手紙・8
「それで? おまえはいったいどうしたいって言うんだ?」
不愉快な思いを隠そうともせずに、修平は憮然とした表情で佐恵子に言った。修平が家に帰ってきたのは1週間ぶりだった。
ここ数日間、由紀子からの手紙は届いてはいない。しかし、むしろその沈黙は少しずつだが確実に佐恵子の精神を痛めつけていた。修平の言葉も祥子の言葉ももはや佐恵子の揺れる心を押さえることは出来なかった。佐恵子の心のなかには現実として由紀子の姿が存在していた。
「何も……私にはもう何も出来ない。由紀子の思いのままよ」
佐恵子は微笑みながら修平に答えた。その佐恵子の様子を修平は懐疑心に満ちた目で見つめた。それにはほんの少し佐恵子に対する哀れみがこもっていた。
「由紀子はもう死んだんだ。おまえだってわかっているだろう」
「ええ、わかってるわ」
「それなら由紀子の思いっていうのは? 何のことだ? 由紀子がいったい何を思っているっていうんだ?」
修平はさらに佐恵子に尋ねた。
「由紀子は私たちのことを見ているのよ。あの日からずっと」
「あの日?」
「そう、私たちの関係を知った時から。だからこそ由紀子は死んだの。私たちのことを24時間見張るためにね」
「もういい、止せ」
佐恵子の言葉にしだいに修平の表情は険しくなっていった。
「由紀子はずっと見張っているの。いえ、見守っているっていったらいいのかしら。今でも私たちを見ているのよ。私たちは由紀子の意志でしか動けない」
「止せよ!」
「なぜそんなに嫌がるの? 由紀子の話をしているだけよ。あなただって由紀子のことが好きだったじゃない。由紀子を殺したのは私たちなのよ」
「止めろ! 久しぶりに帰ってきてなんでそんな話をされなきゃいけないんだ?」
修平はおもむろに立ち上がった。
「どこ行くの?」
「会社だ! 少し頭を冷やせ! それにな、由紀子を殺したのは俺じゃない! おまえが殺したんだ!」
そう言うと修平はたたきつけるようにドアを閉め部屋を出て行った。その姿をぼんやりと見つめ佐恵子は弱々しくにっこりと微笑んだ。
「そうね……私が殺したんだわ」
佐恵子の頭のなかで再び過去の思い出が蘇っていた。
あの雨の日以来、由紀子に会うことは出来なかった。何度、電話をかけてみても、アパートに訪ねてみても会ってはもらえなかった。拒否されることはわかっていた。それでも佐恵子は一度ちゃんとした形で由紀子に謝りたかった。
「ひどすぎるよ」
祥子は予想通り、佐恵子と修平の結婚を祝福してくれなかった。
「わかってる」
うつむいたまま佐恵子は祥子の非難を受け止めた。祥子の非難を受け止めることで由紀子に罪滅ぼしが出来ればいいと願った。それが都合のいい願いだということは百も承知している。
「わかってなんかない。由紀子がどんな思いでいると思う? どれほどつらい思いでいると思う?」
「会ったの?」
「……ええ、話は全部聞いたわ。あの日の夜にすぐ電話がかかってきた。泣いてたわ。由紀子は甘えん坊だけど芯は強い子よ。あの子があそこまで泣くなんて……佐恵子はあの子を裏切ったのよ。しかもやり方が汚いじゃないの」
「……」
「修平さんのやることだから……彼のことだからそういうことも有りえると思ってた。もし、そうなったらちゃんと由紀子を慰めてあげなきゃって思ったこともあった。でも、その相手が佐恵子だなんて……佐恵子がそんなことをするとは思ってなかったわ。由紀子があそこまで苦しんだのも、それが一つの原因なんだよ!」
厳しい口調で祥子は言った。
(私だってそんなふうに思ってもみなかった。こんな形を望んでいたわけじゃない)
口に出してみても仕方のない気持ちだった。今は由紀子の怒りを、祥子を通して受け取りたかった。
「まだやり直せる。みんなであの男のことを忘れてやり直しましょう」
「……だめよ」
佐恵子は首を振った。もうあの人とは別れることなんて出来ない」
「どうして? 本気なの? 本気であの男と結婚するつもりなの?」
祥子の問いかけに佐恵子は小さく、それでもしっかりと意志を持って頷いた。もう引き返せるはずがない。
「由紀子に顔向け出来ないことをしようとしてる。それは自分でもよくわかってる。でももうどうしようもないの。あの人にそばにいて欲しい。由紀子に対する思いよりも修平さんに対する思いのほうが強いの!」
自分の頭のなかから由紀子の姿を故意に追い払おうとした。
その姿を祥子は驚いたように見つめ、溜め息をついた。
「そう……もう何を言っても聞いてはもらえないのね。私はもう佐恵子のためには何も出来ない。結婚式にも出ないから、そのつもりでいてね」
「仕方無いわ」
由紀子と祥子との3人の関係はこの時に終わった。
* * *
ウエディングドレスをまとった自分がやけに輝いて見えたのを憶えている。あの一瞬だけはすっかり由紀子のことを忘れていられた。そう、ほんの一瞬だけ。鏡に映った自分の姿を眺めていた時だけ。
披露宴の席には由紀子の姿はもちろん祥子の姿もなかった。祥子が現れたのは披露宴が終わってからだった。祥子の姿を見た時、一瞬佐恵子は心を弾ませた。祥子には許してもらえたのだと思った。だが、その暗くきつい眼差しは佐恵子が期待したようなことでないことをはっきりと告げていた。
険しい表情で祥子は近づいてきた。
「由紀子が死んだわ」
その言葉に愕然とした。
「……どうして?」
「マンションのベランダから飛び降りたの。どういうことかわかるわよね」
その言葉が胸に重くのしかかった。自らが着ている純白のウエディングドレスが由紀子の血で真っ赤に染まっていくような感じがした。その瞬間、自分は決して幸せになることは出来ないことも悟った。
翌日の新聞で詳しいことを知った。
遺書はなかった。しかし、その原因は佐恵子が誰よりもよくわかっていた。
もう決して由紀子に許してもらえることは出来ない。ましてや以前のような仲の良い3人に戻れる可能性も消えた。




