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自殺大陸  作者: ししゃもふれでりっく
第三章~パンが食べたくないならダンジョンを貪ればいいじゃない~
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第11話 翼なきものの肖像

11.



 だったら、おかしなことが一つある。

 今現在、テレサ様が悪魔を作った神様に捕まっていない理由である。それを聞きそびれたのを思い出したのは翌日、先輩に連れられてレアさんと一緒に城へ向かう途中の事だった。


「……失敗しました」


 零れる声に先輩とレアさんは不思議そうな顔をしていた。2人に何でもないと答えながら、脳内で爆笑しているテレサ様を睨みつけた所で意味は無く、今度会ったら蹴飛ばしてやると想いを募る。きっとそれもまた意味のない事だけれど。

 しかし、妖精さんが店に残り、テレサ様も店に残った事を思えばテレサ様がこの世界にいられる理由はやはり妖精さんなのだろう。けれど、何故妖精さんなのか?が分からない。悪魔を作った神様がリオンさんを恐れて近づいて来ないのならば、妖精さんを恐れる理由もない。それとも妖精さんもまた神様を殺したと言う事だろうか?あの小さい体で神様を引き裂くというのは中々見物かもしれないが……。

 そういえば、最初にテレサ様の事に対してどうにかしようとしたのはリオンさんではなく妖精さんだったようにも思う。

 あの時、リオンさんは何と言っていただろうか。妖精さんが見逃すはずがない、だっただろうか。かりかり、と頭を掻きながら思い出そうと試みた所で、日常の一場面の記憶を鮮明に覚えていられる程出来の良い頭ではなく、それ以上思い出せる事はなかった。


「まぁ、今は良いかな」


 再び零れ出た言葉は、吐息のように小さく、2人に聞かれる事もなかった。

 ともあれ、つまりテレサ様はそっちの情報を隠したのだろう。そんな風にも思える。興味を別の方に向けさせ、隠したい事から意識を逸らさせる。少しの秘密を開示する事で少しの納得を与え、その場を凌ぐ。あの店長にしてあの店員である。全く、役者だった。戯曲作家志望なのに。

 ため息交じりに空を見上げる。

 昨日の今日になっても天気は回復しておらず、小雨混じりの曇天模様。相変わらず、蛙達は大合唱に忙しい事だろう。そんな事を思う。

 そうしてテレサ様の事を頭の隅に追いやり、時折肌に触れる水滴に冷たさを覚えながら城へと向かう。

 何の気なしに道のど真ん中を歩く先輩に、もっと隅っこ歩きましょうという提案をして素気無く却下されたのも少し前。先輩を先頭にその後ろを私達2人が付いて歩いていた。

 1日経てば服も乾き、いつもの着物姿になった先輩の後ろ姿。折角乾いたのに傘もささず小雨の中を行くというのは馬鹿だと思う。が、白い髪の隙間から見えるうなじの白さにこれはまた眼福という奴ですね、という阿呆な事を考えていれば、歩きながらくるりと先輩が首だけ振り返り、その何でも見通す瞳で私を見る。器用な仕草だなと思いつつも、ばれたのだろうか?という変な焦燥感を覚える私に先輩は、少しばかり不思議そうな表情をしながらも特に気にした様子もなく、振り向いた理由を口にした。


「大人気だなぁ、カルミー」


「それは先輩の方では?先輩は有名人みたいですしねっ!」


「はんっ」


 少し慌てて口早になったものの、そんな事を言ってのければ苦笑された。分かっている癖に言うなよ、と。

 歩きながら、先輩が肩を竦める。これまた器用な仕草だなと思いながら、それに合わせて私も同じように肩を竦める。その仕草に再び肩を竦められ、先輩が前を向く。みてらんない、と言いたげだった。

 当然、分かっている。

 私も少しは周りが見えるようになったと思う。それはある意味で少しは世の中を知ったという事だろうか。周囲から感じる不躾な視線は先輩へのものが3割、レアさんへのものが1割、あとの残りは全て私。まぁつまり殆どが私である。そういう意味で先輩の指摘は全く正しい。私の言い逃れは全く正しくない。

 こそこそとこちらを見ては互いに声を掛け合い、次第、離れて行く人達の姿。何を話しているのかは分からないが碌な事ではないのは確かだろう。ただ、こうやって噂というのは出来て行くのだろうなとそんな事を思った。

 そして、中にはこちらに聞こえるような声音で話す者達もいる。

 例えば、街角に立つ婦人方。買い物に行ったら友人と出会い立ち話をしていた所に私達が通り掛かった、そんな感じだろうか。摺れ違い様に聞こえた言葉は、不吉な色であるとか、奴隷のくせに道の真ん中を歩くなんて!とか、エルフが街中にいるなんて怖い!とかそんな類のもはや聞き慣れたようなものだ。そんな言葉は自然、左の耳から右の耳へと流れて行く。慣れ、だろう。同じく先輩もそんな言葉は聞こえていないとばかりに泰然と先を行く。

 だが、レアさんだけはそんな無遠慮な悪意に怯えていた。好奇心旺盛にあちらこちら見ていられればそんな雑音も入ってこなかっただろう。けれど、残念ながら今は周囲に人ばかり。寧ろ彼女自身が好奇の対象だった。でもそれでも今はまだ良い方だろう。まだ良いから何だという事もあるが、彼女1人であれば彼女だけに集中するものなのだから少しは良い方だろう。まぁ、その分、数は少ないとは思うが……トラヴァントで生きるには今の内から少しでも慣れていくしかない。

 その内、慣れる。私たちのように。

 それは良い事ではない。良い対処法ではない。けれど、世界はそういう風に出来ているのだ。こんな世界なのだ。だから哀しい事だけれどそうやって受け入れるしかない。それを壊す事が出来ると思えるほど私は夢見がちでも英雄願望に溢れているわけでもない。慣れて行くしかない。慣れて、慣れ果てて、馬鹿みたいに笑っていれば少しは気も楽になるだろう。そうすれば。そうすれば、きっと泣いていた神様だって笑ってくれるに違いないのだから。

 彼女の全てを守ることが出来たなら、きっとこんな苦労をさせないで済むだろう。私が英雄様のような人間であれば彼女に向かう全ての悪意から守る事もできるのだろう。英雄様と連れ立っていれば、あの方はエルフまでお仲間にするお優しい方という話にでもなって美談になるのだろう。けれど、私にはそんな力はない。でもまぁ、怯えている子の気を逸らすぐらいは出来ると思う。

 裾を掴んでくる小さなエルフの気を逸らすぐらい、私にもできると思いたい。

 アーデルハイトさんが直してくれた私の服、その裾を掴む手は、とても弱々しく、視線を向ければ、見た目相応の子供のようにさえ思えるほどにレアさんの表情からは不安が滲み出ていた。


「この国では黒い髪は嫌われているらしくてですね。巻き込んでしまって申し訳ないとは思うんですが……まぁ、レアさんは私に見つかった時点で運が尽きているので仕方ありません。諦めて私を恨んで下さい」


「カルミナ……」


 あまりにも露骨な言い方だったからだろうか。レアさんが瞳を閉じ、閉じたまま小さく苦笑する。苦笑し、裾を引く強さが少しだけ、ほんの少しだけ増した。小さな自己主張だった。それが何を意味するのか私には分からないけれども……多分、きっと貴女馬鹿でしょう?とかそんな感じじゃなかろうか。

 しかし、そういえば、またしても髪切るのを忘れていた、と今更ながらに思い出し、指で髪を摘み、レアさんの目の前へと。


「こんな感じです。ドラゴン師匠に言わせれば真黒だとのことで」


「確かに……カルミナのような奇麗な黒髪は見た事がありません」


「いや、奇麗って」


 ぞっとした。エルフの感性が良く分からない。こんな黒い色が奇麗だとか、こんな手入れもしていない適当に伸びるだけ伸び始めている髪のどこが奇麗だというのだろう。レアさんの目は節穴にも程がある。


