第4話 初めてのお遣い
4。
しゃらん、となる金属の音に瞬間、しまったと思えば、足の十本あるグロテスクな平べったい生物が音に反応して森の奥へと逃げていくのが視界に写る。逃げていくその姿がまた気色悪い事限りない。それは初日に見たアレを小さくしたような、ちょうど食べたぐらいの、そんな形状だった。
その逃げていく姿にため息を吐く。ほぅと零れる吐息は白く、その白さが、逃げる直前までの彼らを思い浮かばせ、もう一息。
追いかける事をせず、その場に立ち止まり、深呼吸。
氷点下を下回る空気の流れが唇を通り、喉を通過し、肺に蓄えられる。その冷たさに全身が引き締まる。曰く、気を抜くことなかれ、だ。ここが件の洞穴内ではないにしてもである。特にこの場所で気を抜くことはしかねる。
ここは雪の積もった森。雪で化粧された銀世界だった。だが、今が冬季というわけではない。だからであろう。あまり近寄らないとはいえ冬季には活動を止める大型の肉食動物もこの森にいるらしいと聞いている。
周囲より幾分高い場所に位置し、四方を山に囲まれた森。トラヴァント帝国首都より馬車で数時間の距離にあるのがこの森だ。馬車が通れるよう道が整備されているものの、一山を越える必要のある場所。一山越えた事による気候変動かと言えば、そういうわけでもない。周囲の山には雪の影はない。
「帝国には変な所があるものだ……」
馬車を降り、森へ入ってすぐの言葉がそれだった。
その時には雪は降っておらず、まるで大地の下で熱が奪われ、霜が極端に成長して雪のように見えているようにさえ思える程にこの場は奇妙だった。
だが、そんな奇妙さを味わうためにこの場に訪れたわけではない。
「聞いてはいたけれどほんとに黒くなるんだ……」
周囲の気配を気にしながら、逃げていった奴らの事を思い出す。
発見した瞬間は真っ白な鮮やかな色だった。透き通るようなその白さは、グロテスクな奴らを綺麗だと勘違いさえる程だった。だが、雪の積もり森の中でその白さは保護色だ。発見し、少しの安堵を浮かべたのも束の間、私自らの出した金属音に反応して、こちらに気付いた奴らは興奮し、対照的に黒くなっていた。事前の調べでその事は分かっていたつもりだったが、しかしそれを実際に目にするとまた違った感慨も沸く。必ずしも百聞が一見に如かずとは思わないが、あそこまで劇的に変化するというのはやはり一度見ておいて良かったと思う。しかしなるほど、一旦興奮させて黒く染めさせるのも良い手なのかもしれないと気付き、脳裏から後悔の念を押し消す。
逃げられっぱなしではいられない。そんな感情論ではなく彼らを捕まえる理由があるのだから致し方なし。
学園。
メイドマスターは説明の際に訓練場と称しておられたが、実際には自殺洞穴を管理する帝国直轄の機関。数年前に発足され、自殺洞穴に挑む自殺志願者の管理を行っている場所だ。それ以前は誰もが洞穴に入る事が出来たらしいが今ではそれも叶わない。学園から許可を得たものだけが洞穴へと入る事ができる。故に、私の第一使命はその学園から洞穴に入る事の許可を得る事である、と奴隷としてトラヴァント帝国首都への一時移送中に説明がなされた。
その学園からの課題を今行っている。
とはいえ、逃げ出した奴らを捕らえるのが課題ではなく、もっと抽象的な意味で、問題解決能力を試されている。
能力を向上させるために、学園では座学の他に依頼を斡旋している。その種類は豊富であり、これだけというわけではない。年齢経験問わずして自殺志願者はいるのだ。自分に見合ったものを選べば良い。出来うる限りを行うのがこの課題の要旨。自分に出来る以上のことなど出来ないのだと知らしめるためのものなのだ。でなければ、真に自殺するために洞穴に行く事と相違なしと判断され単位が得られず、許可が得られなくなる。
学園に入学してまだ一週間という私にとってこれが初依頼であった。
