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自殺大陸  作者: ししゃもふれでりっく
閑章~蠱毒な少女の描いた夢~
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第5話 名前を呼んで

5.



『隠しだては意味が無いぞ、お主。勅令じゃ。そして……今は火急故な。本来ならば、こんな所におるわけにもいかんのじゃ。だが、ゲルトルード姉様から頼まれたのならば致し方なかろう?』

 扉の奥から声が聞こえた。幼い声だった。私よりもなお、小さい子にも思えた。


『アルピナ様。私は自分の娘に躾をしただけです。分かりますか?斯様な状況に産まれた者は言葉も知らなければ感情も知らない。動物のように扱われていたものを人間にするためには躾が必要です。奴隷だとてそうでしょう?それは確かに行き過ぎた所はあったかもしれません。ですが、それも愛ゆえにでございます』


『との事じゃが……マグダレナ。お主の雇い主の判断を疑っておるこの輩を私はどうしたら良い?』


『アルピナ様。私の事はメイドマスターとお呼び下さい』


『……なんじゃそれは』


『マジックマ……いえ、御気になさらず。今は火急故に。さて、下郎』


『げ、下郎!?メイド如きがこの私を下郎だとっ!?』


『その沸点の低さがまさに下郎と呼ぶに相応しい。さて、ゲルトルード様よりの勅令には二つの事柄が書かれておりました。その内一つは、貴族に作られた少女の事』


 淡々と告げていた。それをディアナと二人で聞く。様子を伺う。


『そして、もう一件。この屋敷にディアナ=ドラグノイア嬢がおられる可能性があるとのこと。なれば、人身売買の咎は、その少女を作った貴族の末路を知る貴方にも容易に分かるでしょう。……この貴族の恥さらし共めが。アウローラ家が第一子、マグダレナ=ソフィア=アウローラがゲルトルード様に代わり、貴君を拿捕致します。逃げられると思いませんように』


 静かに激昂する声の主はマグダレナ=ソフィア=アウローラ。第一皇女のメイド。それは即ち、皇女のメイドを担える地位にあるという事の証左でもあった。皇族の傍系たる生粋の貴族。リヒテンシュタインのような木端な貴族とは違う生粋の貴族。それがアウローラ家。メルセデス家と対を成す最高位の貴族。


「……ゲルトルード様」


 来られない代わりに。その二人を向かわせてくれた。が、もはや時既にといった所だ。後は、残すのは二人の対面にいる男だけなのだから。


『……御待ちを。一人、いえ……二人ですか?しかし、この血の匂い。ともかく、外の二人、何用です。中へ入ってきなさい』


 流石性悪メイドだった、と後に感心した。

 有無を言わせぬ声に、ディアナと顔を見合わせて扉を開け、先日ゲルトルード様とお会いした時に使われた部屋に、二人で入る。


「……っ。……ディアナ、お主良く無事で」


「……アルピナ様、マグダレナ様。御無沙汰しております」


 視線を下げ、膝を下ろし、剣を床に置き、恭しく礼を取る。


「貴様らっ!?なぜここにっ!?息子は。あやつはどうしたというのだっ」


「殺したよ。全部。この屋敷で生きているのはここにいる人達だけ。全員。皆、殺したよ。私を、私達を害する者達もディアナのお母さんも私が殺した。後は貴方だけ。貴方だけ。でも、貴方を殺す役目は私じゃない」


 全身血塗れの私が淡々と告げるその言葉に、はっとしたのはマグダレナだけだった。他の二人は私の言葉の意味を理解できていなかったと思う。


「アルピナ様。マグダレナ様。どうか……どうか、一時で構いません。目を閉じていてくださいませ。……お母様を玩具にしたこの男を私に殺させて下さいませ」


 死を願う。この男を自分で殺す事を彼女は願う。


「ディアナ=ドラグノイア。貴女の頼みを聞く事はできません。ゲルトルード様の勅命です。こんな貴族のために貴方が手を汚す必要はありません。結果、処刑となり、リヒテンシュタイン家は取り潰しになろうと、この場で処断することは許されません」


「それは駄目。ディアナのためにここは残すんだよ。リヒテンシュタイン家の娘が罪を犯した家主を殺して家を継いで、それをディアナに譲ってあげるの」


 しゃらん、と鞘を抜ける刀の音と共に、私は刀を振り抜き、弧を描くように当主に振り下ろし、瞬間、それの軌道がマグダレナの投げたナイフにずらされた。


「……加えて、ゲルトルード様より貴女にこれ以上人を殺させるなと厳命されております。故に、止めさせて頂きました。だいぶ遅かったみたいですがね……気付かなかったとは不覚」


 とす、と小さな音を立てて地面に突き刺さる刀の先端を、返す刀で振り上げようとし、再びナイフに逸らされる。こんなことは初めてだった。この場に光がなければ、一瞬で片が付いたのに。そんな事を少し思った。


「止めなさい。私の御友達」


「ディアナまで止めるの?」


 視線を当主に向けたまま、何事かと驚きと怯えを隠せぬ当主を見据えたまま、首だけをディアナの方へ。


「……アルピナ様の御前で人を殺す事は許しません。閉じて頂けないのならば、見逃して頂けないのならば、この場は止まりなさい」


 ぎり、と歯を食いしばりながらディアナが膝立ちのまま俯いた。一番悔しかったのはディアナなのだろう。あと一人、この男さえ殺せば良かったのだ。だから、一番悔しかったのはディアナだったのだろうと、そう思った。この時は確かにそう、思った。

 けれど、私が思うよりもディアナが強かだっただけだ。私が軽い気持ちで口にした、とってつけたような殺害理由を、真に実行しようとしただけ。この場を乗っ取るためには一番それが良いのだ、と。結果、当主が死ぬのならば有利な方が良いと、そう判断したのだ。


「お主ら……後の審議で全て白日の下に晒すゆえ、どうか、この場は私の顔に免じて抑えて欲しい。お主らに罪は無い。既に死んだ者とて共犯じゃて。故に、これ以上、その手を汚す必要はない。膿を出すのは我らの領分じゃ」


