第26話 時には昔の話を
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そんな優しい先輩が病人に蹴りを入れる瞬間を目撃した私は一体全体どうすれば良いのだろうか?という疑問を持つことに何の憂いがあろうか。
「ちょっと!?先輩!?」
「この自殺志願の淫乱処女!脂肪塗れの駄肉の分際で寝た振りなんざしてるんじゃないわよ。さっさと目開けて家畜のように洞穴でハァハァ喘いでらっしゃいっ!」
一発蹴りを入れた後に目を開いたエリザの首元を掴みながら揺すれば揺するほど先輩曰くの脂肪塗れの部分が揺れる揺れる。などという牧歌的な風景ではない。これはもはやただの病人虐待だ。
「先輩!エリザは病人ですっ!」
「あん?怪我も治ってぼけーっと寝てるだけの奴は病人とは言わないわ。駄肉よ、駄肉。廃棄寸前の腐った肉より価値がないわ」
振り向いた先輩は半目だった。
なんで私が文句言われなきゃいけないの?と本気で思っている表情だった。つまり、これに関して一番悪いのは私であって、先輩をエリザベートのいる私達の部屋に連れてきたのが間違いだったのだと、そう思った。思ったのが遅かったが。きっと優しくされた所為でこんな先輩だったという事を少しでも忘れていた私が一番悪い。うん。私が悪いんだ……
はぁ、とどんよりため息を吐いていれば先輩が気付いてくれたのかちょっと手を休める。
「何その態度?この廃棄奴隷の壊れちゃった心とやらを治すためにつれてきたんじゃないの?」
「違います」
「なんだ、それなら早くいいなさいよ」
部屋に入った瞬間、ベッドで横になっているエリザに向かって行っていきなり蹴りを入れてくれたのは誰だろうか、という言い分はきっと聞いてくれないのだろう。
だが、その甲斐はあったのだろうか。エリザの瞳が先輩を……見ていた。今まで中空を見据えるだけでその焦点がはっきりしていなかったエリザが……しかし、先輩を見て……反応したのだ。
反応して……口を開こうとして……閉じる。開こうとして閉じるという仕草を見せていた。何かを伝えたい、と。そう言わんばかりに。それはきっと意思を伴った行動ではなく、反射の類だろうけれど……でも、そんな仕草が嬉しかった。
「エリザ……」
呟く。けれど、今の彼女が私の方を向いてくれる事はない。それでもこうやって反応してくれるというのならば救いはあるのだ。いつか心が治ればまた私と一緒に、また皆で一緒に……そんな夢をもう私は捨てない。
「そりゃそうよね、エリザベート。怖い怖い先輩の事は忘れないわよねぇ」
剣を、いや、何やら先輩曰く刀というらしいが、抜きエリザの首元へと当てる。
「だったら分かるわよね、この駄エルフ。早く目覚まさないとあの時みたいにかっ切って火吹かせて泣かせるわよ?」
「先輩、あの時って……?」
「何よ、良い所なんだから邪魔しないでよって……あぁ、そうね今の飼い主はカルミーだものね。所有物に手を出すには説明も必要か。ま、喋っても文句は言われないわね。馬鹿な駄エルフがまたぞろこんな阿呆な状態になってるのが悪いのだもの。この子が売られて来た時のことよ」
「エリザが……」
とりあえず、と刀をエリザの首から放し、寝てろとばかりにエリザをベッドにどすんと勢いつけて横たえて、ついで先輩がベッドに座る。お前も座れと先輩が私にもう一つのベッドを指さす。
「偉く良い部屋に住んでるなぁカルミー。二人部屋を一人で使ってるようなものじゃないの。ははーん、抱きまくら代わりにエリザベートを使ってるとか?流石、色物好きの淫乱娘ね」
「いえ、そんな事はどうでも良いので……」
「はんっ、酷い後輩だわ。……簡単な話よ。エリザが呪い付きってのは知っているわよね」
「はい。詳しくは知りませんけれど」
しれっと告げる。もっとも、ふぅん?とこれ見よがしな視線を向けてくる先輩の事だ。見透かされているだろう。ただ、先輩でもその効果については知らないようだった。だから、筋肉馬鹿なんて呼び方をしているのだろうけれども。……そんな風に考察している私を再度、見つめ、嘆息し、先輩が語り始めた。
