第1話 自殺者
この物語はヒロイックファンタジー成分10%+悪ふざけ20%+うざいドラゴン7%+残酷度27%+百合成分0%+洞穴成分15%+男女愛(?)16%でできております。
1.
塔があった。
そこは、七つの階層を成し、その一つ一つに拷問器具が設置された塔だった。
トラヴァント帝国建国の時より存在し、300年の昔より利用されてきた場所であった。犯罪を侵した者、帝国に仇成す者、あるいは他国の間諜を尋問し、拷問を行う場所であった。
最上階より順次、器具の危険度はあがり、最下層、否。地下階層に至れば、とある少女の絵画を見せつけられ、精神的苦痛を与えた後に斬首される。
慈悲があるといえるのは上層二層ぐらいのものだった。
上層第一層は指を潰される程度。いや、人によってはそれすらも耐えられず、その段階で自白に至る。特に何の思想もなく犯罪を侵した者はその傾向が強い、とそれを設置した者は考えていた。その下、第二階層は水による責め苦。四肢を拘束された状態で顔を水の中に入れられ、頭を押さえつけられるだけであった。肉体の損傷を目的とはしておらず、苦しみを与える事に終始する。この階層までに自白してしまえば、その後罪を償った後にも真っ当な生活が可能といえる。
ゆえに、慈悲があるとそれらを設置したものは考えた。事実、慈悲という名の餌をぶら下げられた結果、その餌に飛び付いた者は多い。その下の階層に至れば決して消えない犯罪者の烙印がその身に刻まれるのだから尚更であった。仮にその後に生きて出られたとしても惨めな物だ。
ゆえに、慈悲は無い。
第三階層では火で炙られた鉄の塊を肌に宛がわれる。結果、必然的に犯罪者の烙印が押される事となる。その下は串刺し、次いで精神的苦痛。それより下の階層は主に身体を壊すためだけに用いられる。それでも耐えた者が、地下階へと連れて行かれる事になる。もっとも、より正確にいえば、層を飛ばし、一気に直接処刑場に送られる者もおり、地下階の利用頻度は非常に高い。例えば、事業に失敗し、人身売買を行っていたとある領主は第一階層から直接、地下階に送り込まれ、斬首された。故に、順番に階層を下ろされると言う事は、それだけ帝国にとって重要な情報を、或いは秘密を持つ者に限られると言って良いだろう。もちろん、途中階層で死に至るような下手を打つような優しさは、この塔にはない。それだけは徹底されていた。
その男は、上層から数えて第五階層、下層から数えて第三階層に居た。
「ここは、優しいですねぇ」
その男は牢屋に囚われていた。
逃げられぬように四肢には手錠を、足には枷を嵌められ、さらにはその先に金属製の鎖が結ばれていた。その鎖は塔の壁に結び付けられ、彼に自由はなかった。指先は潰され、露出されたその背には熱された金属による跡、二の腕には穴を開けられた跡が、そんな傷跡が所々に見えた。水責めによる跡は見えないものの、確かに彼は一階層ずつ下ろされていた。
彼は、痛痒を感じぬわけではない。
だが、その瞳は健全で、表情もどこか笑っているようにさえ見えた。一見すれば既に気が触れたのではと思われるだろう。だが、彼の精神は至って平静であった。
そんな彼の目の前には、桶が一つ置かれていた。天井よりぽつ、ぽつと一滴ずつ一定間隔でしずくが落ち、その桶に水が溜まって行く。
無音の世界に水が音を作り出していた。
既に三日。
彼はそれを聞いている。
延々と続くその音に、精神を崩壊させられる者がいる。過去幾度となくそれにより心を壊した者達がいる。しかし、これにも彼は何の痛痒も感じていないようだった。寧ろ、その装置に呆れているかのようでもあった。それが、『優しい』という呟きの意味であった。
「もう少し、面白いのを期待していたのですがえらく古典的ですね。上層の方がまだ拷問としての質は良かったと思いますけど」
これならばまだ、と彼は潰された指先に目を向ける。そして、見せつけるように、その潰れた指先を問うた相手へと向ける。
じゃらり、と重い金属音と共に鎖が揺れる。
彼が声を掛ける先、牢の向う側には一人の少女がいた。
この場に似合わぬ豪奢な服を身に纏う金髪の少女は、しかし彼の問い掛けに答える事なく、ただ黙りこんでいた。その表情には一切の感情は浮かんでいない。
