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自殺大陸  作者: ししゃもふれでりっく
閑章~パンとドラゴンがあっても、神様を食べればいいじゃない~
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第2話 神様の贈り物

2.



 彼―――ピグマリオンが生を受けたのは山間の寒村だった。

 狩猟を生業とする民族の村であり、村人は多い時で精々で十五を少し超えたぐらいであった。その時代であれば、それは村というよりも寧ろ、大家族という分類だったのかもしれない。彼ら、彼女らの間に全て血縁関係があった事を考えれば、やはり村と言うよりも家族であったのだろう。もっとも、だからこそ、彼の母は生きていられたといっても過言ではない。

 彼の母親は病弱だった。

 その村では男女の別なく狩りを行っていた。彼の母の身体は弱く、狩りを行えるような力はなかった。いや、普通の生活すら殆ど一人では行えていなかった。そのような者は村からすれば無駄な食い扶持でしかない。それを思えば、食い扶持を減らすために彼の母は間引かれておかしくはなかったであろう。だが、周囲が血縁であったという事もあり、彼の母は爪弾きにされる事なく生きて来られた。

 そして、当然の如く、その皺寄せは全て幼い彼へと向かった。

 物心付いた時には、彼は母一人子一人の生活をしていた。

 彼は、父親というものの存在を知らない。

 母親は彼に対して頑なに父親の事を語ろうとはしなかったし、周囲の者達もまた難しそうな表情をするばかりだった。彼は、幼心にそれを聞く事が、皆を困らせているのだろうと理解し、それを聞く事を止めた。興味がなかったわけではない。だが、彼には他にやる事があった。ゆえに、彼はいつしかそんな興味を持った事すら忘れていた。

 彼は、病床の母親を助ける為に朝から晩まで働いていた。

 そうせねば、食い扶持を得られなかった。母だけでも村にとっては重荷であったものがさらに狩りの出来ない子供が一人。幼くとも彼にはそれ相応の働きを求められた。病弱な母を助けるだけではなく、彼は母に代わり村中の者達のために掃除、炊事、洗濯や雑用をこなしていた。それらは主に狩りの苦手な女達の仕事だった。年上の女達に囲まれながら、彼は毎日それらをこなしていた。彼が掃除、炊事、洗濯が得意になったのもそれ故にであった。

 けれど、そこにも彼の安らぎはなかった。この村で狩りが出来ないとは弱い存在である事の証明であり、彼女らは、そんな彼女達よりも更に弱い存在である彼の母と彼自身への嫌みを彼に告げる事で、その鬱憤を晴らしていたのだから。それだけに留まらず、彼女らに代わり、彼が仕事をさせられる事もあった。

 そんな生活を彼はずっと続けていた。

 そんな彼の母が亡くなったのは彼が十の頃であった。

 当時、葬式という文化も産まれておらず、人が死んだ時には穴を掘って遺骸を埋めるだけだった。それは、狩って来た動物の、解体された後に出る残り滓と同じ扱いだった。

 穴を空け、そこに遺骸を埋め、青白くなった己が母に土を掛けている時に、漸く、彼は死というものを理解した。それまでに動物や魚などを食べる為に殺して来てはいたが、それは生きる為の行為であり、そこに彼は死というものを感じてはいなかった。それはある意味で、そんな暇が彼になかったということでもあった。故に、彼が真正面から何かの死に触れたのはそれが初めてであった。

 だが、彼はそこに悲しみを覚えてはいなかった。幼い頃から働き詰めていた彼には、それを感じられるほどの情動を育む事が出来なかったが故に。死んだ、動かなくなった、もう二度と語りかけられる事も、語りかける事もなくなった。その事自体は理解していたが、しかし、その事が彼にとってどういう意味を持つか、彼は理解していなかった。人が死ねば動物の残り滓と同じ扱いを受けるのか、そんな風に彼は理解していたのかもしれない。

 そうして彼は一人になった。

 一人になっても彼のすることは変わらない。

 いや、年齢を重ねるごとに狩りも行えるようになってきていた。そのため、彼のすることは増えたと言って良い。使い勝手の良い雑用係を手放したくないという村の総意でもあったのだろう。だが、彼はそれに否と言う事もなく、淡々とそれらをこなしていた。そういうものなのだろう、と。

