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自殺大陸  作者: ししゃもふれでりっく
第一章~パンがなければドラゴンを食べればいいじゃない~
15/87

第15話 弱く儚い貴女へ

15。


 腐臭。

 認識した瞬間、鼻を摘む。

 だが、一度鼻についたその匂いがなくなりはしなかった。生モノを箱詰めで腐らせたかのような匂いが消える事なく鼻腔をくすぐり続ける。耐えがたい仕打ちだと訴える事もできず、目を閉じ、腕で顔を覆いその場に伏せる。

 何なのだ。

 想像はつかない。風上に何か腐ったものが置かれたのかという状況を分析できる程度だ。ただ、何か普通じゃない匂いだ。家畜の糞尿をまとめたものでさえこれ程ではない。いや、そうか。あれはここより広い場所だったからまだましだったのかもしれない。私一人ぐらいは手を広げて歩くことはできるといっても、結局その程度だ。厩舎も狭くすればこれぐらいの匂いになったのかもしれない。

 あぁいいや、そんな事を考えている場合ではない。

 膝を伸ばし、変わらず顔を隠しながら、下を向き、足元を見ながら前を進む。

 不安はある。

だが、こちらに行くしかないのだ。

 とつ、とつと腐敗臭の中を歩く。つい先ほどよりも更に遅く。唯一の救いは、少し明るさが増した事だろうか。もしかすると目が慣れただけで、心が作り出した気のせいかもしれないが。

 そうして、歩き、歩いていれば今度は水の音が向かう先から。

 ぴちゃ、ぴちゃと水滴が地面に落ちる音。水場であればありがたい。だが、この腐敗臭に晒された水は大丈夫なのだろうか?それが心配だ。耳を頼りに、足元を見ながら進む。次第、覆っていても鼻腔を擽ってくる匂いに眉が歪む。これは、もはや目も開けていられなくなるのではないか?そんな事を考えながら歩く。

 変わらずここには何もいない。虫の影一つ、生息していた影一つ、ここにはない。ここには生命が何もない。生命が何もない所に漂う腐敗臭とは何か?答えを知りたくもあり、知りたくなくもある。

 一人だと余計な事を考えるから、嫌だ。

 考える事が人間に与えられた力だとて、嫌な事を考え続けていれば心が萎えてくる。一人の時は特にそうだ。人間はきっと本質的に一人で生きるようには出来ていないんだ、そんな事を思う。

 馬鹿馬鹿しい。こんな時に考える事じゃあない。


「ふぅ……」


 吐息を一つ。

 絶叫が鳴り響いた。

 瞬間、心臓が、脳がびくりと跳ね上がる。どくどくと血流の流れが聞こえてくるかの如く。あまりにも突然、意識の外から入って来た音。しかもその音が人間の絶叫であれば……驚きは隠せない。がなり立てる心臓。流れる血液。思考は定まらない。そして、焦りから汗がにじみ出てくる。

 まて、まて。今の声は何だ。

 何だ。絶叫とは人間が叫んだ時の声をいうのだ。叫ぶときはどんな時だ。楽しい時?それもある。苦しい時?それもあるかもしれない。怖い時……それはきっと声が出ない。だったら、痛い時……。

 聞き間違いだ。きっと。きっと聞き間違いなのだ。一人で怯え、心が弱まり、寂しくなって他人の声を妄想したのだ。そういう人も世の中にはいると聞いた。そんな感じなのだ。私はきっとこんな身も知らぬ初めての場所で一人になって、そんな病に掛かったのだ。あぁ、そうだ。そうであったら……どれほど良かっただろう。

 しゃらん、と金属の擦れ合う美しい音を聞いた。


「エリザっ!」


 走った。

 たとえ、出会って一週間であろうとも、たとえ、彼女がとてもとても強いエルフであろうと、彼女が歴戦の戦士であったとしても……それでも一人の女の子には違いないのだ。か弱い女の子なのだ。一人が寂しくてついつい新人の子を気に掛けたりするそんな優しい優しい子なのだ。私よりも年上だけれど、そんな彼女が……苦しんでいる姿など見たくない。


「違うっ」


 きっと違う。エリザの声はあんな野太い声じゃない。だから、あの声は別の誰かの声だ。そう、しっかりと聞いた。記憶にもある。記憶から再生もできる。あれはエリザの声ではない。聞いた覚えのある……きっと、そう馬車の中で下種な視線を向けていた男の声だった。

 他の人達は?

