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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

嘘愛

掲載日:2026/02/05

 昔から、自分の名前が好きになれなかった。

 別にキラキラネームとか、そう言うのじゃない。

 苗字も含めて、自分の名前が好きではなかった。

 何と言えばいいか。

 古風なのだ。全体的に。

 そして漢字が難しい。文字数自体は、苗字含めて二文字で終わるが、小学生が習う感じではなかったので、自分の名前の漢字を覚えたのは後の方だった。

 当時の私は、同じクラスだった(はじめ)くんや(こころ)ちゃんみたいな簡単な名前を羨ましがった。当時のことをはっきりと思い出せるわけではないが、テストの時に自分の名前を漢字ではなくひらがなで書いてしまうことに、どこか恥ずかしさのようなものを覚えていたのだろう。

 昔いた友達には、渋くてかっこいい名前といわれるが、私にあまり似合っていないと思った。

 名前を書く時、二文字書くだけで済むなんて便利~。なんて言われた時には、誉め言葉じゃねぇだろ。と、軽い蹴りをかましてやった。

 ひらがなの名前の文字数で、天国か地獄か大地獄に行くという小学生の時にはやった遊びでは、私は大地獄だった。

 不条理だ。名前の文字数で大地獄に落とされるなんて。と、小学生ながらに自分の名前を呪ったものだ。あと一文字多ければ天国に行けたのに。なんて意味の分からないことを親に本気で訴えていたことを思い出して、身悶えする。

 嫌な思い出だ。

(みやび)さん。雅漆(みやびうるし)さん。話を聞いていますか?」

 そんな私も今では花の女子高生。血気盛ん……ではなく、多感な時期ということもあり、今日も今日とて、机に突っ伏し寝たふりをしていると、授業をしていた先生が私の名前を呼ぶ声が聞こえる。

 雅漆。それが私の名前。なんて古風で、そして雅な名前だろう。

 こんな名前だからといって、別に家が和風の豪邸で、鹿威しが雅な音を奏でているわけではない。若干ネグレクト気味の母と安いマンションで二人暮らしをしているだけだ。

 先祖だって、武士のような地位の高い者ではなく、ただの百姓だったようだし、ほんとにこの苗字には謎しかない。

 漆という名前も、母親が小さい頃ばあちゃんの家で飼ってた犬の名前らしいし、気触(かぶ)れてやろうかこら。

「聞いてま~す」

 突っ伏したまま答えると、教科書の背表紙で頭を殴られる。

「痛った⁉」

「起きたのなら、教科書を開いてください」

 寝てないって。

 教卓に戻る新任の女教師を睨みながら、おとなしく鞄から教科書を取り出し、適当にページを開く。

 今は三限目、科目は現代文。

 黒板の文字をノートに丸写ししていく。重い瞼を持ち上げ、半目で黒板の文字をなぞっていると、クスクスと後ろの方で笑い声が聞こえてくる。先生には聞こえない、けれど私には聞こえるように、いやらしく。

 いじめ、というわけではない。単に私が嫌われているだけ。

 遅刻魔、不登校、授業をまともに受けない。

 進学校を名乗るこの公立校に通う生徒からしたら、目障りもいい所だろう。

 小学生の頃はまだ友達といえる人間もいたが、中学校に上がって、片親でその母親が夜職をしているということがどこからか広まって、私を避けるようになった。

 以来、学校からも足が遠のき、学年でもそこそこ有名な不良として高校生をやっている。母親が高校は出ておけというので、一応老留年しない程度には来ているが、依然居心地が悪い。

 振り返った女教師と目が合う。

 冷たい。相変わらず感情の見えない目だ。怒っているのか見下しているのか、あまり考えたくないのですぐに目を逸らす。

 私のノートには日本語なのか絵なのか、書いた本人にも識別できないような線の羅列が綴られていた。


 これは、高校一年生、最初の夏休みが終わり残暑もほとんど感じなくなった頃の話。

 私の灰色の人生に、少しだけ色がつくまでの物語。


1.生徒と教師


 小さい公園で一人ブランコに座り、スーパーで買った割引総菜を食べていると、今日私の頭を殴った暴力教師に見つかった。

 学校からかなり離れていて、人通りの少ない住宅地の奥だからと油断した。気が付いて、逃げようとした頃には、首根っこを掴まれ逃げられない状況になっていた。

 早っ。

「こんなところで何してるんですか? 雅さん」

「せ、先生こそどうしてここに……」

 言い逃れ、は無理でもなんとか手を放してもらえれば、全力疾走で……ってそれが無理だったからこうして捕まってるんだった。

 先生の手は離れない。魚を咥えたどらネコを掴むが如く、その手は頑なだった。

「家がこっちの方なんです。それより、あなたはどうしてこんな時間に、そんな恰好で、外にいるんですか?」

 あはは、と目を逸らす。確かに、空は暗く沈み、道の街灯だけが足元を照らす時間に、JKが制服のまま外を出歩いていたら、当然そんなことも聞かれるだろう。

 見つかるつもりも、捕まるつもりもなかった私は、その答えを用意しているわけでもなく、返事に詰まってしまう。

 どう言い訳したら、この場を穏便に切り抜けるだろう。

「えっとぉ、私も今帰るところなんですよ実は」

 制服の襟が持ち上がり、少し首が締まる。この言い訳はちょっと苦しかったか。

「今午後十時半ですよ。それまで何をしてたんですか?」

「え~ぇ、バイト?」

「何故わたしに訊くんですか」

 ごもっとも。でも私だって私がバイトしていることを今初めて知ったんだもの。

「どこでバイトをしているんですか?」

「え~っとぉ。コンビ……じゃなくて、飲食関係? のお店でぇ」

「やけに抽象的ですね。その店の名前を教えてください」

「え、何で」

「当然でしょう。こんな時間まで未成年を働かせているなんて、労働基準法に違反しています。今すぐにでも、通報すべきです」

 まずい。困った。でも、今全部嘘でしたと言う訳にもいかない。

「いや、バイトは結構前に終わっててぇ」

「ではどうしてここに?」

 えっとぉ、それはぁ。

「い、家が燃えちゃって」

「火事ですか?」

 まずい。

「あ、え~。そうです……」

 ほんとにまずい。嘘が嘘を呼んで塗重なり、巨大なバームクーヘンが出来上がって行っている。いや、崩れやすさで言えば、ミルフィーユだろうか。

 どんどんと、取り返しのつかない方向に進んで言っている気がする。

「ご両親は?」

 両親……。そういえば、私は父親の名前や顔を知らない。聞こうと思ったことも、聞く機会もなかったような気がする。単純に、父親というものに興味がなかったのが大きな原因だろうか?

 なんて、現実逃避気味に別のことを考えていても、時間は進んでいるわけで。

「え~、旅行?」

「だから、何故わたしに訊くんですか」

 私もわからないからです。

「はぁ、連絡はしたのですか?」

「あ~、はい」

「全くいい加減な……、まぁいいでしょう。いつ頃帰ってくる予定ですか?」

 どうだろう。それは母親の都合によるが、今回はどれほどかかるだろうか。

「え~、三日? ぐらいですかね」

「……ハァ」

 呆れ果てたようなため息。それは、私が騙った空想の両親に向けてか、それとも私が付いた下手な噓に向けてか。

「まぁ、そう言うことにしておきましょう」

 どうやら後者のようだ。今までの私が付いていた嘘の意味っていったい……と、謎の徒労感を味わっていると、先生が掴んでいた制服の襟を離す。

「では、わたしの家に案内するので付いて来てください」

 先生はそう言って、公園の出口へ向かう。私は、先生の言った意味が理解できず、ブランコに座ったまま、先生の背中を眺めるだけだった。

「何してるんですか?」

 私が付いて来ていないことに気づいた先生が、振り返って不思議そうに訊いてくる。

 いや、訊きたいのはこちらの方なんですが。

「えっと、もう一回言ってもらってもいいですか」

「わたしの家に案内するので、付いて来てください」

 どうやら聞き間違いではなかったようだ。

「何で、ですか」

 今の会話で、どうしてその流れになるのか。

 普通、家に帰れないというのが嘘と分かれば、そのまま家に帰すものではないだろうか。我々はその謎を解き明かすべく、ジャングルの奥地へと向かわないが、謎は深まるばかりだ。

「帰れない。または、帰りたくない理由があるのでしょう?」

 心臓がドキリとなる。先生に、自分の心を見透かされているような気がして。現文教師は、人の心を量るのが得意なのだろうか。

「あなたの担任教師ではないので、家庭事情を深くは知りませんが、わたしはそんなあなたを見捨てて帰るほど薄情ではありません」

 また心臓が跳ねる。けど、今度は違う意味で。先生の突然の暖かさに触れて、心臓が驚いたのだ。

 普段、ほとんど表情が変わることなく、冷たい声と一貫した態度で接してくるので、生徒から「氷冷の美人」なんて呼ばれている先生から感じる初めての暖かさに、私は思わず立ち上がる。

「そんなことしていいんですか」

「よくはないでしょうね。教師としても、大人としても」

 じゃあ、何で。と聞く前に、いつの間にか近づいてきた先生に手を取られる。

「こんなところで、長話をしているのを誰かに見られるといけません。他に行く当てもないようですし、行きましょうか」

「あっ」

 抵抗するか迷っている間に手を引かれ、為すがままに連れ去られる。

「子供は、大人になるまでの間に、保護者の管理下に無い独り立ちの準備をする時間が必要です」

「え?」

 すたすたと、ヒールシューズに砂が入らないよう歩きながら話す先生に引かれ、私は半強制的に話を聞かされる。

「各家庭によって差はありますが、そういう猶予期間は誰にでも訪れます」

「ちょっと待ってって!」

 引かれる手を引っ張り返し、拘束から逃れる。

 別に、私は行くなんて言ってないし、むしろ先生を怪しく見ているくらいだ。今時、同性からの強姦なんて聞かない話じゃないし、無表情で何を考えてるかわからない人間ならなおさらだ。

「どうしたんですか。行く当てもないのでしょう?」

「ない……けど」

 返事を聞くと、今度は私の手を取らず、そのまま歩き出す。

「猶予期間というのは   」

 え、話し続けるの? これ付いて行かないといけない流れ?

