁もない事だった。
ここが行き止まり。
見渡す限りの断崖であった。地面の中を流れる水がこの断崖を落ちてくれば、それこそ滝でも形成されていたであろう。それも普通の滝よりももっと深い、無限の如くに高い滝だ。落ちてくる水にぶつかる程度でも、命があるとは思えないような物だった。
水が無い今ならば、この崖を登れるだろうか?地上まで至れるだろうか?
手早く木を分類しながら、そんな馬鹿な考えを浮かべた自分に、再び苦笑し、一瞬手が止まる。
間違いなく、登り切る前に体力が尽きて落下する。まして、片腕でそれが出来るわけもない。今、木を選別する作業ですら苦労しているのだ。
「これぐらいで良いですかね。……じゃあ、とりあえず、食べますか」
歩き、動いた所為で彼の腹が小さく自己主張し始めていた。その場に座り、袋の横に集めていた木片に火を付け、小さな焚火を作り出す。火が安定した所で使っていた松明の火を消し、後に備えて横に置いた。
次第、ぼうと周囲が明るくなり、パチパチ、と火に炙られた木が鳴り始める。
その音を聞きながら、袋に仕舞った悪魔の腸を取り出し、腸をナイフで短冊状に切っていく。ぶつ、ぶつと肉を切って行き、それに持ち合わせていた岩塩を塗し、焚火に入れて焼く。その合間に今度は悪魔の顎を取り出し、両足で顎を挟み、ナイフで器用に一本一本歯を取り外しては火の中にくべていく。
頃合いを見て、燃えていない木を使って腸を取り出し、その木で持ち上げて挟んで口の中へと。
「意外といけますね」
相当に高熱であろうが、しかし、彼は熱さに悶える事もなく、灰が混じった悪魔の腸を咀嚼し、嚥下する。
その味に、もっと他に材料や調味料があればと彼は思い、思った所で、それでは料理人失格であると自分を戒める。
「何が意外と、ですか。美味しくないのは自分の所為です」
周囲を囲む岩の破片や小さな蟲、松明に塗られた松脂、そして喰い散らかされ腐敗した自分の料理が見渡す限りにあるのだから、使える物はいくらでもあったではないか、と。まして、少し減ったものの自信作である酒も残っているのだ。
「にも関わらず灰しか巧く扱えなかったとは……やっぱり、ちょっと焦っているみたいですねぇ」
誰に伝えるでもなく呟き、先程と同じように頭をぽりぽりと掻きながら、一息吐く。
一息を吐いて、消した松明の火を再び付けた後に、焚火を足で消し、灰を掻き分けて焼いた歯を取り出し、更には周囲に散らばった腐敗した自分の料理の欠片を広い、一緒に袋に詰め込んで良く混ざるようにと手でぷにぷに押してから、立ちあがる。
ナイフを腰に添え、袋と松明は合わせて右手に持つ。普段、袋の口を片手で持ち、肩に背負わせるように持っているそれを、中の詰まった状態で片手だけで持つのは、彼にも辛い。だが、左腕が折れているのだから致し方ない。もっとも、左手を使わずとも、右腕に掛る重さが左腕に響くのか、時折、表情を歪めていた。
痛もうとも、苦しかろうとも、それでもそうしなければ彼がここから出る事は叶わない。
およそ中身は混沌としているであろう袋を片手に彼は来た道を、尻尾の跡を戻って行く。もうここに来ることはないと誓いながら。
再びここに戻るような事があれば、自分は死ぬだろう。或いは、そんな状況にあれば、既に死んでいるであろう。彼は、冷静にそう考えていた。再びここに戻ると言う事は、すなわち何も見つからず、ただ無駄に松明を浪費したという事でしかない。もはやこの場に形の良い木があるわけでもなく、灯りを作るには要を成さない木片ばかりだ。そんな木片に願いを託さねばならないほど差し迫った状況になる前に洞穴から出られなければ、どの道、帰る事など出来はしない。
故に。
彼はただ、前に進む。
前に進むしかなかった。例えその先が闇であろうと地獄であろうと何であろうと、前に進まねばならなかった。帰るには、そうしなければ、ならなかった。
悪魔と遭遇した場所さえ超えて更に先へと進む。
時折、思い出したように、袋から灰を被った悪魔の歯を取り出しては、地面に撒きながら先を行く。
撒き餌のようでもあり、獣避けのようでもあった。
その歯は焼かれた後でも強く臭いを発していた。それまでにどれだけの腐肉を喰い散らしたのだろうか。存在自体に腐肉の臭いがしみ込んでいるようなそれを、彼は灰にまぶして焼く事で更にその臭いを高めたのだ。腐肉に誘われて近づく者には撒き餌となり、腐臭が苦手な者には蟲避けや獣避けのように機能していた。
実際に、それに引っかかった化物がいた。背丈は彼の膝よりも下ぐらいの生物であった。頭が無く足だけが多く生えている生物であった。彼には目もくれずその焼かれた歯に向かって彼の横を、多脚を巧みに使いぶに、ぶにと上下に揺れながら走り抜けようとした所で、上から袋を落下させられ、潰れた。そして、当然のようにナイフで解体され、袋の中の住人となった。
「美味しそうなのが一杯ですね……これで、入口と出口が分かれば最高なんですがねぇ」
そんな風にして彼は不思議な生物達を仕留めながら奥へ、奥へと歩いて行っていた。
それから、どれぐらい歩いた頃だろうか。
外の世界では陽が沈み、星々が空に現れている頃であろう。尻尾が削った道を延々と辿り、もうそろそろ一つ目の松明が消えてしまいそうなるぐらいに進んだ先だった。
ぴちゃ、ぴちゃ。
彼の耳がそんな音を捉えた。
水の音であった。
その音に引かれるように先を行きながら、壁を這う小さな蟲や足の生えた魚然とした何かを捕まえては、ナイフで絞めて、袋の重さを増して行く。ただでさえ重かった袋がさらに重くなり、彼の腕に掛る負担は増すばかりだったが、彼にとってそれは生命線でもある。食べるにしろ、逃げるにしろ、素材が無い事にはどうしようもない。
しかし、こんな状況であれ、次から次へと出てくる不思議な生物に彼は喜びを隠せなかった。こんなに美味しそうな物が一杯だ、と。これを持って帰れば、これを使って料理を作れば彼女は喜ぶだろうか、と。
それは、彼の中の希望でもあったのだろう。彼は何も諦めてはいなかった。想像力がないわけではない。かなり冷静に自分の状況は理解している。怪我もしており余裕があるわけでもない。だが、それでもなお、彼が絶望に囚われる事はない。
「帰ったら、聞いて貰いましょうかね」
そうして新しい物語の一つでも作って貰おう。例えば、彼女を主人公にして旅をするような物語を。暗く狭いその場所から外の世界を想像して、オケアーノスまで至る物語を書いて貰おう。彼女が外に出られないというのならば、代わりに自分が外に出よう。彼女が行けないと言うのなら、代わりに自分がそこに行こう。今、この時のように。行って、帰って、それを伝えて、そうして、楽しい旅の物語を、辛くとも楽しい冒険譚を書いて貰おう。
そんな希望を抱きながら、彼は更に奥へと進んで行く。
否。それが奥かどうかは彼にも分からない。そもそも地面ごと落下してきたのだ。地上へ至る道すらないのかもしれない。唯一地上と結ばれていた場所が壊れたのかもしれない。そうであれば助かる事はないだろう。けれど、それでも彼は先を行く。
彼はいつだって前を向いて歩くのだ。
そうして、進んだ先。
次第、次第と近づいているのだろう。近づいて来ているのだろう。ぴちゃ、ぴちゃと遠くに聞こえていた音はもはや轟音と呼べる程の大きさに変わっていた。そして、その轟音の中に彼は確かに、聞きなれた鳴き声を聞いた。
「これは、尻尾さんですかね?……っ」
だが、それだけではなかった。滝の如き轟音を越えて尚、響き渡る音はそれだけではなかった。
次いで響いた音は二つ。
その内の片方は彼も既に知っている。ガサガサとバタバタと激しく打ち震える不快で不愉快な翅の音。悪魔の翅音が轟音の中に響く。一つ二つではない。いくつもの、数え切れぬほどの音が彼の耳に響き、つい耳を押さえてしまいそうになる程だった。生憎と、いや、残念な事に両手の塞がった彼はその音を聞き続けるしかなく、次第、次第に表情が歪んで行く。
