第10話 雨の日の過ごし方
10.
人を待つという事に慣れていない。
あくせくとあちらへ行ったりこちらへ行ったりという日々を過ごしていた所に、ぽっと空いた10日間。毎日毎日先輩がいつ来るのだろうか?と思い馳せながら、過ごし、過ごして既に7日が経過していた。
そんな自分の現状を湖畔に聳える古い木造建築の入口に座り、思う。
暇である、と。
連絡を待っている身の上で依頼を受けるわけにもいかず、勝手気ままに洞穴に行って帰らぬ人になるわけにもいかず。かといって、新しい事実が分かったわけでもないのに神様とかについて延々と考えるのも堂々巡りするだけで、想像という名の妄想を膨らませるのもまた無為な話。
結果、暇である。
付け加えて、雨が降っているのだから尚更だった。
気分が滅入ってきてやる気がなくなるというわけでもなく、単に晴れていれば洗濯でもしたりできる分まだ暇を潰せるというだけだ。けれど、今は雨が降っているなりの事しかできず、私は降る雨音に耳を傾けながら、レアさんと並び、ただただ呆とした時を過ごしていた。
雨に濡れる草花はまるで催促されたかのように弁を開いていた。そこから香る匂いに擽られ、自然、鼻が鳴る。良い匂いか?と問われれば別に、と答えてしまいそうな、しかし、嗅げば落ち着くのも確かだった。そんな匂いに包まれながら周囲を見渡す。
腐食した屋根に溜まる水は、溢れ、零れて、建物に張り付いたツタを伝って流れ落ち、地面に小さな穴を開ける。ぴちゃん、ぴちゃんと小さな小さな水滴の弾ける音が聞こえ、聞こえるたびに湖畔に住まう蛙の歌にそれが打ち消されていた。その歌に誘われるようにその蛙達の住処を見てみれば、雨が湖に模様を作り出していた。産まれては消え、産まれては消えるそんなたった一瞬の中、複雑で、どれもこれもが同じではない模様を示していた。
そんな光景を、私は綺麗だと、そう思った。
神様の作った大陸に雨が降り、降った雨は住まう者たちを喜ばせ、喜んだ者たちが綺麗な光景を産み出す。それはとても素晴らしい事だと思う。
そんな光景を産み出す雨とは、神様の大陸に降り注ぐ雨とは何なのだろう?海が神様の涙で出来たものならば雨は何なのだろう?やはり涙なのだろうか。恵みの雨とも言うけれど……そんな疑問を抱きながら空を見上げれば当然の如くの曇天模様。
そして、この降り注ぐ水滴はどれほどの高さから落ちて来たのだろう?そんな疑問も湧いてくる。
それは奈落よりも高いものだろうか。それとも同じぐらいだろうか。だったら、地面に辿り着き、ぱしゃん、ぱしゃんと弾ける水滴のように世界は、大陸は奈落に落ちて壊れるのだろうか?けれど、これが神様の涙だったなら、こんなに泣いているのなら、落ちるより前に身を引き裂くようにばらばらに割れてしまいそうだった。
想像するだけ無為だと分かっていても、そんな事を思い浮かべてしまう自分に苦笑する。きっと呆として、黙っているから余計な事を考えてしまうのだろう。
「いつまで続くんでしょうね、雨」
「さぁ?でも、女神様が楽しそうですからもう暫くは続いても良いのでは?」
ぼそり、と呟いた声にこれもまた小さく返って来た。
「なんだか適当ですね」
「えぇ、適当です」
紅色の染料を塗られた大きな木製の囲い、いや、門というべきか。風に晒され腐食したそれは雨に濡れ、艶を増し、僅かながらいつもより紅色が強調されているように見える。
それに向かう様に妖精さんが浮かんでいた。
降り続く雨に濡れた背の翅が、震え、震えて雨を切る。伸ばした小さな腕の先にはそれよりもさらに小さな鈴がいくつも付いたいつもの棒。しゃらん、しゃらんと鳴らすその音は、けれど雨音に消されそうなぐらいに小さかった。
濡れるのも厭わず、彼女は何を祈っているのだろう。何を願っているのだろうか。そんな想像をした所で私には分からない事なのだろうと、思う。同じ人間でも他人の考えている事は分からないのだから、別の生物なら尚更だろう。
そんな妖精さんを見ながら、小さな鈴の音と雨音に耳を傾け、今度はふわふわと浮かぶメイド服に身を包んだ幽霊に目を向ける。
「あちらはあちらで何をしているのやら。お祈りですかね?」
祈るなこの馬鹿、と言ってやりたい。あぁいや、以前言ったか。まぁ、言った所でどうにもならないのはここ数日で分かっているのだけれど。
「さぁ?私には分かりません」
またしても適当な相槌を返された。
元神職の者としては幽霊なんかより目の前の光景の方が大事なのだと、そう言わんばかりだった。事実、そうなのだろう。先日からレアさんと共に何度か妖精さんの舞を見ているが、毎回のようにレアさんは妖精さんを見ている。今もそのメイド服の幽霊には興味がないとばかりに視線の先は鈴を鳴らす妖精さんだった。
いや、レアさんにはテレサ様が見えないのだから、見ようと思っても見えないし、こうやって問いかけても適当な相槌になるのは仕方ない。寧ろそれを分かっていて問いかけた私が阿呆である。……それもこれも暇が悪いのだ。
「幽霊がお祈りしたら成仏してしまいませんかね。元神職様」
「どうでしょう?」
レアさんから視線を逸らし、再びテレサ様へと向ける。
妖精さんから少し離れた所、伏し目がちにテレサ様が手の平を合わせていた。
彼女の家は教会の信徒だったように思うが、宗旨変えでもしたのだろうか。理由としては天使の正体を知ったから、とかだろうか。
「偶像地に落ちる、と」
ともあれ、まるで妖精さんが本当の女神様だと言わんばかりに彼女は真摯に祈っていた。
しかし、何度見ても幽霊が女神様の名を持つ妖精に祈る姿というのは奇妙な光景だった。
「イロモノ飲み屋さんですね」
視線を妖精さんに固定したまま、ぼそり、と呟くレアさんの言葉が胸に刺さる。
「料理担当がいませんからモツと酒しか出せない飲み屋で申し訳ない限りです。……というか、貴女もそのイロモノの一員なのは自覚してくださいね」
「私のどこがイロモノですか。……いえ、それよりも、何故そこで食事が内臓だけになるのですか貴女は?」
美味しいじゃない、と呟きながらゲテモノ料理屋からイロモノ飲み屋になったキプロスを思う。