 襲われるなら、こっちもこっちでいろいろ覚悟とか必要なんですけど。と、さっきまであった緊張はどこへやら、なんとなく付いて行かないといけないような気がして、あとを追いかける。どうせ、行く当てなんてないんだ。なるようになろう。

「そういえば、今日はどうしてあの公園にいたんですか? いつもは見かけませんでしたが」

 あ、それ訊くんだ。なんとなく避けてくれてるものとばかり思ってたけど。

「えっと、今日家に帰ってくるなって五千円貰ったんで、テキトーなスーパーで晩御飯買って、そこからお腹すくまで歩いてきたのがさっきの公園です」

「よくあるんですか?」

「たまに、ですよ。こっちに歩いてきたのも、なんとなく、行ったことない方向に歩いてきただけですし」

 並んで歩くと、先生の方が少しだけ背が高い。今まで座ってでしか先生を見てこなかったから、なんだか新鮮だ。

「先生はどうしてこんな時間に?」

 先生が帰る時間にしては遅すぎるような気がして、なんとなく訊いてみる。もはや、私が先生の家に行くことは確定事項になっていた。

「あ、ここで先生というのはやめてください。誰かに聞かれるとまずいので」

 そこは警戒してるんだ。なんだかもう遅すぎるような気もするけど。

「えっと、先生の名前って……」

 そういえば気にしたことなかった。入学式だって出てないし、親任式も当然行っていない。先生たちの名前も特に意識して覚える努力をしてこなかったので、わからない。

 先生には「先生」で伝わるし、それでいいと思っていたから。

 先生は溜息一つ吐いて、

斎藤姫麗(きらら)です」

「え?」

 随分とキラキラした名前に思わず聞き返す。私も大概言えたものではないが、思ってもいない名前が出てきた。

「姫初めの姫に、妖麗の麗と書いて『きらら』です」

 例えが悪すぎる。全然キラキラしてなかったよ。

「えっと、じゃあ、斎藤さん?」

「そこは名前呼びにしませんか? 苗字だと、どこかの芸人さんみたいになってしまいますし」

 確かに、私も言ってて思ったけど。

「じゃあ……きららさん」

「はい、なんですか?」

「あ、いや、呼んだだけです」

 そのやり取りに背筋がぞわっとする。出来立てほやほやの互いに呼び名を決めるカップルか私たちは。

 気持ち悪い。冷や汗が背中を伝って、浮き立つ鳥肌を加速させる。

 やはり、逃げるが正解だったのでは? と、足を止めようとしたところ、先に先生の足が止まる。感づかれた? とも思ったが違うようだ。

「着きましたよ」

 確かに、先生の家はこの辺にあった。でも、こんな近かったとは。公園から徒歩三分もかかってなかったよ。振り返ったら公園がまだ見えちゃってるよ。

 よりにもよって、そんな公園を選んでしまった自身の不運を嘆く。

 先生の家は、普通の一軒家だった。周りの家とあまり造りの変わらない量産された家って感じだ。

 表札にも、ちゃんと『斎藤』と書かれている。

「意外ですか?」

「えっ」

 心中を言い当てられて驚く。なんとなく、先生の家はお金持ちで、どこかしらのタワーマンションにでも住んでいるのかと思っていた。

 学校で見る先生は、いつも清潔感のあるスーツを着て、学校の規律と模範を体現したような堂々たる佇まいで、廊下を歩く姿は横目で見る私でも、纏うその清涼感に綺麗だと思ってしまうほど洗練されていた。

 まさかその先生が、こんな民家に住んでいるなんて想像だにしていなかった。

「わたしの実家です」

「えっ⁉」

「両親はどちらとも他界していますが」

「えっ」

 二重の驚き。私さっきから「えっ」しか言ってないけど、こういう時どうリアクションするのが正解なんだ。と、答えの出ない疑問を一人提唱していると、隣の家の玄関が開く。

「おや、姫麗(きらら)ちゃんじゃないかい。今、帰りかい?」

 出てきたのは、六十代くらいのご婦人だった。先生と面識があるのか、その場で立ち話を始める。

「はい、ただいま帰りました。奥田さんは今お出かけですか?」

 奥田さんというのかこの人は、と先生の陰に隠れて様子を窺う。奥田さんは裾の長い薄手のコートを羽織っており、化粧も簡素に、肌のシミをある程度隠す程度のすぐ出来るものであることが、玄関に付いている人感知センサーで点いた強い照明によってわかる。

「ええ、そうなのよ。今日旦那が働いてる会社の飲み会でね。帰りに乗ってたタクシーがオカマ掘られたらしくて、怪我はないみたいなんだけど、帰りの足がなくなってね」

「それは、災難ですね。お気をつけて」

 では、と自宅の扉を開けようとしたところで、奥田さんが私の存在に気づく。

「おや、その子。ここじゃ見ない子だね。その制服、姫麗(きらら)ちゃんのとこの学生さんかい?」

 見つかってしまった。なんとなくやり過ごせそうな気もしていたけど、そうは問屋が卸せなかったようだ。

 どうしよう。否定したら何で制服着てるのかってことになるし、肯定したらしたで、別の問題が生まれてくる。

 最初に口を開いたのは先生だった。私が何か、下手をこく前に先手を打ってきた。

「ええ。来週からですが、わたしが勤めている学校に転校してくることになった姪の漆です」

 すらすらと出てくる嘘に感心していると、急に下の名前で呼ばれ心臓が跳ねる。呼ばれるのは今日だけで二回目のはずだが、先生のせいで調子が狂っている。

「本来でしたら、休日の間に来てもらって、町の案内もする予定だったのですが、本人たっての希望で、早めに来ることになったんです」

 よくもまぁ、ぬけぬけと、さっき生徒が付いた嘘に溜息を吐いたのはどこの誰ですかと、聞きたいが、それでこの場を切り抜けそうなのだから何も言えない。

「平日だったので、わたしの仕事との兼ね合いでこんな時間になってしまいましたが、彼女にとってはこの町を見る時間が増えて、結果的にはよかったのかもしれません」

 わぁ、すごい。私の出来損ないのミルフィーユより、なんて頑丈で筋の通ったバームクーヘンだろうか。

「ただ、彼女が住むマンションの契約期間は来週からですので、その間だけうちに泊めることにしたんです。漆、挨拶して」

 うおっ、自己紹介? なんて言えばいいんだ。と、とりあえず、

「えっと、雅漆です。せ……きららさんには、前々からお世話になっていて、えっと……よ、よろしくお願いします!」

 いったい、何をお願いするというのだろうか。

「はっは、元気がいいわね。じゃあ、あたしは行くよ。旦那待たせてるからね」

 すたすた去っていく背中を見ながら、安堵のため息をつく。どうやら疑われることはなかったようだ。

 先生は、何事もなかったかのように玄関に向かい、鍵を開ける。

「先生、嘘上手いですね」

 嘘が上手い人は、嘘を見抜くのも上手いということだろうか。現文あんまり関係なかった?

「とても褒めているようには聞こえないわね。……あと、下の名前で呼んでって言ったでしょ」

「あ、すいません」

 二つの意味で。それと、

「何で急にため口なんですか」

 別に教師ならため口はままある事だと思うが、こう、急に変えられると、酷く困惑する。

「姪に敬語を使うのは、なんだかおかしいと思って。……嫌だったかしら?」

 いや、嫌ではないけど、なんか、私の中の先生のキャラとの差が激しすぎて、ちょっと風邪引きそうって言うか。

「『わね』とか『かしら』なんていう人現実にいませんよ。あと、敬語の方が話しやすいんで戻してください」

「せっかく付いた嘘なので、このまま続けようと思ったのですが。それにこの設定の方が、あなたも気安くここに来れますし。まあ、本人が嫌がるなら無理強いはしませんが」

 え、またここに来るの? 私としては今日が最初で最後のつもりだったんですけど。

「教師として、あなたのためにも、学校全体の風紀のためにも、あなたを制服のまま外に放り出しておくわけにはいかないので。あなたの話からして、またこんなことも起こりえるでしょうし。当てがないのなら、いつでもここに来ていいですから」

 玄関扉を開け、先生が手を差し伸べる。

 先生の表情はいつだって冷たいのに、時たまどうして、こんなにも暖かく感じてしまうのだろう。

 私の手は糸に引かれるように先生の手に導かれ、自然と手を乗っけてしまう。絆されるまま、引かれるままに、私はその温かい沼に沈んでいく。


2.姪と叔母


「少し散らかってますが、我慢してください」

 そう言って、ずんずん進んでいく先生。

 家の中も、特に変わったものはなく普通の家だった。靴箱やその上に置いてあるインテリア。玄関横には二階に上がる階段が設置されている。

 いや、何か変わったものを期待してわけではないけども。

 全然散らかってもいないし、掃除も行き届いている。

「お、お邪魔しまーす」

 思い返せば、他人の家に泊まるなんて初めての経験だ。

 わくわくとも、ドキドキとも取れる心音を落ち着かせながら、先生の後に付いて行く。

 途中、リビングだと思われる部屋のドアが開いており、好奇心から、少し覗く。

 見えたのは、散乱するごみ袋に、積まれた紙束、キッチンの方にはインスタント麺の空の容器がシンクから溢れ出していた。

「うっわ」

 思わず声が漏れてしまう。なるほど、散らかってる、ね。少しと言わず、盛大に。

「どうかしましたか?」

 私の声に気づいた先生が、戻って同じくリビングを覗く。

「ああ、安心してください、わたしたちの寝る部屋はここよりもう少しだけ綺麗ですから」

 あ、そう、なら安心……って、待って。

「私たちの寝る部屋?」

「はい、来客の準備をしていなかったので使える部屋が一つしかないんです」

 体が硬直する。やはり、帰った方がいいのでは……いやしかし、今更帰れる状況にないというか、逃がしてくれそうにないというか。

「に、二階とかは?」

「わたしと両親が昔使っていた部屋しかないですね。もう数年上がってすらないですし、きっと埃まみれでしょうね」

「……」

「不満が無いようなら、お風呂を沸かしてる間に、ごはんにしましょう」

 ありますが、不満。でも、言ったところで結局は同じ結末になるんだろうと察してしまう。毒を食らわば皿まで、先生に付いて行くならベッドまでか……。

 そんな先生はというと、お風呂のお湯張り機能と給湯器のボタンを押して、棚から取り出したカップ麺をいくつか吟味している。

「糖質50%カットのカップヌードルと糖質25%カットのごつ盛り、どっちにがいいですか?」

 なぜ味で訊かないのか。先生は糖質しか見ていないのか、それを気にするくらいなら、そもそも食べなければいいのに。

 なんて、糖質カットを謳っている食料品全般に向けて、失礼なことを考えてしまう。

「あ、私、自分のあるんでいらないです」

 先生に捕まったせいで、まだ一口しか食べれていないコロッケ六個入りの半額紙パックを鞄から取り出す。

 スーパーで半額まで粘ったものの、最後の一個でぎりぎり勝ち取った今日の成果物だ。

「そうですか、じゃあ、奥田さんから貰ったフルーツサラダがあるので、それと一緒に食べましょう」

 先生はごつ盛りの方を食べるようだ。沸いた湯を線の淵まで入れ、蓋をしてからリビングの机と椅子の上に置いてあるごみ袋や紙束をどかして、二人が並んで食事できるスペースを用意する。