「……可笑しいですか?」


「可笑しくないからもっと言ってやって頂戴」


 くくっと隠しきれない笑いが、前から伝わってくる。


「先輩、煩いです」


「ほんと、どっちが照れ屋だって話よね」


 レアさんに振り向いた先輩の横顔は、やはり笑っていた。白い、白い夜の姫が笑っていた。曇天模様の中、輝くような笑みを浮かべていた。


「はい」


 それに応えるようにレアさんもまた笑っていた。純血のエルフが人間の国で、死に近い国で笑っていた。

 2人は笑いながら、歩いていた。それについていくような形になってしまった私はきっと不満顔だろう。

 ふいに気付けば、向けられていた視線は消えていた。馬鹿みたいに笑っている人達に何か言った所で言っている自分が悲しくなるだけだと理解したかのように。楽しそうに笑う2人に何かを言った所で意味もないと悟ったかのように。笑っている人間に何を言っても意味がないと理解したかのように。

 私には想像しかできないが、でも、今のこの2人の姿を見て態々悪態をつく人はあんまりいないんじゃないかなぁと思う。奴隷だろうがエルフだろうが奇麗なものは奇麗だと、そう思う。それはきっと、汚れた湖に咲く蓮の花のように。

 そんな2人の姦しいやり取りから視線を逸らし、近づいてきた城を見上げる。

 大きかった。

 そんな子供じみた感想を浮かべる。その新しさ、綺麗さ、豪華さ、そして天を目指せとばかりに聳えるその大きさ。良い感じに腐ったドラゴンの方がそれよりもまだ大きかったように記憶しているが、それでもこの大きさは凄い。古く雅さの欠片もなく腐り果て、更には世界から隠れようとばかりに地下にあるキプロスとは対極だった。正直、比べる対象ではない。比べて良い対象でもない。

 間近でじっくりと見るのはリオンさんと訪れた時以来だった。あの時は何も考えられず呆と口を開いて城を見上げ続けていたように思う。


「しかし、何故、エリザベート姉様がここにいるのでしょう。何かしてしまったのですか?」


 その時の私と同じように呆と城を見上げながらレアさんがそう口にする。


「もうちょっとだけ我慢してくださいね」


「カルミナは隠し事が多いお店の店長代理さんですものね。もう諦めています」


 そうは言うものの、咎めるようなその口調は、ここまで来たらもう言ってくれても良いじゃないとでも言いたげだった。他に考える事は一杯あるんだからそんな事で悩ませないで頂戴よ、とまさに私がリオンさんやドラゴン師匠やテレサ様に言いたい事そのままな感じの表情を見せられて、うっと一歩引いてしまう。そして、これじゃリオンさん達の事は言えないなぁと気付いた。……隠し事はそれをばらす時が楽しいのだ。そこだけは共感できる気がする。


「……そういえば、先輩」


 そんなレアさんの追及から逃れるように先輩へと声を掛ければ、先輩が苦笑する。


「何?」


 話を逸らすために声を掛けたのがばればれのようだった。けれど、ただそれだけで声を掛けたわけではない。実際、今の内に聞いておかなければならない事があった。


「ミケネーコ何某氏の絵が城の中にあるって話だったのですけれど」


「あぁ、言っていたね。というかカルミー、わざと間違えているみたいだけど。何?好きなの?猫」


「それは食べモノとして?とか突っ込まれそうなので回答は控えます。……で、その絵画ですけど、見た事はありますか?」


「いや、無い。エルフのあの人が見たってんならそんな後生大事に仕舞われているわけでもないだろうから……後で誰かに聞いてみるよ。見たいんだろ?」


「はい。判断材料は一つでも多い方が良いですしね。在り過ぎも調理できなくて困りますが。しかし……私としてはもっと簡単に食べたいのですけどねぇ。料理は苦手ですし」


「料理は私も手伝いますよ」


 くいくいと裾を引っ張られた。そういう行動をするとほんと小さな子みたいだった。


「はい。お願いいたします。それで、先輩。小さな少女の肖像画だそうですので」


「了解。ま、その前に……ご対面だな」


「はい」


 既に先輩の方で調整はつけてくれていたのだろう、城門へたどり着いた私達は特に何かを言われる事もなく、案内役のメイドさんが現れるまでは待たされたものの、簡単に城の中へと通された。案内役として現れたメイドさんには僅かばかり怪訝な表情をされたが、先輩が目配せすればメイドさんのそんな表情も消え、やはり何かを言われる事はなく。

 いやほんと、先輩って何者なのだろう……これもまた、謎なのだろうか。もう悩みたくないのだけれど……。

 ほんと、勘弁してほしい。


「どしたのよ、カルミー?」


「いいえ、何でもありません。先輩はいつになったら恥ずかしいのを我慢して名前を教えてくれるのかなーと思ったぐらいです」


 部屋へご案内いたします、という言葉と共に動き出したメイドさんに付き従い、城の中、奴隷達が語り合いながら行く。傍から見ればおかしな光景を、きっとメイドさんにもおかしいと思われているであろう光景を作り出しながら道を行く。

 あの日通った道を再び通る。

 馬鹿みたいな話をしていたのは変わらないけれど、あの時とは違う人達と一緒に、その道を行く。


「ほんと……いつだろうなぁ?」


「知りませんよ」


「だよな。私も知らない。ゲルトルード様に聞いてくれよ」


「……はぁ」


「ため息ばかり吐いていると不幸になるらしいぞ?」


「大丈夫です。私ですから」


 ともあれ、今は恥ずかしがり屋の先輩の事よりも……レアさんの事だ。


「それではレアさん、吐いたため息の数だけ不幸になって下さい」


「えぇ。数え切れないぐらい……怨みますね、カルミナ」


 裾が、また少し強く引かれた。



―――




「……レア?」


「エリザベート姉様……」


 感動的な瞬間である。

 ディアナ様は私がエリザに会いたいという旨しか伝えていなかったらしいと今更ながらに知った。つまり先輩もキプロスに来るまではレアさんの事を知らなかったわけで、それをエリザに伝えられる機会はない。その割にはすんなり城の中に通されたのはやっぱり先輩のおかげなのだろう。メイドさんの怪訝な表情はそれが理由だろう。まぁ、御蔭で尚更謎が深まったのだが、ともあれ、エリザはまさかレアさんがこの場にいるとは思わなかったわけである。

 メイドさんは少し大きめの部屋に案内してくれた。その場で暫くお待ちくださいと言われ、言われた通りしばらく待った後、控えめなノックと共に、メイドさんに連れられてエリザが現れた。

 そして、エリザが部屋に入ると同時にメイドさんに礼を告げ、メイドさんを退室させた後、私に視線を送り、笑みを浮かべながら挨拶の言葉を告げようと口を開いた瞬間だったと思う。私の後ろにいる者に気付き、開いた口にそのまま手を宛て、まさに呆然といった感じで紡ぎだされた言葉がそれである。

 私の後ろから、私の裾から手を離してレアさんが歩み出てエリザの向かいに立つ。

 生き別れた2人の姉妹が、2人だけとなった姉妹が再会した瞬間だった。

 片や手足と片眼を失った混血エルフ、片や首を引き裂いて死のうとした純血エルフ。何か一つでも間違いがあればこの場面はなかったものだ。

 戯曲や物語でいえばきっととても感動的な場面になるのだろう。

 だが、しかし、互いにそれ以上の言葉は紡げず場面が進展することは無かった。

 エリザからすれば嫌われたと思っていた相手であり、レアさんからすれば見放してしまった相手だったのだから。だから、彼女らの間に二の句は無かった。

 沈黙がこの部屋を埋め尽くす。

 互いに見つめ合い、物言いたげな表情はするものの、しかし、何かきっかけがなければ先には進まない。そんな雰囲気だった。

 皆の吐息だけが部屋に響く。

 世界は音を失い、吐息だけがこの世界に存在を許された音のようにさえ思えるほどに。エリザもそしてレアさんも何度も、声を出そうとするも言葉は紡がれず、世界に音は産まれない。

 窓辺に控えるように立つ先輩もまた、今は静かに時を待っていた。2人をどうにかしたいとは思っているが、しかし言葉が思い浮かばないといった所なのだろうか。その柳眉の間には皺が産まれていた。

 誰も言葉を産み出す事は出来ない。誰もが言葉を忘れたように、ただ成り行きを待っていた。けれど時が経てば、時が過ぎれば尚更に言葉を産み出すのは難しくなる。それを皆が分かっている。

 分かっている。分かってはいるのだが、今の私にはそんな沈黙を巧く解消するような台詞を口にすることはできなかった。

 私には、そんな恰好良い事ができるはずもない。

 私には、無理だった。

 だってさ……無理だろう。


「ぶふっ」


 噴き出した。

 引き攣りそうになっていた頬が、実際引き攣って思いっきり噴き出した。挙句、あろうことか国の御姫様に指差して笑ってしまった。時も場所も考えずに奴隷がこの国の希望に向かって指差して笑ってしまった。


