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自殺大陸  作者: ししゃもふれでりっく
閑章~パンとドラゴンがあっても、神様を食べればいいじゃない~
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第3話 モノ語り

3.




「あぁ、なるほど。では、ミケネコ君とお呼びすることに」


 パンドラ=ミケーネ=コスキー。それが鉄格子を挟んだ向う側にいる彼女の正確な名前であると言われた結果、彼が返したのはそれだった。彼女の姿に、先日山の中で出会ったやせ細った子猫を思い出したが故に。


「私はミケネコ……じゃないっ!?」


 憤慨するように鉄格子を揺らす。その姿がまた餌を欲しがる子猫のようでもあった。それを見て、なおさら彼はミケネコ君と呼ぼうと心に誓う。悪循環である。

 上目で睨んでくる子猫のような少女は、膝立ちで、鉄格子にもたれるように掴っていた。そんな少女に目線を合わせるように彼はしゃがみ、片膝をつく。


「しかし、エルフは長ったらしい名前なのですね、ミケネコ君」


「ミケネコ……じゃないっ。パンドラよ、パンドラ。ちゃんと呼んでくれないと……貴方の事ピーちゃんとか呼ぶよ!?それでも良いの!?」


 鉄格子を力一杯掴み揺らし、時折せき込みながらも、親しい友人に語り掛けるような砕けた口調となった彼女は、とても元気そうであった。最初に聞いた小さく凍えるような、しかし上品な印象を受ける声音は既にどこにもなかった。やいやのやいのと色々と煩く喚き立てる姿がまたぞろ子猫のように見える。

 誰とも分からぬ相手にそうやって語りかける姿。どんな相手でも、言葉を交わせるモノならば共にありたいと願うような少女の姿。そんな彼女の姿に、彼は、ふいに、友人が生きていた時を思い出す。彼もまた、良く喋る人だったなぁ、と。


「別に構いませんが。マリオンよりは男らしいですし」


 思い出した所為で、そんな風に呼ばれていた事も同時に思い出した。

 ついでにそう呼ばれるのが苦手だった事実も思い出し、少し苦笑しながら、彼は松明の灯りが彼女を、彼女の周りが視界に映るように傾きを変えた。


「その違いが私には分からないのだけれど……じゃあ、改めてくれないなら、マリオンって呼ぶ!」


 ため息を吐きながらも、彼女の口角が僅かにあがった。

 松明に照らされた世界。きっとこんな場所でなければ、こんな状態でなければ、見た目も相まって大層可愛らしく見える事だろう。だが生憎と場所も悪ければ、状態も悪い以上、それは夢幻でしかない。だが、幸いと言えば良いのであろうか。彼が彼女の見目に興味を示す事はなく、彼は、彼女の言葉に、再び脳裏に友人の姿を思い浮かべていた。


「まぁ、別に良いんですけどね」


 そう呼ばれるのも懐かしくて良いかもしれない、と。

 そもそも彼が誰かに名前を呼ばれたのも、もはや遠い日の事のようであった。男の子が死んだ日。村人との乖離の日。それ以降、彼が村人に名前を呼ばれたことはない。それが彼と村人達の距離だった。隔絶していた。断絶していた。例え親族であったとしても、断崖を越えてそれを呼ぶ者はそこにはいなかった。男の子が生きていればそんな事はなかったかもしれない。だが、それもまた夢幻。そして、彼が一人になれば尚更に名前などいらなかった。他者と自分を区別するための物など一人で生きるのならば、不要であった。

 だから、例えどんな変な呼び方であれ、誰かが名前を呼んでくれる事は、彼にとって嬉しい事だった。折角母が付けてくれた名前だ。友人が呼んでくれた名だ。例え変だと思っていても、呼んでくれるのは喜ばしい、と。


「ちょっと!……けほっ……適当過ぎるんじゃない、貴方」


「ミケネコ君は煩いですねぇ」


「普通、初対面でそんな事言う!?」


 しゃがれた、しかし甲高い声に再度、煩いですねぇと呟きながらリオンは彼女の囚われている場所に目を向ける。

 見る者に艶やかさすら感じさせる程に、神経質なまでに整えられた土壁には傷みの一つ無く、蜘蛛などの蟲が巣を張っている様子も見られない。そんな土壁の状態を見れば、ここが出来たのがつい最近であろうことは容易に想像がつく。一月、二月という事はないだろうが、一年は経っていないであろうと彼は感じていた。鉄格子の真新しさもまた、その考えを助長させた。だが、そんな土壁や鉄格子とは違い、床は酷く汚れていた。それこそそこだけ見れば何年も使い古したかのように。

 土にしみ込んだ黒い跡が血痕である事を彼は経験的に理解する。次いで奥の方、松明の灯りでははっきりとは確認できないが、漂う鼻に付く臭いから即座にそこに何があるかを察する。そして、それらを回収する際に態とばら撒かれたかのように汚物が床を汚していた。そこ以外にも、彼女が行かないような場所や、部屋の隅には埃が積っていた。

 そして、そんな床に似合うように、合わせたかのように、この牢の中に置いてある物は彼女も含め酷く汚れていた。もっとも、置かれている物は殆どない。彼女自身と敷物2つ、そして敷物から離れた所に置かれた欠けた碗が1つ。それがその場にある全てであった。

 一番目立つのは藁で出来た敷物。

 内1つは地面に敷くため、もう1つは寝るときに彼女が羽織るために使うのであろうか、そんな事を考えながらリオンは少女に目を向ける。いくら子猫のようであるとはいえ、その敷物は彼女の身体には小さすぎるように思えた。唯でさえ、乱雑に編まれたそれは蟲が喰ったかのように隙間だらけだった。これでは暖も取れないであろう。声が震えていたのも、小さくなっていたのも理解できる。周囲を照らす松明に向かって彼女が手を向けるのもまたそれが理由であろう。ただでさえ日の光の無い場所だ。こんな状態で敷物2つに……彼女が着るような襤褸一つでは暖など取れるはずもない。

 次いでリオンは視線を彼女に移し、着る服に目を向ける。襤褸をかぶせただけのような、否。まさに襤褸をかぶせられていた。彼自身も大概酷い襤褸服だが、彼女のものはもはや服とは言えない。そして、そこから伸びるのは、所々に火傷を残した骨と皮だけの四肢。襤褸を取ればその中身もまた同じである事は、所々に空いた服の隙間から容易に分かる。