そして、もう一つ。
翼の作り出す音。さながら鳥が羽ばたいているかのような、そんな音だった。翼が風を切る音がいくつも、いくつも彼の耳朶に響き、響き渡って彼の脳を揺さぶる。
それらの作り出す不快な音の中に、しかし、負けず、その鳴き声は聞こえていた。怒りであろうか、悲しみであろうか、それを判断する事は彼にはできないが、少なくとも尻尾は生きているのだという事に、彼は少し安堵した。
「……とはいえ、大変な事になっていそうですね」
呟いた声が轟音に掻き消える。
先程遭遇した悪魔が何匹もいるのならば尻尾が一匹ではどうしようもない状況であろう。多勢に無勢である。それにこの鳥のような翼の作る音も合わさっているのだ。いいや、それの作り出す音の方が、悪魔の作る音よりも激しかった。数の多さの違い、ではない。それは、動いているか、その場に停滞しているかの違いではないだろうか。
進む道の状況が悪い事を理解しながら、だが、それでも、道を戻る事に意味はなく、彼はその音へと近づいていく。
右手で荷物と松明を持ち、左腕は壊れたまま。耳を押さえる事もできず、表情を歪めながら……次第、彼は腕から伝わる痛みよりもその音に痛みを感じていた。洞穴内だから尚更だったのだろう。音が岩にぶつかって反射し、互いに重なり合い、増幅し、意識すら削り取るほどの不協音を作り出していた。
その不協音を覆い隠すように轟々と聞こえた水の音が、突然、消えた。
消えた瞬間、代わりに、尻尾の声が大きくなり、翅の音も翼の音も掻き消す程に大きくなり……次いで、燃えるような光が洞穴内に産まれた。
「っ!?」
さながら空を見上げた時のようであった。目の前に陽が生じたかのようであった。一瞬にして生じた光に彼の目が眩み、瞬間、その光から顔を背け、瞼を閉じる。だが、その光は瞼を通してすら、彼の瞳に光を伝えてくる。
暗がりに産まれたその光はあまりにも強烈で、彼がその光に慣れるには暫くの時を要した。もし、この時に彼が何かに襲われていれば間違いなく死んでいたであろう。だが、そうなる事は無かった。そんな存在がいたとすれば、きっと、彼と同じく光にやられていたに違いないのだから。
ゆっくりと、瞼を開いて行く。
瞬間、彼の視界が開けた。
彼のいる細い道、そこから続くその場所は、広大な空間だった。彼が唖然とするぐらいに、呆然となるぐらいに広大な空間だった。自然、導かれるように、誘われるように、彼はその広間へと足を進める。
そこは、彼にはエルフの森よりも尚広く感じられた。あの広い湖よりも、それを内包する森よりも大きいように彼には感じられた。相対的に見れば彼が豆粒一つぐらいに見えるようなそれほど広大な場所であった。
そこにそれらはいた。
鳥のような羽でもあり、蟲のような白い翅を持つものだった。その体は青白く、幾何的な要素を組み合わせた生命としてありえない存在……天使と呼ばれる者達が飛び交っていた。一匹ではない。二匹ではない。数十ではない。数百ではない。数千でもない。数えるのが無意味な程に。この広間の天井を埋め尽くそうとしているかのようにそれらは存在した。
そして、それをまるで見守るように、その隙間に、その下に、その上に、悪魔がいた。それもまた数える事が無意味なぐらいに存在していた。
そして……それらを襲う炎で出来た風が螺旋を描いて立ち昇っていた。
炎の柱。
それが一つ、二つ、三つ。それに焼かれ、天を埋め尽す天使と悪魔が落下していった。断末魔を挙げながら次々と落ちていく。焼けた体が地面にぶつかりぐしゃりと音を立てる。その音が止まない。だが、それでも天使も悪魔もその数が減る事はない。否、減った以上に増えているようでさえあった。
そして、炎から逃れた天使や悪魔に待っているのは、それを喰らい尽くさんとこれもまた数え切れぬ程の尻尾が、縦横無尽に動き回っていた。
阿鼻と叫喚。
落ちる悪魔が、堕ちる天使がこの世の物とは思えぬ叫びを挙げながら、焼かれ、喰われている。
だが、当然の如く、それだけではない。焼かれるためにこの場にいるわけではない。喰われるためにこの場にいるわけはない。
聳えるソレを殺すために。悠然と存在するソレを壊すために。
それは、生物と呼ぶにはあまりにも巨大であった。広間を埋め尽くすほどの巨体。高さの程は彼の位置からは分かり兼ねた。だが、天使の位置する場所には達してはいない。否、計り知れない高さだからこそ、天使と悪魔がさらに高い場所に位置し、その場を埋めているのだ。
炎によって作られた視界があったとしても、その全貌を伺い知ることはできない。それほどに巨大であった。
リオンはそれを見て、山だと思った。
巨大だったから、だけではない。一つの山に生える木々の如く、細い物から太い物、長さも高さも違う刺々しい鱗の生えた首が乱立していた。その首一つ一つにはそれぞれ顔がついており、首の長い爬虫類が牙を剥いていた。まさにそれぞれがそれぞれに意識を持っている別個のドラゴンのように自由自在に思うがままに迫り来る天使を、悪魔を喰らっていた。そして、山のような体の麓には尻尾が生えていた。否、縦横に張り巡らされるように麓では体が枝分かれしていた。それこそ先程彼が潰した顔のない生物やアモリイカと同じような、そんな分かれ方。それらは軒並み太く、彼が一年を共にした尻尾も確かに、それであった。その尻尾もまた、別個のドラゴンのように天使と悪魔を襲う。
それは、ドラゴンの集合体。
まさにドラゴンで出来た山であった。
「これが、ドラゴンですか。いやはや、立派な尻尾ですねぇ。……でも、手とか足はないんですね。あんなに首も尻尾もあれば動かなくても良いんですかね?うーん。ドラゴンの苗床ですか?」
次々と思い浮かぶ疑問と興味。それを呟いては消え、呟いては消える。
そんな風に呆然と。ただ、呆然と。
眼前に聳えるドラゴンへと数多の天使と悪魔が襲いかかる姿をただ、呆然と眺めていた。この場において彼は、そんなちっぽけな存在だった。ドラゴンにも悪魔にも天使にも見向きもされぬ存在。否、人間であろうとエルフであろう化物であろうとこの場では無力の一言。
ただの人間が、山のような大きさのドラゴンを相手に何が出来るというのか。そして、それを襲う数多の存在に何ができようか。
人の敵う存在ではない。
敵うと思う事すら無謀であった。
そんな無謀を作り出す者達が織り成す狂騒。
それを楽しんでいるのは天使と悪魔だった。いいや、恐らく天使の方であった。悪魔の集団は天使を見守るように一歩引いている。もっとも、それもドラゴンが天使に殺された後にその肉を喰らい尽くそうとしているに過ぎず、前に出た悪魔は当然、ドラゴンの攻撃に巻き込まれ、巻き込まれれば反撃をしている以上、傍から見る分には、少なくとも彼が見た範囲では、行動に大差があるとは思えなかった。
だが、確かに一歩引いている事を思えば、これはドラゴンと天使、その二種が織り成す生存競争。互いに殺さなければ終われない生存競争。どちらかが果てなければ終わる事のない狂騒。そして終われば、悪魔に喰われてしまう。そんな悪辣で無慈悲な生存競争。それが、人の神様が創った大陸の奥深くで行われていた。その事を彼は不思議に思う事はない。いいや、思えるはずもなかった。人間を創った神様の大陸を壊そうとそれぞれの神様送り込んだ生物がこの場で争う事の意味を彼は理解できるはずもない。だが、そんな事を理解した所で、今の彼にはそれこそ無意味であった。
そんな生存競争が続く中、ふいに、彼はそれに気付いた。
ドラゴンの中心。
山の頂。
それは巨体の中に存在する小さな、小さな、それこそ彼と同じく豆粒のような存在だった。首達が作り出す森の奥地、さながらドラゴン達の作る王国の中心に隠されるように、守られるように、それは居た。
「……面妖な」
それは卵を抱えた女だった。