「エ、エリザ、なんなのその格好」


「ちょ、ちょっとカルミナ!それは酷いんじゃありませんか!?」


「いや、だって。その……エリザがそんな服って見た事なかったからつい」


「見た事ないからってそんな!わ、私だって……」


 豪奢なドレスだった。今のエリザはまるで物語に出てくるお姫様のようだった。事実お姫様だけれども。いや、似合ってはいる。似合ってはいるのだ。だが、エリザっぽくない。まだ鎧に身を包んで現れてくれた方が分かる。胸元肌蹴て奇麗な鎖骨が見えるのは良い。そこはとても良い。憎たらしい天使の痣を堂々と見せているのもまぁ仕方ないことなので良しとしよう。皇族としての証だという証明なのだろうから。片目が潰れているので黒い眼帯をしているのも仕方ない。しかし、首元を飾るのが例の首飾りというのが台無しだ。武骨にも程がある。そこはせめて宝石とかにしておきなさいよと言いたい。そういうのは一緒に遊びに行くときに……あぁ、そうか。エリザ的には私と会う予定だったわけだ。

 だったら笑って悪かった。笑って……いやでも、ドレスにそれって……


「……先輩、後お願いします」


 これ以上は無理だった。良く先輩に格好つけるなら二の句は考えておけとか言われているけれど、無理である。二の句もまた、大笑いという形になりそうだった。


「カルミー。そこは褒めておいてやれよ。馬子にも衣装って」


 そういう意味ではなかったのだが、見事に後を繋いでくれた。流石、先輩だった。まさに妹を見るような視線をエリザに向け、先輩がくすりと笑みを浮かべる。その優しそうな笑みが尚更性質が悪い。御蔭で更に噴き出しそうになった。


「姉さん!」


 エリザもエリザで気が抜けたのか額に手を宛て、ハァと大きなため息を吐く。全くこの人達は、と言いたげだった。


「うん、似合ってる。似合っているから安心していいよ、エリザ。でも、その首飾りはその服には合ってないから止めた方が良いと思う」


「合っていませんか?」


 しゅん、としながら自分の胸元に視線を動かした。


「エリザベート。カルミーは単に照れているだけだから安心しとけよ」


「姉さん……もう、カルミナったら」


「ちょっと。だからなんで先輩の言う事だけ聞くの」


 以前から思っていたが、エリザは先輩の言う事を信用し過ぎだし、真に受け過ぎだと思う。

 やいのやいのとそんなやり取りに心落ち着いたのか、暫くしてエリザがレアさんの方を向く。だが、レアさんの方も少しは柔らかくなったとはいえ、未だ表情は硬い。全くこの駄エルフめ。だが、ここは私の出番ではないだろう。

 姉が動いた。


「レア。久しぶりね。元気……ではないのでしょうか?どうしたの?これ」


 恐れを抱きながらも、しかし自ら近づいていき、その手を、作られていない方の彼女自身の手で頬に、首に触れる。

 首についたナイフの跡。きっと消える事のないその傷を隠すために巻いた包帯。黒い色の包帯はさながらチョーカーのようにさえ見える。一見すれば装飾。だが、しかし、それで隠せる相手ではなかった。エリザとて自殺志願者だったのだ。それが怪我を隠すために巻かれた物だと言う事に気付かないわけがなかった。

 そして気付かれた者の表情が歪む。


「……姉様。ごめんなさい……ごめんなさい」


 頬に、首に触れられた手のぬくもりを感じているのだろうか。優しい姉の暖かさを感じながら彼女は、謝罪の言葉を告げ始めた。

 未だ自分を許す事もできず、涙を流す事すらできない彼女が痛ましい。溢れそうな堰を必死で抑えながら、揺さぶられる感情を殺しながら彼女は震える声でただ、謝り続けていた。

 見捨ててごめんなさい。見放してごめんなさい。酷い事を言ってごめんなさい。

 そんな言葉を延々と。延々と産み出していた。沈黙だけだった世界に、音のなかった世界に悲しい言葉だけが産まれて行く。

 一つ、また一つ、と。

 その一つとして、彼女に非はないだろうに。でも、それでも彼女はそんな悲しい言葉を産み続けていた。

 その言葉を、エリザは一つ一つを噛み締めるように、けれど嬉しそうに、もういいの、とレアさんを抱きしめ、その髪を撫でる。

 辛い事もあっただろう。苦しい事もあっただろう。死にそうになった事もあっただろう。死にかけた事もあっただろう。心が壊れた事も、壊された事もあった。けれど。そんな事よりも……エリザにとっては、きっと今が嬉しいのだろう。無くしたと思っていた過去が、悲しい事だけになってしまった暗い過去が、そうじゃないと、無くなってはいなかったと知ったのだから。


「また、貴女に会えて良かった」


 その言葉が、堰を切る。

 手をエリザの背に廻し、エリザの胸の中、レアさんが声にならない声をあげていた。もはや言葉ではなくそれはただの叫び。心の奥底を全て曝け出すような、慟哭。

 けれど、でも、それは。

 世界を恨んだゆえに出て来たものではない。

 世界を憎んだゆえに出て来たものではない。

 ただ、エリザが生きていて嬉しい。ただ、エリザに会えてよかった。そんな想いから出たものだ。遣り切れない想いも、後悔もあるだろう。けれど、それだけじゃない。悲しいまでの決意をして自らを殺そうとした時とは違うのだ。

 死んだかもしれない姉に会えた。大好きな人が生きていて、そしてまた会えた。今、この時、その瞬間に一緒にいられることはどれほど嬉しい事だろう。

 きつく自身に縋りつく妹の姿にエリザは、とても嬉しそうに笑っていた。

 そんなエリザの姿を見て、なんだ、駄エルフなのにしっかりお姉ちゃんしてるじゃないか。もう駄エルフなんて言えないね、なんてそんな偉そうなことを思った。

 嫌われたと思っていた相手に自分から近づくのは怖い事だろう。それが身内ならば尚更に。けれどそれでも妹よりも先に一歩前に進んだのだ。彼女は強くなったのだ。もう死んでも良いなんて思わないとそう言った彼女はとてもとても強いのだ。身も心も強いのだろう。今なら、テレサ様の事も見えるんじゃないのだろうか?そんな事を考えながら、先輩の方に視線を向ける。


「御邪魔虫は去るとしようかね」


 向ければ察したように先輩が言う。


「はい。姉妹水入らず、と。エリザ、また後でね」


 無言で頷くエリザはとても奇麗だった。

 さっきはあんな風に笑ったけど、やっぱりエリザは美人さんだ。

 そういう格好がよく似合う。



―――



 先輩と連れ立って部屋を出たが、しかし、何か目的があるわけでもなく、扉を閉め、少し離れた所まで移動した後、通路に立ち止ってしまった。


「……どうしましょう?」


「少しかかるだろうから、件の絵画でも探しに行くか?」


「そうしますか。でも、勝手気ままに歩きまわって良いわけはないですよね?」


「まぁそりゃ流石にね。……誰かに案内してもらわないとなんだけど……どうせならその絵画を知っている人が良いんだけど、誰が良いんだろうなぁ?」


「やっぱりメイドマスターですかね?職業柄そういうのにお詳しそうですけど」


 伊達や酔狂で皇族のメイドをしているわけではないだろうし、城の事には詳しいのではなかろうか。それに彼女には別件でも用がある。エリザの事があった所為で、恐らく不要になったと思われるオブシディアンの調査に関して一応、話はしないといけないだろう。意味もなく続けるにせよ、止めるにせよ一度依頼として出たものなのだから確認は必要だろう。こんな機会でもなければメイドマスターとは暫く会えそうにもない。


「性悪メイドなぁ。と言う事はとりあえず、ゲルトルード様の部屋へ行けば良いかな」


「メイドマスターってゲルトルード様のメイドさんだったんですか?皇女付きとか言っていた記憶はありますが」


「まぁ、皇女自体がもはや2人しかいないからどっちのってわけでもないだろうけど……あぁ、エリザベートを併せて3人か」


「少なくとも今はゲルトルード様の下と?」


「ま。一応病人だしね。幸か不幸か天使の痣によって身体能力はほとんど戻って来たとはいえ、あくまで身体能力だけが戻ってきているだけで、感覚とのずれが酷いみたいで現在リハビリ中なのよ……」


