第16話(終) 妖精の目覚める日
16.
『少し』という言葉の尺度は人間とドラゴンで違うのだなと知った。
あれから結構な距離を歩いた。花のあった場所にたどり着くまでに掛った時間の半分は軽く掛ったのではないかと思う。それを『少し』と称したドラゴン師匠に不満を告げた所で意味もない。ドラゴン師匠にとっては少し疲れを覚える程度の道程でしかないのだから。だったら、少しと言ってもおかしくはない。生物としての感覚の違いだ。エルフと人間で時間の感覚が異なるようなものだ。だから……不満を言う事はなかった。言う元気もなかった。墓に辿り着いた時には、私は疲れ果てていた。
そして墓に辿りつけばドラゴン師匠は寝ていて良いと告げ、一人奥の方へと向かって行った。とはいえ、そう言われたものの、いくら疲れ果てているとはいえ、素直に洞穴内で寝られるほど私の神経は図太くなく、奥の方でドラゴン師匠が楽しそうに、悪魔を狩っているのを見ていた。
見えていた。
魔法で出した炎が悪魔を焼いているのだ。だらこそ、見える。一匹、一匹と狂ったような絶叫を放ちながら焼かれ、次いでドラゴン師匠に食われて行く。
本当、ドラゴン師匠といると戦闘に関しては何の心配もいらないから気が抜ける。その気が抜けるのを、這い寄って来た怪しげな生物……前にも食べたあれだ……を摘んでは口に入れ、摘んでは口に入れつつ、眺めていた。ドラゴン師匠だけが食事をしているのを見て、お腹が空かないわけがない。えぇ。
しかし。
見ていて思う。
こうも強いと、戦いというものは楽しいのだろうか。
そんな事を思った。
そんな領域に至れば、違うものが見えてくるのだろうか。おっかなびっくり洞穴を行く事もなくなるのだろうか。
こんなに強ければ、幸せになれるのだろうか。
「そんなわけないよね」
呟いた自分の声に、苦笑する。
そんなわけがない。
絶望するのは簡単だ。希望を奪い取れば良い。けれど、幸せになると言う事は、そんな簡単な事じゃない。
強い事は、幸せたりえない。
恵まれている事は、幸せたりえない。
そんな事を考えていれば、今まで会ってきた人達が、ふいに脳裏に浮かぶ。今は分からないけれど、少なくとも出会ったときは……強かろうと、恵まれていようと、彼女たちは幸せではなかったように思う。
強くても、恵まれていても。
私の幸せは簡単だ。皆で一緒にまた遊べれば良い、そんな夢が叶えばそれだけで幸せになれるだろう。現金な女だけれど、安い女でもあるのだ。……事実、安いのだけれども。
頭陀袋の中に入れた花々、これらを売れば元の値段ぐらいにはいかないだろうか?それぐらい詰め込んだように思う。もっとも需要と供給もあるからそう簡単ではないだろうけれど……小出しにすれば良い話だ……いや、そんなこと、今は良い。
私は、そんな簡単な人間だ。
けれど、ドラゴン師匠は人間ですらない。だから、その辺り、どうなのだろう。長い年月を生きて来て、それでも消えないエルフへの恨み、天使への憎しみ、そんな負の感情を抱えて幸せなのだろうか?
なんて偉そうに私が語るのもおこがましい話か。
私は、他人の幸せを語れるような立場にはない。
首に付けた輪を、腕につけた輪を小さく鳴らす。ついで、下半身に視線を向ける。どこからどうみても奴隷だった。
「私だけが幸せになって、皆が不幸になる……」
でも、先輩がいったように皆が不幸になる事は私の幸せではないのだ。だから、私はまだ幸せになってはいない。だから、皆が馬鹿みたいに笑ってくれる日を目指して、私は笑っていよう。
「ほら、お土産よ。オブシディアン」
そんな風に一人笑っていれば、ドラゴン師匠が手にオブシディアンを持って戻って来た。それを私に向かって投げ、今度はしっかりとそれを受け取る。
「それも使うからしっかり確保しておくのよ!」
「はい。じゃあ、袋に入れておきますね」
その薄紅色の唇を悪魔の血に染め、柔らかい笑みを浮かべていた。ぞっとする程、綺麗だった。
「悪魔はあまり美味しくないのよねぇ……」
綺麗だと思ったのが間違いだったと思えるぐらいにごしごしと、口元をローブで拭くという下品な事をしながら、師匠が私の隣に座る。座り、座って、そのまま寝そべった。
がらり、と骨のずれる音がした。
ドラゴン師匠にとってここは、自分の産まれた場所、母の膝元。安らぐ場所なのだろう。店にいるときよりも気楽そうだった。ここで横になるためにローブを着ていたのだろうか。そんな風にさえ思える。
「ほら、用事は済ませたから、聞きたい事があったら、聞いて良いわよ」
「今度はそうですね……神様の話でも聞かせて頂けたらと思います」
「神様……ね」
「はい。神様です。人間の神様の話。リオンさんが殺した神様の話」
「あいつは泣き虫ね」
「それは何となくわかります」
「泣き虫で死にたがりで、どうしようもない馬鹿ね」
それも分かる。
「この世界、少し違うわね。もっと大きな意味での世界には、神様の数だけ大陸があると言われている。恐らく7つ。神様と大陸は一心一体。大陸が壊れれば神様は死に、神様が壊れれば大陸は死ぬ」
「1つでも良く分からないのに7つの大陸と言われましても、想像がつきませんね……」
「ま、そこは私も想像でしかないわね。実際に見た事があるわけでもないし。……エルフの神様は殺されたわ。だから今は6つで、だからこそ、エルフがこの大陸にいる。仲の良かった神様の作った生物だからといってこの大陸に住む事を許した。けれど、それが尚更、泣き虫を泣かせる事になったわけね。本末転倒。あいつも私もエルフにはしてやられてばかりね。不愉快な存在よ、全く」
「天使に、悪魔に、ドラゴンに、それらにエルフの神様が殺されたわけですよね」
「さぁ?或いは他の神様かもしれないわね。何にせよ、天使を作った神は、悪魔を作った神は、ドラゴンを作った神は、その他の神は、自ら作り出した者をこの大陸に送り込んでいる。壊すために、人の神様を殺すために」
「大陸の数というのは知りませんでしたけど、……その辺りは、そこまでは、もう、知っています」
「そう、流石、『私の』弟子ね」
「そこから先です。殺されそうになり、仲の良かったエルフの神様すら殺されて、人の神様が自らを殺そうとした。それをリオンさんが止めた、のですよね?遠い昔に」
「正解」
「神様を殺して、他の神様に嫌われて死ぬこともなく1200年もの長い間を生きてきて、そして何度も大陸が死ぬのを止めて、けれど、まだ神様は生きているんですね?もしくはまた、生き返ったんですね?それを、あの人は私に止めてほしいとそう願ったんですね?」
「1200年?あぁ、なるほどね。情報提供者はあの純血エルフか。全く碌な事をしないわね……半分正解。半分不正解。ま、及第点」
態々仮面を外し、不機嫌そうな表情になった。ちなみにレアさんのことを言われて私も不機嫌な顔になった。
数瞬、睨みあう。が、勝てるわけもなく。
「……では、是非模範解答を」
先に私が口を開く。