眉を寄せながら、リオンは遠目にそれを見る。乱立するドラゴン達の隙間に僅かに見えるそれは、確かに人の形を、女の形をしていた。
炎に照らされ輝く金色の髪、遠目にも整った形なのが分かる造詣、凍えるような白さと優美な両腕、そして首から腰までの作る曲線、それらだけを見れば、絶世の美女といえるであろう。だが、その下。腰から下を見ればそれが人間でない事など即座に分かる。腰から下は山であった。一見すると鱗によって作られた山に人間が埋め込まれたようでもあった。それがそのドラゴンの頭であり、上半身であり、手であった。故に山は、下半身であった。
「ドラゴンが先か、人が先か……ドラゴンの神様はよっぽど人間が嫌いなんですかねぇ」
彼がそんな阿呆な感想を浮かべる程にそのドラゴンは生物として規格外であった。それこそ神が創ったとしか思えぬ生命体であった。だが、ドラゴンの神様は人間の神様を嫌っている。にも関わらず、そのような造詣になっているのは、その神様の気が狂っているか、ただの嫌がらせか、遊びでしかなかろう。パンドラに聞いた神様の話を思い出しながら呆とその女に目を向け、彼が思ったのはそんな事だった。
そんな風に女の顔を見ていれば、女の顔が、視線がぎょろり、ぎょろりと動き、動くたびに炎の螺旋を描きながら、天から地上へと天使や悪魔を焼きながら降りてくる。それはドラゴンの怒りなのだろうか。まさにそれを体現したような炎であった。
「これは……凄いですねぇ」
その生物が作り出したであろう、その現象に彼は驚きを隠せなかった。魔法、という存在を彼は知らない。だが、少なくとも、彼は、この現象はエルフが爆発したり、パンドラが燃えたりする事とは全く違う原因だと言う事は理解できた。当然であろう。不利益なく自分の好きなようにこうして炎を出せるのならば、それをパンドラから教わっていたに違いなく、今、彼が火に困る事はなかっただろう。
そんな風に炎を眺めていたリオンに、時間差で、熱が伝わってくる。離れていても熱気を感じるほどに強い炎であった。その炎から逃れるように少し離れ、そして再びその現象を生み出したであろう存在へと目を向ける。
ひっきりなしに動く視線とは違い、その華奢で触れば折れそうな細い腕は、一切動くことはない。じっと、大きな卵を抱えている。大事そうに。とても大事そうに。卵の中に仕舞った宝物を誰にも渡さないと言わんばかりに。
それは、極彩色の卵であった。
このドラゴンがそんな風に守る卵とは何であろうか?
我が子に違いないであろう。それぐらいは彼にも容易に想像が付いた。
卵を女の腕が守り、女の廻りを数限りない凶悪な鱗と顎を持つ首達が守る。その周囲を更に大きな首が守り、そして尻尾もまた、それらに加勢する。まさにドラゴンの砦であり、ドラゴンの森であり、ドラゴンの王国であった。
そんな最大戦力をもってそのドラゴンは未だ産まれぬ我が子を守っていた。
決して、我が子を傷付けさせぬ、と。
両手で庇い、襲う天使と悪魔を睨みつけ燃やしながら、その卵を守ろうと下半身以下のドラゴンの身体が動きまわる。見えない位置に足があるのか、時折、巨体全体が僅かに動き、動くたびに地面が揺れ、その衝撃に落盤が発生し、天使が巨石に押しつぶされる。そして再び女が視線を動かせば炎の柱が立ち、天使と悪魔を焼く。首と尻尾が悪魔を、天使を喰らって行く。
「一本ぐらいくれても良いですよね……」
そんな場違いな事を考えるぐらいに彼は呆然としていた。だが、呆然としていた割には松明の炎を既に消し、火の節約しているのだから侮れない。
そう。
彼は、そんな存在を見たとしても呆然としたり、驚いたりする事はあれど、怖がる事もなければ怯える事もなかった。そういう存在もいるのだな、という程度の認識であった。彼の行く先にとってこれらの存在が邪魔であるのは確かであった。だが、これらに対して彼が出来る事もまた、ない。故に、認識としてはそんな程度であった。あわよくば近くに落ちてきた首やら尻尾やら、あるいは天使や悪魔でも手に入ればな、と思っていたぐらいである。
「とはいえ、それはそれで負けた気がしますしねぇ」
彼としては、尻尾と勝負をしていたのに、それを無視して落ちた死骸を勝手に持って行って、勝手に食べるというのは許し難かったようである。だから、どちらかといえばリオンはドラゴンを応援していたといえる。
勝って、今度こそ正々堂々と勝負である、と。それこそ人型の部分に食事を提供するのも良いと彼は彼なりに思っていた。全く持って場違いである。
「今の内に先を探しておきますかね」
まだ動くには早い。闇雲に走った所でこの場は広すぎる。炎の柱が立っている今ならば、次に進む道を探すにはちょうど良いと彼は周囲を探し始める。
そんな風にきょろきょろしていても彼に矛先が向く事はない。それぐらい、ドラゴンや天使、悪魔にとって彼はちっぽけな存在だった。
「発見」
幸いな事に思いの外簡単に行き先は見つかった。そして、発見してしまえば、先に行けば良い。見向きもされないのだから、行けば良い。だが、しかし、彼の足はその場所に向かう事は無く、その場に止まったままだった。
その場に立ち止まり、呆と眺めていた。
数多の天使を、多くの悪魔が尻尾を、首を一本、一本と齧り、壊していく。
ドラゴンにその腹を喰われ、落下した天使がいた。
天使によって産み出された風に切り刻まれた尻尾が轟音と共に地面を鳴らす。
悪魔に齧られ、瞬間、悪魔の幽体がその場で実体化し、尻尾や首が内側から裂かれ、やはり轟音と共に地面を鳴らす。
それらの作り出す体液の臭いに、リオンの鼻が歪む。彼にとって、そのまずそうな匂いは酷く許し難いものであった。だが、それに対して割って入って生きていけると思える程、彼は無謀ではなかった。否、そんな状態に割って入れる事の出来る料理の腕を彼はまだ自分が持っているとは思わなかったのだ。
故に。
彼はただ、眺めていた。
ドラゴンが食い殺されて行くのを。
そう。
多勢に無勢。
ドラゴンとて多勢である。だが、焼かれようとも、喰われようとも次々と補給されているかのように数の減らない天使や悪魔には敵わない。個々の差であれば歴然である。だが、無数の天使に襲われ、多くの悪魔に襲われ、耐えられる程ではなかった。水が石を穿つように何度も何度も攻め立てドラゴンを壊して行く。
時間だけの問題であった。
数多の悪魔が動かず、巻き込まれた者以外は見ているだけであったが故に、多少なりと時間は掛ったのだろう。しかし、それでも限界というものがある。いいや、悪魔からすれば、寧ろゆっくりと嬲られて死んでいくのを堪能しているかのようでもあった。歯を鳴らし今か今かと時を待っている姿を見れば歴然であった。
そしてその期待に応えるように天使が奇怪な叫びを挙げながら首や尻尾に喰らいつく。一本の尻尾に、首に複数の小さな天使が、幾つもの大きな天使が張り付き、張り付いては血を流させ、肉を咀嚼していく。歯があるようにも見えなければ口があるようにも見えない。だが、間違いなくそれは捕食であった。それが彼には、自身より大きな動物に群がり相手を喰らう蟲達のように見えた。例え強くても、どれほどに力を持っていようとも無限には敵わない。
故に、リオンが応援した所で何の意味もなかった。
彼はただただドラゴンが喰われて行くのを見るだけであった。彼の勝負を受けてくれていた尻尾とはもう真剣勝負を行う事もできない。その事を残念だ、と思っていた。彼がこの場に留まったのもまた、それが理由であった。最後ぐらいは見ていたい、と。そんな感傷に何の意味もない事もまた彼は理解していた。所詮、自分は人間で、相手はドラゴンの尻尾でしかないのだから。
そう思いながら、けれど、彼は呆然と、自然と尻尾の動きを目で追っていた。
追っていて……見てしまった。
見えてしまった。
そして、理解してしまった。