 そんな彼に興味を持ったのが、近所に住んでいた子供だった。

 歳は彼よりも二つほど下の、男の子だった。年下ではあったものの彼とそう身長は変わらず、彼よりも体格は良かった。もう狩りにも出ているらしい、凄い獲物を取って来たらしいと彼は洗濯の際に女集からそれを聞いていた。


「マリオンは、どうして女みたいな事をしているんだい?」


「どうして、と言われても……昔からやっているから」


「マリオン。男ならやっぱり、でっかい獣を捕えてこないといけないぞ!」


 見れば、男の子の腕には獣に付けられた傷跡があった。そこに視線を向ける彼に、男の子は、気付いてくれた事が嬉しかったのか笑いながら、自慢げに腕を見せつけてくる。

 それが彼は楽しかった。

 こうして彼と話をしてくれる人は他にはいなかった。彼にとって初めての友人といえば、その男の子の事だった。彼が村人達の洗濯を一手に受け、川で血や汚れを落とし、戻って来て物干し竿に洗濯物を干している時、いつも同じような時間に男の子は彼の下に訪れる。訪れて、彼と男の子は語り合っていた。それがいつのまにか彼の日課になっていた。それを楽しいと彼は思っていた。いつしか、自分には到底狩る事のできない大きい獣を狩る、彼の武勇伝を聞くのが彼の楽しみになっていた。

 とても楽しい日々だった。

 そうして一年、二年過ぎたある日のことだった。

 彼には常日頃から思っていた事があった。マリオン、マリオンと女の子のように呼ばれるのが、少し嫌だと。今日こそはしっかりと呼んで貰うのだと心に決め、いつものように洗濯をし終え、村に戻って来た時だった。

 洗濯物を干している時に、男の子……少年の父親が彼の前に現れ、彼に、少年が死んだ事を伝えた。


「……昨日から、狩りに行ったきりで帰らなかったんだ。それで今日、別の奴があいつの食い散らかされた死体を見つけた」


 彼の父親は、酷く冷静であったように彼には思えた。

 だが、実際にそんなことはなく、握りしめられた拳、震える声、ぎしりと鳴る歯、血走った瞳を見れば、父親が息子を想い嘆いているのが良く分かる。感情に流されてしまわぬように抑えているに過ぎなかった。だが、彼には、それが理解できていなかった。そうは思えなかったから、ではない。

 少年も母と同じく、動物の残り滓と同じように埋められるのだ。もう、彼の楽しい話を聞くことはできないのだ。それは……


「……それは残念ですね」


 瞬間、彼は殴られ、血を吐いた。


「お前、何がおかしいんだ!」


 頬から伝わる痛みに、折れた歯の痛みに、何かを間違えたのだろうと彼は理解した。だが、何を間違えたのかが彼には理解できなかった。残念と思う事に何の間違いがあるのだろうか。

 彼が村から排除された理由はいくつかある。だが、根本的な理由はこれであった。

 後に人間の手によって作られた蟲毒な白い少女とは違い、人に育てられ人に教えられてはいたものの道具のように使われ続けられた事によって、彼もまた、普通の人間からは外れていた。もっとも、だからこそ、彼は、彼女の事を理解した。彼女には幽霊に涙を流す事はできないであろう、と。同じ様に普通の人間からズレている彼自身にも、そんな事は出来ないのだから、と。

 人として生きる上で大事な物、それを得られずに彼は育った。

 彼には怒り、という感情がない。

 彼には悲しい、という感情がない。

 怒るという事も、悲しむという事も彼の中にはなかった。

 痛いから、間違えたのだろう。そう判断した彼は間違えないでおこうと努力をする。だが、何が間違いなのかを理解していない以上、周囲とのずれが酷くなるだけであった。

 その内、彼は本当の意味で一人になった。

 それを彼は苦にしていなかった。一人であろうとも彼には全て行えた。一人でも生きられる術を彼は持っていた。そして、だからこそ尚更に、疎外されていく。悪循環であった。

 少年が死んで一年、二年経った頃であろうか。彼が十四の頃だった。

 彼は、住んでいた場所を追いやられ、村の端に小さな藁葺屋根の家を作り、その中で生活していた。家と呼ぶにも粗末であったが、彼にとってはそれもまた、苦ではなかった。

 ある日、珍しくその彼の住まいに来客があった。数日前に捕えた小動物を燻製にしようとしている最中のことだった。呼ばれ、手を止めて家の外に出れば女がいた。

 それは、彼も何度も見た事のある、幾つか年上の女だった。

 背は高く、がっしりとした筋肉に覆われた四肢はその女自身が歴戦の狩人であることを示していた。手入れをする暇もない程に狩りに行っているのだろう、濃い色の髪はくすんでいた。死んだ少年と同じく、頬にある獣の爪跡は彼女にとっての勲章でもあるのだろう。それに引き換え、彼は一見ひ弱そうにも見えた。彼も日々の狩りによって鍛え上げられており、見た目ほど虚弱ではないが、その女ほどではなかった。