「1200年が既に違うわね。きっとエルフの側の歴史を紐解いたのでしょう?歴史なんて所詮、勝者の都合の良い言葉。私が産まれてから、既に2500年は経過しているわ。人間が、エルフが集落を作って曲りなりにも国と言える形となって歴史を伝えられる土壌ができるまでに1000年以上は掛っているわよ。その間にも多くの闘争はあったのだけれど。歴史なんてほんと、都合の良いものよ?さっきの話じゃないけれど、歴史なんて都合よく作られるものよ。『原初の罪』であった者が『最初の方』と崇められるまでにそれぐらい掛っている。純血エルフは長生きだし、思想が変わるまでに結構時間が掛ったのよ。ほんと、親に教育され続けた2世程面倒な者は無いわよね!ま、そんな数字なんてどうでも良いわね。特に人間の貴女には関係のない話よね」
「倍、以上ですか……」
「そもそも、この大陸にエルフが存在し始めたのがそれぐらい。どうやって来たかは分からないけれど、エルフ達が自らの大陸を失いこの大陸に来た。ある意味での生存競争に負けたからでしょうね。非常に保守的。最初はオケアーノス辺りに住んでいたのよ?知っていたかしら?」
「……リオンさんの部屋が牢である事と、城で絵画を見ましたので。それに師匠は、エルフが怨霊の森に住みついたとか言っていたような……」
「流石『私の』弟子ね。産めや増やせやだったみたいね。勢力を付けて行った。その頃、既に天使に改造はされていたみたいだし、燃えるからこそ、慎重に。爆発するからこそ、慎重に。そうして……ある時に一人の人間とエルフが出会ったのよ。それが純粋な恋物語であれば今現在も語り継がれるのでしょうね?寝物語として。ま。その話は良いわ」
それも聞きたくはあった。『最初の方』の事を聞いてみたくはあった。
「約2500年前。パパは神様を殺した。そして、他の神様は恐れた。自らが殺される可能性を持った存在が産まれた事を、恐怖した。故に、神が直接この大陸に手を出す事はなくなった。先兵だけを送り込み、今でも、自分は自分の大陸に隠れている。恐れている。パパが殺しても死なないのはその所為ね。ほんと、怖いパパよね?最高ね?」
「リオンさんがどうやって神様を殺したのか、それも疑問ですが、人間やエルフが死んだ時は、天使や悪魔の神様が連れて行っているんですか?そう考えると死にたくなくなります」
どうあがいても死後が絶望でしかないというのならば死んだ者達が浮かばれない。それほど悲しい事もない。
「ま、疑問に思っても当然よね。私も意味がわからなかったし。でも、人の神様は、殺されたけれど……」
「『人に殺された神様は、その死の中で夢を見ている』……テレサ様が言っておりました。意味は、師匠に聞けと。妖精さんが何者かと聞いた時にそう答えてくれました」
「あら、美味しいところを持っていく幽霊ね。生意気ね。その通りよ。言葉通り。死んではいるけれど、夢を見ているのよ」
「意味不明な生物ですね」
「生物の規範からは外れているわよ。あれらが全てを作ったのだから。あれらが先。私達が後、よ。言うなれば、パパは親殺しをしたようなものね。生物としての禁忌。それは呪われても仕方ないわ」
「やっぱり私にはリオンさんが強いとは思えないんですが、もしかして強いんですかね?」
「神様さえ恐れる程怖いけど、弱いわよ?貴女と同じぐらいじゃない?」
「それでどうやって神様を殺せたんですかね……素朴に疑問です。まして、どうやって第7階層にいるっていう神様の所へ辿りつけたのかが疑問過ぎます」
「後者は私も一緒だったからという単純な理由よね。……まだとっても小さかったけどね?私ちっこくても超強かったのよ。ほら、崇めなさい!で。前者はパパらしいやり方よ」
色々疑問が沸いたのだが、……と言う事はつまり、である。
「普通の人間やっている時にここまで来た事があるってことですかリオンさんは。その時点で大概だと思うんですけれど」
「昔はもうちょっと近かっただけじゃない?覚えてないけど。……言われてみると、とても懐かしいわね」
「師匠でも感傷に浸ることってあるんですねぇ」
「何よ、爬虫類だって感傷に浸っても良いじゃない。ま、そんなわけで神様はパパに殺されて夢を見ているのよ。束の間の夢。悲しみに泣いた神様の一時の安らぎ。あいつは、自らが作った人間の気も知らないで、ずっと夢を見ているのよ。楽しい、楽しい夢をね」
あいつ、とそう呼んだ。
時折、ドラゴン師匠は『あいつ』と誰かを呼ぶ。
二度目に出会った時もそうだった。
壊れた天井を見ながらそういった。
先日、妖精さんを指してあいつと称した。
そして、今日。先程から何度も、『あいつ』と誰かを称していた。
「あいつって?」
「泣いた神様が、その涙より作り出した海。そこから産まれた者。なんて……あいつしかいないじゃない?中々良い名前よね」
「妖精さん?」
「そう。人を作り出した神様の化身ウェヌス。神様が見ている優しい夢を現実に映し出した姿。人を助けて、誰かのために必死になって助けて、死者を見送るために毎日のように祓いをする、それで感謝されて、嬉しくなる。そんな優しい夢を延々と人の神様は見ている。ところで、ねぇ、貴女も夢を見たことがあるでしょう?楽しい、とても楽しい夢を」
妖精さんの楽しそうな表情が、可愛らしい表情が脳裏に浮かぶ。傷付いたエリザを慰めたり、私を慰めたり、他にも多くを助けたのだろう。多くの人を慰めていたのだろう。エリザが目覚めたのは、やっぱり妖精さんの御蔭だったのだろうか。
「はい」
「それが、夢だと気付いた時……どういう気分になる?」
「悲しくなるかもしれません」
「その通りね。元より絶望していた人間の神様が、そんな夢を見ていて、目覚めた時、どうなると思う?」
「……」
「以前より、死にたくなるのよ」
目に見える範囲だけを助け、目に見えない範囲にいた者達を想い、更に泣くのだろうか。神ならざる妖精の身ならば妥協できたのかもしれない。けれど、自らが神なる身であったとしたら。あの時救えなかったの者達も、実は救えたのかもしれない、そう思ったとしたら……。
「……やっぱり、何度も起こっているんですね?」
「500年周期だと私とパパは考えている。だから、私が帰って来たというのもあるのだけれどね。……また、神様を殺すために、ね?」
苦笑していた。
「……2500年前」
「そう。もうすぐね。今日かもしれない。明日かもしれない。明後日かもしれない。少なくとも今暫くよ。……あいつは、ウェヌスはもう眠りについた。神様が夢を見るまでもう目覚めない」
「妖精さん自身は理解していたのですか?自分が神様であったという事を……あ、いえ。やっぱり良いです」
そんなわけもない。
自らがそうだと知っていれば、既に夢から覚めているだろう。
「妖精さんが目覚める為には……」
「……再び神様を殺すしかない。私には、私達には殺す事しかできなかった。貴女に、神様を慰める事はできるかしら?何度も何度も夢から覚めて絶望し、我が身を砕く神様は、今度こそ、救われるのかしら?」
再び、浮かべた笑みは、苦笑でしかない。
その内にある想いを、きっと私には理解できないのだろう。