 走る。

 コケながら、躓きながら、走り続ける。あぁ、匂いなどもうどうでも良い。そんなに匂いを嗅がせたいならばいくらでもかいでやる。前を向き手を振りながら、そんな風に血気盛んに走ってはいるが、けれど体は律義に反応し、胃酸は込み上がり、口腔へと液体がのし上がってくる。


「けほっぁ」


 たまらずその場に立ち止まり、吐き出し、袖で拭って即座に走る。その一秒が勿体ない。

 ついで、響いたのは再びの絶叫。今度は、女の声だった。


『ゃ……じょ、冗談じゃないわよっ……やっ……やだぁ……』


 声が近い。鮮明に聞こえる声。呆然から絶叫へ、絶叫から絶望へ。この声も聞きおぼえがあった。馬車を降りた時に声を掛けてきた女団員だ。間違いは無い。

 兵士が一人、また一人と絶望の彼方へと落ちていく。声だけで行われる劇のような、そんな非現実感を覚えながら私は…走る。もうきっとすぐだ。足場は少し急な傾斜となり、周りもかなり明るくなってきている。

 視界に光が、空が映る。


「外っ!」


 一声、周囲が開けた。

 そして。


「ぁ……」


 現実が喪失した。


「カルミナっ!良かった……じゃない、早くこっちへ!」


 少し離れた所、木の陰からエリザの声がする。が、しかしそれに体は動かない。動くわけもない。こんなものを見て即座に動けるなど人間じゃない。きっとエルフでもない。それはきっと、人間以外の何かでないと無理な話だった。

 プチドラゴンとかそういうものじゃないのだ。あんなのはきっと子供騙しで、所詮人間に狩れる程度のトカゲが大きくなっただけの存在なのだ。そうそんな生易しいものじゃない。絶対に違う。

 それは空を覆い尽していた。

 飛んでいるわけではない。

 ただ、そこにあるだけだった。

 周囲にはそのまま落下したのであろう木々が並んでいた。それで半分。


「なんなの……こんなのかなうわけないじゃない」


 人に、エルフに、その他に、例えプチドラゴンであっても……足で潰されて終わりだ。それ程までに大きさが違う。エリザの剣とて指先一つにもならないぐらいだった。巨大で、巨大で……あぁ、一つだけプチドラゴンと同じ所があった。

 醜悪だった。

 それ以上だった。それが生物とは思えないぐらいに。


「カルミナっ!」


 再度の声に反応し、かろうじて体は動いた。恐怖に怯え失神する事すらできはしない。あまりにも強い腐敗臭に意識を持っていかれても、その強い腐敗臭で強制的に意識を取り戻させられる。その繰り返し。あまりにもその感覚が短すぎてきっと人は意識が連続していると思うほどに。

 あまりにも腐敗臭が強い。

 なぜならば、その生物が腐敗していたからだ。

 言葉通り。その通り。腐っていた。木々の二倍はあろうかと思われる巨体の所々が腐敗していた。腐り、蛆が湧き、その蛆を食べようとした生物達がその体を這っている。それらの蠢きが想像を絶する程気持ち悪い。あぁそうだろう。この場には虫もいないだろう。こんな巨大な餌場があればそこから離れる事はないだろう。あぁ、納得した。納得したが、そんな事に意味はない。

 自身の腐った部分を永遠に喰われながらもその…ドラゴンは動いていた。人を食べていた。口がまた腐っているからか、牙が腐っているからか、目が腐っているからか、感覚器官が腐っているからか、それは分からないが、先ほど絶叫を放ち、絶望した彼女はまだ……命があった。そう称すべきだろう。それもきっと暫く。下半身を無事な牙に挟まれ、上半身を腐った側で噛まれた彼女は生きて暴れていた。腐った側は致命傷には至っていないという事だろうか。腐敗した口に抑えられ、叫びも挙げられないが、しかし……生きていた。

 助からない。どうあがいてもどうみても絶望だった。どれほどの苦しみだろうか……少なくとも今、彼女の表情は苦しみに歪んでいるだろうことだけは分かる。

 小さな獲物一つにどれほど喜びを得たのかは分からないが、ドラゴンは彼女に集中していた。先の男性の絶叫を聞いた後もきっとそんな感じだったに違いない。なれば、その間に逃げれば良いのに。皆もまた、その彼女に集中しているからだろうか。……そんな風に思い、周囲を見渡せば、絶壁だった。