「今日はよく動いたのでお腹がすいています」

 訊いてないですけど。

「はぁ、どこに行ってきたんですか?」

 何か訊いた方がいいのかな。と、コロッケを齧りながら質問する。

「風俗です」

「ッ⁉ ゴホッゴホッ!」

 口の中のコロッケを跳び出させまいと、飲み込んで逆にせき込んでしまう。

 元凶が持ってきた水を飲んで、聞き返す。

「なんて言いました、今」

「風俗」

 聞き間違いではなかったようだ。まあ、先生をしているのだし、発音や発声の練習はしているんだろうなぁ。

 じゃなくて、

「風俗?」

「風俗」

 うん、と。

「エッチな?」

「エッチな」

 オフコース、と。

「何で?」

「何で……」

 そこで返事に詰まる。私も私で自分の無神経な質問に気づく。

 風俗に行く理由なんて、限られているし、それこそデリケートな部分だ。聞くのはまずかったか。

「あ、えっと、別に答えなくても……」

「寂しかったから……ですかね」

 そっと、自分の気持ちを確かめるように口にする先生。カップの蓋を開け麵を啜る横顔は、いつも見る冷たいものだったが、その内に孕んだ感情は、孤高や冷涼ではなく、孤独と寒さだった。

 いたずらに触れれば、脆く簡単に壊れてしまいそうな、そんな危うさを感じさせる今の先生に、私は無性に触れたくなった。

 そっと手を伸ばし、先生の垂れた艶のある黒髪を耳に掛け直す。

「今日、お母さんの彼氏が家に来てるんです」

 義理というか、誠意というか、なんとなく私も話さないといけないような気がして、そう言葉を漏らす。

「私、父親知らなくて、ずっとお母さんと暮らしてたんですけど、そのお母さんが放任主義で、男漁り激しくて、こうやって時々家の外に放り出されることもあるんですけど、今日に限って、ネカフェも店舗改装とかで閉まってて、……正直助かりました」

 中学生までは、深夜を過ぎたら帰ってきてもいいと言われていたが、高校になってからは、彼氏をそのまま家に泊めるようになり、丸一日外に出されるようになった。

 お金は貰ってるし、授業料とかも払ってくれているから、感謝はしてるんだけど、あんまり好きになれないというか、そもそも母自体が、私のことを好きではないような気がしてならない。

「あの人も、きっと私がいて迷惑してるでしょうね」

「漆さん」

 カップ麵を食べながら、私の話を聞いているのかいないのかわからなかった先生が、手を止め声を掛ける。

「子供というのは、愛を受けて育たないといずれ死んでしまうそうです」

「……? そうなんですか」

「だからきっと、あなたもわたしも、どこかしらで親からの愛というものを受け取っているはずですよ」

 「わたしも」の部分に、一瞬だけ暗い翳が見えたような気がした。私がその翳を掴む前に、先生の方から私に触れてくる。

「思い出せますか? 母親からの愛」

 先生は先ほど髪を掬った私の手を取り、もう一度自分の耳にあてがう。箸を置き、正面に向き直った先生を私は直視できなかった。

 その行動に、前回感じた気持ち悪さは感じない。きっとこれは、先生のことを少し理解したから。直視できないのは、赤面した顔を先生に見られたくないから。

 そして思い出す。昔、まだ小学校にも入学していない頃、高熱を出した時に母が付きっ切りで看病してくれたこと。

 朧気な視界の中、縋って伸ばした手を母が取り、先生と同じく耳にあてがったこと。

 その行動の一致は、偶然でしかなく、お母さんも先生もきっと違う理由で私の手を取っている。

 先生は、どんな理由だろう。どんな理由で私に触れて、耳を触らせて何を感じているんだろう。

「わたしにも、実のところ愛が何なのかわかりません。ただ、こうやった触れ合いでしか、愛を育めないのは確かです」

 縋っているのは果たしてどっちだろうか。先生の瞳は熱く潤み、今にも泣きだしてしまいそうだ。

 私がもう片方の手を先生の頬に当てようとした瞬間、お湯張りが終了したアラームが鳴る。私も先生も、思わず肩を震わせ、互いに離れる。

「先に入ります。あなたも食べ終えたら、お風呂に入ってください。寝室は通路奥の突き当り右です。トイレはお風呂場の側にあるので」

 そう言って去っていく先生。その背中を見送り、私はついさっきの行動の危うさに、心臓をバクバクさせる。

 え、待って、もうカップ麺食べ終わったの? 早くない?

 今の一瞬で食欲が失せてしまった。食べる気力もないので半分以上残ったコロッケの袋を鞄に入れ、先生が言っていた寝室へ向かう。

 五月蠅い心音を手で感じながら、先生の顔を思い出す。先生から感じたのは幼さだった。子供が親に触れるような、甘えた、或いは無邪気か、そんな幼さが。

 満ちた潮が引き、心に凪の澄んだ海が戻ってくる。

 寝室の前に付き、扉を開ける。

 中はリビングよりも酷くはなかった。いくつか脱ぎ捨てられた服が散乱しているだけで、足の踏み場はまだある方だ。

 鞄を扉横に置き、敷布団が敷かれている方へ足を運ぶ。

 敷かれているのは一枚だけ、備え付けのクローゼットを開けて、もう一枚予備的のものがないか探す。さすがに、このまま何もしないのは気が引ける。物色は失礼だと思いながらも、布団を探す。

「ん?」

 クローゼットの下、手前側の取りやすいところに、半分ほど開いた小さな段ボール箱を見つける。そしてちらりと見えるピンクの影。

 こんなところに布団なんて入っていない、とわかっていながらも、好奇心に負けその箱を開けて取り出してしまう。

 中に入っていたのはピンク色の円柱形の物体だった。それは、柔らかく肌に優しいシリコンのような物質でできており、異様に手に馴染む設計になっている。持ち手らしき部分にはスイッチのようなものがあり、そこから先端に向けて凹凸のある形になっている。

 そう、これは、『バイブ』というものではないだろうか。

 潮、再到来。

 一度引いたのはこのためだったのかと思わせるほど高く、激しく、脈打つ心臓。

 私だって、十八歳かと聞かれれば、迷わず「はい」と、ボタンを押すくらいの性欲と不健全さを持ち合わせている。

 これ、ほんとに先生が使ってるやつなのかな、と、カチッ。

「ひゃっ、動いた⁉」

 その駆動音はいろんな意味で筆舌に尽くし難く、私はすぐにスイッチを切る。

 しかし、津波というのは、一派二派と続くらしい。

 私が急いで元あった場所に『それ』を戻そうとしたところで、

「興味あるんですか?」

「ひっ⁉」

 風呂に入ったカラスを思わせる艶めかしくもある湿った黒髪を拭きながら、先生が入口で私の持っているものを見ている。

 先生は左胸に斎藤と名前の入ったジャージで、スーツ姿とはまた違った印象を受ける。受けてる場合か、

「あ、えっ、そのっ、ごめんなさい……いや、見るつもりなくて、これ、そう、偶然と言いますか、偶然の偶然で……」

「偶然で箱の中身を取り出して、電源まで入れるんですか?」

 そこもちゃんと見られてた⁉

 どうやら言い逃れは無理らしい。

「ごめんなさい……つい出来心で」

「別に、怒ってなんていませんよ。そういうことは、漆さんが上がってからしましょう」

 三派目。先生からの右ストレートを真っすぐブレることなく、鳩尾に入れられる。私から引き金に指を掛けたとはいえ、やはりそんな流れになってしまうのか。

「着替えは用意してあるので、そちらを使ってください」

「はい……」

 勘違いとはいえ、先生にとんでもないものを見られ、意気消沈した私は、とぼとぼと部屋を出ていく。……勘違いでもないのか。


 先生のお風呂は、私の家よりも広かった。お風呂で足を延ばせるのは初めての経験だった。まあ、戸建ての家だから当然のことかもしれないが。あのお風呂に入れるなら、またこの家に来る価値があるのでは、と思えるくらいには満喫できた。んだけど、

「サイズは大丈夫そうですね」

 私の寝間着、もといひらひらと柄のついたランジェリーを見る先生に、イラつきの眼差しを向ける。

「何でこんなパジャマなんですか?」

 先生の高校生から使っているとしか思えない寝間着を見て、まさかこんなオシャレなものが出てくるとは思わなかった。

 肩や背中が無防備になるキャミソールに、素足をほとんど出すカボチャパンツ。セットで売っているものなのか、柄がよく似ている。

 先生からは見えていないが、用意されていた下着も、柄や色合いが派手なものばかりだった。さすがに一日中履いた下着をもう一度つける気にはなれなくて、仕方なく履いてるけど。仕方なくね。