ただ、僅か分かるとすれば、どこか優しげだったという事。
いつまで経っても死にたがるのね、この馬鹿はとでもいうような、そんな呆れから出た苦笑だったのだろうか……理解はできないけれど、そんな風に思えた。
「……分かりません。けれど、でも……あの時約束しましたよね、師匠」
「約束?」
「一発殴りに行きましょうって。そんな馬鹿な神様は……一発殴らないと。妖精さんだっていうのなら、なおさら」
「あはははっ!そうね、そうだったわね!いいわ、いいわよ。行きましょうか。殴りに。一緒に行きましょうねぇ?」
一転。
楽しそうに。本当に楽しそうに笑っていた。
暗い世界に、ドラゴン師匠の声が響く。響き渡る。
しばらく、続いた笑いが収まる頃を見計らって、折角だから、気分が良さそうだからと今の内に聞いてしまえと、気になっていた事を聞いた。
「ところで、話は変わるんですけど、ミケネーコさんはリオンさんか、師匠ですよね?」
「はぁ?ミケネコが私かパパ?何言っているのよ」
思いの外気分を害したのか、寝そべっていた身体を態々起こして、じっとりとした視線を私に送ってくる。
「あ、すみません。多くの著書を、リオンさんの部屋にもあったミケーネ氏名義の本、あれはリオンさんかあるいは師匠の手によるものですよね?」
「正答率の低い弟子ね。まったく。勉強が足りないわよ。これも半分正解で半分不正解ね。パパは一切書いてないわよ。パパに本なんか書けるわけないじゃない?写本を作るならまだしも。料理バカなんだから。歴史とか宗教とか技術関連は全部、私よ。ほら、私って国の客分になれるぐらい頭が良いものね!凄いでしょ!?褒めなさい!許すわよっ!」
隠す事もなく。淡々とうざい言い方でそう言い切った。
でも、あぁだから教会に喧嘩売っているような文章もあるという話か。天使嫌いだものなぁこのドラゴン。しかし、ドラゴン師匠が文章を書くという姿は、やはり想像し辛い。机に座り、眼鏡をかけて、ペンを取る姿は確かに似合っているだろうけれど、でも、似合ってない。このうざいドラゴンにそんな真面目な姿が似合うわけがないと言いたい。
とりあえず、軽く拍手しておいた。
「もっとしっかり褒めなさいよ全く。で、他の本は基本的に全部」
「『最初の方』が?」
「『最初の方』だとか『原初の罪』とか馬鹿っぽい名前よね。そのミケネコの手によるものね」
「師匠、どこの猫の手を借りたんですか」
机に向かうドラゴン師匠の隣に座り、ドラゴン師匠の代わりに執筆活動をする猫の姿を思い浮かべる。思いの外可愛らしかった。
「何、言っているのよ。ミケネコはミケネコよ。パ……パ?……なんだっけ?なんとか=ミケーネ=コスキーとかいう名前だったからミケネコね。知っていたからミケネーコとか言ったんじゃないの?」
「……いえ、違いますけど」
ただの冗談のつもりだったのだけれども。
「あ、そう。ま、どうでも良いわ。ミケネコよ、ミケネコ。『万能の天才』とか恥ずかしい名前でも呼ばれたりしていたわね。あの料理下手が万能?あははっ……笑えるわ。……それも、懐かしいわね」
遠くを見るような、そんな瞳。過ぎ去った過去を思い返し、笑う。
「ミケーネさん……最初の、混血エルフ」
「最初の、天使の痣を持つもの、でもあるわね」
「……何があった、と聞いて良いのでしょうか?」
「純血エルフを全員殺してくれたら、教えてあげるわよ?」
「じゃあ、無理ですね」
「全部知る必要なんてないわよ、カルミナちゃん。知らない方が幸せな事もあるわよ」
「無駄になる知識は無いと思いますけど」
「確かに、知識が無駄になる事はないわ。それは貴女にとっての武器にもなる。その武器を巧く使えるかは貴女次第。存在を知って、使い方を学んで、漸く使える。そこまで出来れば重畳。でも、そこまで至った時に、気付く事もあるのよ。知らない方が良かったと思える事はあるのよ。この違い、分かるかしら?」
「いえ、ちょっと分かり兼ねますね」
「歳を取れば分かるわよ。まだ、貴女は若いわよね。15、6だっけ?」
「そうですね」
「倍程生きれば、理解できるかもね。人が集まるとね。知的生命が集まるとね。知らない者達の方が多く集まるのよ。知らない事が多数派になる。知る者達にとっての当たり前が、現実ではなくなる。簡単だものね?知らないでいると言う事は。だから、知らなくても生きていけるような世界が作られる。世界は、とても歪にできているのよ。それを理解しながら、生きて行かなければならない。知らない方が世界が歪であるという事に気付かずに生きていられた。幸せに生きていられる。だから、ね。カルミナちゃん。天才は、幸せではいられないのよ?」
「それって、ミケーネさんのことですか?」
「さて、ね?ま、そろそろ寝なさいな。見張りぐらいはやってあげるわよ。優しい師匠よね、私」
「……否定はしませんが」
目を閉じれば、色々な事が脳裏に浮かんだ。
色々な事が浮かんでは消えて行く。
新しい事実に、既知の事。それらが浮いて、沈んで、浮いて、沈んでを繰り返し、繰り返して……消えて行く。最後には黒く、暗く、闇色の中へと消えて行く。
急激に疲れが身体を襲ってくる。
私の意識が沈んでいく。
闇色に染められていく。
「全く。私が覚えていないわけがないじゃないの。師匠を馬鹿にし過ぎよ。……でも、ほんと、綺麗な黒よね。いくら爬虫類だからってこんなの忘れるわけないじゃないのよねぇ?……ミケネコよりもずっとずっと綺麗で素敵な黒髪だし、尚更よね。……ほんと、宝石みたい」
その言葉を理解する間もなく、私の意識はなくなった。
―――
明けて翌日なのかどうかは分からない。陽が昇っているかどうかも分からない。だが、少なくとも分かる事がある。
「お腹がすきました……」
洞穴の中で何度か明るい、という経験をした事がある。けれど、これほど酷い明るさというのは初めてだった。まるで、天にある陽が地面に落ちて来たかのような、そんな印象だった。
溶岩が地面を這っていた。
ぼこぼこと湧き立つ場所から産まれ、伸び、冷えて再びその上を新たな溶岩が埋め尽くす。何度となく、幾度となく。静止する事なく延々と。
だが、少なくとも、今立つこの場は、その心配がないだろう。そこに僅かの安心感を。
少し高い所。それ故に、溶岩に落ちる事もなく、溶岩がせり上がってくることもない。しかし、と振り返る背後には先程まで歩いて来ていた道がある。薄暗い、穴倉だった。そこを抜けて今ここに立っている。この溶岩が、その穴倉に流れ込んで行ったらどうなるだろうか?帰る事ができなくなるだろうか。それが少し心配だな、と思いながら再び眼前に目を向ける。
ぼこぼこと湧き立つ溶岩の平原、その中に林があった。
森ほど木が並んでいるわけでもない以上、林で間違いないだろう。
溶岩を受けながら、燃える事もなく、直立していた。
そして、溶岩の上に四足で立ち、その木々になった実を食べようとしているドラゴンがいた。
一見すると、いや、二見しても三見しても、鈍い色の甲羅を背負う亀にしか見えなかった。甲羅から出ている顔の部分だけを見れば、刺々しい爬虫類の皮膚をしているものの、それを含めても亀にしか見えないが、間違いなくドラゴンだった。