 まさに、円状に大地が落下したのだ。鉛直に昇る事が可能ならば逃げられるだろう。しかし、そうでなければ……ここは自然の要塞だった。


「カルミナ……無事で良かった。一人だけはぐれていたからどうなったのかと思いました」


 本当に心配そうに、けれど私を見て笑顔を浮かべてくれた。良かった。また会えて良かった。私は、私がようやく落ち着くのを感じる。人の存在を感じる事により漸く、私が私を取り戻していく。寂しさが薄らいでいく。


「うん。駄目かと思ったけど……背中を打って血は出たみたいだけど他はきっと大丈夫」


 言いざま、背をエリザに向ける。


「うん。出血は酷く見えるけど思ったより軽傷そうですね。良かった……とりあえず、現状を」


 真剣な表情になり、木の陰でエリザが口を開く。


「地震により地面が陥没、そのまま地下へ落下しました。その後、脱出計画を立てている間にあの腐敗したドラゴン……暫定名称ドラゴンゾンビを確認。以後、その警戒をしながら脱出方法の模索中です」


「たぶん二度、絶叫を聞いたけど」


「ドラゴンゾンビが戯れに木々を食べた際に見つかった団員の方です。逃げる間もなくでした。図体のわりに俊敏です」


「……助ける事はできない、と」


「一人でも良いから首都へと帰ってこの事を伝えるように、と伝令が既にきています。それは私達も、です。例え一人になったとしても首都へ帰り、顛末を」


 つまり、私は既に諦められていたという事だ。それも当然だ。こんな場所で一人はぐれた方が悪い。少し薄情などと思うのはまだ人間の意識があるからだ。


「目途は……立ってないからこの状況だね」


「その通りです。幾度かあの絶壁を登ろうとした団員はおられましたが、失敗に終わっております。幸いにしてその方々に怪我はありませんでしたが……もう、ですかっ!カルミナ、注意を」


「え……」


 言われるがままに背を向け、ドラゴンを見る。口に挟まれていた女団員はいなくなっていた。いいや……ドラゴンの喉元、腐り落ちた肉の隙間から、団員服に包まれた部位が……見えた。


「ぅ……」


 もう吐く物もなくなった胃が、何かを吐きだそうと動く。


「吐かずに飲み込んだ方が正解です。食糧は限られていますから」


 こちらを見るエリザの表情は悲しげに眼を伏せていた。まるで、そんな事をしても結局意味はないとか、居た堪れない、というそんな表情だった。彼女の想いが想像しがたい。この場において、そんな表情というのは……どういう事なのだろう。

 いぶかしげな表情をする私に、軽い笑みを浮かべたエリザが口を開く。


「死ぬ運命にある私は良いのです。ここがその場だと諦められます。いいえ、寧ろその方が楽なのかもしれません。けれど貴女は……あんな無残に殺されるなら……先ほどの、いいえ……ごめんなさい」


 そのまま死んでいた方が良かったかもしれないよね、とそう言われた。そう言われたのだと認識した。怒りは湧かない。女団員の末路を思えば確かにそうだ。私だとてエリザが死ぬならそんな死に方よりも別の方が良かったと思う。死の結果は唯一だ。けれど、死に方というのはあるだろう。私の両親のようなものだったり、先の女団員のようだったり、その他だったり……そんな苦しみながらよりも納得して死んでほしい。あくまで彼女がいうのは覚悟の問題だ。だから、問うたのはそっちではない。


「どういう事?」


「天使に見染められたものはいつか天使に連れ去られる。母に聞いた言葉。きっと神話か何かの本にでも書いてあるのだと思います。……神様が泣くというのと同じたぐいのものだと思います」


「天使に…って教会の言ってる?」


「といわれても、教会に関してそれほど知っているわけではありません。皆が皆図書館に通っているカルミナみたいに知識は持ってないんです。それに私は武闘派ですよ、と」


「……そこは了解したけど、で、見染められたっていうのは?」


「例の痣の事です」


「なるほど。そういう理由で悪魔のって言ってたんだね」


 だからといって、因果関係が正されたわけではなく、かえって意味不明になった。そんな世迷言理解できるか?ただでさえ力が強くなるという時点で意味の分からない事なのに、さらにそれを持っている人が天使に連れ去られるっていうのは……全くさっぱり意味が分からず、つい顰め面になってしまった。ドラゴンを近くにして、何と悠長なという事なかれ。緊張し、警戒し、何もできなくなって怯えて過ごすというのは先があってこそ、だ。現状、私達は早かれ遅かれ死に至るしかないのだから諦めの境地という奴だ……いや、嘘である。そんな事でも考えていないと発狂しそうで仕方がない。それきっとエリザも同じで、話していないと怖くて怖くて仕方がないのだ。プチドラゴンですらあれだけお互い怖がっていたのだから、それの何倍もある化け物の近くで安心していられるわけがない。きっと私が現れるまではもっと怖かったと思う。