 そんな幸せそうな事を言っていたかと思えば、突然先輩がため息を吐いた。


「ため息を吐いていると幸せが逃げて行きますよ?」


「まぁ、カルミーの隣にいるからなぁ」


 意趣返しにそう言ってみたものの、何ともおざなりな返答が返って来た。酷い話もあったものである。


「心外です」


「そうそう。心外で良いんだよ。ようやく笑って言えるようになったじゃないか」


「いえ、私の事はどうでも良いので。今は先輩の話です」


「なんだよ。折角褒めてやったのに。……リハビリというのが剣の稽古だって話なのよ。全身運動だからそれが一番良いんだとか何とか言ってさ。その発想がガサツだよなぁ。で、その練習台なわけね、私達」


「……もしかして夜中までですか?」


「私は夜中でも見えるからなぁ。勘を取り戻す鍛練には良いってさ。見えてないはずなのに良くやるよ、ほんと。……いやまぁ、頼られて嬉しいは嬉しいから良いんだけどさ」


 だからあんなに眠そうだったのか。いやそれよりも、である。


「先輩がデレてる……」


「煩い。ま、その御蔭で、リハビリ中は店長の話題を逸らせられているって所もあるんだけどね。私とか元騎士団長のおっさんとか学園長が止めないとアルピナ様の所に突撃しそうなのよね。ほんと猪突というか。どうせ口で勝てないのは分かっている癖に。……いや、まぁ、その辺は良いか。あぁ、そうそうカルミー。例の作戦はもうちょっと待って頂戴」


「あぁ、例のリオンさんが更に女難になる作戦ですね」


「せめて、もう少しまともな名前にしろよ」


「分かり易くないですか?……それに、ここまで私達を悩ませてくれたんですから、1つくらい意趣返しをしても良いじゃないですかっ」


「溜まってんなぁ、カルミー」


「どうせ溜まるならお金が溜まってほしいですけどねっ!」


 苦笑された。


「まぁ、でも暫くだよ。どうせすぐに店長の力が必要になる」


「リオンさんの?」


「いやそりゃそうだろう。アルピナ様にしろゲルトルード様にしろ別にドラゴンの呪いが解けたわけじゃないからね?例の食事の御蔭で弱まったってのは店長の言だけどさ」


「……そういえば、そうですね」


 だったら、彼女らはこれから何を食べて生きていけば良いのだろう?

 アルピナ様が今現在食べられるものはリオンさんの意味不明な不思議物体だけなのだから……


「アルピナ様はそれも分かっていて捕えたのかもしれんけどね。自分は彼に敵対し、いつか自分が果てると知りながらも、国のために彼を捕えた。自分の後に残るゲルトルード様ならばその事に反発し、店長の味方になると信じて、理解して行ったのかもしれないね……そうすれば、きっと皇族の血は絶えない」


 自分の命すら殺し、自らの想いすら殺し、挙句の果てに自らの恋心すら殺し、それでもなお何処かの誰かの未来のために自らを捧げる。それが皇族というものか。馬鹿馬鹿しい程にお人よしだった。馬鹿馬鹿しい程に優しい人だと思う。けれど、ほんと馬鹿馬鹿しくて苛々する。


「……アルピナ様も実は馬鹿だったんですか?ちょっと行って殴ってきて良いですかね?時間は取らせませんので」


「国家反逆にも程があるなぁ、おい」


 私には国を背負う者の気持ちは分からない。分かるわけもない。だからこれは私の勝手な意見だ。国を守るために一人の少女が不幸になるなんて、そんな馬鹿な話があるものか。大勢を守るために一人が不幸になるなんてそんな馬鹿な話があるものか。真面目に真摯に生きてきた人が不幸になるような世界なんて、私は認めない。

 でも、現実はそんな世界なのだ。だったら……そんな不幸は私に集まれば良い。どうせ私に不幸が集まった所で、私は幸せでいられるらしいのだから。それに、そんな不幸を大量に集めてから神様に会えば、先輩も言っていたように少しは神様もこっちを振り向いてくれるだろう。神様、貴方の作り出した子供達がこんなにも不幸塗れなんですから、自分だけ絶望に酔っている暇があったら、ちょっとは手伝えよこの馬鹿野郎、と一発ぐらい殴らしてくれるだろう。

 でも、残念ながら今の私にはアルピナ様のその不幸を私に集める方法が分からない。頑なに心を閉ざしている少女の心を開けるほど、私は器用ではない。想いを殺すことに長けた人間の想いを理解する事ほど難しい事もない。レアさんのように絶望に苛まれ死を選ぶ方がまだ分かりやすい馬鹿で良い。アルピナ様のような自らの心を殺す事に長け過ぎた人間は、ほんと面倒くさい馬鹿だと思う。

 きっと彼女が感情を理性で押し殺していなければこの国は滅びていたのだろうとも思う。その結果どうなるかと言えば、死人も今以上に生まれていた事だろう。苦しんでいる者達も今より多くなっただろう。誰も彼もが笑う事なく絶叫と共に産まれ、慟哭と共に死んでいっただろう。彼女の成した事は凄く大きな事だ。誰も彼もの未来を繋いだのだ。子供の我儘で国は回らない。そんな事は分かってはいる。けれど、世界の全ての人達がアルピナ様のその行為を肯定し、称えたとしても私だけは否定したい。あの時泣いていた彼女を、国の為に殺された一人の女の子の想いを私は忘れてなんてやらないから。

 そんな事を考えていれば自然と歯が鳴った。


「カルミー、珍しく感情的じゃない」


「なんでこう私の周りには馬鹿な人が多いんですかね。ほんと……苛々します」


「それをお前に言われちゃなぁ?」


「心外です」


 苦笑された。


「ま、私も馬鹿な人間は嫌いだけどね」


「先輩に言われたらアレですね」


「心外過ぎる」


 苦笑する。

 互いに見合い、苦笑し合う。そんな自分達の行いが可笑しくてついつい笑ってしまう。

 何をすれば良いかは分からない。けれど、私に出来る事といったらこんな事だ。精々、心閉ざして鬱々としている人の前で馬鹿みたいに笑ってやるさ。


「ハァ、何を昼間から馬鹿みたいに笑っているのかしら、この白黒コンビは」


 突然ため息と共に耳に響いた少し低い声に振り返れば、メイドマスターがそこに居た。じとっとした視線を私に向けている姿を見れば、どこからどうみても不機嫌そうなのが分かった。


「……噂をすれば何とやらですね」


「ほんと、どこかで聞いていたのかと思うぐらいだなぁ、性悪メイド」


「誰か性悪ですか」


 お前だよと指差す先輩に全くこいつは、とばかりに再度のため息。


「カルミー。こいつにも言ってやってくれよ」


「メイドマスター、ため息ばかりついていると不幸になってしまいますよ?」


「……ため息の原因は貴女よ、貴女」


 再三のため息と共にそんな事を言われた。


「私……ですか?」


 メイドマスターに何かをした覚えは無い。無いのだが、こんな風にじとーっと見つめられていればもしかして私悪い事をしたのかも?と思ってしまうのもまた人の性だと思う。


「そうよ。何よ、私を差し置いてマジックマスター様の弟子になったりして。奴隷に抜け駆けされるとは思わなかったわ。あぁ、マジックマスター様、どうして私ではなくこの子なのです。……ハァ。もう一度お会いしたい……どうして私を置いて行かれたのでしょう」


 アルピナ様とゲルトルード様の事でお悩みにでもなっていて、何かもっと仰々しい理由かと思えば、それだった。酷くどうでも良い理由だった。心配して損をしたと思えるぐらいにどうでも良かった。加えて別にメイドマスターを置いて行ったわけじゃなく、単に家に帰っただけである。まぁ、現在、絶賛家出中ですけれど。それに……


