手紙・3
カーテンの隙間から月が青く輝いているのが見える。
その明るすぎる光に佐恵子はびくりと体を震わせた。
(誰かに見られてる)
思わず隣に眠っている修平を起こそうと右手を動かしたが、すぐに思い止まった。ここはマンションの10階だ。誰かがそこにいるはずがない。修平を起こしたりすればまた叱られるだけだろう。
でも……
佐恵子は起き上がると急いでカーテンをピッタリと閉めた。なぜか、そこに由紀子の姿が見えるような気がして怖かった。
暗い部屋のなかで自分の鼓動の音だけが低く響いていた。
(なぜこんな思いをしなきゃいけないの?)
自分自身に問いかける。
全て、あの夜が始まりだった。
初めて修平と顔をあわせてから3ヶ月が過ぎようとしていた。佐恵子と祥子がきつく言い聞かせたこともあって、あれ以来、由紀子は3人で会うときに修平を連れて来ようとはしなくなった。もちろん話題にあがることも少なくはなかったが、佐恵子も祥子もそれほどの興味はなくなっていた。なにより3ヶ月も過ぎると修平がどんな顔をしていたのかすら思い出せなくなっていた。
佐恵子はほんの少し降り出した雨を気にしながらアパートへと急いでいた。仕事で遅くなり、やっと間に合った最終電車で帰ってきたところだった。
佐恵子のアパートは駅から歩いて20分ほどのところにあった。いつもならばバスで帰るのだが、すでに最終のバスはなくなってしまっている。タクシー乗り場も人が列を作り、なかなか捕まりそうもなかった。
だが、こう雨が降り出してしまうと、もう少しタクシーを待っていれば良かったと改めて思う。
暗くなった道を佐恵子はカツカツと靴音を響かせながら歩いていた。雨がひどくならないうちに帰りたいという思いが強かったため、すぐ背後にゆっくりと迫っていた車にも気づかず、クラクションを鳴らされてやっと背後を振り返るほどだった。
黒いBMWがそこにあった。
佐恵子はそのクラクションに思わず、むっとしてそのBMWを睨つけた。
(何なの? こいつ)
すると、車の窓が開き、中から若い男のにやついた顔が現れた。首元に銀色のネックレスが揺れているのがいやらしく見えた。
修平だった。
「やあ、確か寺田さんだよね。寺田佐恵子さん」
「西島さん……?」
「西尾です」
佐恵子の間違いにも修平は笑顔のままで訂正した。佐恵子にとって修平の名前などまるで興味なかった。
「あら、ごめんなさい」
「よかったら乗って行きませんか?」
「え、いえ……」
佐恵子はためらった。雨は間違いなく強くなっている。しかし、修平の車に乗せてもらうことには、なぜだか抵抗があった。それが良い結果を招かないことを本能で感じたからかもしれない。
(どうしてこんなところにいるのかしら?)
由紀子のアパートとはまるで逆方向だ。
「いいじゃないですか、雨に塗れちゃいますよ」
なおも修平は言った。
「いえ、やっぱりいいです。まだそんなに降っていないし、家まではすぐですから」
そう言って佐恵子は修平を無視して歩き出した。だが、雨は次第に強くなっていく。髪が濡れ、頬に張り付いてくる。それでも佐恵子は後ろを振り返ろうとはしなかった。
だが、諦めることなく修平はゆっくりとしたスピードで車を走らせ、なおも佐恵子に声をかけた。
「困ったなぁ。俺、なんか気にさわるような事でも言いましたか?」
「違いますよ。気にしないで」
振り返ることなく佐恵子は答えた。
「気になりますよ。ほら、もうずいぶん雨が強くなってきてるじゃないですか。なにより僕が濡れちゃいますよ」
修平は佐恵子の進路を妨害するように車を前方によせた。雨はしだいに強さを増し、佐恵子の身体を濡らしている。
「……」
「さあ、どうぞ」
佐恵子はその修平の強引さに負け、仕方無く助手席に乗りこんだ。
「それじゃ、お願いします」
「いいですとも」
修平はそう言ってにっこりと微笑むと車を発進させた。
佐恵子の住むアパートまで、車ではほんの1分たらずだった。しきりに話しかける修平に佐恵子は適当に相づちを打つくらいで、ほとんど会話らしい会話にはならなかった。
「どうもありがとう」
アパートの前で修平が車を止めるとすぐに佐恵子は降りて別れようとした。だが、佐恵子が降りるとすぐに修平もまたエンジンを切って、車をアパートの前に止めたまま佐恵子に続こうとした。
「どうしたんです?」
佐恵子は振り返ると、ついてこようとする修平に向かって尋ねた。
「ひどいなぁ。コーヒーの一杯くらいごちそうしてくれたっていいんじゃない?」
雨のなかを突っ立ったままで修平は悪びれもせずに言った。
「ごめんなさい。部屋散らかってるんです。ちゃんと掃除してからじゃないとお客さんは呼べませんから」
「そんなこと言わないで欲しいな。ほら、せっかく雨に濡れないように車で送ってきたっていうのに、僕もあなたもびしょ濡れになっちまうじゃないですか」
「でも――」
「頼みますよ」
そう言いながらも修平は佐恵子の背を押すようにアパートのなかへ入りこむと、佐恵子の部屋へ向かって階段を登りはじめていた。
佐恵子はそんな修平に諦めたように溜め息をついた。




