第6話 醜悪なる恐怖に怯え
6。
洞穴の存在を聞かされた時、自殺洞穴が今もって未到である理由は、そこがただ広いだけだと思っていた。
自然現象により形成されたそれは神の設計した洞穴であり、人のためのものでない。だから人間には通れない狭い場所や、道がない場所などいくらでも存在する。それを踏破しようとすれば狭い場所は掘っていく必要があったり、道がない場所には道をつける必要がある。それだからこそ時間がかかって仕方がないという意味で踏破されないのかと思えば、そうではない。
悲しみに嘆き地震を起こす悪戯心あふれる神様が設計したのはそんな安直な洞穴ではなかった。悪戯心が行き過ぎた結果、そこには多くの化け物、モンスターと呼ばれる者たちがいた。その中には人間同様文化を持つ化け物もいれば、獣のごとき存在もいた。総じて人間の敵であったこと以外に共通するものはなく、それこそが自殺洞穴が自殺洞穴たる所以であった。その中で最も恐ろしいモンスターがドラゴンと呼ばれる存在である。
大きいもの、小さいもの、気持ち悪いもの、綺麗なもの、種類は無限に存在し、その数もまた限りなく。唯一その種族に共通するのは人が適う相手に非ず、という事だけだ。炎を吐き、氷を吐き、酸を吐き、分厚い鱗は鋼の刃は通らず、その打倒方法は検討もつかない。
一番弱いとされるドラゴンを除き、歴史上ドラゴンを殺した者は記録に残る限り唯一、この国の皇女殿下、現皇帝、その人である。洞穴から出てきたドラゴンが帝国内を跋扈し、その打倒のために多くの自殺志願者や帝国騎士団、民間人が挑み数千以上の犠牲を出してようやくそれを打倒したらしい。それゆえ、トラヴァント帝国の人口は激減し、国力も低下した。もっとも皇女殿下が直接手にかけたものではなく、皇族もまたその際に多くの犠牲を出し、戦後に唯一まともに動けていた当時8歳であった皇女殿下がドラゴン殺しの英雄として担ぎ上げられたというだけだった。そうでもしなければ周辺国に攻め込まれ帝国は滅ぼされていたであろう。ドラゴンという人間には到底かなわぬ存在を打倒した国だからこそ、まだ何か隠し手があるのではないのか?という仮想の戦力を誇示できるのだ。だが、それもいつまで持つものではない。近年、周辺国の動きがきな臭いと言われている。
前人未到の洞穴を有するトラヴァント帝国は常に他国から狙われているのだ。調べてみて分かったが、そこにしかない、しかし何処にでも使える素材などもいくらでもあるのだから、洞穴の価値は無限だ。リヒテンシュタイン家が投資するのも分かるというものだった。だが、その反面、国が亡ぶほどの凶悪なドラゴンが洞穴から現れる事もある。洞穴からドラゴンが現れた事自体もまた歴史上唯一ではあったのだが……、だが、それでも洞穴を手に入れて得られる価値など無限の如くだ。
そんな凶悪なドラゴンではあるが、その中で一番弱い、火を吐く事はできず、氷を吐く事もできず、酸をばらまくこともできない、大人が十数人で徒党を組めば七、八人犠牲にすれば捕える事が可能であるというドラゴンがいる。それが今、私の、私たちの前に現れたものである。
それは小さなドラゴンだった。
骨のあちこちが歪んだ四肢で地に立っていた。その歪みがなければその体躯はエリザさんより高そうだったが、骨まで歪んだそれが伸びる事は永久にない。皮膚には焼け爛れたかのようにブツブツとした水泡が所々に浮かび上がっていた。鼻、耳に当たる部分は見られず、ここから見えるのは全周囲を見渡せるであろう少し飛び出た球体だった。それは目なのだろうか。色は青く、その色だけ見れば青空のようにさえ思えるほどに綺麗ではあったが、部品が綺麗であれば全体が綺麗であるというのは暴論であり、まさに吐き気を催す形状だった。自然、胃酸がこみ上げてくるのを止められず、一瞬、口元を抑えそうになり、はっとしてその所為を無理やり止める。
エリザさんは動くな、と言ったのだ。
見ればエリザさんは剣を抜いた状態で静止している。一箇所たりとも動いておらず、一見すると彫像とすら思えるほどに美しく、綺麗であった。醜いドラゴンを見たから尚更だろう。
そんな彼女を見ているとドラゴンを目の前にしてもどこか落着きを取り戻していく。落ち着けば思考がクリアになっていく。であれば、と状況を整理する。
