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自殺大陸  作者: ししゃもふれでりっく
閑章~パンとドラゴンがあっても、神様を食べればいいじゃない~
69/87

第4話 神様が初めて泣いた日

4.



 彼がそんな風に思い立ってどれぐらいの時間が過ぎただろうか。

 これで何度目になるのだろうか。穴の中で噛み砕かれる松明の音を聞きながら、これまでに何を試したのか?何度挑戦したのか?それを思い出そうとして、リオンはそれが無意味な事だと悟り、穴の中を覗くのを止めて、ごろんと丘に寝そべった。

 別段、彼がそれを思い返せない程記憶力がないわけではない。単に今の彼には、曖昧な記憶を探るよりも確実な方法があるのだから、そちらに頼れば良いと思い直しただけだった。

 だが、それに頼るよりも前に、そよぐ風の音に彼の意識が向く。

 空を流れる雲の早さ。だが、そんな早さも地上では撫でるようなものだった。青々と茂る草を風が撫で、さらさらと音が鳴る。寝そべったまま両手を広げ、空を見上げながら、草花のように風を受ける。自然、瞼を閉じる。閉じた瞼を越えて差す陽光は暖かく、彼は穏やかな心地の良さを感じていた。しばし、そうして時を過ごし、陽光の暖かさに寝入りそうになった所で身を起こし、それこそ思い出したようにリオンは腰元からごそごそと一つの小さな板を取り出した。

 茶色の板が二枚。それは藁で出来た紐で結ばれていた。その結び目を外し、二つに開く。間に挟まれたのはパンドラが作った書く物……紙の束であった。それが風に飛ばされないように気をつけながら、一枚一枚めくって行き、書き掛けの頁で手を止める。


「……一年とちょっと」


 紙に記された記号を目にし、次いでこれも同じくパンドラが作ったペンと呼ばれる木の先を、少し離れた別の森の中を走り廻る不思議なイカの墨を入れた小さなボトルに漬け、紙に這わす。紙に染み込んで行くそれを僅か勿体ないと感じながら、慣れたようにペンを動かして行く。

 慣れたような手付きなのも当然であった。彼の言葉通り、既に一年近く同じような操作をしているのだから。だが、その割に字の方は一向に巧くならず、彼の書く文字はミミズが地を這ったようなものであった。その事で散々パンドラに文句を言われているが、彼女のように巧くは行かないのだ、と彼は今まさに書いた字を見つめる。

『成果なし』

 と。その言葉を書くのも何度目だろうかと前の頁に戻ろうとしてそれこそ無意味な行動である事に気付き、手を止める。次いで、本日使った材料を逐一書いていく。ゆるゆるとミミズが這うようにして次々と文字が紙に浮かぶ。作りが良いのか、それが次の頁に染みる事はなく、彼は悠々とミミズを這わせる作業に勤しんでいた。

 そして、頁の最後に料理名を記す。

『爬虫類系尻尾付き栗鼠君の尻尾の甘辛煮付け』

 そして、彼の手が止まる。

 勤しみが終わり、その頁に書かれた墨を乾かすために開いたままにして地面に置く。置けば風にその頁が揺らされ、その揺れを止めるようにペンを紙の上に。

 次いで、再び彼は横になる。


「また、ミケネコ君の小言を聞く事になるのでしょうか」


 そう言って、小さなため息を吐いていた。

 それは彼なりの悔しさの表れだったのだろう。

 洞穴内で発見した尻尾が、松明を食べた事から、雑食だろうとリオンは予想した。だが、その予想に反して、次に訪れた時に、再び松明を落とした時に彼は気付いた。食べたのではなかったのだと。地面に打ち捨てられた松明の滓。口に入れて咀嚼し、嚥下せずに吐き出された滓が捨てられていた。

 そして、案の定、彼の作った餌も咀嚼はされるものの、吐き捨てられた。

 それは例えば、彼がパンドラに与えているような予備の、真っ当な食事であったとしても同じであった。彼にとってそれを与える事はいわば苦肉の策、代替行為である。しかし、それすらも失敗した。大失敗であった。

 そしてその事実は彼を打ちのめした。

 この世界に産まれ出てからずっと作って来た物を否定された事でもあった。普段ゲテモノ料理を作っているものの、彼は普通の料理に自負がないわけでもない。だから尚更にその事実は受け入れがたかったらしく、その日は一日中、肩を落としていた。結果、その日、パンドラが酷く優しげであったのだが、勿論、それに彼が気付く余裕は無かった。

 そんな人生を否定されたかのような日を経験し、しかし、彼は諦める事はなかった。

 自分の料理は見向きもされないのだ、と。

 その事実を、その現実を受け止めて彼は先へと進む。

 前向きであった。

 もっとも、斜め前ではあったが。

 尻尾の好みは何なのか?それを研究した。

 パンドラの好みは何なのか?それを研究した。

 自分が何を失敗したのか?それを研究した。

 一日を尻尾に費やし、一日をエルフに費やし。自分を省みながら彼は料理研究を続けた。そんな中で、彼は下準備の大事さを知った。

 パンドラの前で尻尾の餌の準備をしながら、洞穴の前でパンドラの食事の準備をしながら彼はその大切さを知る。そんな当たり前の事をおろそかにしていた事に彼は反省する。村で料理している時はしっかり下準備をしてから料理をしていたのだから尚更であった。それは無意識下の増長でもあったのだ。その増長を尻尾に叩き落とされたわけである。叩き落とされた結果、もう二度と彼が下準備を疎かにする事はなくなった。

 そして、素材の美味しさが料理の巧さではない事も理解した。彼が美味いと思ったトリタマゴの中身だとて尻尾は見向きもしなかったのだ。寧ろ、その時は咀嚼すらされなかった。素材が美味しいからといって、ただそれだけを与える事には何の意味もない事を理解した。例え一見不味そうであっても料理によって、組み合わせる事によってそれを昇華すれば良いのだ。それを彼は尻尾から教わり、理解した。