「弟子という名の家政婦ですけどね、私」


 やっている事といえば小間使いである。掃除洗濯炊事、あと蛙集め。


「何よ、最高じゃない。代わりなさい、代わりなさいよっ」


 あぁ、この人メイドだったなぁ、と肩を掴まれてがくがくと前後に揺らされながら思った。微妙に涙目になりながらなのが本気過ぎる。

 世の中、知りたくない事というのは確かにある。これも間違いなくその内の一つだった。こんなどうでも良いことを知るぐらいならもっと別のことを知りたかった。


「これもまたカルミーだけ幸せになってメイドマスターを不幸にしたって話になんのかねぇ?流石、黒夜叉姫様」


 そんな先輩のどうでもいいや、みたいな表情が今は恨めしい。



―――




「絵画、ですか?」


 しばらくして落ち着いたかどうかはその視線を見ると怪しい所だが、メイドマスターに件の絵画について問い掛けてみればはてな?と小首を傾げられた。


「はい。ミケネーコという名義でお城に寄贈されたとか。小さな女の子の絵だと聞いております」


「猫の描いた絵というのは斬新ですね。いえ、冗談はさておきまして……小さな女の子の絵ですか」


「はい。それしか分からなくて……えーと、アーデルハイトさんは見た事があってとても感動したとか。あとは国宝とも仰っていたのですが」


 はて?と顎に指をやりながらしばしの間メイドマスターが口を閉ざす。

 時折、指の位置を変えたり、小首を傾げたりと一見落ち着きが無いように見える。が、その態とらしい仕草はやはり視線を誘導させるためのものなのだろうと思う。指が動くたびに視線がそちらに向いてしまう。まるでそこに悩みごとの答えがあるかのように。

 とはいえ、メイドマスターがそれを意識してやっているようにも思えない。身に付いた仕草ゆえに自然と出るのではなかろうかと思う所である。ある意味職業病なのだろう。


「精神操作の類は……特に意識誘導はディアナが巧いんだけどなぁ。私もその辺りはディアナに教えて貰ったしね」


 そんな私の考えを読んだのか、それとも私の視線がメイドマスターに吸い込まれるように見入っていたのを見咎められたのか、先輩がそんな事を言う。


「ディアナ様がですか?意外ですね」


「人間相手にしか効かないけどね。あの眼の所為で誰もが勝手にその動きを追ってしまうんだよ。慣れている奴にはどうってことないけど。ま。カルミーみたいな奴だと慣れてなくても効かないけどね。……それと、泣きぼくろ」


 確かにディアナ様といえば、その2つが特徴的だ。


「それが何か?」


「カルミー相手にここまで言わせるんだもんなぁ、流石ディアナと言っておこう」


「ディアナ様に何かされた記憶はないのですけれど……」


 会話自体、それほどした記憶もない。確かに先日お金の稼ぎ方みたいなのを教えて貰ったりはしたけれど、長く話したといえばそれぐらいだ。後はちょくちょく呆れられるぐらいである。

 未だはてさて?と悩んでいるメイドマスターと同じく、はてな?という風に小首を傾げれば先輩が苦笑する。


「あれだよ。領主様はお忍びが好きってねぇ」


 そう言って、先輩が自分の髪で片眼を隠した。


「いや、意味が分かりません。あ、でも。そういう髪型も似合ってはいるとは思いますよ?」


「はんっ。ま。ディアナ曰く、今更みたいだし、教えてやらない」


 くくっと笑う先輩に違和感を覚える。笑っているのに残念そうな表情。先日のテレサ様と似たようで、けれど違うそんな笑み。取り返しのつかない事に想いを馳せる事が無意味なのだというようなそんな空虚さを感じる笑み。

 ……取り返しの付かない?

 取り返しがつかないといえば……


「……妖精さんは何か手が届かなかったのでしょうか」


「なによ、突然?」


 テレサ様のことをリオンさんに問い詰めた時に、何だかそんな想いを抱いた事を思いだした。そして同時に、妖精さんが私を薦めたのだとリオンさんが言った事も思い出した。


「いえ、なによと言われても私自身が何それ状態なので……」


「まぁ、つまりは店長が全部悪いって話だな。良く分かった」


「そこは合っていると思います。リオンさんが全部悪いんです。ゲルトルード様のことだって、エリザの事だって最初から分かっていたくせに……って」


「そうは言っても助かったんだからそこは置いておくよ。それに店長は店長で大陸の事で頭いっぱいなんじゃないのかねぇ?ま、ゲルトルード様が助からずに後から知ったりしていたら、首から上を切り落としていたかもしれんけどさぁ……そんな状況で自分を抑えられる自信は流石に無いよ。自分に出来ない事を他人に求めて縋って、それで出来なかった自分への恨みを他人に擦り付けるなんて事はしたくないけどさ」


「いや、そういう感傷的な話はどうでも良くてですね」


「おい、こら」


「……リオンさん、天使の痣について聞いた時に、『皇族だけに』伝わっている事を知っている、と言っていました。蛇の道は蛇云々言ってそこは勘弁してくださいとか……私は、それの意味を言葉そのままだと理解していましたけど」


「皇族に伝わっているのを知っているのではなく、皇族だけに『伝えている』ことを知っているって事?」


 リオンさんやドラゴン師匠に、エルフの神職の家系にも『伝えている』事を知っているのか?と問えば是であると答えてくれるのではないだろうか?


「そうです。その後も今思い出してみれば変です。いえ、その時はすんなり納得しました。エリザが天使の痣を持っているのが妖精さんの報告から知った、と言われたから。そうだと信じてしまいました。その時に知った。それまでは知らなかった、と。でも、そうじゃない。天使の痣を持つ者の行き付く先をあの人は知っていました」


 天使の生態を、天使に見初められた者達の末路を。それを知っている者が、天使の痣の事を知らないわけがない。にも拘らず、リオンさんは言ったのだ。


「あの人は天使の痣の事なんてエリザの事もゲルトルード様の事も関係なしにそもそも知っていた。なのに、エリザが天使の痣を持っているのを知っていたっ!?」


 にも関わらず、オブシディアンの少女はエリザではないのでは?と疑問に思っていた。それは混血のエルフに天使の痣が産まれる事も知っていたからでは?だとすると不老不死かどうかはおいといて、それを知る事の出来る立場にいたという事の証明ではっ!と繋がる言葉が痛みと共に止まった。

 その痛みの発生源を見れば、つま先だった。

 踏みつぶされていた。

 先輩に。


「い、痛いんですけど」


「……カルミー。すまんね、場所を考えるべきだった」


 ぼそり、と私だけに聞こえるように耳元で囁かれ、体がびくりと震えた。


「貴女達、一体、何の話をしているのです?」


「あ……」


 そうだ。メイドマスターが居る場所でするような話ではなかった。例え小声で話をしていたとしても聞こえないわけもない。

 そして先輩も、自分も気にせず喋っていた所為だろう、しくじったとばかりに表情を歪めている。だが、メイドマスターも話が聞こえていたわけではないようで、いや……少し、聞こえてはいたようだった。


「マジックマスター様の父君の話ですか。アルピナ様がご執心であられた御方。そして、マリアが乙女のように懸想する人。不器用で、ゲルトルード様に似てガサツだったマリアが、踊れなかったマリアが踊れるようになったのはあの人の御蔭だったのですね……それを……いえ」


 苦虫を噛潰すような表情だった。

 内容について深く突っ込まれなくて良かったと思うと同時に、そんな表情をしている人に告げる言葉ではないのだろうが、しかし、気になっていた事を私はつい聞いてしまった。


「……リオンさんは無事なのでしょうか?」


「私の口から言えません」


 苦虫を更に噛潰しながら告げるその言葉が恐ろしかった。


「……生きてはいるのですよね?」


「私の口からは言えません。そもそも本来であれば、何の事かと答えねばなりません。そのような事実すら確認されていないと答えねばなりません。ですが、当事者であり、あの場に居た貴女ですから……こう答えましょう」


 もはや数えるのも面倒になったため息と共に、誰かに許しを請うかのように、


「アルピナ様はあの日より毎日、同じ時間にある場所に行かれるようになりました」


 通路の壁、いや、窓から外を見ながらメイドマスターがそう告げた。視線の先は城の横に隣接する塔?だろうか。そこを見ていた。


「ありがとうございます」


「感謝の言葉などいりません。感謝される謂れもありません。寧ろ……いえ、何でもありません。私は何も言っていない。そうして下さい」


 俯き加減にそう口にして、メイドマスターは黙り込んだ。話をそちらに持って行ったのは私自身だが、そんなメイドマスターは見ていられなかった。いつものように、どこか抜けていて、それでいて傲岸不遜でいてくれないと。