この依頼を選んだ理由は特にない。依頼自体が低レベルであったという事と依頼主が食堂の店主であったというだけだ。食堂の店主が食材とならないものを取ってこいという依頼も出さないだろう。この地の食材で何が良いのか何が悪いのかがさっぱり分からない私にとってそれは貴重な情報だ。依頼ついでに依頼品を余計に確保する事で食糧の足しになれば儲けもの。ただでさえ、返さねばならない金額は膨大なのだから倹約は大事なことだ。というこれもある意味過信ではあるが……。
ともあれ、そう、少なくとも2年はがんばろうと、そう思ったのだ。
どうなるか分からない。けれど、自分の行った結果として今後を生きていきたい。そうすれば、笑いながら生きていけると思う。それと……私は、私の両親は決して安くなかったのだと示したい……そんな野望も少なからずあった。高い物を安く買えたのだと、そう言わせたい。自慰行為にもならない意味のない目的だけれど、奴隷には過ぎた目的だ。けれど、いつかもっと素敵な生きる目的が生まれると良いとも思う。そのためにもまずこの2年を必死に生きる必要がある。
その第一歩が今。
「さぁ……行こう」
仕切り直し。
頬に手を当て、よし、と頷けば、同時にしゃらん、と金属音が鳴る。
「っと……これは気をつけないとね」
首と腕に巻かれたリヒテンシュタインの銘が刻まれた鉄の輪。これは奴隷の証。流石に鎖で繋がっている事は無いが、しかし外れる事はない。行くは自殺、戻るも地獄。それを忘れさせぬためのもの。貞操帯と首輪と腕輪、この三つは自分の意思で外す事は出来ない。それが出来るのは死んだ時だけだ。
「さて、どうしようか……」
逃げられた手前追いかけるしかない。とはいえ、ただ追いかけた所で同じことが起こるだけ、失敗の見えた行動を取るのは愚。だったらその解決法を考えるのが当たり前だ。
気を取り直し、自分の装備を確認する。領主様から頂いた包丁と、奴らを締めるためのピックと非常食、後は倒壊した実家から持って来た頭陀袋である。
これが今の私の全て。これが今の資産だ。
この状況において役に立つものは何か。それを考える。考えながら学園生となって直ぐに向かって通い詰めている図書館を思い出す。
学園生には帝国図書館が解放されている。豪奢な建物の中に整然と並べられる書物は先人達の知識の結晶。なれば先人の知識がただで手に入るのだから利用しないのは勿体ない。もっとも、教会の方に知識は頂いていたが、文字自体は良く知らない。けれどそれが生死にかかわるなら四の五の言っていられない。奴隷相手に良く教えてくれたものだと今更ながらに思うが、図書館を利用していた数少ない人達に色々聞きながら、自殺洞穴を目指す以上、武芸派が多いらしく図書館利用者が少なく奴隷であっても歓迎され、蓄えた知識を思い返す。
逃げていった黒い奴らの名はアモリイカという。本来、冬季に森の中で発生するグロテスクな生き物である。草食であり十の足で器用に雪を掻き分け雪の下に生える新芽や虫を摘み取り大きくなる。百聞でしかないが、大人になると結構な大きさであり人間の子供くらいにはなるらしい。冬に産まれ育ち一年を掛けて大人になり、秋に卵を産みそして生涯を終える生物。最もこの森は例外的な存在であるため、一概にそうではない。外敵を発見すると興奮して黒くなって逃げていく。温厚な生物である。また食用でもなし、薬の素材にもならないと書いてあったが……しかし、依頼主は食堂の店主であるので食べられると思いたい。流石に依頼主の事を詳しく調べる程の余裕も猶予はなかった。
「………はぁ」
幾度目かの白いため息を吐く。蓄えた知識も今はあまり役立ちそうにもなかった。しいていえば逃げるのだからある一定より近くに近づく事は望ましくはない。なれば……
「戻るのも良いけど戻って何かになるわけでもないしなぁ。投げてみるかとりあえず」
