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第2話 BGMは消えない

結局、森だった。


海は俺を飲み込もうとしていたし、海岸線の向こうで点滅していた灯りは遠すぎた。さっきまで喉を絞めていた流れを思い出すだけで、もう一度水際に立つなんて正気の沙汰じゃない。森は黒い口を開けていたが、少なくとも今この瞬間、俺を引きずり込んで溺れさせる気配は薄い。選択というより逃避だった。海にいれば“確実に”死ぬ。森へ入れば“もしかしたら”生きられる——その薄っぺらい確率に身体を投げるしかない。


俺は濡れた砂浜を蹴って、森の境界へ踏み込んだ。湿った土の匂い、腐った落ち葉の匂いが一気に鼻を塞ぎ、足元はぬかるんでいて、一歩ごとに地面が呼吸するみたいに沈んだ。それでもよかった。少なくとも波が足首を掴んで引きずる恐怖よりは、ずっとましだ。


問題は、暗さだった。


海辺にいたときは、空に残っていた紫の残光がかろうじて方角を教えてくれた。だが葉の天井の下へ入った途端、光はあっさり切り落とされた。世界が丸ごと黒く折り畳まれたみたいに、数十センチ先すら見えない闇が落ちてくる。俺は片手を前へ伸ばし、幹にぶつからないよう探りながら歩いた。濡れた服が肌に張りついて体温を吸い、息を吸うたびに喉の奥がひりついた。


(灯り……さっきの灯りを見失うな)


顔を上げて枝の隙間に空を探す。だが密な幹が視界を裂き、その向こうには何もない。海がどっちか、灯りへ向かえているのかすら確信が持てなかった。方向感覚が消えると、頭の中が急に空っぽになっていく。立ち止まったら、もっと怖くなる気がして、俺は歩くほうを選んだ。とにかく前へ。適当でもいい。俺は昔から、確率がゼロじゃないほうへ身体を投げて耐えるタイプだった。今も、その癖が通じてほしかった。


そのときだった。


最初は錯覚かと思った。海辺で感じた、世界が一度ミュートになったみたいな静けさ——あれが森でも続くと思っていたのに、妙なことに、進むほど音が増えていった。


ジジジジ……ジジジジ……。

カサ、カサ。

クゥ、クゥクゥ。


虫の声がすぐ近くで弾け、どこかで小さな足が土を掻く音がして、枝の上ではフクロウに似た鳥が一定の拍で鳴き続ける。野生の音だ。普段なら、むしろ安心したかもしれない。生きている森。動く生態系。俺が知っている世界の秩序。


なのに……変だった。


普通、見知らぬ侵入者が入れば、森は息を潜める。気配が立てば虫の声が途切れ、獣は身を低くする。俺の知っている自然は「警戒」という本能で動いていた。だがここは違う。俺が草を踏み分けても、膝元の虫は鳴きやまない。手で枝を払いのけても、鳥は逃げない。むしろもっとはっきり、もっと一定に、もっと真面目に音を出す。


まるで俺が見えていないみたいに。


あるいは——俺なんか、脅威ですらないと言わんばかりに。


背筋が冷えた。襲われる怖さじゃない。無視される怖さだ。俺がここに入ってきたのに、森が俺を「変数」として扱っていない感覚。俺だけが必死に息をしていて、森は決められたパターンで音を鳴らし、自分の仕事をしている。馴染みのはずの自然が、馴染みのないやり方で馴染みの顔をしている。それが気持ち悪かった。


俺は歩みを遅めて耳を澄ました。音は確かに近いのに、その主が俺の動きに反応しない事実がずっと引っかかる。暗闇のどこかに目がある気もしたが、それは「狩り」の目というより「観察」に近かった。粘ついて、冷たくて、目的が見えない。


そしていつの間にか、海の音が聞こえないことに気づいた。海辺では波がずっと追いかけてきたのに、今は森の音しかない。遠ざかったのではない。切れた、という感じだ。ほんの数歩入っただけなのに、世界が区画を引いたみたいな境界がある。見えない線があって、それを越えたら後ろはもう付いてこない——そんな感覚。そこがいちばんおかしかった。


それでも、止まれなかった。


俺は前だけを見て(見えていると言えるほどじゃないが)、手探りで、ぶつかって、よろめきながら進んだ。足先がぬるりとしたものを踏んで転びそうになり、低く垂れた蔓に顔を引っかかれた。ひりっとしたが、血が出ているか確かめる余裕もない。確かめた瞬間、疲労が一気に覆いかぶさってきそうだったから。


どれくらい歩いただろう。


闇の中で時間を測る意味はない。ただ、呼吸が荒くなり、脚が言うことを聞かなくなった頃、俺は短くでも休むべきだと判断した。判断というより、身体が「もうこれ以上は運ばない」と通告してきただけだ。