暫く無言の時間が続き、男が苦笑したのと同時に、少女が漸く口を開いた。
「肉体的な責苦は意味がないと判断しただけに過ぎない。この階層がそれらよりも下層にあるという事を己が身で知ると良い。既に三日。そこまで耐えた事は褒めてやろう。だが、十日、二十日、三十、四十、年と続けば例えお主でも耐えきれないであろう?」
「さて、どうでしょうかね?」
どうでも良いと言わんばかりの適当な相槌に少女の眉間が僅かに歪む。だが、それも一瞬。
「それでお主の心が壊れようと、謝罪する気は無い。例え未来永劫怨まれようとも……リオン、お主には洗いざらい喋って貰う」
そして少女は変わらず淡々と、彼……リオンに向かう。
しかし、そんな少女に向かって、リオンは突然、笑い出した。
何の脈絡もない突然の事に流石の少女の表情も驚きを隠せないでいた。
囚われたまま、涙さえ流しそうな勢いで声をあげてリオンは笑う。
面白い、と。
常に笑みを浮かべているような彼は、その実、心から笑う事は殆どない。しかし、彼は確かに今、少女の言葉に、声をあげて笑っていた。
止まることのない場違いなその笑いに、気分を害したのか少女の表情が、歪む。
普通の人がその少女の姿を見れば、少女がなまじ整った顔をしている所為で、酷く恐ろしく見えるだろう。だが、彼からすれば、彼の義娘の方が整っており、さらに生物として怖い存在でもあった。故に、彼はそんな少女の顔など気にもせず、笑い続けていた。
それが収まったのは、苛立ちを覚えた少女が鉄で出来た牢に蹴りを入れたからだった。
がし、という鈍い音と共に笑いは止まった。
普段の少女であれば、きっとそんなことはしないのだろうな、と彼は、少し引き攣った顔を見せる少女を見ながら、思う。
「すみません、すみません。でも、ですね」
一旦、間を置くようにリオンは苦笑する。
「そういう格好良い台詞は言わないでくれませんか。未来永劫って思いの他、長いと思いますよ?」
言い様、リオンの表情が消えた。
そこに、怒りはない。哀もない。当然、喜、楽もない。
だが、それもまた一瞬の出来事だった。
いつものようにリオンは軽い笑みを浮かべた表情を見せる。対照的に戸惑ったのは、寧ろ少女の方であった。
「それに、最初から言っているじゃありませんか。私は怨みませんし、あのような行動をすれば、この状況になるのも理解していますし、当然だと思っています。だから素直に受け入れているじゃないですか。この状況を。……この物分かりの良さが逆に駄目なのですかね?それは、それで難しいですね」
唯一自由に動かせる首を傾げながら、彼は周囲を見渡す。
しかし、そこに誰がいるわけでもなく、誰が彼を助けてくれるわけでもなかった。
「それで、他に何が聞きたいのです?聞かれた事は全て答えたと思うのですが。問いもなしに全てを話せというのは無茶な話でしょう?会話というのは、話題というのは相互のやり取りによって産まれるものでしょう?」
それは、拷問を受ける立場の人間の態度ではなかった。
そんな自分の態度を思えば、この少女はだからこそ自分を訝しげに思いその発言を戯言か何かのように思うのだろうな、と彼は思う。そして、仮に自分がこんな態度の囚人を相手にさせられれば、きっと同じことを思うだろうとも思っていた。
大変だなぁ、と。他人事のようにリオンは少女を見ていた。
だが、伝えられる事を伝えた以上、嘘偽りなく答えた以上、判断するのはこの少女自身であり、リオンからすれば、それ以上何のしようもない。もっとも例え彼自身がどうこう言った所で、今の状況になっている事実を思えば、何の意味もない。そんな立場に彼はなかった。
ただ、問い掛けられるのを待つ、それが今の彼にできる唯一の事だった。
「……お主は一体、何を隠しておるのだ」
それは、もう幾度となく問い掛けられた言葉だった。
「何も?……聞かれた事には全部答えていると思いますけど?」
そして、幾度となくリオンはそう答えていた。
「……っ」
「疑心は己が心に産まれるものですよ、アルピナちゃん?」
彼女の立場を考えればそれも致し方ない。
それも彼は理解していたし、知っていた。
