第12話 天使の歌う詩
12.
粛々とした空気の中、場違い感を浴びつつもリオンさんの後ろに控える。
初めて見るゲルトルード様のお姿は当たり前のように痩せこけていた。メイドマスターに背を支えられ、身を起したものの言葉を発する事はできないようで、弱々しい笑みを見せるのみ。消えてしまいそうな程に儚い笑顔だった。深窓の令嬢というのもまさに相応しい表現だろう。いや、もっとも皇族なので令嬢よりさらに偉いのだが……ともあれ、念入りに手入れされているのだろう。金色の髪はそれでも、透き通るように綺麗だった。
ここはゲルトルード様の寝室。
この場にいるのはアルピナ様、メイドマスター、ヴィクトリア学園長とエリザと先輩。そして……フードの男?であるマジックマスターである。あぁ忘れていた。妖精さんも一緒に来ている。
これはなんというか戦力過多にも程があるなぁと思いはするものの気にせず私はせっせとリオンさんのお手伝い。エリザや先輩とは違い、今日の私は単なるリオンさんの日雇い助手である。奴隷を早々こんなところに連れてくるわけにもいかないのだ。先輩は先日同様特別みたいだが……。
「さて。いやはやしかし、寝室で料理をするとは思いませんでしたよ。はっはっは」
リオンさんも料理人としての誇りがあるのだろう。調理場以外で料理する気などないに違いない……という事は勿論ない。そんな事を気にする人ではない。平原だろうと山の中だろうと森の中だろうとそれこそ洞穴内だろうと料理をしているに違いないのだから。
「さて。本日の材料の御紹介から行きましょうかね。まずは、スライム君に水晶花と八目ワームとオケラさん達と川底の藻、小石、タマゴ鳥の糞、地下墓地の水、プチドラゴンの睾丸、道端で拾った雑草。……そして、幽霊の涙。いやーほんとカルミナさんのおかげですねぇ。幽霊の涙だけはちょっとやそっとでは手に入らないので助かりましたよ」
設けられた台に嬉しそうに材料を並べていくリオンさんと、別に嬉しくなさそうな私。ついで調理器具を並べていく。
興味本位で近づいてきたのはアルピナ様と、メイドマスターとヴィクトリア学園長の二人。そしてリオンさんを知らないからだろう。メイドマスターが引き攣った表情でヴィクトリア学園長に話かけていた。
「えっと……ねぇ、マリア?何なのこの人?頭おかしい人?というか何この皆の反応。疑問に思ったらダメな所なの?それとも私の常識がおかしくなったの?」
「ソフィア。貴女は別におかしくなってない。あの方の材料がおかしいのは昔からだ。気にしたら負けという奴だな」
「いや、答えになってないわよ……というかその材料で出来たものをゲルトルード様に与える気?貴方正気なの?」
「その辺は安心してくれて結構。味は保証する。実は……私が辛口審査員と言われるようになったのはあの方の所為なのだ」
「……何?マリア。実は年下趣味だったの?だからお局様とか言われているの?」
「黙っていろ」
ちなみに、マリアは学園長の、ソフィアはメイドマスターのミドルネームである。
そんな会話を尻目にアルピナ様がリオンさんに色々と聞いておられた。これは何に使うのじゃ?とか。それに応えるようにしてリオンさんが、寸胴に全部たたきこんだ。
ちょっと、と思ったのは私だけではない。というかほぼ全員吃驚していた。というかそんな乱暴にたたきこむなら水晶花とか丁寧に割れないように運ぶ必要なかったんじゃ?と今更ながらに悲しくなる。
「……豪快じゃの」
「でもまぁ、これもコツがあるのですけれどね。投げ入れ方に。あ。そこのマジックマスターさん。火をお願いできますかね。中火くらいが……えぇ。そうそれぐらいでお願いします」
何この慣れたやりとり。いやほんとそのフードの中の人って娘さんですよね?と言いたい。言いたいので、とりあえず、
「前に洞穴で会った時で3度目だったんですよ。というところで、カルミナです。リオンさんが娘さんに何か作って貰うと言っておられたのでご迷惑を掛けるかと思いますが、今後ともよろしくお願いします」
近寄って小声で一言。もっとも一切返答はない。
そして今更ながらに気付くが、仮面で顔が隠れている所為でいつも感じる焦燥感のようなものは無い。もしかして検討違いなのだろうか?だったら恥ずかしいな、私。
「では、私は戻りますね」
いつまでもマジックマスターに声を掛けていると……あぁ、やっぱりと強い視線を感じる。間違いなくメイドマスターからの視線である。なので、さっさと戻ろうと決め、さっさと戻った所為だ。
「……そう、貴女が」
そんな呟きを聞き取る事が出来なかったのは。
―――
それから何時間経過しただろうか。
「あ。カルミナさん。そろそろ良いですよ」
延々と寸胴の灰汁を取っては灰汁壺に入れる作業を繰り返し、繰り返し、途中ふわぁと睡眠を取りに出て行った人達がつやつやした表情になって戻ってきてもまだ繰り返し、繰り返して……ゲルトルード様が二度寝て、二度起きるぐらいの間延々と私とリオンさんは作業をしていた。
「終わり……ですか?」
「はい。灰汁取りは終わりですね。じゃ、その寸胴の中身捨てて洗っておいてくださいな」
「ちょっとーっ!?」
つい、出てしまった声にびくり、とゲルトルード様が震える。そしてゲルトルード様の横で、壁を背に見張り役をしていた先輩もまたびくりと震える。
「なんだよカルミー脅かすなよ」
「いやいやいやいや。驚きますって。何時間灰汁とってたかもわかりませんが、折角灰汁を取ったものを捨てるとか何ですか?これはあれですか?拷問ですか!?」
「妙にテンション高いな……」
「寝てませんからねっ!」
「あぁ。カルミナさん。その灰汁壺取って下さいな。そっちが大事なので」
「こっち!?」
いやはや……そうだ。この人はリオンさんなのだ。ゲテモノ料理店の店主なのだ。訳の分からないものを美味しくする人なのだ。だから……こんな事もある。あるに違いない。そう納得しよう。えぇ。納得するしか自分を慰められない。
「これほど時間がかかるならば、事前に作っておいてもらえば良かったのぅ」
