第4話 どうかこの手を離さないで
4.
「貴女。どうしたのそれ」
久しぶりにお会いしたゲルトルード様。その開口一番の台詞はそれだった。つい先日、当主の息子に刻まれた頬の傷。それが当然の如く残っていた。それを見咎められたのだ。
「なんでもありません」
それを知った当主は怒り心頭……怒りは当然私に向いたが、息子に対しても馬鹿な真似を!と怒っていた。それも当然だ。ゲルトルード様が来られるのに私が出てこなければ疑われる。しかし出ていけば確実に知られるに違いない。化粧や何かで誤魔化そうとメイド達にたらい回しにされた挙句、結果、一発で見破られ、見咎められた。
「なんでもないって……いえ」
深いソファに座り、茶を堪能するゲルトルード様は、そのカップをテーブルへと置き、口を噤んだ。この場で語ったところで真実が出ないと悟ったのだろうか。聡明なお方だったからきっと、そうだったのではないかと思う。後の事を思えば結局意味はなかったのだが。
「それにしても貴女、見違えるほど美人になったわね。それに、喋られるようになったみたいで嬉しいわ」
この日のために取り繕われた見栄えに、豪奢なドレスに身を包まされた私がそんな風に評価されても、私は困惑するだけだった。服というものをまともに着た事はないのだから当たり前なのかもしれない。
「ありがとうございます。まだ巧く喋られない所もあるけど……ゲルトルード様の御蔭で……この家の方々も良くしてくれますので」
それは作られた台詞だった。
「貴女が私に感謝する必要はないわ。謝らなければならないのは私の方なのだから。ね?でね、今日はね。貴女にプレゼントがあって来たのよ。受け取って欲しいな」
その華奢な体躯でよいしょと背に隠れてもなかった重そうな箱をでんとテーブルの上に置く。大雑把でガサツだった。窓際で本を読んでいるのが似合っているそんな容姿なのに、大概ガサツだった。カップを置いたままだったからそのカップが箱に押しつぶされて飛ばされる。
「あぁ、ごめんなさいね。リヒテンシュタイン公」
「い、いえ。御気になさらず」
「あら。そう。なら良かったわ」
いけしゃあしゃあと言うその仕草は、けれどこれがまた、深窓の令嬢然としているのが面白い。思えばこれは態とだったのではないかと思う。
これだけに限らずゲルトルード様は、酷くアンバランスな人みたいだった。華奢なわりに重い荷物を軽々と持ったり、熟慮しているかと思えば猪突であったり。その猪突な結果、私があの場から助け出されたのだけれど。
「ほら、これよこれ。どう?奇麗だと思わない?」
「……えっと」
箱の中から出てきたのは着物と呼ばれる物だった。それは確か、普段着用の簡易な物だったと記憶している。
「東方の国からの交易品なのだけれど、とってもかわいくて奇麗だったから、貴女にどうかなと思ってね」
淡い紫色……だと思う……の艶やかな着物を手に、嬉しそうに微笑む姿が、奇麗だった。この世界に綺麗なものがあるとするならば、彼女以外にはいないのではないかなんてそんな事を思うぐらいに綺麗だった。
「折角だから着替えて見せて頂戴」
言われ、頷き、その場で服を脱ぎだす私に、ゲルトルード様は一瞬呆然とし、次の瞬間これも一瞬、苦虫を噛潰すような表情をし、その次の刹那には笑顔に戻っていた。
先程そうやって人前で脱がされ、着させられたのだからこれが正しいのだと思っている私には、その表情の理由が分からなかった。だってそうだろう。普段、服なぞそこらの麻袋に穴を開けただけのようなものをずっと着させられているのだから。血に塗れた時はそれを交換するぐらいで、あとはずっと洞穴に居る時でさえそれだったのだから。ゲルトルード様の所にいたときも結局、病人用の簡素なもので、いつもの格好と大差のないものだったわけで。
