第2話 涙は友を呼ぶ
2.
ゲルトルード様に救われ、それから、私の世界は広がったかのように思えた。
思えた。
そう、思えた。
「折角、洞穴に潜るために作られているんだ。お前は洞穴に潜り金を稼ぐのだ。穀潰しをのさばらせるわけにはいかんからの。おい、誰ぞ。こやつを牢屋へ……あぁ、その前に奴隷の証として首輪をつけてやれ」
端的に言えば、ゲルトルード様が私の里親を探した結果がこれだ。皇帝陛下の覚えも良いリヒテンシュタインの当主。
それが私の飼い主となった。
こんな生物を良く飼う気になったなと後になって思ったものの、ゲルトルード様と特に皇帝陛下への恩売りが主目的だったようだ。加えて洞穴用に作られた私がうまい事稼いでくれれば恩の字であるし、洞穴で死んでくれればそれはそれで同情も得られさらに面倒事がなくなるなら一石二鳥。そもそもにして、あんな状況にいた者が生きている事すら不思議なのだ。普通の人間として育てるわけがない。故に……死んだとしてもおかしくなかろうという計算によって私は飼われたらしい。
結果、ゲルトルード様が直接などという物語のような展開が訪れる事はなく、私はこうしてリヒテンシュタイン家の奴隷となった。公的な扱いは養子ではあるが、扱いといえばそんなものだ。他家にばれないように作られた奴隷の証である首輪と腕輪。華奢で小さな私にはそれはとてもとても大きく見えた。しゃらん、しゃらんとなる首輪と腕輪に少し嬉しさを覚えたのだろう。始終それを鳴らしていたように思う。が、この当主の前でそれをした事は一度きりだ。
「貴様っ。拾ってやった恩を忘れおって!」
小さな子供相手に拳で殴る大の男というのは何ともはや、酷い存在である。だが、痛みというものをその時知った。痛い、という事をその時知った。それはとてもとても嫌なものだという事を知った。だから、もう痛い思いをしないようにと当主の前でそれをすることはなかった。代わりにその煩い音を聞くはめになったのは一人の少女だった。
「………貴女、煩いですわよ」
それは一見して少女と言うにはおかし過ぎた。
牢屋の中、壁に飾られた、という言葉が適切な拘束具を取り付けられた生き物だった。両目を眼帯で隠され、口には皮製のマスク、それゆえに声もくぐもって聞こえていた。両腕は鎖で繋がれ天井と引き延ばされており、それが彼女を吊り上げていた。服といって良かったのだろうか、体の形に合わせて作られた矯正用下着のようなやはり皮製の拘束具。肌に直接それを着させられた、いかがわしい趣味の持ち主なのかと今ならば言えるが、その当時はそんな言葉も知らず、私はそれが何なのかが分からなかった。
しいて分かったのは、左目の下の小さな泣き黒子の黒さぐらいのものだった。
「………」
「なんとか言いなさいな」
「な……ん……?」
分からないなりに人間の存在を知り、それを学ぼうとした結果であった。この頃には音を出す事ができるようになっていた。ゲルトルード様に助けられてしばらくはゲルトルード様が私の面倒を見てくれていた。だから、ゲルトルード様の話す言葉を反射のように真似ようと苦労したものだ。そのたびにゲルトルード様は嬉しそうに、まるで我が子でも見るかのように私に優しくほほ笑んでくれた。だから、それが見たくて私は何度もがんばったのじゃないかなと思う。
「本当になんとかなんていうなんて失礼な子ね……」
「わ……か……ら……な……い」
「わからないって、貴女……変な子ね」
「し……ら……な……い……の」
貴女の状況も大概だったとそう今なら言える。が、その時はそれで精一杯だった。
「……そう。貴女まだ言葉を巧く喋られないのね。ごめんなさい。それは悪い事をしたわ。でも、そんな子が何故ここに?……いえ。話さなくても良いのよ。ただまぁ折角の同室なわけだし、私の話ぐらい聞いてくれると嬉しいわ」
その少女は―――
「私はディアナ。ディアナ=ドラグノイア。分かる?ディ・ア・ナね」
この頃は彼女にもまだリヒテンシュタインの名は無かった。彼女もまた……囚われた少女だったのだから。
「ア……ナ?」
「ディ・ア・ナ」
「じあ……な」
「……もう、それで良いわ。その内ちゃんと呼ぶのよ?」
「じあな」