 私達に向かい、頭を下げる。

 この時のアルピナ様は8歳ぐらいだったように思う。8歳がこんなにもしっかりと状況を見据え、語れるものだろうか。いいや、それゆえに彼女は皇帝であり続けられたのだろう。


「アルピナ様。ドラグノイア、リヒテンシュタインの両家を御潰しになれないよう、願い奉ります。この場は彼女の、彼の場は私のいる場所故に」


 そんな彼女へと、ディアナが嘆願する。我らを憐れんで下さるのならば、聞き入れてくれと。この場で当主を殺さないのだから、聞き入れてくれと。自らを拘束され、母親すら死んだ者、そして無垢であった私を人殺しに育てあげられてしまった私を憐れむと思うのならば、どうか……と。それは、皇族の方々には無視する事の出来ない嘆願だった。正義感の強さ?否。この言葉は、被害者の口から、紡がれてしまえば、叶えぬわけにはいかないもの。被害者は私とディアナだけ。その二人が口を閉じれば当主の罪とて罪でなくなるのだから当然だ。ただ二人。多くの被害者がいれば別だった。けれど、そうではなかった。だから、ただ運が良かっただけかもしれないが、この状況になった段階でディアナの一人勝ちは決定していたのだ。その時は分からなかったが……。

 アルピナ様が少し引き攣った表情を見せたのは仕方のない事なのだろう。マグダレナが驚いた様子でディアナを見たのもまた仕方のない事なのだろう。


「……両家を手に入れる気か、ディアナ」


「はい。貴族の恥を晒した両家を復興し、真の貴族とならんがために。両家を手に、私はトラヴァントのために尽します。ここに来て下さったアルピナ様の為に。助けを呼んで下さったゲルトルード様の為に」


「き、貴様ら何を勝手に!この私を誰だと思っているのだ!?リヒテンシュタイン家の当主だぞっ。アルピナ様!この者達の暴挙、皇帝陛下にお伝えいたしますぞ!」


 自分が処刑される事が確定し、その後を馬鹿にしていた小娘が、化物が手に入ると言われ、暴れぬわけにもいかなかったのだろう。既にディアナという証拠があるのだから暴れても意味がないにも関わらず。けれど、彼にはまだ、拠り所があったのだ。


「それはできぬ相談じゃの」


「横暴ですぞ!!これがこの国の皇女とは!この国の未来はどうなるというのかっ」


「たわけ。お主に心配されずともこの国の未来は風前の灯じゃ」


「……なん、ですと?」


「カッカッカ。余裕はないと言ったろうが……」


 言葉尻は笑っていた。けれど、目は笑っていない。むしろ焦燥感を抱いていた。


「本日、早朝、洞穴内より巨大ドラゴンが現れた。それゆえに……トラヴァントは戦争状態に移行しておる。彼奴を打倒せねば、未来なぞ……ない」


「ドラ……ゴン!?まさかっ。そんな……どうして?」


 ディアナが驚きに目を剥いた。ドラゴンという存在をディアナから寝物語として神話として聞いていただけゆえに、私にはそれが驚く事かも分からず……。


「分からぬ。原因は昨日の地震かもしれん……なんじゃその様子じゃとここまでは届いてないのか……そんな局所的な地震があるというのか?」


「ですが、そうであれば……アルピナ様、いえ……ゲルトルード様はもしや」


「ちょうど騎士団を率いておったからのぅ……私に後を頼み、ゲルトルード姉様は先陣へと向かった」


「……ディアナ?」


「大丈夫。大丈夫よ。だから、安心なさい。ゲルトルード様は大丈夫だから……」


 何故、そんなに必死になって私を慰めるのだろう。今までで一番、ディアナが優しかった。それはきっと、ドラゴンという物の恐怖をディアナは聞いていたからだろう。だから、もしかすると、そう思っていたのかもしれない。


「本当は此方に来たかったのだろうのぅ。昨日、ゲルトルード姉様は嬉しそうに言っておった。娘が出来るのだと。アルピナよりも少し年上だけど、でも……小さな子だから。仲良くしてあげてとそう言っておったからのぅ……ほんと何故、こんな時に。運命とは斯くも……」


「娘?……お母様?」


「そうじゃ。ゲルトルード姉様がそうお決めになった。お主を養子とすると。今度こそ守ると。そう言ってな。嬉しそうにしておった。とても楽しみにしておられた。父王陛下を……そうじゃ、リヒテンシュタインの。できぬ相談じゃといったのは何も私が意地悪をしているわけではないぞ?」


「…………」


 押し黙ったままの当主。貴族としてドラゴンが襲う帝都を想っているのだろうか。いいや、そんなわけもなかった。


「父王陛下は、貴君らと結託し、貴族間の人身売買を成し、後宮の更に奥に女人を囚っておられた。全く、我が父ながら色狂いじゃて。……故に。ゲルトルード姉様が処断した。他の妹弟に相談もせずとは相変わらず苛烈よのぅ?だからガサツと呼ばれるのじゃがなぁ。ともあれ、父王陛下と相談はできぬのじゃ。いや……代わりに帝位にお付きになられたゲルトルード姉様に相談したいというのならば、取り次いでも良いぞ?なぁ、どうする?リヒテンシュタイン公?」


 拠り所を無くした当主が、その場に崩れ落ちた。



―――



 奴隷制度を容認しているこの国で人身売買が禁止されているのは、奴隷が人間扱いされていないから、ではない。言葉遊びのようにも思えるが奴隷以外の帝国臣民を他国に売られると国が疲弊するからというだけの話だ。売国に繋がる行為故に、止められているに過ぎない。他方で奴隷を容認しているのは農業国故に人員が足りない事がままあるからというだけの話だ。性奴隷の需要も高いのは事実だが、管理の面倒さ故か実際にはあまりおらず、基本的には農奴である。後のリヒテンシュタイン家のような借金のかたとして売られた者達を自殺洞穴で洞穴攻略に寄与させるなどという事はまずない。ましてその奴隷達を使ってリヒテンシュタイ家の名を挙げ、強い戦力を有する貴族として名を馳せ、それにより対外への牽制、という考えは、考えた奴の頭がおかしいものとしか思えない。まだ、奴隷を囲い、洞穴で宝石などを手に入れ、市場経済を回すための一種の雇用政策だといった方が分かりやすく国に貢献しているといえよう。借金のある者達へ金を渡す事で市場を回し、犯罪者として奴隷に落ちたものには更生と仕事の機会を与える。売られた者に関しては借金返済までは教育を行い、手厚く保護するとした方が良いだろう。それこそ貴族の成す事だ。

