手紙・7
雨が降っている。
時折、激しい雨がガラスを打つ。
佐恵子は立ったまま、ガラスを流れてゆく雫をぼんやりと眺めていた。
手にはまた手紙を握っている。
4通目の手紙は前回の手紙から4日後の今日、佐恵子のもとに届いた。
雨が降ってるわね。
私、あの日のことが忘れられない。
佐恵子と修平さんが2人でいるのを初めて目撃した日。それまでにも修平さんの心のなかに私以外の誰かがいることはわかっていた。それが誰なのか、私は知りたかった。でも、それが佐恵子だったなんてね。
私、あの次の日に修平さんに振られたの。問い詰めたら笑ってたわ。佐恵子も私のこと笑ってたの?
雨が降るといつもあの日のことを思い出すわ。
あなたもそうでしょ。
FROM YUKIKO
(忘れられない)
佐恵子にとってもそれは忘れられるような出来事ではなかった。
佐恵子は激しく降りしきる雨の向こうを見つめた。
まるで、そこに由紀子の姿があるかのように。
その日も雨だった。
いつものように佐恵子は修平の運転するBMWの助手席に座っていた。修平と付き合い始めてすでに2ヶ月が過ぎる。もう何度となく修平とこうして由紀子に隠れてデートを続けている。それが親友を裏切る行為だということは佐恵子にもよくわかっていた。
何度、止めようと思ったことだろう。
何度、由紀子に全てを話し、許しを乞おうと思ったことだろう。
しかし、そんな勇気は佐恵子にはなかった。修平もまた由紀子と完全に別れてはいない。別れるつもりだと幾度となく佐恵子には言っているが、まったく行動に移そうとはしない。佐恵子が修平に詰め寄るたびに嫌な顔をして無理に話を横にそらしてしまう。
修平のずるさが手にとるようにわかる。でも、そのずるさは自分のずるさでもある。そして、由紀子と会うたびに、由紀子の口から修平の名前が出るたびに佐恵子は自分のずるさに心を痛めるのだった。
「どうするつもりなの?」
車のなかでうつむいたまま佐恵子は修平に聞いた。今夜もまたいつものように2人きりで会っていた。雨が激しくフロントガラスにうちつけられている。別れる間際佐恵子のアパートのそばに車を止めて、修平に答えを出すように迫っていた。
いつまでもこのままの状態でいるわけにはいかない。焦りがあった。このままではいつか自分の心が壊れてしまう。
「どうするって言ってもな……」
いつものようにはっきりしない態度で修平はつぶやいた。
「私たち由紀子のことを裏切っているのよ。彼女を騙し続けているの。こんなの……もう私には耐えられない」
「……」
「あなたは何も思わないの?」
「よせよ」
「だって――」
「そんな話やめろよ。俺はもっと別の話をしたいんだ」
うんざりしたような顔で修平は言った。
「何がそんな話よ!」
悔しかった。なぜ自分だけがこれほど苦しまなければいけないのだろう。なぜ、全ての元凶である修平がそんなに気楽でいられるのだろう。どうしてこんな男のことを好きになってしまったのだろう。
俯いて拳を強く握りしめた。
その時、修平が強く佐恵子の肩を引き寄せた。次の瞬間には修平の唇が押しつけられていた。荒々しいキスだった。いつもこうやって佐恵子の気持ちを散らしてしまう。
早く全てにケリをつけたいのに。そう思いながらも握った拳がしだいに緩んでゆく。
修平の顔が離れていった時、佐恵子の心のなかには修平に対する憎しみよりも愛情のほうがより強くなっていた。そして、その愛情を胸に確かめようとした瞬間、佐恵子の体のなかに新たな緊張が走った。
冷たい目が佐恵子を見つめている。
車からほんの10メートルほど前方に車のライトに照らされた女性の白い姿が見えた。
由紀子だった。
その手から赤い傘がぽろりと力なく落ちる。雨が激しく由紀子の身体に打ちつけている。