だから、私は普段通り、それこそ事前に余計な事は言うなという暴力的な言葉に従い、粗相のないようにしていたのだ。だから、これに問題があるというのならば、『普段』という事を教えなかった当主が悪いのだ。けれど、責任転換。当主は私を睨み付ける。
間違った事をしたのだろう。けれど何が間違っているのかが分からず、私は……上着を脱ぎ、今日だけ、初めてといえば良いのだろうか、着ていた肌着姿になり、立ち止って困惑してしまった。
「……大丈夫。私が教えてあげるから」
ゲルトルード様が一瞬、当主へと視線を向け、顎だけで退出を命令する。それはきっと物凄く怖い表情だったのだろう。有無を言わさぬものだったのだろう。青褪めた様子で、しかし、しばしの逡巡の後に、当主は退出した。扉の取っ手を掴む手が震えていたのが印象に深い。
「ねぇ。……聞き忘れたわ。貴女、お名前はどうなったの?」
「……」
「良いのよ。何を口止めされたか分からないけれど、喋って良いのよ。ここには貴女を苦しめる者なんていないのだから」
「名前は、ありません」
「っ……」
瞬間、ゲルトルード様が私を抱きしめた。
「ゲルトルード様、温かい。人って温かいのですね。初めて……知りました」
触ったことがあるのは洞穴に転がった死体を漁る時だけ。そこに熱などなかった。だから、きっとぬくもりという物を知ったのはこの時が最初だったのだろう。
今日は初めての事ばかりだ。ゲルトルード様と会うときは本当に初めての事ばかりで、嬉しくなってくる。
「あぁ……なんてこと……ごめんなさい。ごめんなさい」
抱きしめる力が強く、強くなっていく。けれど、痛くはなかった。
「温かい……」
「貴女のその傷は……誰が付けたの?……体中についたそれは、どうして出来たの?」
服を脱げば、腕についた、足についた首に付いた、痣が、切り傷が、かすり傷が、数ヶ月の間洞穴に潜っていた間に出来た数々の痕が見えるのも道理だった。
「これは……」
「良いの。言って良いのよ……それと……その肌着も脱いでちょうだい」
言われ、脱いだ。そこに気恥かしさなどはなく、もしかしたらこの奇麗な人がまた悲しそうにするんじゃないのか、そんな事だけが心配だった。そして、案の定だった。
「どうして……どうしてそんなに……ごめんなさい。お父様に言われてそれをそのまま信用した私が馬鹿でした……ごめんなさい。貴女をこんな目にあわせてごめんなさい。貴女のような子を生みだしたこの国が、また貴女を苦しめてしまった」
「……大丈夫です。ゲルトルード様は私を助けてくれたから。ずっと壁に囲まれていた私を助けてくれたから。世界が広いって教えてくれたから……だから、ありがとう。私を人扱いしてくれて……ありがとう」
「あぁ……」
ゲルトルード様の涙が、頬を伝い、私へと、抱きしめられたままの私へと伝わってくる。優しい人だった。とても、とても優しい人だった。化物な私を人として扱ってくれた最初の人。
「貴女は私が守ります。……だから、もう安心して頂戴」
そんな嬉しい事を、けれど悲しそうな声でゲルトルード様が言った。だから、ゲルトルード様が悲しむ事がないようにと、私は、精一杯の出来る限りの強がりを言った。
「大丈夫だよ……武器があれば、もう誰にも負けないから」
「……貴女?」
「……私を害した人達は皆、殺したの。殺して良いって聞いたから。だから、皆、皆殺してあげたの。みんな、暗いって、怖いって叫んでいたけど……でも、ほら。私には見えるから…全部見えるんだから……」
「貴女……なにを……言って?」
「真黒な牢屋の中だって、真黒な洞穴の中だって私には……奇麗に見えるの。だから、大丈夫だよ。ゲルトルード様。私は一人でも大丈夫だよ?ここはゲルトルード様の御部屋と一緒でちょっと見辛いけど……大丈夫なの。あんなに広い世界でも、私は大丈夫なんだよ」