「ちなみに先に言っておくと、あの力を使ってもどうにもならず仕舞いでした。剣もあの通り……突き刺さったまま」


「言われてみれば……せっかく新調したのにね」


 はい、と残念そうに頷くエリザの背中には確かに剣がない。新調したばかりの剣、幅広で重くして、プチドラゴンぐらいなら叩いても大丈夫なように!と一応検討した結果がこれだったようだ。ドラゴンの足元辺り、人間……エルフの届く辺りに突き刺さっている。刺さっているだけまだましなのかもしれない。


「私の墓標はなにもなし、になりましたね……」


「もう一本の剣でいいじゃない」


 エリザは二刀だ。もう一つの細身の剣がある。


「予備の剣を墓標にした女、ここに眠るとは……書かれたくないですねぇ」


「あぁ、二刀じゃないんだ……」


「えぇ。あくまで予備です。囮に使ったりもしますけれど、基本的には血とか脂で汚れた時の代用品です」


 体力と技量のある方は選択肢が多いというわけだ。なるほど。

 そんな会話をしている間にもドラゴンは動いていた。

 今まで地下にいたのだろう。しきりに空を眺めては眩しそうに下を向き、けれどやはり気になるのかまた空を見上げてを繰り返していた。その途中に思い出したかのように足下に生えている木々を蹴飛ばしたり、ついばんだり、腐った翼のついた手で凪ぎ払っていた。恐ろしい話だ。森をついばんだり、凪ぎ払う事ができるのだ。きっと、あの堤防もこのドラゴンが凪ぎ払えば壊れるのだろう。それを思うと身震いする。なまじ自分が駆け登った場所だけに。


「そうだ。私が目を覚ました場所……少なくとも私が倒れていた所までは何もいなかったよ。だから、安全とはいえないし、外から遠ざかるけれど」


「少なくとも今暫くだけは隠れていられる可能性はある、と」


 ドラゴンの位置と私が出てきた場所を交互に見ながら思案気に。しばらくドラゴンの動きを観察して、ようやくエリザが頷いた。


「食糧なく、火種もなく、武器もなく、未知の洞穴へ向かう事は死にたがりのすることです。ですが、同じ死にたがりでも、可能性の高い方……ですね」


 そうと決まればさっそく……とはいかない。この場に二人で来ていたのならばそれができた。が、今は騎士団の団員との共同作戦中だ。統率を乱し、生き残った場合には厄介な事になる。死の可能性が高くとも、未来を想像してしまう自分達に苦笑しながら、隊長の所へと向かう。

 隊長は崖となった場所の近くにいた。

 部下を登らせ、自分は高みならぬ下みの見物だった。とはいえ何もしていないわけでもなかった。下から登れそうな場所、安全そうな場所を登っている部下達に教えていた。

そう、教えていた。

 鼻を摘みながら大きな声で。

 背筋が凍る。なんという愚かな行為だろうか。地下に落下し、洞穴の一部となった森は広い。確かに広い。ドラゴンがあと数匹いれば窮屈になるかもしれないが、音が通らない場所ではない。むしろ開けている分音は響きやすい。拡散もしやすいが……しかし……。


「焦りによるものではないと信じたいですね」


 騎士団の隊長格といえば、学園長に近い者であろうに、それでも……駄目なのか。目前に迫る死を前に恐怖に怯え、普段ならば絶対にしないようなミスを犯すというのだろうか。見れば、目が血走っていた。何度も何度もどなり声を挙げたのだろう喉はすでに枯れ、しゃがれ声だった。それでも辿りつけない地上への道。さらに焦りが募ったようだった。加えて彼は隊長だ。この隊の運命に責任がある。戻れなければ死、戻れば懲罰とはいわぬまでも損害に対する糾弾はあるだろう。そんな状況が彼を苦しめ、今の彼を生み出したのではないかと思う。見苦しいとは思わない。


「隊長様……リヒテンシュタインが奴隷、カルミナただ今帰還致しました。状況はエリザベートより聞いております。提案とは申しませんが……先ほどまで私はここよりもさらに地下におりました。そこは狭い通路ではありますが虫の子一匹おらぬ場所でした。しばし時間を稼ぐには……と思い、これは隊長様のご意見を伺おうと、こうして報告にあがらせて頂きました」