それを何度も、何度も繰り返したのを覚えている。教えて貰った事が嬉しくて、何度も、何度も。そんな私にディアナはため息を吐きながらも安堵を覚えていた。辛い境遇において、自分より弱い者の存在は精神安定のためには良い。だが、それは後に訪れる境遇に対しては両刃である事もきっと聡明なディアナの事だ。理解していたようにも思う。きっとここで受ける安堵は後の苦しみになるのだろう、と。
この頃のディアナは確か18歳ぐらいだっただろうか。その穢れを知らぬ初雪のような柔肌。それも今となっては年齢相応ではあるが、けれど確かにその頃は穢れなきという言葉が相応しかった。
だが、穢れなき初雪は踏みにじられるのが道理。
「ディアナ。やはりお前はその姿が美しい。大枚を叩いて購入しただけはある」
牢屋の中、松明の明かりの下、下卑た声がする。名前は覚えていないが、リヒテンシュタイン公の息子だ。あの親にしてこの息子だった。
奴隷を壁に掛けて鑑賞する。
その訳の分からない狂った嗜好がその男の性質を如実に露わしていた。その男は、まるでディアナを絵画か何かのように、そんな風に思っているようだった。全身を拘束した女にしか欲情出来ず、けれどそれを見るだけで満足する辺りが更に変質的だった。粘液と摩擦に興味は無く、その凶悪な自己顕示、自己陶酔によってのみ絶頂に達する極めて気色悪い生命体だった。
「淫乱、放蕩なあの売女から良くお前みたいな美しい女が産まれたもんだな。そこだけはあの女も良くやったと褒めてやらねばならんな。あんな二束三文の価値もない淫売がなっ」
「お母様を悪く言わないでちょうだい。この不能野郎」
「なに……?……誰が喋って良いと言った?」
癇に障った男が、牢の中に入ってくる。まるで私がそこにいないとでも思っているかのように牢を開け、中へと入り、ディアナの塞がれていたマスクを外し、涎塗れの、淡い色をした唇を指先でこじ開け、代わりにとばかりに玉猿轡を付けようとして、ディアナに指を噛まれた。
「っ!」
一瞬、その場を離れる男。そして口腔を開かれたディアナが嗤う。広い牢屋にディアナの哄笑が響く。ケタケタと狂ったように、眼帯で閉ざされた何も見えない世界でディアナが嗤う。それはとても楽しそうに、そう思えた。彼女は何も見えないのに、私と違って何も見えないのに何故嗤っていられるのだろう?そんな事を思ったかどうかは覚えていない。
「煩い!黙れこの阿婆擦れがっっ!貴様如きがこの私に何をっ!……いいやっ!いいやっ!所詮、こいつは親に売られた女郎。奴隷に過ぎぬ。飼い犬が少し反抗した所で何を騒ぐ必要がある。そうだ。私は何をしていたのだ。奴隷になり下がった貴族なぞにこの私が、この次期リヒテンシュタイン公が何を慌てている。こんなもの痛みなどない。そうだ。お前のやる事など所詮、その程度だ」
この男のプライドだけは人一倍だったと思う。自己愛も自己顕示も人一倍だったと思う。ディアナが反抗してもそれを認める事なく、感情に流されないその姿勢だけは買いだとは思うけれども、最低の男だった。
男、といえば私は男女の差を理解するにも結構時間がかかったと思う。本来ならば、リヒテンシュタイン公がまともな人間であれば、その辺りの教育もまとめて行ってくれたのだろう。けれど、そんな事はなく私は牢屋に打ち捨てられたままだったわけだ。結果、男と女というもの理解するのに相当年数経過したように思う。だから、私は戯曲を見てやれ恋だなんだのというような女としての感覚はない。まぁ当然である。
閑話休題。
嗤うディアナに玉猿轡……穴の開いた玉を口の中に入れる事で口を閉じさせず、涎が延々と流れ出るというマゾヒスト御用達の品である。それを口に入れられたディアナはけれどまだ嗤おうとしていたが、それもすぐに止んだ。
次いで訪れたのは痛みだったのだろう。
殴られるという事を覚えた私に、今度は切ると人間は叫ぶのだという事を教えてくれた。
鋭利なナイフだった。それを男が、露出したディアナの白い足にあて、ゆっくりと刃を引く。瞬間、ディアナがくぐもった悲鳴と口腔から涎を流し、暴れ、両の腕に巻かれた鎖がじゃらじゃらと音を立てた。
「っぅぅ」
何度となく、何度となく。切り裂かれ、ディアナが泣く。眼帯の隙間から流れ出るそれは涙。それが止まらなかった。切り裂かれている間ずっと、ディアナは痛みに涙を流していた。