「『この子をお願いします』ですかねぇ?」
表情は見えない。だが、一瞬合った視線が、凄く遠くに見えた女の視線が、卵とリオンを行き来するのを、確かに彼は見た。狩猟民族故の目の良さがそれを成し得た。
人間ですら互いを理解することはできない。人間とエルフなら更に理解し合えない。そして、人間とドラゴンならば尚更に理解し合う事などできはしない。だが、それでも伝わる想いがある。子を思う親の情。生物として自分自身の生きた証として残す子の事を想う姿、それぐらいはきっと誰にでも分かる事なのだろう。
自らの死を予見し、誰かに子を託したくなるその気持ち。それを彼は、きっと真には理解できていない。己が父は家族を捨てた。病弱な母は彼を己が代わりとして差し出した。産まれた村は互いに血縁であったにも関わらず彼を異端視した。故に、家族の情を彼は理解できない。だが、それでも母親やあの男の子が冷たくなった事を残念だと思える感情は持ち合わせていた。自らの子孫が失われる事はきっとそれよりも遥かに重いのだろう。情緒がないと言われ、パンドラによって押し付けられ、しかし、彼女の本を愛読していた彼は、そんな想いがある事を知識として知っていた。
だから、彼にもその事が理解できた。自らを犠牲にしても助けたい者がある。ドラゴンもまた、そんな感情を持っているのだと。しかし、そんな大切な子を見ず知らずの自分に託そうというのだ。恐ろしい事だろう。怖い事だろう。誰が好き好んで知らぬ、全く別種の生物に己の子を託せるというのだ。
それは単に、儚い程に弱い希望だったのだろうか。どこの誰とも知らない者が、自分の子を受け取り、育ててくれるかもしれない、そんな希望を抱いたのだろうか。
否。
いいや、いいや。少なくとも、ドラゴンは理解していた。それを示すように、一本の尻尾が女へと近づき、極彩色の卵を受け取り、口に咥え、そっと、割らない様に静かに、天使や悪魔を避けながら、他の首に守られながら彼の下へ向かってくるのを見て、彼は……ドラゴンは自分だからこそ、託したのだと知った。
その尻尾に彼は見覚えがあった。普通の者ならば他の尻尾との差など分かるはずもない。大きいか小さいかぐらいの差しか分からないだろう。だが、一年以上も餌を与えながら釣りあげる事に失敗していた相手だ。姿形のみならず、その動きの特徴すら掴んでいる。
「全く。その卵を私が食べるとは思わなかったんですか?不用心にも程がありますよ」
見ればヒビが入り、今まさに産まれて来ようとしているようであった。母親の危険に気付き、産まれようとしたのだろうか。ぴし、ぴしと鳴り続ける卵を、尻尾の口から受け取り、一度地面に置いて、彼は代わりにとばかりに、袋からなめし皮で出来た袋を取り出し、その尻尾の口の中に投げ込んだ。
「それ、自信作なんですよ……ちょっと減ってしまいましたが、ご容赦願いますね」
そんな彼の言葉を理解したかのように、尻尾がなめし皮の袋を咥え、口の中で潰し、そして皮『だけ』をリオンに向けて吐き出した。
「どうです?今度のは美味しかったでしょう?」
応えるように身体をくねらせ、尻尾が戻って行く。戦場へと、殺し合いの場へと、最後の場所へと。そして、同時に、遠くに見えた女の姿が、彼に向って小さく笑ったように見えた。それは、もしかすると、ごちそうさま、だったのだろうか。
それは、ただ一瞬の、刹那の邂逅であった。
それでも確かに彼の想いは伝えられたし、彼は多くの想いを受け取った。例え人とドラゴンであろうと、伝わる事はあるのだ、と。食べられないのは残念だが、しかし、それ以上の物を受け取ったように彼は感じた。そして、その邂逅が一瞬である事が尚更に残念だと、彼は思う。強い思いを貰った。そんなドラゴンに何かできないだろうか。
「受け取ったは良いもののどうしましょうね?」
ぴし、ぴしと割れていく音。
その隙間から足が、小さな、小さな足が現れた。
現れ、その小さな足でもって殻を割ろうとしていた。
「その足、誰に似たんですかね?父親さんですか?」
せめて、せめて産まれてくる子を見てから、死ねた方が良いのではないだろうか。せめてこの子には親の死に目を見させる事が出来た方が良いのではないだろうか。ふいに、彼はそんな事を思う。彼らしくない考えだった。きっと、その事を彼がパンドラに伝えればいつものように煩く笑うだろう。馬鹿みたいに笑って、笑って、そうして最後には優しげな表情で微笑むに違いなかった。
『産まれて来る子には祝福を』
そんな考えが自分の中にある事にリオンは驚きと共に苦笑する。苦笑し、彼は動き出す。敵うはずのない者達に挑むために。
「がんばってみるしかありませんねぇ。今この瞬間に、最高の料理をご提供致しますよ……皆さん。子供の誕生ぐらい大人しく祝いましょうねぇ」
彼はドラゴンが捨てて行った袋を、唾液混じりの袋を手に取った。軽く仕込みを終えた悪魔の心臓を取り出した。腐敗した自作の料理を取り出した。道すがら捕まえた蟲を、魚然とした存在を、顔のない化け物を取り出した。使い慣れた碗を出し、岩塩を取り出す。近くに落下してきた天使の亡骸を、体液を手に取った。食いちぎられた尻尾の欠片を手に取る。
そして、右手だけで料理を開始する。
一つナイフを振るえば、蟲が解体され、魚然とした存在が三枚に下ろされる。頭のない化物を、食い千切られた尻尾をナイフですり潰し、そこに化け物の足を切り刻んだものを混ぜて行く。碗の中に入れ、そこに天使の体液を混ぜ、岩塩を混ぜ合わせて行く。
「皿の一つぐらいは……あぁ、良い所にありましたね」
小さな足が割った卵の殻、その特別大きなそれを拾い、そこに、薄く切られた悪魔の心臓を載せる。副菜のように腐った食材を碗の中に浸し、更に心臓の上に載せていく。
おぞましい料理であった。
見る物を狂わせるような色彩。見る物に吐き気を催させる匂い。だが、それを、彼は一切れ手に取って味見し、満足そうに頷いた。
最後にドラゴンの唾液を、なめし皮にしみ込みそうな程べったりと垂れた唾液と彼の酒が交わったもの、それを折れた左手で絞り、仕上げであった。
それが決め手であった。
移り変わる。
狂ったような色彩は芸術家が生み出した名画の如く。漂う香りは食欲をそそり、自然と唾液を浮かべさせる程に芳醇で芳しい物に移り変わって行く。
風に舞い、熱風に舞い、臭いが香りが世界を埋め尽さんとばかりに広間に拡がって行く。拡がり、悪魔と天使のあるかも分からぬ鼻腔を擽っていく。擽られた天使と悪魔は、リオンの作り出したおぞましい、否。もはや美しい物としか思えぬ皿に気を惹かれた。
目的も忘れ彼の下へ、彼の料理を食べようと悪魔が近寄ろうとして停滞した。どの口もそれを譲らぬとその場で蠢くように廻っていた。そして、同じく天使も停滞した。狂った神の作り出した造形美の目にも敵うその料理。香る匂いに悶えるように幾何的な身体を震わせ、翼を止めて、落下し、壊れていく。
だが、全ての者がそうなったわけではない。変わらずドラゴンを喰い殺そうとしている者もいる。いや、寧ろそれが大半だった。故に、彼のそれは時間稼ぎにも満たない短い、ほんの短い時間を稼ぐ程度でしかなかった。彼はその事に僅か悔しさを覚えながらも、しかし……自分が作り出した時間が十分であり、十全であった事を知る。
リオンの料理の所為で僅か音の小さくなった空間に、ぴき、ぴきと割れる音が響き渡る。
己が力で卵を割り、割って……金色の産毛の生えた頭が卵を割って出て、次いで身体、そして人の手が卵から出てくる。ゆっくりと、しかし焦るように、ドラゴンの、巨大なドラゴンの子にしては酷く小さい子が今まさに産まれようとしていた。
そして、今まさにドラゴンが食い殺されようとしていた。
だが、間に合った。
彼の一手がそれを成した。
それぐらいの僅差であった。
幼子が卵から産まれ出て……そして、目を見開き、雄叫びをあげた。