「それはっ!そんなものはっ…………世界なんかじゃない……違うわ。違うのよ……」
私は一体貴女に何をしてしまったのだと、彼女は泣いた。
その涙を流させたのがまた私の言葉だったことが私には不思議だった。私は大丈夫だって。そう伝えたつもりだったのだから。だから、何故自分の言葉が巧く伝わらないのか。何故私の言葉で彼女が涙を流すのか。それが分からなくて、その事が辛くて、どうすれば自分の言葉が伝わるのかを考えて、考えて、それでも分からなくて、それがとてもとても苦しかった。……だから、そう。それを……悲しいという感情なのだと知った。
この人が涙を流す事が私にとって悲しい事なのだ。それはとても辛くて。味わいたくないそんな感情だった。痛いよりも尚、この感情を抱きたくないと、そう思った。
「ゲルトルード様。どうしたら……泣きやんでくれるんですか?どうしたら、笑ってくれるんですか?どうしたら……嬉しいのですか?」
最初の出会いから私はゲルトルード様を悲しませてばかりだった。どうして、私にはこの人を喜ばせてあげる事ができないのだろう。どうして……そんな事ばかりなのだろう。
「……ごめんなさい。ごめんなさい」
どうしたら、この人は『ありがとう』と、そう言って笑ってくれるのだろう。
―――
「な、なんの事ですかな。ゲルトルード様。躾を暴力と言われては立つ瀬がありませんな!そんな事を理由に我が娘を城に引き取るなどと。流石に皇女様とて暴挙が過ぎますぞ」
着替えさせられた私に、似合っているわね。奇麗だね。そう言って微笑んでくれた人はいなかった。着替えが終わった私の手を掴み、ゲルトルード様が当主と対面していた。
青褪めた表情も鳴りをひそめ、如何に言い訳を考え逃げ切ろうか考えている当主に激昂しているゲルトルード様が敵うはずもなかった。
「名前を与えてもいないのに娘と呼ぶのね、貴方」
それは、怒りにまかせてつい言ってしまったのだろう。言ってからしまった、と後悔した表情をしておられたのを妙に覚えている。怒りに冷静さを欠いた結果。ゲルトルード様の猪突が悪い方向に出た結果だったともいえる。単に私を囲うならば、それこそ何食わぬ顔で城へ呼び付けて軟禁でも監禁でもすれば良かった。普段の冷静なゲルトルード様であればそう考えただろう。けれど、今回の事はそれ程に怒り心頭だった。私のために怒ってくれるのは嬉しかったが、けれどそんな負の感情ばかりを抱かれるのは悲しかった。ともあれ、それも過ぎた事だ。そんな事は無かったのだから考えても仕方ない。
「なんと!まだそんな嘘をつくのかお前はっ。ゲルトルード様に甘えるためにそんな嘘をっ!あぁ、申し訳ありませんゲルトルード様。あとでしっかり躾けておきますので。この場はどうか。ほら、お前も謝るのだ。嘘を言ったと!嘘を言ってゲルトルード様の気を引いたとっ」
強引に私の手を掴み、力の限り引っ張り、私を傷つけまいと手を離したゲルトルード様の判断を良いことに、手繰り寄せ、頭に手の平を押し付け下げさせる。
痛かった。ゲルトルード様の手とは違い、冷たくごつごつとしたその手が痛かった。
「貴様……」
ゲルトルード様の深窓の令嬢然とした表情が、いつしか消え去り、血を流す程に歯を食い縛り、唇を切り、当主を睨み付ける。
きっと帯刀していれば即座に切り捨てたであろう。が、しかし運が悪い事に、当主にとっては運が良い事に今日のゲルトルード様は剣を所持していなかった。巨大で武骨でただ叩き殺す事に特化した宝剣。名を確か、七星剣といっただろうか。七つの星をもろともに叩き潰すという意味なのだったのだろうか。酷くガサツな名前だとそう思う。ゲルトルード様にはお似合いの名前だった。