 理解した結果、更に更にと斜め前へ進んで行った。

 もはや彼にとって、尻尾は料理の師匠とすら言えるぐらいの存在になっていた。もっともその師匠を喰うために日々特訓していたわけであるが。

 そんな日々を過ごし、過ごして早一年の月日が流れた。

 記した記号が乾くのを待ちながら、彼はもう一度ため息を吐き、気持ちを切り替える。

 切り替え、常備している袋の中から道すがら手に入れてきた大葉とミミズを取り出す。

 手の中でウゾウゾと動く小さなミミズを一匹一匹丁寧にナイフで解体し、ミミズの三つある心臓を丁寧に取り出して行く。それを一匹ずつ集め、解体を終えた皮は地面へと供養し、心臓を大葉に包む。次いで湖から汲んで来た泥水を入れたなめし皮の袋を取り出し、その中へと大葉を入れる。入れ終わればトリタマゴの翼を取り出し、骨を折り細かく解体していく。解体し終えたそれを同じく泥水の中に入れ、最後にその袋の口を縛って振り回す。混ぜる事で泥水が更に汚れて行く。恐らく袋の中は混沌とした状況であろう。だが、彼はそれを気にするでもなく、延々と振り回していた。時折上下に揺すったり斜めに揺すったりしながら延々と。延々と。

 振り回すのが終わったのは、紙に記した記号が乾いた頃だった。

 下準備の完了であった。

 それを機として立ち上がり、その袋とナイフ、そして2枚の板で作られた日記のようなものを藁紐で結び、腰に備え付け、荷物入れ用の大きな袋を背負い、彼は丘を降りて行く。


「……では、また明日」


 届くはずもない声を紡ぎ彼は降りて行く。いつものように、いつかあの尻尾を釣り上げて持って帰る事を心に誓いながら。



―――



「やぁやぁミケネコ君。今日も今日とて細いですねぇ。もっと食べないとだめですよ」


「だから私はミケネコじゃないっ!……以上、挨拶終わり。で。もっと食べるから早く持って来てよ。ほんと、いつになったら尻尾を私に食べさせてくれるのかなぁ?ねぇ、マリオン?」


「くっ……」


 そんないつもの挨拶を交わしながらリオンは鉄格子の前に座る。


「そういえば、マリオンは最近私の事小さいって言わないよね」


「少し大きくなってしまいましたしねぇ……」


「誤差じゃない?」


「それ、自分で言います?」


「……確かに」


 失敗したとばかりに悔しそうに鉄格子を掴み、歯をぎりっとやるパンドラであった。

 そんな彼女の姿に彼は笑う。相変わらず面白いエルフである、と。

 その面白いエルフは、彼が一年間食事を与え続けた結果、咳き込む事は殆どなくなり、それだけではなく、少し背が高くなっていた。栄養が成長に使われてしまった結果、成長分を補うためか、相変わらず頬の辺りはかなりげっそりとしているが、それでも以前よりは肉付きも良くなっているのが分かる。腹と二の腕辺りが。ともあれ、肉付きが良くなってはいるものの、これ以上は問題があった。


「流石に怪しまれているというか」


 腕や足に付けられた真新しい傷をリオンに見せながら、そんな台詞を口にする。もはやその辺りの事をリオンに隠す気はなくなったようだった。だが、それでも決して、他のエルフがパンドラの下を訪れている時に彼を近づける事はなかった。


「それはまぁ、そんな物食べていて成長するわけもないでしょうしね」


 応えるようにリオンは一年で幾分すり減った碗を指差し、肩を竦める。


「だよねぇ……でも、今更断食というのもね。一度体験しているからこそ尚更。……それもこれもマリオンの食事がおいしいのが悪い。あんな状態で真っ当な食事を与えられて。それが無くなるなんてもう耐えられるわけがないじゃない!」


 がしがしと鉄格子の揺れも以前より力強く。

 囚われた少女が日に日に血色を取り戻す事に捕らえた者が怪しまないか?当然、否である。怪しんで当然である。この場が真っ暗な地下牢であり、捕えた者が来る時も松明一つ分の明かり程度であるが故に、ある程度の誤魔化しは効くのであろう。だが、それにも限界はある。その結果、最近のパンドラは小食であった。その事に彼女自身不満を持ってはいるが、しかし、どうにもならず。結果、リオンがいる時は憂さ晴らしと言わんばかりに元気であった。


「煩いのは相変わらずですねぇ。……というかミケネコ君。それは褒めていませんよね?」


「マリオンは普通に料理をすればとっても美味しいんだから大丈夫!」


「ぐっ……」


「そろそろ諦めればいいと思うよ!」


「そんな台詞はこれを食べてから言うんですね!」


 腰からなめし皮製の袋を外し、パンドラへと見せつける。


「何それ」


「ミミズの心臓をオケアーノスの泥水と……」


「あー、もう言わなくていいよ!」


 却下、却下と手を横に振りながら、パンドラは口を閉じる。絶対に食べてやらないとばかりに。とはいえ、その割にはそこから視線が離せない辺り、パンドラもまたリオンに毒されて来ているに違いなかった。


「自信作なんですが」


「この間もそんな事言って埃を食べさせようとしたよね!?」


「あれだって材料言うまでは美味しそうに食べていたじゃないですか」


「だから、そこが問題なんだって。なんでわかんないかなぁ?」


「美味しいなら良いじゃないですか」


「……いや、確かに美味しいけどさぁ。そこは否定できないけどさぁ!」


 やいのやいのと楽しげに二人の時が過ぎて行く。

 結局、リオンの押しに負け、パンドラは碗の中身を汚物入れに捨て、それを持ってリオンの下まで近づいてくる。嫌そうな表情は消してはいないが、しかし、緩んだ口元を見れば、パンドラもまた、楽しそうであった。