 敬語の使い方というのは分からない。が、これで気を悪くすることもないだろう。


「なに!でかしたっ!きゃつがいなくなれば時間はかけられるのだからなっ!よっしお前さっさと降りてこい!」


 少し登っていた男に声を掛け、呼び寄せたと思えば私にその場所を教えさせる。指先でその場の方角を示せば、隊長の命令に従い男がそこに向かう。

 向かい、向かって暫くの間、私達二人はまるで存在しないかのように扱われていた。気にならないとは言わない。が、それで円滑に物事が進むのならば構わない。そうして、しばらくの後に男が戻って来た。少し見せた笑顔は安堵のそれだろうか。


「隊長!奴隷の言う通り、小さな洞がありました!」


「貴様!良くやった!そのような洞を見つけるとは大したものだ!」


 その隊長の物言いに違和感を覚える。エリザを見れば、目を伏せ、首を振る。


「うむ。この大事な場面で良くそのような洞穴を見つけたな。帰還の折には私から団長へ貴様の武勇を伝えておこう」


「はっ!ありがたき幸せ」


 茶番であった。だが、言及しても意味がない。隊長がそういうのだ。権力をもったものが徒党を組み伝えた事が正なのだ。どんなに疑わしかろうと何であろうと。それに反発するのが奴隷では……勝ち目はない。そして、けれど、そんな瑣末ごと……どうでも良いと、そう思う。私にとってそれを見つけたのが誰であっても構いはしない。結果が同じであれば、助かるのであればどちらでも……。


「カルミナ、抑えて」


「大丈夫だよ。何ともないよ」


 うそつき、と小さな綺麗な声と共に手が握られる。


「さて、貴様ら奴隷は後から付いてくるのだ。騎士団が血路を開いてやるのだからありがたくその後をついてくるが良い。なぁに礼はいらん」


 隊長がそう言い、騎士団の連中は隊列をなして、今朝のように一列になって歩いていった。その後を……かなり遅れて、木々の隙間を縫うようにして私達は動きだす。必要な事は伝えた。後は自分達のやりたいようにやらせて貰う。そうでなければ、助からない。

 きっと冷静であれば、そんな隊列を組んで歩くことなどしなかっただろう。ここは森ではあるが、しかし、ドラゴンが見ている場所なのだ。点より線の方が分かりやすいに決まっていよう。

 それは、必然だった。


「ぁ……」


 大きなアギトが木々と一緒に団員を噛み締め……噛み、噛み、噛み、ごくり……と喉を通る姿が見える。形が崩れた表情が、腕が、腹が、足が、指先が、髪が流れていく。飲み物のように赤い赤いそれが腐り中の見えるその肉の奥を染め上げている。

 どれだけ食べれば気が済むのだろう。十人だろうか。百人だろうか?分からない。分からないが……まだ、帰る気はないらしい。


「ちくしょうっ!」


 走り出す隊長と部下。それがまた隊列を組んだままというのが愚直だった。だが、こんな洞穴の中で愚かで、素直な者が生き残れるわけがない。汝、気を抜く事なかれ。


「カルミナっ」


「うん」


 助けられるわけがない。それは既に隊長から命令されている事だ。一人でも生き残り、この惨状を伝えられる者がいれば、それで……良いのだ。


「ちくしょうっ!ちくしょう!ようやく娘が育ってきた所だってのによぉー。気立ての良い美人に育って、これからだって時によぉ……花嫁姿はさぞ綺麗なんだろうなぁ!あそこの息子に見染められて、さぁこれからって時にっ!これからが幸せな時なんだよっ!ちくしょう。ちくしょう!馬鹿でかい図体しやがって!どんだけ喰えば気が済むんだっ……なんで俺が喰われなきゃならねぇ」


 鎧を着込んだまま雪原をそんなに早く走れるわけがなかった。声を張り上げ、部下達へ命令し、さらに自分に掛かる責任の重さ、それらに侵され、さらに次第、次第とドラゴンの翼が近づいてくるのだ。吐露したい事もあろう。

 あぁ、それが彼にとっては愛娘の事だったとは綺麗な言葉だった。娘を愛し、娘が嫁に出る事を心から喜び、義理の息子となる男との仲も祝福し、まさに父親の鑑といえる言葉だった。だが、……これが、私を、いやさ娘を、女を見る目で見ている男の言葉か。


「くそぉ。あの売女の娘を調教して、息子の前で、これが、おまえが孕ませてできた娘だって突っ返して破滅させてやろうと思ってたのによぉ。ただでこんな良い女くれてありがとな、遠慮なく孕ませてやりましたって突っ返してやろうと思ってたのによぉ。くそっ。それもこれもお前のせいで全部おしまいだっ」