「じあな……じあな……」
くぐもる悲鳴に自然、私の口は彼女を呼び掛ける。その声にはっとする男だったが、こちらを向き、納得気に頷いた後、すぐに見向きもしなくなる。親から聞いているのだろう。そして、聞いているのならば……
「気色悪い化物が観客とは父上も人が悪い。まったく、趣味が悪いなぁおい。だが、息子の事は良く分かっているようだぞ?ディアナ」
嗤う。男が嗤う。観客を得た男はさらにディアナへの責苦を続ける。足、腕、腹、首、露出している所を一か所、一か所、ゆっくりと刃を通す。血がにじむまで刃を押し付け、ゆっくりと引く。押しつけて、引く。一瞬で訪れる痛みとは違い、じわりじわりと響く痛みにディアナは叫び続けた。
その時はまだ、私は見ているだけしかできなかった。何もできず、何をする事もできず、何をすることもなく。私はそれが駄目な事だとも良い事だとも分別の付かないモノだったのだから。ただ、ディアナが苦しそうだという事、痛そうだったという事だけはきっとその時も分かっていたように思う。
「じあな……」
だからだろうか。私も、同じように何度も、何度も声を掛けていた。それはまるで励ますようなそんな風だったと、後にディアナは語った。
その程度の存在だった。一人でまともに歩くことすらできない、ひ弱な人間以下の気色悪い生命体。その時の私は、洞穴へ入る事で漸く許される生物だった。
―――
「……」
そんな日々が何日か続いた。元々時間の感覚のなかった私にとってそれは長いとか短いとかそういう感覚はなく、ただただディアナがあの男におもちゃにされる回数を数えていた。十数度。それが続いただろうか。その間何度か私はその牢屋から出され、その牢屋の前の空間……元々は食糧庫だったのだろうか、その広間に出された。比較的広い場所の奥に牢屋があり、それ以外はただただ広い……とその頃の私は感じた空間だった。そこで私はメイドに襲われていた。
あの男のようなナイフを手に襲ってくる。
それは訓練だった。メイドは二人組で、片方が松明を持ち、片方が攻撃を仕掛ける。時折松明を持った方も攻撃に参加して来ていた。
それを私は、巧く動かない体を使って避ける。火の光が邪魔だったが、周囲は常に見えているのだ。そのディアナを攻撃していたものと同じような存在から逃げる事を本能的に理解し逃げていた。避けていた。必死に、時折倒れ、蹴りを入れられ、傷つけられ、延々と。延々と。そんな日々を過ごしていた。
「さっさとくたばっちゃいなさいよ!貴女が死ねば私達は楽になれるんだから!旦那様は許してくれるんだから」
「そうよっ。早くのたれ死になさいよ。貴女なんか。産まれてこなきゃ良かったのよ。そうすれば私達がこんな酷い事しなくてもすんだんだから。貴女なんかがいたから」
それはきっと懲罰の代わりだったのだろう。確かに毎日襲ってくるメイドは違ったように思う。だが、言う事は大概同じだったと思う。私達は悪くない。私達が子供を襲っているのは私が存在しているから、気色悪い白い奴がいるからいけないんだ、と。そんなのばっかりだったと思う。
「っぁ……」
何度も何度も殺されそうになり、身動きを取れなくなるまで攻撃を繰り返されれば、流石に体の限界と言うものを知りはじめた。どれだけ攻撃されれば体が動かなくなるか。どれだけ動けば体が動かなくなるか。どう攻撃されれば痛くないのか。どうすれば攻撃から逃げられるのか。どうすれば血を流さなくて良くなるのか。
そんな事だけを考えていたように思う。それが思考の始まりだったのかもしれない。
「さっさとくたばっちまいな!」
その言葉を最後に、今日の攻撃は終わった。髪の毛を、白い髪を掴まれ、牢まで引き摺られ、投げ入れられて鍵を掛けられる。そしてメイド達が屋敷の方へと去っていく。
もはやメイド達にとって私への暴力は共同体の行動となっており、皆で行えば怖くないという心境だったのだろう。中には楽しそうに率先している者もいたように思う。そんな奴が担当の日は特に痛めつけられ、血を流させられた。その日はまだましだったのではなかろうか。
「お互い大変ね」
「ディアナもね」
ディアナの真似をして、それを何度も何度も繰り返す内に少し言葉を覚えていった。代わる代わる来るメイドの言葉も覚えていき、その言葉がどんな意味なのかを少しずつ理解していった。理解しなければどんな攻撃が来るかもわからないから。ナイフをナイフだと理解しなければ、声を掛ける方のメイドに騙されるから。