店長代理が人間、店員が妖精に幽霊に純血エルフ、あと相変わらずどこに行ったか分からないが、ドラゴン。どう見てもイロモノ度合いが増えていた。私の所為じゃない、私の所為じゃないと言い訳をしてみてもきっと私の所為なのは間違いなかった。いや、半分は店長の所為だから責任は半々だと思う。えぇ。
「店といえば、お金は大丈夫なのですか?」
「あ、はい。何とか」
例の英雄様ご所望の酒樽を幾つか購入したのが2日前。アーデルハイトさんの伝手を頼りに購入し、運んでもらったのが昨日。当然、それの購入資金はディアナ様が用意してくれたレアさんの生活費、ではなくもはや欠片ぐらいしか残っていない私の懐からである。正直良く足りたものだなと思うが、御蔭で今後の食事は現地調達になりそうである。とりあえずドラゴン師匠が帰って来た時に飲み干されないようにしなければと思いつつ、ここは現地調達のしやすい立地で良かったな、と再び湖に目を向ける。
湖の畔では雨が降ってきて喜んでいる蛙達がゲコゲコと騒いでいる。きっと、彼らの大合唱が終わる頃が、雨の止む頃なのだろう。でも、きっと蛙達は終わることを望まないと思う。それぐらい楽しそうに彼らは歌っていた。オケアーノス、世界の果てで彼らは楽しげに歌っている。
「カルミナ、蛙ばかり食べるのは体に悪いですよ」
ディアナ様から頂いたレアさんの生活費に関しては身の回りの物を揃えても十分に余るものだった。が、それを無理に使う必要もないと、レアさんは私と同じ物を食べている。『脳より肉の方がましです』なんて事は言っていたが、きっと私に遠慮しているのだろうと思えば申し訳なさを覚える。聞けばきっと違うなどというのだろうけれど、この姉妹には遠慮させてばっかりである。いつか美味しいものを食べさせてあげたいと思う。
ともあれ、そんなやりとりの結果、2人してその辺りで捕まえて来た蛙とか、市で買って来た野菜を食べて過ごしているのだが、それもまた数日も続けば流石に飽きて来たのは事実である。
やっぱり稼がないとなぁと思う。
が、連絡待ちをしているわけで身動きが取れない。これはもう御店の売り上げに期待するしかないのだろうけれど、御店には閑古鳥が鳴いていた。店長の時すら客が殆どいなかったのに代理となれば当然の結末である。英雄さんが早く話をつけて店に来てくれる事を祈るばかりである。
だから、とりあえず今日は別の食事を手に入れないと。
「いえ、今日は魚にしようかなと。一応湖ですし魚ぐらいはいるんじゃないかなぁと期待したいんですが」
木々の隙間に映る水面をじっと見つめていれば、雨の作り出す波紋以外にも波紋が生み出されているのが分かる。呼吸をしに水面まで昇って来た魚なのだろう。だからそれを捕まえれば今日の夕食にはちょうど良い。
多分、湖を泳ぐ魚は足の生えていない奴だが……。あの足がないのは残念極まりないが、贅沢は言っていられない。
「……今日は魚の内臓ですか」
「いえ、外身もちゃんと食べますよ」
「あぁ、それは良かったです」
「……レアさんは私を何だと」
言っていいの?と小首を傾げられた。酷い話もあったものである。
「とはいえ、この雨足の中をがんばる気力はまだ沸いてきませんのでもう少し後にしましょう。……ところでレアさん。どうです?何か見つかりましたかね?」
このまま話を続けると碌な事にもならないだろうと話を逸らすようにレアさんへと問い掛ける。
私はもはや堂々巡りしすぎてどうにもならないが、レアさんはまだ色々と気になるようでキプロスを調べている最中だった。
「さっぱりですね。何にも見つからないです。気になる所は一杯ありますけれど」
古い建物を、今の住まいを振り返る。
「これは、古いで良いんですよね」
「えぇ。流石にこれは私でも古いと言いますね」
いつ倒れてもおかしくはない。一見してそんな風に見える社。
その中に飾られた何も飾られていない祭壇。そして自殺洞穴へと接続する可能性がある地下への道。その地下を少し歩けば金属製の重厚な扉。普通の扉には考えられぬ複数の鍵の付いた扉。何かを外に出さないように厳重に閉ざす事のできる扉。だが、鍵さえあればするりと開くその扉は、出る者を拒み入る者を許容するそんな扉。
世界の果てのさらに奥底に位置する店、キプロス。
「今の所、祭壇と扉が気になります。あとはこの建物の造詣とそこの紅色の囲い。その辺りですね」
「今まで何の気なしでしたが、疑いの目で見ると確かに他では見ませんし、変といえば変ですね、ここ」
「これを見て何も思わない貴女がおかしいのです。アーデルハイト様は来られた事はないのでしょうか?」
「あの木の所で集まった時にはいたから知らなくもないのかもだけど……どうだろう?あれも結構夜だったから見てないのかも?いえ、どうでしょう?」
本人に聞かないと分からないが、アーデルハイトさんがこんな怪しげな建物を見て興味を惹かれないわけもない。
とはいえ、である。
今、私達はリオンさん達が怪しげだという考えを持ってこの場所を見ているわけで、そうでない人が見たら単なる廃屋にしか見えないかもしれない。実際、私も含めここの客たちはあまりその辺り気にしていなかったように思う。寧ろ、リオンさんの作る食事の方が怪しげだったから尚更である。……そういえばあの夜もリオンさんお手製の食事だったと思う。木を隠すなら森の中、建物を隠すならゲテモノ料理の中というのはほんと、ふざけた話だった。
肩を竦める。
そんな私の仕草に、苦笑し、レアさんは巨木へと視線を向ける。
「あれもまた古い木なのでしょうね。エルフの森にもあれほど大きな木はありませんね。あれだと……」
「あれだと?」
「樹齢は1500年といった所ではないかと。あの巨体を支えているのですからきっと、根っこは自殺洞穴の中なのでしょうね」
「確かに。……だからそんな長い事、成長し続けられたんですかね?洞穴内の怪しい栄養を摂取しているとか」
洞穴内を流れる水は確かに奇麗だが、あの死に近い場所で流れる物はそれだけではない。だからこその以前の依頼だ。