 腕に残る線状の火傷。その殆どは治りかけているものの、普通の火傷であればそんな線状にはならない。何故そんな火傷が彼女の腕に、足についているのだろうか。例えば、そう。焼けた刃物で切られれば、そうなる可能性はあるが、しかし、目の前の小さな少女がそうされる理由が彼には皆目だった。誰かがこのエルフを食べるわけでもないだろうに、と。しかし、一方で、彼女のもう一つの特徴でもある細い骨と皮だけで出来た腕と足。これに関しては、彼は即座にその原因に気付いた。敷物から少し離れた所、地べたに置かれた碗、その中身を見れば、彼女がまともに食べる物を与えられる事もなく、長い間こうして閉じ込められているからだという事はすぐに理解できた。

 故に。

 この少女は罰を受けているのであろうか、と彼は思った。

 彼の住んでいた村でも悪い事をすれば仕置きをされ、中には一日中暗い場所に閉じ込められた者もいたという。そういう類の罰の一種であろうと彼は理解する。

 とはいえ、リオンにはこの少女の何が悪いのかが分からなかった。

 今も松明の作り出した炎に手を伸ばし、伝わる熱に、げっそりとした頬を緩めて暖かそうにしている少女を見れば、悪い者には見えなかった。語る言の葉は元気そうで、見せる表情は楽しそうなそんな少女の何が悪いのだろうか?炎に指先を近づけ熱くなって慌てて指を離す、そんな子供じみた事をしている少女に、彼は面白いとは思えど危険であるとは思えなかった。だが、きっと彼女が悪い者に見えないのは、自分がズレているからであろう、そう彼は自分を納得させ、パンドラから視線を外し、再び碗へと視線を向ける。

 それも当然。彼女の面白さには興味が湧こうとも、彼は彼女の善悪に興味がない。彼女が何をしたのか?彼女がなぜここに捕えられているのか?そんな事よりも彼の興味はそっちだった。

 汚物よりも尚、醜悪な印象を受けるその碗の中身。一体全体何を入れたものであろうか。粘度の高そうな茶色の液体に入れられているのは肉団子だろうか。一見すれば黒い炭のようでもあった。噛み切れなかったのだろう、遠目にも歯の跡が見えるそれをリオンは訝しげに見ていた。彼の感性からするとその食べ物らしきモノは、酷く許し難い物に思えていた。

 酷く強い視線を碗に向けていた所為であろう。パンドラが訝しげに、リオンを見つめてくる。そして、少し前までの見目に全く似合わない明るい感じの表情を変えた。縋るような瞳はどこか不安そうで、まるで誰かに怯えているようでもあった。


「な、何かあった?」


 無理やり紡ぎ出した問い掛ける声も、どこか震えているようであった。小さく、凍えるような、それこそ最初に彼女がリオンに掛けた声のようであった。


「いえ、美味しくなさそうだなぁ、と」


 だが、そんな彼女の想いを知ってか知らずか、彼は呆気らかんと、笑みの絶えない表情で自分の感じた事を告げる。しかし、逆にそんな彼の態度に、彼女はほっと息を吐く。次第、次第と不安が彼女の顔から消えて行った。


「多分、美味しくはないんじゃないかな。……噛み切れないし、食べた事ないのよ」


 代わりに浮かんだのは苦笑。

 致し方ないというような、自嘲を含むような苦笑。

 だが、彼にとってそれは『致し方ない』事ではなかった。劣悪な環境に居る事は気にもならない。だが、彼は、そんなまずい物が存在する事も許せなければ、それを『致し方ない』と言いながら食べなければならない存在がいるのもまた許せなかった。食事とは、美味しくて楽しいものなのだから、と。醜悪であろうと汚物であろうと構わない。だが、美味しくないのならそれは害悪以外の何物でもない。

 故に。


「それは、いけませんねぇ。ミケネコ君。ちょっとこれ持っていてください」


「だから……ミケネコじゃない」


 ぽり、ぽり、と猫のような髪を掻きながら、松明を格子越しにパンドラへと手渡し、手渡された方は一瞬怯えたように手を引込めたり、戻したりという挙動不審さを見せながらも最後には受け取り、それを牢の中に引き寄せ、落ちないように危なっかしい手付きで支える。

 そんな姿にいつになく笑みを浮かべ、彼は、振り返り、鉄格子を背にして座る。

 座れば地面から伝わるその冷たさに、ずっとここに居た彼女はきっともっと冷たいのだろうな、と彼は彼なりに想像を働かせた。となれば、身体が温まるものが良いのだろうとさらに想像を働かせ、彼は荷物袋の中から毟り取った翼を取り出す。


「……それ、何?」


 受け取った松明で暖を取りながら、訝しげな表情と訝しげな声でパンドラがリオンに問う。


「翼ですが」


「……それは分かるから」


「卵に翼の生えた珍妙な生き物の翼です。エルフは変なモノを飼っていますねぇ」


「飼っては、いないと思う」


「そうですか……残念」


 互いに鉄格子を背に、座る。

 出会ってばかりの異種族の二人。しかし、第三者が今の二人の姿を見れば、長年連れ添ったかのように、互いの領域を理解しているかのようにさえ見えたかもしれない。

 そこには酷く緩やかな時間が流れていた。

 ぼそぼそと言葉を口にするパンドラ。それを聞きながら、翼から羽をむしり続けるリオン。

 互いに傍にいる、だが、互いに触れる事はない。しかし、それでも互いが傍にいる事は、分かる。リオンの背に、パンドラがいる事が、その体温によって熱された空気によって、伝わって来ていた。鉄格子の冷たさを感じるからこそ、尚更、彼には彼女の体温が感じられた。

 人ではないが、しかし、誰かと共にあるという事はこういう事なのだろうか、そんな事をリオンは思う。母も友人もまた、熱を失い自分に熱を与える事はなくなった。それを寂しいと思える感情はない。けれど……それは酷く冷たいものだという事に気付いていた。冷たい事なのだ、と。誰かが傍にいないという事は、とても冷たい物なのだ、と。


「ミケネコ君は暖かいですねぇ」


 そして、名前を呼べるということもまた、暖かい事なのだ、と彼は理解する。一人では不要なもの。けれど、二人なら必要なもの。名前を呼ぶことはきっと暖かい事なのだ。


「マリオンが何を言いたいのか分からない。……でも、そうね。私、燃えるからね」


「燃える?」


「そう。燃える。他のエルフ達とは違って私は燃えるの。どう?凄いでしょ?」


「……あぁ、爆発するんでしたっけ?エルフは」


 首を傾げながらそういえば村で聞いたな、と思い出し、ここに来るまでにあった爆発跡を思い返し、納得する。あそこはエルフの死んだ場所か、と。


「そうよ。ちょっとした怪我が命取り。でも、ほら、私だったらこんな傷を受けても燃えるだけ」


 顔だけ振り向いたリオンに腕の傷を見せながら、足の傷を見せながら、襤褸の隙間から腹の、背の傷を見せながらパンドラは語る。

 痛みを感じているようには見えない。苦しさを覚えているようには見えない。それを思えば、やはり彼女のその傷は治りかけなのであろう。

 しかし、それにしても、と考えながらリオンは顔を元に戻し、腰元のナイフに視線を落とし、再度顔だけで振り返る。


「どれもこれも刃物で切られたみたいな跡ですねぇ」


 刃物で切られ、燃えあがり、火傷を作る。指先を横にすぅと引き、切るような仕草をしながら、なるほど、そういう事かと彼は納得した。もっとも、現象を理解したに過ぎないが。