「皇帝陛下の御言葉に従い私はこの子を養子としました。ですが、それ以上の干渉を受ける謂れは御座いません。むしろ感謝の言葉の一つぐらいでも賜りたいものですなぁ。……これ以上何かを言われるようでしたら……それこそ皇帝陛下の言でも取ってきて頂かなければね」
「その言、聞いたぞ」
怨嗟。その視線だけを見れば、『貴様、生きていられると思うなよ?』と言わんばかりだ。
部下を連れず来たのもまたゲルトルード様にとっては誤算で、当主にとっては運の良い事だったに違いない。そうすれば彼女が残り、部下が帝国へと走れば良かったのだから。帝国の恥、貴族の作り出した化物の元へ皇女が訪れる事を良しとしない者ばかりだったに違いないと、思った。
だから、せめてのもの彼女の反撃は、別れ際に、その温かい手の平で頭を撫で、耳元に口を寄せ、小さな声で、私に言葉を伝える事だけだった。
「一日、待って……そうしたら私と一緒に暮らしましょう。名前も考えてあげなくちゃね」
「ディアナも一緒かな?」
「ディアナ……?まさか行方不明になっていたドラグノイアの御息女がここにいるというの?……すぐ、戻ってくるわ。ここで、待っていて」
これが私の聞いたゲルトルード様の最後の言葉だった。
次の日、ゲルトルード様が現れる事はなかった。
後に知った。
その日、ドラゴンが帝都を襲ったのだ。
―――
丁度、ゲルトルード様がリヒテンシュタイン家に騎士団を連れて向かおうとしていた時だったと言う。だから、それだけ見れば、タイミングは良かったに違いない。帝都に現れた巨大ドラゴンに対抗するにはちょうど良かったに違いない。
そしてその頃、私は……当主によって痛めつけられていた。
「くそっ。貴様がっ!貴様がなぁ!」
痛みはもはや感じない。時が過ぎるのを待っているだけのそんな時間だ。ゲルトルード様が来られるのを待つだけ。甘い夢を見ながら悪夢という現実から目を逸らす時間。
ここに至り、痛めつけるだけというのはきっとこの男は、自分が私を殺した場合には絶対に助からないと分かっているからだろう。生きてさえいれば、自分が死ぬことはないだろうと思っているのだろう。領地の没収ぐらいはあるかもしれない。が、長年帝国に仕え、貢献していた自分を切り捨てる事はないだろうと高を括っている。と、そういう心境ではなかろうか。実際にはゲルトルード様は騎士団を直接向かわせる気だったのだから、一族郎党諸共に、という可能性もあったのだが、そのような事はなかったので、実際その通りに動いていたらどうなったかなど分からない。ただ、この男にとっては……私を殺す事が出来なかった、というのだけは事実だった。
「拾ってやった恩を忘れやがって……この化物が」
前に息子がディアナにやっていたように玉猿轡を口に付けられ、蹴られ、殴られ、剣で刺され、その繰り返し。切られる事がなかったのは救いでもなんでもなく、単に殺さないためであり痛みを持続させるため。飽きもせず延々とそんな事を繰り返し、私が気を失ったら、休憩のために外へ出て行き、しばらくして戻ってくる。その繰り返し。戻ってきた時にまだ気を失っていたら水を掛けられたり、なんだったり、だ。
そして休憩の時。
身動きを取れず、両手両足を鎖に繋がれたままの私にディアナが声を掛ける。
「……ゲルトルード様は遅いわね」
「……」
「見捨てられちゃった?」
「……」
「あら、怒ったの?怒れるようになったか。それは大きな成長ね。良い事よ」
「……っ」
「あぁそう。猿轡つけられたままですか。それは失礼」
呑気そうに語りかけてくるディアナだったが、けれど彼女もまた息子から痛めつけられていた。親と同時に行うのは嫌なのか、親が去れば子が現れ、子が去れば親が現れ。まったく似た者親子だった。けれど、それも今日が……。
「さて。真面目に。何かがあったと考えた方が良さそうね。皇族が誓いを違う理由は何?止むに止まれぬ事情があった。それは確定」
分からない。