 絶叫だった。

 迫るドラゴンを相手に語った所で何の意味があろうか。何の意味もない。きっと彼もそれは分かっているのだろう。笑っていた。泣いていた。どうして自分がと呆然としたような表情で、涙と鼻水に彩られ、畜生、畜生とこの世界に悪態をついていた。なぜこの世界はこんなにも優しくないのだと……きっと元来真面目一辺倒だった人間が、妻の裏切りを知り、世界を呪ったのだ。その末路が今だった。

 くしゃ。

 小さな音が響いた。

たったそれだけ。

 彼の御仕舞はそれだけだった。彼が数十年の生きた証がそれだった。子を成す事もできず、呪うだけの何も生み出さない人生。それが洞穴まで後わずかといった所で終わった。他の隊員も、すでに……いない。十数名からいた隊員はもはやいない。この場に残されたのは私とエリザだけ。


「人間の神様は優しいはずなのだけど……ねぇ」


 誰に言うでもなしに口にする。きっと、ドラゴンはエルフのように神様の領分の外なのだ。優しい神様ならあんな凶悪な生物を残したままにするわけがない。人の神様は試練なのだと言って恐ろしい化け物と戦わせる事なんてしない。だから、きっとあれは神様にもどうしようもない怖い怖い生き物なのだ。だから……神様には頼れない。誰にも頼れない。


「エリザ、駆け抜けて。あなたなら一人で行けるでしょう?」


「で、でも。そうだ。抱えれば二人でも……」


「それだときっと捕まえられる。あのドラゴンが俊敏だと言ったのはエリザだよ」


 図体のわりには俊敏だ、と。


「だからって私だけなんて……そんな」


 泣きだしそうな表情が印象的だった。


「誰かが一人残れば私達の勝ち。例えあのドラゴンだってアルピナ様が昔ドラゴンを倒したように徒党を組めば打倒できると思う。きっと……そうだと思いたい。けれど、今は誰もこんな凶悪なものがいるなんて知らない。だから、伝えて」


 既に覚悟はできている。死ぬ覚悟ではない。死に際に笑う覚悟だ。

奴隷になってからまだ奴隷らしい事もしていないけれど、短くて凄く、凄く内容の濃い体験をしてきたと思う。だから、これで十分。隊長と同じく何も残せない人生かもしれないけれど、後に続くものがいるのならば……良い人生だ。


「それでも助かるかは分からないけれど、私より貴女の方が確率は段違いだから……だから駆け抜けて。囮になるから」


 有無を言わせず、先を行く。

本気で止められれば私とて動けるわけがない。けれど、エリザも分かっているのだ。誰かを犠牲にしてでも、いいや既に騎士団員が犠牲になっているのだ。これを超えて誰かが行かねばならない。例えとてもとても私は弱くても、ただ一瞬だけくらいなら……耐えられる。食べられている間に、喉を通る間に胃へとたどり着くまでの間でも、エリザならきっと洞穴まで駆け抜けられる。

 とつ、とつと武者震いを隠す事なく歩みを進める。

 一歩、一歩。

 重い。

 一歩がとてもとても重くて…苦しい。

 次、次と進む足が意思に反して動かない。それはそうだろう。意思はきっと否定しているのだから。死にたいわけじゃないのだ。死ぬことが嫌で嫌で仕方なくて、でも行かねばならないだけなのだ。だから、拒否したくなるのは当たり前だ。けれど、その当たり前を超えて私はまた一歩進む。

 けれど、こんな産まれたての子鹿のような弱々しい歩みでは一瞬の時すら得られないかもしれない。ならば……走る。雪原の上を軽々しく走る。華麗とは言い難い。運動は苦手だ。きっと、傍から見ればどてどてと足をばたつかせて遊んでいるようにしか見えないだろう。けれど、それで良い。それでドラゴンが、この目の前に聳えるように大きな、城よりも大きなドラゴンがこちらに向いてくれればそれで良い。

 近づけば、腐敗臭がさらに酷く香る。目を開けていられない。口を閉じたくなる。胃液が喉を通過してくる。けれど、今は吐き出さない。この苦しみもあと少しだ。あと少しなのだから耐えてみせろ。


