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第5話 バックステージの誤字

案内は迅速だった。

ハンスは俺を、広場の片隅に設けられた高いテラス——貴賓区画へ、ほとんど押し込むみたいに通した。


入口を越えた瞬間、耳が詰まった。

外では鼓膜が裂けそうな歓声と音楽が渦を巻いているのに、この内側は嘘みたいに静かだ。淡いクラシックの旋律と、食器が触れ合う乾いた音だけが残っている。


香水とワックスと、焼けた肉の匂いが、妙にお行儀よく混ざっていた。

透明なガラス壁一枚で、世界が二つに切り分けられている。

外は汗と悪臭と狂気の叫びが混ざった地獄絵図。

内は埃ひとつない白いテーブルクロスが敷かれた天国。


俺は案内された席に座った。


ウェイター姿の男が、俺の前に皿を置いた。

湯気の立つ分厚いステーキ。血じゃない。肉汁が溜まり、熱い脂が表面で微かに震えている。


うっ——。


胃酸が揺れた。食欲というより、飢えた獣が獲物を見たときの条件反射に近い。


俺は手で掴みたい衝動を押し殺し、フォークとナイフを取った。


スッ、スッ。


肉を切り、口へ運ぶ。


熱い肉汁と脂が舌を包んだ。味わう暇なんてない。

食道を滑り落ちた熱い塊が、空っぽの胃を殴る。視界が一瞬ふらつくほどの、強烈な満ち方。


「……はぁ」


吐息が漏れた。


生き返る。

いや、ようやく“人間”に戻った気がした。


だが同時に、底の抜けた罪悪感が喉を突き上げてきた。

ガラスの向こう、すぐ足元では、人々が自分の記憶を引き裂くように捧げて泣き叫んでいる。その痛みを燃料に回る街で、俺だけが安全なガラスの内側で肉を噛んでいる。


これは、略奪者の食卓だ。


(気持ち悪い。でも……止められない)


俺はパンをスープに浸し、むさぼるように口へ放り込んだ。

今は倫理より生存が先だ。生き残らないと、何も変えられない。


——そのとき。


風に舞った紙切れが一枚、テラスの欄干を越えて俺の足元に落ちた。

舞台へ投げられていた、あの無数の札の一枚だ。


俺は無意識に拾い上げた。

子どもの字みたいに、歪んでいる。


【お願いです。お母さんを覚えていてください】


噛んでいた肉が喉に引っかかりそうになった。


(覚えて、ください?)


病気の母のために祈るなら、「助けて」や「治して」が先に来る。なのにこの文はおかしい。

まるで“そう書け”と教え込まれた定型文みたいに整っていた。


(これは祈りじゃない)


職業病が疼く。文字を見た瞬間、文の目的が目に刺さる。

この文章は誰かを説得するためじゃない。誰かに“回収されやすい形”に整えられている。

切実な願いじゃなく、システムが回収しやすい同意文。記憶を差し出すための文言。


「……手つきが、随分と慣れていらっしゃる」


不意に声がして、俺は跳ねるように顔を上げた。


いつの間にか、テーブル脇にウェイターが立っていた。

水を注ぎながら、俺の手をじっと見ている。正確には、俺が握るナイフを。


——やばい。


腹が減りすぎて油断した。

この世界の貴族は、ナイフをゆっくり、見せつけるように使うはずだ。

だが俺は違う。速く、効率よく肉を解体して口へ入れる癖が染みついている。


異質な手つき。

その小さな綻びを、こいつは見逃さなかった。


目が、サービス業の目じゃない。

保安係の目だ。


「……」


俺は答えなかった。言い訳は疑いを育てる。

ナイフを皿に「カン」と置き、ゆっくりナプキンで口元を拭く。

そして顔を上げ、相手を正面から見返した。


(食事中に話しかけるのか)


無言の圧。


だが男は退かなかった。

笑みが消え、冷たい計算が顔に浮かぶ。


「失礼ですが、通行証を少し確認してもよろしいでしょうか」


男は懐から小さな金属の棒を取り出した。

先端に赤い宝石が埋め込まれ、ルーン文字が彫られたスキャナー。


血の気が引いた。


あれが何であれ、ハンスが急ごしらえした紙を当てたらどうなるかは見えている。

拒めば即制圧。出せば露見。

選択肢がない。


俺はポケットに手を入れた。羊皮紙の感触。

だが俺は、それを出す代わりに、ポケットの中で右手を強く握り込んだ。


ジ——ン。


指先から、また熱が立ち上がる。

直したい。壊したい。

目の前の不合理な機械に、赤い線を引いて黙らせたい衝動。


制御できない力が、血管を逆流してくる。


「……ここに、あります」


俺は通行証を出さないまま、ポケットに手を入れた状態で男を睨んだ。

男が訝しげに、スキャナーを俺へ近づける。


その瞬間。


パチッ——!