帝国最後の皇帝……否、彼女の姉、ゲルトルード=アレキサンドリア=トラヴァントが彼の手によって助かっている以上、アルピナ=セラフィナイト=トラヴァントは皇帝代理。とはいえ現状どちらであってもその立場に違いはないが……その立場上、彼女は国に仇なすであろう情報を知る者を、国に多大なる益をなすであろう情報を持つ者を自由にさせておくわけにはいかない。順風満帆で能天気な国であればそういう事にもならなかったかもしれない。だが、現実は『こう』なのだ。それゆえに自分は捕えられ拷問を受けているのだと彼は十全に理解している。寧ろ、彼女よりも理解しているといっても良かった。
仮に、そう仮に、この世界が物語で、仮に彼女がただの貴族の娘であれば、彼女がただの村娘であれば、彼女を助ける人間として彼が活躍する物語というのもあったかもしれない。だが、現実は、彼にとっての現実はそんなにも優しい物ではなかった。それはきっと昔からそうなのだと、彼は苦笑する。
彼には一つの約束があった。
それを彼は、絶対に守らねばならぬ約束であると思っていた。それを違えるぐらいならば、死んだ方がマシだと、そう思っていた。それを守る事だけが彼の現実であった。この優しくない世界での唯一の現実だった。もっとも、彼は死ぬ事ができないのだが……いや、否である。だからこそ彼は守り続けているといっても良い。
「後は何を話せば良いのでしょうね?そうですねぇ。天使に見初められるのは……それが皇族だけに、というのが『間違いでしかない』という事は知っています。蛇の道は蛇。いえ、この場合爬虫類の道はドラゴンですか?……実の所は、混血という条件ぐらいしかない。そういうしょうもない話が聞きたかったりしました?」
もっとも、この国では皇族だけにしか『伝わっていない』事も知っていますが……そう、彼は後に付け加えた。そして、と彼は黒い髪の少女を脳裏に思い浮かべる。あの少女には勘違いさせてしまったであろう、と少し申し訳なさを覚えていた。
「お主、何を言って……そんなわけが」
「もっとも、それも私が言っているだけで、証明は不可能なのでしょうね。とはいえ、エルフの方にでも聞いてみると良いと思いますよ?あぁ、エルフの『神職』の方に、ね?人間とエルフの交流を重要視されておりますよね?」
「お主の物言い、エリザベート姉様は皇族である証拠がないと言うておるのと、同じだぞ……?」
忌々しそうな、どこか青褪めた表情は、それも当然であった。
たった一人、最後の皇族として少女は8年の長い年月を戦ってきたのだ。小さな体に全てを背負い、戦ってきたのだ。強い事だと、彼は思う。そんな少女が、失い、ようやく見つけた家族を、彼が違うと言っているようなものだった。それは怒りを覚えても仕方ないだろうと、これもまたリオンは理解していた。
だが、同時に少女の思いが、願いが幻想でしかないと、彼は考えていた。
否、結論としてその願いは、希望は達せられるが、しかし、その過程は全く違うと彼は考えていた。
確かに、彼の義娘同様、彼もまた、混血エルフであるエリザベートが産まれた時勢を思えば、皇帝の娘である可能性はかなり高いと考えていた。しかし、だが、少なくとも、確率からすれば、『オブシディアンの少女』がエリザベート何某であるかどうか?と考えた場合にはそうではない方が高い、とも考えていた。
彼とてその答えを知っているわけではない。
故にただの予想ではある。
だが、少なくとも、混血エルフであるエリザベートよりも、オブシディアンと呼ばれるに足り得る少女がいるという事が、彼に疑問を抱かせていた。エリザベートを『オブシディアンの少女』と考える事が果たして妥当か?と。
彼は義娘から聞いて知っている。前皇帝より依頼された皇剣。その中で唯一特殊な宝石を用いられた皇剣オブシダン。誕生の祝いに作るのだ、と彼は聞いていた。だが、その頃に誕生した皇族は、目の前にいるアルピナただ一人だけ。たった一人の姫の誕生に、子供全員に剣を与える事もおかしければ、祝いの品の中に謂われの良くない呪いの品であるオブシダンが存在する事自体まずおかしいのだ。
そして、同時期に、その存在自体がオブシディアンと呼べる少女が産まれていた事をリオンは、最近、知った。
その少女の姿を見れば、性質を思えば、寧ろ、彼女こそが、と彼は思っていた。