 だが、それでも生理的な嫌悪というのは消せるはずもなし。

 どぷ、どぷという怪しげな音と共になめし皮から碗へと移されて行く。まだ形の残るミミズの心臓とトリタマゴの翼に次第、次第とパンドラの表情が引き攣って行く。しまいには泣き出しそうな表情になっていたものの、案の定リオンがそれに気付くことはない。否。気付いて気にしていない。彼にとっては美味しいと呼べる物を入れているのだから、彼には何の憂いもない。

 入れ終わり、次いで乾いた木に火を付け、碗に並々と注がれた液体を炙るようにしながら、碗の中へ入れる。瞬間、じゅっと炎の消える音が鳴り、焦げた臭いが漂い、さらにパンドラの表情が歪む。

 それが仕上げであった。料理とは名ばかりではあったが、火炙りを終えた彼は満足げな表情をしていた。良くがんばった、と言わんばかりに。そんな彼を見るパンドラの表情は当然の如く呆れたものであった。


「最近は失敗も少なくなってきましたから、大丈夫ですよ」


「マリオンが不味い物を私に食べさせないのは分かっているし、その辺りは信用しているし、信頼もしているんだよ。でもね、マリオン。私にも今まで培ってきた価値観というものがあるの。真っ当なエルフとしての価値観がっ!」


「価値観は壊してこそですよ。私はそれをこの森で知りました。えぇ。エルフは凄いですねぇ。この森は新しい発見ばかりですよ」


「マリオンがおかしい方向に走ったのはエルフの所為……?いやでもね、マリオン。この森はエルフが作ったわけじゃないからね?ね?」


「それと……ミケネコ君がここに居た所為であるのは確かですね」


 笑いながら、そんな事を伝えるリオンに、うぐっと顔を歪め、逃げるようにパンドラは碗を口元へと寄せて行く。

 薄い色の唇が碗に触れるほどに寄せれば、そこから立ち昇る香りに、パンドラの頬が自然と緩んだ。あれ?おかしいな?という表情を浮かべながらもしかし、鼻が自然と、ひくひくと香りを堪能するように動き出す。それと同時に長い耳が感情を表すかのようにぴくぴくと動く。そんな彼女の表情に、動きにリオンは満足そうにしながら、自分の分を、とこれもまたパンドラに作って貰った自分用の碗を袋から取り出し、入れ、同じ様に火で炙った後、口元に寄せて、それの香りを堪能する。

 火で炙る事によって、時間差で香りが産まれてくる。予想通りの結果に満足しながら、これが今までで一番良い出来である、と彼は思う。

 否、向上し続けなければ到底尻尾に食べて貰えるわけがない。故に、昨日よりも美味しく、今朝よりも美味しく。今日、尻尾に与えた餌よりも更に美味しいものに違いなかった。そして、現状、これ以上ない、とも彼は思っていた。

 次第、二人の碗から芳醇な香り漂い始めて牢屋を埋める。

 それは例えば高級な果実酒のようでもあった。だが、酒精独特の鼻に掛るようなものではなく、優しく触れるような暖かささえ覚えるような香りであった。それに誘われるように彼は碗を傾け、喉を潤して行く。それに釣られるようにしてパンドラもまた、こく、こくと小さな喉を鳴らす。

 鳴らせば松明に浮かぶ二人の皮膚に紅がさす。腹の中に入り込んだ液体が体の奥から熱を伝えていく。全身の隅々まで。一瞬の内に、彼らの腹を、両手を、両足を、首を、頬を、額を、熱が巡る。次第、冷たい地下の中で二人は汗を掻き始めた。


「認めるのは……とっても悔しいけど、美味しい。でも、……汗が、その」


 食べる前の難しい表情から一転して頬は緩み、耳は動き、どこか酒精に酔ったかのような呂律の回らぬ声で、どうにか言葉を紡ぎながら、パンドラが恥ずかしそうに顔を伏せる。


「後で綺麗な水を持ってきますから」


「ありがと」


 そう言って、包まっていたリオンお手製の羽毛袋を外し、再び碗に小さな唇を這わし、ちびちびと少しずつソレを飲んで行く。少し飲むたびにほぅと艶めかしい一息を吐き、頬を更に染めながら、打ち震えていた。震えれば震える程に彼女の身体からは汗が滴り、襤褸を染めて行く。それをリオンから隠すように身を捩るも、しかし、飲むのが先だとばかり両の手で碗を掲げ、こくこくと喉を鳴らして行く。

 そんなパンドラの様子にいつもより嬉しそうにしながらも、酷く冷静に彼は、これでも駄目なのだ、と考えていた。

 現状ではこれが最高であるという自負はある。だが、それ以上でなければならないのだ、と。尻尾を釣り上げるためには、尻尾に見向きして貰うためにはこれではまだ駄目なのだ、と。

 だったら、どうすれば良いのか。

 喉を鳴らしながら、小さなミミズの心臓をがりっ、がりっと歯で潰しながら、彼は悩む。

 そもそも存在からして違う。人間やエルフのような似た存在ではない。全くの別種。それが美味しいと思える物は一体何なのだろうか。神でもない彼に分かるわけもない。だが、種の垣根を越えて美味いと言わせてこその料理なのだ、と彼は考えていた。いつのまにか、尻尾を捕える事よりも、尻尾を満足させる事を優先している事に彼は気付いていなかった。

 尻尾が爬虫類であるのは確かである。しかし、爬虫類が好みそうな生物を与えても見向きもしない。であれば、と人間が好きそうな、エルフが好きそうな物を与えても駄目で。それもまた、種の垣根を越えた物が必要である事を彼は理解していた。

 素材そのままでは駄目。焼いた物も駄目。燻製も駄目なら揚げても駄目。で、あれば次に取れる方法は……


「他に何がありますかねぇ?」


「まりおん。なにかんがえているの?」


 飲み終わったのか碗を床に置き、いつものようにリオンの代わりに松明を両手で抱えながら、パンドラが酷く酔ったようなとろんとした表情と声音を作っていた。


「明日は何を作ろうかな、と」


「私の前で、わたしいがいのおんなのことかんがえていたのね!」


「いや、尻尾に雄も雌もないと思いますけど」


 ぽりぽりとリオンは、パンドラ曰くの御猫様ヘアーを掻く。


「酔っ払う要素はないはずなんですが……ミケネコ君、大丈夫ですか?……自信作だったんですが、失敗ですかねぇ」


 言葉にした通り、彼は自信を持っていた。が、その結果がこれではと自省する。美味しいのは良い。だが、これでは駄目だった。こんな酩酊させるような、と考えた所で彼の中に一つの案が思い浮かんだ。

