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ー第5節 アカリは出汁を変えただけで自分が社員の胃袋と心を完全に掌握した事実に全く気づいていない。ツカサはそんな無邪気で純粋な彼女の姿を微笑ましく思いながら、誰にも知られず密かに見守るのだ

第5節 アカリは出汁を変えただけで自分が社員の胃袋と心を完全に掌握した事実に全く気づいていない。ツカサはそんな無邪気で純粋な彼女の姿を微笑ましく思いながら、誰にも知られず密かに見守るのだ


 食堂が連日長蛇の列を作り、社内の人間関係が劇的に改善され、業績が右肩上がりに急上昇するという異常事態が起きている中、そのすべての元凶――いや、女神である当のアカリ自身は、厨房の奥でのんきに微笑んでいた。

「みんな、最近ご飯を全然残さずに、お皿を綺麗にして返してくれるようになって、本当に嬉しいな」

 アカリは洗い場に積み上げられた、一粒の米すら残っていないピカピカの食器を見て、同僚のパートの女性に嬉しそうに語りかけていた。

「本当にすごいわねぇ、アカリちゃん。役員さんまで毎日並んでるじゃない。何か特別な秘密のレシピでも使っているの?」

 パートの女性が不思議そうに尋ねると、アカリは少し首を傾げて、エプロンで手を拭きながら答えた。

「うーん、特別なことは何もしてないですよ? ただ、ほんの少しだけお出汁の取り方を変えたんです。昆布を水に浸しておく時間を気温に合わせて調整して、火にかける時は絶対に六十度を超えないように付きっきりで温度をキープして、鰹節を入れるタイミングを数秒単位で見直しただけで……あとは、食べてくれる人が元気になるといいなって、少しだけ心を込めたくらいでしょうか」

 アカリにとっては、それは料理をする上でごく当たり前の日常的な工夫に過ぎなかった。しかし、そのミリ単位の温度管理や、食材のポテンシャルを極限まで引き出す直感的な技術こそが、人類の常識を遥かに超えた『究極の領域』の神業であることに、彼女自身は全く気づいていなかったのである。

 自分がこの巨大企業の全社員の胃袋を完全に掌握し、彼らの心を意のままに操れるほどの絶対的な力を持っているという事実に、彼女は微塵も気がついていない。ただ純粋に「美味しいものを食べて笑顔になってほしい」という無邪気な願いだけで、毎日鍋をかき混ぜているのだ。

 そんなアカリの様子を、食堂の片隅の席から静かに見つめている男がいた。ツカサである。

 彼はコーヒーを傾けながら、厨房で楽しそうに立ち働くアカリの姿を目で追っていた。

(……この女は、自分がどれほどとんでもない奇跡を起こしているのか、本当に分かっていないんだな)

 ツカサは心の中で呆れたように呟いたが、その瞳には不思議と冷たさはなく、むしろ深い愛情と愛おしさが滲んでいた。

 計算高さや裏表が一切なく、ただひたすらに料理と向き合うアカリの純粋さ。権力や名誉には目もくれず、目の前の一皿を完璧に仕上げることだけに全力を注ぐ彼女の姿は、冷徹にビジネスの世界を生き抜いてきたツカサにとって、眩しすぎるほどに美しく映った。

 アカリが自分に向けたあの優しい笑顔や、不器用ながらも一生懸命な態度を思い出すたび、ツカサの胸の奥で温かいものが広がるのを感じる。

(その無自覚さが、お前の最大の魅力であり……そして、最も危ういところでもある)

 ツカサはカップを置き、静かに目を細めた。彼女の純粋さを守り抜くこと。それが、いつしか彼の中で最も重要な使命へと変わっていたのである。

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