手入れは得意ではないのだろう、いつも適当に伸ばしっぱなしでぼさぼさではあったが、その黒い髪を見れば、彼でなくともそう思うだろう。まさに宝石の如く。
友人の為にドラゴンを前にして立ち向かう姿など、まさにゲルトルード=アレキサンドリア=トラヴァントと同質の性質だ。いや、それよりも尚、酷い。ゲルトルードは天使の痣を持つ故にドラゴンと立ち向かう精神力を有している。だが、あの少女の場合、力という後ろ立てもなく、ただ一人でも誰かの為であれば、恐怖の象徴を前に立てるのだ。動けるのだ。ゲルトルードや8年前にドラゴンに殺された皇族達と同じ性質だ。誰も彼もが誰かの為に。馬鹿馬鹿しい性質だと彼も思う。だが、そんな馬鹿達が彼は好ましいとも思っていた。そんな彼らと同じ性質を少女は持っている。……もっとも彼は、少女のその性質は他の皇族よりもさらに強いと考えていた。ドラゴンを前にして、友人の四肢が砕けた状況で、それでも尚、恐怖を前に動き、命を救ってみせたのだ。それは一体どれほどの精神力であろうか。それを彼は、頼もしいと思っていた。
そしてさらに、彼が過去にヴィクトリア=マリア=メルセデスに城の辺りまで連れて行かれた結果、目にした今の少女と同じ頃のゲルトルードと似た、整った顔つきも彼の考えを助長させていた。少女自身、自分では大した容姿ではないと思っているらしい。他人がその少女を見る時に一番目につくのが顔ではなく髪である。それゆえに容姿に対する意見を彼女自身あまり耳にせず、彼女は自分の客観的な評価を知らないからに違いなかった。『姫』の二つ名を持っている以上、傍からするとそう見える、という事だと彼は思う。とはいえ、やはり髪が外に跳ねたり内側に跳ねたりぼさぼさしており、いつも同じ服で、何だかぽけっ~としていたり、包丁が武器であったり、目を輝かさせてモツを食べている所を見ると、綺麗な子というよりも、残念な感じが強い子だとも彼は思っていたが……。
そんな少女がいる。
寧ろ、目の前の少女が何故その事に気付かないのか彼は不思議で仕方がなかった。
彼が最初にその少女と出会ったのはアルピナと一緒の時だった。
例え迷惑を掛けたといっても皇帝自ら奴隷の為に謝罪しにくるのは常識の埒外だ。それこそ戯言でしかない。それでもなお、そうした理由は、その少女が自分の姉と似ている事を無意識に理解したからこそ、気を許しただけなのではないだろうか?そう彼は考えていた。混血エルフのエリザベートもそう。自分に似た何かを感じたからこそ仲良くなったのではないだろうか?と彼は思っていた。さらに純血エルフがその少女に懐いている事を彼が知れば、彼は更にその確信を持ったであろう。人見知りの激しい、純血エルフが初対面の人間に懐くことは絶対にない。敵対する事はあれど、そのような事は絶対にない。彼は経験上それを良く知っていた。
故に、結論的にアルピナの願いや希望は叶うが、その過程は違うのだと、彼は考えていた。寧ろ、家族がさらに一人増えるのだからより良い結果でもあろう。
だが、その考えを彼がアルピナに告げる事はない。
伝えた所で意味がないのではない。彼がそれを伝える必要性を感じていなかっただけだ。アルピナ自身が気付くならばまだしも、寧ろ彼の目的からすれば、その少女を皇族として扱われ、身動きができないようにされるわけにはいかなかった。
そんな事を考えているのを億尾にも出さず、彼は言葉を紡ぐ。
「そもそも、天使にそのような区別がつくと思っているんですかね?皇族だとかそうじゃないとか。……天使に見分けられて嬉しいですか?」
「お主は、皇族を、トラヴァント帝国を馬鹿にしておるのか?」
「そんなつもりは毛頭ありません。もっとも正直な事を言いますと、私は別にこの国に興味はありません。彼女の事がなければゲルトルード様の事も別に興味はなかったわけですし」
少女が聞くには残酷な言葉であろう。病床にあった姉を蔑にする発言であり、さらに自らの子のような国をそこまで言われたのだから。けれど、彼にとってそれは当然の事でもあった。所詮、一つの国で起きる出来事など彼にとっては瑣末な事でしかない。
砂上の楼閣。
風が通り過ぎれば、崩れ落ちるのが必定。
「っ……」