醜い小型のドラゴンが一匹。木々の隙間から周囲をうかがっていた。が、こちらに気付かない様子を思えば、視界は狭いのであろう。本来、ドラゴンはこんな所にいるモノではなく、自殺洞穴内にいる存在だ。ゆえに、目は地上の光に慣れておらず、ほとんど見えないのではなかろうか。感覚器官らしき存在は他になく、視界を頼るしかないが、その視界もまともでなければ、その歩みが遅いのは頷ける。周囲を球体で見まわしながら、ゆっくりと動く。まさに蠢くと言った感じだった。歪んだ四肢にある無限の関節が蠢きながら這いずるように地を移動していた。
「ここであれを放置するわけにはいけません。ここは一般の方も良く訪れる場所ですから。ですので、一太刀入れます。それでダメなら離脱し、騎士団へ報告致します」
その声は比較的大きかった。それは、あのドラゴンが耳を持っていないと判断したからであろうか。そして、しかし、動きだけは緩慢に、今度は見えるように、エリザさんは右手に持っていた剣を腰元へ片づけ、両の手で無骨な剣を持つ。
そして、振り向き様に、
「それとお願いが。罠、使ってよろしいですか?」
「ご自由に」
私の稚拙な罠など見破っていて当然か。確かに彼女はソコを踏んでいなかったのだから。木の陰を除いて縦横に適当に縄を張っていただけ。松脂を塗った縄を。まったく、それしか脳がないのだろうかと自問自答したくなるものの、今の私の資金力などこんなものだ。休憩の間だけ、獣達から身を守れればそれで良かったのだから。
しかし、である。
「ドラゴンを一人で……」
「確かに普通のドラゴンでしたら私も逃げます。ですが、プチドラゴンならば、特にこのような地上であれば何とかなったら良いですねぇ……」
一瞬、呆としてしまう。
彼女はきっとただここに訪れる人達に危険がないように、というその使命感だけで凶悪なドラゴンへと向かおうとしているのだ。自身は奴隷だというのに、馬鹿げている。馬鹿げているがその考えが私は嫌いではない。
だから、私は、つい、笑みを零す。
「意外と阿呆な方ですか?」
「えぇ、よく言われます。言ったじゃないですか。極度の自殺志願者だって」
他者のために命をかけることのできる者を自殺志願者とは言わない。それは英雄で、勇者で……とにかくそんな物語の主人公のようなそんな存在だ。
ならば、今この時だけでも、私はそんな勇者を手伝う魔法使いになりたいとそう思ってしまった。
頭陀袋から取り出したのはアモリイカ。ピックで刺し、雪で凍結させたおかげで綺麗な透けるような白色なそれを、全力で投げる。華奢とはいえ、村育ちである。ドラゴンと私たちを直線で結んでその半分くらいは届くが、そんな所に投げても仕方がない。だから、私はアモリイカを松脂で塗りたくられた紐の上にめがけて投げた。縦横に張り巡らせたそれに、僅か掛かるようにアモリイカの死体が載る。
その事に、あっとエリザさんが口にする前に、頭陀袋から火打ち石を取り出し、打ち付け、火花を散らして紐に火を付ける。
「感覚器官として目だけというわけがないと思います。どちらかといえば、先ほどからの動きを見れば、匂いと空気の流れで世界を判別しているように思います。それにあの球体、おとりとしか思えませんし……。なれば、焼いて匂いにつられた所をお願い致します」
「なるほど。ディアナ様とメイドマスターが言っていた食べちゃった子って貴方ね」
なぜばれた。
「状況把握は完璧だけれど、それをするなら今度は先にお願いね。いくら私が動くと香の匂いが流れてドラゴンに気付かれそうだからって、言わないのは無しよ」
「今度があれば、そういたします」
その合間にも火の手が縦横を駆け巡る。
火柱が立ち上がり、ドラゴンが一瞬立ちすくむが、しかし、ちりちりとアモリイカに熱が渡り、辺りに匂いが拡散すると、そのまま火柱を超えて動いていく。
ぶつ、ぶつと火柱を通るたびに皮膚が焼けている。最初からあった皮膚の水泡は日の光にやられてのものだろうか。だが、ドラゴンに火に弱いという弱点があるならそんな簡単なものはない。洞穴に油を流し込んで焼切ればそれで全滅するのだから。だから、そんな簡単な話があるわけがない。が、流石に予想外だった。
皮膚の水泡が炎を吸い込み破裂し、その中から新たな皮膚が生まれてくる。
皮膚の再生であった。
「なんですかあれ……」