 酒である、と。

 それは今まで一度も作った事がないものだった。故に、当然、尻尾相手に試した事のない物であった。まさに天啓を得たかのようであった。すぐさま準備に掛らねば、と動き出そうとして、ひっくひっくと鳴くパンドラの様子に、それは流石に無責任が過ぎる、と動きを止める。


「駄目よ!今度また作りなさい!私は大丈夫だから!大丈夫。大丈夫。わたしにはわかる!雌よメス!マリオン!外で女ばっかり作って来て!マリオンなんて彫像相手に悶えていればいいのよ!」


 支離滅裂な発言を繰り返すパンドラにさしものリオンも心配そうであった。この先ずっとこの調子だったら流石に疲れる、と。

 ともあれ、自分の料理の結果がこれである事をリオンは不思議に思っていた。彼が言うように酔う要素は入っていない。いや、そもそもあのような材料で作られたものが真っ当な結果を産むかといえばそうではないが、彼からすれば、そこに酔わせる要素はないという事に確信を持っていた。であれば、彼女の体調や体質の問題なのではなかろうか?と判断する。

 目を向ければ汗で濡れ、所々が透けた襤褸が目に入る。以前より少し背の伸びた結果、襤褸は相対的に小さくなっており、酷く不格好であった。手先が器用なのだから自分で作れば良いのに、とは思うものの、牢屋の中でそれをやるには限界がある。作るのも、着るのも、だ。表に出れば出来る事もあろうが、牢屋の中で囚人がいつのまにか新しい服を着ていたら流石に成長や肉付きが良くなったなどのような事と違い、言い訳は不可能である。故に、彼女が新しい服を手に入れる事はない。

 そんな彼女の姿にとりあえず、水を汲んで来たらついでに湯も沸かしてあげようとリオンは心に誓い、その間に久しぶりにその襤褸の洗濯をするのも良いなとも思う。その辺りの家事は彼にとって慣れたものであった。そして、それぐらいの事ならば、ばれる事もないに違いない、とも彼は考えていた。

 ともあれ、それも未来の事。今、彼がすべきことはこの面倒な酔っ払いの相手だった。


「なんで彫像ですか……」


「何よ。今、私が書いているのがそんな話だからに決まっているじゃない!」


 ペンと墨、そして紙。パンドラがそれらを作り、それらに物を書く。

 以前、彼女が話していた神の話だけではなく、リオンに必要であろうと勝手にパンドラが思っている事を、延々と書きなぐったようであった。その内の一つが物語であった。『マリオンは情緒に欠ける!』という酷く直球な言葉と共に彼女の知る物語、彼女が創る物語が紙に書かれていた。その効果のほどはさっぱりであるが、元々彼女自身が書く事が好きなのか、今ではほぼ日課のようになっていた。

 そんな彼女をリオンは凄いと思っていた。物知りであり、物を作ったり、物を書いたり、何でもできるようなエルフであった。エルフだからといって誰もがそれをできるとは彼も思っていない。いや、だからこそ尚更に、純粋に、凄いなと彼は感じていた。きっと料理も彼女にとっては簡単な事なのだろう。けれど、料理に関しては、彼女はする事がなかった。『食事はマリオンに作って貰うから良い』と最初の日に約束した言葉を律儀に守って、リオンが試しにやってみます?と問い掛けても首を振るばかりであった。そして、毎度のようにその言葉が返ってくるだけ。何度かその言葉を聞き、聞いた結果、彼が彼女にそんな問い掛けをする事はなくなった。

 それを彼は少なからず、嬉しいと感じていた。何でも出来る彼女がそれだけをやらない。その事を嫌みだとかそんな風に彼が思う事はなかった。『その方が絶対美味しいからね!』そう言って笑う彼女の姿が、自分の料理を食して嬉しそうにする彼女を見るのが彼は好きだった。ずっと見ていたいとさえ思うほどに。

 ちなみに、書く物や紙、その他諸々、それらは彼女の寝る敷物の下に穴を掘って埋められている。二人して色々作ったり、リオンが適当に持ってきたりするものであるから、御蔭でそれなりに大きな穴になっているのは二人だけの秘密であった。

 閑話休題。

 そんな彼女が創る本を文字の勉強も兼ねて彼は愛読していた。読んで、感想を伝えると嬉しそうに、時折悔しそうにしている彼女を見るのもまた、彼は嫌いではなかった。


「いやいや、ミケネコ君。何ですかそれ、もしかして私が主人公とかなんですかね?」


「そうよ!自分が作ったゲテモノ料理が最高!って言っているマリオンにぴったりな話よ!蛙の島の王様だものね!でね。でね。自分で作った彫像に恋する王様の話なの」


 言い様、思い出したようにエルフの寝物語参考ね!と付け加えて、自慢げにパンドラは笑う。そんなパンドラとは対照的にリオンは首を傾げ、訝しげであった。


「何ですかそれ?」


「キプロス島の王様ピグマリオンが、自分で作った石像に恋をするの。服を着せ、名前を付けて、そうして普通の一人の女の子みたいに扱って行くの。名前はガラテア。そんな王様を不憫に思った愛の女神ウェヌスがその石像を人間にしてくれるの。そうして二人は一緒にずっと暮らす。そんな恋の物語ね!どう?素敵でしょ?例え石像であっても、願えば思いは届くの。真摯に願えば、例え違うものだって……例え、違う種族だとしても……例え、」