「昔、恋人だった人から貰ったものです。使う機会がなかったので、今開封した新品ですから、安心してください。下着も同様です」

 何を安心しろというのか。

「先生って恋人いたんですね」

 学校での冷涼な先生と、この家をこんなにも散らかしている先生、どちらとも想像がつかない。

「大学時代の話です。その人とも、結局二か月と持ちませんでした」

 そう言って、布団に入る先生。クッションを畳んで厚みを出し、簡易的な枕を作って、普通の枕と並べる。先生はクッションを使うようだ。

「どうぞ」

 どうぞとは。

 布団の端により、開いた方をトントン叩く先生に疑問符を浮かべる。

「えっと、どういうことですか?」

「言ったでしょう。来客の準備をしていない、と。セミダブルなので、少し狭いと思いますが、わたしたちが寝る分には問題ないでしょう」

 ………………。

 この時の先生の行動に、最初感じていた悪寒や気持ち悪さは全く湧いてこなかった。

 それはきっと、今日、この数時間だけで、先生のいろんな顔が見れたからだろう。冷たさ、寂しさ、暖かさ、幼さ、どれも初めて見る感情で、どれも先生だった。

 こんな感情初めてだ。

 私はいつも他人に関わらず、興味を持たないようにしてきた。それが一番人を傷つけず、私も傷つかない方法だったから。

 でも、今は先生のことを知りたくて仕方がない。先生のあの表情の裏に、何が隠れているのか、私は知りたい。

 いや、言葉で隠すのは止そう。私の中で、思春期由来の性欲が胸を高鳴らせているのだ。性欲半分、知りたい半分って感じだ。

「漆さん?」

 肩が跳ねる。先生の顔をずっと見ていたせいで不思議に思ったのか先生が私の名前を呼ぶ。

 いつの間にか名前呼びになっていたが、そんなこと気にならない。

 それどころか、先生に名前を呼ばれるたび、心が弾んでいるような気さえする。

 今まであまり好きでもなかった名前だというのに、不思議なものだ。

 焦っているのがばれないようにゆっくり布団の方に向かい、目を合わせないように入る。

「電気消しますよ」

 手元のリモコンで電気を消し、上半身も布団の中に入れる先生。

 目を閉じているというのに、衣擦れの音が、感じる体温が、触れ合う感触が、先生の存在を強制的に知覚させる。

「やはり、少し狭いですね」

 そう言って、少しこちらによる先生。

 私がお風呂上がりのせいか、先生の体温が低く感じられた。

 目を開き、窓から差し込む薄明るい月光を頼りに、先生を見る。

「やっと、目を開けてくれましたね」

 先生と目が合う。先生もわたしも横向きに、互いに見つめ合った状態で寝ていた。

「……先生って、今日風俗言って来たんだよね」

 ただ無言で見つめ合うことに耐えきれなかった私は、何とか話題を振りしぼる。

 眠気は一向に来ない。

「ええ、そうです」

 就寝前の会話にしては、些か刺激の強い会話だ。

「それって、どんな感じでしたか」

「どんな、とは?」

「えっと……き、気持ちよかったとか、悪かったとか、満足だったとか、足りなかったとか……」

「そうですね……気持ちよかったですよ」

 心に少し、針のようなものが刺さった感じがする。

 先生の身体は先生のものだし、それを好きに使うことに私が何か言えた立場じゃない。

 けど、なんだろう、胸に靄がかかったように、気分が晴れない。

「でも」

 と先生は続ける。布団の中にある私の手を取って、

「満足できたか、と訊かれると、できていないように思えます」

 ぎゅっと握る。私も私で、返すように手に力を籠める。

「相手は、男性ですか」

 少しだけ、先生の方に近寄る。

「はい、今回はそうでした」

 今回……。

「女の人とも……したことあるんですか」

 若干、前のめりに訊いてしまう。

「はい。その服と下着を貰ったのも女性の方からでした」

 キュッと、心臓が締め付けられているような感覚に襲われ、先生の手を握る力が強まる。

「……もしかして、興味……あるんですか?」

 自身の心を言い当てられて、息を呑む。

 顔が熱い、恥ずかしくて先生から目を逸らす。性欲丸出しの子供に見られてはいないだろうか。

「申し訳ありません。そんなに恥ずかしがるとは思っていませんでした」

 薄明りの中からでもわかるくらい私の顔は赤かったのだろうか。余計に恥ずかしくなる。

 いったい、私はどうしてしまったのだろう。

 人に興味を持つような性格でもないし、こうして、他人と同じ布団で寝るところを想像したことなんて、生まれて一度も……。

 先生の手を掴んで、耳に当てる。リビングの時と真逆の構図だ。

 この近さだと、先生の心音がはっきり聞こえてくる。私のよりも、少しゆっくりだ。

「……先生」

「なんですか?」

 私の心音が大きくなって、先生の音をかき消す。

「私今、すごいドキドキしてる」

 胸の高鳴りを抑えることが出来なくて、先生との繋がりを離すことなんて出来なくて、

「……わたしが恋人としてたこと、知りたいですか?」

 そういう行為に興味があるんじゃない。先生との行為に興味があるんだ。

 でも、そんなことを言ってしまえば、言葉になんてしてしまったら、私と先生の間に何か亀裂のようなものが生まれそうな気がして。

 首を振らず、頷きもせずにいると、先生の方から動き出す。


「理由が必要ですか?」


 先生が体を持ち上げ、私に覆いかぶさるような体勢になる。足で腰の両端を抑えられ、両の手首を掴まれて、完全に逃げられない状況だ。

 逃げるつもりも、力もないが。

 主導権は完全に先生の方だ。

「あなたは、道を歩いている途中、悪い教師に唆されて家に連れ込まれ、そのまま強姦に合ってしまう」

 溢れた涙が目尻を伝い、枕に落ちる。

「あなたは何もしなくていい。ただ、わたしに体を預けて……」

 私は溺れる。先生の優しさに。

 肌と肌が重なり合い、互いの境界線もあやふやになる。性別や年齢、立場なんかもごちゃごちゃに混ぜ合わさって、一つになる。

 時刻は午前一時。登り切った満月が落ち始める頃、私たちは混ざり合ってもはや区別がつかなくなった一線を超える。


3.先生(?)と生徒(?)


 私たちの関係はしばらく続いた。

 何故って? 私に聞かれても困る。私だって、あんな思いするのは一回限りで十分だ。

 ……でも、知りたくなってしまったのだ。あの時の先生の気持ちを。あの時私が先生に抱きかけた感情の答えを。

 家に帰れないときは先生の家に泊まって、そのまま学校へ行く。先生の朝は早いみたいで、私が起きる頃にはもう学校へ行っていた。必然的に戸締りは私がすることになって、先生の家の合鍵を手に入れた。

 大丈夫か、先生の防犯意識……。

 学校じゃ、先生はいつもの調子で「氷冷の美人」として接してくるので、こっちは授業中、妙に緊張して眠れないし授業の内容にも集中できなかった。学校内でだけは普通の苗字呼びに戻ってるし。

 夜に見せた先生のか弱さや幼さはどこへ行ったのやら、学校内では鳴りを潜めている。次の日学校で会った時、どう反応していいかドギマギしていた私がバカみたいじゃないか。

 まあ、そんなこんなで泊まったり泊まらなかったりを繰り返して一か月が経つ。

 あの夜以降、先生と体を重ねることは度々あった。大抵は先生から誘ってくる。私の答えを聞かず、強引に。私も私でその誘いを断り切れずに……いや、私自身も先生とする行為に少なからず期待してしまっているのだ。

 大人と子供、教師と生徒。年齢や立場の違いからくる罪悪感が掻き立てる性欲か。それとも、先生に感じているもっと他の感情か。あるいは、その両方かも。

 今日は、いや、今日も家に彼氏が来ると言うので、いつものように母から五千円を渡された私は学校が終わりそのまま先生の家に直接行く。

 先生とは、毎回帰りが別だ。他の生徒や教師に知られるわけにはいかないし、先生にもちゃんと先生らしく仕事があるみたいだ。

 だから大体、私の方が先に先生の家に着くのが早い。先生が帰ってくるまでの間、私はただぼーっとしているわけではない。

 時計の針が午後九時を過ぎてから、ようやくガチャリと玄関が開く音がする。

 いつもよりずいぶん遅いな、と思いながら私は作業の手を止めて出迎えに向かう。

「おかえりなさい。先生」

 この言葉も段々言い慣れてきた。

「ただいま帰りました」

 先生は酔っているのか、少し顔が赤く、頭がふらふらしていて、足元が若干不安定だ。

「遅かったですね。何かあったんですか?」

「申し訳ありません。連絡しておけばよかったのですが、今日は勤め始めてからバタバタしてできていなかった新人教師の懇親会があって、私も断るわけにはいかず、こんな時間になってしまいました」

 そう言って、玄関に腰を下ろして靴を脱ぐ先生。飲み会、なるほど。だからこんなに遅くなったのか。

 そういえば、未だに先生と連絡先を交換していなかった。

「お風呂、まだ温かいんで、先に入ってください」

 先生の荷物を預かって、風呂場へ催促する。

「……随分綺麗になりましたね」

 向かう途中、廊下からリビングを覗いた先生が呟く。

 先生が帰ってくるまでの間に、私は家の掃除をしている。私の家もなかなかに汚いが、それでもくつろげるスペースくらいはある。見かねた私はせめてリビングだけでも、と通い始めてから三回目辺りで掃除を始めた。

 ごみをまとめて袋に詰め、山積みの紙束を目立たないよう端に寄せただけだが、それでもリビングと呼べるだけの広さを取り戻しつつあった。

 先生がお風呂に入っている間、私は先生用に準備してあった総菜を冷蔵庫に入れて、自分の分を食べる。先生はほぼ毎日カップラーメン生活をしているらしいので、流石に健康に悪すぎると思って来るときは野菜重視の総菜を二人分買ってきていたのだが、今回は必要なかったようだ。って、私は通い妻か!