「もの覚えは良いのよね、貴女。もう少し、じあな、じあなというのを堪能したかったけれど」
くぐもった笑いが牢に響く。
「黙れこの売女」
「あら。そんな汚い言葉を覚えてしまって。まったく……酷い話だわ」
「酷い?」
「可哀そうってことよ。貴女には分からないかもしれないけれどね」
「分からないかも」
「分からない方が良いかもね」
幸福を知らぬ故に、不幸を理解できぬ。今ならば、分かる。けれど、あの頃もディアナがいただけ少しはましだったと、そう思う。
「ディアナの話は分からない」
「はんっ。それはもう私は元々貴族様ですからね。教養はありますわよ。ですから、貴女みたいないたいけな少女には分からなくてもおかしくありませんわよっ」
とはいうものの、お互いまだ顔を見た事はない。
ディアナが始終眼帯を付けられているので私にはディアナの顔が見えない。ディアナはディアナでその所為で私が見えない。
そんな世界で私とディアナは生きてきた。痛めつけられ苦痛だけの暗い世界で私達は二人して生きていた。お互いを語り、お互いを慰め合い、お互いを……きっと、友人というのはこういう人の事を云うのだろう、と思えるほどにお互いを理解しあっていった。
そして、ひと月が過ぎた頃。
牢の中に、食糧庫の中にリヒテンシュタイン公が訪れた。
そして、一言。
「うむ。もう良いだろう。だが、一応は出来栄えを確認したいな。おい、そこの貴様。それをアレに渡せ」
「え……これを、ですか?」
「さっさと渡せ。」
憎しみに満ちた表情でメイドが私へ……ナイフを渡してきた。いつも自分に使われていたものだとすぐに分かるぐらい、そのナイフはお馴染みになっていた。それをしげしげと眺めている間に、当主が言葉を紡ぐ。
「さて。お前。このメイドはあろうことか私を脅してきた。殺して構わん。否、殺せ」
次いで出た言葉はメイドへの言葉ではない。私への、言葉だった。
「だ、旦那……様?」
「たかがメイドの分際であろうことかこの私を強請るだと?大概にしろよこの阿呆が。だがな。私も悪魔ではないのでな。慈悲をやろう」
腰元に刺していた長刃の剣を抜き、メイドへと渡す。
「これであの小娘を殺せ。そうすれば許してやろう。もっとも?それで私を殺しても構わんぞ?できるものならなぁ?」
「ひっ……や、やりますっ。旦那様の命に従い、あの小娘を殺してみせます」
殺したところで、当主はそれを犯人として皇帝陛下に報告するだけの話。一族郎党全て処罰される可能性もあろうが、そんな事を想像できる脳はなかったのだろう。それゆえに、一応は皇帝からの預かり者である私を当主自らが殺そうとしている、として当主を脅そうなどという頭の悪い事をした。因果応報である。
「良し。それでこそ我がリヒテンシュタインに遣えるメイドだ。精々、奉公せよ」
渡されたナイフを、先日までのメイド達のように持ち、構える。
体力は相変わらず足りていない。背丈も全然違う。子どもと大人の差だ。加えて武器の長さすら違う。剣という存在はいまいち理解できていなかったが、刃の色とその長さを思えばいくらでも危険度がナイフより高いというのは分かった。だから、その間合いにさえ入らないようにすれば良いというのは容易に想像がついた。
「……殺す?」
「そう。殺せ。殺すという言葉の意味が分からぬのならば、普段貴様がやられていることをやり返せ。それで良い」
「やられた事を……」
「そうだ。切り刻め。お前に痛みを与えていた存在を切り捨てろ。そうすればお前は救われる。痛みのない世界へと至れる。故に、さっさとやれ!私がお前を痛めつけても良いんだぞ!」
あえて『痛めつけても良いんだぞ』などという遠回しな言葉で、『殺すぞ』と言わなかったのはきっとそっちの方が私にとって覚えが良い事をこの男は分かっていたからだと、そう思う。悪知恵だけは働く男だった。
「っ!」
弾けるように動いた。それは初めての行動だったと思う。勢いに任せて、いつもやられているようにいつもされているように、早く、早く動いて相手を翻弄しながらナイフで体を切る。
「いっ!……お前っ。くそっ。この疫病神!死んでよっ!私のためにさっさと死んでしまってよ!」