「知識がありませんので返答は控えます。……その内、学園の図書館に案内してくださいね。人間の残した文献、自殺洞穴に関する書物など見てみたいです」
「それはもちろん。多分、レアさんなら大丈夫だと思いますよ」
「私なら、というのが良く分かりませんが、ありがとうございます」
皇女様の妹なら特別に許可は出るだろうという話である。
しかし、アーデルハイトさんに劣らず、レアさんも大概、好奇心旺盛だと思う。これはアーデルハイトさんの言う様に純血のエルフは好奇心旺盛な生き物という事なのだろうか。
「……あっ。そうでした。店長さんの寝室にはまだ入っていませんでしたね」
図書館で本を読む瞬間を楽しそうに想像していたレアさんが、そうそう思い出したとばかりにそう言った。
生憎と私も入った事は無い。
妖精さん用の箪笥が置かれた小さな部屋とドラゴン師匠の部屋は掃除やら洗濯の折りに入った事がある。が、リオンさんのお部屋にはまだ入った事は無い。
キプロスに来た当日、どこに何があるかを知るためにひと通り部屋の確認はさせて貰ったのだが、リオンさんの部屋と思しき場所は鍵が掛っていた。ドラゴン師匠が、ここがパパの部屋と案内してくれたものの中は見ていない。
その他、何があったかといえば、ドラゴン師匠の部屋、妖精さんの小部屋、そして……もう一つ。空き部屋があった。当然のことながら窓一つなく、木で出来た壁に囲まれたそこは牢屋のようにさえ思えた。その真中にぽつんとテレサ様の執筆道具だけが置かれていた。そういう意味でその空き部屋はテレサ様の部屋といえばそうなのだろう。幽霊に1部屋もいらないだろうというドラゴン師匠の勧めという名の強権発動もあり、そこを私の部屋として使わせてもらう事になった。
そして、今現在、私達2人はその部屋で一緒に寝ている。あぁいや、テレサ様もいるので3人の部屋といえば3人の部屋である。部屋の大きさとしては3、4人が寝ても十分余裕のある比較的広い部屋で窮屈もしていない。
むしろ、寝ている間に魘される事もあるレアさんを1人で別の場所に寝かせるのは忍びなく、様子を見るにもこれぐらいの距離の方が都合は良い。
……しかし、やはり、そう簡単に割り切れるものではないと言う事だ。当然だ。泣きながら寝ている所などここ数日だけで何度も見ている。飛び起きる事もある。再び寝入っても涙を零していた事もある。
死に至る病とは絶望なのだ。彼女は絶望を抱き、死にたいと願ったのだ。微笑む彼女の奥底にはきっと仄暗い想いが消えていない。一朝一夕でどうにかなるわけもない。けれど、それもまた、いつか過ぎ去った過去だと思える日は来るのだろう。心から笑って過ごせる日は来るのだろう。そう思う。
ちなみにテレサ様が戯曲執筆中はペンが勝手に動くのでレアさんがもの凄いびくつくのは既に恒例行事である。
「とはいえ、勝手に入るのは流石にリオンさんに悪いと言いますか……」
「そうですね。私なんか面識もありませんし」
気分的な物である。確かにリオンさんを調べれば何がしか解決するのかもしれない。が、だからといって好奇心で人の部屋に侵入するのは人間として如何なものか。加えて男の人の部屋というのもちょっと近寄りがたい理由の一つでもある。せめてドラゴン師匠が帰って来てから、とは思うものの。ドラゴン師匠はいつまで経っても帰ってくる感じもないし、待ち続けるのも……。それに、私に変な期待をしたのはリオンさんだし、ドラゴン師匠には思う通りにやりなさいと言われているし……などといつの間にか自分への言い訳を考えている私も大概、好奇心旺盛なのかもしれない。
「妖精さん、妖精さん」
思い立ったが何とやら、妖精さんに声を掛ける。
声を掛ければ、一際大きなしゃらんという鈴の音と共に妖精さんがこちらを振り向いた。
妖精さんが一番大事にしているであろう古い奇麗な一重は水に濡れ、しかしそれがまた艶やかに妖精さんを彩っているから不思議なものだった。水に濡れてこそ真価を発する着物。本当、誰が作ったのかが気になる代物だった。
片手で濡れた髪を掻き上げながら、妖精さんが飛んできて、
「いや、濡れたままで乗らないでくださいね」
不満そうな表情をして床へと降りる。
全身を振るわせて水を弾き飛ばす様はまるで栗鼠のようだった。目がまわらないのだろうかと心配になる。……そういえば栗鼠といえばレアさんの愛栗鼠であるラピス君は社の天井付近の梁にあったウロの中で過ごしていた。そこがラピス君にとっての第二の故郷となるみたいである。逞しい限りだった。いつか番でも探してきてあげようと思う。一人は流石に寂しいだろう。
さておき。
妖精さんの脱水活動が終わるのを待っていれば、ふいに視線を感じ、そちらに顔を向ければ、
「カルミナ、貴女。儀式の最中に声を掛けるのは人としてどうなの?」
幽霊が人を語っていた。
「いえ、何やら馬鹿な幽霊が熱心に祈っているものでついつい邪魔をしてしまっただけですが……というか妖精さんの舞って儀式だったんですか?」
「そうよ。貴女はウェヌス様のありがたい舞を見て何も思わないのかしら!?」
「……様って何があったんですかテレサ様。とうとう頭がおかしくなりました?……あ。いえ、妖精さんの事を悪く言っているわけではないですからね?」
妖精さんに視線を向ければ、一瞬止まってこちらを向き、うんうんと頷き、次いでぶるぶると震えて脱水を再開し始めた。
「酷い言い様ですわね!ウェヌス様に様を付けて何が悪いのよ。カルミナ、それは完全に言いがかりですわよ。何よ、そんなに隠し事をしているのが気に入らないのかしらね」
「当然です」
「……ま、それはそうよね。でも、私は貴女の為になる事はしないと決めたから仕方ないわね!くやしかったら私を成仏させてみる事ね。そうしたら教えてあげるのも吝かではないわよっ」
何を嬉しそうに笑いながら言っているのだ、この駄幽霊は。
「私もテレサ様の言う事なんて聞いてやりませんけどね。精々、未練を溜めまくって亡霊やってて下さい」
ぷいっと2人して顔を逸らす。