 食べ終える頃、先生が上がってくる。

 ジャージ姿のいつもの寝間着だ。ちなみに私もあのオシャレな寝間着を着ている。今では着慣れてあんまり恥ずかしくなくなってしまった。慣れって怖い。

 先生は私に向かって一直線に歩いてくる。そのまま私の後ろに回って抱き着く。

「せ、先生?」

 返事はない。ただ、私を抱きしめる腕の力が強くなる。どれだけ飲んだのか、きついアルコールの臭いが漂ってくる。

「何か、あったんですか?」

 いつにもまして先生は静かだ。先生の息遣いを耳の裏で感じ、ぽつりと蛇口から水滴が零れるように先生は呟く。

「……今日。同輩の教師に告白されました」

 その言葉に、私の心臓が跳ねる。どうして今私に言うのか、どうして私の心臓は痛いくらいに脈打つのか。考えている間に、先生が続ける。

「彼も酔っていたのでしょう。同じ大学出身で、あまりお酒に強くない人でした」

 彼……ということは男か。先生と一緒に来た新任の男性教師は一人しかいない。私のクラスで日本史を教えていて、イケメンで優しくて女子生徒からの人気が異様に高い先生だった。先生と同じ大学だったのか……。

 ふと、嫌な考えがよぎってしまって、先生の抱き着く腕を掴む。もしかしたら、このまま突き放されてしまうのでは。なんて、ここ何日かこの家で間近に先生を見てきて、そんなことするような人じゃないとわかっているのに、不吉な予感ばかり巡るのだ。

「……先生は、なんて言ったんですか」

 私の声は、震えていなかっただろうか。縋りつくように聞こえてしまっただろうか。

 背中で先生の存在を知覚しながら返答を待つ。


「秘密です」


 心臓がキュッと締め付けられる。

 秘密。言いたくないのか、気を使って言わないのか。私にはわからない。受けたのか、断ったのかすら想像できない。

 先生にとって私は生徒以上になりえているのだろうかと、今更ながらに考える。

 一ヶ月間、先生を傍で見て、ご飯を共にし、身体を重ねてきたが、その心中はいまだにわからない。私は先生のことを何も知らないのだ。

 しばらく何も言わずにいると、先生の手が服の中に入ってくる。

「えっ、ちょっ⁉」

「今日もあげた下着は付けてないんですね」

 残念そうに言いながら、先生は下着の隙間に手を入れて直に胸を揉み、下の方にも手を這わせられたところで、静止する。

「今、ダメです! 先生、ベッド、ベッド行きましょう」

 普段は優しくリードしてくれるのに、アルコールの力でキャラ変してしまったようだ。

 体重を預けてくる先生を背中に乗せたまま寝室まで運び、布団の上で力尽きて先生に押しつぶされる。

 肩を掴まれてひっくり返され、覆いかぶさった先生と目が合う。

 照明はついておらず、頼れる明かりは窓から差し込む満月の薄明かりのみ。

 図らずも、最初先生の家に来た時と同じ構図だ。

 心臓がうるさい。自分の呼吸が荒くなっているのを感じる。顔に血が上っているのか、耳が熱い。

「すみません。今日は優しくできそうにないです」

 そうやって、私たちはまた夜に沈む。

 何も考えないよう、溺れる海を求めて。

 先生との繋がりを確固たるものにするかのように。


 体の節々に痛みを感じながら、布団から起き上がる。

 いつものことだが、朝が早い先生はもうすでに学校へ行ってしまったようだ。

 着ていたはずの寝間着はいつの間にか部屋の隅の方に飛ばされており、私は下着姿だった。

 肩や首筋、鎖骨に胸といろんなところに付けられた先生との行為の証が目に付く。具体的に言えば、歯形やキスマークのことだ。

 口に出すのも恥ずかしいが、昨日の行為はとても激しかった。布団の中じゃ、私は完全にネコだった。歯や爪を立てる暇すら与えてもらえず、先生の為すがまま、ただ鳴くことしか許されなかった。いつもは私に配慮してくれていたんだと、改めて思う。

 酔った先生は酔った先生でなかなか良かったけど。と、鎖骨に着いたキスマークを撫でる。これ、制服で隠せるかな。

 制服を着ると案の定、首と鎖骨に着いた痕は隠しきれなかったので絆創膏で誤魔化す。良かったけど、キス魔になるのはちょっと勘弁してほしいな。

 鞄を取って、戸締りし学校へ向かう。頭の中にあるもやもやを振り払うように小走りで。

 ……先生に一言文句を言ってやらないと。


 窓際の席で曇り空を眺めていると、ぽつぽつと雨が降り始める。しまった、傘を持ってくるのを忘れてしまった。学校が終わるまでに止んでくれることを願いながら、視線をノートに落とす。

 今日は現文がない。会いに行けるのは昼休みか放課後だろう。私の場合、放課後に会いに行った方がいいかな。なんて板書しながら考えていると、チャイムが鳴る。

 四限が終わり、古文を教えていた教師が出ていく。案外、一日なんて早いものかもしれない。

 他の生徒たちは学食や購買へ昼食を食べに、あるいは買いに行く。私も例に漏れず、職員室とは反対の購買へ向かう。

 私たちの関係は、他人にバレてはいけない。先生のことを考えるなら、怪しまれることすら避けたい。

 階段を下り、曲がり角に差し掛かったところで声が聞こえる。

「海原先生。少しいいですか?」

 先生の声だ。

 立ち聞きなんてあまり趣味のいい行為ではないが、興味本位で足音を立てないように、防火扉に体重を預けて覗き見る。

 曲がり角の先に居たのは、先生と……日本史の教師、昨日先生に告白したと言う教師だ。海原なんて名前だったのか。

 先生は海原に話しかけて、一枚の紙を並んで見ている。先生はいつもの通り無表情で何を考えているかわからないが、海原の方は少し赤面して、会話の内容に、あまり集中できていないように見える。


『秘密です』


 昨日、先生が言っていたことを思い出す。

 ダメだ。考えないようにしてたのに。

 先生にとって私はただの生徒で、それ以上でも、それ以下でもない。せいぜい、体のいいセフレだ。

 いくら同じ布団で寝ても、いくら体を重ねても、私は先生の特別にはなれない。あの時感じた感情の答えも、きっと意味のないものなんだろう。肌を重ねている間は、通じ合えてると思っていた。互いの感情が、肌を通して混じり合って、一つになる。その感覚が気持ちよくて、一人じゃないって言ってくれてるような気がして。

 でも、それすら、私の独りよがりだった。

 視界が霞んで、温かい雫が零れる。

 あれ、私、泣いてる?

 頬を垂れる涙を拭って、視線を落とす。

 私って、こんなに涙もろかったんだ。こんなに感情的になれたんだ。

 今までずっと考えないようにしてきたけど、私って、先生のこと、ほんとは  。

「雅さん?」

 名前を呼ばれて、咄嗟に前を向く。

 先生と目が合った。海原もこっちを見ている。

 見られた。泣いてるところ。なんて言い訳しよう。

 ……言い訳? なんで言い訳しないといけないんだ。私は何か悪いことをしただろうか。覚えと言えば、夜中に制服で外をうろついていたくらいだ。

 なのに、なんで、こんな目に合わないといけないんだ。

 先生は一歩近づいてくる。つられて私は一歩下がる。

 今、先生に触れられてしまえば、感情の抑えが効かなくなってしまいそうな気がして。

 先生がもう一歩踏み出す前に、走って逃げる。

 階段を下りて、下駄箱を過ぎ、校門を出る。外は雨が降っていた。

 降り始めたばかりだろうか、段々と雨脚が強くなってくる。

 それでも、私は構わず走っていた。上履きのまま、無我夢中に。

 体を撃つ雨粒が痛いけど、それで涙が隠せるならむしろありがたい。

 当てもなく走って、交差点に差し掛かる時、制服の襟を思いっきり引っ張られる。当然そんなこと予期していない私は引っ張られるまま、尻餅をつく。その先を、大型トラックが勢いよく通り過ぎていく。