「見ての通りですね。殺しつくす前に元通り。プチドラゴンが厄介なのはそこ。けれど、プチドラゴンだけは人間にも打倒できる。……もっとも大の大人達が徒党を組んでやっと、だけれどね」
「そんなのに挑むつもりで?」
「一太刀だけね。今のこの状況なら逃げられる事を考慮して。洞穴で遭遇したらそんな事試す気にもならないしね。そこまで死に憧れては無い」
言いざま、彼女は胸元、より正確に言うならば鎖骨を肌蹴る。何をしているのですか?という突っ込みを入れる前に理解する。鎖骨に浮かぶ痣、鳥の羽のようなそれは一体何なのだろか。だが、それを見せるために肌蹴たという事だけはわかる。
「お願い、私に力を貸して」
ゆったりとした仕草で手を当て、目を瞑る。精神統一、だろうか。手を当てたそこが何かなるわけではなかった。十秒ぐらい経っただろうか。彼女が目を開いたのは。
既に周囲にはアモリイカの匂いが、食用ではないと言われていたがどこか芳しい匂いが充満していた。その匂いに腹が僅か鳴るがそんな場合ではない。プチドラゴンもアモリイカの場所へと辿りつき匂いを嗅ぐように周囲を見回し、歪んだその手でアモリイカをつついたりしている。図体に似合わず慎重に吟味しているようだった。自分が良く分からない場所にいるという事を理解しているのだろうか。理解できない場所で得られたものの扱いを知っているのだ。つまり、彼らの知能は高いと考えるべきだ。改める。人間だけに思考は与えられていないのだ、と。なれば、考え続けるしかもう人間に出来る事はない。力で負け、思考能力さえ持っている相手にはそれぐらいしか無かろう。多くを想定し、その多くに対処する、それしか残された道はない。
だが、そんな事、物ともしない存在がいる事を私は知らなかった。
「―――っ!」
歯を食いしばったような音と共にエリザさんが加速する。瞬間、雪が舞い散り、視界が白に埋め尽くされる。状況がつかみとれない。が、いまさらながらに可視できない抜剣を行っていたのを思い返す。それは人間の技ではない。エルフの技でもない。ゆえに、きっと彼女だけの何かなのだろう。
「―――はっ!」
一閃したと気付いたのは掛け声の次の瞬間届いた烈風によるもの。視界を埋めていた白い幕が一瞬にして飛び去り、視界がクリアになる。そして眼前には無骨な剣を振りおろしたままの姿のエリザさんと、それを受け首が凹み更に気色悪くなったプチドラゴンの姿があった。そう、金属製の剣を受けて、凹んでいるだけのプチドラゴンの姿、だ。
「エリザさんっ!」
反射的に私は腰元の包丁を手につかみ、エリザさんへ向けて投げる。領主様謹製の包丁だ。切れ味は歯のつぶれた剣とは段違いだろう。そう、つぶれていた。無骨な剣の片側それはプチドラゴンの皮膚によって潰されていた。両刃の剣の片方がつぶれたとそれはもはや剣ではなくただの鉄の塊でしかない。だが、彼女の装備だ。彼女がそれを離脱の際に手放す事はない。ゆえに……凹み、プチドラゴンの体に包まれ、剥がれる事がなくなったそれを、彼女が一瞬引張ろうとして身動きを止めてしまったのは……致し方のない事なのだ。
だから、次の瞬間にプチドラゴンが顔を曲げ、エリザさんの腕に喰いついたのはそれもまた反射故に。
「がっ……」
腕輪のない方、ガントレットのある方を噛まれたのは不幸中の幸いだったといえる。でなければ一瞬で噛みちぎられていたであろう。だが、傷付いたのは間違いなく、ガントレットの内側から炎が上がる。
エルフ属にのみ与えられた燃える血液。錬金術師に言わせれば燐が多く含まれており発火温度が極端に低いとのことだが私には意味が分からない。分かる事は、その炎は自らをも焼くという事だ。ガントレットの中で燃えるエリザさんの白い腕とドラゴンの口。ドラゴンの口にはぶつぶつと水泡が産まれ、それに苦しんだのか顎の力が抜け、そこからエリザさんが腕を引きぬこうとすれば、瞬間、ぎしゃ、と金属がつぶれる音と共にドラゴンの口の中が発火し、同時に苦悶の声と共にエリザさんは手を強引に引き抜く。飛び散る赤は燃えながら地面を覆う雪へ辿りつき、雪を水となす。
