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脅える掌の中には、
折れた薔薇が一輪
×××31×××
目の前の世界が、まるで色を失ったように黒く淀んでいった。
頬を伝う涙はとめどなく落ちてゆき、黒く美しいドレスに染みを作ってゆく。冷たくなる身体は震え続ける。
彼の手は母の血にまみれた、手
命を奪う、手
垣間見えるのは優しい母の笑顔
リアは、無意識に声をあげていた。
「っ、……どうしてっ、どうしてっ、母を殺したんですかっ…どうしてぇっ…」
振りかざした拳は、鈍い音を立てながらローベルトの胸に叩きつけられる。エメラルドの瞳はぐらぐらと涙で揺れても尚、彼の瞳を見つめていた。リアの声は嗚咽を抑えきれず、時折裏返っては、咳き込み、震える。
それに対してローベルトは、ただ無表情で眼下の状況を見つめていた。
彼の瞳にももう、光は無い。
「っ……貴方はっ、私がっ…エスタールの娘だからっ…だからっ…!」
「…………」
「最初からぁっ……そのつもりっ、だったんですかっ…」
震える手できつく握られたシャツが歪んでいる。
逃げ出そうとしたあの日、どこのものかも解らないのに助けてくれた
時々微笑んでくれた
手を、のばしてくれた
全部、全部……
リアの言葉に、一瞬表情を変えたローベルトだが冷え切った瞳でリアを見つめ返した。
「………そうだ。だから、城から逃げ出すお前を助けた」
「っ―――――――――――」
「お前は、この国の…最後の駒だ」
ローベルトの冷めた声に、リアは目を見開きその場に崩れ落ちる。
無意識に耳を両手で塞いでいた。
胸が痛い
苦しいっ
悲しいっ…!
キンッという澄んだ音と共に二人の居た空間が一瞬にして凍り、氷柱が籠の様にリアの周りを覆う。目を開いていられない様な冷気が一瞬爆風のようにローベルトを襲う。
「っ………魔力か」
そっと触れようとすれば、それは酷く冷たく、そして鋭利。
ローベルトは腰元にある黒い剣を抜き、何の戸惑いもなくリアに覆いかぶさる凍りへ体重をかけ突き刺した。
氷が砕ける音と共に細身の剣のまわりに一気に冷気が集まり、いとも簡単にそれは氷の中に呑まれてしまう。その様子にローベルトは眉を寄せ、小さく舌打ちをした。
「……破魔の剣が役に立たないか…」
「それは、そうでしょう。……そんなもので、彼女の魔力が破られたら、それこそ大変ですよ」
「シュアルツ…」
呆れた口調でやってきたシュアルツの手元には彼の髪の色と同じパープルの宝石が目玉の様に埋め込まれた白い杖があった。
「早くしないと、魔力の歪みに気づいて警備の魔術師達がきます。ここは、私に」
「あぁ…」
素早くリアを囲む氷の籠のまわりを五箇所杖で突き、呪文を唱える。
「こんな高等魔法、貴方の前でも見せたくないんですけどね……!」
防魔法陣の光と共に、灼熱の風が一気に巻き起こる。傍から見れば、何も起こっていないように錯覚の魔法を施し、尚且つ魔力が洩れないような布陣を築く。だが、攻撃の手は緩めない。
深い氷を灼熱の炎が一気に溶かしてゆく。しかし、簡単にはいかず直ぐに氷が生成されていった。
「っ、手強い…。ローベルト…」
「解っている」
炎が一瞬途切れた時、ローベルトは修復しかけていた氷の中へ勢いよく飛び込んだ。
「っ……」
しかし、外部からの侵入を拒むかの様に、リアの目の前に来ようとするローベルトの右肩に氷の粒子がまとわりつき、身動きが取れない。金色の飾緒が無音で胸の前で揺れる。
「………リア、……私は騎士だ」
「…………」
「……人の命を奪う、愚かな生き物だ」
「…………」
低く澄んだ声だけが空間に木魂する。
腕に力を入れれば、血管か何かがぶちりと鈍く切れる音と共に氷に割れ目が入る。眉を潜め、麻痺しそうになる強い痛みに奥歯を噛み締めた。
「っ……許してくれとは、言わない」
「…………」
砕けた氷がローベルトの頬に飛び、赤い筋をいくつもつくる。
「恨んで、憎んで、………生きてくれ」
「っ………」
リアの瞳がぐらりと揺れる。
身動きがとれるようになった瞬間、剣の柄で目の前の少女の腹を勢いよく突く。
「っ、……あな…たは…、」
崩壊する氷の柱
黒いドレスをみにまとった少女は苦しそうな表情で金色の瞳を見つめる。
ローベルトは倒れる細い身体を両手で受け止め、素早く胸元に抱き込む。
お互いの鼻と鼻が触れ合うぐらいの距離で、リアは遠退く意識と共に呟いた。
「わたしの、…ひかり、だったの……」
その言葉と同時にリアの瞳は閉じ、呼吸音だけが響く。
暫らく、ローベルトは無言でその身体を抱きしめていた。氷の中にいたからか、全身が冷たく、まるで死者の様だった。何度も何度も髪を撫でる。少しでも、彼女の体温が戻るように強く抱きしめる。
背に回した掌には、彼女の鼓動が優しく響いていて。
ぽたり
リアの頬に、静かに雫が落ちてゆく。
「っ……」
彼女を闇に落したのは、自分
彼女を傷つけたのも、自分
自らのこの汚れた掌で、彼女を守ることはできない
彼女には、もっと幸せな未来が待っているのだ
きっと、この先に
「……ローベルト」
「わかっている…」
ゆっくりと、まるで壊れ物を扱うかの様に抱き上げる。さらりとした茶色の髪が夜風に靡く。
「貴方、なんであの様な嘘を。少なくとも、貴方は自分の意思で彼女を匿った……違いますか」
「………彼女の母を殺すと決まった時、何も言わなかった……同罪だ」
「貴方がそう、言うのならば…」
ローベルトはリアを抱えながら、シュアルツと歩く。
「……そろそろ、本格的に戦いが始まります。これが、最後かもしれないんですよ…いいんですか」
「あぁ……」
紫の瞳は、目の前の黒い衣服を身にまとった男を静かに見つめた。
遠くで教会の鐘が静かに鳴り響く
明朝、トゥルーサ帝国の使者が現れると同時にグランディア帝国とトゥルーサ帝国の血で血を洗う様な激しい戦が幕を開けた。