「いえいえ、アルピナちゃん。これはここで作らないと意味がないのです。病人が延々とこの臭いを嗅ぎ続ける必要があるのですから」
「そうなのか?」
「えぇ。そうなのです。騙されたと思って騙されておいてください。そうすれば幸せになれます」
「では、騙されておくとしよう。惚れた男に騙されるのも、女冥利に尽きるというものじゃしの」
などという意味不明な会話をよそに、
「ちょっとマリア。貴女アルピナ様の男を取るつもりなの?」「待て待て。その辺りはアルピナ様と話はついているのだ」「ついてるの!?」「うむ。あの方はそうでもしないと靡いてくれんというかだな……その」「うわ……マリアのそんな顔初めて見た。なんなのその乙女顔」
周囲に聞こえるように流れてくる何とも背中が痒くなる会話を聞き流しつつ、リオンさんは絶対女難だよなぁと改めて思った。大変である。が、聞こえているのだろうけれど、リオンさんは気にしていなかった。というかいつになく真剣な表情で、灰汁と戦っていた。
「あ。カルミナさん。言い忘れましたが、さっきの寸胴中身捨てる時に水晶花の欠片が残っていると思いますので、それだけは回収しておいてくださいね」
何に使うのだろう?と思いつつ、寸胴を運び、調理場まで。案内役はエリザだった。前を歩くエリザの後ろ姿を見るに、少し動きに違和感を覚える。天使の痣の回復力の所為で義手義足にも既に慣れたと思ったがそうでもないのだろうか。
「エリザ、痛いの?」
「……というよりは義手、義足との境目に違和感といったところです」
「そっか。痛くないなら良かった」
しかし、もはや、城のどこに何があるか把握しているようで……そんなエリザに一抹の寂しさを覚える。
だから、だろう。自然と口にできた。
「エリザ。奴隷契約は解除するから後は自由にして頂戴」
「……カルミナ」
「元々、そうしようと思っていたし、ちょうど良い機会。あんまり褒められはしないけれど、天使の痣のおかげで体は動くようになっているわけだし……手術跡の回復も早いんでしょ?違和感もしばらくすればなおるだろうし」
「……本当に……良いの?」
「良いよ。何を遠慮してるの」
「でも、私……カルミナに何も返してない」
「返してもらった。いっぱい貰った。だから、自由にして。貴女が幸せに生きていけるならそれはどこだって構わない。というか……私の隣にいたって良い事ないよ」
「そんな事ないわ」
「ありがと。ま。でもね。私としてもどちらかといえば、皇族として頑張ってくれた方が嬉しいかな。皇族に戻る?というと変なのかな。皇族になる事を拒否したら流石にトラヴァントにはいられないでしょ?そう思えば、皇族になってくれた方がまだ会えるじゃない」
「カルミナ……」
「何?もう私とは会ってくれないの?」
「そんな事、ありえません。貴女が私に会いたくないとそう言うまでは……だから」
「だから?」
これ、と差し出されたのはいつかディアナ様へと、取引の証として渡したお揃いの首飾り。少し欠けた……エリザがつけていた首飾り。
それを私へと。
「ディアナ様が持ってきてくれました。御二人の物だと。これを持っていて。付けていて。私も……ずっと付けているから」
そうか。ディアナ様は手元に置いておいて下さったのか。
受け取り、首に掛ける。
もう二度と無くさないようにと誓いながら。
「さらに死ねなくなったねぇ……」
「当然です。想い出になんかさせません。貴女が私をそうさせなかったように」
「全く。ねちっこい」
失礼ですよ!?なんて、そんな馬鹿な会話を繰り広げながら寸胴の中身を捨てに行き、戻って来てみれば……これまた不思議なもので臭いが変わっていた。
「なんか良い匂いになってますね」
「えぇ。灰汁との戦いに勝利した結果です」
「言葉遊びは大概にお願いします。はい。これ水晶花の欠片です。小さな感じのものしかありませんでしたね。指示通り寸胴をこれでもかとがちゃがちゃ回してた所為だと思います」
「えぇ。それで結構ですよ。さてこれを」
と呑気に私の手から花の欠片を受け取り火種に入れる。ちなみにマジックマスターが火を付けていたのは最初の少しだけで後は用意された薪に取って代わっている。寝室で薪…というのはどうかとは思うが、普通の人の部屋のサイズではないので問題ないのだろう。煤の掃除が大変だが、私には関係ないし、メイドさんの仕事である。
そんな薪の中に突っ込まれた花の欠片は一瞬燃え上がり、溶け……消えてなくなる。
「何の意味が?」
「蒸発して空気に混ざったという事ですね」
言われ、鼻を鳴らせば僅かに香る花の臭い。水晶の花に匂いなどなかったはずだが……焼くと出るのだろうか? 不思議な花である。
「それで、その灰汁をゲルトルード姉様に飲ませるのかのぅ?私の分は当然あるんじゃろうな?」
匂いに触発されたアルピナ様が今か今かを待ちわびていた。
けれど、リオンさんが首を横に振る。
「はっはっは。一応みなさんの分は用意しているつもりですが、最後の材料が届いてないので。もうしばらくかかります。そろそろ来るころではないかと思うんですけどねぇ……二人分ですし」
「誰かに頼んでおるのか?」
「いえ。勝手に来ると言いますか」
疑問符が浮かんだのはアルピナ様だけではない。この場にいるもの全てが疑問符を浮かべている。料理自体も意味が分からなければ話も分からない。ここ、ここに至りリオンさんはまだ何かを隠しているのだろうか。それとも……気付いていないだけなのだろうか。
「そうでしょう?マジックマスターさん」
その言葉に、マジックマスターが肩を竦める。その仕草は、その通りである、ともいえるし、呆れているともいえる。
「なんじゃ、お主ら知り合いなのか?」
「知り合いといいますか……っと。ウェヌスさん?……あぁ、そうですか。良いタイミングですねぇほんと……」
リオンさんの肩に座っていた妖精さんがリオンさんに何かを伝える。
それが契機。
「広い部屋で良かったです。さて……皆さま、戦闘の準備をお願いいたします。それでは前菜が到着しましたので……さくっと皆殺しにしてくださいませ」
戦闘?