「あ……いや……その、違うの。これは、ただの引っ掻き傷だから。ほら、えっと火種欲しさに!」


 一転。リオンの視線から逃れるように、パンドラは顔を逸らし、傷を手で隠す。慌てて彼から離れていこうとし、しかし松明を持って離れるわけにもいかず、逃げられず焦る彼女に、リオンは苦笑する。いくら自分が何でも食べるとはいえ、別に取って食うわけでもなしに、と。

 彼は猫が嫌いではない。それは自分の髪型がそんな感じだからという単純な理由であろう。彼が先日、山で見かけた子猫も彼に食べられてはいない。寧ろやせ細った子猫に彼は燻製を与えている。もっともそれを噛み切れる体力が子猫に残っていたかは定かではないが、彼にそんな機微はない。ともあれ、故に。子猫みたいな彼女を彼が取って食う事はないのだった。

 閑話休題。

 当然、否。流石の彼もパンドラの行動に、食べられそうだから逃げているなどというそんな阿呆な勘違いをしていたわけではない。


「ところで、ミケネコ君はどうしてこんな所に?」


 がたがたと揺れていた松明の光が収まった。


「それ、今聞く事?」


「えぇ。聞かれたくない事を聞いてしまったみたいですから、話題を逸らすためにも」


 嘘が下手な子だと、苦笑しながら、彼は言う。


「……マリオン。そういう事こそ言わない方が良いと思うんだけど」


 そういうものか、と再三、苦笑気味に笑いながらリオンは翼を解体していく。解体を終え、その一欠片を口に入れ、がきり、と歯で噛む。


「生はやっぱり美味しくありませんね」


 それもまた、話題を逸らすためのものだった。もっとも、食べたいから食べたに違いはなかったが……


「面白い人だよね」


「失礼な」


「普通、そんなもの生で食べようとは思わないよ。あ、でも、もしかしたら人間だと普通の事?」


「流石に違うかと。食べたら身体が暖かくなるかなと思いまして。……実験ですよ、実験。案の定、失敗でしたが」


 欠片を咀嚼し、嚥下する。硬いだけで美味しくない、と顔を顰めながら、ナイフを取り出し、羽のなくなった翼を切断していく。毟った羽と翼を地面に並べ、羽をかき集めて、パンドラから松明を受け取り、その代わりにと羽を渡す。


「……えっと、何かな?もしかして食べろって事?」


「違います。これはそこの敷物の間にでも入れておいてください。少しは暖かくなるでしょう」


「……これだけじゃあんまり意味がないと思うんだけど。流石にそこまで小さくないっ」


 受け取ったパンドラは、何度か視線を敷物とリオンの間で行き来させていた。


「煩いですねぇ、ミケネコ君は。次来る時には袋ごと持ってきますので、それまで待っていて下さい」


 そんな彼の言葉に、一瞬呆然とし、次いで、パンドラは喜色を浮かべた。


「あ……うん。楽しみにしているね……お、御礼にこれ、いる?」


「そんなまずそうな物はいりません。そっちはそっちで、もう少し待っていて下さいな」


 暗にまた来ると彼が彼女に伝えたのは、彼にとって、久しぶりに、本当に久しぶりに誰かと会話して彼自身楽しかったから、この時が暖かかったからというのが一番の理由だろう。そして、同時に、友人だった男の子を想い出したから、というのもまた、大きな理由だった。

 彼はパンドラが捕まっている理由に興味はなかった。けれど、彼は捕えられている彼女に、初対面の不審者相手に語りかけるぐらいに必死な彼女の姿に、昔の自分の姿を見ていた。語る相手がいない。でも、語る相手が欲しい。自分も少なからずそんな風に思っていたのだろうと彼はパンドラを通して理解した。だからこそ少年が亡くなった時、残念だと思ったのだ。語る相手がいなくなった事が残念だったのだ。そして、今はあの時とは立場が逆。今は、少年の立場に自分がある。だったら、少年への恩返しでもないが、少しそんな風にしてみたいと彼は思ったのだ。どこに行って来た。何を採って来た。そんな些細な話をこの子猫のような少女に伝えたいと思ったのだ。

 彼がやったように、自分もまた、モノを語りたい、と。


「うん。大人しく待ってる」


 それに、美味しいモノを求めるために森に留まりたいという事もある。エルフも見つけてしまった以上、もはや料理ぐらいしか彼にはやる事がない。だったら、食べてくれるエルフの一人ぐらいいた方が精も出る。

 そんな言い訳染みた自分の思考に笑いながら、彼は手荷物の中から、道すがら捕まえてきた蛙を取り出す。


「そのげこっと鳴く緑色の生物は、もしかしなくても蛙?」


「どこからどう見ても蛙ですねぇ。私にはまだこの翼を調理するに足る力量はないみたいですので」


「蛙って美味しいの?」


「ミケネコ君が食べているモノに比べれば相当に美味しいかと」


「へぇ。あ、骨は注意してね。食べる時に口の中に刺さったりすると私、燃えるかもだし」


「注文の多いエルフですねぇ」


「普通のエルフよりはましだと思うけど。爆発しないし。それにほら、久しぶりのまともな食べ物だし……燃えるのを気にせずに美味しく食べたい」


「そこまで言われたら、仕方ありません。ご注文承りましたよ。……では、さようなら蛙君。貴方の命はミケネコ君の肉となり骨となるのです」


 怯えるような蛙の表情を一切合財無視して、彼は蛙を二つに割る。ナイフが蛙の皮膚に触れたかと思えば、次の瞬間には蛙の真ん中をナイフが通過していた。見る物が見れば、見事、と言えるぐらいに鮮やかに蛙は半分に分かれていた。断末魔のゲコっという鳴き声と共に彼の手の中で蛙が割れて行く。そんな蛙に、しかし彼が感傷を抱くはずもなく、片面ずつ内臓を取り出し、骨を外していく。