「ゆ……由紀子」
声にならなかった。体が竦んで、指先一つ動かすことが出来ない。
雨に濡れた由紀子の姿が少しずつ、2人の乗る車に向かって歩いてくる。修平は何も言わず、由紀子のことをチラリと横目で見ただけで黙って煙草に火をつけた。
「修平さん……修平さん」
運転席側の窓を軽く叩きながら由紀子は声をかけた。だが、それにも修平は答えようとはしない。
いつの間にかドアがロックされている。
「修平さん! お願い開けて!」
全身を雨に濡らした由紀子の姿がそこにあった。
「修平さん!」
しだいに由紀子の声が大きくなっていく。佐恵子は何も言えなかった。真っ直ぐに由紀子を見ることすら出来ない。もう言い訳など出来る状況ではない。さっきのキスをはっきりと見られている。
修平が黙っていると、由紀子は佐恵子のいる助手席側へと回った。そして、再び軽く窓を叩く。
「佐恵子……佐恵子」
佐恵子もまた答えられなかった。
「いったいどうなってるの? ねえ、開けなさいよ。佐恵子!」
バンバンと窓を叩く音。
雨に濡れ、青白い顔をした由紀子の姿が怖かった。陽気で明るいいつもの由紀子の姿はそこにはなかった。こんな姿の由紀子を見たのは初めてだった。それが自分のせいだということはよく佐恵子にもわかっていた。
「佐恵子! 何とか言ってよ!」
相変わらず由紀子は窓を叩き続けている。
「佐恵子! 黙っているなんてずるいじゃないの! ねえ、何とか言って! 何とか……言ってよぉ……お願いだからぁぁぁ」
しだいに声は泣き声へと変わっていった。激しく降る雨の全てが由紀子の涙のように思えた。そして、その涙は佐恵子の心のなかにも激しく降り続いていた。思わず、佐恵子は視線を下に落とした。由紀子の姿を見続けている勇気などなかった。
さっき一時的に緩んだ拳が、知らず知らずのうちに再びきつく、爪で血が出るのではないかと思えるほどに強く握りしめられていた。
「さえこぉぉぉぉぉ!」
嗚咽の声が雨の音をしのぎ、佐恵子の心をえぐっていった。
心のなかで、ごめんなさいと何度も由紀子に詫びた。
やがて、気づくとその声も窓を叩く音も消えていた。顔をあげるとすでに由紀子の姿はなくなっていた。
「由紀子は?」
隣に座る修平に尋ねた。
修平は黙ったまま首を振った。
赤い傘が落ちて風に揺れているのが見えた。この雨に打たれたまま、帰っていったのだろうか。
窓を叩く由紀子の顔が忘れられなかった。由紀子はどう思っただろう。
修平はエンジンをかけるとゆっくりと車をスタートさせた。一言も喋ろうとはしなかった。
なぜ、今頃になって?
修平が由紀子の姿に車を発進させずにいたこと疑問を抱いた。さっき由紀子がいた場所からは佐恵子の姿は確実にはわからなかったはずだ。佐恵子を確認したのはもっと近づいてからだ。彼はわざと由紀子に佐恵子の姿を確認させたのではないだろうか。
ひょっとしたら由紀子と別れるために自分を利用したんじゃないだろうか。
修平に対する不信感が胸のなかで一気に湧き上がっていた。
なぜ、この人は――
「結婚しよう」
突然の言葉に佐恵子の思考能力が一瞬止まった。修平の言った言葉がまったく理解出来なかった。
「え? 今……なんて……」
「結婚してくれ」
無表情のまま、もう一度修平は言った。修平の横顔を見つめながら佐恵子は何度もその言葉の意味を読み取ろうとした。
修平の真意が計りかねなかった。
(なぜ?)
佐恵子は黙ったまま、なおも修平を見つめた。
「どうなんだ? 嫌か?」
顔を佐恵子に向け、さらにもう一度言った。その真剣な眼差し佐恵子はドキリとした。疑ってはいけないように思えた。
「嫌……じゃないけど。でも――」
「結婚しよう」
有無を言わせない強い修平の言葉に、佐恵子は小さく頷いた。