「はんっ……ドラゴンが村娘一人に負けるんだよぅ。ざまぁみろ」


 後に繋げれば……私の勝ちだ。


「あの世とやらで貴方の死を待っているわ。……さ、おいで。世界最弱の囮の……これが最初で最後の晴れ舞台」


 アルピナ様には申し訳ない。けれど、出会ってばかりの奴隷なんて暫くすれば綺麗さっぱり忘れるだろうか。いいや、きっと忘れてくれないに違いない。だって、ほら姫様が御執心のリオンさんと出合わせたのは何だかんだと私なのだから、きっと忘れてくれない。

リオンさんに会いに行かなくなれば別だけれど、それだとそれで姫様は食事ができないのだ。だから必然、私の事を思い出してしまうだろう。まったく。全く……嬉しいことだ。覚えてくれる人がいる事の何と嬉しい事だろうか。これなら、私は笑える。

 そしてもう一人。もう一人もまったく出会ってすぐだから、忘れるかもしれない。いいや、きっと忘れないだろうか。二人で……といってもエリザが主だけれど二人で倒したプチドラゴンの角で作った首飾り。これを無くさない限り、きっとエリザは私を覚えていてくれる。そうであってくれると嬉しい。だから……自然、私は、こんなにも怖いのに、笑っていた。

 あぁ……満足だ、と。

 さようなら、そう伝えようとして振り向いた。


「何してるのっ!」


 突然のエリザの行動に眉が歪み、声が張りあがる。何をしているのだ。そんな無意味なことをして何になる。意味がなかったのは分かっているだろう?剣を取りにドラゴンに向かった所で何になるというのだ。それこそ何の意味もない。


「私より、きっと貴女の方が洞穴には向いているからっ。私みたいな力だけの剣士なんかよりも……ずっと!」


 何の期待だ。一体全体何を私に期待したのだ。この女は。弱い人間の中でさらに弱い私に何を期待してしまったのだ。何を勘違いして一人ではしゃいでいるんだ、この……


「阿呆!」


 まさに目にもとまらぬ速度でドラゴンへと近づき、その足に刺さった自身の剣に手を掛け、それを引き抜く。刹那、ドラゴンが違和感に気付き、私を見ようとしていた顔を足元へと向ける。

 即座に離れ、構え。迫ってきたドラゴンの一撃を……剣で受け流す。流石に受け止めることはできない。けれど、一撃を受け流す事ができるとは!あんな城より大きなものの攻撃を受け流せるなんて一体全体その天使の呪いとやらはどれほどの力を彼女に与えているのだろうか?いいや、それ以前に、そんな事ができるなら尚更彼女が残った方が良いに決まっている。

 いやそもそもそんな事が出来るのならばもっと別の事も考えられただろうにっ。あぁそうだ。また何も言わずに私がはじめてしまったからか。くそっ。自分への叱責は後だ。今は現状を把握し、次の一手を打つことだけを考えろ。思考は人間に与えられた力なのだから。

 が、考える暇もなく……エリザが止まった。いや……なんだ。違う。あれは止まったのではない。剣の重さに負けてエリザの腕が沈んだのだ。剣が落下し、雪に突き刺さる。それに引きずられエリザの体もまた崩れ、頭から地面へと倒れそうになっている。


「え……」


 その言葉はエリザの口から。


「あ……え……あがらない……どう……して?」


 どうにか踏みとどまったものの、声音すら弱々しくなっていく様が、痛々しげだった。状況が分からず、けれど自然、足はエリザの下へと向かう。


「何、何なの……」


 ドラゴンを前にして何を呆としている。そんな状態でドラゴンが見逃してくれるわけがなかろう。そんな叱責の言葉を言う事もできず、エリザが……瞬間、にやりと嗤ったように見えたドラゴンの翼がエリザに叩きつけられ、吹き飛んでいく。

 瞬間、赤い花が空に咲いた。

 飛んでいる最中に確認できたのは……右手がなくなり、左手が肩の方からありえない方向に歪んでいた。片足が吹き飛び、片足がねじれていた。胴体は正常、頭部も……あった。確かにあった。だから、まだ可能性はある。

 状況が理解できないまま私は走る。エリザの下へと。最悪の場合も当然ある。当然、考えられる。だが、感傷に浸っている場合ではないのだ。何の策も思い浮かばないままにただ向かう。

 どこか見覚えのある風景の中、見つけたエリザの周りは赤く染まり、火を吹いていた。それは毒々しい程に赤かった。自然、目を逸らしそうになり、真正面に向き直る。

 全身を自らが生み出した火に焼かれながらも、


「げほっ……」


 口腔から流れる燃える血を見て…生きている事を確認した。

 良かったとそう思った。けれど、この血が止まらない限り彼女は焼死する。血が燃えるなんて誰がそんな生命体を作り上げたのだ。危険な状況に陥ればさらに危険になるなんて欠陥も良い所だ。だが、その憤りが何処かに届くわけがない。