「そうそう、メイドマスター。例の依頼どうしましょう?エリザがお姫様って事が分かったのですから、今更だと思うのですけど」


 だから、以前と同じように何の事ですか?と聞くことはできたのだろう。けれど、ここはついでとばかりに別件について問い掛けた。それで話を変えましょう、と。


「あぁ。そういえば、依頼を出しておりましたね」


「何それ?」


「あれ?先輩には言ってませんでしたっけ?水晶宮から落下したら死体と出会って、その死体が持ってた依頼書がオブシディアンを手に入れろって話でして。それがまたかなり前の依頼だとのことでメイドマスターにそれの詳細を調べろという依頼を受けたのですが、これがまたどうやって行ったのかも分からないので、ちょっと手詰まり感でして」


「意味分かんないよ。……えーと、つまり、カルミーが落下した結果、死体漁りをする事になったでいいの?性悪メイド」


「性悪は止めなさい。……聞く限りでは前皇帝時代の依頼です。そのような依頼は国の記録にも残っておりません。ですので、先代の依頼と予想致しました。エリザベート様に渡すか或いはエリザベート様の母に渡すために依頼を出したのかと」


「へー。それは、それは……あんな黒いだけの石を我が子に、ね」


 何やら含みのある感じの視線をメイドマスターに向けながら、先輩がそう口にした。


「或いは皇剣オブシディアンの材料にしたのではないかと思っております」


 けれど、そんな視線を軽くいなし、気にした風もなくメイドマスターがそう返す。いや、むしろ、その視線の理由がメイドマスターにも分からなかったと言う事だろうか。


「ふーん。なるほどね。そういえばオブシディアンは私も見た事ないけど、何?やっぱ黒いの?」


 宝石をどうやって剣の材料にするのだろう。素朴に疑問である。まぁ、出所が悪魔なのだからそんなものなのかもしれない。


「その通りです。貴女にはそうですね、七星剣を黒くしたものと伝えれば良いでしょうかね?長さは同じぐらいで幅は普通の剣よりちょっと分厚い程度なので私でも持ち運びはできます。持ち運びは」


「振り回すには膂力が足りないってか。つか、誰が使えるってんだよそんなもの」


「それこそゲルトルード様かエリザベート様でしょうね」


「意味ないでしょそれ。……あぁ、カルミー。七星剣ってのはあれだ。エリザベートのあの剣みたいなやつな」


 言われて納得する。しかし、そんなの一般人には使えないじゃないか。馬鹿なのだろうかドラゴン師匠は。きっとネタ的に適当に作ったのだろうと思う。えぇ。その真実は誰にも言えないので墓まで持っていくけど。


「皇剣っていうのは皇族の信頼する相手に渡すって話ですよね?そういえば、ジェラルドさんがエリザに奴隷じゃなくなったら皇剣あげても良いって言っていましたけど、それもどうなるんですかね。エリザ自身が皇族になっちゃったし」


「……アレキサンドライトなぁ」


 私が貰ってもどうせ使わないしなぁと先輩がぶつぶつ言っていた。いや、だから奴隷は貰えないんですって。


「ご本人達が使う可能性が高そうですね、今となっては。その話はさておきまして。カルミナ。依頼に関しては破棄して頂いて結構です。これまでに掛った諸経費は払いましょう。ですが、そうですね。何か新たな事が分かったら、教えて頂けると嬉しいですね」


 少しの笑みを浮かべ、そんな事をメイドマスターが言った。


「新たな事?」


「いえ、貴女なら、何か私にも想像のつかない新しい真実なんてものを知る可能性があるかなと思っただけです。ただの戯言です。ですから、あまりお気になさらず」


 苦笑気味にメイドマスターが笑う。自分でもなんでこんなことを言っているんだろうという感じの苦笑だった。……或いは、弟子の件の意趣返しだろうと思う。私は何もしていないのだけれど……。

 軽い笑いしか出て来なかった。


「流石、黒夜叉姫様」


「煩いです。紅薔薇の姫君」


「カルミー、それどこで聞いたんだよ」


「英雄様達に聞きましたよ。ほら、ギルドバルなんとかの」


「そこは覚えておいてやれよ。そういえば、会ったとか言ってたな。あいつら……今度会ったら覚えていろよ」


「店に来てくれるとか言っていましたので是非、その時はキプロスを使って下さい」


「商魂逞しいなぁ、おい」


「ま。でもあまり人が来るとお酒が足りなくなりそうなので……そこはちょっと困った話です」


「……貴女達、仲が良いわね」


 何だか先日も聞いた記憶のある言葉だった。


「それはさておき。貴女方。本題を忘れているわよ」


「えっと、本題?」


「おい、こら。バカルミー」


「ちょっと先輩!?」


「仲が良いのを見せつけるのは結構ですが、黙りなさい。……それで、貴女達の会話にあった妖精という言葉で思い出しました。あの少女の肖像画ですね。二度と思い出したくもなかったのですが……流石は黒夜叉姫といった所です」


 ほんと、酷い謂れ様だった。



―――



 メイドマスターが連れて来てくれたのは先程視線を向けていた場所。白亜の塔、その塔の入口の横に並ぶように作られた階段だった。この都市ではあまり作られる事のない地下への道。そしてその先には金属製の重厚な扉がここからでも見える。入る者も出る物も拒むかのようにさえ思える程に重厚な扉。それはまるで、キプロスのようだった。

 とはいえ、一応は城の一部だからだろう。その扉は遠目から見ても錆び一つ無く、奇麗な物だった。周囲を見ても落ち葉一つ階段にはなく、誰かが毎日掃除している様子だった。

 けれど、その周囲の奇麗さが逆に私に異様な雰囲気を与えてくる。汚い方がまだ分かる、と言えば良いのだろうか。それが何故だかは分からない。ただ、先輩の表情を見るに、この場所はあまり謂れの良い場所ではないのだろうという事だけは分かった。


「これは物見用の塔ですか?」


「そう言う目的に使う事はありませんね」


 それは意外に思えた。

 ともあれ、地下への道よりも私の興味はどちらかといえば、この塔の方だった。それも仕方のない事だ。メイドマスターは明言したわけではないが、ここにはリオンさんがいる、と視線で告げていた。地下ではなく、上へと昇ればリオンさんに会える。会えば散々、私を悩ませてくれた事への回答ぐらいはしてくれるだろう。

 けれど……それはできそうにもなかった。


「カルミナ。以前、私に精神操作を、視線誘導を使わせるなとお願い申し上げたように記憶しております」


 一歩でもそちらに向かえば、慌てる事もなく、いつものように軽やかに声を掛け、私が返事をした瞬間に、投げナイフが口の中にでも飛んでくるだろう。あるいはナイフで首を割かれるかもしれない。あるいは心臓にナイフを突き刺されるかもしれない。少なくとも、私が二度と陽の光を見る事はできないだろう。


「それは承知しております」


 だから、ここは我慢するしかなかった。

 結局、ドラゴン師匠をどうにかするかゲルトルード様をその気にさせるかしないとリオンさんには会えないように思う。

 だったら、とりあえず今は考えの外に置く。

 優先順位は一番下にしても大丈夫だとドラゴン師匠は言っていた。何も気にする事はない、と。殺しても死なないと自信満々に……いいや、それは真実そうなのかもしれないと今は思う。

 神様に恐れられた者は死ぬ事ができるのだろうか?