「義理もないけど、挨拶ぐらいはと思ったのさ。あんたみたいなのと子を作れと言われなくて良かったよ。やっぱり父親が駄目だと駄目な奴が産まれるってことだね」


 閉鎖された小さな村ゆえに、恋や愛という物はなく、歳が近い者同士が夫婦にされ、淡々と子が作られていた。それが村の当たり前であり、それに異を唱える者は一人としていなかった。故に、何もなければ彼はこの女性と夫婦にされていた。しかし、彼が村から追いやられた結果、女は別のモノと夫婦に成る事が決まったという事であった。女の語り口から、彼はそれを知った。その事、自体、彼はどうとも思わなかった。


「父親……私の父親の事、何か知っているんですか?」


 彼が気に掛ったのはそちらであった。彼にとって、父親とは未知の存在であった。未知の物に興味を引かれるのは人の性であろう。いつか抱いた興味がまた彼の中で沸いていた。もっとも、精々、ちょっと気になるな程度の物でしかない。彼にとって父親の事など、今更でしかなかった。


「昔は気を遣って誰も言ってなかったみたいだけど……エルフの色気に惑わされてエルフの女を追って村を捨てたって話だ。嫁も子供も置いてさ」


 忌々しそうに女が語る。語る内容も、そして彼の喋り方にも女は苛立ちを覚えていた様子だった。何故、それに苛立たれているのかも彼は理解できなかった。それも当然。彼の喋り方が、狩りの苦手な女集のように柔らかい喋り方だったから、女は気に食わなかった、などという事、彼に分かるわけもない。

 もっとも、彼は、そんな忌々しそうな女の表情よりも、女の語る言葉に興味を持っていた。


「エルフ……?」


 それは、何だろう?と彼は思った。

 彼にとってそれは初めて聞いた言葉だった。彼は、父親よりも寧ろ、そちらの方に興味を惹かれた。


「亜人だよ。あんたには分からないかもしれないけどさ。人間みたいな恰好して、耳が長いのが特徴だってね。あとは、血が……爆発するのさ。それで殺された奴もいるって話だよ。怖い生き物だよ。人間じゃ敵わない存在さ。ここから西の方、かなり離れた所にある森とか湖を住処にしているらしいが、もしこの付近で見つけたら、逃げるのが良いね。でも、見目が良いって話だから、あんたの親みたいに惑わされる奴もいる。…………長話をしちまったね。とにかくそういう事だからさ、私を恨むなよ?」


 そんな事を誰に聞いたのだろう?と彼は思った。そして、村の物知りにでも聞いたのだろうと納得した。村の外を彼は知らなかったが故に。その頃の彼にとっての世界とは、村の中だけだったが故に。


「……はぁ、ありがとうございます」


 義理硬い女の人だな、と彼は思った。それは彼女自身の心のつかえを解消するためだけの行為だったのかもしれない。しかし、彼にとって彼女の言葉はとてもありがたいものだった。


「……」


 その日、彼は一つの決心をし、村を出た。

 そして、彼がその村に戻ることは二度となかった。



―――



 彼が何を思って旅立ったのか。

 それを彼自身、あまり理解していなかった。

 ただ漠然と、エルフという者がどういう存在なのか?それが気になったに過ぎない。もっともそれも聞いた事のない存在だったから見てみたいという程度であり、特にそれ以上の深い理由もない。多少、彼の興味が増した要因があるとすれば、やはり彼の父であろう。彼の父がエルフというものに惹かれ、自分達を捨てて行ったのであれば、それはきっと凄い物に違いないから、ちょっと見てみたい。