 だが、ディアナはそうしなかった。使える者を見つけ出し、家名の増強と洞穴攻略への貢献。もっともそれ以外の場で活躍した者などは切り捨てるのがディアナらしいといえばそうだった。奴隷は所詮彼女の身内ではない。だから、無感情に彼女は捨てる。

 皇族派の貴族に嫌われるのはその出自にもあるが、その辺りの冷淡さにもある。

 閑話休題。

 帝都へと向かう馬車の中、そんな話を聞いた。


「……差があるようには思えない」


「まぁ、都合良く作られるのが、この辺りの法律じゃ。政治的な判断といったところじゃの。幾ら正義感が強かろうと……正義感だけでは国はやっていけんからのぅ。味方すら殺す覚悟がなければ、皇族はやっとられん」


「アルピナ様。年齢をお考え下さい」


「なんじゃ、マグダレナ。お主まで私に老成しておるとか言うのか?」


「その通りです。そして、私の事はメイドマスターと」


「だから何なのじゃそのメイドマスターとは……」


「皇剣を作りしマジックマスター様に肖りまして」


「みーはーじゃの。お主」


「何を仰いますアルピナ様。マジックマスター様は素晴らしいのですよ。彼の者だけが成しうる剣に魔法を刻み込む秘儀。それに加えてあの魔法。あぁ何と素晴らしい……」


 陶然とするマグダレナが気持ち悪かった。


「皇剣のぅ?あの御遊び道具がそんなに凄いのかのぅ」


「凄いのです。お分かりにならないかもしれませんが物凄い事です。人知を超えたまさに奇跡の技です。あぁ……私も欲しいです」


「一本余っておったろう?それを貰っておけばよかろうに。どうせ欲しがるものもおらんような余り物じゃし、お主が持って行った所でかまわんと思うぞ?」


「あぁあの黒い…………いえ、あれはその、なんだか呪われそうな感じが」


「カッカッカ。あのマグダレナが呪われそうじゃと?それこそ、馬鹿馬鹿しい」


 やいのやいのと二人の会話が続く。

 緊急時と言いながらもけれど、冷静であり続けられるのは本当に肝が据わっている。状況を理解していないわけではなく、ただ、泰然とある。それだけだ。


「黒い?」


 黒。その色ならば分かる。だから、つい言葉を発してしまった。


「うむ。マジックマスター何某曰くの、皇剣じゃ。名をオブシディアンと言う。黒い太陽とも呼ばれるのぅ」


「黒い、太陽……」


「そうじゃ。何もかもを覆い隠してしまう暗闇。その体現。黒い太陽の下ではその全てが闇の中、というわけじゃな。ま、あまり良い謂れではないの」


 けれど、きっと……私にはそんな世界でも見えるのだろう。見渡せるのだろう。黒い太陽の下でどんな世界が広がっているのかが見えるのだろう。黒く染まった世界で、けれどその中に咲く一輪の花。白い、奇麗な白い花が私にはきっと……見えると思う。いいや、もっと咲いているかもしれない。一面の御花畑かもしれない。

 何故だろう。そんな呪いのような世界でもきっと私には……奇麗な世界なのだと言えるに違いない、なんてそんな馬鹿な事を思ったのは。



―――



 燃えていた。

 燃えていた。燃えていた。

 まるで巨大な松明のように帝都が燃え上がっていた。

 赤い。

 赤い。

 血のような世界。

 遠目に人々が逃げ惑うのが見える。豪奢な鎧を着込んだ者達の誘導に従いながら逃げ惑う。

 私が初めて見た帝都は、そんな状況だった。


「……マグダレナ」


「承知」


 急ぎ、馬車を走らせる。

 手綱を持つマグダレナが、馬に指示する。

 向かった先は帝都から離れた場所。そこが避難場所のようだった。小さな平城とその周囲には多くのテントが作られ、多くの、それこそ見た事のない程の多くの者達が行き交っていた。慌てる者、宥める者、怯える者、喧嘩する者、食事を作る者、食べる者。それはきっと平時と変わらない。平時と場所が違うだけで、何も変わらない光景なのだろう。しいて言えば、何故こんな場所に居続けなければならないと少しの不満を持っている、ぐらいだろうか。臣民なぞ、身勝手なものだ。矢面にも立たず、過ぎ去るのをただ待つだけ。ただ、それだけ。

 だから、こんな人達を守るためにゲルトルード様が前に出る必要なんて本当はなかったのではないか、そう思う。

 それは嫉妬。何故私の元ではなく、こんな者達のためにゲルトルード様は残り、ドラゴンと戦わなければならなかったのだろう。


「……あとで世話係を遣わせる。お主らはここで大人しくしておるのじゃぞ。事が終われば迎えに来る故な」


 一応は元貴族と貴族の娘とされている私を普通の臣民と同じようなテントを与えるわけにはいかぬと、私と、ディアナ用にと平城の一室を与え、アルピナ様が立ち去った。なお、捕縛されたリヒテンシュタイン現当主はマグダレナに連れられ平城の牢屋へと。


「贅沢は言えないわね。とはいえ、ベッドで寝られるのだから十分贅沢かしら。どう思う貴女?」


「さぁ。ベッドを使った記憶がないわ」


 実際にはゲルトルード様といた時に使っていたみたいだけれど。


「それはごめんなさいね。贅沢な事この上ないわけね。ま、一つだけど。……一緒に寝ましょうか」


「一緒に?」


「えぇ。友達だものね」


 そんな会話をしていれば世話係に任命された年老いた女性が訪れた。その女性に水を願えば、湯があるとのことで老婆がそれを取りに行った。その間にと、ディアナがメイド服を脱ぎ、私に願う。


