エピローグ
祥子はソファに座り、窓から見える暗闇を見つめていた。
そこは1ヶ月前まで佐恵子がいつも座っていた場所だった。佐恵子はいつもそこに座り由紀子からの手紙を読んでいた。だが、今夜、佐恵子の姿はそこにはない。
1ヶ月前、佐恵子は1年前の由紀子と同じようにベランダから自らの命を散らせた。遺書はなかったが、その状況から警察は自殺と断定した。
「佐恵子もかわいそうに……」
祥子の正面のソファに座ってグラスを傾けている修平に、祥子はつぶやくように言った。
「かわいそう……か。おまえがそのセリフを言うのかよ」
軽く笑って修平は言った。
「そうよ。私だって好き好んであんな嫌がらせをしていたわけじゃないわ」
「それじゃどういう訳だ? あいつをノイローゼに追いこんで俺と一緒になるつもりだったんじゃないのか?」
「誰があんたなんかと!」
「俺はおまえのことを本気で愛してるんだ」
「バカなこと言わないで。あんたみたいな軽い男の言葉を信じるわけないでしょう。そもそもあんたみたいな飽きっぽい男は結婚に向かないのよ」
「まいったな」
「私は由紀子のためにも佐恵子のためにも、一生結婚なんかするつもりないわ」
修平のせせら笑いに祥子はむっとして言った。
「ふん、好きにすればいいさ。いったい何を考えているんだか」
「本当に……」
なぜ、佐恵子を殺すようなことをしたのか自分でもわからなかった。なによりも本当に佐恵子が死を選ぶなどと思ってもいなかったのかもしれない。
祥子が修平と関係を持ったのは半年程前のことだった。誘ったのは修平の方からだった。修平を愛していたわけではなかったが、修平の誘いを受けることで由紀子の仇討ちが出来るような気がした。ほんのそれだけの気持ちだった。だが、気が晴れることはなかった。むしろ日に日に佐恵子の存在が疎ましく思えてきた。そんなときに修平が祥子にささやいた。
――あいつは心が弱い。由紀子の名前で手紙でも出せばすぐに気が狂うさ
修平が完全に佐恵子に飽きたのだとその言葉が物語っていた。
今はその修平の口車に乗った自分の気持ちが情けなく感じる。あとは修平と別れることで、死んだ2人に詫びるしかない。
それにしても――
(ほんの数通の手紙で死んでしまうなんて……)
佐恵子の弱さがはがゆかった。それともそれだけ由紀子に対する罪悪感が強かったということだろうか。
佐恵子が訪れたあの日、ほんの一瞬だけ真実を告げようと考えた。それほどまでに佐恵子のうろたえぶりは祥子を驚かせた。しかし、結局それは出来なかった。あの日の朝、泊まっていった修平の存在がその思いを打ち消してしまった。
ぼんやりと佐恵子のことを思い出す。
その時、突然チャイムが鳴った。
「出ろよ」
修平はソファにゴロリと横になると、祥子に向かって命令した。祥子は仕方無く立ち上がって玄関へと向かった。玄関のドアを開けると、郵便配達人が微笑みながら手紙の束を手渡した。
「どうぞ、手違いがありまして配達が送れました。申し訳ありませんでした」
そう告げるとさっさと去っていった。
祥子はドアを閉めると、その手紙の束を持ってリビングへと戻ろうとした。ふと、手紙の束に視線を向けた瞬間、祥子は思わず足を止めた。
そこには――
西尾 佐恵子 様
――と、あった。
それは由紀子の名前を借りて祥子が出し続けていた手紙の束だった。
(どうしてこれが今頃……)
白い手紙の束。それは全て佐恵子の手に渡り、彼女を死に追いやったはずだ。それがなぜ今頃になって? もしも、これが本当に祥子が書いた手紙ならば、これらはみな佐恵子には届いていなかったということだろうか。
(それじゃ佐恵子が脅えていた手紙は何だったの?)
背筋に悪寒が走る。
「どうした?」
ソファにごろりと横になったままで修平が声をかけた。
「手紙が……私の書いた手紙が……」
「手紙? こんな時間に?」
その言葉に祥子もハッとした。こんな夜中に郵便配達が来るはずがない。
それなら今の男は?
「嘘よ……こんなことがあるはずがあるもんですか」
祥子は思わず手紙の束を床に投げ捨てた。その散らばった手紙のなかに一通の目立つ封筒があった。
スヌーピーのデザインの封筒。
『祥子 へ』
思わず手を延ばした。読まなければいけないように思った。その手紙を読むことが自分の宿命に思えた。
その手紙だけが、祥子宛になっていた。しかも宛先の住所は書かれていない。
恐怖感が心の中から湧き上がってくる。それでも手はなだらかにその手紙を開封し、2枚の便箋を取り出した。
あなたの手紙、全部読まなかったわけじゃないの。一通だけ、最初の一通だけはちゃんと読ませてもらったのよ。それ以後は悪いけど読むことが出来なかったの。由紀子が全部自分のものとすり替えちゃって……。
由紀子も謝ってるから許してあげて。それにあなたにはとっても感謝しているの。あなたのお蔭で由紀子と連絡を取ることが出来たんだもの。そして、やっと由紀子にちゃんとした形で謝ることも出来た。
ここには私たちの邪魔をするものは何もない。修平なんて男がどれほど意味のない男なのかよくわかった。
本当にありがとう
佐恵子
あなたが佐恵子に送った手紙は、偶然にも私のいる世界と現実とをつなぐきっかけになったの。私はこっちの世界から佐恵子に語りかけ、佐恵子はそれに答えてくれた。
こんなこと言っても祥子にはまだわからないかしら。
私たちは長く辛い夢を見てきただけ。そろそろ3人とも楽になってもいいはずよね。
そう思わない?
私たちはずっとあなたを見ているのよ。そう、ずっと。あなたが修平と結ばれたときも、あなたが佐恵子に手紙を書き続けているときも、そして、佐恵子の代わりにソファに座り全ての成り行きに驚いているあなた。
はやくここにきて。
FROM YUKIKO
手紙を読み終わって、祥子は思わず背後を振り返った。
そこには重く暗い闇が広がっている。そして、そこに――
「おい、なんだよその手紙?」
修平の近づいてくる足音。
まったく無意識のうちに右手がテ-ブルにすぅっと延びた。
(え?)
勝手に動いている。視線が右手の行方を追った。そこにはまるで用意したかのように果物ナイフがおいてある。キラキラと光り輝くナイフ。それはこの世のどんなものすらも切り裂いてしまうような輝きに見える。
祥子はそのナイフを背後の修平には気づかれないように握りしめると、再び窓の外へと視線を移した。そして、そこに見えるものにハッと息を飲む。
そうだ、これが一つの流れ。この流れは誰も止めることなど出来ない。
(待ってて、私も全てを終わらせてからすぐにそっちに行くから)
祥子は小さく笑みを漏らした。
「なんだよ、その手紙?」
修平の声が聞こえ、祥子はその声に合わせるように振り返った。暗い闇の向こうから見つめる二人の視線を感じながら祥子は右手を振り上げた。