テレサ様が包丁に取り憑いていた理由を教えてくれれば少しは疑問も解決するというのに。ほんと酷い幽霊である。
「良く分かりませんけれど、楽しそうですねカルミナ」
くすり、とレアさんが笑う。見えないし、聞こえない。だからきっとレアさんからすれば私が一人芝居をしているように見えるわけで……いや、何だかそれはそれで恥ずかしい。
「心外です」
「えぇ、心外ね!」
だが、レアさんの声は当然の如くテレサ様に届くわけで……。いやはやしかし、ペンの動きが見えるなら、メイド服も見えるように思えるが、そこは見えないとはこれまた不思議な話である。何で出来ているんだろうかこのメイド服。実は悪魔で出来ているとかだろうか。
ぷんすか、と憤りながらも私の横に座る風にしてテレサ様が浮く。ぱっと見ると確かに座っているように見える。器用だった。どれだけ練習したのだろう。けれど割と無意味だと思う。この幽霊、普通に物が触れたりするのだから……。
「さて。幽霊はさておきですね。妖精さん、妖精さん」
ん?と小首を傾げる妖精さんはやはり可愛らしい。先輩、残念でしたね、早く来ていれば見られたのに。とここにはいない人に自慢しながら妖精さんへと問い掛ける。
「リオンさんの部屋って入って大丈夫なんですかね?分かりません?」
その言葉に、妖精さんが小さな腕を組んで悩みだした。
「やっぱりドラゴン師匠の許可がないと駄目ですかね」
と問いかければ今度は横に首を振る。別に、ドラゴン師匠の許可はいらないようだった。だったら……
「リオンさんの許可がないとやっぱり駄目ですか?」
それにも、首を横に振った。
「カルミナ。多分……私達に覚悟が必要なのでは?」
真剣そうな表情で、もしかしてそこに何か凄い事実が隠されているのでは!?なんて少し上気した表情でレアさんが告げたその言葉に、妖精さんが……またしても首を振った。
「あ、あれぇ?じゃあ、どういう事なのでしょう?」
気勢を削がれたレアさんががっくりと床に手を付いた。流石駄エルフである。肝心な所で外しますね。とは言うものの私にも理由はさっぱり分からずお手上げ状態である。
妖精さんが言葉を喋られるのならば他にも色々聞ける事はあるのだろうけれど、たったこれだけの事でも意思疎通が出来ないのだから、それは無理な話だった。リオンさんみたいに妖精さんの言葉が分かれば良いのに。あぁ、思い出した。そういえばリオンさんは妖精さんの言葉が分かるわけで……。それの意味する所は何なのだろう?私が妖精さんの言葉を理解できないだけなのだろうか?……ハァ、またしても余計な謎が増えた。全く。酷い店長である。
「リオンさんとドラゴン師匠の2人がいないと駄目とか?」
「惜しいわね、カルミナ。とっても惜しいから仕方なく。仕方なくよ?……私がヒントを出して差し上げますわ。つまりね、ウェヌス様が言いたいのはこういう事よ」
「テレサ様?」
ついさっき私の為になる事はしないと言った傍からの前言撤回発言だった。隠し事は言えないのにこっちは言えるとなると、やっぱりテレサ様は私の悩む姿を見て楽しんでいるだけに違いない。
その証拠とばかりにテレサ様がくすり、と笑みを浮かべ、くるり、と逆さに浮き、
「役者が足りないのです」
上下逆さのままにその言葉を告げた。
その言葉に、妖精さんが、うんうんと頷いた。頷き、テレサ様を真似するように空を飛び、上下逆さまになったまま上下運動に勤しみだした。相変わらず意味不明な行動である。その妖精さんの行動はこの際気にせず、テレサ様へと問い掛ける。
「役者が足りないってどういうことですか?テレサ様?」
「役者?……カルミナ、どう言う事ですか?」
だが、その言葉に答えは無く、返って来たのはレアさんからの問いだった。それも当然か。だが、レアさんもレアさんで察したのかそれ以上聞いてくる事はなく、私とテレサ様の会話に区切りがつくのを待ってくれるようだった。
「言葉が伝わらないというのは面倒そうですわねぇ。役者は役者よ、カルミナ。舞台を作りあげるには作家だけがいても意味がありません。役者と観客がいて初めて成り立つものです。観客は十分。ですが、役者が足りません」
「ですから、どういう意味なんです?役者が足りないというのは」
「役目を担うモノがいないという事よ。貴女では力不足という事ね。ガラテア様がおられればそれを担えましたが、今はおられません。ですから無意味なのです」
「……テレサ様、リオンさんの部屋に入った事があるんですね?」
「えぇ。従業員に秘密は不要と。もっとも、それでも貴女が知りたいような事を知っているわけではありませんけれどね。ですから、聞いても無駄ですわ。私に分かるのは今の貴女では力不足ということ。精々、それぐらい。後は……私がここにいられる理由ぐらいです」
「……」
テレサ様の言葉をレアさんに伝える。だが、伝えたところでお互いテレサ様の言う言葉の意味を理解することはできなかった。
「どうすれば役者は足りるんですかね?」
「貴女では力不足と言ったはずよ」
「言葉通りなんですか?」
「さぁ?どうでしょうね?でもそうね。例えば……ゲルトルード様とかエリザベート様とかが適任ですわ。意味、分かるかしら?」
「……天使の痣」
「正解」
簡単だったわね、そう言いながらくすり、と微笑むテレサ様が小憎らしい。
「何がしか理由があって力が強い人がいないと意味がないので、今すぐに私達が部屋に入った所で何の意味もないって話ですか。入る事で何かしらの意味があると分かっただけで良しとします」
「あら?私、そんな事言いました?」
「『従業員に秘密は不要』といってリオンさんの部屋に誘われたのならば、そこに秘密があるんでしょう?そもそも、ドラゴン師匠が必要なぐらいに強い力を必要とする時点で大概怪しいです」
城が壊れるぐらいの力なのだから。
「これは一本取られましたね!」
やられたわっ!とばかりに大げさな表情をするが、態と取らせたに違いなかった。
でなければあまりにもテレサ様がお馬鹿である。いや、馬鹿だけれど。