産まれた瞬間に見る光景が、自らの親が死に至る光景だという事は不幸だろうか。不幸であろう。知っている事が即ち幸せに繋がるわけではない。知らない方が幸せである事も確かにある。だが、それでも、その瞬間に産まれたのは、この子にとって幸福であっただろう。
母の声を聞けたのだから。
母の喜びの声が聞けたのだから。
それは決して断末魔の叫びなどではなかった。自分の子が産まれた事が嬉しいという雄叫び。自分の後に続く者に声を掛けられた事への喜び。自らの体が喰われ、その巨体が崩れ落ちていきながら、無数に存在した首が一つ一つ地面へと倒れていきながらも、それでも、絶望ではなく喜びに打ち震えた。
その声に応えるように、産まれたばかりのその子供の喉の奥から一際甲高い、されど強い雄叫びが産まれた。
そこには強い意志があった。産まれた瞬間に一人になる。けれど、それでも強く生きると、そう誓ったかのようであった。人には決して理解できない。この親にして、この子であるからこそのやり取り。決してこの光景を忘れないと、この光景を産み出した存在を忘れはしないと幼子が、産まれて初めての涙を流しながら、しかし、目を見開いて叫び続けていた。
そんな我が子を見て、頂上にいる女が、宝石のような輝く笑みを浮かべたのを確かに彼は見た。それを最後に、女の体が崩れていく。ひび割れるように、ぼろぼろとその躰が壊れていく。石像のように、創られた物が時の流れに風化するように、ぼろぼろと女の身体が崩れて行った。
そして、それはドラゴン全体にも波及する。
だが、女の体とは違い、肉が落ち、骨が露わになっていく、骨が自重に耐えきれずに崩れていく。ぼろ、ぼろとドラゴンの身体から血と肉と骨が零れ落ち、辺りに腐敗臭が充満していく。命を失った瞬間、急速に腐ってきているのだ。リオンは、その匂いに自然と鼻が歪むのを感じながら、それと同時に周囲が暗くなっていっている事に気付く。
女が創っていたであろう炎の渦もまた、消えてく。
慌てて料理に使った残り火で松明に火を付け、折れた左手でどうにか荷物を持ち、右腕に未だ泣き止まぬ幼子を抱え、その場から移動していく。既に進む道は見つけている。そこはドラゴンの陰になっていたが、ここからそうは遠くない場所であった。そこに向かう。
「石と肉で出来たドラゴン?」
走りながら出たそんな彼の小さな呟きは、当然のように幼子の叫びに打ち消された。そして、その声に反応するように同時に天使もまた、悪魔もまた……リオンと子供に向かい、襲ってこようとして……動きを止めた。
そう。動きを止めた。
「料理はあちらです。早く食べないと……血だらけになりますよ?」
用を終えたとはいえ、未だ香り続ける悪魔の肉。冷めても美味しい、それが彼の自慢であった。そこに興味を惹かれたかどうかは分からないが、天使と悪魔が動きを止めた。
その合間に先を急ごうとして、彼は悪魔と天使の様子がおかしい事に気付く。
動きが止まったのは良い。それは彼にとって想定の範囲内。そもそもそれぐらいの自信がなければ、いくらその子のためとはいえ、この場に残って料理など作るはずもない。故に、天使と悪魔が止まったのは良い。だが、動きを止めた天使と悪魔が一瞬、揺れたかと思えば、もはや彼と子供に興味はないとばかりに身を翻した事は、彼にとって想定の範囲外であった。
「何が?」
疑問が口から零れる。
当然、彼の疑問に答えてくれる者はこの場にはいない。
もはや、用を終えたとばかりに天使は天井へと翼を羽ばたかせながら姿を消した。悪魔は零れ落ちたドラゴンの肉片を喰い始めた。その証拠にそこかしこから肉を咀嚼する音が鳴っていた。
戸惑いを隠せないままに、しかし急がねばと足を進める。
あれだけ巨大な生物が撒き散らした骨と肉と血、それは広間すら覆う。それを避けようと彼は急いでいたのだが、見るからにどろりとした粘りを持つ血ではあったものの、量が量であった。それに追いつかれ、追い越された。
大量の液体に、彼の足元が揺らぐ。少し足を開き、流されぬように構える。荷物と子を抱えているため、倒れそうになるものの、倒れるわけにもいかないと必死にその場で耐える。
ドラゴンから産み出された腐敗臭を帯びた大量の血が、彼の周囲に、視界一面に広がり、いくらかは彼が来た道に流れ込んで行ったが、その殆どは壁にぶつかり、どぷ、という鈍い音と共に弾け、飛沫を作る。そしてそれは、彼の下まで届いた。
壁際にいたのが災難であった。
反射的に避けるように、子供を守るように壁に背を向けたのも、時既に遅かった。
少なくない量の血を横顔に、髪に、目に、耳に、口に受ける。何とか子供には当たらなかったものの、飛び散った肉混じりの血が、それが体の中に流れ込んで行く。
「素材そのものは決して美味しくはありませんねぇ」
急いで逃げた割りに血から逃れられなかった悪態、というわけではなかった。この時この場でなければ、節操無く血や肉や骨を回収していたに違いなかった。その辺りに関しては、彼はいつも通りである。パンドラ曰くの情緒がない、であった。
しかし、今はそれどころではない、とリオンはその場から逃げるように移動する。
ドラゴンの血には追い付かれてしまったので、今さら流れる血と肉からは急いで逃げても意味はない。既にかなり遅いが、危険は別にもあるのだ。いつ悪魔が方針を変えて襲ってくるとも限らない。
粘りを持った血に足を取られ、急ごうにも急げず、走ろうにも走る事が出来ない。走ればこけて取り返しも付かない事になりかねない。
まるで赤い色の浅い湖のようなそこを心持ち急ぎながら、彼は進んで行く。少なくとも今しばらくは悪魔も追ってくる事はないであろうと、そんな期待を抱きながら。
「なぁー、なぁー」
血の匂いに母親を感じたのか、子供が、まるで子猫のように舌足らずな声で泣き、鳴きながらリオンの腕から逃れようと暴れていた。暴れる幼子の力強さに、彼は痛みを覚える。その痛みに倒れぬように足に力を入れ、荷物が血に付かぬように折れた腕を持ちあげ、子を落とさぬように抱きしめながら、痛みに耐える。
いくら小さかろうとこの子供はドラゴンであった。だが、産まれてばかりであったのが幸いしたのであろう。産まれてばかりで泣き過ぎていたのが不幸中の幸いであったのだろう。傷だらけの彼でも、その子を押さえる事はできた。
広い、広い空間を埋め尽くす血と肉の海を越えて、ようやく、別の通路の入り口が視界に入った時、思わず彼はほっとする。
その頃には、幼子は既に泣き止み、彼の手から逃れようともしていなかった。寝入ったのだろうか、そう思い彼が胸元を見れば、その子が我が身を抱いている彼を見上げた。
「初めまして」
「なぁー?」
爬虫類の瞳。
それがリオンを覗く。覗き……次の瞬間、今まで暴れていたのが何だったのか分からぬぐらいに、リオンへと抱きついてきた。抱きついて、小さな顔を彼の胸板にすりすりとしていた。
この瞬間、彼女にリオンは自分の親であると認識された。
刷り込みである。
「君のお母様はさっきのドラゴンさんなのですが……もしかして私は、父親扱いですか?私は君のお母様に君の事を頼まれただけの人間です。……いえ?頼まれたということは、君の父親役を頼まれたという事ですね。そういう意味では確かに父親扱いで良いですね。よしよし」
そんな阿呆な事を言いながら、彼は子供を撫でようとしたが、両手が塞がっているので口だけであった。
「お……おかあ……さま?」
「そうです。さっきの凄いドラゴンさんが貴女を産んだお母様ですよ」
彼自身、言葉にした所で、子供に言葉の意味を理解できるとは思っていなかった。だが、今のように産まれてすぐに言葉を発せるのだ。もしかすると理解できていたのかもしれない。それを示すように、彼の言葉に誘われるように摺り付くのを止め、腕の中で身をよじり、母の姿を、骨と血と肉となった爬虫類の瞳の中に映し出す。