「国の移り変わりに興味はありません。滅びて創られて、その繰り返し。技術的な変化はあれど、大差はありません。この大陸で、国は長生きできません。所詮、砂上の楼閣でしかない。人の国がどう足掻こうと、人の神様は悲しみに泣くのですから。もっとも、その国とやらがそれを止められるのならば、喜んで協力しましょう」
「お主にトラヴァントの何が分かるっ!300年の歴史を持つ我がトラヴァントを何だと思っているっ」
リオンはアルピナを嘲っているわけではない。
彼からすれば、周知の事実を告げているに過ぎない。それが周知でない者にとっては禁忌に触れる内容であるというだけだ。寧ろ、彼の目的からすれば、余計であり、喋り過ぎでもあった。だが、それすらも彼にとっては瑣末ごとに過ぎない。
ただ、唯一彼に問題があるとすれば、彼がいつものように楽しそうに笑っていたという事だろう。真剣に語る彼女を前に拷問を受けようともにこやかに対応していたのが問題だったのだろう。彼にとって、この程度の拷問は痛痒を感じる程の物ではなかった。否、彼が痛みを感じているのは確かだ。彼はそれを無視することに長けていたに過ぎない。『死ぬほど痛い』わけでもないのだから。
だが、それにしても彼はにこやかに過ぎた。それが、彼の治る事のない欠点でもある。もっとも彼自身それが治るとは思っていない。それはもはやリオンという人間を構成する一部なのだから。
「何が分かる、と言われても。そうですね。例えば、ここの地下にある絵画、あれに描かれているのが私の義娘だとか、そういう事でしたら知っていますよ?そっちは証拠もありますしね。見ればすぐに分かるという証拠が」
今思い出した、とばかりににこやかに笑みを浮かべ、そう語る内容もまた、彼にとっては既知で、彼女にとっては未知の事柄だった。
「戯言ばかりを言いおって……あれがマジックマスターだと?そんな馬鹿な事があるか」
確かに、荒唐無稽であろう。確かに戯言と感じるだろう。だが、直前に国の事を言われたからであろうか。彼が、絵画がそこに置いてあることを知っている事実に気付かないぐらいに、彼の義娘ガラテアが人とは異なる時間を生きていても何らおかしくない事に気付かないぐらいに、アルピナは激昂していた。
アルピナが忌々しげに歯を噛み締めている姿に、リオンはこれもまた仕方ない事なのだろうな、と思った。
皇帝は民の為に夢や希望を語る。
だが、その実、皇帝は現実主義でなければならない。叶う夢や希望しか語りはしない。どの程度の犠牲でどの程度の希望が叶えられるか、どの程度の人員を使えば、ドラゴンを殺せるのか?ただ、それだけ。当然、民の成長は考える。だが、それも現在に基づいた予想であり、延長でしかない。故に、荒唐無稽な夢を皇帝は認める事ができない。そんな甘い夢をアルピナは見てはならないのだ。見ては国が成り立たぬ。そして、それでもって現在まで彼女が国を持たせてきたのだ。だからこそ尚更に彼女は荒唐無稽を信じない。
彼の義娘がドラゴンであるという荒唐無稽さは、証拠があったが故に信じる事ができる。だが、彼が語るような曖昧な言葉を、言葉そのままに信じる事はない。それぐらいに少女は皇帝だった。
故に、自分の言葉は通じないのだろう、と。そう思いながらも彼は語る。
「後はそうですね。何を知っているか。えぇと。何代前でしたかね。ディオーネ皇帝。確かミドルネームはロードライトでしたか?厳密な事を言うと宝石名ではない皇帝でしたね。ゲルトルード様と同じに。これ、何か意味があるのでしょうか?」
「……何が言いたい。どこまで皇族を貶めれば気が済む?」
その言葉にリオンは苦笑する。そういうつもりはなかったのだが、と。エリザベートの事も、ゲルトルードの事も、別段彼にとって興味のある対象ではない。ただ、彼にとって興味深い少女に関りがある故に、ほんの少し興味があるという程度だった。
「いえ、例えば、宝石名ではない方は混血度合いが高いとか。彼の人も確か、見初められていたように記憶しておりますが……それ、伝わっています?」
「何故それを知り得るのだ……どこから聞いたというのだ。リオン、お主の後ろには誰がいる」
一転。
それは驚きの声でも、怒りの声でもない。
アルピナは、ただただ悲しそうな表情を示していた。
「別に、誰もいませんよ」
事実、いない。