「近隣諸国から敵が来た?許し難い暴挙ね。蛮族共に常識はなくともトラヴァントを襲う理由があるのは事実。ですが、それならばそもそもゲルトルード様が昨日来訪される余裕はない」
分からない。
「皇帝陛下がゲルトルード様を抑えた?だったら、その理由は何?」
分からない。
「皇帝陛下は織り込み済みだったという事?貴女をリヒテンシュタインに渡すことで何か利益を得ていた?陛下の利益……。宝石?金?いいえ。そんなもの意味がない。帝政を行っている以上、陛下がそのようなものを利益とするわけがない。他方で、そうね。好色とは聞くわね。英雄色好む」
それは否定できない。
別の貴族の娘と……そしてこの場にはいない母親を買い、加えて別の貴族が作り出した化物を手に入れられる者。それを何の後ろ盾もなく行えるだろうか?いや、だが、後ろ立てがあるならばここまで慌てるだろうか。
「ゲルトルード様の苛烈さは聞いております。それは誰に対しても変わらず。陛下がもし、関与しているのならば、ゲルトルード様は例え父親でも断罪するでしょう」
後ろ立てがあろうとゲルトルード様に睨まれた者には皇帝陛下であっても手助けできず、と。そういう事だろうか。私の産まれた場所を制圧する際もそんな感じだったのだろうか。強すぎる正義感は、こんな私のためにでも一生懸命になってくれるほどに。だから、その彼女が来られないという事は、彼女に何かがあったと考えるのが正しい。
「……貴女。四の五の言っておられませんわ。機を見て頂戴」
ディアナのくぐもった声が焦りを怯えていた。それは垂らされた藁が消えるのではないか。消えたのではないか。という焦り。一度垂らされた希望が消えた事に対するもの。だけではない。
彼女にとってはゲルトルード様や皇族の方々は幼い頃より憧れる人々。身内のようなものなのだろう。ディアナは元々貴族なのだ。社交界やいろんな場所でもお会いしていたのかもしれない。それを私は分からない。が、痛めつけられていても不遜であったディアナがここまで焦る理由は、それぐらいしか思いつかない。
「……」
そんな友人が焦るならば、ゲルトルード様が何かあって大変なのだったら……。
応えるようにごそごそと動き廻り、動きまわるついでに……当主が投げ捨てて行った剣に近づく。普段ならば、絶対にそんな事はしない。だから、これが機会なのだ。
両手両足、口が塞がれていても、それでも絶好の機会なのだ。芋虫のように這いながら近づいていく。近づいていく。
見えるから。すぐそこにあるのが分かるから。鎖に繋がれた両手を伸ばし、足を伸ばし、剣へと手を掛ける。指先が触れた。
ひんやりとした金属。
それを指先の力だけで引き寄せる。子供の小さな子供のただの華奢な子供の力でそれが出来るわけがない。だが、やらなければならないのだ。やらなければはずみで殺される可能性がある。もし私が死ななくてもディアナは殺されるかもしれない。もしかすると、もしかすると。どんな可能性でも想像できた。
けれど、唯一ゲルトルード様が助けに来てくれるという可能性だけは、想像になかった。あの方は今来られない。その嬉しくない事実を私は信じていた。彼女は何かがない限り絶対に約束を違える事はないだろうと私は信じていた。
だったら、自ら切り開くしか無かろう。
唯一私にも見えない暗い未来だとて、切り開けば……見えるだろう。
「っ……」
指先で掴む。指先を刃に当て、痛みを感じたとしてもそれを強引に無視する。そうだ。そもそも私には言葉も感情も痛みも何もかもなかったのだ。それが今更言葉を覚え、痛みを覚えたからといって本質は変わらないはずだ。こんなもの、何でもない。
そう自分に言い聞かせながら、刃に指先をめり込ませながら手繰り寄せて行く。重い剣を指先だけでずるずる、ずるずると。
手繰り寄せれば手の平で。
