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自殺大陸  作者: ししゃもふれでりっく
第一章~パンがなければドラゴンを食べればいいじゃない~
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第2話 這いよる物影

2。


 ディアナ=ドラグノイア=リヒテンシュタイン。

 それが私を買った女領主様の正確な名前。名前に家や字があるという事はそれだけで地位の高さを示している。私のような村娘とは大きな違いだった。最も、名前があるという事はそれだけで幸せな事でもある。奴隷の子として産まれた子の中には名を付けられない事もあるという。記号で識別され、記号のままに売られ、玩具となる。そんな奴隷人生に比べれば私は名前があるだけ幸せだ。最も、自己というものを認識しない奴隷と認識した奴隷のどちらが精神的に参りやすいかといえば後者に違いない。

 言葉を知っているから余計な事を考える。

 三方、上下を石に埋められたそこは陽光が入る隙間も無い暗い部屋だった。まるで食糧の備蓄倉庫と言われてもおかしくはない。だが、正面にある鉄格子を思えばここはやはり牢屋と呼ぶべきだろう。見える範囲では穴などあいていないが、湿気の対策だけはしてあるようで僅か肌寒さすら覚える程に空気の流れは強い。鉄格子の向う、蝋燭の光もその流れにゆらゆらと揺れていた。それだけがこの場の明かり。音はなく、私以外の人間が、あるいは生物がこの場にいない事を証明していた。


「……凍死させて食糧?」


 阿呆な発想が湧いて出る。それも言葉を知っているからこそ。時折村に訪れていた教会の人に色々教えてもらっていたからであろう。余計な事ばかり考えてしまう。名前もなく言葉も知らぬ奴隷であれば何を思う事なく獣のようであれたのだろうか?


「投資に見合う効果は期待されていると思うけど……」


 この闇の中では独り言でも喋っていないと気が気でなくなる。思考を吐露しながら身を縮め、体を温める。流石にこのままではなかろう。一般的な奴隷の認識など特定の誰かに売られ性欲のはけ口となるか、或いは労働力として死ぬまでこき使われるかである。こんな食糧倉庫に捨て置くなど、無駄以外の何物でもない。領主様が行っていると噂される下々には分からぬ事だとは到底思えない。

 しかし、考えても結論は出ず、ただただ脳裏には疑問符が浮かぶ。

 私は、私の言葉に反応の無くなった伊達男を無視して、頭陀袋と幾らかの食糧を持って着の身着のまま旅に出て、領主館に訪れ辿りついたのが今日。元より私に与えられた猶予は両親が亡くなるまでだった。正直な事を言えば思いの外長かったと思う。それだけ両親たちが苦しんだかと思えば心苦しさはあるが、それでも言葉を聞けた事は嬉しい事だった。

 思い返せば自然と笑みが浮かぶ。

 浮かんだ笑みをそのままに館に訪れたつい先ほどの事を思い返す。

 二度目に見た圧倒される程大きな領主館の入り口、といっても馬車が通れるぐらいの大きなものであるが、に備え付けられた呼び鈴を鳴らし、扉越しに声を掛けた私を出迎えたのは一人の若い給仕用の服姿の女性だった。


『カルミナ様ですね。どうぞ、こちらへ』


 私を一瞥すると挨拶もそこそこについてくるようにと指示を出され、彼女は庭に向けて足を進める。扱いが悪いとは思うまい。もはやこの身はこの家の奴隷。給仕よりも更に身分の低い、序列外の存在なのだから当然の扱いだった。案内してくれるだけましだった。

 丁寧に整えられた芝生と芝生の間に出来た土の道を音も立てずに歩む彼女の動きは酷く洗練されていた。きびきびというのが妥当な表現なのだろうか。一見して私よりも二周り程高い背も芯が通ったかのようで、一切ぶれがない。唯一ぶれがあったのは頭頂部で結ばれた髪。動物の尻尾のように見えるそれだけは動きを止める事がなかった。