後ろに誰かが居るか?と言われて、彼の頭の中に浮かんだのは精々彼の義娘と妖精ぐらいのものだった。いいや、もう一人、彼の中に浮かぶ人物がいた。
彼の中にある約束は、その人物とのものだった。
だが、その人物はその事を知り得ない。
「誰かがいると言えば満足なのですかね?誰だったら納得します?……まぁ、あれは私が魔除けというか天使避けに絵画を進呈したから知っているに過ぎません。天使に襲われて大変だったみたいなのでついつい。あぁ、ティアの下手くそな貞操帯というのも進呈しましたね。ディオーネ君が、娘が結婚するまでどうとか言っていましたので。過保護な子でしたねぇ」
「また、戯言か?……マジックマスターが作った貞操帯?そんなものがどこにあるというのだ」
「あれ?おかしいですねぇ。手元にないんですか?」
「そんなものあるわけがない」
噛み合わない会話が続いていく。
だが、それも今暫くだった。長くは続かない。
怒、哀。
皇帝として決して振り回されてはいけない感情に振り回されたアルピナが髪を掻きむしり、苛立ちと共に会話を止める。
これが二人のいつもの風景だった。
その後に訪れるのは、拷問。
アルピナ自身が主導することは無い。下手をすると殺してしまう故に、専用の者が用意されている。加虐趣味の男だった。だが、この場では、この階層ではその男も不要だった。故に、後はアルピナが立ち去るのみであった。
「お主の言う事は……私には戯言としか思えぬ。何故、真実を語ってくれぬ」
「私の勘違いはあるかもしれませんが、私にとっては真実しか語っていませんよ」
「お主の荒唐無稽な話を信じろとっ!?」
激昂する少女の言葉に、しかし、リオンは小さく笑う。
人に物を信じて貰う事の難しさを彼は良く知っていた。だが、人間などまだましだ。
けれど、それでも、時間はあまり残されていない。悠長に信じて貰うまで淡々と真実を語り続ける事に、もはや彼は意味を感じていなかった。
故に、彼は決断する。
「アルピナちゃん。私はね。とってもお人よしの少女を見つけたのです。最初は興味本位でしたが、興味を持てば面白かったですよ。相手が幽霊であろうと心から悲しんでくれる少女なんて他にいません。そして、その少女が、寂しがり屋の神様がもう泣かないように、性根を叩き治すと言ってくれたのです。だから、その子に後を託しました。私にはできませんでしたから。私には殺す事しかできなかったから。泣く子を黙らせるために、殺してやることしかできなかった。思うがままに、夢を見させてあげる事しかできなかった。小さな力持ちの妖精になっていろんな人を助けるという物語の妖精のような、そんな馬鹿馬鹿しくて、優しい夢。そんな夢を見せる事しかできませんでした。だから……もう泣かないように、あの子がもう泣いてしまわないように、優しくできる子に託しました。希望です。彼女はこの世界にとっての希望です。決して、不幸の源なんかじゃない」
「カルミナの事か?……いつになく意味不明だな。そんなに私を馬鹿にして楽しいのか?」
「いいえ。毛頭も。単にこれ以上言葉を尽しても、結局平行線を辿るだけでしょうし、建設的ではないかなぁと。ですから、そろそろ行こうかと。流石に託しっぱなしは無責任が過ぎるので。……しかし、これはあれですね。私のやり方が悪いのでしょうね。少し、残念です。手伝って頂けると手間が省けたのですが。……さて。痛いので嫌なのですけれど」
リオンが、繋がれた四肢のままに立ちあがろうとする。まるで、何も付けていないかのように。
「リオン……何をする気だ?」
「死ぬまで付き合うとは言いましたが……死ねば、もう付き合う必要はありませんよね?」
みし、みしと音が鳴る。
それは金属が歪む音ではない。
彼の肉と骨が鳴らす音。無理やり、力の限り引っ張られた身体は、その鉄の輪に食い込んでいく。食い込み、彼を壊していく。彼が今現在の階層よりも下の階層に辿りつけば行われたであろうことを今、彼は自分で行っていた。
自らを壊し、自らを殺す。
力を持たぬ彼が、自らを殺す。時間を掛け、力なき身体で自らを壊していく。全身に死の痛みを行き渡らせ、苦しみながら自らを殺害する。
彼は自らを殺せる。
自殺洞穴に潜る者達とは根本的に違う。