ずい、ずいと引き、引き切ってしまえば……柄を手の平で。
「……その音は何?」
「……っ」
応えようにも応えられえず、剣を持ちあげ、地面へと下ろす。
甲高い音が牢屋に響く。その音で理解したのか、ディアナがはっとしたように顔を持ちあげた。そこに何が見えるわけでもないけれど。
鎖に縛られているとはいえ、両の腕は自由に動くのだ。動きまわる事はできないけれど、少しの余裕はあるのだ。体力さえ回復すれば、体に力さえ戻れば振り回すぐらいわけがない。
松明の明かりから遠ざかるように隅に隠れる。少しでも殺しやすいように離れる。
「……任せてばかりね」
「……んっ」
気にする必要なんて、ないのだ。
だって、貴女は、私にできた最初の友達だもの。
―――
次いで、訪れた息子を私は殺した。
背後から頭に向かって振り抜き、ぐしゃりという音と共に頭蓋を破壊した。
呆気ない。まったく呆気なかった。
「……馬鹿な親子よね。にしても良い剣ね、それ。ちょっと長すぎるのが玉に疵ね。もう少し短いと良いのだけど」
ディアナのくぐもらない奇麗な、少し大人びた声。それに頷く。
全く良い剣だと、思う。
子供の手でも鎖を切り落とす事が出来るぐらい硬いのだから良い剣だと思う。かなり硬質な材料で出来ているらしい。後で知ったが物凄い金が掛っているようで、特別な鍛冶屋に頼んで作ったとのこと。洞穴第二階層の金属で出来た花がどうとかという話を聞いた。
「後は父親の方ね」
「そうね」
二人、漸く足をついて会話した。
私はディアナの鎖を切り、切り、ディアナの眼帯を外し、マスクを外し、その全貌を見て、ディアナが最初に言った事は、『貴女、後ろ手に囚われているわけでもないなら、猿轡外しなさいよ。馬鹿なの?このド低能』だった。
言われてみれば確かにそうだ。剣を振り回せる余裕があるのならば手が届く。
「最初、何事かと思ったわよ。いきなり金属音がするんだもの……」
「ごめんね、ディアナ」
「機を見なさいとは言ったけど、今とは思わなかった。でも、そうね。ありがとう。先に言うべきだったわね。助けてくれてありがとう」
連れ立って立つ。私よりふたまわり程大きいディアナが頭を下げる。
「となれば、後は父親の方ね。そういえば、父親の方は戻ってこないわね」
「ここの方が殺しやすいけど……」
「貴女はね。まぁ、二人なら大丈夫よ。私、これでも貴族様ですから」
武芸は一通り嗜んでいるという話だが、それならここの当主もそうだろう。けれど、そう。彼女の母親も一緒に売られたという話だから、その事が気になって仕方なかったのだろう。
二人、食糧庫から出る。
瞬間、その眩しさに、世界の広がりに陶然とする。
そうか。これが、これが世界か。
天井は高く、四方に壁は無い。壁を流れる水もなければ化物達の声もしない。視界は広く、限りなく遠くまで。遠くに見えるアレはなんだろう?あの色をしたものは何なのだろう?ディアナの寝物語には出てこなかったものが一杯、そこにはあった。
「……広い」
「そうよ。世界は広いのよ。貴女には言わなかったけどね。希望を持つ事は、夢を持つ事は絶望へと至る経緯にもなりかねないのだもの。何も知らない貴女を苦しめる程私、悪趣味な性格してないからね」
「……そう」
言葉の意味を理解せず、ただ呆と前を向く。見渡す限りのこの色彩を理解できない自分が悲しかった。
一歩、そこから出れば地面の返す柔らかい感触。それが、ふわふわ、ふわふわとしてついつい時を考えずに楽しくなる。振り向き、ディアナを見れば髪を掻きながらけれど、笑っていた。何やっているのよこの阿呆とそう言いたそうだった。でも、ディアナ自身もまた楽しそうだったのを覚えている。
どれだけ囚われていたかは分からない。けれど、久しぶりの陽光なのだろう。ディアナは酷く眩しそうにしていた。その爬虫類のような瞳が映す世界。きっと私とは違うその世界が少し羨ましい。