 向こう側の信号は赤だ。信号、見てなかった。

 振り返ると、先生が息を切らして地面に膝を突いている。未だ頑なに制服の襟を掴んでいた。

「横断歩道は信号を見てから渡ってください‼ 車は危険なんですよ⁉」

 土砂降りの雨が地面を撃つ音にも負けないほどに、先生は声を上げる。

 先生がこんなにも感情を露にするところを初めて見た。

 私は先生の手を振り払って立ち上がり、声が届くところまで近づく。

「なんで……なんで付いて来たんですか」

 追いかける理由なんてないはずだ。私はただのセフレなんだから。

 先生も立ち上がって、私の目を真っすぐ見てくる。

「漆さんが泣いてたからですよ」

 視線と同様真っ直ぐで優しい言葉だ。私は目を逸らす。

「……助けてくれて、ありがとうございます」

「いえ、次から気を付けてくれれば、大丈夫です。それより、わたしに何か言いたいことがあったのでは?」

 先生は何でもお見通しらしい。

「……そういう、わかってる風に言う先生が嫌いです」

「はい」

 先生は頷く。

「あの男の教師と喋ってる先生が嫌いです」

「はい」

 理不尽だと、自分で言ってて思う。

「一向に部屋の片づけをしない先生が嫌いです」

「はい」

 雨は弱まり、声が遮られることなく届く。

「私は、先生のことが、嫌いです」

「はい」

 雨が上がる。通り雨だったようだ。さっきまで隠れていた涙や鼻水を見られないようにするため、先生の胸に頭をのせる。

 そうだ。最後にこれだけは言ってやらないと。一ヶ月も先生を見てきて、ずっと抱いて気づかないようにしていた感情。はっきり言葉にして、伝えないと。


「好きぃ」


 縋りつくように、先生の服を両手でつかんで、胸に顔を押し付ける。

 先生は、少し笑って、

「はい」

 と一様に返事をする。私の情けない想いは、ちゃんと伝わっただろうか。

 先生は私の頭を撫でる。

 今は十月下旬だ。雨風に曝され、ずぶ濡れになった体では凍えるほど寒い。そのせいか先生の手が温かく感じられて、涙や鼻水や震えが自然と止まる。

「帰りましょう」

 俯くわたしの手を引いて、先生の家の方へ向かう。いつだって私に優しいのだ、この人は。

 連れられながら先生の背中を見る。

 大きいなぁ。少ししか身長は違わないはずなのに、私の何倍も大きく見える。


「  はい。申し訳ありません。他の先生方にも、そのようにお伝えください」

 先生の家に到着し、お風呂を沸かしている間、先生は学校へ早退の連絡を入れていた。

 電話を終えて、こちらに戻ってくる。

 先生の分のタオルを渡して、一緒にお風呂場に向かう。

「ほんとに、よかったんですか?」

 半分、いや、ほとんど私のせいで家に帰ることになってしまって少し罪悪感を覚える。

「午後からは授業もないので大丈夫でしょう。あとは海原先生が何とかしてくれていると思います」

「……」

 海原先生という言葉に引っかかって、少しの間先生を見つめてしまう。電話の相手は、あの教師か。

 視線に気づいた先生は何かを察したのか、私の隣に来る。

「わたしのせいですね。あなたがこんなに悲しい思いをしてしまったのは」

 そう言って、先生は赤く腫れた目尻を撫でてくる。もう涙は止まっているのに、蛇口に残った水滴が零れるように薄っすらと滲み出る。

「わたしも酔っていたんです。許してください。告白はちゃんと断りました」

「……ほん、と?」

「はい」

 その言葉を聞くと、今まで苦しかった肺が活力を取り戻したように、深くまで空気を取り込み呼吸できるようになる。肩に入っていた力も自然と抜ける。

 お湯張りが完了した音楽が鳴る。

「一緒に入りましょう。どちらかが上がるまで待っていて、風邪をひいてはいけません」

「は、はい……」

 ごもっとも、と断る理由も見つからないので素直に服を脱ぐ。なんだかんだで、先生とお風呂に入るのは初めてだ。


 お風呂から上がって、寝間着に着替える。

 そこではたと気づく。これお泊りコースじゃん、と。

 お風呂場では終始無言で、片方が湯に浸かり、片方が体を洗い、それを交互に。最後に二人で湯に浸かった。

 今まで、暗いところでしか先生の裸を見たことがなかったから、無駄に緊張してしまった。最後に向かい合って湯船に入っているときなんか、先生のおっぱいをガン見してしまった。男子小学生か私は。

 ……おっきかったなぁ。あれは着痩せするタイプだ。

「漆さん」

 名前を呼ばれて、肩が跳ねる。思考を読まれたかと思ったがそうではないらしい。

「お詫びと言っては何ですが、今日はあなたが満足するまで付き合いますよ」

 今日の先生はジャージではなかった。私の来ているものと、色は違うが同じデザインの寝間着だ。

「探すのに少し苦労しました」

 訊いてないのに何故か教えてくれる先生の手には、ビール缶が二つ握られている。

 まだ昼ですよ。と言う前に先生は寝室へ消えていく。

 追いかけ部屋に入ると、先生に手を引かれてそのまま布団の上に押し倒される。

「せ、先生?」

 答えない。先生はゆっくり顔を近づけて、私にキスをする。

「ッ⁉」

 次の瞬間、先生は舌で私の唇をこじ開け、何かの液体を流し込まれる。舌が痺れるような苦さと、鼻に抜けるアルコールの香。これ、まさか。そう思っても、口を塞がれ吐き出すこともできないので、私の喉はその液体を胃に流し入れる。

 流れてきたものを全部飲み切ったところで、ようやく先生は開放してくれる。

「せ、先生⁉ 今のって」

「さあ、なんでしょうね」

 薄く笑う先生の手には、開いたビール缶がその存在を示していた。

「今更ですよ」

 そう言って、ビールを口に含み再び私に覆いかぶさる。そしてまたキスをする。

 今度は私も、あまり抵抗することなく流れてくる液体を飲む。

「量はわたしの方で管理するので安心してください。水分も用意しているので定期的に摂取するように」

 用意周到だ。これ、思い付きじゃなくて、いつか実行しようと思って温めてたやつだ。

 ほんとに今更だが、これは教師としても人としてもやってはいけないことだろう。

 まあ、バレなきゃ犯罪じゃないって名言もあるくらいだし、大丈夫かな。と、二口目にしてもう酔っているのか、酷く短絡的な考えが浮かんでくる。

 これは長い夜になりそうだ。


  幕間.見つけた少女と重なる自分


 昔、あの公園でよく泣いていた。

 父と母は共働きで忙しく、わたしを構っている暇なんてなかった。

 互いに仕事人間で、仕事関係以外にはほとんど興味を示さない人だった。

 そんな二人がどうして結婚したのか、そしてわたしが生まれたのか、ずっと疑問だった。

 『姫麗(きらら)』という名前も、当時流行していた当て字名で雑誌に載っていたものを適当に引っ張ってきたと、そう言ったのは母だっただろうか。

 出版会社の編集部に勤めていて、そういう世間の流れに触れやすいところにいたと考えると、納得できる。

 対して、父は作家だった。世間に疎く、自分の世界に入り込み、食事すらままならなくなる。一度執筆作業に入ると、梃子でも動かなくなり、わたしが何をしても反応すらしてくれなかった。

 今ではどうして二人が出会って結婚したのか、なんとなくわかる気もするが、当時のわたしは、この二人の間には家族とは思えないほどの冷たい空気が流れていると、子どもながらに感じていた。

