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記憶と未読、そして弥勒

 今思い起こすと、当時俺の目の前に突き付けられたそれはきっと、神による救いの手だったのだろう。



 遠くで将校たちの酒宴の声が聞こえていた。日はすっかり落ち、暗がりにぼんやりと焚火が光っている。酒瓶の衝突、唾を飛ばしながら語られる武勇伝。それらはこの戦場では日常だった。スティヴァリ基地を訪れて五ヵ月になるフリードリヒは、その様子をテントの中、目を閉じたままでも思い浮かべる事が出来た。


「先輩、聞いているんですか? そのメモ帳から、手を離せと言っているんです」


 だが、自分の目の前で喚く少女の姿はそれよりも容易に思い浮かべる事が出来る。


 彼は閉じていた目を開けた。


 視界に広がるテントの中には、小さな机と椅子、人一人がようやく横になれる程度のスペース、薄汚い部屋。


 だが今は金色があった。


「勿体ぶらずに、早く返してください」


 金の髪を振り乱し、彼女はそう訴える。フリードリヒは彼女の目的の品である、拾い物のメモ帳を摘み上げた。それはぼろく、いかにも使い古されており、彼にとっては何の価値もない。だが、彼は妙に虫の居所が悪かった。それはごろごろと未だ外で引きずられている車輪の音が、脳裏に焼き付いて離れないからか、硝煙が鼻をついてどうしようもなかったからか。

 理由は彼自身にも分からなかった。


「これは拾い物だ、アイリス一等陸士。そして、俺は君の上官であって先輩じゃない。君にそのような口調で呼ばれる筋合いはないはずだが」


「それが何ですか。先輩は私の上司だと言いますが、単なるコネですよね。士官学校では私の方が成績上位でした。そんな事よりも、早くメモ帳を返してください」


アイリスは瑠璃色の瞳を細め、フリードリヒを睨んだ。しかし、その視線の大半は、彼の指先のメモ帳に注がれていた。


「なるほど」


フリードリヒは腕を組み、深く頷いた。


「まぁ、君の上官に対する無礼は今更だ。特に咎めはしない」


「当たり前です」


「その自信が一体どこから来るものなのか、はたはた分かりかねるが、今俺に向けているそれはどう説明するつもりかな、アイリス=テレジア一等陸士殿。叙説の如何によっては軍法会議ものだぞ」


 そう彼が言うと同時、テント内に一種異様な雰囲気が漂い始めた。外のバカ騒ぎに呑まれかけていた先ほどと打って変わって戦場のような、いやもっと直接的に剣を互いの喉元に突き付けあっているかのような張りつめた空気が流れ始める。


 先ほどまでの飄々とした態度とは違い、彼は厳しい目で彼女を見つめた。流れ始めた空気の正体はアイリスの細い右手にあった。彼女の煤に汚れた手に握られていたのはディアトロフ陸軍指定拳銃。人を殺すための、戦争の道具である。


「これは正当防衛です。フリードリヒ=アレクサンドリア士長殿」


「ほう、正当防衛とな? まさか勝手にそちらから俺のテントに来ておいて、貞操の危機だのと世迷言をのたまうつまりではあるまいな」


 フンと鼻を鳴らし、彼は挑発するように顎を上げた。


「まさか。そのような事はございません」


 安い挑発に腹を立てた様子もなく彼女はしれっとそう言って、いつもの無表情でフリードリヒを見つめる。


「じゃあ、言ってみろ。お前が考える正当な理由とやらを」


 調子を崩されながらも、彼は顎を触りながらそう言った。


「はい。私は現在、フリードリヒ=アレクサンドリア士長殿に心臓を親指と人差し指で摘ままれ、不安定な空中にてゆらゆらと揺らされている現状にあります。このような命の危機に瀕しまして、私はこの生命を守るべく銃を抜くべきであるという判断を下しました」


 アイリスは淡々と、至極当たり前の事を述べるかのようにそう告げた。しかし、その言葉にフリードリヒは目を丸くする。そして、言っている意味を理解した後、腹を抱え大声で笑った。


「ははは! アイリス君はもしかしてこのボロくて汚いメモ帳が君の心臓だとでも言うつもりか!」


 そんな事は有りえないとばかりに、彼は椅子がひっくり返りそうになるほど仰け反る。


 気づけばテントの外で鳴っていたリアカーの音は止んでいた。それに気づき、フリードリヒは口元に浮かべていた笑みを収めた。代わりに、ぽいと机の上にメモ帳を放り投げる。


「それは申し訳ない事をした。ほら、そのメモ帳を返すよ。元より俺には何の価値もないものだ」


 リアカーの音はもう聞こえない。それは既に今日の役目を終えていたらしかった。いつもなら夜十二時になっても鳴りやまぬその音が、九時には止んでいる。素晴らしい事だ。少なくとも、彼にとってはそうだった。