と誰もが思った瞬間、窓が割られた。
ついで、現れたのは……見たこともない……いいや。いいや。それを見た事はある。それは以前、教会で見た……それだった。
鳥のような羽でもあり、蟲のような白い翅を持つものだった。その体は青白く、幾何的な要素を組み合わせた生命としてありえない形。人にあらず、化物にあらず。それは……神の姿。
「教会の神様……?」
呟きに応える声があった。
「いいえ、天使です」
と。次の瞬間、妖精さんがリオンさんの肩から飛び立つ。この中で、それこそエリザ以外では一番力を持っている妖精さんがそれに向かって飛ぶ。それに気付いた天使が背の翅を振わせ風を生み出した。強い風だった。魔法ではなく、ただ翅を振動で作りだしたそれに妖精さんは、けれど一瞬停滞したものの、ひらり、と避け、相手に取り付き、その小さな手刀を相手の体に突き立てる。
「うわぁ……」
その呆れた声は誰の声だったろうか。さもありなん。
ぞぷ、という気色悪いと音と共に、開いた穴へと小さな両手を入れ、幾何形状が引き裂かれた。瞬間、その体から白い液体が飛び散る。飛び散り、飛び散った跡に残ったのは透明な皮とそれに付いた白い羽、そして青い色をした果物のようなもの。それをリオンさんに向かって投げる。
「ウェヌスさん一番乗りですねー。では、他の方々もどうぞよろしくお願いします。まだまだ……くるでしょうからねぇ」
受け取ったそれをリオンさんが包丁で切断していき、青い果物のようなものだけを取り、後を捨てる。そして……その青い果物を割れば、臭気が辺りを包む。
「こ……これは」
瞬間、強烈に香る臭気に皆が顔を歪め、鼻を抑えようとした時、再び天使が部屋に突入してきた。それを……
「ウェヌスちゃんは後で説教っ!ちくしょう。折角綺麗になったばかりの着物を白濁液塗れにしやがって……私はカルミーと違って液体塗れになって喜ぶ変態じゃないんだぞ」
いちいち私を貶めないといけないのだろうか、この先輩。と、思う間もなく、しゃらんと鳴る音と共に一閃。がき、と一瞬の停滞はあったものの、先輩の抜刀速度に天使の体がずるり、とずれ、返す刀で翅を切り落とす。しかしほんと、口は駄目だが腕は確かである。
「……硬いな。切れなかったぞ。ほれ、これがいるんだな?」
掴んだそれをリオンさんへと。
「はい。どうも。続いて白いお方。さて、次は……っと。いっぱい来ましたねぇ。さすが、二人分」
慣れた手付きで解体しながら、窓からワラワラと入ってくる天使達に怖気が走る。カサカサカサと昆虫じみた翅音を出しながら窓枠を埋め尽くさんと一匹、二匹、三匹、四匹……数えるだけ無駄だった。
「カルミナさんとアルピナちゃんは、こっちの手伝いをお願いします。他の方々はがんばって倒してくださいね。頼りにしております」
と言われ、次いで動きだしたのはヴィクトリア学園長。皇剣セラフィックナイトを抜き、抜いた勢いでそのまま天使に振り下ろし、一匹と言わずそのまま二、三巻き込んで切り飛ばす。次いでエリザが部屋の壁に掛っていた儀礼用の剣を掴み一閃。メイドマスターはナイフを器用に投げ天使の体を穴だらけにしていた。
「初めてみましたけど、学園長豪快ですね」
「うむ。ヴィクトリアはわりとガサツだ。剣の師匠がガサツだからな」
アルピナ様と話しながら天使から出てきた青い果実を剥く。皆が闘っている所で何をしているのだろうという不思議な感じは多分にある。正直、お前ら何やってるの?と言われても致し方ないぐらいである。しかも、相手は天使なのだ。
エリザに痣を刻んだ憎い存在。それがこうして切り刻まれ、解体されるのは少し胸の梳く思いではあるが、しかし……こんな弱い存在にそんな事できるのだろうか?こんな意思もないような存在が皇族に痣を刻むなどという芸当ができるのだろうか。いや、そもそもにしてそんな痣を刻む事になんの意味が?