松明の光がなければ、彼には見えぬが、しかし、彼女の瞳は彼よりは暗闇に適応していたようであった。
「ぁぁ……」
骨と肉と血だけとなった母の姿に、再び泣き出した。
僅か前に交わした雄叫びを忘れたわけではないであろう。いいや、覚えているからこそ。失った母を想い、泣いていた。天使に食い殺された母親を助けられなかった事に嘆き、死肉を喰らう悪魔に何もできない事に嘆き、もう二度と会えぬ者との別離に、産まれたばかりの幼子が再び、泣いた。
いいや、それだけが理由ではなかった。
それだけが理由であれば、彼女はきっと泣かなかったに違いない。
彼女のそれは、怒りの感情を持て余したものだったのだから。
「魂とか幽体とかいう奴ですかね?はじめて見ました。そうですか。ミケネコ君が嘘をついていたわけではないんですね。そういうのも本当にあるんですね……いつか調理してみたいものです」
松明の光の範囲、その狭い範囲にも映る程に、それほどに巨大であった。だが、生前の姿が写り込んだわけではない。それであれば、きっと彼女は喜んだであろう。
それは、全くドラゴンの形をしていなかった。
真球。
そう称すのがもっとも正しいであろう。
死したその身から、魂が真球を成して浮かび上がっていた。それに悪魔が群がっていた。先程、尻尾に蟲達のように群がっていた時と同じく……いや数はその比ではないだろう。少なくとも、少なくとも彼の視界に映る真球の表面は悪魔が埋め尽していた。なれば、その魂の全てが悪魔に群がられていると想像するのは容易だった。
肉を食うのは後で良い。さらに腐ってからの方がもっと良いとばかりに歯を鳴らしながら我先にとその真球に齧り付いている。クチャクチャとこの世ならざる音を立てながら、魂を食い荒らし、形を変えていく。
次第、次第に魂が削られていく。
叫びが聞こえるわけではない。嘆きが聞こえるわけではない。だが、それでも尚、その子は憤る。もしかすると彼女にはそれが聞こえていたのかもしれない。親子だけに分かる魂の叫びが。
その事実に彼女は泣いた。喚いた。暴れた。そして、怒っていた。怒り狂っていた。
怒りにまかせて、母親のように炎を産み出す程に。
「なるほど……ドラゴンは火を産み出せる、と」
母親と比べればそれは、ほんの小さな炎であった。その事実に、ドラゴンは炎を産み出す事ができるのか、と彼は納得する。当然の如く勘違いであったが、しかし、そんな事よりも、もっと彼にとって重要な事があった。先程母親の炎を見た時は、その現象自体に興味を持っていた。だが、今の彼は、その子の姿に驚いていた。
悲しみと怒り。
それは産まれてすぐであっても理解できるのだ、と。ドラゴンであっても理解できるのだ。だったら、それらを持ち合わせない自分は何なのだろう?と。
そんな詮無い事を思い浮かべたのも一瞬、今は託された子供を泣き止ませるのが優先であった。母の魂を助けに行こうと暴れるその子を片腕で抱きしめながら、どうにか押さえつけ、声を掛ける。
「火があるなら……そうですね。どうにかできるかもしれません。今のところ一番の心配事がそれなので。というわけで、一緒に協力して貴女のお母様の事を助けましょう。あの変な生物は私が何とかしますので……貴女は、ここで火を付けていてくれると嬉しいです」
「お母様……火……」
「はい。時間はかなり掛るかと思いますが……火の心配がなければ、やれると思います。ですから……産まれたてで申し訳ありませんが、手伝ってくれると嬉しいです」
「なぁー」
彼の言葉の半分も理解していないであろうが、しかし、確かに幼子は小さく頷いた。
死は冷たいもの。二度と取り返しのつかないもの。その事を残念だと思える感情は彼とて持ち合わせている。だが、それは死んだ者が安らかに眠っているであろうから、思える事。死んだ者達が、死後に苦しんでいるのならば話は別であった。自身の母もそしてあの少年も。ただ安らかに、穏やかに眠っているのならば、いなくなった事が残念だと思える。だが、そうでないのならば……。
「しかしミケネコ君をかなり待たせる事になりますねぇ。お腹空かせてないか心配です。……でも、まぁ、許してくれると期待したいところです。ミケネコ君の書いた話だとこういう所で活躍してこそ、ですよね」
「なぁ?」
生きる時間は有限で、死んだ後は無限で。そんな無限の時間を、永遠を苦しみながら過ごす。それはとても恐ろしい事だ、と彼は思った。どうか死んだ先では安らぎを、そう祈る者達の気分が、彼にも少し理解できた。
そして今。彼女の母は死後にも喰われている。蹂躙されている。喰われた魂はどこにいくというのだろう。そこに良い事など何もないであろうことだけは容易に想像が付く。その事に、そんな世界へと連れて行かれる母に悲しみを覚え、連れて行こうとする悪魔に怒りを覚えているのだ。
そして、彼とて人の子。
例え彼にはその怒りも悲しみも理解できないとしても、そんな風に泣く子は、あやさねばならない事だけは理解できる。泣く子をあやすのに理由などいらないが故に。
「安らかに寝入った方の眠りを邪魔する悪い方々には……そうですね。そんなに食べたいのでしたら、美味しい料理を作って差し上げましょう。どうぞお召し上がりくださいな」
そして、数日の後、悪魔の死体が広間に山を成した。
―――
悪魔の死体が積まれるたびにきゃっきゃ、きゃっきゃと幼子が喜んでいる事に、彼自身何だか面白くなったり、作った料理に興味を示した幼子が時折それに齧りついたりしているのを見て、産まれてすぐに『普通』の食事が取れる辺り見た目人間でもやはり爬虫類だなぁと思ったり、休む間もなく延々と料理を続ける数日間。翅音一つしなくなり、巨大な球体が天へと消えた事を確認し、漸く、彼は一息を吐く。いくら彼が料理好きであろうとも人間である。疲労が蓄積していき、終わったと思ったと同時に、彼は意識を失い、無防備にもその場に倒れた。
そんな彼の目を覚まさせようと幼子は彼の頬を突いたり、肩を揺すって起こそうとしたり、御猫様ヘアーを突いて潰したりしていた。そしていつしか、倒れる彼の胸の内に抱きつき、彼の服に掴まりながら、幼子も眠りに付く。それが、幼子にとって産まれて初めての眠りだった。その安らかな表情は安堵ゆえに。
光一つ無い世界。
音一つ無い世界。
全てが終わったその場所で二人はただ寝入っていた。
そうして暫くの時が過ぎた頃、そんな無防備な二人を岩陰から見る生物が現れた。ドラゴンと悪魔と天使のなす腐敗臭に引き寄せられて訪れた化物であった。コボルド、と呼ばれる二足歩行の犬。餌を探しに訪れたのだろう。鼻を鳴らしながら広間へと、そして、無防備に寝入る彼らを見つけた。
相談しているのだろう。隣に立つ者と咆哮染みた鳴き声を挙げながら、その手や手に持った石器でリオン達を指していた。
そして、襲うと決めたのか。
一匹が、ゆっくりと近づいて、瞬間、燃えあがった。
『わぉぉぉ』
洞穴内に陽が産まれたかのように炎の柱が幾つも、リオン達を守るように立ち昇っていた。下手人はリオンの胸の内で目を閉じていた幼子。獣の臭いに反応したのか、小さな瞳を僅かに開き、コボルド達を睨んでいた。爬虫類の、ドラゴンの瞳が睨んでいた。
まさにコボルド達は、蛇に睨まれた蛙のようであった。逃げる間もなく、もう一つ昇った柱で全身を焼かれ、その身を灰にした。後に残ったのは灰。コボルドだったもの、その全てが灰と化していた。それは一体どれほどの熱量を持てば成しうる事であろうか。骨すら焼き切る炎。それを成した者は生後数日。その事実を知ればどんな者だとてドラゴンを相手にしようとは思わないだろう。後悔する暇もなく灰となったコボルドの事を知れば尚更に。
炎が消えるのを見届け、再び幼子は目を閉じる。
小さく笑みを浮かべながら。
そんな圧倒的存在を、守るような姿でその実、守られながら彼が意識を取り戻したのはそれからさらに数時間が経過した頃であった。
