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貴方を想う
ただ、それだけで私は強くなれるかな
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冷たい大理石のひんやりとした温度がじわじわと身体に伝染していくようだった。
どれくらい泣いただろうか。それすらも解らない程、リアはただじっとその場に蹲っていた。
手に持った花はとうに散ってしまったか。ぬるい植物の茎の感覚だけが嫌に掌に残っていて、気持ちが悪い。
さんさんと降り注いでいたステンドグラス越しの太陽は、入道雲に遮られたのか青空から姿を消しエントランスはうす暗く陰りを見せる。
乱れた髪が頬に、顔にかかり辺り一帯の視界を遮断していた。
無音の世界
その中に現る存在
「っ………」
ゆるりとした独特の空気の緊張に、リアは俯いた顔はそのままにぴくりと肩を揺らす。
「リア・フェレン」
「………………」
のんびりと、そして何度か耳にしたことのある声が頭上から降り注いでくる。
ぎゅっと心臓を掴まれる様な声に、嫌な汗が頬を伝わるのが解った。五月蠅いほど心音が体内から聞こえてきて、思わず自らの腕で自身の身体を強く抱きしめる。
嫌だ
来ないで
来ないで
来ないでっ…!
「………いつまで、逃げるつもりですか?」
「っ………!」
ぽたり、と大理石の床に透明な雫が落ちてゆく。
反射的に顔をあげれば、そこには予想通りの人物の姿。パープルの瞳と、同じくパープルの美しい長髪を持つ男。しかし、身につけている衣服は何処となく汚れており、いつもの様な品格のある姿ではなかった。
素早く突きつけられた魔術用の長い杖は、リアの鼻先すれすれで止まる。
「悔しくもこの国は、もう生きるか滅ぶかの境界線まできています」
「っ………」
「回りくどいことはもう、止めましょう」
細められたその瞳は厳しい色を含んでいて。
「貴女を……貴女の力が戦場で必要です。共に、来てもらえますね?」
「っ、……わたしの、ちからを…」
「そうです、貴女の力で……沢山の命を奪ってもらわなければならない」
その言葉に視界が一瞬真っ赤に染まり、無数の骨が、人間が、動物が、大地が、消えるような情景が、脳内を駆け巡り、激しい頭痛と共に頭を抱え込み叫ぶ。
「い、いやっ……嫌ですっ!」
今までとどめていた言葉が、まるで塞き止めていた水が決壊したようにぼろぼろと止めどなくこぼれてゆく。
「私の力でっ、もう誰かが傷つく姿をみたくないっ」
「人の命を奪いたくないのっ」
「お母さんみたいにっ、利用されたくない!」
「怖いのっ、怖いのっ…!」
「私がっ、大切な人をっ、殺してしまうっ……!」
ガツンという鈍い音と共に、リアの顔すれすれの地面に杖が叩きつけられた。
「……戦いに、私情を挟むことは許されません」
「っ……でも「貴女は…!」
リアの叫び声を遮るように、シュアルツが声を張り上げる。
「貴女は、いつでも守られていたっ…違いますか!?自ら行動を起こさなかった…。彼が、ローベルトが…どれだけ苦しんだか、貴女には解らないんですか!?」
「っ………」
シュアルツの言葉にリアは目を見開いた。
金色の瞳をもち、黒髪の男の顔が一瞬甘く脳内に蘇る。ぎりっと唇をかみしめた瞬間だった。
「兄さんっ……リアさんになんて事を言うの!?自論ばかりを押し付けないでっ!」
美しい、数時間前まで聞いていた声が、そしてその姿がリアの視界からシュアルツを隠すかのように立ちはだかる。
パープルの瞳と長い髪を持つ女性。
その姿を知らないはずはなくって。
「っ………エマ?」
「エマ、そこをどきなさい。貴女に下した命令は、リア・フェレンの監視だけです。その者の為に動けとは一言も言っていません」
「そんなこと、関係ありません。私は、自分の意思で動きます」
ゆっくりと振り返り、悲しそうに歪められた瞳。その瞳を見つめながら、信じられないと言う風にリアはぽつりと呟く。
「……エマさん……?」
「ごめんなさい、今まで黙っていて…。兄…シュアルツ・ルーアが言った事は事実です。私は、国王陛下からの直属の命で、貴女を最初から監視していました」
「っ、嘘…」
「貴女が、エスタール女史の一人娘であることも…魔力持ちである事も知った上でした…」
エマは、リアの表情を苦しげに見つめながらも、目の前に居るシュアルツの方へ向き直り、はっきりとした口調で述べる。その声は、リアが今まで共に過ごしてきた中で一度も聞いたことが無い様な、凛として真直ぐなものだった。