問いかけに対し、私が自分で答えを出した。そういう形がテレサ様にとって都合がよかったのだろうか?力不足という分かりやすい言葉を使った事からもきっとそういう事なのだろう。……まったく、素直じゃない幽霊様である。
心の中で御礼を伝えながらも、しかし口を出るのは戯言だった。
「馬鹿な幽霊が勝手に喋っただけじゃないですか。私の所為じゃありません」
「これまた一本取られましたわ。残念、私の負けね。はぁ。貴女、たまには私に勝ち星を譲る気はないの?これでまた未練が出来てしまったじゃないの。貴女に勝たないとゆっくり死んでもいられないわね。全く酷い子ですわね」
「私は優しい人間じゃありませんしね」
「相変わらず嘘が下手よね、貴女。まぁいいわ。……さて、と。敗者は敗者らしく潔く立ち去ると致します」
そう言って、幽霊が小さく笑い、濡れることもなく空を飛び、どこかに立ち去るのかと思えば、赤い門の上に座り、空を見上げ始めた。それに釣られるように妖精さんも手に鈴の付いた棒を持ってテレサ様の下へと向かう。
「負け逃げはずるいですよ、テレサ様。……勝者には賞品が必要でしょうに」
小さく呟いた声に、同じように小さな声が返って来た。
「カルミナ?」
テレサ様との会話内容をレアさんに伝え、伝えればレアさんが一刻も早くリオンさんの部屋へ入りたそうにうずうずし始めた。が、今は入っても意味がないのなら、急ぐ必要もない。それよりもエリザかドラゴン師匠がその場に必要だというのならば、先に済ませなければならない事がたくさんある。
「……じゃあ、今は、魚でも捕まえて来ますかね」
だが、それでも今の私にやれる事といえばそんな程度のものだ。
全く……。
暇である。
雨足は相変わらず早く、止む事もなさそうだった。
暇を持て余して、ついつい雨の中を走って行きたい気分である。
全く、そんな事を思うのはきっと……視界の端に走っている白い何かが見えたからだろう。
「水も滴る良い鎖骨ですね、先輩」
「カルミー、なんだよその変態的な挨拶は」
雨に濡れていつになくしっとりとした白い人が現れた。
結局、今日の夕食も蛙になりそうだった。
―――
「人使いが荒過ぎる」
「奴隷ですし」
「いやまぁ、そうだけど」
白い。
雨に濡れた体を拭く先輩を見て、ぱっと思った事はそれしかなかった。一見すると線の細い体のどこにあれだけ動ける力が蓄えられているのだろうか。そんな疑問が沸く。
「なんで傘ささなかったんですかね?先輩」
「そりゃ、急いで行けってディアナの馬鹿に言われたから持って無かっただけだよ」
「たまに馬鹿ですよね、先輩」
「煩い」
全身どこを見ても無駄な贅肉はなく、かといって華奢な印象は一切ない。だからといって武骨な印象もまたなく、それは調和のとれた体躯というべきか。他の神様の感性というのは分からないが、人間の神様の感性というのは理解できるように思う。
「……カルミー」
そんな無遠慮で不躾な視線に晒されていた先輩が、白い髪を拭きながらじとーっとした視線を向けてくる。だが、その髪を拭く仕草もまたどこか楚々とした印象を与えてくる。全く、多芸というか何というか。
「これが眼福という奴ですね」
「おいこら変態」
とはいえ、その言葉も疲れの所為かあまり強くはない。精々、苦笑といった所だった。
相変わらず目の下には隈。そして瞼はとろんと落ちそうな程だった。火を灯した御蔭で部屋が暖かくなってきたから尚一層といった所だろうか。
「寝てないんですか?」
「仮眠は取っているよ」
「そういうのは寝てないというのでは?」
「洞穴内よりはましよ」
いやそりゃそうでしょうけれど、という二の句は告げなかった。
「ご自愛ください」
「カルミーに言われたくは無いなぁ」
「何故に」
「ディアナに聞いたぞ?またカルミナが怪我していたのよ、ってね」
再び苦笑しつつ、私から着替えを受け取る。
先輩の服が乾くまでの間という事でドラゴン師匠の箪笥を漁って持ってきたものだった。背の高いドラゴン師匠からすると比較的先輩は小さいのだが、
「なんでこんな服があんの?」
「ドラゴン師匠のお古みたいですね」
ふぅん、と服を見る。
一見しようが二見しようがどうみても古い服だった。古めかしく陽にも焼けたそれ。どれも似たような意匠ではあるが、けれど、今のドラゴン師匠では着られないような小さめの服。一番古い物はこれよりもさらに古めかしく、そして小さい。子供の頃の服なのだろうと思う。それを後生大事に持っているのだからやはり大事なものなのだろう。それを勝手に使わせて貰うのは申し訳なくも思うが、好き勝手やって良いといったのはドラゴン師匠である。それに……先輩を裸でいさせるわけにもいかないだろう。
「ドラゴンでも人間みたいに成長するのね」
「みたいですね。それよりもですね、先輩。私、さっきから気になっているんですが……」
「何よ?」
「先輩、貞操帯は?」
「何それ?」
きょとん、と小首を傾げる先輩が、少し可愛いと思ってしまったのは間違いなく間違いである。えぇ。いや、そうではなく……その声音は、なんでそんなもの付けなきゃなんないの?という素朴なものだった。貞操帯をつけていない事に何の疑問抱いていない、寧ろ私がなぜそんな馬鹿な事を言っているの?と言わんばかりの素朴なものだった。
「いや、ほら。こんな奴ですよ。リヒテンシュタインの奴隷なら皆付けているはずなんじゃ?ほら魔法付与付き貞操帯って……先輩だけ特別扱いですかもしかして」
「カルミー、女の子が無防備にスカートをたくしあげるんじゃない」
「普段卑猥な発言をしている先輩の台詞とも思えませんが……」
言われ、手を下ろす。
「んで、何よそれ?」
「……私、奴隷になってすぐに付けられましたけど。御蔭で割と不便しています」
「でしょうね。良くそんな物付けて動けるわね」
「わりと動きづらいです。というのは良いとして、どう言う事ですか先輩?もしかして」
「何を想像したのかしらこの売女は」
「いやだって……ほら処女は高いって」
「最安値といわんばかりのカルミーに言われたくは無いなぁ……カルミナ。貴女、自分を安売りしすぎよ?」
どこかの領主様のような口調で心配された。何か素で心配された。