「ありがとうございます、先輩」


 アイリスは銃をホルスターに収めるのもそこそこに、メモ帳へと飛びついた。人差し指と親指で勢いよくページをめくり始める。フリードリヒは、ぼんやりとその姿を眺めていた。年齢差は二。自分が二十三で、アイリスが二十一。特待生として入学し、二年飛び級した彼女とは、ディアトロフ陸軍士官学校の同期。しかし身分は彼の方がずっと上だった。フリードリヒは名家アレクサンドリアの次男。一方、アイリスは親無しの子供。


 そんな二人を繋げたのは、偶然この北方の戦場スティヴァリ基地に派遣された事ではない。また、アイリスがフリードリヒの率いる第四防衛線第三小隊に所属する事になったからでもない。


「確かに受け取りました。フリードリヒ=アレクサンドリア士長殿。本日は私の不注意により、ご不快な思いをさせてしまった事を誠に申し訳なく存じます」


 一通り内容を確認し終えたのか、彼女はメモ帳を胸ポケットに入れると、ピシッと背筋を伸ばして敬礼をした。


「どうした? そんなにかしこまって。今までそんなのした事ないだろ」


「命を救われたのです。当然でしょう」


 たかがメモ帳を回収した如きで、アイリスはひたすらに畏まり、素っ頓狂とも言えるような態度でそんな事を言った。


「命……か……」


 彼は伏し目がちに彼女を見つめながら、胸ポケットから煙草を取り出し、口に咥える。ライターはどこへいっただろうかと、ポケットをまさぐる。しかし、見つからず「すまん。ライター持ってないか?」と彼女に尋ねた。


「持ってないです。あと臭いので私の前では吸わないでください。臭いが移ります」


「上官に対して酷い言い草だな」


 鼻で笑いながらフリードリヒは吸っていない煙草を地面に落とし、つま先でグリグリと踏みつけた。


「それに臭いなんて、鼻はもう硝煙で馬鹿になってる。風呂も長い事水浴びとタオルで拭くだけだ。今更だろ」


「今更でもです。だって、私達は生きているのですから。日常を忘れては、帰れなくなります」


 毅然として言う彼女は無表情だ。しかし、その瞳に確かな輝きが秘められている事が彼には分かった。

「俺達は軍人だ。帰る所は戦場(ここ)か、あの(むこう)の二ヶ所しかない」


 フリードリヒは聞き分けの悪い子どもを諭すようにそう言って、「用が済んだなら、もう帰れ」と手をひらひらと振った。アイリスは何も言わず、くるりと踵を返して一歩踏み出し――途中で振り返って


「先輩。中、読みましたか?」


 そう尋ねた。


「いや、読んでない。そこまで俺は人でなしじゃない」


 彼は尻ポケットにて発見されたライターを手に取り、新たな煙草を出して火を点けた。煙がその表情を覆い隠す。だからアイリスはそう言った時の、フリードリヒの表情を読み取る事が出来なかった。そして、それはフリードリヒもまた同様であった。


「そうですか。それはよかったです。私も先輩を殺したくはありませんので」


 ただ、彼女の玲瓏なその言葉だけが彼の耳に残る。口の中に煙が充満し、吐き出されるのを今か今かと待ち構えていた。そんな彼等を救済するが如く、フリードリヒがふぅと息を吐く。口から漏れだした白煙が消え、視界が晴れた時、アイリスは既にもう彼のテントから出ていた。


 余韻に浸りながら、先ほどのやり取りが自身の命の危機に直結していた事を思い出す。再び煙草を口に咥え、吸うと同時にゆっくりと目を閉じた。


 拳銃の照星、その奥に見える照門、そしてその更に奥に輝くラピスラズリの如き瞳。


 息を吐く。

 しかし、それ以上に彼を魅せたのは黒い銃口だった。

 口からゆらゆらと煙が零れる。

 見慣れたはずのものだった。敵兵の、拳銃よりも殺傷力がずっと高い小銃に五ヶ月もの間晒されてきたフリードリヒにとっては、何の変哲もないはずのもので馴染み深い『死』であった。

 再び口に煙草を咥え、深く息を吸う。

 アイリスが過ぎ去った後でも、その姿は簡単に思い浮かべる事が出来る。両頬に垂れた二筋の不揃いな金髪。長いそれは後頭部の中腹辺りで水色のリボンによって縛られ、怜悧な性格とは対照的に馬の尻尾のように跳ねている。軍服に着られている華奢な体躯に、泥に汚れ不格好な袖口。