「リオンさん。これが本当に天使なのですか……ちょっと弱すぎるような?いえ、形は確かに教会にあったのと同じですけれど……」
「これはただの前菜です。しばらくすれば、もう少し歯ごたえのあるのが来ますよ。それが本日のメインなのですが……」
視線を窓に向け、視線を妖精さんに向け、皆から青い果実を受け取り、それを捌きながら次、次と。
「……リオン、お主何を知っておる?」
「何を知っていると問われても……そうですねぇ。天使を作った神様はこう言ったのです『なんて醜悪なものを作るんだ。それならば私が美しく作り変えてやる』と」
片手間に語るそれは先輩に聞いたのと、少し違っていた。
「どういう事じゃ?」
それは、二つの意味が込められていたのかもしれない。聞き及ぶ神話とは何故違うのか?というのと言葉そのものの意味。
「……ただの神話ですよ。神に見捨てられた社に伝わる口伝といった所でしょうかね。……その作りかえられた者というのは御二方ともご存知かと」
傷は即座に治り、力は人の何倍も。
それが天使により作りかえられたという事なのだろうか。だったら、エリザは何故それを一度失い、そしてまた……
「人の神様は泣きながらこう言ったのです。『人間は決して弱くなんかない。愛に満ち溢れた美しい存在なの。失敗作なんかじゃない。だから、そんな酷い事をしないで』と。けれど、天使を作った神様は優しくは無かった。性悪なのです。人の神様が苦しむ事自体も、神様が作った人間が苦しむのも楽しむそんな存在です。だから……命を諦めた者は元に戻し、懸命に生きようする者を再び変える。ただそれだけの事です。そして、変えられた者の末路は……」
そこで言葉を切った。
「お主……何を」
再度同じ台詞を口にしようとしたに違いない。が、それは途中で潰えた。
アルピナ様に浮かぶその表情は驚愕だろうか。恐怖だろうか。それは分からない。分かるのは、きっと、私も似たような表情をしているという事だけ。
未知とは恐怖である。知らないというのは恐怖である。この人の言う言葉の意味が、意図が、出自が分からない。この人が一体何なのかが分からない。それに私は恐怖を抱いたのだろうか。それもまた……分からなかった。
「……さて。そろそろではないかと、私は思います」
何が?と問う必要はなかった。小さな天使は殺されていなくなり、絨毯が白く染まり、壁も天井も白く染まり、その白い世界にそれは現れた。それは先の小さな天使より大きいだけだった。
大きいだけ。
大きいだけのはずだ。だが、何かが違った。
それを見た瞬間、ざわめく何かを感じた。闘っていた皆もそれは同じようだった。だから、先手はそれを感じなかった者が行った。
それは妖精さん。先と同じく、飛ぶ。が、結果まで同じとはいかなかった。ソレの大きくなった翅は更に風力を増しており、妖精さんの飛翔を停滞させる。小さな歯を食い縛り、僅かながら前には進む事はできる。が、避ける事も進みきる事もできていない。まさに拮抗状態だった。
次いで、拮抗状態を覆すのは、やはり……先輩だった。
妖精さんに向かう暴風を避け、その体に抜刀からの一閃……その体に切ろうとして、金属音が鳴った。鳴り、先輩が即座に身を引いた瞬間に、角ばった体から牙に似た何かが繰り出され、先輩のいた空間を襲う。
「おいおい。なんだよこれ。さっきの奴と全然違うじゃないか」
引き、愚痴る。余裕はまだある。妖精さんが拮抗状態を作り続けてくれているからこそ。だが、その状態を切り崩せる者達は……
「マリア」
「えぇ」
メイドマスターからいくつものナイフが投げられ、それが体に弾かれていく。弾かれ、その間に、ヴィクトリア学園長が皇剣セラフィックナイトを全力で切りかかる。切る、に特化した刀とは違い、叩き潰す事を目的とした剣は僅かばかり、その体を変形させる。エリザのそれとは違い純粋に体捌きでもってその衝撃を生み出す彼女の技量に驚きを隠せなかった。結果、わっと声を出している間に、その衝撃に揺らされ、少し止んだ風の合間を妖精さんが全力で飛んでいく。
「カルミナ。借りますね。折れたら、何とかします」
「了解」
儀礼剣では心もとなかったのだろう。ディアナ様謹製の包丁をエリザが持っていき、目にもとまらぬ速度でエリザが天使に迫り、対照的に力任せに包丁を突き立てる。がん、と鈍い音を立てて包丁を体に突き立て、離脱する。それを取り外そう、それを突き立てた者を喰い殺そうとまたもや牙が体の中から出てきて……それを妖精さんが掴む。掴み、にやりと嗤った。
妖精さんが、それを引き抜きにかかる。その圧力は相当なもの。逃れようと暴れる天使の体が揺れ、部屋の絨毯や壁に傷を付けていく。
「……いつか天使に連れ去られる二人を守り続けるためには……これを殺さなければならないのです。さっきの小さいのはただの確認役の、小間使いみたいなものです。これを殺し続けなければならないのです。いつ、いかなる時であっても。死ぬその瞬間まで。……でなければ、守りきれないのならば、今死んだ方がだいぶましです」
揺られ、引き千切られそうな天使が叫びを上げる。それは魂までを引き裂きそうなそんな音で、自然、両手で耳を抑える。だが、病床の動けぬゲルトルード様の耳は……と思った瞬間に先輩が押さえ……だったら先輩は、と思った時には既に遅く。
これを絶叫とは呼ばない。これは決して絶叫などではない。
それは怨嗟。
それは呪い。
心の底から怨む相手に告げる怨嗟の言葉。それは呪いとなり、響きとなり塞いだ手を超えて、耳朶を打ち、脳を揺らす。それは痛みを伴い、世界を……私の見える世界を狂わせていく。視界が廻り、吐き気がする。胃酸が登り、この場に吐き出してしまいそうになる。
苦しみに流れ出そうになる涙をこらえながら先輩を見れば、
「ゲルトルード様……御無事で?」
怨嗟の響く耳から赤い血を流し、その瞳は涙とは違う赤い血を流し、されど歯を食い縛り、痛みに耐える先輩は、けれどそんな状態なぞ気にもならぬと嬉しそうにゲルトルード様へと告げ、告げられたゲルトルード様は出せない声にもどかしさを覚えながら、何度も何度も声を出そうと、けれどその声は出ず、涙していた。