自殺志願などではない。
死を弄ぶ者。
自殺者。
「や、やめるのじゃっ!」
腕から、金属で出来た輪が彼の肉を破り血が流れて行く。元より逃げられぬようにと作られたものだ。鉄の輪が壊れるわけもない。故に、緩やかに、緩やかに、しかし確実に彼の命を奪って行く。
僅かなりとも猶予のある拷問とは違う、純粋に死ぬための行為。
彼が何をしようとしているのか。そんなもの誰にだって理解できない。
アルピナが年相応の少女のような甲高い声をあげ、リオンを止めようとするが、牢を挟んだ内と外。止まるわけもなかった。
「舌を噛み切るよりはましですけど……流石に痛いですねぇ」
リオンの顔に、脂汗が浮き出していた。
痛みを無視しながらも、しかし、それでも限界があった。手首から、腕から、足から流れ出した血は彼をゆっくりと殺して行く。
「まったく。これならティアにお願いしておけば良かったです」
その言葉に答えるように。
その言葉を待ちかねていたかのように、世界が鳴動した。
「……」
ぐらり、ぐらりと揺れる音。
建物が揺れ、鋼がきしむ音が響き渡る。立っている事が出来ず、リオンの膝が崩れ、更に傷が進行する。のみならず、アルピナもまた、膝を付く。だが、それでも止まる事の無い揺れは、次第、塔を構築する石積みすらを動かしていく。
「何したんですか、ウェヌスさん……ちょっと早すぎじゃないですかね」
見えない空を仰ぎ見ながら、リオンが歯を食いしばる。
彼にとってもこれは予想外だった。このままいけば、間違いなくこの塔が壊れる。寧ろ死ぬ事が楽になった事は、彼にとっても喜ばしい事だった。面倒な手間が省けたと思っていた。だが……
「アルピナちゃん、早く逃げなさい」
リオン自身は死んだ所でどうという事もない。ただ、『死ぬほど痛い』だけだ。だから、『死ぬほど痛い』だけでは済まない彼女を、ただそれだけは間に合って欲しいと声をあげる。自らを拷問していた相手だろうが何だろうが彼にとってはそんな事は瑣末な事でしかなかった。
歳の離れた子供の命を守ろうとする事に、理由など不要だった。
「それは駄目だ……」
「何をこんな時に駄々をこねているんですか。さっさと逃げてください」
寧ろ、リオンがそう言えば言うほどに、アルピナは、逆にリオンへと近づいて来た。彼らを隔てる牢が歪み、少女一人を通る隙間が出来ていた。そこを通り、リオンへと近づこうとして……更に揺らされ、彼の体にぶつかった。
「アルピナちゃんは阿呆ですね。私は死んでも大丈夫ですからお気になさらず」
「阿呆はお主の方じゃ!こんな時まで馬鹿な事を言いおって!どこまで私が嫌いなのだっ」
この瞬間、2人は以前までの関係のようにさえ見えた。
ゲテモノ料理屋の店主とその客。
ただ、それだけだった2人。
「……何をするつもりなんです?」
「お主を連れて行く!お主にはまだまだ聞きたい事、問い詰めたい事が山程あるからな。出てくるのは戯言ばかりかもしれん。だが、それでも私は知らねばならぬ。……と言いたい所だが、何も、しないつもりだの」
揺れ続ける塔。
歩くこともままならぬ程の揺れに天井からは瓦礫が落ち、牢は拉げ、外壁を作る石積みがずれていく。もはや、階段は要を成さない。金属の柵が入れられた小窓から逃げる事もできない。もはや、彼らが逃げる場所などどこにもなかった。
壊れて行く塔の中で、軽い笑みを浮かべ、アルピナはそうリオンに告げた。
「逃げる間もなくとはこの事じゃな。建築家に文句も言いたいところじゃて。しかし、それももう遅いの……ま、お主の御蔭でな、ゲルトルード姉様がおられるからの。トラヴァントが大丈夫というのが救いじゃ。……これにて私はお役御免ということだな」
「……諦めたという事ですかね?」
少し咎めるような台詞だったからであろう。リオンに見つめられたアルピナは彼から顔を逸らす。だが、彼は別にアルピナの事を責めているわけではなかった。
拷問をされ、身体を傷つけられ、知る事を話させ、話せば理解できぬと理不尽な扱いをされ、挙句の果てにそこまでさせておいてこの場で簡単に諦めるのか?などと責めるような、そんな普通の感性を彼は持ち合わせていない。彼は、純粋に疑問に思っただけだった。帝位にあったものがそんな簡単に諦めて良いのだろうか?と。