剣が振られる。剣に振り回される女がそこにいた。何の技もない、何の力もないメイドがナイフならばまだしも剣で何かが出来ると、本当に思っていたのだろうか。思っていなかったかもしれない。けれど、そうせざるを得ない状況に陥っていた故に、致し方ないのだろう。
「避けるなぁっ!」
だから、そんな隙だらけの、そんな闇の中で勝手気ままに振り回した剣が私に当たるわけがない。すぅと体を引き、闇の中へと動いていく。彼女が見えない場所へ。いつもとは違い、松明を持っているのはあの男だ。この男がメイドのために松明を動かすわけがない。移動するわけがない。そしてそれはまさにその通りで、闇の中に消えた私を彼女はあらん限りの言葉で罵倒していた。
「出てきなさいよこの臆病者!この糞餓鬼!あんたの穴という穴にこの剣ぶっさして血流させてやるんだからっ。真っ赤に染めてやるわよっ。この白い化物っ。死になさいよっ。殺されなさいよっ」
そんな言葉に何の意味があろう。理解できぬ私にそんな言葉など意味は無い。私は暗闇の中、私にだけ見える世界で女が喚いているのを、隙だらけの女がさらに気を抜くのを待っていた。だからだろう。
「ふん。ま、出来は上々か。その年齢でそれだけ動ければ十分だろう。後は……確かめだ」
男が呟き、松明の火を消した。
「あ……え?だ、旦那様っ!?」
「おい、子娘。さっさと切れ。この状態で殺せないなら、お前の価値などない」
言われ、答えるわけでもなしに、単に私は隙が出来たメイドに近づき、私がやられたように、足、腕、体、首を順番にナイフで切っていった。ディアナがいつもやられているようにゆっくりではなく。速やかに。そうした方が早く終わりそうだと思ったから。
「あっ…いぁ…いたひ…あぁぁぁっぁっ!?」
絶叫。
「はんっ!なるほど。見えるというのは本当らしいな。素晴らしい。それでこそ手に入れた価値があるというものだ。もっとも……稼ぎが悪ければ殺すがな。稼いでみせろ。まずは1,000,000,000クレジット。それが出来れば、もう少し待遇は良くしてやろう。……そうだな。それぐらい稼げればゲルトルード様に会わせるのもやぶさかではない」
そう言われ……それを信じて私は、メイドに止めを刺した。産まれて初めて、人を殺した。殺すという意味も分からずに。淡々と人を殺した。
そんな私に満足げに笑みを浮かべ、当主は去って行った。
その日、ディアナが妙に優しかった事を今でも覚えている。
「貴女……人を殺したのね?」
「動かなくした事を殺すというのなら殺した。悪い事?」
「えぇ、本当はね。……でも、貴女は悪くない。悪いのはこんな世界の方。だから、貴女は気にする必要がない。貴女を汚そうとするもの、貴女を苦しめようとするもの、貴女を殺そうとするものは全て敵よ。殺して……構わない。私が許すわ。殺し尽して構わない。相手に対する慈悲なんていらないわ」
「それは良い事?」
「えぇ。そうよ。自分を守るために襲われた者を殺す事は良い事よ。切って切って切り刻めば、貴女を害する者はいなくなるわ。だから……殺すのよ?貴女は私の友達よ。その友達が殺されそうになるのならば、本当は私が全部殺してあげたいくらい。でも、それが出来ないから……貴女が誰かに汚されないように言っておくの。やられる前にやりなさいって。意味分かる?分からないならこれから毎日言ってあげるから」
「良く分からない。から、お願い」
「えぇ。だから、死んでは駄目よ?」
ディアナはこの頃、間違いなく精神を病んでいたのだろうと思う。それは私という安堵があったからかもしれない。常に緊迫した状態であれば違ったのかもしれない。誰もいなければ心壊れるだけだったかもしれない。私がいたから、似た者の存在が中途半端に安堵を覚えてしまったから、拙いなりにも自分に優しくしてくれる存在には何でもしてあげるという狂気染みた感情を覚えていったのかもしれない。優しくしてくれる存在ならば、身内と認めた者のためならば、誰を犠牲にしても構わない、誰を殺しても構わないというそんな凶悪な精神状態に。それは、ずっと。今でも変わっていない。
「それと……誰を殺して良いか分からなかったら、私に聞くのよ?」
そんな強かな部分も、今も変わっていない。