「おや……」
起き上がろうとし、胸元で寝入る幼子に気付く。
起こさないように引き剥がそうにも、握りしめる力は産まれた時とは比べ物にならず、彼が幼子を起こさないようにそっと手をどけようとしても一切動かない。もはや彼には幼子が腕の中で暴れても止められはしないだろうと思える程であった。
暫く悩んだ末に、幼子の体の下に手を入れ、起こさないように気をつけながら、彼は体を起こし、あぐらをかいて座る。そして、右手で幼子を抱えながら、折れた腕で、手探りでどうにか袋の中から木を取り出す。
思う様に動かず、痛みしか感じない左腕。応急手当はしていたが、何度何度も無理をして使っている左腕は、もう元には戻らないだろう。そんな事を冷静に考えながら、どうにか火を付けた。
ぼぅと小さな炎と共にパチパチとなる木々の焼ける音が産まれた。
「見ない間にちょっと大きくなっている気がします。流石ドラゴンさんですね」
自分の左腕の事などどうでも良いとばかりに思考から切り離し、炎によって照らされた美麗な少女に視線を向ける。
産まれた瞬間には小鹿のように頼りなかった腕や足はもはや幼子自身の体重を支えられそうに、しっかりしているように見えた。体の方も一廻り大きくなっているようであった。人とは違い、ドラゴンは産まれてすぐに誰に頼る事もなく生きていけるように成長するのではないだろうか?そんな予想が彼の脳裏に浮ぶ。
そんな風にリオンが幼子を見ていれば、居心地が悪かったのか幼子が彼の服から手を離し、もぞもぞと動き出した。それを助けるように彼は、足の間に幼子を誘導し、その頭を……産毛であった髪は伸び始め、輝かんばかりの艶やかさを帯びていた……その髪を撫でれば、擽ったそうに彼の太ももに顔を擦り付け、小さく、楽しそうに微笑んでいた。
「産まれてすぐに見る夢というのはどんなものなのでしょうね。良い夢をみていると良いのですが」
産まれてすぐに母の死に目を見て、母の魂が喰われていくのを見て、悪魔が自壊していくのを見る。そんなことぐらいしか見ていない幼子の見る夢とは、こうして微笑むような夢とは何なのだろうと、彼は少し疑問を浮かべた。だが、その疑問の答えは得られるはずもなく。
「……とりあえず、起きるまで待つとしましょうかね。その間に書いておきますか」
空いた右手で、腰元に付けていた紙を取り外し、地面に置き、それに文字を書いて行く。
もはや過去となった出来事。
ドラゴンと天使と悪魔、それらの戦いを。そして、その時に作った料理について、ミミズが這ったような字で延々と書き下していく。幸いにして書くことはあまりない。最初に作った物以外は、材料悪魔、悪魔、悪魔といった所である。もっとも彼の書き方としては『口が一杯の変な生物』ではあったが。そうして天使や悪魔達の事を思い返していれば、ふいに、彼は思い、呟いた。
「しかし、集団で襲うというのは狩りにしても変な話ですよね。神様の命令とかですかね?もしかして」
非現実的な化け物達の戦い。悪魔や天使の個体がドラゴンを襲うのは理解できる。それは個対個だ。だが、集団で個を襲うというのは、統制がなされていなければ行われない事。狩猟ならば彼にも理解できるが、それであれば彼ら……というよりも幼子が襲われず、見過ごされた理由も分からない。例えば、何か命令が下っていたのならば、分からないでもない。突然、彼らを無視して天に帰った天使の事を、彼らに見向きもせずにドラゴンの肉や魂を貪りはじめた悪魔を思えば、超常の存在からの命が下っていたと考えても、おかしくはないのかもしれない。
そんな事を真面目に考える自分に彼は笑う。
「ミケネコ君に毒されましたねぇ」
苦笑し、いつの間にか、再び彼の服を掴んでいた幼子を見つめる。
「あぁ。そうですね、ガラテアというのはどうでしょう。貴女とっても美人さんですし」
パンドラの事を想い出し、ふいに、石像に恋をした男の物語を思い出す。リオンの名を主人公として当て嵌めて作られた物語。幼子の母親の最後の姿を、石像のように崩れ去った彼女の母親を見たが故に、尚更だったのだろう。パンドラと、彼女の母親の姿を脳裏に思い浮かべながら、彼は、そう口にした。
その声に、幼子がもぞもぞと動き、顔をあげ、瞼を開く。ぱっちりとした爬虫類の瞳が彼を見る。
「ガラ……テア?」
「貴女のお名前です。ガラテア。略してティアですね」
「ティア……」
玲瓏。
響く声に脳髄が揺さぶられるのを彼は感じた。
「ガラテア。ガラテア……ティア……ティア」
その声は既に舌足らずさを感じない、はっきりとしたものだった。外見だけではなく、中身もまた成長したようであった。酷く、綺麗な声で幼子は何度も、何度も、繰り返し、繰り返し、自らにしみ込ませるように彼に与えられた名を反芻する。
そんな姿にリオンは笑みを浮かべ、髪を撫でる。それが嬉しいのか、ガラテアと名付けられた幼子はきゃっきゃ、きゃっきゃと嬉しそうに笑う。
そんな彼女の姿を見ていれば、ふいに、悪魔相手に延々と料理を作っていた所為で自分の名を伝えていなかった事を思い出した。しまったな、と頭をぽりぽり掻き、次いで自分を指差す。
「ちなみに、私はピグマリオンという名前です。最近はマリオンとか呼ばれていますが……なんでしたら、パパでも良いですけれど」
そんな風に父親を呼んでいた少年を思い出しながら、とても懐かしそうに彼は笑う。
「パパ……パパ!……パパ!」
言葉を変えて、再び、ガラテアは繰り返す。それを覚えた事が嬉しいとばかりに。その言葉を口にできるのが楽しいとばかりに。
何度も、何度も自分の名前を、リオンの事をパパと呼びながら、ガラテアはリオンの膝の上でごろごろ、ごろごろ縋りつくように、摺り付くように。
そして、二人して食事をし、リオンから言葉を教わりながら、いつしか、疲れ、ガラテアは再び、瞼を閉じた。
「おやすみ、ティア」
「おやすみ、パパ」
次に目を覚ました時は更に成長しているであろう。そんな予感を覚えながらリオンは、いつになく楽しそうであった。
「子供というのは、可愛いですねぇ」
薄暗い洞穴の中、こうして人間とドラゴンの親子が出来た。
―――
タタタと駆ける、もはや少女と呼ぶに相応しいガラテアの後をリオンはゆっくり歩く。
「ティア、あまり先に行きすぎないでくださいね。私、襲われてしまいます」
あれから何日が過ぎたのか。もはや彼も把握しきれていなかった。最初の頃は紙に記録を取っていたが、もはや彼の腰元の紙は墨で埋まり、そして、書くための墨もなくなっていた。
「大丈夫!私が全部やっつけるから!」
瞬間、彼の廻りに浮いていた視界確保用の炎が強さを増した。
「いえ、そういう事ではなく」
過激な娘に成長してしまった、と若干の反省をしながら、リオンはパタパタと走って戻って来た少女の頭を撫でる。
腰元まで伸びた髪は、更に輝きを増し、貴金属や宝石のようにさえ思えるほどに。だが、髪の先はナイフで切ったのか、酷くばらばらであり、手入れなど一切されていなかった。それでも尚、全体が輝かんばかりで、艶やかさを保っていられたのは、少女が人でなしであったからだろう。
くすぐったそうに、しかし嫌がる事なく、ガラテアはリオンの手にされるがままになっていた。
急激に、急速に成長を遂げた結果、ガラテアは人間でいえば、五、六歳ぐらいの大きさになっていた。これぐらいになると成長が遅くなるのか、目に見えて成長するような事は殆ど無くなっていた。ただ、目に見えない所の成長は終わっていないようで、力や魔法の強さは依然、成長し続けているようであった。
その証拠とばかりに、彼の持つ袋にはガラテアによって命を刈り取られた種々の生物が入っていた。
とはいえ、彼にとってガラテアは可愛い義娘であり、力が強くなったからといって怖がるわけもなく、両手を広げて抱っこ、抱っこと主張している彼女を見れば、よいしょっと両手で抱えて抱きしめる。