「いえ、物語の内容ではなく……恋だとか愛って……何ですかね?」


「ちょっとぉ!?そこなの!?そこからなの!?確かに今までそんな話は書いてなかったけど!」


「あぁ、そういえば、先日ミケネコ君が書いてくれた『怪我のしない行動法』とかいうのは全く参考になりませんでしたね。針仕事を一杯していると手先が器用になって怪我し辛くなるとか、私、エルフじゃないですし」


「えぇい!煩いわよマリオン!そこは良いのよ。恋よ!愛よ!貴方の住んでいた村だってそんなのの一つぐらいあったでしょ?惚れた腫れたの一つや二つ!好きあって、子供作ってって」


「あぁ、子作りの絡みの話ですか。私の村は年齢で決まっていましたねぇ。歳の近いモノと一緒に作るらしいですが、夫婦にならないと教えて貰えないみたいで……子供ってどう作るんでしょう?」


「うぐ……いや、そこはその。ほらあれよ、あれ!」


「……ハァ?まぁ、何でも良いんですが。それで、恋だとか愛だとかというのは一体何なんですかね?」


 それも当然であった。好き嫌いの区別ぐらいは彼も付く。だが、恋だの愛だのという精神行動を育むような土壌で彼は育っていない。彼の暮らしていた村は恋や愛などなく、ただただ生物の本能に則り子孫を残すだけだったのだから。故に、彼のその反応は当然であった。


「何て伝えれば良いんだろう。その人が好きって話よ。その人が大事、その人と一緒に過ごしたい。もっと知りたいとか何かそんな感じ?あとはほら、直接的な感じでいえば、その人との子供が欲しいとか?」


「ハァ?と言う事は、私はミケネコ君に恋をしていたり、愛していたりするわけですかねぇ?」


「うひゃ!?な、なんで!?」


「いやほら。こうして毎日来ているわけじゃないですか。それを苦には思いませんし、どちらかといえば楽しいわけですし。それに大事と言えば大事ですしねぇ。ミケネコ君の創る物語は読んでいて楽しいですし、もっとミケネコ君の創る物が知りたいという意味では、もっと知りたいですし。……まぁ、子供が欲しいか?というのは良く分かりませんけどねぇ……というか、そもそも、人間とエルフの間に子供ってできるんですか?」


「……マリオン」


「何ですか?ミケネコ君」


「そういう恥ずかしい台詞は禁止ね?あと、暫くあっち向いてて頂戴」


「ハァ?」


 俯きながら告げるパンドラに、言われるがままに鉄格子に背を凭れ、呆と天井を見る。そうしていれば彼の背中に熱が伝わってくる。一緒にいる証、近くにいる証。そんな暖かさが恋だとか愛だとかいうのならば、悪い事じゃないのだな、と彼は思う。


「ミケネコ君は暖かいですねぇ」


「それも禁止!」


「……ほんと、煩いですねぇ」



―――



 酒を作る。

 彼がその発想を基に行動を開始してから早数ヶ月。

 彼の仕込んだ最初の酒が出来たその日、世界が揺れ動いた。

 故に、彼はその日を良く覚えている。

 その日はパンドラを監視に来る者が来ない日であり、彼は一日中地下で作業をしていた。酒を醸造するためには適度な湿度と適度な温度であったこともあり、彼は彼女のいる牢屋の隣、鍵の掛っていない牢屋の床に穴を掘って、酒を入れたかめを埋めていた。その牢屋が使われる事はない、というパンドラの言葉を訝しげに思いながらも、しかし、彼はそれ以外に場所もないとその場に埋めた。瓶の作り方はパンドラに学び、それを元に彼が作ったものである。それ故にどこか歪んでいたものの、用途を考えればそれで十分であった。その瓶の様子を時折確認しながら、いつものようにパンドラの向かいに座り、リオンは食事を作っていた。

 その料理も最近では更に悪化の一途。味や匂いに関してはそれこそ類を見ない程成長していたが、材料がさらに類を見ない物になっていた。鉄格子に浮いた錆を使い、敷物に湧いた黴を使い。そして漸く、漸くパンドラが与えられている碗の中の良く分からない肉団子すらも美味な物へと変化させるほどの技量をリオンは手に入れていた。そんな現実に、もはや色々諦めたパンドラの表情は酷く穏やかであった。最近ではリオンが何を使って何を作っていようと指摘する事はなくなっていた。リオンが料理を作るのを見ながら、板に載せた紙にペンを忙しそうに這わせているだけであった。

 そんなパンドラの姿に、僅かながらリオンは残念がっていた。煩くない、と。


「最近は何を書いているんですかね?前みたいなのはもう勘弁ですよ?」


 自分を主人公に物を書かれるというのは酷く居心地が悪い、と本の内容を思い返しながら彼は身震いした。


「描いているといえば描いているのかな。マリオンが尻尾を釣って来てくれたら見せてあげる」


「じゃあ、明日ですねぇ」


 ゲテモノ料理の技量は大幅に上がっていた。だが、それでも、尻尾がリオンの料理に反応する事はなかった。咀嚼はする。だが、変わらず吐き捨てられる。吐き捨てられた物は蟲や小さな生物達が食べているようで、洞穴の入り口から腐敗臭が漂ってくる事はなかった。だが、それだけだ。そんな事が彼の救いになるわけもなし。食べられない事には変わりないのだから。

 故に、やはり酒なのだ、と彼は更に思いを強める。


「明日?」


「えぇ。明日こそ勝負の時です」


「がんばってね。一応、朗報を期待しているから。……とすると、今日中に描いてしまわないと駄目かぁ」


 そんな風に二人がいつものように緩やかに、穏やかに会話をしている時だった。

 世界が揺れ動いた。

 突然の揺れにぎしり、ぎしりと鉄格子が鳴り、座ったままの二人が揺れる。その揺れに驚きながらも、両手を床に付き、しばし二人して無言のまま揺れが収まるのを待った。

 幸いにして物が殆どない地下であったからであろう。揺れによって倒れてくる物はなく、それが二人を襲う事もなければ、牢屋が壊れる事もなかった。少しだけリオンの料理と、パンドラの使っていた墨が床に零れた程度であった。