「……だったらなぜ先輩はつけてないんです?」
最近思い悩む事が多すぎてこれ以上悩みたくないのだけれど……。
「いや、普通に考えてだよ、カルミー。魔法付きって皇剣みたいなやつでしょ?だとするとあの娘さんが作ったって事になるわけだけど、そんな物、奴隷全員に配布していたら流石にディアナでも破産するんじゃない?一つでも結構な金額になるだろうしさぁ。正直言ってしまえば、多分カルミーより高いぞ、その貞操帯」
「そんなにですか……」
それは、あまり聞きたくない言葉だった。再びスカートを託しあげて貞操帯を見てみると、何だか小憎らしく感じて来て涙目である。
しかしそういえば、皇剣9本を作ったドラゴン師匠は悠々自適に外国遊びに行けたって話をしていた。それが奴隷の数だけと考えたらもはや想像の埒外だった。それこそ世界の果てまで遊びに行って帰ってきてもまだお金が残りそうである。
「ま、娘さんに聞いてみれば値段とかも分かるんじゃないの?」
「やめときます。悲しくなりそうなので。……でもだったら、なんでディアナ様は私にこんな高い物」
「それはあれよ。ディアナの変態趣味に決まってるじゃない。ほれ、カルミーの事気に掛けているみたいだし?」
「いや、ちょっとそういうのは……」
先日のあれを思い出して背筋にぞくり、とした寒いものが走った。
が、その先輩の台詞はどこか誤魔化すような感じに聞こえたのは何故だろう。ディアナ様が奴隷に妥協するわけがないという風に言っていたはずの人が、そういう事を言ったからだろうか。
「それに、次のリヒテンシュタインの名を持つ者と期待しているみたいだし?」
「カルミナ=リヒテンシュタイン。うわ……。自分で言っていて何か怖気が。しかし……どうにもまだ道は遠い気はします。今回もまた違う事だったのでディアナ様には呆れられましたし」
「カルミナ=ドラグノイア=リヒテンシュタインな」
「ドラグノイアはディアナ様のミドルネームですよ、先輩。やっぱり疲れで頭悪くなったのでは……」
皇族の方は間に宝石の名前が入っているが、ヴィクトリア=マリア=メルセデス学園長やメイドマスターことマグダレナ=ソフィア=アウローラ様みたいに。あるいはテレサ様のように。テレサ様は少し特殊でラ=ピュセルがミドルネームだったかと思う。家の格とかなのだろう。
「変な所で抜けているよなぁカルミーは。ま。良いとして。ディアナの阿呆は待たせて焦らせておけばいいんだよ。あの変態はそっちの方が喜ぶ」
「いえ。期限がどんどん短くなってきているので……」
「はんっ。カルミーなら次に洞穴行ったぐらいで何か見つけてくるさ」
悪魔でも飼い馴らして引き連れてきそうじゃない、とでも言いたげだった。
「変な期待ありがとうございます」
「ま。それより先に神様を発見してぶん殴って世界の平和でも導いて、結局表に出せなくてディアナが呆れる方に賭けたい所だけどなぁ」
ケタケタと笑う。
「そうです。それです。先輩、お聞きしたいのですが」
「ん?ちょっと待ってね」
服を身につけ、ふむふむと全身を見渡している。先輩にはそれでも少し大きいみたいで、だぶついた感じではあった。だが、暫く時を過ごすには十分だろう。
「うわ、これ凄いね」
「凄いんですか?」
「凄いですわよ?直接肌に身につけても何の違和感もないといいますか、肌触りが繊細といいますか。こんな高そうなお召し物身に着けた事ありませんわ」
急にお嬢様様風の物言いになり、腕を動かしたり、足を動かしたり肩を動かしたりして調子を確かめている。装備じゃないんだから、という突っ込みを入れたくもなるが、それ程良いものなのか、と逆に関心が沸いた。
「相当に古そうですけどねぇ」
「だねぇ。それでもカビとか見えないんだけど。もしかしてあれなの?カビが生えたら食べてるの?」
「いやそれは流石に……無いと良いですね」
そのための古い服とかだったら流石にあれだ。
「というか、あのドラゴン何歳なのよ。これはちょっと古すぎるように思うわよ?どこの骨董品屋よ」
「そうその辺りです。先輩、馬鹿な事を聞きます」
「ん。いいよ」
一転、優しい声だった。
「あの人は何歳なのでしょう?もしかして、不老の人とかなのでしょうか……」
「ん………そうきたか。うーん?若作りなのは間違いないのだけれど、そう言われると何とも分からないわね。……でも、正直、この服を見ると、あのドラゴンの父親ってことなら百年ぐらいは生きてそうに思うよね。人間ならその時点であり得ないし」
変な質問に対し、馬鹿にすることもなく笑う事もなく、当たり前のように先輩は受け止めてくれた。それが、嬉しかった。
「何かの呪いとかありませんかね?」
「天使の呪いは天使と成る。ドラゴンの呪いはドラゴンを殺さねばいられなくなる。私はそう解釈している。アルピナ様の呪いも結局は他の物を食べる事ができなくなりドラゴンを食べなければいられないようにするための物だと私は解釈した。合っているかはわからないけれどね。あの店主は例外にしても、ドラゴンの血で生きながらえられていたのだから多分そんな事だと思うわよ。だから……それ以外の、たとえば」
「神様を殺したら、やっぱり呪われたりするのでしょうか?」
「そう。後はそれ。私達やアルピナ様みたいなドラゴン、あるいはエリザベートとゲルトルード様のような天使とは違う所と言えば、店主が自称……神殺しを行ったという点だけ。だから、その可能性を私は否定しない。神様を殺した存在など、私は知らないからね」
「仮に神様に呪われて不老だとしたら……1200年生きながらえる事はできるのでしょうか」
「せ、せんにひゃく?何よその数字」
流石に予想外だったのか、先輩がきょとんとしていた。
「……レアさんに。エリザの妹さんに聞いたのです。エルフに伝わる神話を。エルフに伝わる物語を」
「聞かせてちょうだい」
―――
カウンターの内側に私、スツールに先輩とレアさんが座る。