私のためにどうして貴女が傷付かなくてはならないの、と。何故私は貴方を守る事ができないの、と。
どんな歴史が二人の間にあったのかは分からないけれど、先輩が身を呈してまで守りたい人なのだという事だけは……良く分かった。それはまるで、病床の母を守る子のようにさえ、そう思えるほどだった。
そんな二人のやり取りの間にも妖精さんが相変わらず天使の歯を抑えつけながら、それを助けるようにヴィクトリア学園長、メイドマスターが攻撃を仕掛ける。エリザもまた、儀礼用の剣を手に攻撃を繰り返していた。だが、決着は付かない。
殺しきれないのだ。
先輩も欠いた状況では尚更だった。出来うるならば今すぐ先輩の所へ行って手当ができればと思う。だが、視線を向ければ大丈夫だと伝えてくる血染めの瞳が、私を近づけさせない。なれば、私は信頼して待つしかなかろう。
そんな剣戟の中、そんな状況の中、リオンさんの言葉が続く。場違いな程、緩やかに。
「カルミナさん。この世界は悲しい程悪意に満ちています。神様が泣くのも致し方ないと思われるぐらいに。そんな世界でも貴女は、生きていたいと思いますか?今死んでしまった方が良いと、そう思ったりはしませんか?」
「……何故、今、それを私に聞くんですか?そういうのは皇帝であるアルピナ様にお聞きするものでは……」
僅か苛立ちを隠せぬのは状況的に致し方なく。むしろ、何故この人はこんなにも落ち着いていられるのだろうとそんな疑問を頂く。その疑問が苛立ちを湧かせる。
「あははははっ。それは、ですね。貴女が愚かしい程にお人よしだから、ですよ?」
「なんですかそれ……」
「この世界は、この大陸は死にたがっているんですよ。神様の作ったこの大陸は、自殺したがっているんですよ。死に至る病を抱え、日々自分を壊し続けている。そんな世界に私たちは生きているのです。そんな神様すら死にたいと思う世界で生き続ける事に意味はあると思いますか?希望を抱くことに意味はあると思いますかね?ねぇ、カルミナさん?」
「……難しくて良く分かりませんが、そんなバカな神様は一発殴ってやらないとだめだと思います」
死にたがる馬鹿はたくさんだ。それがたとえ神様だとて、たくさんだ。生きてさえいれば良い事がある、なんてそんな事は言わない。けれど、私の周りには死にたがる馬鹿が多すぎる。もう、たくさんだ。
その私の答えに。馬鹿にしたような返答に、けれどリオンさんは嬉しそうに笑う。片手で表情を隠しながら、嬉しそうに、こんなにも楽しい事は他にはないと、そう言わんばかりに。場違いな、そんなリオンさんの笑いに戦闘すら、止まった。
天使すら、時を忘れたかのように停止した。
「予想以上の答え、ありがとうございました。では、そろそろメインディッシュの解体と参りましょうかね。ここからは私の仕切りです。ウェヌスさん、抑えつけありがとうございました。もう良いですよ。白いお方、失礼いたしました。この償いはいずれ」
先輩への謝罪は何故だろう?別にリオンさんの責任でもなしにと思う間もなく、気楽に、気軽に何の気負いもなく、
「そして……ティアの方も、もう良いですよ。良く我慢しましたね」
ティアと呼びかけられたのは予想通り、マジックマスターその人だった。
「はぁ。パパったら私の副業邪魔する気なの?折角顔を隠してまで謎の魔法使いやってるんだからさぁ?そっちで片づけてくれれば良かったのに。あーもう邪魔よこのフード。誰が作ったのよこんなもん」
飛びぬけて明るい声が室内に響く。今までの事が馬鹿馬鹿しいふざけた演劇だとでもいうかのように横暴な声が響く。先輩が、誰かが傷ついている事など気にもならないと。
「そんな事言ってウェヌスさんが片したら怒るでしょうに」
「当然じゃないの」
言いざま、フードを脱ぎ捨て、出てきたのは仮面を付けた美の化身。顔が見えずともその美貌は周囲の全てを、この時、この場であっても陶然とさせる。各人言いたい事はあろう。けれど……それも言葉に出来ないほどだった。
いや、それ以前に今は天使との交戦中なのだ。こんな悠長にしているわけには……だが、天使は止まっていた。リオンさんが笑ってからずっと天使は動きを止めていた。否、無抵抗ではない。が、それでもどこか先ほどまでとは違い、挙動不審だった。まるでそれは……逃げ出したいとでも言わんばかりの、そんな不審さだった。
「ティア。仮面は駄目です。そのままで」
「はい?……あぁ。その二人か。そんなのに殺される程弱くはないし別に良いんじゃない?何よ、パパったら私がその二人に殺されるとか言うわけ?ありえない」
「聞き入れなさい。さもないと家でもマジックマスターガラテアさん、とか呼びますよ?」
「ごめんなさい。ちゃんとやります」
ガラテアだからティア、とそう言うのか。しかし、ガラテアとは何か聞いた事のあるような名前だった。図書館で見た事があるのだろうか。神話?……思い出せない。
「全く。それじゃあ御言葉に甘えて……殺すわよ」
マジックマスターなのだから魔法を使うと思ったのはきっとこの場にいる全員だろう。今まで黙したまま何もせず、状況を見ていただけだったのも、それはきっと巨大な魔法で味方を巻き込むからだと思っていた。だから、訳知り顔のリオンさんが皆に離れるように告げた時も、皆思った事だろう。
が、その予想に反して……彼女は魔法を使わなかった。
いいや、使っている様子だ。暴風なぞ気にもならぬと優雅に、軽やかに歩んでいる姿を見れば。それは一切の気負いなく、ただただその暴風の中を歩んでいた。けれど、しかし、暴風の中、二つの尾となした金髪はそよ風に揺れるようで、だからきっと風を抑える魔法を使っているのだろうと、そう思えた。けれど、だったらどうやって天使を打倒するのだろうという事への答えはすぐに得られた。
天使へとたどり着いたティアさんが、ゆっくりと掌を開き、天使の体に触れる。