 母の帰りはいつも遅く、父は一日中家でパソコンとにらめっこしている。

 性格上、友達の少なかったわたしでも、体力は有り余っており、一度だけ次回作の案出しをしている父に、頼んでみたことがある。

 父は、まだ小さいわたしを抱きかかえ、外へ連れ出し、

「お父さんはまだ忙しいから、外で遊んできなさい」

 と言って、玄関を閉めた。

 それからだろう、両親に何かをねだることをやめたのは。

 寂しいときは、家で泣くよりも、公園で泣いた方が安心できた。家の空気は冷たくて、溢れた涙も凍ってしまいそうな不安があったから。

 そんなときは大体、奥田さんがブランコに座って泣くわたしを見つけて、目の腫れが引くまで一緒にいてくれた。


 それから何年かが過ぎ、春の息吹が新芽に命を与えるころ。両親が死んだ。

 唐突だった。あまりにも、あっけなく、無慈悲に。

 わたしの記憶に残る最後の両親の顔は笑顔だった。

 優しく頭を撫でるその手が、髪を耳に掛けてくれるその指が、とても温かく感じられて、わたしはつい、その母の手に縋ってしまったのだ。

 母だけじゃない、父からも、同様の暖かさを感じ取ることができた。

 今までの両親からでは、考えられないことだった。

「今までごめんなさい、姫麗(きらら)。わたしたちの我儘に付き合わせちゃって、でも、もう大丈夫。これからは、あなたのことちゃんと見るから」

 帰ってきたら、ご飯にしよう。そう言って出ていく父と母を見送ったわたしは、なんとも言えない感覚に襲われた。

 わたしを見てくれるという発言を嬉しく感じたり、今まで見てくれていなかったことにムカついたり、胸の内がごちゃごちゃかき混ぜられたような感覚だった。

 でも、そこには「希望」という二文字が小さいながらも、確実にあったのだ。

 数時間後に、その二文字が真逆の意味を持つ字に書き換えられるとも知らずに。


 両親が死んだ。事故だったそうだ。

 残されたのは、わたしと、わたしたちの家、多額の死亡保険金と、生前両親が溜めていた貯蓄。そして、黒く焦げた「希望」だった何かの残りカス。

 それ以来、わたしは父の仕事部屋と家族の寝室がある二階には上がらなくなった。

 二人の葬式は、小さいながらも執り行われた。

 もともと、親族という間柄の人間もあまりおらず、付き合いのあったご近所さんがいろいろやってくれていた。

 わたしはと言えば、ただ放心しているだけだった。両親の棺に泣き縋るでもなく、ただ眺めながら。

 わたしは、両親との思い出を探っていたが、見つからなかった。泣く理由も、惜しむ理由も。あるいは、これからできたのかもしれない家族の繋がりを。

 両親は本当にわたしを愛していたのだろうか。

 わたしは両親を愛せていたのだろうか。

 いや、そもそも、


 愛とは何だろうか。


 わたしは知りたくなった。

 でも、本で調べたところで、実際に恋人を作ってみたところで、肌を重ねてみたところで、答えは出なかった。

 高校の教師になったのは、高校生はそういった愛が人間に一番生まれやすい時期だからだ。自分で経験してわからなかったのなら、外側から見ればわかると思った。

 現代文を選択したのは、なんとなくだが、まあ理由を付けるなら、父が純文学作家だったからというのが一番もっともらしいだろう。

 授業で父の作品に見触れたことがあるが、高校一年生で扱うにしては、内容が少し複雑すぎて、重すぎる気もした。


 高校教師という肩書にも慣れてきて、スーツも馴染むようになったころ。

 帰り道に、うちの高校の制服を着た子が、わたしがよく泣いていたブランコにいるのを発見した。

 名前は、確か(みやび)(うるし)だったか。

 彼女の背中は、酷く小さく見えて、わたしの子どものころを思い出させる。

 思わず声を掛けてしまった。普段なら面倒くさがって無視していくところを、彼女の背中から漂う哀愁がそうはさせてくれない。

 彼女は初め、わたしの存在に怯えるも、冗談やスキンシップを挟むことで打ち解け合うことができた。

 会話することでわたしたちの共通点がいくつか見つかった。そして同時に、彼女自身にも少し興味が沸いた。

 彼女は、頑なにわたしを名前で呼ぼうとしなかったけど、それでも最後には、わたしの誘いに乗ってくれた。

 高校生というのは、一番恋が始まりやすく、そして一番間違いを犯しやすい時期だ。

 彼女が来やすい場所を用意するとは言ったものの、これを境に彼女はここへ来なくなってしまうかもしれない。

 それでも、このひと時の思い出が彼女の中に残ってくれて、間違いとしてでも彼女の一つの経験となるなら、別にわたしは何でもよかった。

 彼女に嫌われることだけ以外は。

 以前の恋人には、こんな気持ち抱いたこともないのに。


 彼女との生活は一ヶ月ほど続いた。

 彼女は意外と綺麗好きなのか、わたしの家を勝手に掃除し始めた。わたしはあまり気にしていなかったが、そこまで汚かっただろうか。

 今日はわたしも部屋の掃除を手伝おうと思っていた矢先、同輩の教師に飲みに誘われた。

彼女の視線から、今日は家に来るのがわかっていたので最初は断ろうと思ったが、ほとんどの教師が参加するとのことで、流石に浮いてしまうと参加することにした。

飲み会はつまらなかった。先輩教師から訊いてもいないアドバイスや『仕事は慣れたか?』なんて定型文を聞かされ、とりあえず相槌を打つ。

 ワイワイガヤガヤ、元来端っこで飲みたいタイプのわたしも、新人教師の懇親会なので無理やり真ん中で飲まされる。非常にストレスが溜まった。

 飲み会が終わっての帰り道、家の方向が同じという理由で一緒に帰っていた同輩の教師に告白された。

会話していて、ついポロッと漏らした感じだ。すぐに気づいて謝って来た。なぜ謝るのかはわからなかった。

 彼はわたしと同じ大学で同じゼミだった人間だ。わたしが男や女と付き合ったり別れたりを何回も繰り返していることを知っているのに、どこに惚れる要素があるんだろうか。

 わたしはされた告白はすべて受け取って来た。できるだけ多くの人と触れ合って、愛と言うものを早く理解するために。まあ、結果はさほど出なかったが。

 そのせいか、二股三股と増えていきトラブルになったこともある。

 いつものわたしなら、この告白も受けていたのだろう。

 でも、わたしはその告白を断った。

 恋人がいると言って。

 そう嘘を付いた時、なぜか彼女の顔が浮かんできた。あの、ひねくれ者で、なのに純真で、その場の流れに流されやすい、見ていて飽きないあの顔が。


 学校からずぶ濡れになって帰ってきた次の朝、学校に向かうとき、彼女を起こそうとしたが、彼女の幸せそうな寝顔を見ていると、とてもそんな気になれなかった。

 ので、手紙を書いて置いた。

 起きた時、彼女はどんな顔をするだろうか。昨晩はあんなに激しく盛り上がって、わたしに何度も「好き」と言ったことを思い出して、赤面したり、枕に顔を埋めてじたばたしたりするのだろうかと、フッと声を漏らしてしまう。

 彼女の寝顔を見納めながら、部屋を後にする。


4.娘と母


『頭痛がなければ遅刻でもいいので、学校に来てください。姫麗』

 重い瞼を擦りながら、先生の手紙を読む。先生らしい、非常に淡白な文だ。

 綺麗な字だな。なんて思って、書いている先生の指を想像する。細くて長い、色白で中指にペンだこがあって、そんな指で私を……。

「あぁああぁぁああぁ~」

 枕に向かって、今フラッシュバックした記憶を吐き出す。そのまま枕を顔に押し付けて、布団の上を二転三転。枕から先生の匂いを感じて、また四転五転。

「……はぁ」

 いつもしていたことなのに、昨日の行為は今までのどれよりも気持ち良かった。

 布団の中で、何度も先生に告白してしまったことを思い出す。

 先生の顔や声を思い出すだけで耳が熱くなる。

 全部先生のせいだ。私が恥ずかしくて布団の上を転がるのも、耳がかゆくなるほど熱いのも、「先生のことが好き」と心の中で言う度、心臓が強く脈打つのも、全部先生のせいだ。

「好き……」

 胸に手を置き、はっきりと口にする。

 どうやら、私は本当に先生のことを好きになってしまったようだ。

 先生と初めてまともに会話したのは、一か月前の夜が初めてだった。なのに、絆され、許し、心を奪われて、先生のことしか考えられなくなってしまった。

 私のチョロさに心底腹が立つ。あるいは、先生がよほどの人たらしなのか。

 いずれにせよ、いつまでもこんなところで寝転んでいるわけにもいかない。必要に迫られ、仕方なく体を起こす。

 時計は昼前を指していた。今から向かえば、五限には間に合うだろうか。

 立ち上がって、制服に着替える。五限は、確か現文だったか。

「……」

 今合うのは気まずい、昨日の夜あんなことしておいて、どんな顔して先生の前に座っておけばいいのだ。

 ……今日は、とりあえず家に帰ろう。

 で、明日また気が向いた時に学校に行けばいい。

 寝間着を脱いで、制服を手に取る。

 着替え終え、鞄は……あ、学校に置きっぱなしだ。まあいいかと、部屋を出る。脱いだものは一応畳んでおいたが、他に脱ぎ散らかされた残骸を見て、なんだか馬鹿らしくなった。

 その中に、昨日先生が来ていた私と同じ寝間着を発見し、顔が段々と熱くなっていくのを感じたので、足早に先生の家を出る。

「あら」

「あ……」

 出た所で、昨日会った奥田さんと鉢合わせる。向こうも今出てきたようだ。

 今合うのはまずい、どう言い訳しよう。

「あーっと……」

 と、妙な間を埋めるために声を紡いでいると、奥田さんの方から話し出す。

「ああ、いいのよ。二人の関係は、大体想像ついてるから」

「え……?」

 想像ついてる? それって、先生が作った姪と叔母という嘘を見抜かれてたってこと?

 それこそ、もっとまずいのでは?

「安心して、誰にも言うつもりないから」

 私の考えを察してか、奥田さんが先手を打つ。でも、どうしてわかったのだろうか、あの先生の嘘には、矛盾しているところはなかったと思うが。

 すると、奥田さんが辺りをキョロキョロし、塀越しに少し近づいてくる。

「今時間あるかしら? よかったら、中でお茶でも飲んでいかない?」

 拒否権は……どうやらないようだ。奥田さんの笑顔の圧に負けて、連れていかれる。


 奥田さんの家の造りは、先生の家と左右反転しただけで、ほとんど同じだった。しかし、先生の家とは違い、すごく整理整頓されている。先生にも見習ってほしいものだ。

「いやぁ、丁度病院の定期健診に行くところだったのよ。あなたと会えてよかったわ」

「えっ」

「ああ、定期健診って言っても、看護師やってる友達とか、若くてかっこいい先生とかとお話しするために行ってるだけだから、多少遅刻しても大丈夫よ」

 それは大丈夫ではないのでは? と出されたお茶を啜る。

「それでね、あなたを呼び止めた理由なんだけど」

 この手のおば……お姉さま方は本題と関係ないことで、話を一時間以上潰すイメージがあったが、奥田さんは違うらしい。

「はい」

「姫麗ちゃんのことで、話しておきたいことがあるの」

 まあ、なんとなく想像はついていたが。

 でも、奥田さんは先生とどういう間柄なのだろうか? 時々貰い物もしているようだし、それなりに親しくしてるのだろうか。

「あの子のこと見てみて、どう思った?」

 どう、とは? 感じたままを言えばいいのだろうか。

「……寂しい顔をよくする人だな、と思いました」

 今思えば、公園で出会った時もなんだか寂しそうな表情だった気がする。

「そう……」

 奥田さんは、何か考え込むように片肘をついて黙りこくる。何か返答を間違えただろうか。

「……あの子はね、両親からの愛を受けられなかったの」

 しばらくして、奥田さんはぽつぽつと話し出す。

「受けられなかった……?」

「そう。あの子が生まれた時、父親の方の仕事がうまくいってなくてね。母親が変わりに働いてたんだけど、その会社が薄給激務のブラック企業で、家に帰る時間もないくらいでね。そんな折に、あの子の両親は亡くなったの。だから、あの子は両親からの愛を知らないまま育ったのよ」

 愛を知らない、なんて前に先生は言ってたけど、本当に知らなかったのか。

 先生がする接触行為は、知らない愛を知るための行為で、風俗に行くのも、恋人や私とのそういう行為も、先生自身が自分を満たすための行為だったのだろう。

 ……でも、本当にそうだろうか。私には先生が求められたいと思っているようにも見えた。

「父親の仕事がようやく軌道に乗って、母親も転職先を見つけた矢先の出来事よ。車に乗っているところに、トラックが突っ込んできたそうよ。それ以来、あの子は妙に車に乗ることを避けちゃって、遠い学校にも、朝早くから歩いて行ってるくらいだし」

 確かに、先生は歩いていた。帰りはいつも日が落ち切ってから、途中、買い物を挟むともと遅くなっていた。学校からこの距離を歩くのは、車や公共交通機関を使った方が早いだろう。

 かくいう私も、ここへ来るまでにバスを使っている。

「話が重くなっちゃったわね。そうだ、『緋衣(ひごろも)』って小説家知ってるかしら? 結構有名で、学校の教科書にも載ってるらしいんだけど」

「『緋衣』……」

 確かにあった気がする。期末の範囲で、読み込んでいた記憶がある。家族愛や親子愛を描いている作品だった。緻密で独特な表現方法が使われていて、テストでは全く分からなかったが、なんとなく印象に残っている。