果肉混じりの果汁をグラスに入れて二人に出す。それを一体全体何なのか?と恐る恐る飲むレアさんと、どうもと一言だけ口にしてくいっと喉を鳴らす先輩の姿が対照的だった。こく、こくと鳴る先輩の喉元が収まり、軽い音と共にカウンターにグラスが置かれた後、少し考えるように瞳を閉じ、開いたと同時に先輩が口を開く。
「カルミー。要は店主が不老不死で、件のミケーネ名義の本の著者だったら全部丸く収まるって話?……それが真実だったら、ディアナの下に連れていけば、喜ぶんだろうなぁ」
あれだけ読みこんでいるのだ。狂喜乱舞するだろう。ちょっとそういうディアナ様も見てみたくはある。ついでに図書館のオフィーリアさんの所にも。いや、それはさておいて。
「流石にそれははしょりすぎですが……いえ、でも今の私の考えはそんな感じです。荒唐無稽ですけどね」
「荒唐無稽の何が悪いのよ。間違いでも良いじゃない。それで間違いだったら間違いで良いじゃないの。笑い話で済ませれば良い話よ。あの時のカルミーの発想ってばかだったよなぁってさ。間違えても、間違い続けてもそれでも諦めなければいつか辿りつくのさ。だからその最初が荒唐無稽だろうが別にいいじゃない。根拠の一つもないのに妄言吐いているならいざ知らず、別に根拠がないわけでもないわけだしさ。私は良いと思うよ」
「……そう言う風に全面的に肯定されると恥ずかしいと言いますか」
「はんっ。格好付けるならせめて二の句は考えとけって言わなかったっけ?流石、貞操帯をつけてまで純潔を守っている御方は恥ずかしがり屋ですこと。いつになったら御開帳してくれるのかしら?」
酷い言い草だった。下品にも程がある。
「先輩、純潔自慢はこっちのエルフです」
「ちょっと、カルミナ!こっちに振らないで!」
真っ赤になってレアさんが怒り出した。元気な事である。元気ついでに意見を求めれば、深いため息を一つ吐いた後、レアさんは乾いた唇を濡らすためにとグラスの中を飲み干してから、口を開いた。
「私としては、何か説明がつけばそれで納得はできるのです。例えば、ここは建物だけを見れば相当に古いとは思いますし……1200年物かどうかは分かりませんけれど……仮にこの場所が1200年前からあって、『最初の方』がここに住んでおられたとか、それでその言葉などが残っているとか。その人達が『ミケーネ』何某を名乗ったとかです。それでしたら、それで全て納得できます。ただ、その場合何故この場でそれを伝えなければならなかったのかという新たな疑問は沸きますけれどね……人とエルフに伝える事なく、ここにだけに伝えた理由が」
「何よ、エリザベートの妹にしては頭が廻るのね」
「私とエリザベート姉様を一緒にしないでください」
「……仲良いのか仲悪いのか分からない姉妹ですね。馬鹿な所はそっくりですけど」
「カルミーに言われちゃおしまいよな」
「確かにそうですね。……えーと、そういえば、あの失礼ですがお名前は?」
「知らない。……でも、そうね。エリザベートからは姉さんとか言われているわ」
「レアさん。あまり気になさらないで下さい。この先輩、恥ずかしがり屋なんです。ほんと、先輩こそいつ御開帳してくれるのやら。蜘蛛の巣だらけの錆びだらけかもしれませんが是非見せて下さいよ」
「カルミー。後で説教」
「何故に……」
「なるほど……何か事情が御有りの様ですね。では、エリザベート姉様と同じく、姉さんと呼ばせて頂く事に致します。宜しくお願いしますね、姉さん」
初対面の人を姉と呼ぶ事に抵抗はないのだろうか?それともエリザへの信頼なのだろうか。エリザが信頼している先輩だから、という事だろうか。ともあれ私の発言は華麗に無視され説教される事が決まった。酷い話である。
「よろしく。……っていっても、私、エリザベートより年下だと思うんだけどなぁ。エリザベートがゲルトルード様と似たような年齢なら尚更だし。どちらかっていうと私、カルミーと同じか少し上ぐらいだと思うんだけど」
グラスの中に残った氷をカランカランと鳴らしながらそんな事を呟く先輩はちょっと面白かった。そんな年上に見えるかぁ?と寂しそうな表情であった。
「えーと……ちなみに先輩、何歳なんです?」
最初に先輩と会ったときにエリザぐらいなんだろうなぁと思ったので、きっと18とか20ぐらいなのだろう。もっとも、エリザはエルフなどで実年齢と見た目には差があるわけで……。
「16から20のどこかじゃないかな?多分だけど。流石にそれ以下ってことは無いと思う」
「何か曖昧ですね」
「良い女には秘密があるって事さ」
「その台詞は格好良くないですよ?」
「煩い」
「……お二人は仲が良いですね」
くすり、と笑われた。先日も誰かに言われたような気がする。
「私もそう思いますわ」
突然、苦笑交じりに混ざった声はレアさんには届かないものだった。
「テレサ様、戻って来たのですか」
「あぁ、幽霊メイドか」
「…………私だけ見えないんですね」
がっくり、としているレアさんはさておき、いつのまにかテレサ様までスツールに座っていた。いや、お前はこっち側だろう。とこっちに呼び寄せ給仕をさせる。
「幽霊メイドって失礼よ、元リヒテンシュ……おっと怖いわね」
そのテレサ様の言葉に、先輩が、その全てを見通す視線をテレサ様に向け、睨む。見えなかろうと触れられなくともそれでも切り刻んでやるとでも言わんばかりだった。
「そりゃ悪かった。が、それ以上は喧嘩を売っているとみなすわよ、元貴族様」
「ちょっとしたお遊びよ、白夜公。一部の貴族だけが知っているお遊びですけれど、ね」
白夜公って何?と一瞬思ったが、まだあったのか先輩の二つ名。他にもあるのだろうか。ちょっと知りたい。
「……貴女、火遊びが好きみたいね」
「それは私ではなく母の方ね」
「あぁ、そういえば城でも噂になっていたわ。時期が時期だから仕方ないのでしょうけど、メイド達が姦しいったらありゃしなかったよ」
「あら。それはそれは母がとんだご迷惑を」
「別に私には関係のない事だし、貴女の所為でもないでしょうよ。で、テレサ。貴女が話せばそれで事足りると思うのだけれど?」
