おかめ蕎麦
內田百閒は毎日昼食に盛蕎麦を食っていた。それは、蕎麦が好きだったというより、それより数時間先のことを慮っての所作である。すなわち、日が暮れた後に御馳走とともに一杯聞し召すに備えて、肚の具合を適正に調える方便のようなものであり、僕の敬して已まない百鬼園先生だけれども、その態度は蕎麦という滋味に対していささか礼を欠いているようにも感じられる。
永井荷風は、晩年、浅草をこよなく愛し、いい年をしながらレヴュウの踊子たちと親しく交流した事で知られるが、同じく浅草尾張屋の柏南蛮女史とも随分と深い交誼を結んでいた由も聞こえてくる。
百鬼園先生の蕎麦はもり系、荷風先生はかけ系。もりとかけ、いずれの系統か宜しきと、その優劣を口にすれば、剣呑剣呑、神学論争を惹起せしめかねない。
僕はと言えば、若い頃は九州出身の田舎者であるにもかかわらず、蕎麦と言ったら盛に限り、山葵や葱は蕎麦本来の風味を損なうという事でこれらには一瞥だにも与えず、七味唐辛子を薬味に、箸で持上げた麺の、その先端からほんの三分の一ばかりを、きりりと辛い汁にさっと浸し、音も盛大にずずっと啜り込むのが最上だと心得、又実践も試みていた。
しかし、年を取ってくれば、かかる虚仮威的な風采なぞよりも実を求めるもの。殊に、冬場の寒い時期に、温かい食べ物が滋味であることに異論の唱えようもない。
然り、然り。
ここ数日の冷え込みを鑑みるに、もり系の方々には暖かな時候まで一先ずはお休みいただき、かけ系の方々にご登板をということになろう。
さて、この温かなる方々、上等なところは、鴨南蛮や天麩羅。ただ、いずれもいささか値が張っていらせらるるので、僕の財布には、もう少し庶民的なる仁が好都合と言えば好都合である。
さすればはて、荷風先生御執心の柏南蛮も好かろうが、僕としては阿龜蕎麥をむしろ推挙したい。何となれば、柏南蛮女史が鶏と葱のみのいささか単調なる様相に対し、阿龜女史はヴァラエティに富んできらぎらしくいらっしゃるからである。
殊に、蕎麦屋の暖簾をくぐるは酒を嗜むに同義と心得る僕としては、阿龜蕎麥の具を肴に、上燗をちびりちびりと舌の上に載せる愉楽を存分に堪能したいと思う訣である。
その阿龜の具であるが、蒲鉾、椎茸、玉子焼、青菜が定番どころで、店によっては筍が入ったり、蝦が入ったり、たっぷりと汁を含んだ麩が鎮座したり。青菜も三つ葉だったり、菠薐草だったり。又、蝶々の形に結んだ湯葉が無いと本物の阿龜ではないとか、いやいや、本来は松茸を入れるものだとか――まあ、色々と一家言が存在する。
松茸などが入っては庶民の味からは遠くなってしまう気がするが、それはあくまでも現代の感覚。昔は山で沢山採れていたため、さほど高価なものでもなかった。
酒吞みとしては、初めは阿龜を台抜きで頼んでおいて、猪口を嘗めつつ、仕上りに蒸籠を一、二枚手繰って〆るというのも乙な気がする。
阿龜が発祥したのは幕末の江戸。下谷七軒町にかつてあった太田庵で出した種物が嚆矢らしい。
名前の由来も、具を載せた按排をめでたい阿龜の顔に見立てたものだとか、或いは、五目蕎麦よりも具が三目多い八目、八目と言えば傍目八目、傍目に音が通ずる阿龜という風に連想を繋げたとか、諸説がある。
残念なのは、近頃、阿龜を献立に載せる店が段々少なくなっている気がすることである。東京の砂場だの藪だの更科だの、そういった老舗に行かなければ、中々にお目に掛ることが出来ないように思う。
ということで、このところは専ら吾が家で阿龜蕎麦を作ってもらって愉しんでいる。ただ、色々な具材を揃えて、個別に焼いたり煮たりの下拵えがあるため、これを家庭で調えるのは中々に骨が折れるらしい。
剰え、僕が横からあれこれとうるさく口を出すので、家人にしてみれば、いい迷惑に他ならず、まことに面目ない次第である。
ところで、阿龜蕎麥に類する種物としては、卓袱蕎麥というものがあるけれども、これは畿内の卓袱饂飩の台を蕎麦に替えたものが由来という。したがって、卓袱の汁は薄口醤油を用いた淡い色となるとか。登場も、阿龜蕎麥よりも数十年早い安政年間と言われ、松茸、慈姑、山芋、芹などが入っていたとされる。
なるほど、なるほど。
たかが阿龜蕎麥一つにしても、色々と調べて、その奥を訪ねると、そこには無辺大の世界が広がっているものである。
<了>
カクヨムなどに同時掲載