トキコ
ここから再びセリオンが主人公に戻る。
「アンシャルは家にいないのか……」
「アンシャルさんはどこに行ったのかしら?」
セリオンとエスカローネはアンシャルの宿舎を訪れていた。
ドアは閉められ、誰も中にいそうもない。
「あら? どうしたの、セリオン、それにエスカローネちゃんも……」
「母さんか」
「ディオドラさん、こんにちは」
そこにディオドラが現れた。
セリオンはディオドラにアンシャルの行き先を尋ねた。
「アンシャルはどこにいる?」
「アンシャル兄さんなら、ヤパーナー地区に向かったわ。なんでも代表と話をしたいんですって」
「代表?」
ヤパーナー地区……自治権は取り上げられたのでヤパーナー地区という――は一人の代表がいる。
その代表はアオイの祖母トキコが務めていた。
「トキコさんって方よ。私は一度会ったことがあるの」
「そうか……鬼道について気になったんだ。だから、アンシャルと話をしたかったんだが……」
「なら、ヤパーナー地区に行ってみたら?」
「俺たちが行っていいのか?」
「今は誰でも入れるはずよ。違う文化を学ぶのも見識を高めてくれるわ。行ってみるといいわよ?」
セリオンは考え込んだ。
無理にヤパーナー地区に行かなければならないことではない。
アンシャルの帰りを待つか、そう思っているとエスカローネが。
「セリオン、ヤパーナーがどんな暮らしをしているか、私は興味があるわ。アオイさんもいるんでしょう? なら、私たちにも無関係ではないわ」
「そうだな。行ってみるか。母さん、俺たちも行ってみるよ」
「ええ、行ってらっしゃい」
ディオドラがにこやかな笑顔で二人を送り出した。
アンシャルはアオイと共にヤパーナー地区代表トキコのもとを訪れた。
アオイは久しぶりに和服を着ていた。
トキコはお茶を入れて二人をもてなす。
二人は婚約の報告をしに来ていたのだ。
「それにしてもアオイが婚約だなんて……これはめでたいですね。長生きはしてみるものです。ひ孫の顔が見たいわ」
「そんな……ひ孫だなんて……」
アオイはほおを赤らめた。
アンシャルとアオイは居間に通され、テーブルを前に正座していた。
「なあ、代表?」
「何でしょう?」
アンシャルが顔を改めた。
「あなたは鬼道についてどれだけ知っている?」
「……そうですね。ヤパーナーをひそかに支配してきたことくらいは」
「長老は結局のところ何がしたかったんだ?」
「それは……」
「長老はいろいろ言っていたが、彼が何をしたかったのかが今一つ私にはわからなくてね」
「長老は光を憎んでいました。そして闇を愛していたのです。長老にとって闇の支配こそが求めたものだったのではないでしょうか」
「私はヤパーナーには民族的トラウマがあるのではないかと思っている」
「民族的トラウマですか……?」
「ああ、そうだ。どうも、母親を知らないらしい。おそらく母親代理はいたのだろう。ヤパーナーにはイザナミという神がいるらしいが、この神のことは調べられなかった。おそらく長老は口伝で知っていたに違いない。ヤパーナーは母の民だ。だが、それはどこまでいっても母親代理だ。本物の母を知らないようだ。ヤパーナーの芸術作品はツヴェーデンではあまり評価されていない。それには理由があると思う」
「どんな理由ですか?」
「ツヴェーデンは父権制を発達させた民だ。だから、母のことはおざなりになる。それに対して、父への関心は高い。父の文明と母の文明……それが理由ではないかな?」
アンシャルの考えでは父権制と母権制の違いだという。
ヤパーナー男性は結婚相手に母親代理を求める。
ヤパーナーでは有名な思想家があまりいない。
それは精神活動が未発達だからではないか?