私が、今すぐに殺してしまいたいと思うから、間違いは無いだろう。
もっとも、隣にもっと酷いドラゴンがいるので、その衝動も大した物ではなく、だから、率直な感想としては、
「ちょっと可愛らしい感じですね」
である。
「ドラゴンを褒めるのは中々殊勝だと褒めてあげるけれどね?カルミナちゃん。どこがよ?頭、おかしいんじゃない?」
素で心配された。
ちなみに、私が起きた頃にはドラゴン師匠は再び仮面を付けていた。今日も今日とてマジックマスター様な気分だったのだろうと思う。そのマジックマスター様に身振り手振りで説明を開始する。
「長い舌を使ってぺろりと食べている所が。……見ているとお腹が空いて来ますし」
これがまた美味しそうに食べるのだ。長い舌を、カタツムリの中身のような形をした実に巻きつけ、ぐい、と舌を引き、口の中に入れて口をもぐもぐとさせる。まぁ、その音がガキンだとかバキッだとか金属を捻り潰しているような音なのが大変あれだけれども。
「やっぱり、人間の感覚はわからないわね。……よいしょっと」
気付けば、ドラゴン師匠が、手に持っていた水晶で出来た宝珠を全力でその亀ドラゴンに向かって投げていた。
物凄い勢いでその宝珠が飛んでいき、再び実に向かって舌を伸ばしていたドラゴンの側頭部にぶつかり、次の瞬間、ぱんっと軽い音と立てて、水晶が砕けた。
「使うってこういう意味だったんですか?」
「あぁ、そういえばそんな事言っていたっけ」
ほんと、適当である。
「けど、水晶人形を圧縮したものが壊れるって、どれだけ硬いんですか?あのドラゴン」
「アダマンタイトで出来ているのだから、そんなもんでしょう?」
「アダ……マン?」
「知らないなら知らないで良いわよ。じゃ、ちょっと怒らせたみたいだから、殺してくるわね?」
「横暴な」
自分で喧嘩売っておいて、これである。
珍しく、颯爽と溶岩の上を走り……いや、この表現が正しいかは分からないが、颯爽と溶岩の上を走り、その木の根の付近で憤っていた亀をドラゴン師匠が殴りつける。
瞬間、洞穴内に轟音が辺りに響き、
「痛いわねっ!?殺すわよっ」
という珍しいドラゴン師匠の声が響いた。流石に痛いのか。
けれど、である。
そのドラゴンの絶叫の方がもっと酷い。背の甲羅は割れ、その下からは遠目にも肉が見える。彼我の差は歴然だった。
「ほんと……師匠にしたらお散歩な感じだよね」
もちろん、師匠にしたら、である。
私にすれば、違う。
遠目にドラゴン師匠と亀が戦っているのを見ながら、
「もうちょっと待って貰えば良かった」
もうしばらく、ほんのしばらくで良いから待ってもらえれば良かったと心から思った。
背の向う側から、絶叫が響いていた。
それは人の声だった。
ここは、まだ、人が辿りつける領域なのだろうか?いいや、墓まででもまだ到達していないのだ。到達できないのだ。だから、当然、違う。絶叫の主たちは、連れて来られたのだろう。
振り返るのが怖い。
振り返ってその情景を見るのが恐ろしい。
どうすればそんな音が出せるのだろうか。どうすればそんな絶叫が響き渡るのだろうか。男の低い叫び、女の甲高い叫び。止まらない。宛ら、弄ばれながら食い殺されているかのように。
だから、振り向きたくはない。
だが、振り向く必要もなく……
視界の中に、飛び込んできた。
空を飛んで、人間が溶岩の中へと落ちた。落とされた。
一人、二人、三人……残りの二人はまだ中に浮いている。まるで、その沈んでいく姿を見せ、恐怖させるためかのように。空中に、釣りあげられていた。
「よ……妖精さん?」
視界に映るのは十を超える妖精の姿。
血走った瞳、獰猛な瞳、煩く鳴る翅音、ガシガシと噛み合わす歯、その口腔から流れ出るのは聞き取る事のできない甲高い声。
人間を持ちあげている者は哂っていた。人間を落とした者もそれを見て哂っていた。溶けて行く人間を見ながら、その様子を見た人間を見ながら……哂っていた。私の知る妖精さんと同じ姿で、全く違う顔で哂っていた。だから、尚更に気色悪い、とそう感じた。
「……た、たすけっ」
持ち上げられていた一人が、私に気付く。
見れば腕や足、腰、腹、頬の一部が齧られたのか血に染まっていた。見るからに、酷い状況だった。血を流し過ぎだ。生きている事の方が不思議だった。加えて、ここまでされて、さらに仲間までじわじわと殺されているのだ。心すら折れてしまうだろう。けれど、それでも、そんな状況でも私に気付く洞察力は、その生への執着は凄いものだと思った。
そして、人間が気付くのだから、妖精達もまた、気付いて当然だろう。獰猛な瞳が私を射抜く。
その視線からすれば、次は、私だとそう言わんばかりだった。
「……どうしましょうね」
もっとも出来る事など限られている。目の前は溶岩の湖。後ろは暗い暗い洞穴。ドラゴン師匠はこちらに気付かず、未だ亀ドラゴンと闘っている。思いの外、時間が掛っているようだった。流石のドラゴン師匠もドラゴン相手では時間も掛るのか。いや、寧ろだからこそドラゴンは恐怖の対象なのだ。
「お、おねが……たすけ」
血を流し、涙を流し、鼻汁を零し、死に瀕するその人を……私は、助けられない。
ドラゴン師匠が助けてくれるわけもない。人間の叫びでさえ届かぬのならば、私が声をあげても届きはしないだろう。否。実際に、師匠!と叫んでみてもその声は届かない。
「済みません……私には」
「っぁ……やだ……天使……様」
頭を振り乱しながら、すがるように自分を掴む妖精に目を向けても……ケラケラと歯を鳴らされて哂われるだけだ。
いいや、哂うだけではなかった。
残された二人の内、静かだった方……もはや事切れていたのだろう。その一人が、落とされた。
どぷり、という鈍い音と共に、男が溶岩の中に溶けて行く。
脆い。あまりにも人間は脆い。ドラゴン師匠を目の当たりにし過ぎてそれこそ私は勘違いしていたに違いない。呆気なく、あまりにも呆気なく人が死んでいく姿に、人間の脆さを思い出した。
何も残らない。何一つ。岩石すら溶かす高温が、肉を焼き、臓腑を溶かし、骨さえも溶かす。人であった証拠などどこにも……いや、首に掛けられていたネームタグだけが、溶けずに溶岩の上に残った。
死してもなお、残る物がある。それは幸運なのだろうか。分からないし、今は考える余裕もない。
残されたのは一人。
先程から助けを求めているのは女の人だった。まるで、教会の人のような格好をしていた。教会の方なのかもしれない。泣き叫び、天使に救いを求めたのを思えば、そうなのだろう。
獰猛だと聞いていた。
けれど、無害だとも聞いていた。
何があったのだろう。妖精達にとって不愉快な事があったのだろうか。
いや、今は考える余裕などない。
楽しそうに近寄ってくる妖精に、包丁を抜く。
万倍も違う力量、大の大人をつりあげてここまで運んで来られる程の力の持ち主だ。私が、敵うような面は一切合切ない。唯一の救いは、私の知る妖精さん程の力はなさそうだという事か。先輩も一匹でどうにかなるわけでもないと言っていたように思う。でも、そんなのは先輩の感覚で、私からすれば……そんな簡単な話ではない。