「白夜公、先程カルミナにも言いましたが、私が知っているのは、私がこの場にいられる理由ぐらいのものです。それもまた……口止めされているわけではないので話しても良いのですが……私を苦しめて成仏させなかったカルミナへの意趣返しなので」
「……それじゃカルミーが悪いわなぁ」
「ちょっと先輩」
「ですが、そうですね。ヒントぐらい差し上げても構いませんわ。火遊びのお詫びという事で」
「ヒント?」
「えっと。カルミナ、通訳をお願いします。……あと、これは本当にどうでも良いのですが、先程からグラスが勝手にあっちいったりこっちへいったりしているのが怖いです……イロモノ飲み屋としては良いのかもしれませんが……」
私と先輩には見えているので何の違和感もないのだが……こればかりはどうしようもない。だが、逆に言えばそれだけ不自然なのだ。テレサ様がここにおられるのは。
「怨霊状態なら見えるかもしれませんが、それはそれで怖がらせるだけですわね」
「怨霊状態?」
「髪の毛掻き毟ったり顔を掻き毟ったり目から血の涙を流していたあれよあれ」
「あー……あれが見えるぐらいだったら止めた方が良いですねぇ」
ただでさえ見えない人がそれを見たら、尚更駄目な気がする。
なのでやはり致し方ない、とレアさんにテレサ様の言葉をお伝えする。
「ヒント……ですか」
「えぇそうよ!ヒントですわっ」
「是非、聞かせてください……」
「えぇ!いいですわよ!貴女の物語を書かせてくれるならねっ!オブシディアンに纏わる物語の裏の物語。悲恋のその未来。かつて愛し合った二人の間に出来たオブシディアンの少女と父の違う妹の物語。母の愛を一身に受けて育つ姉とそうではない妹。しかし運命は残酷。母の愛した姉が呪いを受けるのです。呪いを受け隔離された姉を、しかし処刑される前に逃そうと伝手を頼りに人へと売り払った母。いつかあの人が気付いてくれるはずだとそんな願いを込めて、彼女は断腸の思いで姉を売ったの。でも、エルフの夫は真実を知り怒り狂い母を苦しめ始める。そんな愛憎の物語を書かせて頂戴!あ、でも残念ですが物語的には皇子とエルフは童貞処女であった方が映えますので、貴女の兄上達は父の連れ子として登場させるぐらいで宜しいですわよねっ!?」
「……お願いいたします」
何だか会話が成り立っているようだが、成り立っているわけではない。そしてついでとばかりのテレサ様の営業活動である。逞しい。だが、活動する相手が間違っている。
そんな逞しい一面を見せたと思えば、一転して。
しん、と静まり返り、ゆっくりと、しかし流れるように言葉を紡ぐ。
「『悪魔を作った神様は言いました。神の言う事を全く聞かない失敗作じゃないか。そんな失敗作は言う事を聞くように、その魂を作り直してやろう』……要するに魂と呼ばれる存在を捕まえて連れて行くって話ね。天使が外身なら悪魔は中身。悪魔を作った神様は特に私のような怨霊を見逃さないみたいね。普通は死ねば人の神様の下へいくのでしょうけれど……私みたいなのは、悪魔がその神様の下へ連れて行く。天使と同じく、悪魔に見初められた者は、やはり悪魔になるの。……でもね、私はここにいる」
幽霊が悪魔について語る。
それはやはりどこかで聞いた事のある神話が、聞いた事のないような言葉で紡がれる。しかしそれが事実なのだとしたらテレサ様にはやはり未練を溜めて頂かないと。でもそうすると今度は悪魔が襲ってくるのだろうか。
そんな事を考えながら、レアさんにその言葉を伝えれば、レアさんがはっとし、姿勢を正す。
「テレサ様、それをどこでお聞きになりましたか?」
次いで、出てくる言葉を待つ。
「さて、ね。……ねぇ、カルミナ。あの人は怖い人なのよ。ガラテア様が、一番怖いのはあの人だと言うのは事実なのよ。ウェヌス様がそれに同意されるのは事実なのよ。……あの方はとても、とても怖い人なのよ。……意味、分かるかしら?」
そこで言葉は切られ、テレサ様はいつになく真剣な表情で、しかしどこか悲しそうに俯いていた。
俯いた姿はまるで誰かに謝るかのようにさえ思えた。いいや、違う。悲しげで、しかしそれでいて小さく笑みを零すそれは、悲しいだけでは決して見せられない表情。それは例えば、昔話をする時のようなそんな表情。あの頃は悲しい思いもあった。辛かった。けれど、今となっては良い想い出なのだ。もう届かない過去に僅か寂しさを覚える。けれど、良かったのだと語るような、そんな姿。
いつか私もそんな表情をして、昔を振り返るのだろうか。なぜだかそんな風に思えた。
だから、言葉に詰まり、レアさんに催促されるまで呆としてしまったのだと、思う。はっとし、テレサ様の言葉をレアさんに伝えれば、しばらくの後にレアさんが、眉を歪め、表情を歪めながら私達に問いかけるように言った。
「それはつまり、悪魔が、悪魔を作った神様が恐れて近寄らないぐらいに……その方は怖いという事ですか?そんな事があるというのですか?神が恐れる存在など……」
確かにテレサ様の言葉は悩ましい物だと思う。けれど、私には、そしてきっと先輩もその言葉を聞いて即座に脳裏に浮かんだ言葉がある。
それはレアさんには未だ伝えていなかった言葉。
そうであれば確かに恐れるだろう、と思う。
それであるならば他の神々達は恐れるであろう、と思う。
自らにも襲いかかる可能性のあることなのだから恐れるであろう、と思う。
誰だってそうだ。生命であれば、いいや、そうではなくても。きっと、それは花であろうと木であろうと、大陸であろうと、恐れるだろう。例えば、そう。人間には理解しえない存在である天使でさえも、怯えていた。あの時、あの人から逃げるように、怯えていた。その場から逃げ出してしまいたいと神様の先兵が、神の子供が、笑うあの人に怯えていた。
自らが侵される事を恐れないモノはいない。
自らが壊される事を恐れないモノはいない。
自らが殺される事を恐れないモノはいない。
その言葉を私と先輩が、同時に口にした。
「……神殺し」
テレサ様が、簡単だったわね、そう呟きながら、俯き加減に、くすり、と小さく笑みを浮かべる。
「白黒コンビ、正解」
その姿はやはりどこか寂しそうで、けれど、やはりどこか嬉しそうだった。