「エルフの村では呪いに侵されると隔離されるらしいの。それが伝染するって話だけど眉つばだし、迷信でしかないわ。呪い自体はドラゴンのあれもあるから分かるにしてもそれが空気感染するなんて事あると思う?無いわよ。あるんだったら単なる病気よそれ。けど、森にいるエルフ共は信心深いからそんな事も考える。宗教ってのは怖いもんだけれど……いえ、それは良いわ。エリザは御蔭でエルフ皆に恐れられたというわけよ。友達にも兄妹にも親戚、知人にも無視され、挙句に両親にもこんな呪いが付いた子はいらないわ!ってディアナに売られたわけよ。呪いで死ぬと言われ、加えて仲の良かった皆にそんな扱いをされたっていう事で、こんな世界生きていたくないーって今みたいに閉じこもったのよ。この駄エルフは」
その時に脅して目を覚まさせたのが私、と悪びれて言っていたがきっと違うのだろう。そんな事で壊れた心が元に戻るのならばそんな簡単な事はないのだから。
「まったくこの筋肉馬鹿は……力があったところで心の弱さは強くならないってのに脳みそまで筋肉で出来てるじゃないでしょうね、本当に。ま、もっとも……」
苦笑し、エリザの服を……胸元を、天使の痣があった所を曝け出し、私に向かう。流石に目敏い。
「これが消えているってことは……カルミー。推論があるのだけれど、聞いてくれるわよねぇ?」
けたけたと笑みを浮かべながら先輩が私を見る。それは私の罪を暴くような推察だろう。けれども、頷く。
「呪いが解けたから死にそうになったのか、死にそうになったから呪いが解けたのかは分からない。今までエリザベートが受けていた不幸の源が死の直前になって無くなった。それは大層心を削る事でしょう。呪いで死ぬ必要がなくなったのに死の危機に瀕している。また昔みたいに皆が優しくしてくれるようになるなんて想像も湧いたんじゃないの?」
だろうと思う。エリザの過去に関しては知らないが、閉鎖社会で、産まれて来てずっと優しくしてくれていた人達が失われたそんな呪いが、私なんかが思うよりももっとずっと重い呪いが消えたのだ。それで想像する事なんて数多だろう。呪いによる死を受け入れるまでの葛藤も、奴隷に落ちてからの日々も、全てそれが原因なのだから。それがなかったとしたら、そんな人生を想像もしただろう。あの短い時間でどれだけの想像が出来たかは知らないけれど、でも弄ばれたかのように死に至る直前に痣を消されたのだ。彼女という人格を全く無視して、ただの玩具のように彼女は扱われているといっても過言ではない。呪いが人格を持っていたらまさに……悪魔の如き存在に違いない。
「死に至りそうだったエリザベートにそれを教えたのは貴女なわけね、カルミー」
「そうです。だからこそ……」
「いいえ、別に責めるつもりはないから、つまんない事言わないで頂戴ね?どうせ私はいつか死ぬんだからとかそんな誰にとっても当たり前のことを、格好付けて言って悲劇ぶってる駄エルフの事なんて気にする必要ないのよ。だからこれはただの確認よ。
私は寧ろ、天使の痣とエリザベートが言っていたそれの事の方が何倍も気になるの。何故消えたの?その瞬間の事、詳しく教えなさい。ついでに……エリザベートが隠していた事も教えなさいね?カルミー、知っているんでしょ?ディアナの阿呆は出し抜けたかもしれないけれど、先輩に嘘はいけないわ。この馬鹿を起こすのにはこの私も協力してあげないこともないから、嘘偽りなく喋りなさい?」
しゃらん、と先輩の腰元から一瞬にして抜かれた刀が首筋に当てられる。それはもう否とは言えなかった。もっとも、そうでなくても……否というつもりもなかった。
そう、私だって……やっぱり怒っているのだ。
勝手に諦めて死のうとしたエリザに対して、怒っていたのだ。きっと……だから、もちろんですともと笑顔で先輩に言って、その挙句きもい、と言われたのは仕方の無い事なのだ。うん。
しかし、この先輩、本音を隠すのが下手にも程がある。
「何、その緩んだ顔。きもいわよ」
「いえ……先輩は優しいなと思いましてねぇ」
「……何いってんのこの油虫は。切り刻むわよ?」