 それだけだった。

 それゆえに、彼の道程は酷くのんびりとしたものだった。

 思うがままに寄り道をし、思うがままに世界を歩く。そうして彼は世界の広さを知って行った。驚きと戸惑いの連続であった。

 そういう意味で、彼は旅を楽しんでいたといって良い。彼自身、いつのまにかそれ自体が目的でもあったかのように思っていたに違いなかった。

 半年程を掛けて、彼がエルフの領域に辿り着いた時、そういえば、と首を傾げたのもその所為であろう。


「あぁ、エルフ……そうでした」


 かりかり、と小さい猫の耳のような髪型をした髪を掻く。どういうわけか彼の髪は、そういう変な形にまとまっていた。彼自身特に気にもしていなかったが、見る者が見れば、耳が四つある亜人に思えたかもしれない。だが、幸いにしてそこに人もいなければ、エルフもいなかった。


「ここが、エルフとやらの住処ですか。凄い、ですねぇ」


 眼前に広がる鬱蒼とした森、そこから香る木々の、露の香り。彼はそれを深く吸い込み、長く吐き出し、堪能する。一度、二度、三度。さらに数度繰り返す。


「山とはまた違った感じですね」


 感じた想いをそのまま口に出し、周囲を見渡していた。

 彼はつい先日まで山の中に居た。動物を狩り、植物を採り、それらを食べながら山の中を歩いていた。その山で人を襲うような動物に出会う事はなく、ゆっくりふらふらとあちらを行き、ふらふらとこちらを行き。その繰り返しだった。

 根なし草、という表現がその頃の彼には似合っていたかもしれない。

 ふらふらと歩き、森の中を行く。もはや、村で女に聞いたエルフは危険だという言葉は忘れてしまったかのように、森の中を悠々自適に歩いていた。

 チチッとなる鳥の声を聞き、ガサガサと鳴いて現れたのは小さな栗鼠。にょろにょろと出てくるのは蛇。その最後の蛇を捕まえ、鉈で身体を割り、その血で喉を潤す。彼は経験的に、動物達の、特に爬虫類の血を飲み、肉を喰う事で生きて行く上での栄養は事足りると思っていた。ただ、


「……美味しくないですねぇ」


 それが彼にとって一番の問題であった。

 なまじ炊事が出来るものだから、味が分かる。物心付く前からそれを手伝っていたのだ。それが彼を形作ってもおかしくはない。彼の表情から滅多に笑みが消えないように、それもまた、彼を形作る一つの要素だった。ただ、表情から笑みが消えないのは人がいなければ特に問題はないが、味が分かる人間であるという事は誰がいなくても問題だった。それが今の彼にとって一番深刻な問題だったといって良い。


「色々、試してみましょうか」


 食事とは作る物で、料理とは食べ物を掛けあわせる事。掛け合わせによって色々な味ができる。であれば、色々試してみれば良い。そういう安直な理由により、彼は『料理』というものに興味を持った。

 あれは食べられるのだろうか?これは食べられるのだろうか?それはどうだろう?これは?この生物は?この植物は?このなまものは?

 それが発端であった。

 そして、その方向性を決定的にさせたモノと彼は出会った。


「不思議な生き物もいたものです」


 それは、翼の生えた卵だった。

 短く細い足と翼、それだけを見ると鳥であった。雄々しいとさえいるほどの勇壮な、鷹の如き翼。しかして、そのまるまるとした愛嬌のある胴体はつやつやした白い卵。鷹でありながら鷹でなし。決してその者は卵に足が生えただけのタマゴドリなどではない。世界を我が物とせんと産まれた生命体。卵が先か鶏が先か、その決戦に終止符を打つべく神が遣わせた使者。彼の者の名はトリタマゴ。今こそが有象無象共への審判の時、いざ、決戦の場へ、と今まさに、力強く羽ばたき、飛び立とうとしていたに違いない。

 タタタと短い足で力強く助走をつけていた事を思えば、まさにそうなのであろう。

 だが、


「面妖な卵ですね」


 ぐしゃり、としゃがむ彼の手の中で潰れた。

 トリタマゴの短い生涯はその瞬間、断末魔の叫びすらなく、潰えた。

 容赦も何もなかった。彼の手の中でトリタマゴだったものは黄身を垂らし、びくんびくんと翼が痙攣していた。

 零れる黄身に、慌てるように彼は、トリタマゴの黄身を口の中へと送り込み、その生命の息吹を、つい今しがたまで生きていた生物の暖かさを感じていた。


「……変な生物というのは存外、美味しいのですね」


 決定打であった。

 素材がこれだけ美味しいのであれば、調理すれば万倍も美味しくなるに違いない。彼はそう思った。そして、その翼もまた美味しいに違いないと頭陀袋に仕舞いこみ、研究を重ねようと心に誓っていた。