「諦めたというよりも、疲れたのじゃな。……お主には悪い事をしたの。死んでも償い切れん。私が皇……いや、そんな仮定は無意味じゃな。ま、こんなちっぽけな命で申し訳ないが、貰ってやってくれ。……死出の花ぐらいにはなろう?」
「いりませんよ、そんなもの」
「そ、そんなもの?」
揺れながら、俯きながら、『そんなもの……そんなもの……』と呟くアルピナの声が彼の耳に届いた。
「しかし、その割には笑顔ですねぇ。人の事言えないと思いますけど」
「……それはそうだろう。このまま好いた男の胸の中で死ねるのだからな。まったく、お主に最低の行いをして来た私に、お主に酷い事をして来た私に、神様も粋な計らいをしてくれるのぅ」
彼の身体についた傷痕を撫でながら、舞い散る埃に少女の顔が汚されて行く。灰色に染まって行く。白い肌が、金色の髪が、だが、アルピナはそれを拭う事もせず、その顔に苦笑を浮かべていた。
「神様の所為なのは確かですが、私はお断りですねぇ。何故アルピナちゃんと心中しないといけないんでしょう」
「……お主、ほんと、失礼な奴じゃの。こういう時ぐらい甲斐性を見せんか。……お主はほんと、最初から最後までずっと失礼じゃったのぅ。アルピナちゃんなどと呼びおってからに」
そこには年相応の女の子がいた。何のしがらみもない少女。男の言葉に不貞腐れ、頬を膨らませる可愛らしい少女。強がることもなく、憤る事もなく、後悔に苛まれる事もなく。
人は死を間近にすると、素直になる。もはや外聞を気にしなくて良いからだと彼は思っていた。国の為に皇帝という概念に成り下がった少女は、ただの少女へとなったのだった。死の目前にして、ようやく、その衣を脱いだ。
しがらみを気にする、外聞を気にする。それは人間だけの馬鹿馬鹿しい性質だろう、とも彼は思っていた。だが、しがらみというものが彼は嫌いではない。
彼はしがらみ塗れだ。
長い年月を生きて来て、しがらみが出来ないわけもない。多くの死を彼は越えて来た。故に託された想いなどもそれこそ数限りなく。しかし、そのすべてを叶える事ができる程彼は万能ではない。叶った想いも叶わなかった想いも全て抱えて彼は生きている。
だが、彼が唯一重要とするのは最初のしがらみだけだった。
後の物は彼にとって瑣末なものでしかない。それでも抱えているのは、最初のしがらみ故に。
どう言われようと、彼はそれだけを重要視してきた。
だからこそ、自分には神様を殺す事しかできないのだろうな、とも彼は思っていた。
彼女のようなお人よしでも博愛主義でもないのだから、と。
最初のしがらみ。
最初の約束。
それを叶えるためだけに、彼は生きている。
「最後、ね。……こういう時、あの子ならこういうのでしょうかね。貴女の願いは叶いませんよ、アルピナちゃん?」
「こんな状況で助かるわけがなかろう……流石にお主の戯言はもう聞き飽きたぞ?」
「戯言だったら良かったですね。まぁなんでしたら、賭けでもしますか?」
「ほぅ?……何を賭ける?」
「何でも構いませんよ。欲しい物をどうぞ」
「剛毅よなぁ。では、お主自身を賭けて貰うとしようかの。私が勝ったら、今度こそお主を私のモノにするぞ?死後の世界でなら構わんだろ?」
「えぇ、構いませんよ。では、私が勝ったら、お手伝いをして貰いたいです。露払い、と言いますか」
「ここに来ても秘密か。酷い男だの……まぁ、そんな酷い男に騙されるのも一興よな」
「まぁ、酷い人間なのは否定しません。イカサマしていますしね。ま、アルピナちゃんは生き残って、今の自分を思い返して恥ずかしくなると良いですよ」
「リオン……?」
次の瞬間。
リオンがアルピナをその胸の内に、身体の内に庇ったと同時だった。
塔が一瞬にして崩れ落ちた。
各層にあった金属の牢が拉げきるまでは存在した時間の猶予も、全て拉げ、折れ曲がり破断した以上、後は一瞬にして崩壊するのみ。
落ち行く瓦礫にその身を壊されながら、リオンはふいに昔を思い返す。
死ぬ時はいつもこれだ。
彼は、死なないのではない。
死んでも、死なないだけだ。
故に、一度、死に至る。
故に、走馬灯のように産まれ、育ち、そして今に至るまでの記憶が彼の脳裏を駆け巡る。
死ぬたびにそれを、彼はまるで現実のように体験していた。