「けほっ……マリオン、器用だね」


「産まれてこの方ずっとやっていますからねぇ」


「今度、教えてよ」


「嫌ですよ。面倒くさい」


「ちょっと!……あっ……うん。いいや。教えてくれなくて良いから、その代わり私の食事は全部、マリオンにお願いするね」


「別に良いですけど……暇ですし。その代わり、実験にも付き合って下さいね」


「それは嫌よっ!」


 鉄格子に背凭れるリオン、鉄格子に凭れながらリオンの肩越しに手元に注目するパンドラ。

 陽の届く事のない土の中、牢屋に阻まれた二人。例えそんな場所であろうとも、しかし、彼は、彼女は確かに、今という時間を楽しんでいた。


「全く。私より、ミケネコ君の方が面白いと思います」


「ちょっと、失礼よ。マリオン!」


 その日、暗いこの地下牢に、二人の喋り声がずっと、ずっと響いていた。



―――



 水の中。

 頭部から落ちるように、湖の底へと沈んで行く。流れる水の音が耳の奥に響くのを感じながら、彼はゆっくりと沈んで行く。

 落ちるに任せ、自然に身を任せながら、深い深い、水の底に向かって彼は沈んで行く。

 そこは暗い場所だった。光の届かぬ場所。誰もいない、誰一人として存在しないそんな場所。それを彼は寂しいとは思えない。ただただ、ここには誰もいないのだな、冷たい場所だな、そんな客観的事実だけを脳裏に浮かべながら、彼はただ落ちて行く。

 溺れているわけではなかった。

 村に居る時に彼は川で泳いだ事があった。だが、こんなにも広い場所で彼は泳いだ事がなく、こんなにも深い場所で泳いだ事もない。故に。ただただ、気ままに、思うがままに彼は知らない場所へ行こうとしていただけだった。水の底。遠い、水の底へと彼は向かっていただけだった。

 時折彼の身体に触れるのは魚の類なのだろう。触れた瞬間、それを手で捕まえようとして、するり、と逃げられ、それを追い、捕まえて袋に仕舞う。時折、そんな事をしながら、深く、深く沈んで行く。

 底はあるのだろうか。

 この暗闇の奥に本当に底はあるのだろうか。

 見果てぬ場所だからこそ、追い求めたくなる。

 けれど、彼がそこに至る事はない。

 閉じていた唇の隙間から蓄えていた空気が漏れて行く。そろそろ限界だった。人間が、この底に辿りつく事はないだろう。エルフならもしかして辿りつく事ができるのだろうか?そんな事を考えながら、今度は上昇していく。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 先日から良く会っている……いや、語弊がある。ほぼ毎日会っている小さいエルフを思い出しながら彼女なら底まで行く事ができるのだろうか?そんな疑問を抱く。だが、そんな疑問に意味はない。陸で生きる者達が水の底に行けるわけもない。

 湖の中、煩いエルフを思い出し、彼は笑い、笑った所為で少し口腔から空気が漏れ出した。

 出会いの日からリオンはほぼ毎日パンドラの元へと不思議な生物や、不思議でない明らかに食べる物ではない物を持って訪れていた。それを見るパンドラの瞳が日に日に胡乱になっていくことにリオンは気付く事もなく、いや、気付いても気にすることなく、毎日、同じ時間に彼女の下へ訪れてはその場で料理をしていた。もっとも、今の所、全て失敗であり、その失敗作を食べるのは彼だけで、彼女には予備に捕まえていた真っ当な生物や木の実などを与えていた。時折、材料を手に入れるために遠出もしたが、結局彼は自分の家のように彼女の下へと帰って来ていた。パンドラが疲れて寝るまで話をし、その場で寝て、明け方に挨拶を交わしてまた何かを捕えるために外に向かう。そんな日々を過ごしていた。

 彼女の下へ訪れる時間はいつも決まって夕方だった。それぐらいの時間ならばきっと大丈夫だろう、というのが彼女の言い分であった。彼女を捕えている者が二日に一度、『餌』を彼女に与え、排泄物を処理しに来るそうだった。それを避けて来た方が良いという話を聞き、言われるがままに彼はその時間を避けてパンドラの元へと向かう。

 水の中を行きながら、きっとそれだけではないのだろうな、と増えたり減ったりする彼女の傷を思い浮かべる。餌を与えに来た者が彼女を痛めつけているのだろう事は容易に想像が付く。だが、リオンがそれに対してできる事はなかった。

 そもそも、彼女自身、それを受け入れている以上、リオンが何かした所で意味はない。寧ろ何かをすれば、今以上に彼女の待遇が悪くなるだけだ。それに、彼女は一言として、辛いとも逃げ出したいとも口にしていない。もし、彼が後の世に謳われるような物語の勇者であれば、勝手に推察し、勝手に同情し、勝手に察して彼女を囚われの身から逃す事だってできたのかもしれない。

 だが、彼がそれをする事はない。彼にそんな機微が無いのも事実だが、それ以上に、彼は彼女の生を、歩んできた道を知らない。彼女が現状に甘んじているというのであれば、それをどうこうする必要はないと思っていた。彼女はその場にいる事を是としているのだ。それは罪を償うためなのかもしれない。罰なのかもしれない。だが、それすらも彼は知ろうとしなかったし、知る必要を感じていなかった。

 知っている事といえば、煩い、小さい、意外と何でも食べるという事ぐらいだ。

 そして、彼はそれで良いとも思っていた。それ以上のことを知る事に何の意味があるというのだろうか。

 食べ物にがっつく少女は中々見ていて心地良い。

 そんな少女にお腹を空かせて苦しんでいる少女に彼が出来る事といえば、ただ彼女の語りを聞き、彼女に語る。互いの熱を感じ合う距離に座り、共に過ごすだけ。ただ、それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 水面に辿りつき、陸と湖の境に向かい、捕まえていた魚を入れた袋をその場に置き、再び湖の中へと潜って行く。

 光が失われて行くその様に。

 闇が産まれて行くその様に。

 ただただ彼は沈んで行く。

 今度は何も捕える事なく。ただ、単に沈み、沈むだけ沈んだら今度は浮き上がる。浮きあがり、口の中に空気を蓄え、また沈んで行く。

 そんな意味のない事を繰り返す。

 沈んで、浮き上がる。

 沈んで、浮き上がる。

 そんな意味のない事を繰り返しながら、次は何を作ろうか?そんな事を思う。

 彼は、いつだってそんな人間だった。

 囚われの少女を悲しむ事も出来なければ、捕えている者への怒りも持ち合わせられない。悪辣ではない。だが、正義感もまた彼には存在しない。臆病でもなければ勇敢でもない。ただあるがままの事実を受け入れ、思うがままに行動する。

