手紙・2
夫の西尾修平が帰ってきたのは、深夜になってからだった。
「ありえないだろ。そんな話」
一言、面白くなさそうに修平はぽつりと言った。
修平が帰ってくると、佐恵子はすぐに今日届いた手紙を見せた。だが、修平はその手紙を読もうともせず、ちらりと横目で見ただけでテーブルの上に投げ捨てた。
「ありえない話ってどういうこと? 現にこうして手紙が届いているじゃないの。どうしてそれがありえない話なの? お願い、読んでみてよ」
佐恵子はなおもテーブルの上から手紙を拾い上げて修平に差し出した。
「バカバカしい!」
修平は佐恵子の手から手紙をひったくるように取ると、グシャリと丸めてゴミ箱へ投げ捨てた。
「何するの! もう少し真面目に考えてくれたっていいじゃない。」
修平の行動が佐恵子には信じらなかった。
「まじめに考える?」
修平は呆れたような声で言った。「どう真面目に考えればいいって言うんだ? 由紀子は死んでいるんだぞ」
「わかってるわよ。だから驚いてるんじゃないの」
「驚く? 何を驚くって言うんだ? こんなもの悪戯に決まっているじゃないか。それとも、本気で死人が手紙をよこしたと思っているのか?」
修平はイラついた様子でネクタイをほどきながら、ソファにどっかと腰をおろした。厳しい口調だった。これほどまできつい言い方をされるとは予想もしていなかった。
「だ……だって――」
「あいつの話はやめようって言ったはずだ。憶えているだろ! あいつは死んだんだ。俺とおまえがあいつを死に追いやったんだ。いや……どっちかっていうとお前が殺したのかもな。あいつにとって、親友と思っていたおまえに裏切られたことが一番ショックだったろうし」
修平はフンと鼻で笑った。
「……そんな言い方……」
佐恵子はその修平の言葉に戸惑った。
「だが、事実じゃないか。おまえだってどれだけそのことでつらい思いをしてきたかわかっているだろ。それを今さらまたほじくりかえすつもりか?」
「そ……そんなに勝手なこと言わないでよ。どんな思いで私がこの1年を過ごしてきたと思ってるの?」
「だったら聞くが、どんな思いで俺が今ここにいると思うんだ? 時計を見ろよ。俺は今の今まで仕事をしてきたんだぞ。それで疲れて帰ってみれば幽霊話かよ。今更、どうしてあいつの話をしなきゃいけないんだ? 俺にいったいどうしてほしいっていうんだ? おまえと一緒にビクついて、お払いでも頼めば満足か?」
思わず佐恵子は視線を落として俯いた。
修平のことを初めて怖いと感じた。こんなことで修平が怒るなどということは想像してはいなかった。
――彼はあきっぽい人よ。
手紙の文面が頭によみがえる。
飽きた? まさか、彼は私を愛してくれているはずだ。それならなぜ? 私がよけいな話をしたから? 私たち……いえ、私のために死んだ由紀子の話をしたため?
修平はソファから立ち上がると、俯いている佐恵子の顎を掴んで無理やり顔をあげさせた。
その修平の行動に、佐恵子はビクリと体を震わせた。こんなことをされるのも初めてのことだった。
「おい、聞いているのか?」
「ご……ごめんなさい」
「いいか、忘れるんだ。こいつは誰かのたちの悪い悪戯なんだ。誰にも言うんじゃないぞ。そんなことを誰かに言おうものならおまえが気違い扱いされるだけだ」
そう言うと修平は佐恵子の顔から手を離した。佐恵子は恐怖心から視線を逸らし、顔を俯かせた。
修平の手がそっと頭を撫でる。
佐恵子は、おそるおそる顔をあげて修平の顔を見た。
優しい目だった。さっきの苛立ちが嘘ではないかと思えるほど、いつもの優しい顔がそこにあった。修平のその優しい声が佐恵子の疑惑を一掃した。
修平の唇が佐恵子の唇を覆う。
そうだ、修平はそんな人じゃない。
* * *
眠れなかった。
眠ろうとすればするほど、考えまいとすればするほど、由紀子の思い出が蘇ってくる。
隣ではすでに修平が寝息をたてている。
――忘れるんだ。
修平の言う通り、全てを忘れてしまうつもりだった。だが、一度蘇ってきた強い記憶は、そう簡単には消えてくれなかった。むしろ、忘れようとすればするほど一年前のことが、そして、その事件を引き起こすこととなったことの全てが思い出されてくる。
――西尾修平さんって言うの。
そう言って間山由紀子はほんの少し恥ずかしそうに修平を紹介した。それが寺田佐恵子と修平との初めての出会いだった。
大学を卒業して久しぶりの再会の日、由紀子は修平を連れてきた。喫茶店のテーブルに由紀子は修平と並び、その正面に佐恵子と西脇祥子が並んだ。
修平を連れてくることなど聞かされていなかった佐恵子と祥子の二人は、ルール違反だといわんばかりに由紀子を睨みつけたが、由紀子は二人の気持ちに気づくことすら出来ないほどにはしゃいでいた。昔から由紀子は誰かを好きになると盲目になるタイプだということを、佐恵子も祥子も知っていた。
「諦めるしかないみたいね」
祥子はこっそりと佐恵子に耳打ちした。佐恵子も仕方無く肩をすぼめて修平を観察することにした。
修平はよく喋る男だった。聞かれもしないうちから自分のことをベラベラと喋りつづけた。佐恵子たちよりも7歳年上ということだが、その落ち着きの無さは彼女たちよりも幼く見えるほどだった。
(嫌な男)
佐恵子も祥子も迷うことなく修平をそう判断した。
彼女たち3人は大学時代の4年間をともにすごした親友であったが、幸いなことに男の好みだけはまったく違っていた。
3人姉妹の末っ子である由紀子はやたら甘やかされて育ったせいか(本人はそんなことはないと言っているが)、口が上手く彼女をお姫様のように大切に扱おうとする男が好みだった。そういう意味では修平はピッタリな男かもしれない。逆に二人姉妹の長女である佐恵子は大人っぽい強い男に惹かれ、一人っ子である祥子は自由奔放で夢を持っているような男に惹かれるようなところがあった。
中古車販売を営む社長の息子で、親の引いたレールの上を歩き、ブランド物のスーツで身を固めたお喋りな修平の存在は、佐恵子と祥子の二人の目にはそれぞれの理想とはかけ離れた「嫌な男」としか映らなかった。
おそらくこの男と会うのはこれが最初で最後だろうと佐恵子は思った。今後3人で会うことがあっても修平を連れてくることは禁止させようと、佐恵子も祥子もこの時密かに考えていた。実際、この3時間後に修平の帰った後で、二人は強くそのことを由紀子に強く言い聞かせた。
しかし、修平と会うのはそれっきりとはならなかった。