父とは精神であり、母とは物質である。
精神性は理念や理想を語らせる。
逆のことを言えば、理念や理想を語るということは精神の発露というわけだ。
ヤパーナーはまず物質的なことを考える傾向がある。
「このことは語りつくすことができそうもない。ヤパーナーの問題と私は無関係ではない。アオイを通して、私もかかわっている。アオイのような女性の存在はヤパーナーの今後の可能性を物語っている。つまり、父への方向だ」
「私自身、父なる神に愛着を感じます。神は父です。つまりGeistです」
アオイは自らの信仰を語った。
アオイからすれば神は父であり、母ではない。
しかし、アオイの無意識には明らかに母なる神における影響がある。
アオイは宗教的にシベリウス教徒になった。
それは今までの母権制的な宗教と決別したということだ。
女性には未来への可能性が宿る。
それは男性よりも、新しい可能性に開かれているということ。
「ヤーパンで生きているかぎり、父権制への移行は起きないだろう。ツヴェーデンで暮らしているがゆえに父の影響が出てきた。ヤパーナーでも女性の芸術作品だと天使化していることが多い。天使は精神原理だ。つまり、彼女たちは父の影響下にある。それに対して、男性芸術家の作品では天使は否定的に描かれえている。彼らは今だ母権制の段階にある」
「それは一体どういうことですか?」
「ヤパーナーが周辺の影響で変わりつつある。アスラーン一行のような存在は決定的だよ。心理学的にはより意識的になりつつある。つまり、神の性格に変化が生じてきている。ヤパーナーはツヴェーデンからいろいろなものを受け入れた。それは父なる神を前提としていた。だから、ヤパーナーが父権制化しているのも驚くにはあたらない。父の道には必ず為さねばならないことがある。それは『母殺し』だ」
「母殺し?」
「そう。母親からの分離と独立だ。シベリウス教徒は必ずこの門をくぐる。シベリア人であろうがツヴェーデン人であろうが……」
「難しい問題ですね……」
「実は私たちテンペルにはヤパーナー系のシベリア人もいるのだが、彼女たちの悩みは母親からの呪縛だそうだ。母親支配といってもいい。私は心理学の学位を持っているから、相談に訪れる女性も多いんだ」
「イザナミ、イザナギ、アマテラス、ツクヨミ、スサノオ……これらの神々がヤパーナーが信仰しているものです。私たちの心は近代的になりましたが、未だヤパーナーは神話の時代に生きているのかもしれませんね」
話しが深まった時、そこにセリオンとエスカローネがやって来た。
「アンシャル、ここにいたのか」
「アンシャルさん、アオイさん、こんにちは」
「セリオンか……」
「そちらの方々は?」
トキコがセリオンたちを見る。
「こちらはセリオン・シベルスクにエスカローネ・シベルスカ、私の息子と娘だ」
「アンシャルさんの子供ですか?」
「正確には育ての子供だ。私はセリオンのおじでね。ちょうどいい。おまえたちも上がるといい」
「それでは失礼」
「失礼します」
「それで、どういう用件でここにいらしたのですか?」
「俺たちは鬼道について聞きに来たんだ。アンシャルたちは何を話していたんだ?」
「私たちはヤパーナーの文化論を話していたんだ。いや、この問題は実に深くてね。いろいろ話し込んでしまった。セリオンたちは鬼道について聞きたかったんだな?」
「ああ、そうだ」
「鬼道はヤパーナーの地下宗教だ。深淵の太母イザナミを神としてあがめる宗教だそうだ。私も詳しくは知らない。なぜかと言うとこれは口伝で伝えられてきたからだ。文献には記されていない。セリオン……おまえらしさが出ているな」
セリオンは将来これらの神々と戦う可能性を考えた。
セリオンの顔が不敵になる。
「それらの神々は実在するのか?」
それはセリオンの興味関心だった。
実在するならぜひとも戦いたいものだ。
「長老の話しぶりではいてもおかしくない。ただ、神と人間の境界があいまいなのだが……」
「そうか。その時が楽しみだ」
「さて、そろそろ私たちはお暇しよう」
「もう帰るのですか?」
「おばあ様、また来ますね」
セリオンたちはお礼を言ってトキコの家から去った。