 そんな動きを見ていれば自然と私の背もしっかりと伸び、頭頂部から背筋に掛けてぶれなく動こうと体が反応する。荷物を体の前に持って行き、真似をするように音を立てないように歩みを進める。だが、草臥れた靴では音が鳴らないわけもなかった。

 中々巧いようにいかない、とそんな事を考えていた私の視界に入るのは割れた道だった。一度気付けばそれは無限の如く。あちらにも、こちらにも。これも地震の被害。神の嘆きは地を割るのだ。そして、同時にこんなに大きな御屋敷でもそれを直すまでには至らなかったという事か。それはきっと庭の奥、片隅に聳える建物もそうなのだろう。

 遠目から見れば僅かに屋根が傾き、さらに歪に歪んでいるのが見える。外壁も剥がれ落ちたのであろう芝生の上にそれらしきものが見えた。


『あれが目的地かな』


 つい呟いた私の言葉に彼女が反応する事もなく、そのままその建物へと向かい、辿りつく。近場で見た建物の損傷はやはり酷かった。その中で石作りの扉とそれを閉じるための鋼鉄製の鍵穴だけは傷一つない。まるでそこだけ魔法でも掛かっているかのようだった。だが、この世界に魔法なんて存在しない。故に、それはただの偶然だ。

 ちなみに貞操帯に魔法なぞ掛かっていない。鍵を持った人以外が無理やり開けようとすれば中身がずたずたになる仕掛けは入っているが。とはいえ、魔法のような物を使える種族は存在するらしい。エルフと呼ばれる深い森に住まう住民達は血液が燃えるそうであり、それを巧くすれば魔法のように炎をあやつる事ができるという。最も、血液ゆえに命がけらしいが。

 閑話休題。

 彼女の先導に従い、中に入る。入った瞬間咽るような匂いが鼻腔を擽る。自然、手が鼻を覆い、暫くそうしながら周囲を確認する。

 扉から差し込んだ光が照らす範囲では奥は見えず、恐らく長いのであろうというのが分かる。それに比較すれば幅はそこまではない。 天井は高く、外から見た建物の高さの半分以上はあると思われる。ゆえに、建物の上と天井の合間には何か空間があるといえるが、ここから確認できる範囲に階段などはない。明かりはなく、今入って来た扉を閉じれば四方を石に囲まれた広い空間が出来上がりである。

 扉の裏側に事前に立てかけておいたのであろう松明を手に取り、かちり、と音が成れば火が灯る。一瞬、彼女はエルフなのかと疑問したが、火打ちの音が聞こえた以上全く見当違いだった。そもそもエルフは森林以外で見かける事は殆どないのだから……いや、私自身彼らを見たことはないが。


『どうぞこちらへ。私から離れますと危険……いえここでは勿体ないと言った方が良いのでしょうか……ともあれ、私から離れますと命の保証は致しかねますのでご注意ください』


 私に向き直り、目を向け、唇を開く、その小さな一つ一つの動作までが洗練されていた。洗練された動きに含まれる声は、私の味覚と聴覚を混乱させ、どこか甘ささえ感じる程に綺麗だった。

瞬間、彼女に、意識を飲み込まれそうになった私は視線を逸らす。


『あら……』


 零れる言葉は感嘆だったのだろうか。


『それではお離れになりませぬよう、ご注意ください』


 振り向き、彼女は先へと進む。それに遅れまいと私も後を続く。

 今のは何だったのだろうか、そんな事を考えている内に鉄格子を通過し、今座っているこの場へと。

 松明に照らされた四方の壁には所々血の跡。いいや、ここに至るまでの通路にも同じく血がこびりついた後が残っていた。それは地面に側面に天井に。人か動物かその他か。詳細は分からないがしかし少なくともこの場で多くの命が奪われているのは間違いない。先ほどからの匂いは幾度となく撒かれた血液の乾いた匂いなのだろう。それを意識すれば胃酸がこみ上げてくる。それを抑え、取り繕いながら次の指示を待つ。