俺は幹に背を預け、そのまま滑るように座り込んだ。湿った土がズボンに染み、泥のついた手のひらが冷たい。そのときになってようやく分かった。喉がからからだ。胃が空の缶みたいに縮んでいる。空腹と渇きが、遅れて全身に広がってきていた。


緊張が少し緩むと、空腹が頭をもたげた。妙に律儀で、残酷に。


(水……食い物……何でもいい……)


俺は周囲を探った。指先に、丸くてつるりとしたものが引っかかった。艶のある赤い実。リンゴより小さく、スモモより大きい。表面が不自然なほどてかてかしていて、触ると油が移るみたいに感じる。闇の中でも、その赤だけは異様にくっきりしていた。


疑う余裕はなかった。毒だろうが何だろうが、まず口に入れないといけない。俺は袖で雑に拭って、思いきり噛みついた。


パサッ。


「……?」


果汁が弾けるはずの口の中に広がったのは、乾いた粉だけだった。味が「ない」んじゃない。味が「感じられない」。甘さも酸っぱさも苦さも、何も。海水で舌がやられて感覚が死んだのかと思うほど、世界が一枚抜け落ちたみたいに空っぽだった。食感は古い発泡スチロールを噛むみたいで、舌に当たる感じは濡れた紙を擦っているみたいだった。


俺は一瞬、動きを止めて自分を疑った。俺は今、ちゃんと感じているのか。感覚が壊れたのか。あるいは——その先の言葉は、わざわざ最後まで言いたくなかった。


「ぺっ、ぺっ……!」


俺は反射的に吐き出した。吐き出した塊は、果肉の筋がどこかおかしくて、種があるはずの場所も妙に空っぽに見えた。胃がぐらりと持ち上がる。海水を飲みすぎたせいか、この実のせいかは分からないが、吐き気が喉まで上がってきた。


俺は実を地面に叩きつけた。すると、その瞬間、恐怖の種類がまた一段変わった。獣に食われる怖さじゃない。この森が、俺の常識とズレたやり方で「正常のふり」をしている事実が怖かった。信じられる基準が一つずつ崩れていく感覚。基準が崩れたら、最後は自分を信じられなくなる。それが本当の終わりだ。


俺は立ち上がった。


眠れなかった。ほんの少しでも目を閉じたら、この森が俺の存在を消してしまいそうだった。根拠なんてない。だがこんな状況では、根拠のない確信のほうが怖い。耳元で鳴き続ける虫の声は機械みたいに一定で、カサカサという気配は途切れず、「クゥ、クゥ」という鳴き声は時間割みたいに繰り返された。俺はそれらを頭の外へ押し出そうとしながら、木と木の間をよろめくように歩いた。


夜は長かった。長すぎて、いつか「この夜は終わるのか?」と疑い始めるほどだった。だがその疑いが膨らみかけた瞬間、葉の隙間から薄い青みが滲み始めた。夜明けだった。俺は息を吸い込む。そこに冷たい気配が混ざってくる。夜が薄くなっていく。


そして、嘘みたいに。


日が昇り始めた途端、夜通し俺を包んでいた音が“同時に”止まった。


……プツン。


虫の声も、鳥の声も、カサカサという気配も——まるで誰かがスイッチを落としたみたいに消える。森はまた、ありえないほど静かになった。「普通の夜明け」なら鳥が鳴いて風が通る。なのにここでは、夜明けですら決められたイベントみたいに動いている。


俺は最後の茂みをかき分け、前へ出た。


視界が一気に開けた。冷たい朝の風が頬を叩き、その風には塩気とは別の匂いが混じっていた。煤の匂い。ねっとりしたタールの匂い。濡れた木が燃え残った匂い。人の匂いだった。


「……あ」


森の終わりは急な丘になっていた。そしてその下、昇りかけた赤い太陽と一緒に、信じがたい光景が広がっていた。


巨大な港町。


何百という船がぎっしり繋がれ、煙突から黒い煙が立ち上り、城壁は苔と塩で汚れている。美しさはない。錆びた鉄、腐った木、灰色の煙、そしてその中で生き延びようとするものの匂いがする——ひどく現実的な街だった。耳を澄ませば、はるか遠くで鎖がぶつかる音と、人のざわめきが薄く混ざって届く。その音が嬉しいのに、同時に不吉だった。


脚から力が抜けた。俺はその場にへたり込む。


(助かった。……ひとまず、人がいる)


だが同時に、本能で分かった。あそこまで行かなきゃいけない。そしてあの港がどれだけ現実に見えても——さっき通り抜けたあの奇妙な森と、同じ世界に繋がっている。


その事実は、俺を安心させなかった。

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