 ただ、それだけの人間だった。

 大した目的を持ちあわせない。

 大した理由も持ち合わせない。

 酷く人間らしくない人間であった。

 唯一、彼の人間らしい所といえば料理への執着だった。

 だから、初めて自分の料理を、心から嬉しそうに食べてくれたエルフに、次は何を食べさせようか。あのげっそりとしたエルフに何を作ってあげれば良いだろうか?そんな風に人間らしく彼が考えるのは、そんな風に他者の事を考えて行動をしようとしたのは、例え料理の事であったとしても……本当に初めての事だった。

『最初の方』

 彼にとって、それは間違いなく彼女であった。



―――



 頃合いを見て湖から出た彼を待っていたのは食い荒らされた魚とそれを食べている最中の栗鼠であった。その栗鼠は、どこか爬虫類っぽい鱗の付いた長い尻尾を、ぐるり弧を描くように魚に向かわせ、尻尾に魚を食べさせていた。

 一瞬、どういう事か彼にも理解できなかった。

 だが、次の瞬間、ぱかっと栗鼠の尻尾の先端が開き、無数の細かい歯が魚の腹を噛み、モグモグと咀嚼するように尻尾全体が蠢いているのを見て、なるほど、栗鼠の尻尾は魚を食うのか……そういうこともあるか、と彼は納得した。そして、まだまだエルフの森には不思議な生物が一杯いるのだと知り、彼の機嫌が良くなった。

 そんな風にうんうんと機嫌良く納得している彼に気付き、びくりと驚いて逃げて行く、爬虫類っぽい尻尾持ち栗鼠の姿に、あれも美味しそうだ、次は捕まえようと心に誓いながら、残された数尾の魚と喰い散らかされた臓腑を掻き集めて袋に詰め、リオンが向かった先は当然の如く、パンドラの元だった。


「やぁ、ミケネコ君。相変わらず小さいですね。もっと食べた方が良いですよ?」


「私はミケネコじゃないっ!あと、小さいは余計だからっ!……ふぅ。以上、挨拶終わり。で、マリオン、今日はどこに行って来たの?」


 そんな適当で何気ない会話を交わす。もう既に何度も繰り返されたそのやり取りは、二人だけに通じる挨拶のようでもあった。

 そして彼はいつものように鉄格子に近づいて来たパンドラに松明を渡し、その場に腰を下ろす。


「すぐそこの湖に潜っていました。底に辿りつけなかったのが残念です。川とはやっぱり違いますねぇ」


「あぁ、オケアーノスね。なるほど、それで髪が濡れてるんだ。御猫様ヘアーが大なしね」


「オケアーノス?」


 問い返しながら、栗鼠に食われなかった数尾の魚……臓腑に塗れて真っ赤に染まった……をナイフで解体していく。瞬間、香る血の匂いにパンドラの眉根が歪む。だが、それも一瞬。もう慣れたとばかりにパンドラはリオンの手元に顔を向ける。

 顔を向け、目を向けた所で、傍から見れば、彼女が彼の手元を見ているようには見えない。彼女の目は殆ど使い物にならないという事を彼は聞いていた。だから、であろうか。料理の時は初日のように鉄格子に背凭れる事なく、彼は彼女に見やすいように、鉄格子を挟んで対面になるように座っていた。

 袋に残った喰い荒された臓腑を地面に出す。ぼたぼたと落ちてくる内臓。そこに合わせるように腹を裂いた魚の内臓を取り出し、積み重ねて行く。次いで骨と身に分けていき、骨と内臓だけをその場に残し、身は大き目の葉で包んで袋の中に仕舞った。


「ちょっと、そっちじゃないの?」


 不満気に鉄格子をガタガタと揺らすのも当然であろう。どうあがいても内臓と骨より身の方が美味しいに決まっているのだから。けれど、これも二人の中では既にお約束のようなものであった。


「こっちは燻製にでもしようかと」


 指先で牢の向うに見える碗を指差せば、パンドラが膝を地面に摺りながら這うようにしてそれを取って戻ってくる。その姿に良くそれで血がでないものだ、と彼は思う。だが、慣れているのか、それとも巧く傷がつかないように動いているのか。パンドラから火が産まれる事はなかった。

 面妖な生物だと思うと同時に、何度見ても器用なものだと思いながらパンドラから碗を受け取り、その中身、茶色の液体に黒い物体。そこに魚から取り出した内臓を切り、混ぜていく。


「うっ……くさい」


 元より生臭い汁がさらに魚の生血と内臓が混ざった事でえもいわれぬ吐き気を催す匂いになっていく。それに対し、パンドラが鉄格子を揺らしながら不満を伝えるも、リオンがその作業をやめることはなかった。もはや料理というよりも子供の遊びのようであった。とりあえず全部混ぜてしまえ、と言わんばかりであった。

 だが、彼は彼でしっかりと考えていた。入れ方、である。単純に混ぜてしまえば当然、まずいものとまずいものが混じり合うだけであり、そこに旨さが産まれる道理はない。当然である。故に、彼は考えていた。斜めに入れたら良いのではないか、と。あるいは逆転の発想として碗の中身を臓腑の方にかければ良いのではないか、と。だが、それは次の手だ。今はゆっくりと碗から溢れないように臓物を斜めに投げ込み、そして、勢い良く、彼は汁を啜る。


「……失敗ですねぇ」


「でしょうねっ!?」


 それもまた、当然であった。

 パンドラのしゃがれた甲高い声に眉を歪めながら、リオンは巧くいかないものだと頭を悩ませ、まだ大量に中身が残っている碗を一旦、床に置いた。

 トリタマゴの卵ように変なものが美味しいのは間違いないのだから、これはいけると思ったのに、などと珍妙な考えを頭に浮かべながら、腕を組みつつうーんうーんと頭を揺らす。何が悪かったのであろう、と。パンドラに言わせれば、何もかもが悪い、といった所であろう。『何度やっても無駄だって!』『普通分かるよね!?』『そろそろ諦めたら?』『マリオン、頭おかしいんじゃない!?』などとリオンを罵倒している辺り間違いなかった。

 致し方ない、とばかりに燻製にしようとしていた魚の身を取り出し、香草を巻き、松明の炎でそれを焼く。そして彼は、自分の実力はまだまだであると嘆息し、がっくりと頭を垂れる。


「そうそう。いつもみたいにそれでいいの!普通にすれば美味しいんだから!」


「……くっ」


 悔しそうであった。

 ただ、彼はここには大した道具もなく、精々切った焼いたぐらいしかできないことは全く考慮していなかった。それだけでどうにかできるほど料理は簡単なものではない。が、パンドラが彼の調理姿を見たがったが故に、食べてくれるエルフのいう事ぐらいは聞くべきであろう、そんな判断からか彼はパンドラに食べさせるものと言えば、この場で作った物だけだった。だから、必然、生でも食べられるものや焼くだけで作れるものが多くなっていった。そして、それゆえに彼の取れる行動は少なく、しかしそれでいて変なモノが美味しいという強迫観念染みた考えに取りつかれている所為で、こうして一切の発展もなく失敗ばかりを繰り返していた。下準備の大事さ、彼がその事に気付くにはまだ時間を要した。