「これ、外して頂戴」


 全身を覆う拘束具。留め金や鎖、皮ベルトと女性の肢体を強調するための拘束具を一つ一つ。時折外せない物をディアナの剣で切り落とす。

 両腕、首、肩、乳房、腹、腰、尻、足、それらの拘束をひとつ、ひとつと外していけばディアナの拘束具の跡が残る、傷だらけの柔肌が見えてくる。肉は少ない。けれど柔肌と呼ぶに相応しいように思えた。そんな表れた皮膚からはむせかえるような女の臭いがし、それが鼻腔に響く。


「……悪いわね」


「大丈夫。友達だからね」


「そう。ありがとう。御友達」


 とは言っても私も血の臭いが酷いのでお互い様だった。拘束具を外し、釉薬で加工された下着だけの姿となった頃合いに、図ったかのように老婆が戻ってくる。良いタイミングだった。湯とついでに持って来てくれた部屋着を受け取り、今度は食事の準備をすると退室した老婆を見送り、私とディアナは手拭いを使って互いの体を拭く。血を、汗を落としていく。


「あったかい……」


「えぇ。そうね。温かい。貴女、温かいわね」


「違うよ。手拭がだよ」


「ほんと、情緒がないわね貴女。こういう時ぐらい優しくなさい」


「何、言ってるのディアナ。……なんか、ちょっと眼が怖くない?」


「いえいえ。なにも怖くは無いわよ。兎さん?」


「……兎?」


「あぁ……知らないか」


 何だかとっても残念そうなディアナと馬鹿な会話をしながら互いを拭き合い、血を、汗を落としていく。途中何度か舐めるように見てくるディアナの視線が気にはなったが……。

 拭き終わり、これもまた図ったかのように老婆が訪れ食事を……温かそうな、食事を置いて立ち去って行った。


「食事って温かいの?」


「……本当、知らないという事は幸せなのかもしれないわね」


「知らないという事は怖いけどね」


「貴女がそれを言うの?」


「私だからだよ。見えるから。見えないのが怖くなるんだよ」


「そう。だったら同じね。幸せを知っているから不幸が怖い」


「私はゲルトルード様が笑ってくれたら、それで幸せかな。いつも泣いているから」


「……ご大層な夢ね」


「でしょう」


 ディアナが肩を竦めた。

 それを皮切りに食事をする。きっとアルピナ様から状況を聞いていたのだろう。噛むような食事ではなくスープの類。スプーンで掬い、嚥下する。熱いどろっとしたものが喉を焼いていく。その熱が流れて行く様が楽しくて、次々と掬っては飲んでいく。長時間煮られ、もはや溶けるような柔らかさの細切れ野菜。一体何の野菜かは分からないけれど、でもそれがまた一つのアクセントとなり私を、ディアナの腹を満たしていく。


「何これ……まともな食事……というと語弊があるけど、ドラグノイアにいた頃でも食べた事がないわね。とても……とても優しくて、美味しいわね」


 ほぅとため息を吐くディアナの頬は赤く染まっていた。そして、自然と、きっとそう自然とディアナは涙した。それは、安堵だったのだろうか。


「何よこれ……悲しくなんかないのに。嬉しくなんかないのに」


 それでも涙が流れていく。感情を隠す彼女の本心を露わにするように、涙を流させる。

 それは……私の瞳からも。


「貴女……?」


「仲良しだ。私達」


「ははっ。二人して、何泣いているのよって話よね。秘密よ、秘密。私達二人だけの」


 その涙が、ぽたり、とスープの中へ入り、拡散していく。小さなスープという世界に私という存在が産まれ、世界を変えていく。小さな、ほんの小さな私が、世界を変える。


「は……ぁぅ」


 その小さな私が含まれた世界を掬い、口へと運ぶ。私によって書き換えられた世界が私を侵していく。甘く、優しい世界へと私を、私達を誘っていく。見ればディアナも陶然と呆然としながら、変わらず涙を流していた。辛く、苦しい、けれど耐えられないわけじゃない。そんな感情を、けれど、けれど、心が泣いていた。心の悲鳴は絶望を温床。だから、それを表に出して、涙として流してくれた。どうか苦しまないでとそう言わんばかりに。そんな温かい、暖かい料理に包まれて、私達は確かに安らぎを得ていた。

 次第、眠気に瞳が虚ろになっていく。

 ディアナの手が私を呼び、スプーンを地面に置き、誘われるようにベッドへと移動する。


「寝ましょう……今日はきっともう、私、格好つけられないから」


 涙を拭きながら、私を誘う。


「ディアナは格好つけなくて良いよ」


「じゃあ、貴女の前では……そうするわ」


 言い様、布団の中、ディアナが私を抱きしめ、そのまま仰向けになる。


「もう。私は人形じゃないよ」


 応えるようにディアナが私を抱きしめる。そうじゃない、と。そして、私もまた応えるように力を抜き、ディアナの柔らかい体に寄りかかる。


「ありがとう」


 温かかった。暖かかった。きっと母の愛というものがあるのならば、これなのだろうと思えるぐらいに暖かかった。次第、意識がまどろんでいく。暖かく、心安らかに意識を失っていく。

 だからきっと、それは夢だったのだろう。

 窓の外を小さな、とてもとても可愛い小さな人のようなものが、少し安心したような表情で飛んでいったのは、そんなものが見えたのはきっと夢だったに違いない。



―――



 それから十日近くが経った。

 状況は変わらず。

 いや、悪くなっていると言った方が良かった。緊張の連続が続き、体力を失った戦力が戦えるか?などという事ではなく、不満が募っていた。初日ですら不満を募らせていた者達がいたのだ。それが十日も続けばさらに不満が募るは至極当然だった。まったくもって身勝手だが、けれどそれが大衆だ。それが人間だ。だったら、自分は化物でも良いなんてそんな風に思えるほどの不満が募っていた。爆発は近いと、ディアナは読んでいた。これがあと数日続けば、暴動が起こるだろうと。けれど、結果、それで死滅するのは自分自身の方だと言う事を理解せぬままに不満の元を打倒し、悦に入り死んでいく。まったく、度し難い。けれどやはり、それが人間だ。都合の良い存在だ。私のような者を作るのだから、それも当然に思えた。