「最初は、国王陛下の命令に従っていただけでした。最初は、『なんてこの子は不幸なんだろう』って…思って見下してさえいたんです。家族は全員死んで、母親は魔力の餌になった。この子は一人で逃げて、こんな下女の様な仕事をしなければいけない。きっと、この子は自分の人生に絶望して、現実から目を反らして、この世界を恨んでゆくんだって。」
リアが下女になってから暫らくの間、誰とも話さずにじっと窓の外を見ている彼女の姿を何度も見た。
瞳は虚ろで、何の光も映しておらず、他人を寄せ付けないような雰囲気をはなっていたのだ。
「でも、リアさんは違った。少し時間はかかったけど、自分で暗闇を切りぬけてきたんですっ。ただ、絶望するだけじゃなかった…必死で暗闇から小さな光を探していた。私は、リアさんが初めて人前で笑う姿を見た時、思ったんです……『あぁ、この人は私が思っていたよりも、とても清くて、真直ぐな人なんだ』って。だから、今日、この日が来るときは全力でリアさんの見方になるって決めていたんです」
エマの声に、シュアルツは苦笑しながら杖を回す。
「ははは、何を言い出すかと思えば…。妹よ、その娘の味方になって何の得があるんだ」
「得ですって…?」
ピリっとする空気。
エマの瞳が怒りの色に変化してゆく。
「私は、大切な友人が苦しむのを見ていられないっ!だからっ、これ以上リアさんを傷つけるものは徹底的に排除するだけよ…!」
「私に、魔術で勝とうというのか……愚かな妹よ」
「ふざけないで!兄さんが全てにおいて勝っているとは限らない事を教えてあげるっ!」
バチバチと肌を突きさす様な魔力がその場全体に広がる。
激しい閃光と鼓膜を揺らす破裂音。
熱気が一気に広まる。
「っ……二人とも、やめてっ…!!!」
リアの声が木魂した瞬間に、双方の魔術がエメラルド色の泡の様なものに吸い込まれ消えてゆく。
その様子はまるで水中の泡が海面へ消えていく様に幻想的で。
「………、防護魔術ですか…」
「リアさん…」
向かい合う二人のもとへリアは立ちあがり、その様子を見つめる。
一呼吸を置いた後、言い放った。
「………私……戦場に、行きます…」
「リアさん!?そんなっ…自分から苦しむような事をっ…」
エマの言葉に一瞬、視線を彷徨わせた後シュアルツの方を見つめた。
「シュアルツ殿……ローベルト様は、今…」
「……彼は、生きています。ですが、敵国の魔術が発動した今、彼の立ち位置は敵の魔術を本隊に引き寄せない為の言わば『捨て駒』です。いつ、命が無くなってもおかしくはありません」
「っ……まだ、生きていらっしゃるんですね…」
ほっと息を吐き、胸に手を当てる。
微かに感じる自らの心音は一定のリズムを保ち、命を刻む。彼もまだ、この世界の何処かでこうやって、生きている。ただ、そう考えるだけで心が穏やかになった。
「エマさん……、私…シュアルツ殿に言われた事…全て当たってました」
「そんなっ…、違います!私の知っているリアさんは…」
「確かに、エマさんが言ってくれた事も正しかったのかもしれません。でも…」
目を瞑れば、彼の顔が浮かんでくる。
彼の声が聞こえる。
彼の体温が蘇る。
「守られていたのは、確かだった…。お母さんにも、ローベルト様にも…。皆、私が苦しまないようにって…守って、傷ついて、悲しんで…。もう、これ以上…私の所為で苦しむ人の姿を見たくないんです」
「っ……それじゃぁ、リアさんが苦しむ事になるんですよ…?」
その言葉にリアは苦笑する。
苦しむ事が全く怖くないと言えば嘘になる。きっと、これから起こす事は自分の人生において消しても消しきれない苦しみに変わる。
それでも良いと、思った。
彼の為なら、良いとさえも思ってしまった。
「………いいんです。私が、苦しんで…でもその代わりに…ローベルト様が…そして、この国の人々が幸せになれば。勝手な自己満足かもしれないけど、母はきっとこの選択を私に託したんだと思うんです」
「エスタール女史が…?」
「えぇ、別れ際に言ったんです」
『逃げなさい。これは、私達の為だけじゃない。…沢山の人を生かすか、殺すかは……あなたの魔力が関わっているの』
母は、私に最後まで選択の余地をくれた。
だからこそ、私は選ぶ。
「私は、沢山の人の命を救います。その為に戦場へ向かいます」
その瞳は、美しいエメラルドグリーン。
すっと伸びた背筋はその意思の強さを物語っていて。
「……では、参りましょうか」
シュアルツの杖が天へ向けられ、一瞬にして空間に光がさす。
数秒後、二人の姿はその場から消えた。
「…………リアさん」
エマは眩しそうに消えた光のあった所を見つめた。
「貴方なら、きっと……」
入道雲は通り過ぎ、いつしか青空がステンドグラス越しにのぞいていた。