そして、ようやく、腕輪のついた方の腕に私の投げた包丁が届き、届いたのが見えた瞬間、ドラゴンの凹んだ首筋に包丁が突き刺さっていた。超高速で振りぬかれた包丁は剣とは異なり皮膚を刺したのだ。重量で押しつぶす形だった無骨な剣とは異なり、包丁はその切っ先、その刃で切断する事を目的として作られたものだ。だからこそ、とはいえしかしドラゴンの皮膚に突き刺さるとは領主様も大変高価なものをくれた物だと思う。
「エリザさん、引いて!」
「はいっ」
答える声は短く、されど強く。今は怪我を心配する時間なんかじゃない。口の中に広がる炎が消えず、内臓を焼かれ続けているドラゴンがのたうっている間に首を切り落とすしか私達がこの場を逃れる術は無い。私の言葉のままにエリザさんが一瞬で包丁をドラゴンの凹んだ首の部分を切り裂く。そして、次の瞬間、エリザさんがその場を離脱し、私の方へと。
「っぅ……痛いですねぇ。けれど、これで……やれたと思います」
言いながらしかし、エリザさんは警戒したままだった。ガントレットを付けていた右の手は血まみれで、燃えていた。それを拭く事なく、しゃがみ、雪に腕を突っ込む。次にドラゴンが動いた場合に備えて左手に包丁を掴んだまま。
一方で首周りから血が噴き出し、口の中が焼かれるままに暴れるプチドラゴンの姿は異様を通り越して恐怖すら覚える。エリザさんが刻んだ首は私の目には見えなかったが一周分。つまり、今あのドラゴンは首から上と首から下が切り離されているのだ。繋がっているのは骨を断ちきれなかったからであろう。体の主柱だけを残して切り刻まれれば流石のドラゴンとて死に耐えるはずだ。だが……それでもまだ生きていた。死に至る最中だった。
怖い。
純粋に怖いと感じる。
人とは、普通の動物とは違う世界に、この世の論理の埒外で生きる生命のようだった。歪んだ足を悶えさえ、焼かれたままの首から上が悶え、それに伴い首より上と下の肉の境が広がっていく。広がり、広がり……次第、暴れる体の動きが小さくなっていき……それからゆうに十分はかかっただろうか。ドラゴンが動きを止めた。
「な、なんとかなりましたよ……」
右手を押さえながらエリザさんが漸く安堵の声を挙げる。
「これが無限にいるのが洞穴ですか……」
その声とは対照的に私の声はどこか弱々しかった。二年間頑張ろうと思っていた。が、こんなものが跋扈する洞穴内でどうやって生きていけというのだ。今回は私以外の歴戦のエリザさんがいたからこそ助かったが、彼女がいなければ私は死んでいた。恐怖に怯えそのまま喰われて終わっていた。そんな恐怖をこれからも味わい続けるのか……。奴隷達が、自殺洞穴に入らぬままに売られていった者達がいるのも分かる気がしてきた。こんな恐怖を味わうくらいならば最後の二年間で享楽にふけりたいとそう思うのも当然に思える。どうせ売られた先で春を売るのだ。二年の間に慣れておけば良いだろうなんて……そんな風にさえ思えるほどだった……。けれど、
「カルミナさん、助かりました。貴女のおかげですよっ!」
そうやって元気づけ、痛いのを我慢しながら笑顔を向けてくるエリザさんの顔を見ていると、どうしてか恐怖が薄れていく。
「エリザさんは……怖くないのですか?」
「……怖いですよ。いつも怖いですよ。さっきも凄く怖かった。でも、この恐怖は私だけにしておきたい。私の知っている人達がこうやって怯える事のないように私はがんばりたいのです」
それを人は勇者と、そう言うのだろう。彼女は奴隷だけれど体も心も強くて、とっても強い人だった。けれど、
「でも……腕をかまれた時にはもう駄目かと思った。あの青い目で見つめられたら見えてないって分かっても怖かった。何度か洞穴でドラゴンの姿を見たことはあっても、直接戦うのは初めてだったからとってもとっても怖かったよ。でも、諦めそうになった時にカルミナさんの声が聞こえて、だからがんばれたよ。ありがとう。助けてくれてありがとう」
弱い人でもあるのだ。
だから、私は……この勇気ある人の手伝いができるようにがんばろうと、そう思ってしまった。とっても馬鹿らしい自殺行為だけれども、でも、私もまた自殺志願者なのだから、死にに行くような目的を持つことは当然だ。
「それじゃ……お楽しみの解体だね!ドラゴンを解体するのは初めてだよ。一緒にやろう?あ、それとそれと。角を使って御揃いのアクセサリとか作らないかな?二人で一緒に倒しましたっていう記念に。どうかな?」
「はいっ!エリザ様!」
「サマ!?」