「何よ」
「何でもないよ」
「そう」
「そうだよ」
苦笑し、ディアナが肩を竦める。その仕草が妙に気に入って、私も同じく真似してみた。
「何よ」
「何でもないよ?」
そして、ディアナの案内に従って建物へと向かう。先日、建物の方でゲルトルード様とお会いした。その時は目隠し手錠、足かせ、頭陀袋に入れられて運ばれるといういつものスタイルだった。けれど、今、初めて自分の足で、自分の目で見ながら歩いている。
「あれは何?」
「あれがリヒテンシュタイン公の屋敷ね」
屋敷、と言われても分からなかった。建物を見るのは初めてだった。いや、より厳密にいえばゲルトルード様と一緒に過ごした時に窓から見ていたのかもしれない。だが、認識はしてなかっただろう。思考力のない時期だったのだ。致し方なし。そんな何の意味もない言い訳をしながら誰にも見つからぬように注意しながら建物へと向かう。
ここは明るすぎて隠れる場所が少ない。
裏手から建物に近づき、メイド用通路だったのだろう、の扉を開け、再び狭い世界へと。
「……こっちの……はず。けど……そうね」
記憶を頼りにディアナが先導する。
向かった先は宝物庫。当時は良く場所が分かるなと思ったが、この手の屋敷は基本的に作りが同じらしい。著名な建築家に依頼するのが貴族としてのステータスであり、リヒテンシュタインとドラグノイアの当主は同じ建築家に依頼したわけだ。その結果、建築家の癖というものが建物に残っていた。と、ディアナが後に語った。多少なりと配置は変わるが、宝物庫や厨房、その手の物はどうしても場所が限られるとか。前者は陽の光を避けるために、後者は水場か、ゴミを捨てる関係上、外壁に近い。
そんなディアナの推測を基に訪れた先は、残念ながら宝物庫ではなかった。
「自信満々だったけど、馬鹿?」
「煩いわね」
メイドの詰所だった。
中にいたのは二人。どこかで見た事のある顔をしたメイドだった。見た事のないメイドなど、私を害さないメイドなどいなかった。だから当然。……と一瞬の思考の後に、飛び込んだ。
はっと、気付いた所で、警戒した所で本来メイドは武器を持たない存在だ。こんな詰所で武器を磨くような生業ではない。
故に、
「や、やめっぁぁぁっ!?」
回転力を伴う剣閃。脇腹を狙い、肉を立つ。ぞぷ、という音と絶叫が響き、信じられないとばかりにメイドがこちらに目を向け、次の瞬間には意識が途絶えた。痛みに耐えきれず、意識を飛ばしたらしい。と認識する間もなく、逆方向に回転して再度反対側を。
その痛みに、意識を元に戻す事もなく、メイドが絶えた。
「さて。貴女。……そう、そこの駄メイド。大人しくなさいね?大丈夫よ、優しくしてあげるわ」
ディアナが、その細い指先があまりの出来事に呆然としてぺたんと座りこんでしまったメイドの顎に掛る。それはきっとメイドには悪魔の指先にすら思えただろう。ずっと吊るされたまま生きていたディアナの体は肉が落ちてはいたが、けれど凶悪なまでに妖艶。魔性と言っても良いかもしれない。存在するだけで人を誘い、狂わせる程の艶。それに睨まれたメイドが、状況も分からずに陶然とする。
「そう。良い子ね。ねぇ冥土の土産に教えて頂戴?宝物庫はどこ?それと……お母様はどこ?」
―――
「殺してあげて。ごめんなさい。貴女にばかり辛い思いをさせる。けれど、どうか、お願い。私には……出来ない」
折角手渡した剣を、再び私に渡してくるディアナ。
やはり裸に近いこの状態は…とメイドの身ぐるみを剥がし、拘束具の上からメイド服を着込んだディアナと一緒に、先に訪れた宝物庫、ディアナは武器が欲しいという事だったのだが、結局、私が刀と言う東方伝来の剣を手に入れただけだった。剣よりも軽やかで、奇麗なそれがとても、とても素敵なものに思えて私はそれを手入れた。なんだか、ゲルトルード様に頂いた着物に良く似合う気もした。そして長い剣はディアナへと手渡した、はずだったのだが。