「さて……」


 トリタマゴの尊い犠牲を胸に、彼は森を散策する。もっと美味しそうな物は無いのだろうか?と。もっと変な物はないのだろうか?と。彼を狂わせたのは間違いなく、この森だった。

 人の大陸へと移り住んだエルフが住むこの森。異なる神により産み出され、別の神様に身体を弄られた生物が生き死にする場所。自らの神が殺され、自らの身体を壊された者達が狂わないわけがなかった。ここは、そんな場所だった。住む者達が狂っているのだ。森自体が狂っていても何もおかしくはない。惑わされてもなんらおかしくはない。


「水ですね」


 時折、視界に映る地面が抉られたような、何かが爆発した跡を不思議に思いながらも、思うがままに惑わされ、思うがままに歩き進めた彼が辿りついたのは湖だった。


「広いですね」


 ゲコゲコと鳴く蛙の声に、彼は僅か眉を歪め、しかし、それもいつしか慣れ、湖を前に座った。

 世界はとても広いのだな、と彼は思った。

 こんなにも広い水溜りがあるのだから、と。

 時折水面に波紋を作り上げる魚を眺めながら、彼はしばらく時を忘れて湖を見つめていた。


「世界の果てですかね」


 村しか知らなかった彼にとって、川しか知らぬ彼にとって、そこは広大で雄大で、世界の、大陸の果てのように思えていた。

 そんな世界を見ていた彼の視界に、木で出来た建物が映る。


「……あれがエルフとやらの家でしょうか?」


 その建物の前には、遠目に見える紅色に染まる木の囲い。

 遠くから見るからこそ、その全貌が見える。だが、おそらく近くへ行けば見上げなければ見えないのだろうな、と彼は思い、思い立てばそこへと近づいていく。

 思うがままに、彼は歩いて行く。

 湖を右手に、ゆっくりと気ままに歩いて行く。何の気負いもなく。ただ、導かれるようにその紅色の囲いに向かって、その木で出来た建物に向かって。

 湖の湖畔に立つ建物。

 そこにたどり着くまでに彼の頭陀袋の中には蛙や、草花、あるいは木の枝、花粉、泥などが入れられていた。その事にも彼は満足し、囲いを見上げ、ほぅとため息を吐く。


「綺麗な、色ですね」


 周囲の木々よりも尚高い囲いは、何で塗られたのか分からない程に艶やかで、鮮明であった。何の塗料を塗ればこれ程綺麗になるのだろうか?削れば分かるだろうか?そう思うものの、しかし、彼にはこれを傷つける気はなかった。勿体ない、と感じた。


「……これを美味しく食べられるようになると良いですね」


 いつか、この囲いの紅色の塗料を美味しく食べたい。という彼にしか分からない理由により、囲いは助かったようであった。

 囲いに張り付いていた露が流れるように地面へと零れ落ちた。

 その様子を見ながら、その囲いの真下を抜け、彼は建物へと近づいていく。


「こういう風に作る家というのも良いですね」


 その建物は、彼が、今まで見た事のない建築様式であった。それも当然。人間が作ったわけではないのだから。大陸に移り住んだエルフが作った物であったのだから。

 彼がそれを知り得るわけがなかった。

 だが、未知に恐れることなく、彼は建物の正面に向かう。

 建物の周りには広葉樹だけではなく、針葉樹、綺麗な花が入り乱れていた。誰かの手が入っているような精緻さだった。穏やかに吹く風の音、それに揺られ、湖には波が作られる。葉も揺れ、摺れ合って音を奏でている。蛙の声だけが、酷く違和を与えるような、そんな場所であった。

 建物の入り口、小さな階段を昇り、その正面にある扉に手を掛ければ、するりと開く。その事に疑問に思う事もなく、彼は中へと入って行く。

 ぎし、ぎしと鳴る足音に驚きと共に楽しさを覚え、幾度も、幾度も床を鳴らし、部屋の中の、その中心にある物に彼は気付いた。


「……なんですかね、これ」


 そこには木で出来た祭壇が置かれていた。

 祭るもののない祭壇だった。

 まるで、そう。もう姿形のない死んだ神様を祭る祭壇であった。

 そんな祭壇に対して彼が思うことは、凄く良い素材が使われているという程度のものだった。素人目でも時間も労力もかけて作られたものである事が彼にでも分かった。それだけ大事なものなのだろうと彼には思えた。