「……貴女。もしかして行く気なの?」


「邪魔するつもりはない。状況を確認しにいくだけ。夜中なら……大丈夫」


「自分ならドラゴンを倒せるなんて、思ってないでしょうね」


「…………」


「きっと見れば分かると思う。私も、見た事はないのだけれどね……小さいのを見たことがあるけれど、でも……それだけでも倒せないと理解できたわ」


「……心配し過ぎだよ」


「だから、約束なさい。私の御友達。貴女は帰ってくる。今日中に。じゃないと先に寝るんだからね」


「何?寂しいのディアナ?」


「えぇ。そうよ」


「……逆に私が恥ずかしい」


「貴女の前では格好付けないと決めたからね。嘘も騙しもするかもしれないけれど、格好はつけないようにする」


「それはどうなの」


 実はかなり馬鹿な人なのだろうか。そんな事を考えながら、けれど友達の言葉を守ると私は誓い、闇の中を駆ける。

 松明の光漂うテントを避けて、森の中を行く。視界は当然明瞭。森の中を走り抜ける。途中夜行性の動物を見かけたりしながら、走り続ければ帝都が見える。

 焼け落ちた建物があった。

 未だ焼け続ける場所があった。

 崩れ落ちた場所があった。

 人が死んでいた。

 人が倒れていた。

 そして……絶望の体現が居た。


「……あは……ははは」


 闇夜の中、火の光の中にそれは居た。

 これは無理だと即座に理解した。

 その頃の私に分かる尺度でいえば、まさに動くリヒテンシュタインの屋敷だった。

 今にも空を飛びそうな伸ばされた両翼、その背丈は屋敷程の巨大さを誇っていた。眼の大きさだけでも私の身長の軽く二倍ぐらいあっただろう。遠目に見てもその巨大さが分かる。闇夜ゆえに尚更に私の眼には鮮明に映る。

 だが、けれどそれは傷だらけだった。

 片翼は切り裂かれ、眼は穿たれ、歯は折られ、背には無数の剣が突き刺さっており、片足は根元から切り落とされていた。


「…………あぁ」


 小さな人達がいた。

 そのドラゴンを前に、けれど懸命に生きる者達がいた。


「ゲルトルード様……」


 ドラゴンの眼前。

 豪奢な鎧に巨大な剣を携え、立ち向かう人がおられた。

 長い髪を振り乱し、ドラゴンの攻撃を避け、剣を振り下ろす。弾かれ、時にはそのまま攻撃を受け止め、その隙に部下達が攻撃をする。

 煌びやかな剣を持った男がいた。

 両手に剣を持ち、それを踊るように使う少女がいた。

 付き従うエルフの女性がいた。

 他にもたくさんの者達が戦っていた。傷付き、殺され、体力ももはや欠片しかなかろう。けれど励まし合い、逃げず戦う者達。

 愚かだった。

 馬鹿だった。

 けれど、けれど……どうして彼女達を見ているとこんなに胸が熱くなるのだろう。

 不満を言う者達のために、何故、彼女達は闘い続けられるのだろう。何故、どこかの誰かの笑顔のために、命を賭して戦えるのだろうか。


「分からない……分からないよ」


 私は、邪魔にならぬようにその闘いを見ていた。

 見えていた。

 私には、何もかもが見えていた。

 だから、きっと気付いたのだろう。

 私以外の皆は必死だったから、必死に戦っていたから見えていなかった。

 だから、きっと気付かなかったのだろう。

 もう少しだと、もうちょっとだと希望を胸に戦っていたから気付かなかったのだろう。

 希望を知らず、幸福を知らぬ私だからこそ気付けたに違いない。


「あれは……」


 火の光の奥。影となっている部分。ドラゴンが地上に表れて以降、背に剣を突き付けられていてもそれでもなお見つからなかったのは一体、どのようにして隠れていたのだろうか。ドラゴンの背に隠れていたのは……子だった。

 母親に匿われた子供だった。

 私と同じぐらいの小さな、けれど絶対者としての風格を見せるそれは、決して幼生とはいえぬ存在だった。隙を伺い、母親に対して一番の害となる存在を狙っていた。ゲルトルード様が、彼の人がこの中で一番危険な存在であると認識していたかのようにも、思う。


「……っ」


 気付いた瞬間、走り出していた。

 間に合え。

 否、私ならば、間に合う。見えているのだから。何もかもが見えているのだから。闇夜だろうと、なんだろうと。

 見果てぬ未来すらも見通して見せる。

 全身全霊をかけて帝都を走る。

 走り抜ける。

 奇麗に舗装された道路なぞ。崩れた建物が乱立する道なぞ。洞穴の中に比べればどれ程、走りやすいか。

 駆け抜ける。

 駆けて行く。

 次第、巨大なドラゴンがさらに大きくなっていく。遠目から見ている時よりもさらに、さらにと。恐怖に震える体を、怯える体を叱咤しながら私は走る。

 こんなもの。私にはなかったのだ。私には何なかったのだ。だったら、ドラゴンの恐怖なぞ私にはない。そんなもの後から付いたものだ。言葉を知り、世界を知り、そして培ったものだ。そんなもの、元々持っていなかった私が本当に理解できているわけがなかろう。だったら、大丈夫だ。私は、私に世界を与えてくれたゲルトルード様を助ける為ならば、自分の世界すら壊して見せる。元の牢の中へと戻ってみせる。

 悲鳴を上げる肉体を。呼吸を求める華奢な体躯から伝わる痛みを、歯を食い縛り、耐え走る。体が悲鳴を上げてもそれを超えて走る。その痛みもまた元々私の中になかったのだから、偽物だ。この世には何もなかったのだ。私には……私に光を与えてくれた者以外なかったのだから。だから……