赤い宝石が悲鳴みたいに点滅した。

澄んだ光じゃない。黒いノイズが混ざった、不穏な赤。


ジジジ……、チッ。

機械の奥で何かが焼ける匂いがした。宝石の光は文字になれずに砕け散る。

耐えきれない高圧が流れ込んだみたいに、読み取ろうとした“何か”と衝突して、自分を燃やしている光だった。


スキャナーは焦げ臭い煙を吐き、「コトン」と沈黙した。


「……え?」


保安係の目が見開かれる。

男は慌ててスキャナーを振った。故障じゃない。

触れてはいけないものに触れた機械が、自分で首を絞めた反応——そんな感じだ。


「き、貴様! 何をした!」


横で見ていたハンスが、顔色を失って飛び込んできた。


「この方は中央から来たお方だ! 区の端末で中央のコードをスキャンするつもりか? 正気か!」


「中央」という言葉と、今の異常反応が一本に繋がるのが見えた。

保安係の顔が、一瞬で真っ青になる。


照会不可。上位。衝突。

理解は単純だった。——絶対に触れてはいけない相手。


「も、申し訳ありません! 機械が誤作動を……失礼しました!」


男は九十度に腰を折り、後ずさりしながら消えた。


俺はポケットの中の拳を、ゆっくりほどいた。

手のひらが湿っていた。


(……今のは、俺の力なのか?)


安堵より大きい恐怖が押し寄せる。

俺は時限爆弾だ。いつ爆発するか分からない。


「申し訳ありません、旦那様。教育は私が改めて……」


ハンスが横で汗だくになって頭を下げる。

俺は返事の代わりに水を一気に飲み干した。


心臓がまだ、暴れるみたいに打っている。


——そのとき。


休憩を告げる鐘の音が鳴った。

そしてテラスの入口に、司祭服の男が現れた。だが袖口には銀糸の紋様が縫い込まれている。


宗教者に見えるのに、宗教者の匂いじゃない。

言葉が綺麗で、手が汚れている人間の匂いがした。


「失礼いたします」


丁寧だが、拒否を許さない硬さで、男は俺の前に立つ。


「聖女様が、貴賓にお会いになりたいと」


ハンスの口が開いたまま固まった。


直感した。これは招待じゃない。召喚だ。

断れば、さっきの保安係が戻ってくる。今度はスキャナーじゃなく武器を持って。


「……案内しろ」


俺は席を立った。

腹は満たした。動ける。


俺たちは関係者以外立ち入り禁止の区画、バックステージへ入った。


舞台裏の光景は、外より衝撃的だった。


神聖な儀式? 救い?

そんなものは、どこにもない。


そこは巨大な工場だった。


何千、何万枚もの“記憶の札”が籠に詰められ、コンベアみたいに運ばれていく。

黒い前掛けの作業員が札を分類し、重さを量り、帳簿に記録する。


籠には【廃棄】、別の籠には【等級:上】の札。

そして全ての籠に、例の赤い印がくっきり押されていた。


(祈りを……等級で分けるのか?)


吐き気がこみ上げる。

ここは人間の記憶を原料に加工する、屠殺場だ。


「こちらです」


案内役が立ち止まったのは、最奥。

【イゾルデ】と札の付いた控室の前だった。


扉が開く。


華やかな照明と花で飾られた部屋。

その真ん中で、イゾルデが鏡台の前に座っていた。


舞台の上の眩しい聖女はいない。

肩は落ち、豪奢なドレスは重そうに見えた。


彼女は鏡越しに俺を見る。


いや——俺の顔じゃない。

ポケットの中の右手を見ていた。


案内役が扉を閉めて出ていくと、部屋には沈黙だけが残った。


彼女がゆっくり振り向く。


近くで見る顔は、惨かった。

頬に走る微細な亀裂。その隙間から覗く白い粉。


生きた人間というより、無理矢理動かされている壊れた人形みたいだ。


「……」


彼女は何も言わず、ローブの紐を解いた。

白い布が滑り落ち、青白い鎖骨と首筋が露わになる。


俺は目を逸らそうとした。だが逸らせなかった。


鎖骨の下、心臓のあたりに刻まれた、黒青い紋のせいだ。


それは絵じゃない。

複雑に絡み合ったルーン文字——いや、バーコードと契約条項が混ざったみたいな、醜い刻印。


単なるインクじゃない。

一文一文が足枷みたいに絡みつき、彼女の心臓を締め上げている。

息をするたび、文字が肉を削る構造。


完璧な、悪文だ。


彼女が乾いた唇を開いた。


「中央の連中は……そんな飢えた目をしない」


背筋が凍った。


バレた——と断定するには、彼女の口調があまりに乾いていた。

告発でも嘲笑でもない。


ただ、確認。


彼女は指先で自分の刻印を、軽く叩いた。


「これ……読める?」


感情がない。

懇願でも希望でもなく、冷たい手続きの声。


俺が黙ると、彼女は一言、続けた。


「読めないなら……ここまで来た意味がない」


俺はポケットの中で拳を強く握り直した。


読めるか、だと?

頭では読めない。知らない文字だ。


でも——指先は知っている。


血管を逆流する熱。

この刻印が、この文章が、間違っていると身体が叫んでいる。


俺の沈黙を肯定と受け取ったのか。

彼女の瞳に、かすかで危険な光が走った。


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