「……なんですこれ?」


「何だろう?大陸が揺れたって事だよね。神様が怒っているとかかな?人間の神様が怒るっていうのが想像できないけれど」


「お腹が空いた時のミケネコ君みたいですね」


「失礼な」


 他愛のない会話をしながらも、しかし、パンドラの表情は優れなかった。だが、リオンにはその表情からパンドラが何を考えているのかは想像がつかなかった。ただ、とりあえず、その表情が不安そうな事だけは理解でき、だったら出来る事は一つ、と、隣の牢屋へと足を運び、瓶の中を確認し、満足げに頷き、今まさに出来たばかりの酒を二人分、碗に入れ、再びパンドラの元へと。


「どうぞ。本当は食後が良いかなと思ったのですが……」


「マリオンが気遣い……逆に不安になるんだけど?」


「失礼な」


「で、それが例のお酒?私が飲んで良いの?」


「最初はやっぱりミケネコ君と一緒にと思いまして」


「そういう恥ずかしいのは禁止だって言っているのに」


「……いえ、別に恥ずかしくはないんですが」


「マリオンに期待する方が負けよね。うん。気にしない事にする。でも……さっきの奴、何か嫌な感じ。マリオン、気をつけてね……ちゃんと、帰って来てね?」


「他に帰る所もありませんしねぇ。それに……私がいないとミケネコ君は飢え死にしそうですしねぇ」


「そうそう。だから、例え死んでも帰ってきなさいね。エルフは長生きだし気が長いから、少しぐらい遅れても大丈夫だからさ。……その時は、お腹空かせているかもしれないけど……大丈夫、飢えぐらい―――に比べれば耐えられるから」


 小さく、消え入るような言葉だった。彼女が口にした言葉の一部を彼は聞き取れなかった。だが、リオンが聞き返した所でパンドラは首を振るばかりであった。そうあって欲しくないから、もう言わない、とそう言わんばかりであった。

 彼女が何を思ってそう伝えたのかは彼には分からない。何かを予感しているようでもあったが、しかし、それが何なのかきっと彼女自身言葉に出来るようなものではなくて、だからそれが彼に伝わる事はなかった。けれど、それでも、分からないなりにも、応えるように彼は碗を持ち上げる。


「そうですね。確かに口にするとその通りになる事もあるみたいですし、そういうのは止めておきましょうか。……私はちゃんと帰ってきますから。今度こそ尻尾を確保して、ミケネコ君に食べさせるんです」


「うん。待ってる」


 かちゃ、と陶器の触れあう音が響いた。



―――



 明けて翌日。


「……これはまた」


 眼前に広がる光景。いつも見ていたものが、いつもとは違う姿を見せている事に驚きながら、彼は広がる光景に見入っていた。

 丘に入った亀裂。ただの割れ目が崩れ、ひと一人が立ったまま、いや数人は並んで入れるような大きな穴を作り出していた。そんな穴が一日を経たずして出来あがった事に彼は驚きを隠せなかった。昨日までの一年と数ヶ月にそんな徴候など見られなかったのだから尚更であった。だが、原因はすぐに思いついた。

 昨日起こった大陸の揺れ。

 出来たばかりであろうその穴の入口を触りながら、彼はそう判断する。彼が触れると、表面を覆っていた砂がぼろぼろと地面に落ちるが、それで入口が崩れるような事はなかった。

 入口から続く道は、陽光の届く範囲は、一見して急勾配ではあった。松明を投げ入れていた穴を思えば、これは崩れた土砂が流れ込み、作り出したものなのだろうか?首を傾げながら更に奥を見ようと彼は目を細める。

 だが、地面には岩肌が見え、凸凹としている所を見れば、誰が見ても土砂で出来たとは考えられない。まして、昨日今日で出来あがったようには更に見えなかった。彼には長い年月を掛けて作られた洞穴のようにしか思えなかった。確認するように穴の中に、洞穴の中に足を入れ踏みしめ、返ってくる硬さにやはり単に崩れたわけではないと判断し、足を戻す。

 そんな場所に、いつもように松明を投げ入れる事に意味はない、そう判断し、しばし入口に手を触れたまま、彼は耳を澄ます。

 だが、それも案の定、澄ました所で彼の耳に響く音はなかった。

 小さく鳴く尻尾の声が聞こえなかった。一年と数ヶ月、その間ずっと聞こえていた鳴き声が聞こえてこない。先の地の揺れでこの地に何かがあったのだろうか?と想像する。自分達は大丈夫であったが、尻尾を持つものはもしかして潰されて息絶えたのだろうか?そんな不安を抱える。

 それ程までに彼の眼前に広がる穴は異様であった。特に硬い岩肌が剥き出している地面が異様であった。昨日までの現実を全て作り変えられたようにさえ思えるほどに。だが、考えても考えても彼の中で結論が出る事はなかった。彼に分かるのは相当な変化が地面の中であったに違いないという事だけだった。

 それを確かめるように、松明を手に、彼は洞穴の中へと入る。

 彼がもう少し好奇心のない人間であれば、足踏みしていたであろう。しかし、足踏みを歩みに変える程度には彼は好奇心を有していた。一歩、一歩と尖った凹凸の激しい地面を降りて行く。

 その急勾配に転げ落ちないように注意しながら、片手を壁につけながら潜って行く。


「……地面の中だけが沈んだ感じですかね?」


 暫く降りれば、いつも彼が落としていた砕かれた松明や、尻尾に吐き出され蟲や小動物が喰い散らかした食べ物が落ちているのが目に入る。一体全体どのような変化が地下にあれば、穴の直下にあったこの場に、斜めに歩いて辿りつけるというのだろうか。そんな疑問を浮かべながらも、これもやはり答えはなく、彼は押し黙る。