触れ、長く伸びた爪を武器に、一見して優しく、掌を閉じるようにその体に突き刺し、そのまま、その体へと指先が、手の平が、手首が、一の腕が、その中へ入っていく。
言動とは裏腹に、彼女の行動はとても優しいものだった。
優しく、けれど……。
「……ぇ」
絶句。
言葉もないとはこの事である。エリザの馬鹿力は見飽きていたが、そういう段階の話ではない。それまた、一線を画した力だった。気負いなく、腕を突き入れるなど、まるで……そう、まるで人ではないような、そんな力。
入れた時と同じ速度でゆっくりと腕を引き抜かれた天使の体から白濁液が飛び散り、けれどそれはありえぬ方向に曲がり、ティアさんを汚す事はなかった。ついで、翅に手を掛け、翅ごと地面へと押しつぶすように、やはり一見して優しく地面へと天使を押しつければ……地面にヒビが入る。めき、という聞いた事もないような音を立てながら床に、壁に、天井に、城にヒビが入っていく。
「ティア」
「何よパパ。お楽しみはこれからだっていうのに」
「やり過ぎです。城が壊れます」
「……はぁ」
ほんと、めんどくさい。と一言呟くその会話に誰一人反応できるものはいない。それほど馬鹿げていた。機械仕掛け神様が、天使を殺すために遣わした存在だとでもいうかのように。馬鹿馬鹿しくて、笑いすら出てこない。
「なん、なのじゃ……」
「話は終わってからにしましょう。では、皆さま御耳を……あぁ、ゲルトルードさんはウェヌスさんがお願いしますね」
傷ついた者がいたら一直線のイノシシ系妖精が、血は拭き取ったものの未だ渋い顔をしている先輩の下へと行きたがっていた所をリオンさんに止められてゲルトルード様の下へと。
そして、それを待っていたのか。天使を抑えつけるティアさんの赤銅の瞳が爛々と輝き始め、唇がつり上がっていき、ついで響いたのは雄叫び。
響き渡るそれは……ティアさんの口腔から。
それは人の声帯では決して出しえぬ、叫び。
魂さえ揺らすその雄叫びは……まるで
「……なんですかこの声……ドラゴンみたいな」
自然、怯えてしまう。血に刷り込まれた恐怖。太古より続く存在としての格の違いに体が震え、震えていき……この存在を殺しつくさねば、成らないと思えてくる。この存在は殺してしまわなければならない、と。
……あぁ……だから。だからか。
「だから、私が彼女を見ると殺したくなるんですね。きっと……先輩もそうだったんですね?」
吸い寄せられるようにティアさんを見つめる先輩の瞳は、きっと今の私と同じ。
殺し尽くし、喰らい尽くさねばいられない。
綺麗だから殺したいだなんて、そんな事じゃない。彼女の前だと私達の存在が消えてしまいそうだからとかそんな理由ではない。
ドラゴンゾンビの腐肉を喰らった時からずっと……私達は、先輩と私は呪われていた。
それを殺さなければ生きていけないと、喰らい続けなければ生きていけないと。ドラゴンゾンビに張り付いていた生物は、人は喰らい続けていたじゃないか。ドラゴンを殺そうと必死に、狂ったように喰らい続けていた。
「あぁ。さすがにこうなったら仮面程度じゃ抑えきれませんか。カルミナさん。正解です」
だから彼女の魔法は人とは桁違いなのだ。マジックマスターなどと呼ばれ尊敬を得るぐらいに。人を飛ばし洞穴の穴を埋めるぐらいに恐ろしく凄い魔法を使えるのだ。見た事のある魔法は、コボルドだとて、オークだとて、リザードマンだとて、どんな生物であれ人以外の者達の魔法はどれもこれも凶悪だった。
だから先輩は聞いたのだ。あれは人なのか、と。何も知らない私は、その事に疑問を抱いていなかった。
「ま。蜘蛛に人がついているのがいるんですから、爬虫類が人型でも別におかしくはないですよねぇ?」
「……ドラゴン」
「そんな……」
人にあらざる、人でないからこその美麗な存在が、全く似合いもしない雄叫びをあげ、口を開き、人にはあり得ぬ刃の如き歯を剥き出しにして……天使へと喰らいついていた。
喰らい、引き裂き、咀嚼し、嚥下し、喰らい、引き裂き、咀嚼し、嚥下し……それを繰り返す。先の者とは違い肉があるのだろう。次第、次第にとティアさんが楽しそうに、嬉しそうに幾何形状を壊していく。
喰われ、叫ぶ。天使が泣き、叫ぶ。
「美味しいんですか?あれ」
そんな現実感を喪失した光景の中、これもまた場違いな台詞がつい出てしまったのはきっと、二日間鍋を回し続けた所為に違いないと、そう思った。
―――
「さて。説明を求めるかのぅ」
良い笑顔だった。アルピナ様がいつになく良い笑顔だった。
「食後でよろしければどうぞ。鮮度が大事ですので」
淡々と。別に隠す謂れも必要もないとそう言いきるリオンさんにアルピナ様が肩を竦める。
室内を漂う匂いは、取れるのだろうか?と心配したくなるぐらいにべっとりと白濁とした液に塗れている。加えて青い果実のような物……思い出したが、娘の御土産ですとリオンさんが前に解体していた……の放つ匂いがさらに強烈で、きっとこの部屋から匂いが消え去る事はないんじゃないのかと思えるぐらいに酷い。天使が襲ってくる前までは良い香りだったのにそれが今となっては完全に悪臭である。いや、その良い香りがなければさらに酷い事になっていたのかもしれないけれど……。と考えて、態となのではないかと気付く。
「下地なのは確かなのですけどね。騙されたと思ってと言っておいたじゃないですか」
「ほんとに騙しているとは思いません」
「嘘は言ってませんよ、嘘は。ま。これからが本番です……ティア」
言われ、ぺたんと座ったまま、毟っては手で摘まんでガリガリと天使を喰らい続けているティアさんに声を掛ければ、当たり前のように手を止め、体内から青い果実を取り出した。それは、幾分他のよりは大きいものだった。
なお、そのティアさんの姿を見て、メイドマスターがヴィクトリア学園長に泣きついていた。いや、まぁ憧れの人が女でなおかつ爬虫類とくれば泣きたくもなろう。「マリア、私がんばるから」「何をだ」「心配してくれなくても大丈夫よ。私、がんばるから」「いや、だから何を……」「えぇ。こんな事で私は諦めないわ。異種族でもきっと…」……きっと何なのだろう?