けれど……それでも、助けてと願う人がいるのだから……必死に生きようとする人がいるのだから。
「……馬鹿ですね、私」
本当、自分の馬鹿さ加減に笑いがこみ上げる。
「じゃあ、食い殺しますよ?」
師匠の弟子なのだ。少しぐらい台詞を真似た所で怒られないだろう。今度はドラゴン師匠の真似じゃないのだし。
真正面から、迫ってくる。私を侮っている妖精に……包丁をちらつかせながら、もう片方の手を頭陀袋に突っ込み、目的の物を探す。乱雑に入れ過ぎたそこに手が傷付き、痛みが走る。だが、そんな事、気にしていられない。
「貴方方でも、きっと……」
妖精の生態は分からない。分からないが……妖精さんを見ていて、妖精さんが師匠に突かれているのを見て、思った事がある。
迫るそれを、侮るそれを極限まで、近づけ……頭陀袋からそれを取り出し、そのままの勢いで、振り抜いた。
次の瞬間、少し長めの、あの男が落として行ったナイフが妖精の身体を打撃する。
妖精の、軽い身体が……それに合わせて飛んでいく。
そう。力があろうが、何であろうが、妖精は軽いのだ。勢いを付けて飛んでくるならばまだしも、恐怖に慄き、その場から動かぬ私に嘲りと侮りを見せた妖精が、横合いから殴られれば、飛んで行くのは道理。しかも、少し長めのナイフだからこそ、妖精に加えられた力は大きい。
どぷり、と鈍い音を立て。
幼子が泣き叫ぶような声があがる。持ち上げられていた女、ではない。それは、今、私が吹き飛ばした妖精の断末魔の声だ。
小さい身体が、一瞬にして溶けてなくなった。
「あぁ、食べる所なくなりましたねぇ」
その次の瞬間、一斉に妖精達が動き出し、抱え上げられていた女からも手が離され……何も考えず、私は、包丁を腰に戻しながら、その落ちる彼女の下へと駆ける。
幸い彼女が持ち上げられていた高さは高い。
大きいナイフだけを頼りに振り回しながら、それを、脅威を思った妖精達が距離を取る事を期待しながら、走り抜け、しかし。
「ぁ……」
間に合うわけもなかった。
激しい音を立て、足先が溶岩の中に。入った瞬間、手が届いた。
「まだっ」
一瞬触れた手の平の暖かさ。それを離さない。彼女の体を抱きしめるように、引き寄せるように、倒れるように溶岩から足を抜き取り、その勢いで二人して地面に倒れ込む。
「っ」
溶けた靴が見えた。溶けた足が見えた。一見してもう二度と歩く事が出来ないだろう事が分かる。その足をしかし、未だ張り付く溶岩が焼き続け、ズボンが、服が燃えて行く。だが、まだ死んではいない。
彼女もまた重度の自殺志願者。妖精のいる第二階層まで辿りついていたのだから熟練の自殺志願者に違いない。死に怯えていたとしても、生きる事に貪欲で、顔を涙と鼻汁と唾液で汚しながらも、身を焼きそうな炎を払っていく。死にたくないと願いながら、身を焼く炎を消していく。そんな彼女の生き汚さが酷く好ましい。
だが、そんな間を妖精達が許すわけもない。
「……あんの役立たずの馬鹿ドラゴン……死んだら化けて出てやる」
化けて出てくれば、あの黒い銛を使う事ができるようになるだろうか。それでドラゴン師匠をぶんなぐってやれば少しは気も晴れるだろう。……そんな、悪態でもついていなければ、気が気でならないだけだ。
「助けてくれて……ありがとう。希望をくれて、ありがとう」
痛みを感じながらも、血を流しながらも、涙を流しながらも思いの外しっかりした声で、彼女がそう言った。
「逆に辛い死を迎えさせる事になりそうで恐縮です」
死に瀕し、笑う。
「……それでも」
その続きの言葉は聞こえなかった。
残った妖精達が煩いぐらいに翅音を立てて私達に襲いかかり、それに抗うように私が、ナイフを、再び腰元から取り出した包丁を振り、次の瞬間に、私の手から、仲間を殺したその脅威を払おうと、妖精が小さな口で、私の右腕を食いちぎり、血が飛び散った。
だが、そんな事で死ぬわけもない。それ見たことかを笑みを浮かべているその面に、それでも離す事のなかったナイフを握ったまま、その拳を当てれば、飛んでいく。
「一匹なら何とかってのは本当ですねぇっ!」
憤る。
自らを奮い立たせる。
腕の血管を食いちぎられたのだろう。身体の中から物凄い勢いで血が抜けて行く。
脅威なのは妖精の力。捕まらないように、ナイフを持つ手を右から左へ替えて振り廻し、廻してそれでも掴みに来る妖精に手を取られ、取られた瞬間、今度は噛みに行った。
くちゃ、と口の中を、思いの外、気持ち悪い感触が埋め尽くす。
まずい。
反射的に吐き出せば、妖精の頭がごろんと地面に落ちた。
その仲間の姿を見た妖精が、それに絶叫する。
そして、今までよりもなお、獰猛な、怒りに染まった瞳で私を見る。侮る様子はもはやなかった。私を全力で殺そうと、襲ってくる。
「流石に、ここまでですかねぇ」
3匹も殺せたのだ。頑張った方だろう。
けれど、まったく、笑えない。書き置きの事もそうだけれど、ドラゴン師匠と先輩が喧嘩するのなんか見たくもない。その結果を想像したくもない。その喧嘩の末に起こるのは人間対ドラゴンの戦いだろう。そっちの火種も私が産むと考えると全く……簡単には死ねないなぁ。
「……全く。馬鹿ばっかなんですから」
左手で持つナイフで牽制し、怪我をした右手で持った包丁で殆ど意味のない牽制をする。ナイフを握った拳で、包丁を握った拳で迫る妖精を殴りつけようとして、避けられる。
次第、次第に力が抜けてくる。
血が抜けると言うのはそういう事だ。死に近くなるとはそういう事だ。元より劣勢であったものが劣勢になっていき、次第、妖精が、私が弱まった事を哂い始めた。
再び私を侮りはじめた。左腕を齧りナイフを、右腕を更に齧り包丁を地面に落とさせ、持ち上げ、後は落とされるだけ、だったのだろうか。
「駄目っ!」
私から落ちたナイフを手に、足の無くなった女が立ち向かおうとする。何とも剛毅だった。けれど、身動きの取れぬ彼女に、それで妖精がどうにかなるわけもない。
人生3度目の空中浮遊は、人生最後になりそうだった。全く……
「名前……聞きたかったなぁ」
自ら呟いたはずのその声が、私には聞こえなかった。
痛みの所為。状況の所為。
それもある。
それもあるが、それだけではなかった。
その時。
一陣の黒い風が通った、ように見えた。
強い風が強い音を作り出し、騒ぐ妖精達の声を、私の声を掻き消した。そして、その風に舞挙げられるように、私は、地面へと叩き落とされた。
叩きつけられ、一瞬、呼吸が止まる。
だが、生きている。
生きているのならば、見る事ができる。
「……そんな……どうして」
確かに彼女ならば。
確かに彼女ならば、それを使う事ができるだろう。
確かに彼女であれば、それを振るう事が出来るだろう。
私にも、先輩にも、ましてテレサ様にも持つ事すら難しいそれを、彼女ならば十全に使えるだろう。
けれど……夢から覚めたとドラゴン師匠は言ったじゃないか。