 口を閉じ、目を凝らして周囲を見る。撒き散らされた松明と食べ物だけしか見当たらない。そこには何もいなかった。

 いつもここでぐるぐると小さな鳴き声を立てていた尻尾はどこにもいない。足を動かし、捜索範囲を広めても案の定見つかる事はなく、諦めるようにほぅとため息をひとつ吐き、動きを止める。


「そもそも気配がありませんしねぇ」


 呟き、ぽりぽりと頭を掻きながらどうしようかと悩む彼の視界に、地面が映る。

 しゃがみ、松明を近づければ、尻尾が動いた事を示すように、地面には尻尾の這った跡があった。よくよく見れば地面の凹凸が砕け、辺りにそれが散乱している事に気付く。欠片を一つ拾い、それが続く先を見つめる。

 勢いを付けて移動したのだろう。地面を砕いたその跡には、その散乱には明確な指向性があった。彼の来た道とは逆方向、奥へ、奥へと向かってそれは進んでいるようであった。


「……どこにいったのでしょうか?」


 誘われるようにリオンはそちらに歩いて行く。

 一歩、また一歩と奥へと向かって行く。

 未踏領域。

 人間やエルフが誰ひとりとして入った事のないその場、そこに彼は幾分か緊張していた。彼とてまだ齢十六を少し超えた頃。未知の領域に、視界の届かぬ世界に緊張する事は不思議でも何でもない事であった。いや、寧ろ変に慣れて緊張を失う事の方が問題であった。故に、彼の行動は正しかった。

 その時も、確かに正しかった。

 洞穴に入ったという事を除いては。


「っ……これは昨日のっ!?」


 驚くように声を挙げ、地面に膝を付き、手を付く。

 地面が揺れ動く。

 昨日よりも揺れ動く幅は大きかった。上下に、左右に脳が揺さぶられるのを感じながら彼はその場で耐える。ぽろぽろと零れてくる天井に、彼の背筋に冷や汗が浮かぶ。後悔は既に遅かった。後悔した所で身動きが取れるわけもなく、変わらずその場で揺れが収まるのを耐えるだけ。だが、耐えた所で、彼が膝を付いた地面自体が沈んで行くのならば何の意味がない。

 そう、沈んだ。

 自分が落下しているのを、否。周囲の地面ごと落下しているのを彼は確かに感じた。水の中を落ちて行く時のように、上に引き摺られるような感覚を覚えながら、自分が入って来た場所が、次第、次第に遠くなっていくのを確かに感じていた。

 どこまで落ちるのか。

 そんな事を考える余裕すら出来るほどにその沈み込みは長かった。

 今までこんな風に地面が揺れる事が、地面が壊れるような事は一度もなかったのだ。それが、二日続けて発生するなど、彼は思いもよらなかった。恐らくパンドラですら想像していなかったに違いない。嫌な予感がするとは言っていた。だが、それでもこんな事になるとは思っていなかったに違いない。

 だが、今はそんな不運に嘆く暇が勿体ない、と彼は体勢を整える。

 揺れはもはや感じない。ただただ落下する感覚だけが酷い。故に……到達する瞬間に耐えるように、その衝撃に耐えられるようにと考えた瞬間に、到達した。

 世界を揺るがすような轟音と共に彼の体に衝撃が伝わった。


「ぁっ……がはっ」


 足が折れそうになった、身体が悲鳴を挙げ壊れそうになった。脳が衝撃に壊れそうになった。そして不幸な事に彼の体重が軽かったからであろう。次の瞬間、身体が宙に浮き、地下を飛び上がり、そして……背中から落ちた。


「……っぅ」


 唯一の幸いは意識を失わなかった事だろう。浮いた瞬間に反射的に頭を抱えられたからだ。だが、それ以外の場所は、無残な状態であった。背中、足、腕は直接岩に削られ、血が流れ出していた。加えて左腕は、頭を庇った所為か不自然な方向に折れていた。


「痛い……ですねぇ」


 流石に笑みを零す事はできなかった。

 だが、苦笑だけは零す事ができた。いいや、ついつい零れてしまった。

 こんな状態で、帰る事ができるだろうか。そんな事を考えた結果、こんな時でも、エルフは気が長いのだと言っていた少女の事を考えてしまっている自分に。


「……今日中は無理でしょうねぇ」


 好奇心は猫をも殺す。まさにその通りであったと自分自身感じながら、彼は全身を器用に使いながら体を起こす。そして痛みを感じる部分に目を向け、動く右手を使って状態を確認していく。結果、足や腰、背中に出血や痛みはあるものの、骨が折れているわけではなく最悪の状態には至っていない事が分かる。その事に安堵すると共に、予備の松明用に持って来ていた木を取り出し、口と右手を器用に使い腕に紐で括りつけて応急手当をする。


「何がいるかも分かりませんが……」


 腰元に目を向ける。ナイフ一つでどうにかなるようにも思えなかった。

 であれば、彼が出来る事などやはり一つ。


「……匂い袋でも作っておきますかねぇ」


 こんな場所で彼が出来る事といえば逃げる事ぐらいのものだった。この場では自分が狩られる側だと、彼は考えていた。血の臭いをさせ、動きも鈍く、加えて強くもない。自分が美味いかどうかは流石に分からなかったが、しかし、自分であれば、美味しい美味しくないによらず、そんな動物がいれば狩るだろう。そんな事を冷静に考えていた。故に、彼が考えるのは一貫して戦う事ではなく、逃げ伸びる事。恰好悪く、意地汚く、ただ逃げる事。そのための施策を彼は考えた。その結果が、匂い袋であった。