ともあれ、そんな周囲の喧騒を華麗に無視しながらリオンさんが受け取った青い果実を解体する。
「俗称……でもないですね。天使の灰と呼んでいます。悪魔が作り出すのがオブシディアンであれば、天使が胎内で作り出すのがこれです」
言い様、異臭を放つが……
「先ほどの小さなものは添え物です。これが本日のメインディッシュでございます。ある特定の手順により剥いていく事で匂いと味が変わっていく特殊な素材です。もっとも……」
リオンさんの手の中でどんどん、どんどん芳しい匂いへと変わっていく。ごくり、と喉が鳴る。誰からともなく、喉が鳴る。
甘露というものがあるのならば、きっとこれだと、そう思わせるほどに。視線が誘導される。それを喰わずにはいられないと言う思考が脳を侵す。
「覚悟はしてください。食べるならば、生き延びたいと願うならば覚悟をしてください」
華を割るように。ゆっくりと果実を割っていく。
ぱりん、ぱりんと軽い音を立てて。
「ほんと、一番怖いのはパパだって話よね。ねぇ、ウェヌス」
しばし齧るのを止め、成り行きを待つティアさんが嘲るような物言いで口にする。次いで、ゲルトルード様から離れ、ティアさんの肩に乗り移っていた妖精さんが、うんうん、と頷いているのがまた印象的だった。
「心外な。ただのゲテモノ料理屋の店主じゃないですか私」
「ほんと、相変わらず殺したくなるぐらい怖いわね。大好きよ、パパ」
「父親冥利に尽きますね……いやはや、いやはや」
傍から見ると凄い台詞と凄く怖い絵面であるが……。なんだろうこの二人。ずれている。思想、思考がずれている。人として……いや、片方は人ではないけれど、間違いなくずれている。冷静に気が狂っているとしか言いようがない。
「言ってあげなさいよ。それが何なのか。教えてあげなさいよ。もったいぶっちゃ駄目よ。パパ。食べた後に実は、なんてのはもっと悪趣味よ?」
「はは。そうですね。アルピナちゃんとカルミナさんには話しましたね。これが……天使の痣を持った者の、天使によって連れ去られた人間の末路です」
瞬間、引き攣ったのは私だけではない。
悪魔を憐れむ者は悪魔となる。そんな言葉を聞いた事がある。それと同じように天使に見初められたものは連れ去られ天使となる。それはとても奇麗な事のように思える。けれど、死後の国に連れて行かれ天使となって神に仕える。そんな宗教じみた幸せな話などとは違う、残酷な現実の話だった。
「ですから、覚悟して下さい。これを喰らうというのならば、覚悟をしてください。これを喰らって生き延びたいと願うのならば、それでもまだ願うのならば……どうぞ、ご賞味あれ。そして……殺し続けてください」
解体したそれを皿に華のように盛りつけ、先ほどの小さな奴らのものは火を通し、短冊状に切られ、その周囲を彩る。一見して高級な肉のようにさえ見える。タレとばかりにかけられた灰汁は、その出自を知らなければ極上に思えるだろう。光り輝いているかのようにさせ、そう思えるほどに。
こんなキワモノが、なぜこんなにも美味しそうに見えるのだろうか。
「天使の灰汁付け、御待ちどうさまです。効能は……天使の呪いの助長とドラゴンの呪いの軽減でございます。故に……」
故に。
天使に近づき、ドラゴンから遠ざかる。
それゆえに……回復すると、そう言った。
二つの呪いに侵されたゲルトルード様がこれを食せば、天使に近づき、ドラゴンの呪いに打ち勝ち、結果、治る、と。
「天使の痣を持たない人にとってはただの食事です。ドラゴンの呪いをお持ちの御三方は呪いが少し軽減する可能性はありますが、試した事ないのでなんともはや」
今まで見た物の中で、飛び切りに悪辣で皮肉なゲテモノ料理だった。
食べれば生き延びる事はできる。けれど、食べるものは自身と同じ境遇の末路。そして助かったとしてもまたいつ襲われるか分からない。これを食べるという事はそういう事。そんな人生を歩ませるというのか。
「……リオン、お主私達に親族を喰らえと?過酷な運命にあった者達を喰らえと、そう申すのか?」
「同じ台詞を……以前、お聞きしました。その方は悩んだ末に喰らい生き延びました。が、結局、連れ去られ、同族を連れ去る天使に成り下がりました。ですから、これを食べた所で先ほどの天使を殺せなければ意味がありません」
「……ありえぬ。ドラゴンに呪いを受けて、さらに天使の痣を持った者がゲルトルード姉様の他におられるなど聞いた事もない。そもそもにして天使の痣を持つものの末路なぞ何故お主が知っておる……皇族とて知りえぬその事を。……戯れか?戯言か?私達を怖がらせて楽しんでおるのか?」
否。その言葉を一番信じていないのはアルピナ様であろう。彼が嘘を言っていない事ぐらい分かるだろう。話の真偽だとて、悩むまでもなく、アルピナ様ご自身を救った実績がある事を思えば真実だろう。それぐらいアルピナ様とて理解しているだろう。けれど、それでも言わずにはいられなかったのだろう。これではあんまりではないか、と。苦しみ抜いたゲルトルード様に対してあまりにも……。
「だから云ったじゃないのよ、皇帝陛下ちゃん。一番怖いのはパパだって」
ケタケタと笑いながら天使の翅を齧る。それが元々何だったかなど気にすることもなく。この人型ドラゴンはそれを喰らう。憂いなく、笑いながら天使を喰らう。
「私はどちらでも構いません。食べて頂いても食べて頂かなくても。それを真と受け取るか偽と受け取るかも別にどちらでも結構です。材料用意に奔走してくれたカルミナさんへのお礼はして頂ければと思いますけれどね」
甘い罠だ。
誰もが一度は食べたくなるような匂いを醸し出すそれを食べる事は人だったものを喰らうということ。同族殺しの最悪の罪を犯せば最高の甘露を食べる事ができる。