腰元に刺していたピックを手に取り指に掴んで投げる振りをしてみる。依頼内容に、捕まえたらすぐに眉間に穴を開けて締めて下さいとあったのでなけなしの最後の金で購入してきたものだった。
多少投げにくいものの、投げる事に問題はない。問題はこれが届く距離まで近づけるかという事と届いても命中させる自信もなければ刺さるような速度で投げられない事だ。私は華奢なのだ。
とはいえ、どちらにせよ逃げた奴らを再度見つけない事には話にならない。だからといって逃げた奴そのものを追う必要はないため、静々と音を立てないように周囲を見回りながら歩きだす。
雪をかき分けていく。そこまで積雪は多くないとはいえ歩行が酷く阻害される。体力は多少あるとはいえ農作業を休憩しながら行える程度であり、雪の冷たさにより熱を奪われている現状を思えばそれ程長い事活動していられるとは思えない。
そんな事を気にしながら目を皿のようにして白い奴らを探す。透けて見えるような白さを持つ彼らを雪原で見つけるのは一苦労だ。
ざっ、ざっと雪を掻き分ける音が幾度鳴っただろうか。薄暗い森の中、木々の隙間からの陽光を頼りに進む。そんな風に足元を見ながら歩いていれば自分のいる場所が次第に分からなくなってくる。雪原の足跡が無ければ帰る事すらできないであろう。次来るときは目印として分かりやすい染料など持ってくるのが良いのかな?と考えた時だった。
それが呼び水となったのか木々の根元に黒い染料が掛かっているのを見つけた。すぐさま近づけば、少し粘性を持った黒い液体が根元の雪を染めるようにばらまかれていた。
「あ、これって」
墨だった。アモリイカを興奮時に黒く染める原因。体内の墨袋なる所から全身にいきわたり彼らを黒くさせ、捕えられそうになると口から吐き出し相手を威嚇するもの。と言う事は威嚇された何かが近くにいると言う事だろうか?
周囲に気を張る。
片手を包丁に、片手をピックに。
風に揺れ、擦れる木々。この森に葉音はなく、静としたものだった。故に小さな音でも気付く。気が付けば、即座に逃げる用意を。凶暴な動物は余り近寄らないとは聞いたし、彼らに襲われる事もないはずだが……と考えた時だった。
「っ!」
小さな。小さな音が。雪原を走る音が耳朶を鳴らす。鳴らしたのと同時に……投げる。投げた瞬間、その方向に目をやれば白く動く物がいた。アモリイカ。十本の足で雪原を逃げようとしてはいたが、どこかふらふらしていた。それに向かっていったピックが……案の定外れるが、アモリイカはそれに気付いた風もなく右に左にと揺れながらゆっくり動いていた。
「これ……手で捕まえられそう」
呟き、念のために静々と近づき、後ろか前か分からないが恐らく後ろなのであろう方向からアモリイカを捕まえる。瞬間、慌てて逃げようと足をうようよさせ始めるがその力は弱く、逃げられる心配など全くなかった。
初めての獲物。
それを手にした瞬間だった。
が、感動などといった感慨が湧かなかったのはアモリイカの足がうねうねして気持ち悪い事と、手を伝うぶよぶよとした中途半端に柔らかい気持ち悪い感触の所為に違いない。次の瞬間、傍らに落ちていたピックを拾い、雪原にアモリイカを寝かせ、手で抑えて、無言で眉間を貫いた私をどうか許してほしい。
きゅぅ、と言わんばかりにぐったりとアモリイカの動きが止まる。それを見て、一度墨を吐き出せば数日は蓄えないと墨を吐けないとか書物に書いてあったのを思い出す。そうかこの子は木にぶつかり、墨まき散らした挙句あるかないかも分からぬ脳が揺れてふらふらしていたのかと気付く。
「とりあえず、一匹確保と」
ぶすりと刺さったピックを抜き、頭陀袋に入れついでに腐敗しないように周囲の雪を投げ込む。これも依頼の通り。雪があるからこその依頼。
「あと九匹かぁ……自分の分も考えて十二、三は欲しいんだけどなぁ……」
空を仰ぎみれば太陽が天に昇る頃だった。