 思いつき、思い立ち、それを作るために動こうとして、そんな独り言を呟いたのだった。

 その独り言に返る言葉があった。

 否。

 それは言葉に非ず。咆哮と呼ぶべきか。


「いやはや、全く。運が悪いというか何と言うか……」


 苦笑する。

 苦笑しながら、耳を澄まし、音の先を辿る。

 カタカタと鳴る歯の音、カサカサとなる翅の音。今まで聞いた事のない音だった。きっと尻尾とはまた違う獣なのだろう。そんな想像に彼は右手で袋を探る。


「尻尾さんにはまた今度、ですかね。まぁ……会えるかどうかもわかりませんが」


 傷む体で立ち上がる。

 右手でなめし皮の袋を取り出し、その中身をちび、ちびと地面へと垂らせば周囲に甘い臭いが漂っていく。

 それは彼の作り出した酒であった。

 その匂いが洞穴内に広がって行く。彼の血の臭いを消して拡がって行く。芳醇な、高級な果実酒に似た臭いが周囲を埋め尽す。

 そして……その香りに誘われるように獣が姿を現した。


「流石に、これは……何と言いますかねぇ」


 現れた生物を彼は見た事がなかった。

 それは肉の塊と言えば良いのだろう。

 それは宙を浮いていた。

 それは、いくつもの口を持っていた。そこに並ぶのは血で汚れた歯。それが忙しなく鳴っていた。

 それは、いくつもの翅をもっていた。奇怪な翅は宛ら昆虫の如く。それが忙しなく鳴っていた。

 見る物に吐き気と怖気を与える生命体。それが、彼の前に現れた。


「これは何とも美味しそうな形ですねぇ……ミケネコ君が言っていた天使とやらですかね?」


 左腕から伝わる痛みに耐えながら、彼は変わらず、ぽた、ぽたと皮袋から地面へと酒を零し、少しずつ場所をかえていく。一歩、また一歩と零しながら。

 そしてそれに釣られるように、その生物は酒が零れた場所に齧り付く。

 次の瞬間、洞穴内に岩石を砕く音が響き渡る。地面にしみ込んだそれを一滴たりとも零さないとばかりに肉に張り付いた歯で砕き、一つの口が岩を砕いたと思えば、今度は別の口がその場へと向かう。だが、別の口には食べさせないとばかりに先に岩を食していた口が再び地面を食べようとして、身体があっちへいったり、こっちへいったりと、終いにはその場でくるくると廻りはじめた。

 げに恐ろしきはリオンの酒であった。

 手に持った袋を奪えば良いという簡単な事さえ忘れる程にその生物は……悪魔と呼ばれる生物は臭いだけで彼の酒に溺れた。本来ならば、死んだ生命を喰らう者であるにも関わらず、である。

 そして、その悪魔に幾つも付いている口が仇となった。各々が意思を持っているわけでもなかろう。だが、一つの口が、その酒をもはや誰にも渡さぬと、他の口が酒混じりの岩を喰おうとすればそれを阻止せんと動く。

 そんな悪魔の姿にリオンは苦笑し、しかし、場違いにもどこか嬉しそうであった。


「美味しいですか?それは良かったです。自信作なんですよ」


 カタカタカタカタと鳴る歯が一瞬止まり、身体がリオンを向いた。


「なんでしたら料理も進呈しましょうか?……そうですね、貴方、たくさんの口があるんですから、一つぐらい頂けませんかね?それで……作ってさしあげますよ」


 とても美味しそうな材料だから使わせて欲しいと、ただ無邪気に彼は言っただけだった。悪意など一切ない。悪かった事といえば、時と場合と自分の状態を全く考えていなかった事ぐらいであろう。

 だが、悪魔にとって、それはまさに悪魔の言葉であった。次の瞬間、目の前で起きた光景は、彼自身にも意味が分からない事だった。

 自壊と呼べば良いのだろう。

 翅が忙しなく動き、しかしそれらが互い違いの方向に動きまわろうとし、みし、みしという音が続いたかと思えば、瞬間、ぱしゃん、という軽い音と共に悪魔が裂け、落下する。

 口が、体が、肉が、翅が、内臓が彼の目の前でゆっくりと落下し、ぼた、ぼたと音と立て地面に落ちた。


「流石に全部はいらないのですが……」


 幾つもの口が、それぞれがそれぞれを生贄にしようとした結果、自らを引き千切ってしまったというのが正解だろうか。その答えが分かる唯一の生物が死んだ以上、真実は分からない。分かるのはそれこそ、悪魔が彼の料理を楽しみにした結果、この現象が起こった、という事ぐらいであった。


「冥利に尽きるといえば、尽きるのですが……変な生物もいたものです」


 辺り一面を悪魔の血が埋め尽くす。

 その吐き気を催す匂いに僅か顔を歪めるが、しかし、そこはパンドラ曰くのゲテモノ料理人であった。すぐさま取れるものを採りに動く。

 血、口、歯、翅、内臓、そして子宮。

 手に取り、その重さが見た目通りではない事に気付き、彼はそれを足で地面に押さえつけ、しゃがみ、ナイフで割った。


「……黒い石?」


 中から出てきたのは宛ら悪魔の子と呼ぶべきか。

 黒い石であった。

 真黒な、何もかもを吸い込んでしまいそうな石であった。

 しばしの間、リオンはそれを訝しげに見ていたが、どうせ分からないと、それも含めて袋へと詰め込んでいく。右手だけでの作業故に時間はかかったものの、しかし、彼にとってこうやって材料を集めておく事こそが生きる為に必須であるが故に、時間を掛けてでもやらねばならなかった。

 彼自身の身体能力は相変わらず並みである。寧ろ、最近ではあまり猟と呼ばれるような猟をしていなかったため、どちらかといえば以前より筋力は落ちている。


「……今の内に仕込んでおきますか」


 故に取れる手法はやはり、それしかなかった。匂い袋だけに留まらず、今みたいな化物に食べさせる料理を作る事。彼にはそれしかなかった。

 痛みに耐えながら、自分の体力を回復させながら、時間を掛けて戻らねばならないだろう。何日掛るかは分からない。何度襲われ、何度死にそうになるかは分からない。だが、それでも彼の表情に諦めなどない。

 今の彼には帰る場所があるのだから。

 帰る事を望む者がいるのだから。


「お腹空かせているでしょうけど、すみませんねぇ、ミケネコ君。ちゃんと帰りますから」



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