もう二度と目覚めないと。
絶望に、死に至ろうとする神様が、それを忘れ、再び夢を見なければ、目覚めるはずがないとそう言ったじゃないか。
けれど、だったら、どうして……
その表情は焦燥。
その表情は絶望。
一切合財の正の感情を失った表情だった。
今にも死んでしまいそうな程だった。
今すぐに自分の首を掻き切り、掻き毟り殺してしまいそうな程に。
まるで、夢で見ていた事が全て偽りだったと知ったかのように。
けれど、それでも……
それでも尚。
手に黒い槍を持ち…身の丈に余るほどの大きい槍を、それこそドラゴン師匠とは比べ物にならないぐらいに優雅にそれを扱いながら……
私を守るように、妖精さんが立っていた。
「妖精さんっ、どうして」
掛ける声に、妖精さんが、顔だけを振り向け、私を見た。
見て、
『貴女と一緒に遊びに行ったの、とても楽しかったから。貴女の夢、とても楽しそうだったから。……貴女が、笑っていたから』
小さな、本当に消え入りそうな声で、そう告げた。
そう告げた妖精さんを見て……ふいに、父の言葉を思い出した。
『笑って過ごすんだよ。そうすれば神様も笑顔を見せてくれるのだから』
神様が、微笑んでいるようだった。
―――
小さな手を振えば、黒い銛が世界を切り裂くように、飛ぶ妖精を切り落とす。
それを成したのが同族であった事がそいつらには不愉快だったのだろうか。先程までよりもさらに、さらに、険悪な表情をして、妖精さんへと襲いかかる。
だが、それもゆらりと、常の、踊るような動きで妖精さんが避けて行く。
避けて、振り、避けて、振り。
一匹、また一匹と溶岩の中へ吹き飛ばされて行く。
「大丈夫ですか?」
「貴女の方が……駄目だと思います」
「それは知っています」
頭陀袋の奥深くに入れてある包帯を探り当て、それを使って止血する。早急に医者にいかなければそれこそ腕がなくなってしまうだろう。
「笑って言う事じゃないでしょう」
「笑っていると神様は笑ってくれるみたいですから……私にできる事なんてそれぐらいですから」
「何ですかそれ?」
「御気になさらず。それより、改めて聞きますけれど、大丈夫ですか?」
自分の止血を終え、次いで女性の傷を確かめて行く。どうみても大丈夫そうとは言えなかった。だが、やれることはやる。
「そう、ですね。駄目だと思います。全く……不運続きです。ギルドマスターが怪我をされて、統制が全く取れない状況で遠征だなんて、どう考えても自殺でしかなかったのに……加えて、これです。未発見の領域に辿り着いたのは喜ばしい所ですが……もはや、私は持たないでしょうね」
「カイゼルさんのところの?そういえば、五人一組でしたか」
「知っておられ……いえ、そうでしたか。貴女が……私、もしかして、セリナ達に踊らされましたか?我が身を賭して、助けてくれる程に勇敢な御方が、斯様な事を企てるわけもないでしょうに」
髪を見て、気付いたのだろう。カイゼル達に怪我をさせた発端が私であるという事に。
「知りませんよそんな事。とりあえず、こんなに喋っていられるのですから、大丈夫ですよ。馬鹿師匠もそろそろ戻ってくるでしょうし、妖精さんも……戻ってくるでしょうから」
「不思議な人ですね。貴女。それで、折角助けて貰った所、悪いのですが……置いていって下さい。足手まといが過ぎます。出来れば、殺してほしい所ですけど……助けてくれた人にそれを願うのは申し訳ないですしね」
さっきまであれだけ泣き叫んでいたというのに。これだ。死にたいわけがないだろうに。助かりたくないわけがないだろうに。
とりあえず、包帯を巻いた手でぺちんと、彼女の頭を叩く。
「馬鹿は嫌いです。お断りします。応急手当だけはします。あとは師匠に運んで貰いますので、安心してください。戻るまで生きていて下さい。カイゼルさんから聞いていませんかね?私に出会ったら不幸になるんですよ。願いは、叶わないんですよ」
どぷん、という一際大きい音と共に最後の妖精が溶岩の中に沈んだ。
溶け、跡かたもなくなり、あとにはただ怨霊の銛を持った妖精さんだけが空に浮いていた。
「妖精さん……」
声をかければ、反射的に振り向き、こちらに飛んで来ようとして……妖精さんが落ち、かけた所で、幽霊が現れ、それを支えた。
「無理をなさるから」
「テレサ様……」
「カルミナ。悪いけれど、この黒いのと、ウェヌス様をお願いするわね。流石に、もう無理でしょう。……ガラテア様もどうか宜しくお願い致します」
……もはや、妖精さんの力は、悪魔が寄ってこないようにと抑えていた神様の力は、失われたと言う事だろうか。
「えぇ。後は任せておきなさいな。……ウェヌス、貴女も馬鹿ねぇ。無理しちゃって……そんなに嬉しかったのかしらね?死に至る現実を知り、もはや神へと戻り、それでも尚、夢で出会った少女を助けたかったという事?そんなに楽しかったの?そんなに嬉しかったの?」
テレサ様が私の後ろ、背に立った者に頭を垂れ、私に妖精さんを渡し、次の瞬間、再び銛の中へと消えた。そして、鈍い音を立てて銛が地面へと倒れた。
目を閉じ、翅を動かす事もなく寝入った妖精さんを胸元に挟み、銛を持ち上げようとしてもやはり私の力ではどうにもならず、怪我が悪化しそうになった。
お願いとばかりに師匠を仰ぎみれば、その両手は塞がっていた。片手には甲羅、もう片方の手には……どこかで見た幾何的な形状をした生物を持っていた。
「なんで天使がいるんですかね?役立たず師匠」
「ちょっと戻って来て早々失礼よっ!?まったく、どこかの馬鹿が天使なんか呼びつけるからでしょうが。あの亀殺してから戻ろうと思ったら、天使が現れたんだから仕方ないじゃないのよ。……ま、死んでないのだから良いじゃない。ほら、ちょっと傷口見せてみなさいな」
回復魔法なんていう奇跡のような事ができるのかと思えば、襲ってきたのは冷気だった。血管の傷付いた右腕が凍った。巧く動かす事ができなくなったものの、これで腐る事はないだろう。
「しばらく、それで持つでしょ」
「ありがとうございます」
「それで……そっちは瀕死っぽいけど……その恰好。そう。貴女ね?貴女がこれを呼んだのね?」
「今の魔法ですか!?す、凄い……その恰好、マ、マジックマスターっ!?うそ……本物っ!?」
瀕死の癖して意外にこの女の人、元気である。どこかメイドマスターに似たものを感じる……時と場所と自分の状態を考えれば良いと思う。
齧られ全身から流れていた血はほぼ止まっている……それは良い事ではなく、血が流れ過ぎて圧が弱まったという事でもあった。そして、足は当然、機能せず、体力もどんどん失っている。けれど、それでも元気そうに見えた。どこら辺がもう駄目だというのだろうか。単に精神が錯乱しており、現状を把握しきれていないだけにも思えてきた。それとも、熟練の自殺志願者故に理解しているのだろうか。この状況では、私達だけでは戻る事ができないと、そう思ったのだろうか。今の状態では足手まといになると思ったのだろうか。
だから、せめてでも私が塞ぎこまないようにと、無理やり元気なのを装っているのだろうか?