『では、ディアナ様が御戻りになられるまでこちらでお待ちください』


 それでは、と鉄格子の向こう側へとするりと抜けて鍵を掛け、立ち去りそうになる彼女に問いかける。


『失礼を承知で!貴方様の御名前をお教え願えませんでしょうか?』


 無用な事を聞く必要はない。この場が何なのかなど聞いても返ってくるとも思えない。領主様の名前を出された以上、唯々諾々、奴隷としてこの場で待てばよい。そこに奴隷の意思など介在する必要がない。故に、それは純粋な興味であった。


『この身は領主様の奴隷でございます。お付きの方に、ご案内頂いた方に、御無礼を働くわけにはいきません』


『あら……そう、なるほど』


 その発言が彼女の琴線に触れたのだろか。振り返り、納得気の顔を見せ、彼女は笑みを浮かべる。それもまた洗練された笑顔だった。端整な顔立ちに浮かぶ笑顔は綺麗だが、しかしどこか作りもののようにみえ、環境もあってか不気味さを覚える。


『マグダレナと申します。もっとも、皆にはメイドマスターと呼ばせておりますので、以後呼びかける時はそのように願います……あぁ御安心を。奴隷の方にもそう呼ばせております。ですから、警戒してそのよう表情をされなくても宜しいですわよ』


『……承知いたしました。マスター』


『ノン。略さずにメイドマスター。以後、間違いなきように』


『失礼致しました。メイドマスター』


 それで良し、と再び作った笑みを浮かべて彼女は……メイドマスターは鉄格子の向こうに周り、鉄格子を施錠する。松明を壁に掛け、そのまま音を立てずに立ち去った。

 そして、暫くの後が現在である。時を刻む機能は持ち合わせておらず、空腹状況から察するにそろそろ日が沈む頃合いだろう。昼ごろに辿りついた事を思えば結構な時間この場に留まっている。それは凍死させてなどという阿呆な発想も出てくるといったものだ。最も、壁にこびり付く血液の跡を思えば凍死などという優しい殺し方はしてくれそうもない。


「匂い……慣れてしまったな……」


 同じ場所にいるのだから致し方ない。人間というのは慣れる生物なのだから仕方ない。松明の焼ける匂いももう殆ど認識できないぐらいだった。指先で鼻をつまみ、鼻を鳴らす。やはり、慣れてしまった匂いはもう感じられない。

 慣れてしまったのは鼻だけではなく、目もそうだった。

 松明の光だけで照らされた空間。視界はせまいが、その光量に慣れたのだろう。最初にこの場に入った時よりは良く見える。しかし、これも今しばらく。寧ろ松明が今の今まで良く持ったものだと思う。ゆえに、そろそろ……消える事を覚悟する必要がある。消えるまでに領主様が来られるだろうか?いいや、こうなればもはやこないと考えた方が真っ当な思考だろう。

 考える。

 思考は人間に与えられた唯一の武器である。余計な事も考えるけれども、今の私にとってはそれ以外何もできない。見る必要もなく華奢な体躯。農作業を出来る程度には筋肉はついているが骨格が既に細いため成長は見込めない。だからこそ、私に出来る事といえば頭を使う事だけだ。そのために教会の方に教えを請うていたのだから。

 この場で何が望まれているのか。

 密閉された建物で閉じ込められた奴隷が一人。奴隷一人の価格は領主様にとって大したことはなかろう。それに対する利益が得られるならば投資を行うのは領主として当然。確かに、奴隷というのは人道なるものには反しているとして昨今減ってきているらしいが、その事は今、関係ない。領主様は投資した。私はそれに見合う、それ以上に領主様に利益を与えなければならない。ただ、この発想は私が利益を与えられる事が前提ともいえる。領主様から見れば二束三文の商品。その全てが等しく利益を与えるのか?と考えればそんな事あるわけがない。何を目的としているかは見えないが、私一人だけが優遇されているはずはない。身よりもなく後ろだても失った村娘に何の価値があるのか。ゆえに……