 それは、エルフにとっての悲しみの現れでもあったのだろう。

 死んでしまったとしても、それでも自分達の神様を大事にしたいと願った、彼らの感情のはけ口でもあったのだろう。


「……」


 だが、今の彼にそれが分かるわけもない。

 彼に分かる事といえば、その祭壇の前に地下へと続く階段があることぐらいだった。そちらは彼にとってもなじみの深い石で出来たものだった。

 頭陀袋の中から松明を取り出し、火打石にて火を付ける。旅をしていればそういう行為にも慣れる。木の建物の中で火を付けるという愚かな行為をしながら、彼は好奇心に溢れていた。こんなおかしなもののおかしな地下にはおかしな食材があるかもしれない、と。

 彼の人生は概ね、トリタマゴによっておかしくなったといっても過言ではなかった。

 火をつけ終わり、再び頭陀袋を抱えて、階段を下りて行く。

 とつ、とつ、とつと音を立てて降りながらも、耳をすませる。


「……寒いですね」


 地下だからであろう。彼は肌寒そうに松明で暖気を取りながら、先へと進む。

 少し行けば、ひらけた場所が現れた。そこからさらに奥へ進む道を見つけ、進み、進んでいれば、彼の持つ松明に気付いたのであろうか。彼の耳に、はっと息を飲む音と、声が聞こえた。


「今日は……来ないはず……では」


 それは、か細い声だった。とても、とても小さな声だった。弱々しくも震えるような、事実、寒さに凍えているかのような声だった。


「と、言われましても今日が初めてですし」


 そんな声に、彼は飄々と声を掛ける。声を掛けたと同時に、彼はそういえば久しぶりに誰かの言葉を聞いたという事に気付いた。


「…………誰ですか」


「ピグマリオン、母にはそう呼ばれておりました」


 歩きながら、その声を主の居る場所へと、彼は近づいていく。近づいていき、彼は、鉄の格子に囲まれた、少女を見つけた。


「もしかして……」


「……もしかして見えないのでしょうか?」


 その少女の瞳は、彼を見ていなかった。

 彼の方に向き、彼の方に話かけているにも関わらず、彼を見ているようではなかった。その違和に、彼はそう問うた。だが、その少女にとってはそんな瑣末事はどうでも良かったのであろう。慌てるように鉄格子の所まで這って来て、彼を間近で見つめる。だが、それもまた、焦点がずれ、彼を見ているようには見えなかった。


「……少しは見えます。いえ……そうではなくて……ですね。あなた…………」


「はい?」


「その耳……人、ですか?」


「人間、ですね。エルフとやらではありませんね……貴女はエルフさんですか?」


 少女の耳は、長かった。

 それを見て、彼は、村の女が言っていた事を思い出した。耳が長く、見目が良い、と。確かに、こういう感じの女は村にはいなかったな、と彼は思う。狩りの苦手な女集だとてこんな感じではなかった。

 襤褸を着せられたその身体は、線は細い、いや、もはや細い、を通り越して抜け殻のようであった。頬は削げ落ち、女らしい肉感も全く見られない。這った所為で擦り剥いた足など骨と皮だけのようにさえ見えた。だが、それでも、確かにその見目の良さだけは消せなかった。そして……所々が白く色の抜けた、黒に近い色をした髪。曖昧な、とても曖昧な髪の色だった。それに彼は目を惹かれた。珍しい色もあるものだ、と。


「人がどうしてここに……?」


「そこから降りて来ましたけど」


「そういう……事ではっ!」


 ない、と言おうとして少女は咳き込んだ。その姿に彼は、母を思い出した。そして、そういえば、母の最期もこのような抜け殻みたいであったな、とも。


「ところで、お名前は?」


「……名前、ですか?」


「はい。名前、です。私は言いましたので、今度は貴女の番かな、と」


「……変な人間ですね」


「良く分かりませんが、変らしいですよ?」


「それがまた、変ですね」


「失礼な」


「面白くも……ありますね」


 そう言って、少女はくすくすと笑う。


「私の名は……パンドラ」


 それが二人の出会い。

 彼、ピグマリオンと後に『最初の方』と呼ばれた混血のエルフ、決して開けてはならぬ、災厄と禍を司る少女パンドラとの出会いだった。



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