「で、オケアーノスですか?ミケネコスキーみたいな感じで変な名前ですね」


 松明の炎では、火力は弱く、焼ける速度は遅い。じわり、じわりと魚の身が焼けていくのを横目に、リオンは改めてパンドラへと問いかけた。


「誰が三毛猫好きよ。……オケアーノスは世界の果てって意味ね」


 彼が作った拙い羽毛入り袋を身に纏い……誰かが来るときは敷物の下に隠しているらしい……暖かそうにしながらパンドラが自慢気に口にする。


「ミケネコ君は物知りですねぇ」


「ふふん」


 偉そうであった。


「ちっこいのに」


「エルフなのだから仕方ないでしょ!?私、年齢で言ったら貴方と同じぐらいよ!?」


「それはそれは……衝撃的な事実ですねぇ。私と同じぐらいですか……その小ささで」


「小さいは余計よ。エルフは長寿なせいで成長が遅いのよ。人間とは違う時間を生きているの。見た目で判断しちゃ駄目なの!」


「なるほど……ミケネコ君は物知りですねぇ」


「ふふん」


 安いエルフであった。


「じゃあ、物知りついでに。そのオケアーノスというのはやっぱりエルフの言葉なのですかね?」


「そうね。エルフ達の住んでいた大陸の言葉でしょうね」


「はぁ?タイリクですか。なんだかカリッとしていて美味しそうな名前ですね」


「やっぱり面白い人間よね。マリオンは」


「失礼な」


「説明するのも馬鹿らしくなってきたけど……この世界は島なのよ」


「はぁ?」


「そこのオケアーノスの端っこ辺りにもなかったっけ?小さな島」


「あぁ、ありましたねぇ。蛙の避難所みたいなのが。避難し過ぎて逆に鳥のえさ場になっているのが面白いですよね」


「それ、面白いの?……まぁいいけど。それのすっごくでっかいのが私達のいる場所。もっとも、エルフは他の大陸から移り住んできたのだけどね。……あぁ、だから、かな。エルフが自分達の大陸を越えて辿りついた先だったから、そんな名前を付けたのかもね」


 饒舌であった。

 リオンが食事を与えている所為であろう。咳き込む事もあまりなくなってきたし、しゃがれた声も以前より通るようになって来ていた。その治り方が、普通の人間よりも早いのはきっとエルフだからなのだろうと彼は思っていた。自分が風邪を引いた時、村の者達が風邪や怪我をした時はもっとゆっくり治っていたものだ。それを思えば、彼女は風邪ではないが、酷く治りが早かった。腕や足の傷にしてもそう。傷を付けられても二日もすれば傷痕は殆ど見えなくなっていた。それでもまだ頬がこけたままで、折れるような細さのままなのは、純粋に栄養が足りていない所為なのだろう。

 良くなってきた御蔭で更にぺちゃくちゃと良く回るようになった口が、彼女自身伝え聞いた事なので、と断りを入れた。

 曰く。

 神様が大陸を作り出した。

 神様の数は七。エルフ、人間、天使、悪魔、その他……それらを作り出した神様はそれぞれに大陸を作り出した。否。先にそれらを作り出したわけでもなければ、後に大陸が作られたのでもない。その二つは全くの同時であった。


「トリタマゴが先だと思うんですよ」


「私はタマゴドリだと思うけど……マリオン。とりあえず、黙って」


 そもそも神様と呼ばれる存在は元々形を持っていたものではない。形なき存在。故に何者にもなれる。そんな埒外の存在であった。

 初め、何もない空間に神様達は互いだけを認識して過ごしていた。仲の良さ、悪さ、人がそれぞれであるように神様もまた、それぞれであったらしい。そんな神様達が大陸を創ったのは、大陸と成ったのは、神様同士の競争であったらしいと彼女は語る。自分の創ったモノが素晴らしく、自分が他の神様よりも上であると示すために。それを聞いて酷く、人間染みた神様だな、とリオンは思った。まるで、自分の方が良い獲物を手に入れた云々と競っていた村人達のようだ、と。

 神の自己顕示と自己満足。

 そのために大陸は作られた。

 ありとあらゆるドラゴンの存在する大陸、煌びやかな宝石と金属で作られた大陸、気色の悪い化け物達が跋扈する大陸、歪な幾何形状の建造物が乱立した天使達の住まう大陸、生きた生物の存在しない悪魔達の住まう大陸、鬱蒼とした木々に埋もれたエルフの住まう大陸。

 そして、人間の住まう大陸。

 最後に大陸を作り出したのは人間の神様だったという。そして、唯一、自己顕示欲のなかったのもまた、人間を作り出した神様だったという。

 そして、自己顕示欲が無い故に、人間という神の言う事を一つも聞く事のない生物を産み出した。


「神に従順。それがエルフ。だから己の神様に従う事のない人間は嫌いなのね。エルフが人間をまともに生物として扱ってないのはそういう理由。でも、エルフの神様と人間の神様は仲が良かったみたいなのよね。だからこそ、ここにいるみたいだけど」


「はぁ?」


 話を聞きながら、相変わらず彼は魚を焼く事に集中していた。別段、彼にとって全く興味の湧かない話だったから、ではない。彼は基本的に暇な人間であり、興味がなくともそういう話を聞く事自体は嫌いではなかった。ただ、


「一気に言われても覚えていられませんねぇ」


 である。料理の事ならまだしも、彼はあまり興味のない事を覚えられるような人間ではなかった。故に、何度か同じ話を聞かせて欲しいと続けるつもりだった。だが、そんな彼に向って、鉄格子の隙間を通して手を伸ばし、不機嫌そうに眉根を寄せながら彼女は要求してきた。


「じゃあ、書いておくから書けるものと書くものを持って来て!」


「……書く?」


「…………人間ってそうなの?」


 この時代にはまだ人間に物を書くという習慣はなかった。彼の知らない村などでは文字とも呼べぬ記号を用いた物はあったのかもしれない。しかし、少なくとも彼の住んでいた村にはそういった文字という文化はなかった。精々、木の幹につけた傷痕で殺した獣の数を数えるぐらいのものだった。故に、彼は文字を知らないし、それを読むことも書く事もできない。