 タイトルは確か、

「『噓愛』……でしたっけ」

 内容は、愛を知らない少女が愛を騙る旅をし、いろいろな家族に出会って愛を知っていく過程を記したものだった。

 なんだか、今の先生みたいだ。愛を知らない先生が私に愛を解き、先生自身が私に愛を求める。

「そう。それを書いたのが、あの子の父親なのよ」

「……え?」

 なんて運命的で、皮肉な出会いだろうか。私と先生の出会いは、その物語によって紐づけされていて、手繰り寄せるように必然的な出会いだったのだ。

 もちろん、これは偶然に過ぎない。先生との出会いも、先生の両親の死も、何も、誰も、意図せず、意識せず、ばらばらの運命が一つの糸に見える、ただの錯覚。

 でも、私はこの錯覚を絶対に手放してはいけないと思って、席を立ちあがる。

「奥田さん、ごめんなさい! 少し用事を思い出しました」

「あらそう?」

 そう言ってほほ笑むマダム。

 玄関扉に手を掛けたところで、聞きたいことがあったのだと、立ち止まる。

「最後に一ついいですか?」

「なぁに?」

「奥田さんと先生の関係って、何ですか?」

 それを聞くと、はっはと昨日の夜にも見せた特徴的な笑い声をあげ、少し寂しそうな顔をする。

「あなたたちと同じ関係よ。あの子には言ってないけどね」

「?」

 しばし考え、答えに行き着く。なるほど、この人も大概嘘つきだ。なぜ先生の嘘を見破ったのかも、これで説明がつく。

 まだいろいろ疑問が残るが、時間がないのでその場を後にする。


「『尊敬』『知恵』『家族愛』『良い家庭』……ね」

 走りスマホをしながら、『緋衣』と検索し、予測変換に出てきた『緋衣草』から花言葉と調べて出てきた文字を読み上げる。

 先生、すっごい愛されてるじゃん。

 なんて思いながらスマホを片付ける。

 先生は、感じる時間がなかっただけで、しっかりとその愛を受けていたはずだ。先生自身が、「愛を受けて育たないと、死んでしまう」と言ったんだから。


 目的地に付いて、扉を思いっきり開ける。

 着いたのはもちろん学校、ではなく私の家。二日帰らなかっただけで、なんだか久しぶりな気がする。

 中には、半裸の母と全裸の男が寝ているだけだった。散らかりっぱなしで、服もごみも散乱している。昨日、やりながら寝たな。

 先生の家を片付ける前に、こっちを片付けた方が良かっただろうか。

 中に入って、母を揺する。

「ふがっ!」

 汚いいびきを出しながら、ゆっくり体を起こす母。

「ん? あ~、お帰り……」

 そして、お休み。と言わんばかりに、もう一度横になろうとする母を掴んで起こす。

「あの、話、あるんだけど」

 いつになく真剣な様子の私に、母も違和感を覚えたのか、瞼を擦って立ち上がり、男の脇腹をゲシゲシと蹴る。

「がっ、痛っ、えっ、なに」

「いつまで寝てんだい。もう朝だから帰んな」

 知らない顔だ。また男を変えたのか。

 ていうか、もう昼だよ。

「え、ちょっと、菫ちゃん、酷いよ、昨日はあんなに優しかったのに」

「夜かつ金持ってるやつ限定だよ。日も出て、金もなくなったあんたに、くれてやる優しさなんてないね」

 そう言って、服を押し付けて外へ追い出す。

「で、何? 小遣いたんなかった?」

「いや、そういうんじゃないけど……」

 どうしよう。ここまで勢いに任せてきたけど、どう切り出していいかわからない。

「何? 好きな人でも出来たの?」

「ッ⁉ 何でわかったの⁉」

 今のどこに、そう思える要素があるのか。母は、そうか~と、私そっちのけで感慨深そうにしている。

「やっぱ、似るもんだね。私たち」

「似る?」

「そ、私今三十二だよ? 私も丁度あんたの年ぐらいに、恋して、あんた産んでるんだから」

 初耳なんですけど。

「私だけじゃないよ。あんたのばあちゃんだって、昔十五の時、駆け落ちして、私が生まれたんだから」

 もっと初耳なんですけど。

「え、待って。何? ばあちゃんも?」

「そう、ばあちゃんも」

 あの優しく、穏やかな性格をしているばあちゃんが、そんなことをしていたなんて知らなかった。いや、確かに祖母にしては結構若いとは思ってたけど。

「いやぁ、私があんた産むって言った時、親父に殴られて、次の瞬間自分たちも同じことしてたって気づいて、全力土下座してたのが懐かしいよ」

 懐かしんでいいものなのか? それ。

「で、相手は?」

「え、相手?」

「そうでしょ。同学年か、先輩か、はたまた全く違う男か。いろいろあるでしょ」

 そのいろいろに女教師は含まれていないような気もするのだが。

「えっと、女性で」

「ほう」

「あと、教師です……」

「なるほど」

 ふむふむ、と。

「アリです」

「いや、ナシでしょ」

 普通に考えたら、いや考えなくても教師との恋愛なんて言語道断。無事教師が逮捕されるだろう。

「私は、女にも、教師にも、恋したことないけどさ、別にいいんだよ。誰に恋したってさ。性別や年齢なんて壁にならない。立場だって、その気になれば捨てれられる。愛に、制限なんてのはないんだからさ」

 そう言って、母は私の頭を撫でる。

 まったく、だから好きになれないのだ。いつもは、粗野で適当なのに、こうやってたまに母親面をする。嫌いにも、好きにもなれない。苦手だ、ほんとに。

「しばらく、家に帰らなくなるかも」

「おお、それはちょっとばっかし、寂しくなるな。でも、大丈夫だ。遠慮なく行ってきな」

「高校にも、ちゃんと通いたい」

「いつの間にか、優等生だな」

「たまに連絡する」

「親孝行だねぇ」

 いまだに撫で続ける母の手を払いのけて、ちゃんと目を見る。

「それでも、いい?」

「いいとも」

 即答だった。母らしい、母なりの愛をもってして。

 立ち上がって、玄関へ向かう。

「行ってきます!」

「いってらー」

 プラプラと手を振る母を背に、繕わない愛を感じながら私は先生の下へ向かう。

 先生に言うべきことを言うために。


5.恋人と恋人


 高校の門を潜って、校内の時計を見ると、もうすぐ五限が終わる頃だった。

 急いで教室へ向かう。

 教室の扉を開くと、全員の視線を浴びる。が、関係ない。

 板書中の先生の手を取り、引っ張って教室から抜け出す。

「え、漆さん?」

 戸惑う先生の声。

 床に落ちて割れるチョークの乾いた音が鎮まる教室に響き渡る。

 時間が今だけ、私たちにだけ流れているような気がして、なんだか楽しくなってきた。

 先生も、最初は少し抵抗したものの、校門を越えたあたりから、一緒に走ってくれていた。

 五限の終わりを告げるチャイムが鳴る。私たちも走るのを終え、横並びで手をつないだまま歩く。

「今日は、もう来ないと思ってました」

 最初に口を開いたのは先生だった。

「来ますよ。先生に会うために」

 先生の手は冷たい。やっぱり昨日は雨が降ってたから温かく感じたんだろう。

「どうして?」

 それは、

「先生に言うことがあって」

 先生のことを知りたい。先生の近くにいたい。先生のことを見つけてあげたい。言いたいことは山ほどあるけど、言わなきゃいけないのは一つだけ。


「私、先生のことが好きです。付き合ってください」


 立ち止まって、向かい合って、お互いの目を見合って、想いを伝える。

 昨日、何回も言った。何度も伝えた。けど、先生は一度も返事をくれなかった。

 告白を聞いた先生は、やはり、寂しそうな顔をして、

「……きっと、後悔しますよ」

「するでしょうね」

「……理想と違って、幻滅しますよ」

「まあ、それもするでしょうね」

「じゃあ、その誘いは  」

「嫌です」

「えっ」

 先生が言い終わる前に遮る。そこから先は、何が何でも言わせない。

「後悔も、幻滅も、付き合ううえであって当たり前のことです。むしろ、理想道理に行くことの方が少ないと思います」

 私は、先生に理想を抱くし、願望もある。でも、それがかなわなかった所で、問題にはならない。

「人に失望して、幻滅して、何もかも失って、最後に残った飾らない相手を想う感情が『愛』なんだと思います」

 私が飾らない母から愛を感じるのも、私が先生に向ける飾らない愛も。

 先生は、うわべを取り繕うのが得意だ。自分の感情を隠し、他人の感情と同じように振舞う。でも、それは自分の心に嘘を付いているに過ぎない。

 解れた隙間に足を入れれば、すぐにぼろが出る。

 先生の家が、人に見られる玄関は綺麗で、それ以外がゴミだらけだったのは、先生の心の表れだろう。

 先生の奥底には、ちゃんと愛がある。両親から貰っていたはずの。

「私が教えます」

「……え?」

 きょとんとする先生に、私は言葉を紡ぐ。

「私が先生に、『愛』が何かを教えるんです」

 言葉にしないと、わからないなら、面と向かって言ってやる。

「先生、私先生が好きです。愛してます。この気持ちは、先生にだって変えられません。わかったら、私と大人しく付き合ってください」

 ぶっちゃけ、こんな人通りがある中で告白するのは恥ずかしいが、不思議と、顔が熱くなったりはしなかった。

 こんなに強引に行くのは、初めて先生が家に私を連れていく時も、強引だったから。今度は私が先生の手を引く番だ。

 先生は、私の言葉を聞いた後、フフッと笑って、

「本当に、わたしでいいんですか?」

 と訊いてくる。

「先生じゃないと嫌なんです」

 というか、

「先生が私の初めてを奪ったんでしょ。責任取ってください。責任」

 ハハッと、今度はこらえきれなくなったように笑いだす。その目尻には、うっすらと煌めく雫が浮かんでいた。

「漆さん」

 笑顔の先生は見慣れなくて、少し見惚れてしまう。

「……はい」

 先生は、私の手をぎゅっと握って、

「これから、よろしくお願いします」

 そう、言ってくれたのだった。

 先生に呼ばれるこの名前を、私はいつの間にか好きになってしまっていた。


「やめますか」

 学校へ戻る途中。唐突に、先生が不吉なことを言い出す。

「な、何をやめるんですか?」

 まさか、この関係を⁉ と思ったがどうやら違うらしい。

 先生の手は、まだ固く私と結ばれたままだ。

「高校の教師を、ですよ」

 はぁ、って、

「ええ⁉」

「何驚いてるんですか?」

「え、いや、だって……」

 ハァ、と先生は溜息一つ吐いて、

「生徒と恋人関係になるんですから、わたしも相当の覚悟をしないといけません。なら、ばれる前にとっとと、やめてやろうという算段です」

「な、なるほど……」

 決まったこととはいえ、なんだかすごい罪悪感だ。

「それに、先生という立場を失えば、漆さんもわたしを名前で呼んでくれるでしょう?」

「えっ」

 それは、要相談と言いますか、

「っていうか、それが本命でしょ」

「おや、バレましたか」

 隠す気もないくせに、よく言う。

「でも、まあ、漆さんが卒業するまでは続けるとしますよ」

 私の灰色だった世界は、ほんの少しだけ色づいた。

 私と先生の間にある、この三センチ半の隙間に、いろんな感情が混ざり合った鮮やかな糸が、二人を繋いでいた。


春秋冬と書いて『ナツナシ』と言います。作品の感想はお気軽に。一応校閲はしていますが至らない所もあると思いますので、誤字脱字の指摘・不明点の質問についてもしていただけると助かります。出来る限り修正・解答いたします。

 また、「つまらない」「面白くない」といった中傷コメントは私の心が耐えられませんので出来る限りおやめください。

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