「これは……ふるい分け?」


 今後養うに値するか、である。奴隷を養うという事はそれだけ金を使わなければならないのだ。微々たるものだとは思う。しかし、慈善でそんな事をやっているようでは領主など勤まらない。心優しい皆の幸せを願って私財を投げ打ち、奴隷までも救ってみせる領主様などという存在は物語の中にだけいれば良い。現実は夢物語ではない。最も、夢物語でも奴隷を救うというのは些かどうかと思う。購入するという事は奴隷商への活動資金を与えるという事なのだから、間接的に奴隷を作成しているようなものだ。閑話休題。ともあれ、故に、私を養うに値するか?という見極めがこの場で行われるのではないだろうか。

 そう考えると周囲のおびただしい血の跡もうなずける。脱落した者の末路だろう。


「そうすると……あれが消える頃が頃合いか」


 こんなふるい分けに何の意義があるのかはまだ分かりかねるが、しかし、もはや奴隷の身である。この状況に従うしかない。可能ならば生き延びるという方向性で従うしかない。

 それと意識し始めれば、松明の炎が先ほどより幾分小さくなっているように思えてくる。意識的な問題だ。意思の問題だ。恐怖が認識を阻害しているのだ。まだ大丈夫。まだしばらくは大丈夫。

 自分自身に言い聞かせながら、しかし慌てる様に頭陀袋を開く。

 倒壊した実家の中を掻き分けて使えそうな物だけを頭陀袋の中に入れてきていた。水の入った水筒、麻で作った紐、取っ手が少し錆びたナイフ、火打ち石、松脂、干し肉が少し。後はぼろぼろの服ぐらいか。

 頼りになりそうなものはナイフぐらいだろうか。といっても手に収まる程度の調理用のもの。背の低い私がそんなナイフを持った所で野兎一匹狩れるわけもなし。獣に襲われた時は逃げるつもりだったので武器と呼ばれるようなものはない。だが、今はそれでも十分。

 ケースに入れ、腰元に添える。とっさに抜けるように何度か位置を調節する。そして、少量の水を口に含む。ついで干し肉を食べようとして思いとどまる。今、食べるのはまずい。奴隷が飼い主より先になどといった殊勝な事はではなく、単純に眠気を誘発しそうだったがためだ。頭陀袋の中に戻しながら、ついで、頭陀袋を鉄格子から少し離れた所へ置き、その上に上着を掛ける。


「タイミングは火が消えたと同時と仮定すれば、人間が相手じゃない。意味はないかもしれないけれど……」


 不安に考えが自然と口に出る。

 匂いを紛らわせるものがあれば良いが、今は慣れてしまったとはいえ元々血の匂いが強い場所だ。あまり意味はない。そう思いたい。

 そして紐に松脂を塗り始める。あまり長い紐ではなかったが、鉄格子の手前に横たえるように置いてもまだ少し余裕はあった。むしろ松脂の方が足りなさそうだった。それを何とか均等に塗り分けながら、塗り終わったら鉄格子の前に置き、いつでも火をつけられるように待機する。

 今火をつけてもきっと意味がない。火が消える事が重要なのだ。これ見よがしに置いて行かれた松明がその証左であると、そう思いたい。

 火が消えるのが合図なのだと思う。このような場で火が消えそうになれば人間はどうしても手持ちの火種などを利用して明かりを作ろうと思うだろう。であれば、手持ちに火種がないと思わせておいた方が良い。火は武器になる。頼りない小さなナイフよりも今この時には心強い味方だ。

 視界がなくとも動けるものによる奇襲。それが私の予想。ゆえに、火の光には弱いのではないかと考えたわけだ。賭けるのは自分の命。得られるものは一瞬の猶予。試す価値はある。


「さて……後は、待つだけかな」


 いつでも火をつけられるように火打ち石を手に呟く。

 息を整えながら自分の考えを再度検討する。単にこの場が奴隷を住まわせる場で、血の跡はそれ以前に使っていた家畜の屠殺場であり今のこの場には全く関係のない事なのかもしれない。