「お母様っ!」


 ドラゴンの爪を巨大な剣で防ぐゲルトルード様を狙い、落ちてくるドラゴンの子に私は、全速で刀を抜き、それを持って貫かんと、突撃する。崩落した壁を蹴り、立ったままの壁を蹴り、そのドラゴンの目を狙い、上空に躍り出る。ばれているとは思わなかったに違いない、地面に出来た陰に気付いたのかこちらを向いたドラゴンの子の瞳に刀を突き刺し、そのまま地面へとなだれ込む。落下の衝撃に耐えながら、瞬間、その勢いで戦場から離れるように刀を刺したまま突き進む。


「―――っ!」


 その頃には既にゲルトルード様の喉は潰れていた。騎士団を指揮するために声を張り上げ過ぎた所為だろう。だから、言葉は聞けず。けれど、それでも良かった。無事でよかった。これで、大丈夫。後はこいつを私がどうにか出来れば良い。

 『ぎゃぁぁぁ』と鳴くドラゴンの子が私を殺そうと両翼を振り乱す。そこから逃げるように刀から手を離し、私は飛び退いた。逃げた私を、刀に突き刺されたままの眼が睨んでいた。それはディアナとは全然違う気色悪い瞳だった。ディアナのような奇麗さなど一切ない。ただひたすらに気色悪い気持ち悪い瞳。けれど、それから逃げる事はできず。

 力があればきっともっと簡単だったのだろうか?けれど、無いもの強請りをした所で意味は無い。両手は空。武器もなければ余裕もない。体力もない。けれど、諦めるわけがない。

 ここで死ぬ気などないのだから。そうしないとディアナが寂しがって寝られないのだから早く帰ってやらないといけないのだ。

 火に燃える帝都。

 けれど、この時この場は闇の中だった。なれば、視界だけならば互角。だったら、後は弱い者が死に、強い者が勝つ。けれど、それは力の差なんかじゃない。


「私は何も知らない。何も知らないけれどっ」


 それでも、世界を知った。

 広い世界を知った。その世界にはこんな醜悪な存在がいるという事も知った。けれど、でも、だから何だと言うのだ。


「どれだけ汚くたって、あの人がいるこの世界は……とっても暖かくて奇麗なんだよっ」


 だから、負けやしない。

 私は、絶対に負けやしない。

 私はもう大丈夫だと言った。泣かせてしまった言葉だけれど、でも……大丈夫。

 私は、こんな奴になんか負けない。


「私のお母様は世界で一番強いんだ。だから……娘の私も強くなるんだ」


 それは希望。希望を持って闇の中を疾走する。

 互いに体躯は小さい。だが、何も持たない私の方がより早いのは道理だ。例え相手が何であろうと闇の中で私よりも早い者などいない。

 そんな自負など、崩れさるのは一瞬だった。

 その一閃は私の動きよりも早く振り抜かれた。

 突然の出来事に止まる事のできぬ私は、瞬間、反射的に体を横に倒す。ざり、と云う自分が壁に削られる音と共に全身に痛みが走る。だが、そんな痛みなど構うものかと体を起こす。起こし、相手を見れば、口を開き、ケタケタと笑っている。嗤っている。哂っている。そんな壁に削られるような脆弱な存在が誰に歯向かったのかと、そう言わんばかりに。

 だが、そんな挑発に乗るほど私は素直ではないし、そんなにも精神的に成熟していなかった。いや、だからこそ良かったのだろう。挑発に乗れば即座に爪で、翼で弾き飛ばされるだけだったろう。

 腰を下ろしいつでも動けるようにしながら、じり、じりと距離を取る。少しずつ、少しずつ場所を代えていく。その私の動きが滑稽に見えたのだろうか。ドラゴンは等距離を保ちやはりずり、ずりと体を動かし付かず離れず。滑稽だと嗤っている。その行動の行き付く先も見抜いている。だから、弄んでいる。そういう発想だろうか。弄んでから殺さねば気が済まぬ、と。そんな人間味をドラゴンに感じながら、これ幸いと私は火が、未だ燃えている家屋の方へと向かって移動していく。火に焼かれぬ動物はいないと考えて、光のある場所へと移動していく。

 轟々と音と立てて建物が焼ける音がする。ぱちぱちと木の焼ける音がする。

 からん、と小さな木が地面に落ちた瞬間だった。

 ドラゴンが私に向かい走る。その体躯からすれば異様な程の早さだった。その体躯、そもそもにして環境に合わせて存在する生物とは思えない。その無意味な両翼、その退化した脚。それらを巧みに使い、私へと迫ってくる。だが、そんな一直線に迫られては私も避けるしかない。そんなものに当たってやれるほど余裕はない。

 たん、と軽い音を立てて瓦礫を蹴り、飛ぶように移動し、そこらに合った火の付いた瓦礫を蹴り倒す。豪快な音を立てて崩れる瓦礫がドラゴンへと迫る。が、それでどうにかなるほど柔ではない。それで倒せていれば、親に張り付いていたときに殺されているだろう。

 そもそもどうやって、隠れていられたのだろうか。

 親ドラゴンが表れて以来、十日程経っているのだ。その間、ゲルトルード様達が延々と攻撃を仕掛けていたのだから、その間隠れられるというのは誰が考えてもおかしい。だからこそ、だからこそ彼女らは警戒出来ていなかったのだから。何が……何があればそんな事が出来るのか。

 見えなければ、できる。

 突然、背景とドラゴンが同化した。

 火の光、星の光。壁の色、木々の色。それらに皮膚の色が、それに同化していく。なるほど、これならば、戦時であれば見えなかったかもしれない。母親の背にくっつき同化していれば狙われなかったかもしれない。

 だが、だが、である。


「ばーか」


 そもそも色をまともに認識できていない私には、そんな事意味がない。背景色に同化して迫ってくるドラゴンをやはり瓦礫を蹴りながら避け、さらにさらにと火の強い場所へと移動していく。時折燃える物を投げつけたり、蹴りつけたり。そうしながら移動していく。