「教会の売女が良く知っているじゃない。そうよ。マジックマスター様よ?良く、天使を呼んでくれたわね」
「そ、それが天使様……洞穴内で目撃されたというのは本当だったのですね」
ケタケタと笑いながら、その女性の下へとドラゴン師匠が向かう。
しゃがみ、視線を合わせて。
「ありがと?」
目の前で天使を喰らった。
ほんとこのドラゴン碌な事をしない。が、ドラゴン師匠なりの感謝の現れなのだろう。全く良く分からない気の遣い方だが。
「ゃ……そ、そんな」
「こんなモノを崇めて、こんなモノを信仰する。狂気の沙汰ね?ほら、貴女達の信仰を喰らっている私を殺してみせなさいな。大事な大事な天使様を喰らっているこの私を殺して、自分こそが教会で一番の信徒だなんて言ってみなさいな?」
瀕死の怪我人相手に何をしやがっていますかこの馬鹿ドラゴンは。
しかし、である。
先程から食事姿を見せられてばかりで、お腹が空いてきた。
「師匠、私もお腹が空いたんですけど」
「何よ、そんなに食べたかったら、洞穴の壁でも食ってればいいじゃない。ほら、あそこの辺り」
むしゃむしゃと天使を齧りながら、指差したのは溶岩のある場所とは少し離れた場所だった。小さな穴が見える。
小さな穴が、動いているように見える。
鳴動する壁。
胎動する壁。
「大腸みたいですね」
なんだかとても柔らかそうに見えた。とても美味しそうななお肉に見えた。大陸は神様の化身。だったら、この洞穴は神様そのもので、神様の内臓なのだろう。えぇ。そうに違いない。だから、釣られるようにそこまで移動し、包丁を抜いて壁に差し、ぷりん、と切れた壁に、ごくり、と喉が鳴ったのは、私が悪いわけじゃない。
怪我をして血が足りないのだ。血を採らないといけない。血を摂取しないと私は死んでしまう。それに瀕死の彼女も血が足りないのだ。血を採るのは肉が一番。だから、とどのつまり、空腹が悪いのだ。
「いただきます」
「うわっ。ほんとに食べたわよ?ほら、ねぇ。貴女もどうか言いなさいよ。って……何よ、気の弱い子ねぇ」
―――
「カルミナちゃん。なんか私、荷物が多いんだけど」
手には銛、甲羅。加えて肩に女性。その誘拐犯みたいな持ち方はどうかと思うのだけれども、致し方ない。
「私もいっぱいいっぱいですので」
腕の怪我が凍っている所為もあって手で物を持つ事が殆どできないのもある。加えて、頭陀袋と死んだ人たちのネームタグと、女性の服を元にして作った袋に詰め込んだ壁肉。あれは美味しかった。えぇ。とっても美味しかったので、ついどうにか持って帰られないものかと思い、いや。そうじゃない。私達の血を補充するためだから仕方ないという理由によって、彼女の服の一部服を切らさせて貰った。命の恩人の言う事なので、という台詞に甘えてついついである。御蔭で彼女の服は大層短くなった。
ついでに、胸元には眠りについた妖精さんがいる。
「すみません……お手数おかけします、マジックマスター様」
「煩いわね。戦利品は黙ってなさい」
「は……はい」
言うに事欠いて戦利品である。しかし、微妙に嬉しそうなのが何とも言えない。やはりメイドマスターみたいな印象を受ける。
しかし、ドラゴン師匠の魔法の御蔭で、彼女の傷口の処理が出来たのは良かったと思う。役に立つ師匠の格上げである。身体に出来た齧られ傷は綺麗に洗い流し、焼いて止血。一番重傷だった足は、風の魔法で溶け爛れた部分を切り落とし、傷口を水の魔法で洗い、私に施したのと同じく氷の魔法で凍結させた。
エルフでもない彼女では義足での生活も難しいだろう。きっともう歩く事は叶わないが、しかし、生きてはいる。生きて生活する事はできる。自殺志願者として生きて行く事はもはや無理かもしれないけれど、それでも、元より教会の人だとするならば、そちらで生計を立てられるのではなかろうか。そんな事を考えていた所為だろう。ふいに思い出した。
気も紛れるだろうと思い、女性に声を掛ける。
「そういえば、教会の人でしたら、ちょっとお聞きしたのですが」
「私に分かる事でしたら」
何とも変な体勢での会話だった。
「私が元いた村に、教会の人が色々と教えに来てくれていたのですが、それがどなたか分かりませんかね?御礼を言いたいんですが、教えて貰った内容が教会の人らしくないという事に気付いて、教会の人かもわからなくなったので……もし知っていたら教えてくださいな」
「なるほど。私どもはトラヴァント周辺の村に対し、教育を行っておりますが、教会が主導しているだけで、必ずしも私どもが教えているわけではありません。ですから、教会の人らしくないという事でしたら、きっと私どもでは無いのでしょうね。教える内容はそれぞれに任せておりますし」
恰好はあれだが、話す言葉はしっかりしていた。魔法と肉の御蔭だろうか。
「はぁ。とすると、良く分からないという事になるんですかね?」
それは残念だった。
「そうですね。私どもは当然として、教養ある御方、学園の教師をされている方などが大半ではありますが……もっとも、領主によっては、領主自らが教育を行う所もあると聞いております。ですので、一概に教会主導で教育を行っているわけではありませんから、やはり、分かり兼ねるというのが答えになります。御力になれずで」
「領主様自らというのもあるんですか」
「視察も兼ねてだと聞いております。それと、私どもの手を入れたくは無いという意味もあるのでしょうね。そのご意見も尤もだと思います。最近の教会は……いえ、それは良いですね。……あぁ、ちなみにどちらでしょう?知っている所でしたらお答え出来ますが」
「ディアナ=ドラグノイア=リヒテンシュタイン様の領地です……確か、東の方の」
「東の方?……えっと、リヒテンシュタイン公の領地でしたら、両方ですね」
「えっと、両方というのは教会の方と、ディアナ様ご本人が、教育に?」
「はい。大変、お忙しい方と聞いております。それゆえ、いくつかの領地以外は私どもに依頼されております。ですが、そのいくつかの領地はご本人が廻られていたかと記憶しております。それがどこだったかはちょっと記憶にありません。すみません」
「あぁ、いえ。大丈夫です。……ディアナ様が自分で」
「お時間もないでしょうに、本当教育熱心な素晴らしい領主様ですね。奴隷を集めている事に関しては、少し、宜しくない噂も聞きますけれど」
確かにディアナ様の教え方はとてもうまくて、私の分からない事だけを知っているかのような見事な教え方だったし、ディアナ様を見ていて教会の人を思い浮かべた事もあったけれど、でも……だったら態々教会の人と同じ恰好をする必要もないわけだし。それに、あの女性にはディアナ様みたいに泣きぼくろはないし……。
……それに、仮に、あのフードの女性がディアナ様だとしたら、何故、領主に自分を売り込む手法を教えたというのだろう。こうすればうまく行くだなんて、私が買いたかったとかだろうか?