 そんな彼にこれ見よがしにため息をつきながら、しかし、一転、嬉しそうにパンドラは文字について彼に説明し、そして、最後に、未だげっそりとしてはいたが、綺麗な笑みを浮かべ、提案する。


「私が教えてあげる!」


「嫌ですよ、面倒くさい」


「ちょっとぉ!」


 お、そろそろ焼けたかなと魚を葉に巻いたままパンドラへ渡す。それを受け取らず、尚もパンドラは言葉を紡ぐ。そっちの方が今は大事なのだとばかりに。芳しい香りに彼女の腹の虫が自己主張していたが、その誘惑に負ける事もなく、視線をちらちらとそちらに誘導されながらも、彼女は口を開く。


「えっと。ほら、その、あれよ!マリオンの実験の結果をまとめるのにも使えるからさ!」


「あぁ、それは良いですね。是非、お願いします」


 安い男であった。


「ふふん」


 偉そうな女であった。


「……じゃあ、その書くものとやらを探してきますのでどんなのが良いか教えてくださいね」


「それとついでに松脂とか火種もお願い。見えないと流石に書けないし。……あぁ、ううん。火種はいいや」


「人遣いの荒いエルフですねぇ。あと、火種は持ってきますから。ミケネコ君だって痛いのは嫌でしょう?」


「はーい。了解でーす」


 年齢不相応、見た目はある意味相応に彼女は片手をあげ、手の平を開き、宣言するように。軽く。酷く軽くそんな風な仕草を見せていた。そんな彼女の姿に苦笑しながら、焼けた魚を渡す。


「しかし、カミサマというのもまた、美味しそうな響きですねぇ」


「ん?はふ……あつっ……そんなに食べたければ洞穴いけば?」


 呆れたような表情で告げるパンドラの言葉にリオンは再び疑問符を浮かべる。いや、その言葉の意味は彼も理解している。曲がりなりにも狩猟一族の出であり、洞穴内に隠れ住む獣を得る手伝いもしていた。だから、言葉の意味は知っているが、しかし、彼がここに来るまでに洞穴らしい場所というのは見た事は無かった。故の疑問。


「森から南東の辺りだったかな。小高い丘の所。近くに川もあるって話だったかな……本当かどうかは分からないけど……神様がいるらしいよ?」


「さっきの話の続きですか?」


「そそ。人間を作った神様。そして……天使を作った神様に殺されたエルフの神様の話」


「人間が嫌いなエルフ達の神様ですか」


「そそ。私は嫌いじゃないけどねー」


「ミケネコ君は変なエルフということですね」


「失礼よ」


「でもまぁ、人間の方は怖がっている感じみたいですし、お互い様ですね。私の父親みたいなのはまた特殊ですかね」


「父親?」


「はい。何やら村の近くで見たエルフの女の人を追っかけて行ったみたいで。村では駄目な大人の代表でしたねぇ」


「追っかけて……どうなったの?」


 何かを考えているような、何かを思い出しているかのようなそんな表情をするパンドラに、はて?と首を傾げながらリオンは、先程地面に置いた自分の料理の結果である碗を手に取り、中身を一気に口に入れる。

 瞬間、彼の口腔内に吐き気を催す汚物が拡がった。その感覚に顔を歪めながら、しかし、この間違いを忘れないようにと痛みすら覚える程の苦みを味わう。まだ泥を口に含んだ方がマシだと言わんばかりの気持ち悪さにリオンは吐き出しそうになる。だが、作ったのは自分であり、その責任は自分で取るべきである。そんな強い意思の元、一度は喉を通過し胃の中に入ったそれが戻ってくるのをどうにか抑え、一息吐く。


「無理しなきゃいいのに」


 与えられた魚を咀嚼しながらパンドラは呆れた表情を浮かべていた。だが、彼女自身こんな彼の姿を何度も見ている以上、それ以上の追及もなかった。ただ、幾分細められた瞳には、少なからず、非難を込めているようではあった。


「いえ。自分の未熟が招いた事です。……で、帰ってこなかったという事ぐらいしか分かりません。今の話を聞く限りは死んでいるんじゃないですか?」


「……悪い事聞いたかな」


「物心つく前の話ですし、別に何の気にもならないと言いますか。父親の存在は記憶にも無いので別に」


「子供の……頃?」


「えぇ。子供のころの話ですよ。生まれて間もない頃の話です。何か気になる事でもありましたかね?」


「ううん…………何でもない、かな?」


「はぁ?まぁなんでもないのなら結構です。で、また話がそれて来ましたね。ミケネコ君と話していると話が無軌道にあっちこっちにいって困りますねぇ。……それで、洞穴と神様がどうしたんです?」


「え?……あ。うん……」


 彼の揶揄に反応する事もなく、再び考えるような仕草をしながら、パンドラが口を開く。

 曰く。

 神様達の中で一番愚かな大陸を作り出したのが人間の神様だとされた。他の神様達が、こぞって人間の神様を責め立てたという。そんな愚かな世界を作るなんてお前は神の面汚しだと。いいや、もはや神などではない。神は絶対の存在である。神への反逆者と成り得るものを作るなんてまったくどうかしている。そんな世界を作った人間の神様はもはや神とは認めない。そうして人間の神様の創った大陸を、他の神様が壊そうと自分達の創った優秀な存在を人間の大陸に送り込んできた。

 『なんて醜悪なものを作るんだ。それならば私が美しく作り変えてやる』そう言った神がいた。

 作り変えられ天使となった人間がいた。

 『神の言う事を全く聞かない失敗作じゃないか。そんな失敗作は言う事を聞くように、その魂を作り直してやろう』そう言った神がいた。

 連れ去られ悪魔となった人間がいた。

『お前の作ったものは何て貧弱なんだ。ちょっと触っただけで壊れるじゃないか。そんな危なっかしいものは壊してしまえば良い。そんな馬鹿な者を作る奴もまとめて壊してしまえば良い』そう言った神がいた。

 人間は食い殺され、大陸は壊されている。

 それでも人間の神様は抗った。

 『人は決して弱くない』と。『人はとても美しい』と。『人は失敗作などではない』と。優しい神様は馬鹿にされながら、泣きながら周りの神様達に訴え続けた。

 だが、神様達は悪辣であった。

 人間の神様の味方をしたエルフの神様。仲の良かった神様。そのエルフの神様を先に壊した。

 壊し尽した。

 故に、エルフ達はこの大陸にいる。自らの神を壊され、もはや自らの神を奉る事も出来ず、しかし諦めきれずこんな社を立てるぐらいに、エルフは神を敬っていた。それはもはや妄信と呼べるほどに。そして、同時に人の神へ感謝していた。