 そんなドラゴンに


「ばーか」


 と。再度言ったけれどでも、正直なところをいえば打つ手は無かった。

 素手でどうにかなるようなものでもなし。どうしたら良いか?どうしたら。相手の攻撃を避けながら考える。が、正直、考えている時間はあまりない。当然、体力的なものもある。が、それ以前の問題もある。

 ドラゴン畜生の脳がどういう構造をしているかは分からない。が、私をいたぶる事を止めようと判断した瞬間、身体能力を活かして強引に攻撃をしてくるに違いないのだから。今、相手がそれをしてこないのはそれこそ相手の精神が成熟していないからに過ぎない。子供らしく自分を傷つけた者に怨みを覚え、それをいたぶる事で怨みを晴らしたいという幼稚な楽しみだ。でなければ、殺されている。そして、私が捕まらない事に相手が思ったより苛立ちを感じているのもまた、良く分かる。保護色と呼ばれるその生態を利用して遊ぶように狩りをしていたのが、いつの間にか色が解けているのだから。

 だから、私は変わらずいつでも動けるような体勢を保ちながら、視線を逸らさぬように足元に転がる燃える瓦礫を手にし、それを投げつけ、気を逸らそうとするも、何の痛痒も感じていないようで隙すら伺えない。刀を取り戻す事もできない。

 打つ手はない。じり貧である。

 だが、冷静に考えて。冷静に考えて、だ。

 ゲルトルード様が、だ。

 私を娘にするとのたまった人が、私の存在に気付き、さらに敵を引き連れてどこかに向かったとなったならば、だ。

 誰かを寄越さないわけがないのだ。

 だから、そう。


「ばーか」


 三度目のそれと同時に、ドラゴンの後ろに映る誰かの動きと同時にドラゴンに向かって飛び込む。


「流石、ゲルトルード様の御息女となられる方だ。やり方が母親と同じだよ」


 言い様、彼女がドラゴンの後ろから切り付ける。首を串刺しにし、狩り落とそうとする弐連撃。右手の剣を首に刺し、左手の剣で切り落とそうと試みる。だが、切り落とそうとした剣が、皮膚に跳ね返された。


「斬撃には強そうだなっ」


 けれど、それでも即座に体勢を変え、更に弐連。今度は突き刺すように。まるでそれは踊るようだった。演武のようなけれど、実利に即した剣撃。それは先ほど見た親ドラゴンを前に二刀で踊るように切り付けていた少女だった。

 そんな少女の攻撃を後ろから喰らったドラゴンはたまらず雄叫びをあげる。あげ、顔を逸らせば隙が出来る。暴れる両翼を避けながら、瞳に突き刺さった刀を抜き取り、離脱する。瞬間、刀を抜かれた痛みにドラゴンが悲鳴をあげる。


「お嬢様、御無事で?」


 翼を避け、私の隣に立った少女が声をかけてくる。ハスキーな声はどこか男性的だった。見れば、鎧は既に壊れ、その役目をあまり果たしていない。怪我も所々に見られた。普段であれば精悍そうな表情も疲れが滲み出て、どこか気だるげだ。だが、その瞳だけは未だ輝いていた。ドラゴンに向けられたそれは来るなら来いと言わんばかり。それは容姿に似合わず、いや似合っているのだろうかとても、とても力強いものだった。


「私は大丈夫っ」


 刀を取り戻した。なれば、まだ私は戦える。私は大丈夫だ。


「大丈夫だと言ったら、手伝ってあげてと言われました。それ以外なら一緒に逃げてこいと」


 それは信頼だったのだろう。きっと、そうだ。そうだと、嬉しいとそう思った。


「ゲルトルード様、喋れたの?」


「大声が出せないだけだ。だから現在、部隊の指示はアルピナ様が行っておられる。あの歳で良くやる。作戦指揮はもはやアルピナ様でなければどうにもならんな。もっとも……ゲルトルード様の指示が極端にガサツなのが問題なのだが。まったく……いや、今は良い」


 苦笑し、ドラゴンに向かい、少女が二刀を構える。その痛みを思い出したのか、ドラゴンがそれを見て一歩引きさがった。


「あのっ!」


「お嬢様、ヴィクトリアと、そうお呼びください」


 ヴィクトリア=マリア=メルセデス。この頃は若干十数歳で騎士団の副団長に抜擢されたメルセデス家の神童と呼ばれていた。本人が聞けば怒るだろうが、世間の評価はそんなものだ。もっとも、メルセデス家はアウローラ家と同様、文官の家であり、それが嫌で出奔した結果、いつの間にか斯様な立場になり、慌ててメルセデス家が強引に彼女を家に引きもどした結果、そういう風に呼ばれるようになったのだ。怒りたくもなろう。後に学園長となった辺り、文官の血は間違いなく受け継いでいたわけだが。

 閑話休題。


「お嬢様……遠慮は一切不要。思うがままに、殺しに行けば良い」


「いいの?」


「あぁ。ゲルトルード様からはあの子には殺させるなと命令されたが……手伝えといったり殺させるなといったりもはやただの親馬鹿発言だったので無視する事にした。使える戦力だと判断したからこそではあるがね。幼いわりに良くやる」


「いいの?」


「攻撃の間を詰めるのが私の最も得意とする所なのでね。自由にやってくれて、構わない。もっとも……あまり時間をかけるようなら、先に殺させて貰うが」


 それも当然。誰が殺すかなど関係ない。一対一で勝つ事が強いわけじゃない。ぼろぼろになってそれで勝っても意味なんてない。だから、私が殺そうと彼女が殺そうと関係ない。でも、やっぱりほんの少し……自分でやりたいと思うのは、ゲルトルード様に褒めて貰いたいから、凄いね貴女はなんて言って貰いたかったから。

 だから。


「行くね」


「了解」


 先のヴィクトリアの攻撃で分かっている。切る事にあまり意味は無い。突き刺さねば意味がない。だから……

 雄叫びを、威嚇をするドラゴンに向けて走る。横へ逸れ、それに合わせてドラゴンが向きを代えるのを良い事に再度横へ逸れ、それに合わせてヴィクトリアが動く。そしてドラゴンが脅威を、痛みを覚えたのはヴィクトリアの剣なのだから、そちらに向くのもまた道理だった。だが、忘れたのだろうかこのドラゴンは。

 その瞳を、その気色悪い瞳を最初に貫いたのがこの刀だったという事に。さっきからずっと、一緒に動いていたのに忘れたのだろうか?


