第4話 権威は沈黙から生まれる
ハンスの口が、ぱくりと開いた。
列に並んでいた連中のざわめきも、遠くで錨綱が擦れる音も、波が城壁を削る摩擦音も——一瞬で消えた。誰かが手のひらで世界の口を塞いだみたいに、完璧な静けさが落ちてくる。
その静けさの中で聞こえるのは、ひとつだけ。
俺の心臓の音。
ドクン。ドクン。ドクン。
(今の……何だった)
俺は呆然と右手を見下ろした。人差し指の先がわずかに震えている。熱が皮膚の内側に刺さったみたいに残り、冷えない。血もインクも付いていない。
なのに紙の上には、確かに、くっきりと赤い痕跡が残っていた。
俺が空を切った軌跡が、そのまま文言を“物理的に”変えたみたいに。
(俺が……やった?)
脳がその結論を拒んだ。現実を受け止める自信がなくて、結論だけ先に押し返している感じだ。なのに脳が拒んでいても、指先は「直った」という感触を知っている。古い癖が正確に動いた後の、あの妙な確信。
それが、いちばん気味が悪かった。
そして、もっと恐ろしいのは、頭の奥から湧き上がってきた最後の思考だ。
——ここは街じゃない。誰かの物語で。俺の手は、その物語に触れられる手だ。
(なんで、俺がそんなことを思う)
俺だって普段から「物語」なんて言葉は使う。原稿を読んで、整合性を考えて、結末をまとめて。けれど今のは、俺が使う比喩じゃなかった。
俺より先に、頭のもっと深いところが結論を出してしまった感覚。
まるでずっと前に書き残した一文を、今になって読み上げたみたいに。
いや——読まされたみたいに。
(脳震盪。幻覚。ストレス。何でもいい……)
言葉で縛ろうとしても、現実は紙の上に赤く残っている。
「……お前」
静寂を割ったのはハンスの声だった。驚くほど低く、震えていた。ハンスは一歩、また一歩と後ずさりしながら、俺の指と書類を交互に見た。
さっきまで「乞食面」と吐き捨てていた顔が、今は別の仮面を被っている。
恐怖。警戒。
そして——生きるために頭を下げる卑屈さ。
「……お前、もしかして……」
「……」
「……中央から来た方ですか?」
中央。
その単語が空気に広がった瞬間、腹の底が冷えた。ここで崩れたら終わりだ。「俺も知らない」と叫びたい。逃げたい。
なのに、妙に意地が悪いことに——大学院で生き残るために身についた癖が飛び出した。
分からないほど、分かった顔をしろ。
怖いほど、無関心でいろ。
俺は震える手を握り込んで背中へ隠した。指先の熱を隠すみたいに。そして息を一度、ゆっくり吸った。
声が揺れたら、死ぬ。
その思考が、逆に喉を冷たく固めてくれた。
「……チッ」
舌打ちが口から漏れた。演技というより、勝手に出た音だ。それが効いたのか、ハンスがびくっと肩をすくめる。
「書類管理が杜撰だな」
口に出した瞬間、自分でも驚いた。俺は今、何を言っている。どうしてこんな口調を選んだ。
だが吐いた以上、引けない。
「これが“規定”に沿った様式だと思っているのか?」
ハンスの瞳が大きく揺れた。「規定」という言葉に反応したのだ。
そうだ。ここは剣じゃない。書類で首を絞める場所だ。
「あ、いえ……わ、私は……支部から降りてきたものを、そのまま……」
「支部?」
俺は短く、その一語だけ聞き返した。知っているふりじゃない。知らないことを隠すための質問。
ハンスの唇が青くなった。俺の反問を“追及”として受け取ったらしい。俺が中央の監察官か何かだと確信している。
俺は、その誤解を否定しなかった。
沈黙は、いちばん強い肯定だから。
「いい。言い訳は後だ……記録に残せ」
「は、はいっ……!」
ハンスが突然、九十度に腰を折った。動きが速すぎて、慣れすぎていて、逆に俺のほうが固まった。
ついさっきまで俺を“品物”みたいに見ていた男が、今は直属の上司でも扱うみたいに振る舞っている。
「そ、それで……身分札は……」
「失くしたと言っただろ」
自分の声が妙にくっきりしているのが怖かった。危機のときほど仮面が硬くなるタイプ。それが俺の生存方法だった。
「……来る途中、少し荒れた目に遭った」
泥の跳ねたスラックスを、俺は軽く払った。演技じゃない。森で転げ回ったのは事実だ。
ハンスはそれを“秘密任務”と解釈した。あの誤解がコンクリートみたいに固まっていくのが、目で見える。
「あ、わ、分かりました。では……仮の通行証を……」
ハンスは慌てて引き出しを探り、手が震えたまま、硬い羊皮紙を一枚引っ張り出して判を押した。
判が落ちる音が、まるで世界の電源を入れ直したみたいに大きく響く。
静寂がほどけ、周囲のざわめきが慎重に息を吹き返した。人々が息を呑みながら、こちらを盗み見ている。
ハンスは羊皮紙を両手で、丁寧に差し出した。
「こ、こちら……です。……旦那様」