 人間の神様を殺し、死後を司る神様にも恐れられ、近寄られる事のなくなった彼は死ぬ事ができるのだろうか?死んだ彼の魂はそれこそ行く先もないのではないだろうか。引き取り手なんてどこにもない。だから、故に……死ぬことがない。

 きっとそれは、呪い。神を殺した罰。永遠に生き続けなければならない呪いだ。不老不死というのはとても良いモノのように思えるけれど、でも、彼はただただ死ねないだけなんじゃないだろうか、そんな風に思える。

 いや、それも今は良いか。

 塔から視線を逸らし、地面へと視線を向ける。

 地面に生える背丈の揃った草。その一部が、いかにも少し前に小さな子が通ったように少し曲がっていた。もしかするとつい先ほど、塔の中にアルピナ様が入ったのかもしれない。そして今、リオンさんと話をしているのかもしれない。話だけではなく、拷問をしているのかもしれない。

 アルピナ様が今この場にいるのならば……ちょっと殴ってきたい所である。

 そんな風に草を、地面を、地下へと続く階段を見る私を余所に、先輩がメイドマスターを問い詰めていた。


「おいおい、性悪が過ぎるだろう。なんでこんなところに置いてあるのよ……ここは」


「だから性悪は止めなさい。……お察しの通り、ここは主に罪人の処刑場です。ここにその絵画が飾ってあります」


 先程覚えた違和感はそれが理由なのだろうか。死に近いのに奇麗に整えられている。それが私には違和として感じられたのだろうか。


「何の冗談よ。国宝って話だろ?」


「冗談ではありませんし、彼の絵画が国宝であるのもまた事実です。……処刑される者へ一時の安らぎを、そして後悔を。見れば、分かります。私は二度と見たいとは思いませんが……決して、あの絵画に囚われぬよう」


 目を細め、静かに低い声でそれを告げた。


「脅かすなよ」


 メイドマスターの声音に、先輩がおどけるように肩を竦める。だが、それを見て、メイドマスターが首を横に振った。


「カルミナはまだしも……正直、貴女は行かない方が良いかと」


「私が?」


「はい。貴女には耐えられないと思います。そう私は判断致します。故に、ここから先はカルミナ一人で行くことをお勧めします」


 これはつまり、私の神経が図太いと言いたいのだろうか。


「メイドマスター。先輩の神経がそんな柔だとは思えないんですけど」


「カルミー、後で説教な?」


 庇ってあげたのに……何故だろう。


「明確な理由を言える程の語彙は持ち合わせておりません。ですが、貴女では危険であると判断させて頂きます。当然、私には無理でした」


「マグダレナ=ソフィア=アウローラが?」


 ゆっくりと、確かめるように先輩がメイドマスターの名を告げる。

 しかし、案の定と言っておこう。メイドマスターがその言葉に頷いた。


「確かに、一度は見ました。ですが、二度とアレを見たいとは思いません。思い出すだけで吐き気がしてきます。今、この時であれば尚更に。アルピナ様とて、今の心情で臨めば後悔に囚われるでしょう」


 吐き捨てるように、言葉を紡ぐ。本当に吐き捨てたかったのは胃の内容物だったのかもしれない。そんな風に思えるほどにメイドマスターの表情は良くなかった。いいや、悪くなっていっていた。


「ですから、貴女は止めておいた方が良いと思います。いいえ、私の名でもって止めさせて頂きます。ここを開示する条件です。貴女は行かせません」


「はんっ!馬鹿にするなよ、性悪」


「いいえ。二言はありません。貴女は行かせません。貴女にもし何かあればゲルトルード様に申し訳が立ちません」


「それこそ、今更だよ」


「……そこは当然、分かっております。単に立場上、言わないといけないだけですのでお察し下さい」


 私に分からない言葉で2人が苦笑し合う。


「とはいえ、やはりここは引いて頂きます」


「そこまでかね……分かったよ。すまんね、カルミー。性悪メイドが性悪を発揮した御蔭で私は行けなくなったよ」


「了解です。戻ってきたら見た物を伝えます。しかし、後悔に囚われる、ですか。アーデルハイトさんはその肖像画が凄いとか、感動したとか言っていましたけど、そんなに怖い絵に感動なんてするんですかね?」


 そんな疑問が沸く。


「いいえ、所謂、怖い絵というわけではありません。彼のエルフは頭がお花畑ですからね。だから大丈夫だったのでしょう」


 その酷い言い草に納得してしまった私を誰か許してほしい。


「見れば、分かります。死を忘れるほどの安らぎを与える肖像画であり、同時に見る者に後悔を抱かせる肖像画でもあります。カルミナ、決して囚われぬよう。ですが、きっと貴女なら大丈夫なのでしょうね……」


 再三の注意と共に先輩を地上に待たせて、メイドマスターと連れ立って扉の前に立つ。

 扉の大きさに比して小さい鍵が鍵穴に入り、ガキッという小さな音と共に扉が開いて行く。

 瞬間、解放された扉の奥から匂いが鼻腔を擽った。


「これは……」


「処刑場ですので」


 死の臭い。

 地下墓地で嗅いだ匂いよりはまだましだ。けれど、程度の問題が何だと言うのだ。地下に閉じ込められ発酵したかのような匂いは脳髄にまで響く。一瞬、くらっと頭が揺れ、それを見咎めたメイドマスターが不思議そうな表情をしていた。


「もしかして、私の見込み違いだったのでしょうか?」


「いいえ、大丈夫です。ここ暫く洞穴に入る余裕がなくて、この手の匂いが久しぶりだっただけです」


 冗談ですよ。では、行ってらっしゃいませ黒夜叉姫様、そんな言葉と共に扉の奥へと送られた。



―――




「暗い」


 壁に手を付いて地下を行く。扉は開けられたままであり、そこから僅かに光は入ってくるもののそれだけの光では私には見辛い。先輩とは違うのだ。松明の一つでも持ってくれば良かったとは思うものの、ここはそれほど広い場所ではないらしい。手探りで行けば十分だろう。

 しかし、こんなに暗いと件の絵画も見られないのではなかろうか。

 などという心配は不要だった。

 暫く壁伝いに歩けば僅かに見える扉。それを開けば、天井の高い部屋が現れた。

 天井は地上に位置しているのだろう。天井に近い場所には小さな窓がいくつも付けられており、そこから陽光が入ってきていた。その光によって部屋が照らされており、十二分に明るい部屋だといえた。

 御蔭さまで急激な明暗の変化に目がついていかず、光に慣れるのに時間が掛った。

 その光に慣れた時、それを脳が認識した。

 一瞬、それが絵画であるとは分からなかった。まるで本当にそこに人間がいるかのように、幸せそうな表情の少女が立っていた。

 いいや、幸せそのものを示す少女だった。

 眩しい、と言えば良いだろうか。

 部屋を照らす陽光よりもさらに眩しく感じる。現実に光っているわけではない。けれど、この世界がとてもとても楽しくてとても素敵で、とても奇麗で、どうしても、どうしてでも楽しまなければならないと言わんばかりに嬉しそうに笑っていた。

 それが、眩しかった。

 奇麗な少女だった。

 眼を向ければ一瞬で囚われてしまいかねないほど奇麗な少女だった。一体誰がその少女を作り出したのだろう。人の神様が手ずから作り上げたのだろうか?それほどに魅惑的で、蠱惑的な少女だった。

 どこから見ても、どこまで見てもそんな少女だった。いつまでも見ていたいと思った。見ていると自然と頬が熱くなる。心がふわふわと浮きあがり、勝手に体がその少女へと近づいて行く。近づき、その少女に触れてしまいたいと手が伸び、指先がその顔を撫でるように、触れるように手を伸ばしても、届かない。

 天井から吊るされ壁に掛けられたそれは私には手の届かない場所にある。それが憎らしくて体が飛び跳ねる。それに届けと動き出す。届け、届けとそれだけが私の思考を埋める。いつしか目が周り、螺旋階段をぐるぐると転げ落ちて行くように脳髄が揺らされ、更に眼が回り、ぐるぐると視界が回り回って延々と脳髄が揺らされる。揺らされ続けている。

 いつしか飛び跳ねるのにも疲れ、届かない想いに苛立ちを覚えて行く。けれど、はっと気付く。この場所では彼女が見られない。この角度からでは彼女の全てを見られない。こんな場所にいてはいけない。と今度は離れて行く。離れて行き、離れて行けば全体が見える。

 小さな少女の肖像画。

 美しい少女だった。本当に見ているだけで引き込まれる少女であった。いいや、既に引きこまれている。惹かれている。心が乱されている自覚すらある。けれど、止めようがない。あぁ、確かにこれだったら……囚われても仕方ない。

 これだったら、こんな、恐ろしいまでに奇麗なその少女は……

 今すぐに殺してしまわないといけない。


「っ!?」


 瞬間、意識が元に戻って来た。

 元の世界に戻って来た、と錯覚を覚えるぐらいに。変な汗が全身から沸いていた。心臓ががなり立て、呼吸が乱れていた。


「はぁ、はぁ……これ」


 吐息を整えながら、理解した。

 囚われたのはそれ故に。

 肖像画に描かれたその少女の瞳は……人のそれとは違った。


「これ、ドラゴン師匠じゃ?」

 小さな女の子だった。けれど、知る人ならば一見してドラゴン師匠の面影がある事が分かるだろう。けれど、絵画なのに、いいや絵画ですら呪いが発動するとは、この絵はどれほど真に迫っているのだろうか。いいや、確かに最初、人がいるのではないかと錯覚した程だったからだろうか。いや、呪いの事など後廻しにしよう。今はそれよりも確認しないといけない。