「カル……ミナ、駄目じゃないですか………げほっ……洞穴いかないと」


「駄目なのはどっちよ……」


「そうですね……首飾りも壊してしまいましたし……私本当に駄目ですね」


「そんなの……直せば良いよ」


 言いながら傍らに落ちたそれを仕舞い、周囲の雪を燃えるエリザに掛けていく。幸いにして、空気に触れない限りは燃えないようで、さらに言えば火の温度は高くなく被せた所から火は消えていく。だが、自らの炎で傷跡が焼かれ収まってきていた血の流れは雪を掛けた事で逆に加速したようにさえ思える。どうしたら良いのだろう。火を止めるために雪を掛ければそこに血が伝い出血が多くなる。逆に雪を掛けなければ傷口以外も焼かれ焼死してしまう。

 自然、悪態を吐いていた。だが、そんな悪態を吐いた所で事態が好転するわけもなく、焼かれるよりもと先に雪を掛けエリザの体の温度を下げていく。身体機能を下げる事により血の流れも遅くなると期待して……。

 作業をしながら顔を覗けば、綺麗だった目も片方が伽藍堂だった。落下の衝撃か、翼による衝撃か。分からないが……。


「ほ……ら……もう、行って……」


 眉を歪ませ、頬を歪ませ、唇を釣り上げ、笑う。これが彼女の死に様だなんて思いたくは無い。痛みを堪えながら死に至る彼女など、私は見たくない。


「……何、弱音を言っているの……連れてくよ」


「無理……よ……」


 見ればわかるでしょう?そう言わんばかりだった。


「どうせ……」


「私は死ぬ運命だって?」


「えぇ……それがこの場だった、だけ……」


 どうせいつかは死ぬのだからと今この場で死ぬのは、それはきっと間違いだ。誰も彼もが死にたくないと生きたがる中で、彼女だけが違った。どうせ私は生きていても意味がないからとそうしたり顔で。彼女のような可憐で美しい剣士であれば、確かに物語に登場すれば悲劇のヒロインを演じるには適していただろう。けれど、ここは現実だった。そして現実はとてもとても残酷で。その事を私は、教えてあげようと、そう思った。

 きっとエルフの神様は、人の神様よりも優しくなく、きっと天使を悪魔と称していた彼女が一番悪魔を理解していなかったのだ。


「……痣、消えているよ。エリザ」


「……え?」


 突然落下するように落ちた無骨な重量感あふれる剣。それが落ちた理由なぞ、数えるくらいしかない。因果関係はとても明確だった。彼女を支えていた不思議な力はなくなった。だから、彼女の力はなくなった。だから、彼女は……天使に攫われる事はなくなったのだ。

 胸元に刻まれていた天使の痣。

 それを伽藍になっていない瞳で見つめ……それが無い事を理解した彼女は……両方の瞳から涙を流した。伽藍の中から湧いてくる涙がとても不思議で、あぁ、涙とは眼球から産まれるものではないのだな、と全く関係の無い事を考える。


「やだ。そんなのやだ。なんで、どうして」


 理解できないと泣き叫ぶその声はまるで赤子のようなだった。


「死ななくて良くなったのにっ!なんで私ここで死なないといけないのっ。やだ。なんで?なんで教えたの?ねぇ、カルミナ!?どうしてっ。やだ。死にたくないっ……死にたくないよぉ……やだ。やだっ……でも……助かっても……こんなだったらディアナ様に殺されるっ。やだっ……私、死にたくないっ」


 歪んだ腕、亡くなった右手が……私を責め立てる。

 迫る死の中で、死を望む相手の、死を望む理由を失わせる事はきっと、悪魔のような所業だろう。だから、存分に責め立てれば良い。これは私の我がままなのだから。


「大丈夫。殺させやしないから。ドラゴンにもディアナ様にも……」


 言いざま、地面を蹴りつけ……雪の中へとエリザを、私自身を落とし、ドラゴンから身を隠す。

 見覚えがあるわけだ。

 雪に埋もれ、恐怖に怯えるエリザを抱きしめながら、思い出す。

 ここはアモリイカを捕まえた落とし穴の場所だった。


「だからエリザ、お願いだから……勝手に私の思い出になんかならないで」


 私は、その日、エリザベート=リヒテンシュタインという名の女性の心を殺した。

 その事を決して忘れはしない。


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