「分かったよ」
刀を腰元に刺したまま、ディアナの剣を受け取り、豪奢な……ベッドへと繋がれていた犬のような人間の首を、一切の感情なく、切り落とす。
本当に良い剣だ。痛みなく、その人は死んだのでないかと思う。もっとも……痛みを感じられる程の感情は残っていなかったに違いないが。
ある意味、ディアナと同じ扱いだった。だが、違ったのは薬漬けだったという事。麻薬と呼ばれる物を使い、精神までも壊された裸の女性。目は虚ろで口からは涎を垂らし、その身についた肉はごっそりと削げ落ち、それこそ今のディアナよりも細く、皮と骨だけのような、そんな状態。そんな状態で彼女は生きていた。幸いにして痛めつけられていた痕跡はないが、けれど……私達に視線を向けた瞬間、犬のように叫びをあげたその状態が、そんな状態で生きていたといって良かったのだろうか。否、だからこそ……ディアナは願ったのだ。
「ごめんなさい……」
それは誰に向けての言葉だったのだろうか。私への?それともベッドへ繋がれていたこの人への言葉だったのだろうか。
母親。
私にはいない存在。
それが斯様な状況にあれば救いたいと願うのが子の想い。けれど、もはや誰が見ても手遅れだった。この状態のまま看病する事が彼女の幸せだろうか?幸せを感じる事も不幸を感じる事もできないこの状況で彼女は幸せだろうか?そんな事はきっと、ない。
生前の母を思ったのだろうか。どうなのだろうか。分からない。けれど、いつの間にかディアナが泣いていた。
その泣き黒子は彼女にどれほどの涙を流させるのだろうか。
そして、犬のように唸る母親を抱きしめた後、娘が親殺しを頼んだのだ。
切り落とされた首から赤い血が飛び、剣を、私を染め上げて行く。
ゲルトルード様に頂いた着物が、どんどん血に染まっていく。きっと、御喜びにならないのだろう。また、泣かせてしまうのだろう。悲しい事だった。どうして、私はあの人が喜ぶような事ができないのだろう。
「……絶対に殺してやる。一族郎党、その全てを」
ドラゴンのような瞳だった。強い意志を示すそれは、灼熱の如き熱を持ちながら、されど、極寒の如く冷え切ったものだった。冷静に怒り狂う。そんな様相だった。
「……私が、やるよ。ディアナはしなくて大丈夫だよ」
「結構。それは私がやります。そしてこの場を、リヒテンシュタイン家をお母様の墓標と致します。これより先、二度と私に逆らわぬように、逆らえぬように。……ドラグノイアと共に、私がこの家を手に入れます。ドラグノイアも、リヒテンシュタインも私の下に。……ですから、殺さなくて良いから、手伝ってくれますか?私の御友達」
「もちろんだよ。お友達」
故に、ディアナ=ドラグノイア=リヒテンシュタイン。
ドラグノイア家を滅ぼし、リヒテンシュタイン家を滅ぼし、その座を簒奪した後、彼女はそう名乗った。
怨嗟と共に。怒りと共に。彼女はその名を名乗り続ける。それだけが母親の供養になると思って。
だが、そんなのは捕えられ傷つけられ、無残な状態にされた母親を自らの意思で殺し、精神を病んだ者の作り出した訳の分からない理由に過ぎない。私は、できるならば、そんな自分を責め続けて安定を保つマゾヒストみたいな名前を自分に課して欲しくは無かった。友達だったから、尚更に。でも、友達だからこそ、止めなければならなかったんだ……でも、もう遅かった。
母親の血の付いた剣を抱きしめながら、暗い笑みを浮かべるディアナを私は止められなかった。
後に、その剣を短く作り替え、彼女は常に持ち歩くようになった。ある人物に譲渡されるまで。何故、そんなに大事にしていた物を人に渡したのか。それが……今でも分からない。