 余計な事ばかりを考えてしまう。自分への自信などあるわけがない。

 私は弱いのだ。

 華奢な体躯だけでなくその精神もまた。弱いから知りたがる。恐怖とは未知から発生するものであり、知らないと言う事はただただ恐ろしいだけなのだ。あぁ、やはり、言葉を知っているから余計な事を考える。

 不安だった。酸化し黒くなりもはや何かも分からぬ血の跡が怖くないわけがない。未だ残る匂いはそれがつい最近も行われた事の証左だ。こんなものが怖くないわけがない。思考という鎧を纏った所で弱さがなくなるわけではないのだから。


「ん………ふぅ……」


 呼吸を整える。胸に手を宛て、落ちつけと自身に言い聞かせる。反省は死んでからすれば良い。今この時は訪れる瞬間に備えるのだ。間違っていたら何だというのだ。紐が松脂まみれになって使えなくなるだけだ。考え違いならそれに越したことはない。だから、間違える事を恐れずに今は耐えろ。

 じわりと額を伝う汗が目に入ってくる。

 それを袖で拭う。

 視線を松明から外すわけにはいかない。

 次第、次第と小さくなっていく松明。燃料は切れ、後はただ火が消えていく。

 火が成す光の輪が小さくなっていき、私の視界から建物が消えていく。血の跡も視界から消え、消えゆく瞬間、光に反射する鉄格子に、気付く。


「そうかっ!」


 紐を片手に鉄格子から離れ、鉄格子に対して反端の壁に向かい、身を低くする。

 鉄格子。光を反射する鉄の格子。汚れのない格子。汚れなどどこにも見られず火の光をこれ見よがしに反射させていた。

 つまり……反射的に耳を塞ぐ。

 瞬間、轟音が耳に届いた。

 金切り音。金属と金属の触れあう気色の悪い音が部屋を埋め尽くす。歯を食いしばりながら、両の手を耳に押し付ける。

 鉄格子が天井側に片付けられていく音、だろう。血の跡が一切ついていない鉄格子。それはつまり血が飛び出す瞬間、鉄格子はそこになかったのだ。


「ぅぅっ……」


 吐き気を催す程の音が鳴りやみ、全身に走った怖気に耐えながら、火打ち石を使って火を付けようとする。

 あぁ、早く。早く。

 焦りが手を滑らせ、火打ち石を取り落とす。

 こんなときにっ!という自分への叱責を優先してしまったのが間違いだった。ついで聞こえた獣の声に身が竦んだ。


『ギャァァァァ』


 人が痛みに叫んでいるかのような断末魔の声のような雄叫び。聞いた事もない声だった。地震で死んでしまった人達でさえそんな叫びは挙げていない。地獄から響く悪魔の声であると言われても信じてしまいそうだった。


「早くっ、早くっ」


 思考が口を出る。瞬間、しまったと思ったのも束の間、声を聞き付けたであろう雄叫びの主は声を潜める。そして、空気の流れが極端に変わった。

 動き出したのだ。

 こちらに向かって。獲物に向かって。

 幸いにして足は遅いようだった。だが、ずり、ずり、ぴちゃと音を立てて進む音は恐怖以外の何物でもない。

 怯えながらも火打ち石を手に取り、松脂を塗った紐へと打ち鳴らす。一度、二度、三度……その間にもぴちゃり、ぴちゃりという水音を鳴らしながらそれは近づいてくる。

 何故、つかないのだ。万全の準備はしただろう。鉄格子がなくなる事は予想だにしていなかったが、それでも緊急回避は行えたのだ。後は火を付けるだけなのに。


「ついてよ……ついてよっ」


 火打ち石を鳴らし、火花が飛び、それが紐へと落下しない。そういう事だ。そういう事なら火花が紐へと至るようにと急いで紐の一部を丸めてそこに……。


「きゃぁぁぁぁ」


 足に何かが触った。足を何かに掴まれた。冷たく柔らかいぬめり気を帯びた何かだ。今までに感じた事もない感触だった。ぬるりと巻き付いたそれは徐々に足元から太ももへと。


「い、いや……」


 暴れ、逃れようとするものの力のない私ではどうしようもなかった。ただ成されるがまま。このまま全身を取り囲まれ、潰されるのだろうか?いや、そんな、そんな死に様など嫌だ。