 少女の全体像。それを見れば、その手には更に小さな翅の生えた少女がいる。今と何も変わらぬ姿の小さな彼女がそこにいた。


「……手の中に居るのは妖精さん?」


 自問するものの間違いなかった。だって、2人が大事にしていた服そのものがその絵の中にあったのだから。

 絵画自体の古さとは違い、描かれた服は新しいように見えた。キプロスで見た時ものとは違う鮮明な色をしたそれらの服。けれど、確かにあの服だった。新しいままに絵画の中の2人がそれを着ていた。

 新しく誂えた服を着て、格好付ける為に少し斜めに立ち、手にこれまた嬉しそうに笑みを浮かべる妖精さんを持ち、彼女は、ドラゴン師匠は嬉しそうに画家に向かって笑っていた。

 見た事のない表情だった。

 恐ろしいまでの美貌を、恐ろしいまでの凶悪なその瞳を、見るもの全てに見せつけていた。それは確かに、引きこまれるだろう。

 こんな奇麗な少女が幸せに微笑んでいれば、死の恐怖すら安らぐだろう。だが、次の瞬間に訪れるのは絶望だ。こんな可憐な少女が幸せに笑っている世界で、自分は何をしたのだと後悔に苛まれながら、死なねばならない。死んでしまわねばならない。自分の犯した罪によってこんな幸せそうな少女のいる世界から、消え去ってしまわねばならない。こんな素晴らしい世界を棒に振って過ちを犯して、死ぬなんて、それこそ自殺志願の馬鹿ものだ。そんな後悔を産み出すのだろう。

 怖い。

 これをここに置いた者は犯罪者への恨みと辛みによってこれをここに置いたのだろうか?絶望させるために、苦しめる為に。いいや、きっと違う。結果的に同じになったとしても、その人はただただ、この世界がとても良いものだったのだとそう言いたいがために、置いたのだろう。そんな世界で罪を犯した貴方方は馬鹿だと。もっと良いものなのだと、生きている事に感謝しながら生きていれば良かったのだ。他者を巻きこんで、人を殺して、そんな生き方をして何の良い事がある。必死に、苦しんでもそれでも生きている事にこそ、人間としての尊厳があったのではないのか、そんな問い詰めなのだろうか。けれど、そんなものはきっと強者の言葉だ。

 でも、この絵画を描いた者は強者ではない。だからこそ、これをそこに飾った人がいたのだろうと、そう思った。だからこそ、誰も彼もがこれには囚われるのだろう。

 絵画の中、ドラゴン師匠の周囲に描かれる物はどれも奴隷達でさえ持っているようなものだけ。いいや、寧ろ奴隷達の持っている者よりも遥かに程度が悪い。ドラゴン師匠と妖精さんの着る服だけは確かに豪華だ。誰もが羨む様な服だ。けれど、それもこの絵を描いた人が手ずから作った物でしかないとこの絵が教えてくれている。作りかけの似たような服が絵の中にはいくつも描かれていた。けれど、その周りには腐りかけの食べ物が置いてあった。放置していて腐ったのではない。新しく持って来られた物そのものが腐りかけなのだ。見ていれば、その匂いが香ってきて吐き気すら催しそうな程に鮮明にそれらは描かれていた。床には虫に食われ穢れた敷物が敷いてある。寝ている合間にも敷物は喰われて行き、いつしか画家の着る服にさえ穴が空くかもしれない。そして、この絵には描かれていないが、きっとこの場と同じく重厚な扉で世界は区切られているのだろうと、想像できた。或いは牢屋、だろうか。


「原初の罪……」


 世界に産まれた時からずっと、罪の証と呼ばれて生きて来た人の描いた絵。産まれてからずっと弱者であった人の描いた絵。

 その人には何の罪もない。何の罪もないのに虐げられ、ずっと、苦しみながらも、でもそれでも……囚われの身なれど、こうして生きていた。必死に。そんな人を見てドラゴン師匠も笑ったのだろう。貴方は凄いがんばってるよね、と。楽しいものね、この世界は、と。こんな素敵な服を作ってくれてありがとう、と。

 奇麗な、人を殺すほどの笑みを浮かべたのだ。

 あぁ、これは、囚われる。

 人とエルフの間に起きた最初の罪。

 『原初の罪』の証が世界を肯定しているのだ。

 産まれた時から存在しない罪をかぶせられ、虐げられ、それでもなお……生きている事が嬉しいと叫んでいる。この子のために服を作るのが楽しい、この子の『今』を絵の中に留められる事が楽しい。

 そんな人の、そんな絵画を見て、感動しないわけがない。

 この絵画は果てなき希望を謳っている。

 世界への希望が所狭しと描かれているのだ。

 だが、罪のある者が見れば、後悔がある者が見ればきっと心苦しいだろう。どれだけ辛くても世界を恨む事のなかった画家が眩しくて仕方ないだろう。自分がとても惨めに感じるだろう。だから、メイドマスターは今のアルピナ様であれば、と言ったのだ。今の……つまり、そういう事なのだ。やはり、アルピナ様の行動を認めてあげる事なんてできやしない。一人の少女の心を殺した罪は、償われなければならないのだ。

 今度アルピナ様と会う時がいつになるかは分からない。けれど、少し話をしてみたい。国の為に殺されてしまった少女と2人で話をしたい。


「これを描いた人って『最初の方』ではなくてリオンさんだったり?」


 自問をしたものの、間違いなく違う。

 ドラゴン師匠と妖精さんが笑いかけているからといってリオンさんが相手だという事ではない。相手はまた別の人で、きっと、彼とは違う人なのだ。そんな全く想像でしかない考えが浮かんでくる。いいや、それも当然。リオンさんは混血のエルフではないのだから。

 これを描いたのは『最初の方』とエルフ達に言われていたそのエルフ、本人なのだ。こんな凄い物を描ける人が何人もいてたまるか、と思う。

 しかし、だとすると、リオンさんと『最初の方』は知り合いなのだろう。でもなければドラゴン師匠が人の下……いや、混血エルフの下へ行く事もないだろう。リオンさんと『最初の方』の関係はこの絵画からでは分からない。分からないけれど……


「…………でも、一つだけ分かった」


 これが1200年前の絵画だというのならば、


「間違いなく、あの3人はそれだけの間、生きているんだ」


 それだけは、確かな事なのだと、それを理解した。

 ドラゴン師匠がこれほど小さい時が1200年前だというのならば、間違いなくそうなのだろう。だったら、ミケーネ何某というのは本当にリオンさんや、ドラゴン師匠の事なのだろうか。早く聞きたい。早く聞きたいけれどいつまで経ってもドラゴン師匠は帰ってこない。全く、人の気もしらないでというのはドラゴン相手には意味のない言葉だった。


「1200年は……長いよね」


 産まれてから16年程でも長いと感じている。その100倍程度。とても気の遠くなる話だ。

 そんな長い間、神様から嫌われて、死ぬこともなく生きていたのだろう。

 そんな長い間、神様が泣いているのを聞いていたのだろう。だったら、止めたくもなるに違いない。

 けれど、彼にはできなかったのだ。

 殺す事しかできなかったのだ。

 殺して、泣き止ませる事しかできなかったのだ。けれど、殺したはずの神様はよみがえり、再び泣き出しているのだ。今度は殺したくないのだろう。もしかしたらこれが何度目かの事かもしれない。けれど、今度こそは殺したくないのだろう。


「まったく……気が長いにも程があります。馬鹿でしょ、リオンさん」


 そんな長い間、がんばって、がんばって……それで託した想いか。

 重いなぁ。

 でも、私もこの世界は嫌いじゃない。皆に会えたこの世界が嫌いではない。

 神様だって泣いてしまって絶望という死に至る病を患ってしまうぐらいに辛い世界かもしれないけれど、神様だって自殺したくなるような、そんな世界でも……。


「馬鹿な神様が笑うぐらいに、馬鹿みたいに笑っていますよ。……笑っていたら、きっと笑いかけてくれるんでしょ?ねぇ、リオンさん?」


 見上げ、天井の更に向こうに向かって。

 私は笑う。



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