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第3話 赤い線は勝手に引かれない

森の境界線だと思っていた斜面を下り切った瞬間、匂いが先に俺を殴った。嗅覚というより痛覚に近い暴力だった。


さっきまで迷い回っていた森で感じた、あの気持ち悪い“無臭”とは真逆だ。鼻を刺すタールの匂い。腐って膨れ上がった魚の内臓の匂い。潮風に混じる錆びた鉄の匂い。そして何より——数千、いや数万の人間が狭い場所で絡まり合って吐き出す、汗と息が混ざった生臭さ。


「うっ……」


俺はえずきそうになるのを飲み込み、口元を押さえた。胃がひっくり返りそうだ。なのに妙なことに、その不快感の底に安堵が混ざっていた。少なくともここには“人”がいる。生き物だけが出せる、どうしようもなく現実的な匂いがある。何もかもがプラスチックみたいに感じた森より、こっちのほうがずっと現実だった。


丘の下に港町が広がっていた。海岸線の起伏に沿って丸く湾曲する城壁。その内側に、古びた石造りの建物と腐りかけた木造の倉庫が幾重にも積み重なり、港には帆船がぎっしり繋がれている。マストは骨みたいに空を突き、煙突から上がる黒い煙が灰色になって空を押し潰していた。電柱もアスファルトも、車のエンジン音もない。


(……セットか?)


頭が勝手に“現実っぽい解釈”を探しにいく。だがすぐ首を振った。セットなら、この悪臭は管理されているはずだ。夢なら、足の裏がこんなに痛いわけがない。膝は笑い、腹の中は空洞みたいに鳴る。空腹が恐怖を押しのけてきた。理屈はどうでもいい。あの中には食い物がある確率が高い。


俺はふらつく脚を引きずり、城門へ向かって下った。近づくほど違和感がはっきりしていく。城壁は苔と塩で汚れ、門のアーチ上には錆びた鉄の看板が斜めにぶら下がっていた。くねくねした、見たことのない文字が刻まれている。


(どこの文字だ? アラビア語……いや……)


視線が滑った。読めない。読めるはずがない。俺は英語と韓国語——それと少しの日本語は分かるが、こんな文字は地球で見たことがなかったから。


……ところが、その瞬間。


ズキン。


こめかみに錐をねじ込まれたみたいな痛みが走った。


「っ……!」


呻きながら頭を押さえる。脳の皺が無理矢理広げられて、また畳まれるような感覚。視界が揺れ、意味のなかった線が、頭の中で突然“言葉”として整列した。


俺が読んだんじゃない。俺の脳が勝手に意味をでっち上げて、押し込んでくるみたいだった。


係留港。


船を繋ぐ港。


息が止まった。文字が読めた安心じゃない。自分が壊れた恐怖が先に来た。森で食った、あの味のしない実のせいか。極限の飢えとストレスで脳がやられたのか。俺は城門へ入る前に、壁の陰へ身を引いた。


軽々しく動くな。ここが街でも地獄でも、まずは観察だ。


城門前には長い列ができていた。俺は息を殺して眺めた。継ぎはぎの革チュニック、古いローブ、泥だらけの裸足。中には手首に縄を巻きつけて垂らしたまま、俯いている者もいる。服装よりぞっとしたのは目だった。期待も高揚もない。諦めと恐怖が混ざった、屠殺場へ連れていかれる家畜みたいな目。


列の前方で交わされる会話が、風に乗って流れてきた。


「今回は、少しは値が付くといいがな」


「最近、港が労働力の相場を叩くらしい。前はパン三つで売られた奴がいるってよ」


「ちくしょう……自分の足で歩いて来て、奴隷契約を結ばされるなんて。これで三度目だ」


奴隷。相場。契約。


言葉が鮮明すぎて、余計に冷えた。ここは観光地じゃない。引き返すべきか——そう思いかけて、喉の奥で折れた。振り返れば、丘の向こうに森が見える。飢えと、機械みたいに一定の鳴き声が待っている場所だ。あそこへ戻ったら俺は持たない。


俺はもう一度前を見た。狂っているように見える港町。だが城門の内側から、薄く、けれど確かに、パンを焼く匂いがした。


ぐう、と腹が鳴った。


情けないほど大きな音だった。理性は警告したが、生存本能はもっと大きく喚いた。俺は服の乱れを整え、できるだけ自然に列の最後尾へ歩いていった。視線を低く。顔を上げすぎず、それでも周囲を読む。


不安になると指が動く。論文の誤字を探すときみたいに、無意識に人差し指が太ももをトントン叩く。自分でも嫌いな癖だ。こんな状況ならなおさら。


やがて、俺の番が来た。


城門前の机。その向こうに座っている男。入国審査官、ハンス。潮を吸った革鎧、古びたロングソード、潮風で湿った髭。衛兵というより、目つきが商人だ。ハンスは面倒くさそうに耳をほじりながら、前の男を呼んだ。