 そんな風に語るパンドラに、リオンは不意に疑問が浮ぶ。だったらここは神無き祭壇の地下。見捨てられたようなこの場所にいる彼女は、何なのだろう?神の下で罪を償っているとかだろうか?そんな疑問を浮かべながら、しかし姦しいパンドラの声が止まる事はなく、彼がその疑問を口にする機会は得られなかった。


「人間の神様はがんばったよね。自分の作った人間が天使に変えられる姿を見た。自分の作った人間が死後に悪魔となったのを見た。ドラゴンに食い殺されたのを何度も見た。仲の良かったエルフの神様が壊された。けれど、それでも折れることなく人間のために抗った。強い神様だよ。とっても、とっても強い神様。エルフはそんな人間の神様が好き。でも、そんな神様の言う事を聞かなかった人間は嫌い……ちなみに私はどっちも好き」


「話が難しくて良く分かりませんけど……えっと。変えられる、ですか?」


「そう。天使に身体を作り変えられたり、天使そのものにされたり。エルフはまさにそう。作り返られて、爆発するようになった。人間で作り変えられた人は見た事ないけど……そう聞いてる。……あ、何よ。その胡散臭そうな顔。少なくとも天使はほんとにいるんだから」


「見た事があるんですか?」


「うん……とっても小さい頃に。今よりもっと小さい頃の記憶……まだ目がちゃんと見えていた頃に。こんな目になったのも確か、それからだったかな」


 遠くを見る。空無き天井を見上げる。そして、震え。羽毛の袋で身体を包んだとしても遮る事はできないそれは恐怖の表れ。けれど、しかし、それでも彼女は笑う。


「あ、でもあの変な形はマリオンが食べたそうな形だよ、絶対」


「それは是非食べてみたいですねぇ」


「じゃあ、天使が現れたらマリオンに退治してもらわないとね!」


「まぁ、食べられるならがんばりますよ。で、結局洞穴というのが何なんです?」


「その洞穴が神様のいる場所に繋がっているって話だよ。だから、神様食べたかったら洞穴潜ってくれば?神様を壊しにドラゴンも悪魔も天使もいるかもしれないし、もしかしたらそいつらを作った神様だって姿を変えて来ているかもしれないし、全部軒並み食べてくれば?」


「あぁなるほど。そういう事ですか」


「噂だけどね。基本的にエルフは森から出たがらないし、天使がいるなら尚更、そんな洞穴には近づきたくないんじゃないかな?」


 結果、彼の次の日からの行動は決まった。



―――



 翌日、パンドラのいってらっしゃ~いという寝ぼけた感じの軽い声と共に送り出され、夜明けと同時に彼は洞穴へと向かった。

 雨が降っていた。

 ぱらぱらと地面に落ちる水の作り出す音。それを聞きながら彼は道を行く。森を抜けてしまった手前、雨宿りをする場もない。だが、精々小雨といった所だった。故に、彼はあまり気にしていなかった。濡れる襤褸服に冷たさを覚えながら、しかし、しっかりと歩みを進める。

 そうして延々と歩いていけば、次第、雲が流れて行き、陽が差してくる。

 その陽に照らされるようにしてそこはあった。


「洞穴というより、割れ目じゃないんですかねこれ」


 パンドラが言った通り小高い丘にそれはあった。だが、それは上、というよりも丘自体を割るように斜めに存在した。丘の中腹辺りが開いていた。

 それは子供が一人通れるかどうかも分からないような、そんな狭い割れ目だった。洞穴というよりも穴だなと思いながら彼は試しにといつも使っている物ではなく、予備の松明を取り出し、火を付け、投げ入れる。その火が中の様子を彼に少し伝えてくれた。

 その穴を覗けば、奥は少し開けている様子が見えた。


「洞穴……といえば洞穴ですかね」


 松明の火が消えるまで、延々と彼は中の様子を観察していた。うぞうぞ、と動く蟲は見えるが、見えるのはそれだけだった。あとは凸凹とした岩肌ぐらいのものだった。

 そんな状況に彼は残念な気分に陥りながら、しかし、それでも延々と見ていたのは彼が暇だったから、であろう。夕方までまだ時間もあるし、今日は何を作ろうか、そんな事を考えながら、呆としながら覗いていたが故に、彼は気付いた。

 凸凹とした岩が動いたのだ。

 否、それは岩ではなかった。


「……尻尾?」


 割れ目の奥。狭い視界の中、松明が照らす中に確かにそれは見えた。

 そしてもっと良く見ようと更に割れ目の中に顔を入れ、耳を済ませれば彼の耳に僅かに、ほんの僅かに聞こえてくる。ぐるるると低い音で鳴る獣の声。何かを壊す破壊音、何かを咀嚼する音が、断末魔が……遠く、遠くに聞こえた。

 そして……その尻尾もまた、小さく鳴いていた。

 鱗が刺のように生えたその尻尾の先端、それが確かに鳴いていた。つい先程まではただの岩肌に見えていたもの。それが蛇のように舌を出したり、引込めたりしながら鳴いていた。だが、蛇のように見えるそれが、リオンにはしかし、何度見ても尻尾にしか見えなかった。冷静に考えれば蛇だろう。けれど、彼にはそれが尻尾としか思えなかった。

 それはいつか見た栗鼠の尻尾のようであった。ぱかっと開き魚を喰らい咀嚼していたあの尻尾を思い出しながら、彼は、今見えているこれもまた、何か巨大な生物の尻尾なのだと確信を持つ。

 しかも恐らく生えたばかりの、産まれたばかりの尻尾である、と。

 その尻尾は鳴きながら、餌を求めるように。腹を空かせた者が餌を見つけたかのように。火を放つ松明に向かってうぞ、うぞと身体を這わせて松明に近づいてきて、近づいて……火が消えた。


「雑食極まりないですね」


 ばり、ばりと松明の割れる音を聞きながら彼は思う。お腹が空いているのだろう、と。


「これはもう釣るしかありませんね。ミケネコ君もきっと喜ぶでしょうし」


 この尻尾を生やしている本体を釣る事はできないだろう。だが、この尻尾ならばなんとかなりそうだと彼は思い、決心する。

 洞穴に神様がいるかは分からない。だが、面白い生物がいるのは確かのようだった。こんな面白い生物なら美味しいに違いない。それに……

 割れ目から顔を出し、丘に寝そべり彼は笑った。


「流石のミケネコ君もこの尻尾の事は知らないでしょうねぇ」


 その日から彼のやることは二つに増えた。

 お腹を空かせて鉄格子を揺らしながら鳴いている子猫の餌付けと、そしてこの洞穴と呼ぶにもおこがましい割れ目の奥に見える、お腹を空かせて蠢きながら鳴いている尻尾を釣るために餌を作りはじめる事だった。



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