獣の皮で作った服とも言えぬ袋のような物を被っているガラテアが彼の胸の中で顔をすりすりしているのを感じながら、彼は、自身の左腕に目を向ける。
「いやはや、治ってしまいましたねぇ。……歪んだままですが」
自嘲気味に呟いたリオンの声に、ガラテアは笑っていた。
「パパの手、好き!食べたいぐらい!」
「駄目です。あげませんよ」
「やだ!」
「やだ、じゃありません。まったく、そういう所だけしっかりと爬虫類なんですから。それに、私の手なんて食べても美味しくないと思いますよ?」
「パパが作ってくれたら美味しいもん!」
「もん……じゃなくてですね。流石に自分の腕を材料にするのは……うぅん」
娘に言われて、自分の腕を見ながら悩む。親馬鹿であった。
「先を越されそうになったら私が食べるの!それならいいでしょ!」
「是非、越されそうになる前に守って下さい」
「うん!私に任せて!」
適当であった。この親にしてこの子であると言えるぐらいに二人は親子であった。
「ティアは可愛いですねぇ」
「えっへん」
そんな我が子を右手で胸に抱えながら、左手で荷物を持ちながら、彼は先を行く。
もはや、行ける場所は全て行ったのではないだろうか。数百枚は束ねてあった紙が埋まるぐらいの時間、骨が治るぐらいの時間を、彼とガラテアは洞穴で過ごしている。
もはや火の心配はなく、食糧もまた心配なく。そして、化け物とて獣とて、悪魔であろうと天使であろうとドラゴンであろうと、ガラテアの相手にはならない。
故に、リオンとガラテアは、きっとこのままずっと洞穴内にいても過ごしていけるだろう。二人であれば、ずっとこの洞穴内で過ごす事もできるであろう。
外の世界を知らないガラテアだけであれば、外に出る事もなく時を過ごしたのであろう。だが、外の世界から来たリオンは、帰る事を望んでいた。
「ミケネコおばさん、楽しみー」
そして、彼に釣られてガラテアもまた、外に出る事を楽しみにしていた。
そんな会話を毎日のように彼らは繰り返していた。
「こらこら。ティアにすればおばさんかもしれませんが。そこはしっかりとミケネコ君と呼んであげないと怒られますよ。それに、そうじゃないと私もおじさん扱いになりますし」
「うん?……パパが言うならがんばる!……あ!ねぇ、パパ。エルフって美味しいのかな?」
「……どうでしょう。食べた事ないので何とも言えませんねぇ」
「そっかー。パパでも食べない物ってあるんだね!」
「う~ん?そんなに何でも食べるように見えますかね?」
「うん!」
再度、教育の仕方を間違えたか?などと考えながら、彼は先を行く。
先を行けば、
「水浴び!」
突然、ガラテアが、リオンの腕の中から逃げ出して、タタタと走り出した。颯爽と、さながら風に乗ったかのような勢いであった。
「ティア、待って下さいな」
それを少し足早に追いかけていけば、次第、彼の耳にも音が聞こえてくる。
水の音だった。地下を流れる水の音。それに導かれるようにしながら、ガラテアを追っていれば、視界が開けてくる。
窮屈な天井が無くなった。
そこは、吹き抜けた場所だった。
そこには滝があった。
細い岩石の道の両脇は闇。天然の岩が水によって削られて出来たその通路の両脇を、天井から水が流れ落ちていた。通路を水浸しにして更に、その脇へと水が落下していた。その激しさに圧倒されそうになり、彼は一歩、後ずさる。だが、そんな轟音の中を、大量の水が作り出す水の中を彼の義娘は楽しそうにクルクルと廻りながら喜んでいた。
「冷たい!つめたーい!パパ、早く早く!」
「いえ、私、人間なんで」
下手をすれば通路から落下して、そのまま死ぬであろう。そんな想像は容易であった。が、義娘はそれで納得するわけもなく、一瞬ガラテアの手が動いたかと思えば、突然、彼の背を押す風が産まれた。
「ティア。行きますから、押さないでください」
その彼の言葉に、ガラテアがえへ、と嬉しそうに笑みを浮かべれば、同時に風が止んだ
ちなみに、ガラテアがそれらの魔法を使いこなせるようになった頃にリオンもそれをガラテアから教えて貰おうと思ったが、全く使えず、『パパには才能がない!』という義娘の言葉に凹まされていた。
閑話休題。
「落ちそうになったら助けてくださいね」
「うん!落ちたら助けに行くね!」
再三、教育の仕方を間違えたのだろうか?と考えながら、その水浸しの道を行き、流れる滝から飛んでいく飛沫に顔を、体を濡らして行く。
冷たい水であった。だが、同時に、その事に気付き、彼は周囲を見回した。
あまりにも地下奥深くの場合、地熱によって水が蒸気となっているのを彼らはここに至るまでに何度も体験していた。或いは狂ったように冷たく凍っている場所も経験した。だが、ここにはそれらがない。岩石も熱くなければ、水も冷たいが、凍るようなものではない。
故に。
地上に近いのだろう、と彼は思う。思いながら、彼はこの通路の先と、そして滝の裏に道があるのを見た。
「ティア、どっちが良いと思います?」
「わかんない!なんか居そうなのはまっすぐの方!」
「じゃあ、今日の食事はそれにしますかねぇ」
「うん!」
しばし、水を浴び、ガラテアが満足した頃を見計らって先へと進む。
肌寒いとは感じるものの、ガラテアの産み出した炎があるが故に、その寒さに凍えるような事もなく、彼らは先へと進もうとする。
迷う事もなく。
ただの一本道。
凸凹とした場所であった。地面も天井も、側面も、そのすべてが凸凹と尖っていた。針の筵と呼ぶのが相応しいような場所であった。
時折、その凸凹をガラテアが引っこ抜きながら、先へと進む。引っこ抜かれたそれは血を撒き散らしながらびたんびたんとガラテアの手の内で暴れ、暴れるのが楽しくなったのかしばらく自由にびたんびたんとさせた後、飽きたようで、くきっとへし折った。
「ティア。食材で遊んだら駄目じゃないですか」
「はーい。もうしませーん」
恐らく、その凸凹が言葉を使えたのならば、食材ではないと主張していたに違いなかった。そんな尖った物をナイフで切断していき、袋に詰めながら先へ進んで、進んで……行き止まる。
行き止まり。
さて、いつものように戻って別の道を探すか、と振り返ろうとしたときであった。
「……パパ?」
「なんです、ティア?」
「何か聞こえる気がする」
「はぁ?」
耳を澄ました所で、彼に聞こえるのはガラテアの吐息ぐらいのものだった。だが、人間には聞こえなくともドラゴンに聞こえるモノはある。先程、滝を発見した時のように。
「ぶつぶつ何か喋っているのが聞こえるの…………うん。ここ、ここの辺り!壊せると思うの!」
言いながら、小さな体で壁を触り、触り……手を止めた。
そして……一歩。
少女が手に力を入れた。
瞬間、轟音と共に、洞穴が、壁が破壊され……現れたのは、矩形であった。
鉄で出来た、錆びの浮いた格子に囲まれた、その内側。
轟音にも気付かず、そこで俯いて、ぶつぶつと心壊れた者のように呟くエルフの姿があった。
瞬間、胸に込み上がるものを感じながら、リオンは、どう凄いでしょう!と自慢気に胸を反らしている少女の頭を撫で、即すようにその中へと足を進める。
「やぁやぁ、ミケネコ君久しぶりです。遅れてすみませんねぇ。しかしまぁ、げっそりしてしまって……これは私、頑張らないと駄目ですねぇ。まぁ、色々面白い物も見つけましたし、腕もあがりましたから期待していて下さいな」
その声に。
俯いていたエルフが、顔を挙げ、エルフの焦点の合っていない瞳が、彼を捉えた。
「あ……あぁ。……わた、わたし……っ……わたしはミケネコじゃ……ない。…っ…い、いじょう。あいさつ……おわり。……マリオン……おか……えり」
「はい。ただいま。ちゃんと帰ってきましたよ。……っと、今更ですが、こんな所から失礼しますね。……って、ミケネコ君、痛いです」
その日、彼の胸の中で函に囚われた一人の少女が、嬉しさに泣いた。