「次」


前に出た男が震える声で言う。


「品目は……俺の労働力です。期限は……死ぬまで」


「歩いて来た品か。奴隷分類。税は三十。入れ」


ドン。


赤い判が書類に叩きつけられる。男はほっとした顔で門の中へ駆け込んだ。俺は喉がからからに乾いていくのを感じた。風景は中世なのに、会話の中身は悪徳人材派遣の帳簿処理みたいだ。この不快なズレが神経を削る。


「次」


ハンスが俺を呼んだ。俺は唾を飲み込み、机の前へ立つ。ハンスの視線が俺の服をなぞった。濡れたシャツ、スラックス、スニーカー。異物みたいな格好。だがこいつは服より先に、俺の“手ぶら”を確認した。瞳が鈍く濁る。リサイクルもできないゴミを見る目。


「手ぶらか。通行税は?」


「……ありません」


「身分札は?」


「失くしました」


ハンスは深いため息を吐いた。苛立ちと疲れが混ざった、底まで沈んだため息。


「ハ。最近は乞食も時代に乗れねぇ。どこから転がって来たかなんてどうでもいい。規定通りだ」


引き出しを乱暴に開け、黄ばんだ紙を一枚取り出して、俺の前へ投げた。人にする手つきじゃない。


「書け。所持品なし用。書けないなら指印。そうしねぇと……港所有で縛る」


俺は紙を拾い上げた。くねくねした文字がまた目の前で揺れる。そしてまた、意味が頭の中へ流れ込んだ。さっきほどの激痛はない。だが胃の底が冷たくなる。こんな“翻訳”が当たり前に働くこと自体が異常だからだ。


入国申告書——所持品なし用。


項目を追っていって、俺は固まった。


氏名。原産地。主用途。労働・食用・観賞用・供物。


魂の使用期限。


所有権の帰属。希望する主人がいない場合、港へ自動帰属。


紙一枚が人間を“品目”に変えていた。だが俺の視線を本当に釘付けにしたのは、項目の異常さじゃない。


用紙の最下段、署名欄の横。コイン大の赤いシーリングワックス。


平たく押された赤い円の中に、精巧な文章が浮き彫りになっていた。


思い出の権利は、我々に。


その下に、見慣れない名前が付く。


メルヘン・エンターテインメント。


俺は印章と城壁を見比べた。中世の皮。だがこの文章だけ、現代的な発想で刺さるほど正確だった。権利。帰属。思い出。誰かがこの世界を“物語”として扱い、その所有権を主張している。童話の世界を商品みたいに。


「おい、早くしろよ」


ハンスがペン先で机をカツカツ叩く。その音が神経を削った。空腹、疲労、恐怖。そこへ今見た文章が追い打ちをかける。“思い出の権利”という言葉が、うなじを掴んで揺さぶるみたいに。


「——すみません」


俺が口を開いた瞬間、自分でも驚いた。生き延びるなら黙っているのが正解だ。なのに俺の中から、別の癖が飛び出した。テキストを見て、誤りを見逃せない癖。直さないと気が済まない、病的な職業病。


ハンスが眉を上げる。


「何だ」


「この書式……間違ってます」


ハンスの顔が固まった。苛立ちじゃない。警戒、それと薄い恐怖がよぎる。


「お前……字が読めるのか?」


その一言で、俺は止まった。答える代わりに視線を紙へ落とす。ハンスが紙を奪うみたいに手を伸ばしてくるのが見えた。反射的に、本当に反射的に、俺は条項を指で示してしまった。さっきから太ももを叩いていた、人差し指で。


その瞬間だった。


ジ——ン。


指先から熱が駆け上がった。インクでも血でもないのに、血が煮え立つみたいな熱。血管を伝って何かが逆流してくる感覚。火傷みたいに熱い。俺は慌てて手を引こうとしたが、指が勝手に動いた。いや、俺の意思より、職業病のほうが速かった。


スッ。


人差し指が空を切った、その軌跡が——紙の上に“赤い線”として残った。見えないペンで校正記号を入れたみたいに。


「……え?」


俺は自分の指を呆然と見た。血もインクも付いていない。なのに紙の上には、印刷みたいに鮮明な赤い校正記号が、当たり前みたいに居座っている。主用途の欄が、赤い×印で容赦なく消されていた。


ハンスの口が、ぽかんと開いた。


騒がしかった城門前の雑音が、嘘みたいに途切れた。列のざわめきも、遠くでぶつかる錨綱の音も、波の音さえも。まるで誰かが世界の音量を一気に下げたみたいな、完璧な静寂。


その静寂の中で、ハンスがほとんど囁くように言った。


「……お前、今……」


俺は書類と赤い線を見比べて、理解した。


ここは街じゃない。誰かの“物語”だ。


そして——俺の手は、その物語に触れられる手だった。

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