「ばーか」


 四度。

 ヴィクトリアの方を向いたのを隙とみて、疾走する。それが……ドラゴンの作り出したフェイントだという事は……分かっている。

 そう。それも理解して私は飛び込んだ。

 一瞬にしてこちらに向き直り、両翼が私を襲うのを、私はその体を下げながら、ドラゴンの体下に潜り込みながら悠然と見送った。見送り、一瞬、体の下で停滞し、その勢いを殺さぬように、反射を利用し、刀を上向けにし、飛び上がるようにして狙う。

 狙うは喉。

 生物なれば、そこが柔らかいのもまた道理。

 刀の切っ先がドラゴンの喉に入り込む。ぐい、という抵抗を飛び上がる勢いで覆し、そのまま押し通す。


「あぁぁぁぁっ」


 喉が鳴る。

 獣のように叫ぶ。

 そして、獣もまた叫ぶ。

 喉を刺され、吹き出した血が私を染めていく。その間にも突き抜ける先は口腔、鼻腔、そして……そこに達させまいと暴れ、私を排除しようとするが、


「今っ!」


 私は一人じゃない。


「全く。血の繋がりがないのが不思議だなっ」


 言いながら、ヴィクトリアがドラゴンへと近づき、片方の、煌びやかな剣を残った片目へと突き刺し、何事か口ずさめば臭気が放たれ、鼻の近くでそれをやられたドラゴンが悲鳴を上げ、


「使えるじゃないか皇剣セラフィックナイト」


 苦笑しながら言い様、叫びを上げたその口へ、もう片方の剣をその開き切った口腔へと突き刺した。


「お嬢様、後一歩」


「分かった、よっ」


 だん、と地面を蹴り上げ、とどめを刺す。

 生物なれば、脳を破壊されて生きていられるわけがない。


「ばーか」


 五度目のそれを告げた時、勝敗は決した。



―――



 その後の事をあまり語りたくは無い。

 アルピナ様の指揮により、ゲルトルード様がドラゴンを打倒した。ただ、それだけであれば良かった。

 最前線で闘い、最後の留めを刺したゲルトルード様と、前線を維持するためにと最前線におられたアルピナ様がその血と肉を浴び、呪われた。幸いにして他にはいない。いや、死んでいった者の中にはいたのだろう。だが、生きていた者の中で呪いを受けたのはその二人だけ。そして、不幸な事にその二人ともが皇族であった。最後の……残ったたった二人の皇族だった。


「……ゲルトルード様は?」


 血と肉を受け、アルピナ様は特に問題はなかったと聞いた。けれど、その後に聞いた事に呆然としたのを覚えている。


「……生きてはおります。ですが……未だ、お目覚めになりません」


 血と肉、それを体内に取り込みその結果、ドラゴンの最後の瞬間、声にならなかった叫びを挙げ、ゲルトルード様は倒れた。運が良かった。臣民にとっては運が良かった。ゲルトルード様がおられなければドラゴンを打倒する事はできなかったのだから。もう少し早く呪いに侵されていればこの国は滅びていたかもしれない。だから、臣民にとっては運が良かった。


「なん……で?」


「…………」


 縋りついた相手が誰だったか覚えていない。ヴィクトリア……学園長だっただろうか。それともマグダレナ……性悪メイドだっただろうか。だが、応えられるわけもない。誰にも答えられるわけもない。誰も知らず、私も知らなかったのだから。私には知らない事が一杯ある。けれど、他の人なら、皆なら。ずっと言葉を聞きながら生きてきた皆なら……知っていると思ったんだ。

 どうして、ゲルトルード様が倒れたのか。どうしてゲルトルード様が……。

 数日後、ゲルトルード様がお目覚めになった時、喜びと共に……悲しみが訪れた。

 起きてはいる。表情もある。涙を流す事もできる。けれど、声は出ず、体は動かせず。こちらの言葉は伝わるけれど、でも……それに返ってくる言の葉はなかった。


「ゲルトルード様」


 縋りつく私に、笑みを浮かべる。それだけが嬉しかった。

 でも、優しく撫でてくれた暖かい手の平も、もう動く事はない。

 それが悲しくて、悲しくて……安堵と共に泣いたつい先日とは違う、ただ只管に悲しさが湧いて、湧いて、涙がこぼれた。

 止まらなかった。

 枯れ果てるほどに。もう二度と涙を流せないと思えるぐらいに……。

 でも、でも……。

 諦めてなんかやらない。いつか治るんだって信じてやる。絶対に諦めてなんてやらない。

 私をこんな広い世界に連れて来て、こんな世界に一人でほっぽりだして一人だけ勝手にいなくなるなんて絶対に許さない。

 戦後一月程経ち情勢が安定した頃、私はディアナと共にリヒテンシュタインの屋敷へと戻った。

 これから二人でこの家で過ごす事にした。ドラグノイアを潰すためにリヒテンシュタインを墓標とするために。

 そして……待つために。

 来てくれると言ったのだから。

 私を迎えに来てくれると彼女は確かに言ったのだから。

 だから……。


「この場所で待ちながら、私は……貴女がいつか笑ってくれるのを待っています。貴女が元気になるのを待っています。そしてその時こそ一緒に……。だから、迎えに来てください。ゲルトルード様……いいえ。お母様。そして、どうか……私の名前を呼んで下さい」


 それは夢だ。

 叶わぬ夢を描いて私は生きてきた。

 藁を掴みながら、泥に塗れ、毒に塗れ、死に塗れ、裏切りに塗れ、殺意に塗れながら、私は夢を見る。

 悪夢と知りながら、絶望の箱庭でいつ覚めるともいえぬ夢を見る。

 どうか。

 どうか……優しい神様がいたのならば、一つだけで良いから……私の願いを叶えて欲しい。

 どうか、あの方が苦しみから解放されますように。



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