だが、何も言わずに騙す事もできた。何も言わずにリオンさんは救国の英雄になる事もできた。真実を隠し、罪を押しつける事だって出来ただろう。けれど、それでも騙す事なく、自ら悪魔のような手を差し伸べる事もなく、自身の選択を求めた。それは彼なりの誠実の表れなのだろう。言う必要なんて全くない事なのだ。神話など寝物語に過ぎないものが真実だと、それを知っているという事まで語る責任などリオンさんには全くなかったのだ。けれど、それでも私達が罪を犯さないように。犯すのならば覚悟せよと、そう言うのだ。だから、彼は自ら名乗り出なかったのだろう。同族を殺してまで生き延びるという罪を背負わせたくないがために。
けれど、一つだけ間違いなく彼は私達を騙している。それはティアさんもそうだ。いや、隠したといった方が良いのだろうか。時間を掛ければきっと私達でも大きい天使を殺せたに違いない。けれど、それをさせなかった。今回の事で私達には何も背負わせたくないがために。ティアさんが矢面に立つことで殺した罪を自分達の内に収めた。ここで食べなければ、罪悪感に苛まれる必要も謂れもないと、そういうのだ。この人たちは。それを口にしないのがまったく、度し難い。先輩に詫びたのも自身の考えを押し付け、その結果怪我をしてしまったから、だろう。まったく……度し難い。
「偽悪的な態度なんて似合いませんよ、リオンさん」
「……そういうつもりはないんですが」
肩を竦め、苦笑する。
「だったら、こうしましょう。内臓大好きな私がこの天使とかいう生物の調理をリオンさんに頼んだ。なので、その責任は全て私にある、とそうしましょう。なので、頂きます。あ、皆さんもどうぞ。折角皆に食べて貰いたいと私が必死になって集めた材料ですから、是非是非。騙されたと思って、騙されてください。何も気にせず。あぁでもそうですね。ちょっと具合の悪い事に食べたら変なのに襲われるようになるかもしれませんが、それは私が騙しただけですからね。私は、自分だけが運よく幸せになって、皆を不幸にする存在らしいので。その所為ですよ。自分だけ飛び切りに美味しい物を食べて、それに伴う不幸を皆にばらまいている。ただ、それだけです。だから、騙されてください。今宵、この時、一夜限り……奴隷如きで恐縮ですが、騙されてやってくださいませ」
私が食べたかったから、狩って貰った。私が食べたかったから彼と彼女は殺したのだ。だから、その責任は私にこそ。私は運が良く、そして周囲を不幸にする。そんな存在なのだ。だから……その結果なのだ。これは。
今ならもしかするとゲルトルード様は人として死ねるのかもしれない。けれどそうするとエリザはやっぱり一人だけになってしまう。だから、皆を巻き込んだ。私の都合で巻き込み、私にとって都合の良い道を切り開き、周囲全てを不幸にさせるのだ。
「全く。どっちが偽悪的なんですか。カルミナさん」
「あはははっ!やるじゃない。パパの言う通り、この子、面白いわねっ!その振る舞いは人にして人に非ず。けれど最高に人間よ、貴女。気に入った。カルミナと言ったわね。良いわ。良いわよ。弟子にしてあげる。マジックマスターガラテアの弟子にしてあげるっ!喜びなさい。そして……馬鹿な神様を一発殴り行かないとね!あはははっ」
楽しそうだった。とても、とても楽しそうだった。堪え切れないと言わんばかりに。
「では、後日魔法を教えてくださいね」
言い様、リオンさんから皿を受け取る。
青い果実。あの時は食欲がそそらない色だと言ったけれど、今見ればなんと食欲をそそる色だろうか。それが元々何であったかなぞ知らない。興味もない。家畜の餌がなんであるかを気にして家畜を喰らう者はいない。例えそれが人間の糞尿が混じったものであろうとそれを喰らう事に何の謂れもない。それと、何の違いがあるというのだ。たかが元人間の天使を食べる事がなんだというのだ。
自分に言い訳を聞かせながら、口にする。
「……はぁ」
溶けた。
蕩けた。
心に浮かぶ自責ごと一切合財消えた。
口の中で天使が暴れまわる。私の心を蕩けさせようと暴れ廻る。脳髄へと響くこの悦びはまさに天上へと登るかの如く。
「この淫乱処女」
そんな先輩の罵倒など何の意味もない。今の私はきっと何を言われても許してしまうだろう。
「店長、さっきは阿呆な事を言っていたな。詫びなんていらないわよ。これでゲルトルード様が治るのならば他に何もいらない。ゲルトルード様……どうか、私の我儘を聞いてくださいませ」
先輩の言葉にゲルトルード様が首を僅かに横に振り、儚くも力強い笑みを浮かべる。貴女の責任にはさせない、と。
強い人だ。
けれど、
「まったく、何を言っているんですか先輩。勘違いしてもらっては困ります。これは私が提供したものです。ですので……私の我儘であり、私の責任です。譲りませんよ。四の五の言う暇があったらちゃっちゃと食べてください」
ここは私の仕切りなのだ。
「カルミナ……」
エリザが心配そうな表情で私を見つめる。けれど、何を心配しているというのか。
「ゲルトルード様。拝謁の栄誉を賜り恐悦至極に存じます。カルミナと申します。何卒、この奴隷の我儘、聞き入れては頂けませんでしょうか。復帰して頂き、臣民の希望の光となって頂けませんでしょうか?エリザベート様のためにも……是非に。……あぁ、すみません。間違えました。今のは聞かなかった事にして下さい。今日はとっても美味しい物を用意しましたのでどうぞ召し上がってください。天使と言うのですけどこれがまたとっても美味しくて頬が落ちるぐらいです。ゲルトルード様もきっとお気に召すと思います。いつもうちの先輩が御世話になっているようですのでその御礼です」
後に続くのが殺し続ける日々なのかもしれない。それは幸せではないかもしれない。けれど、私は不幸を振りまく人間なのだから仕方ない。
そんな私に、驚いたような、そんな表情をしながらゲルトルード様は……一度先輩へと視線を向け、呆れたような表情の先輩を見て、私に視線を向け、軽く、頷いた。