 腰元に用意したナイフを手に取り、足に刺さる事も厭わず、そのぬめる何かへと振り下ろす。


『ギャアアアア』


 瞬間、雄叫びがあがる。痛みを与えられた事に怒りを感じたのだろうか。ぴちゃ、ぴちゃという音が先より僅か早くなる。つまり、体とこの何かは繋がっており結構な距離があるのだろう。触覚のようなものだろうか。であれば、光など確かに関係は無い。全方位にこの触覚を送れば良いのだから。これでは頭陀袋は役に立ちそうもない。

 未だ離れぬ触覚に再度ナイフを突き立てながら、思考する。

今はナイフで相手を痛めつけるタイミングではない。いつこの触覚を通して自分を引き寄せるか分かったものではない。ナイフをケースへ戻し火打ち石を打ち付ける。ぱちっ、となる火花がようやく、縄の上に落ち、火が一瞬の内に縄全体へと行きわたり、さながら火の壁が出来上がる。


「ふぅ……ふぅ」


 一瞬で開ける視界に映った巨大な……


「い……いやぁぁぁぁぁぁぁ」


 丸くて赤くてぶよぶよしていてそれでいて足がいくつも生えている軟体が火の壁のすぐ向こう側にいた。気持ち悪い形状だった。大きさは私と同程度であり、こんなものに襲われたらひとたまりもない。

が、その赤い何かは炎の壁に阻まれたかのように動きを止めていた。縄の上に載せられた足は火に焼け、しぼんでいる。御蔭様で私は思うがままに叫べた。ありがたくもなんともないが。思うがままに赤い何かの気持ち悪さに辟易しながら、掴まれていた部分も縄に近付ければ、しぼんでいき掴まれていた感触がなくなる。その間、赤い何かは一切動く事はなかった。私の膝にも満たぬ火の壁、これを超える事ができないのだろうか?足を火の上からこちらにやればそれで事足りそうなものであるが、しかし、それを行わない。

 それは、つまりこの何かにとってこの膝下しかない炎の壁が非常に大きな壁に見えてショックで止まったのか、はたまた暗闇の中で使える目が光でつぶれてしまったかだろうか。

 だが、そんな事は後で考えれば良い。今は、動きを止めている事を幸いにして、その赤い何かを囲むように紐をつい、ついとずらしていく。

 炎の壁による囲み。

 赤い何かはそれに抵抗する事なく炎によって縮んでいく。縮めば囲いを狭め、縮めば囲いを狭め、を繰り返していれば最終的にその体が膝丈程度になり、その体にちりちりと焦げ目が出来てくる。

 その匂いがどうにも美味しそうに思えてならなかった。

 ぐきゅるるると腹が鳴る。

 先ほど干し肉を食べなかった所為かなおさらである。空腹に辛い。あぁ、これは空腹が悪いのだ。私が悪いわけではない。あのような気色悪い見た目ではあるが、しかして美味な物はえてして気持ち悪い形状であると言うではないか。美味なものが綺麗な格好をしていれば標的まっしぐらである。ゆえに、気味の悪い形状のこの何かは美味しいに違いない。えぇ、間違いない。間違いがあってなるものか。そう、私の予想は概ねあたっていたのだからこの予想も間違いではない。えぇ、これでお腹を壊しても私は本望だ。思考の末なのだからそれは自分の責任なのだ。


「……ごくり」


 赤い何かが今ようやく意識を取り戻しでもしたのか、うごめいていた。火に焼けながら、それから逃れるように蠢き、蠢き、足をのばし…焼かれている。その火踊りに笑みを零し、焼けた足へと手を伸ばす。こんがり焼けたそれはやはり酷く良い匂いで、食欲をそそり、そのつまんだそれを私は口の中へと……。


『きゃぴぃぃ』

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