いや、それは無いな。
そんな馬鹿馬鹿しくも恥ずかしい発想を、頭をふりながら消していく。
やっぱり教会の人が教会の人らしくない物言いをしていたという事かな。悩ましい。聞いた結果更に頭が悩まされただけだった。謎はなくならないものだなぁ。
どうしたものか。ディアナ様に直接聞けば良いのかなぁ?と考えながら先を行く。
もはや、洞穴に用は無い。
師匠は材料を集め終わったと言っていたし、後、用があるのは地上だけだった。
私の怪我の治療や、彼女を……そういえばまだ名前を聞いていなかったが……体力的に無理があったのだろう。少し声をかけない間にドラゴン師匠の肩の上で寝ていた。その彼女を地上へと届け、彼女と同行していた者達のネームタグを届けるのだ。
なので、帰りは学園側の入り口に向かう事になった。
ドラゴン師匠が非常に面倒くさそうな表情をしてはいたけれど、でも、この女性にキプロスの、リオンさんの部屋へ続く入り口を見せるわけにもいかない。
なので、今、学園長の部屋の前にある入口へと向かっていた。
ここに至ればもはやドラゴン師匠に頼り切りで、道案内や化物の排除に留まらず、物を持つ事すらお願いしている始末である。大変申し訳ないとは思うが、思うが……
『お酒奢りますから』
『承ったわっ!』
という現金な取引が成立していた。金属の花も手に入れたし、懐は暖かく成る事だろう。えぇ。治療費にどれだけ掛るか分からないのが怖い所ではあるけれども……。
そうこうしながら、歩みを進め、再び墓へと戻って来て、休息を取る。
「目、覚まさないですね」
「どっちの話よ」
「どっちも、ですね」
「当然でしょ。方や死に掛け、方や覚めるはずのない眠りから覚めたのだから。無茶するわよ、ほんと」
「やっぱり、無茶だったんですよね」
「そりゃそうよ。……だからこそ、後が怖いわねぇ」
「師匠にも怖い物ってあるんですね」
「パパと酒が怖いわ」
そんな事だろうと思った。
「あぁそういえば、師匠」
先程、女の人と話をしていた内容を思い返し、久しぶりにディアナ様と交渉をしようと思いつく。私に色々教えてくれた人が誰か?ぐらいなら教えてくれるだろう。教えて貰って、今更ながらありがとうと伝えたい。そのためにも……
「リオンさんの部屋にあったオケアーノス、貰って良いですか?」
「いいけど、何に使うのよ?」
「現金な少女による領主様への機嫌伺いです。ほら、師匠も知っているでしょう?ディアナ様。これ作ったんですし」
ついと包帯を巻いた手でスカートをたくし上げる。
「女の子がはしたないわよ?」
「全裸だった師匠に言われたくないんですが……で。魔法が掛っているから師匠の作品ですよね?この貞操帯」
「これまた懐かしい物が出てきたわね。私が防具を作れない事を確信した作品ね!まったく……嫌みな弟子よね。そんなに助けなかった事恨んでいるのかしら?」
「それは被害妄想です。……やっぱり師匠の手によるものなんですね。というか、懐かしいですか?」
「そうね。懐かしいものよねぇ。ほら、あれよミケネコが描いた絵画と一緒だったわねぇ。パパが魔除けだとか言ってあの時の皇帝に進呈したのよ。失礼よね、私の事を魔除けとか言うなんて。そんなに綺麗って事?なんだ。パパったら!」
「……だとすると、相当に古いですね?」
「ちょっと、無視しないでよ。……で。それ、よね?相当に古いわよ。防腐、防錆、魔法付きと面白機能満載だから古くは見えないと思うけどね?……だけど、駄目ね。やっぱり私はミケネコみたいに巧く防具は作れないわ。不器用が過ぎるのよねぇ。所詮、爬虫類ね。その辺り、人間には敵わないわね!で、なんでそのディアナ何某とかいうのが持っているの?」
「……皇帝から頂いたとか?」
「絵と違って、国宝とは言わないけれど、一応、かなり扱いは良いもののはずよね?それを地方領主に渡す?ましてそれを」
「……なんで私にこんなもの付けたんでしょう?」
「知らないわよ」
「ですよねぇ……」
それも合わせて聞く事にしよう。貞操を守る事に何の否やもないので別に良いのだけれど、悩ましい事ばかりだと頭がおかしそうになるので。
「じゃあ、師匠。すみませんけど、後は」
「怪我人が何を遠慮しているのよ。役立たずなんでしょ?これぐらい役に立つわよ?」
「……ごめんなさい。師匠は超素敵で超役に立つドラゴンです。ちゃんと尊敬しています!」
「ふふんっ!ようやく分かってきたわねっ!」
安いドラゴンだった。
そして、再び。
一日が終わりを迎えた。
―――
「ようやく地上ですね……貴女のことを誰かにお願いして、あとは……ネームタグ渡してこないと……あぁ、怪我の治療も」
地上へと続く階段を昇り、近くに居た人に声を掛け、救護の人を呼んで貰う。それをしばし待ちながら、肩から下ろされ、地面に座り込んだその女性と会話する。
「ありがとう……この恩は忘れません。そういえば……名前。カルミナさん、でしたっけ?」
「はい。カルミナちゃんです」
「私は、テオドラ=リドヴィナ=バレンブラッド。仲が良い子にはテオとか呼ばれているわ。覚えておいてね?」
あぁ、家名もミドルネームもあると言う事は、貴族の方だったのかこの人。じとーっと見ていれば、恥ずかしそうに顔を隠した。全く、元気な人だった。
「次に使う機会がある、ということで承知いたしました。いずれまた。あぁ、そうです。カイゼルさんに会ったら御店でお待ちしておりますとお伝えください。約束は守って下さいともお伝え頂けると幸いです」
「ふふっ……分かったわ。秘書としてしっかり伝えておくわ。その時は私も、そしてあの子達にも謝りに来させるわね」
「あー……小うるさい秘書さんて貴女でしたか。確かに煩いですねぇ」
「ちょっと」
「ギルド運営大変かと思いますが、がんばってくださいね。あぁ、じゃあついでにこれも。誰か分かりませんが返しておいてください。一人で自殺洞穴に入った馬鹿な男の置き土産です。役に立ちました、ありがとうございました。とお伝えください。ちなみに殺して奪い取ったわけじゃありませんので安心してくださいね?その後は……知りませんけど」
「……一人で……マスターが健在でないとここまで乱れるのね……嫌になるわね」
「頑張って下さいね。マスターが怪我をして、秘書まで怪我をしたら尚更大変な事になりそうですね?」
「ハァ……貴女、うちのギルドに来たりしない?教会の方でも良いけど」
「どっちも嫌です。全く。カイゼルさんみたいな事言わないで下さいよ」
「未到領域到達者で、何かわからないけど凄い御仲間もいるし、マジックマスターの弟子だし……羨ましいし」
最後の言葉を聞いて、メイドマスターと全く同じ人種であるという事を確信した。
「はいはい。とりあえず黙って下さい。貴女自覚ないかもしれませんが、相当に重傷なんですからね?」
「貴女も相当駄目な状態よね?」
「私は自覚があるので大丈夫です」
死に掛けだった時のぐしゃぐしゃになっていた表情はどこにいったのだろう。まったく……そうこうしていれば、救護の人が来て、彼女を連れて行った。
その間、ドラゴン師匠は空を見ていた。
青い空だった。
雲一つない空だった。
そこに、ドラゴン師匠は何を見たのだろう。
「それじゃ、もう良いでしょ?……私はちょっとパパを殺しに行く事にするわね?」
「いきなり物騒な……何事ですか」
「ウェヌスがそんな風になった以上、パパを連れて来ないとねぇ?」
胸元を指差され、見下ろせば目を閉じたままの妖精さんの姿。
「助けないんじゃなかったんですか?」
「だから、殺しに行くって言っているじゃないのよ」
「殺すって……」
「捕まっているっていっても生きている間だけでしょ?どうせ死んだら釈放でしょ?だからパパころすわよん、ってね?」
「いや、リオンさんは死なないんですよね?」
「死なないんじゃないのよ。殺しても死なないのよ」
「そこに何の違いが……」
「全然違うわよ。ま、見れば分かるわよ。見に来る?」
「知り合いが殺されている所を見たくはないのですが……リオンさんも一発ぶん殴っておきたい気分なので、ご一緒させて頂きます……治療を終えたら」
腕の怪我を見ながら、やっぱり、ガントレットは作って貰っておくのだったなぁと今更ながらに思う。あればもうちょっとがんばれた気もするし……今度こそ作って貰うとしよう。
「あははっ!そうね。勝手に後を託して、若い女の子を困らせたのだから、それぐらいはされても良いわね。許すわ!カルミナちゃん、パパを撲殺しなさい!」
「嫌ですよ」
「じゃあ、私が、殺すわよ?」
ドラゴン師匠が、天を向いて、ケタケタと笑った。
だが、殺す暇もなく。
治療を終えた私が、待ち草臥れ不貞腐れたドラゴン師匠が、その場に辿り着く前に。
世界は鳴動し、世界は割れ、私の、私たちの目の前で、塔が崩れ落ちた。
神様が、死にたがりの神様が、絶望に泣いた神様が、寂しがり屋の、どうしようもない程馬鹿で愚かな、私を助ける為にがんばって見たくもない夢を見てくれた神様が……
その日、目を覚ました。
了