旦那様。
俺は奥歯を噛んだ。笑ったら死ぬ。
「……ご苦労」
俺はできるだけ無関心な顔で羊皮紙を折り、懐へ入れた。その瞬間、遅れて現実的な恐怖が押し寄せる。
(この紙がなければ……俺はまた“品目”に戻る)
ハンスは俺から目を逸らさない。視線がずっと右手を警戒している。さっきの現象を“奇跡”じゃなく“災厄”として見ている目だ。
「だ、旦那様……」
「言え」
「ここは……今、人が多すぎます。旦那様のようなお方が、お一人で動かれるのは……厄介になるかと」
綺麗に包んだだけで、意味は明確だった。
お前を一人で行かせて、何かあったら俺が責任を被る。だから目の届くところに置く。
俺は答えられず、一度呼吸を整えながら周囲を見回した。城門前の列。鉄格子。衛兵たち。
それ以上に、腹の底をねじる飢え。
門の内側から漂ってくる、肉を焼く匂い。
(独りで動くのは確かに危険だ。だが——こいつと一緒にいるほうが危険かもしれない)
それでも選択肢は少ない。森へ戻れない。門前で突っ立ってもいられない。
今の俺に必要なのは、情報と水と、食い物。
「……いい」
短く答えると、ハンスが安堵したように息を吐いた。その安堵は“光栄”じゃない。“助かった”のほうだった。
「今日は……広場が特に混みます。貴賓区画に席を用意いたします」
「なぜだ」
「祈祷会がございます」
祈祷会。
その一語だけで、俺は何も断定しないことにした。宗教かもしれない。催し物かもしれない。処刑かもしれない。この世界なら何でもありだ。
ハンスが付け加える。
「聖女様がおいでになります。……この町の者は、その日を待っております」
「聖女……名前は」
「イゾルデ、でございます」
その名が耳に触れた瞬間、頭のどこかが薄く裂けるような感覚が走った。
(なんで……聞き覚えがある)
思い出そうとしたら、顔が崩れそうで、俺はわざと考えを切った。同名かもしれない。だが心臓は不吉に跳ねた。
城門が開き、俺たちは町の中へ入った。
外から見た以上に、ひどかった。路地は汚物と泥でぬかるみ、板張りの壁には塩と黴がこびりついている。
なのに、その汚れの上から——町の中心には、目が痛くなるほど白い尖塔がそびえていた。
貧民街と白い塔。
粗末さと過剰が、一つの町に同居している。
(これは……自然じゃない)
まるで誰かがわざと対比を作ったみたいに。
演出したみたいに。
俺は無意識に、ポケットの中で右手を握り込んだ。人差し指の先が、またむず痒い。直したい、という感覚。
もともと持っていた職業病が、危険すぎる形に変質した。そんな気がした。
広場に近づくほど、匂いが変わった。港の腐った匂いが薄れ、甘ったるく人工的な香りが空気を覆う。香水。白粉。花びらを潰したような甘い匂い。
「聖女様……!」
「どうか、覚えてください……!」
俺は足を止めた。
(覚えて、だと?)
祈りは普通「叶えて」なのに、なぜ「覚えて」なのか。
広場の中央に円形の舞台があった。昼間なのに松明が何十本も燃え、舞台の縁には白い布が幾重にも垂れている。
近づくと、その布は新品みたいに清潔で、結び目は劇場で見るみたいに均一だった。
自然にできた祭壇じゃない。徹底的に“設営された”構造物。
人々は泣き、膝をつき、同時に舞台へ向かって何かを投げていた。花びらじゃない。小さな紙。薄いカード。
そして、それを拾い集める人間が別にいた。
黒い前掛けをつけた、表情のない連中。
彼らは感動もしない。祈りもしない。ただ回収し、整理し、籠へ放り込む。
(なんで回収係がいる)
断定するな。まだだ。
だが疑いは積み上がった。
祈りは空へ昇るはずなのに、紙は籠へ落ちる。
そして、その籠に押された赤い印が——さっき城門で見たものと同じだった。
そのとき、舞台の上に一人の女が現れた。
白いローブ。金髪。
美しすぎて、現実感が薄れるほど。
だが、その美しさは完全じゃなかった。頬に微細な“ひび”みたいな筋があり、それを隠すための白い粉が、動くたびに薄く割れる。
彼女が手を上げると、人々はさらに大きく泣き、さらに多く投げた。
俺は息を呑んだ。
俺が見ているのは救いか、搾取か。
確かなことは一つ。
ここには運用があり、回収があり、管理がある。
その瞬間だった。
舞台の女が、ふいに顔をこちらへ向けた。
数万の顔の中で、彼女の青い瞳が正確に俺を——いや、俺のポケットの中を突き刺した。
顔を見たんじゃない。
何かを確認するみたいに。匂いを嗅ぐみたいに。
口元が、ほんのわずかに上がる。歓迎じゃない。判定に近い表情。目は笑っていない。
背筋が冷えるのを感じながら、俺はポケットの中で手をさらに強く握り込んだ。
人差し指の先が、答えるみたいに微かに熱を帯びた。