 気づけばリアカーの音が再び鳴り始めていた。徐々にその音が近づいてくる。初めは頭の端でチリチリと鳴っている程度だったのが、脳髄の辺りで不協和音を奏で始める。

 彼は目を開いた。

 リアカーは一端動きを止めていただけで、その責務は未だ続いている。その事実にフリードリヒは現実を突きつけられる。

 先ほどアイリスに突き付けられた拳銃よりも、その事実は彼に現実を突きつける。


「おい、もう落とすなよ」


 リアカーを引く音と共に、彼のテントにそんな声が飛び込んで来た。


「分かってるよ。さっきは悪かったって」


「ホントだろうな。俺だって気味がわりぃんだ。こんな死体運び(・・・・)なんて仕事、後方の女どもにでもやらしときゃいいのに」


「しょうがねぇだろ。こいつは重いんだ。虚弱な女子供には出来んさ」


「ちげぇねぇ」


 諦めにも似た乾いた笑いがこだまする。フリードリヒは息を潜めて彼等が過ぎ去るのを待ち、そしてむせた。不純物を長い間口に留めすぎたせいか、はたまたむせかえるような死臭に当てられたせいか。


 彼はげほげほと咳を続ける。それが止まる様子はない。狭まる喉を抑え、酸素を求め右手が空を切る。それが机に当たり、置かれた万年筆が転がった。酸素の欠乏という根源的な死の恐怖に苛まれながら、フリードリヒの脳裏にある一つの考えが浮かぶ。


 ――これは安らかな死かもしれない。


 共に死ぬ仲間はいない。

 だが、銃声もしない。あるのは酒盛りのバカ騒ぎだけだ。

 なにより、ここには硝煙の臭いも死体の臭いもしない。ここで死んだら、地を這う蟻や蛆どもの餌になるという不名誉は避けられるだろう。

 彼はそんな事を考えた。そう、考えただけだ。当たり前だ。たかがむせただけで死ぬのなら、集合住宅の中は死体塗れになっている。

 そんな場所はここだけで十分だ。

 咳が止まっている事を確認するようにフリードリヒは、一つ咳払いをした。

 そして、深く椅子に座る。転がった万年筆はそのままだ。


 ――ここで安らかな死があるとすれば。


 彼は先ほどの情景を思い起こす。

 二人を繋げたのはスティヴァリ基地での出会いでも、上司と部下という関係性でもない。


 フリードリヒとアイリスを結んだのはたった一冊の汚いメモ帳と、救済を示す一丁の拳銃だった。




 ディアトロフはホフマン地方の中央に所属する多民族国家である。そこは二十七あるホフマン地方に存在する国家のうち最も商業に長け、物流の盛んな国であった。週に一度、日曜日に各都市で開かれる市場は春夏秋冬問わず栄え、そこではホフマン地方内外の名産品・特産品が集まる。市場は活気に溢れ、石畳で整備された街道は諸国家を結び、馬車の行き来が絶える事はない。街道の所々に見られる宿場町の中でさえ、商人同士の値切り交渉を見る事が出来た。


「ディアトロフにない物は世界のどこを探してもない」


 だから人々がこんな風に口を揃えて言うのはもはや必然だった。

 しかし、それを快く思わない者もいる。しかも運の悪い事にその国は、ディアトロフのちょうど上に位置していた。


 宗教国家レゲネト。


 節制と祈りこそが人間の本質であると唱え、主神イゾルデを信仰する白盟教徒によって運営される都市国家である。レゲネトにおいて商売は賤しいものであり、それを行う者は非人間的で人道にもとり、忌むべき存在だった。


 彼等は嘆き、そして怒っていた。自らの隣人がそのような卑賎な行いに手を染めた事に怒り、商売人などという身分に身をやつした事を嘆き憐れんでいた。そして、レゲネト内ではそんな彼等を救わねばならぬという機運が高まっていく。


 が、実際それは隠れ蓑であった。先ほどのような「商売は賤しい」という宗教観は確かに存在するが、目くじらを立てるほどのものではない。しかし、自由貿易により自国の商品が売れぬ事に怒りを覚えたレゲネト上層部は、その感情を利用して戦争を引き起こしディアトロフの足を引っ張り、挙句の果てに戦勝によって土地と賠償金をむしり取ってやろうと企んだのだ。


 だが、そんな事情など知らないディアトロフとしてはいい迷惑だ。勝手に怒られ、勝手に憐れまれ、挙句の果てに「救わねば」などと謎の使命感と共に右手を差し出してくる。


 だから彼等は言った。


「いい迷惑だ。こっちはこっちで勝手にやる」


 それにレゲネトは答えた。


「可哀想に。私達が救ってやろう」


 これが四年にも及ぶニエンテ戦争の始まりである。


 ディアトロフ側に得る物はなく、レゲネト側は救世主を隠れ蓑として利権が得られる。ありふれた戦争。けれど、そこで戦う兵士はかけがえのない存在だ。

 経済規模はディアトロフの方が圧倒的に上だったが、レゲネトには庶民から徴収した五分の一税による莫大な収入源があった。戦力は拮抗し、ディアトロフは開戦から一年半が経過した頃、徴兵のためにポスターを街に張り出し始める。それは瞬く間に街を彩り、酒場の背景の一部となった。新聞の一面を飾った。

 そこに描かれていたのは椅子に座った父親。その膝の上で本を持って男性の方を向く五歳ほどの少女。その口は僅かに開かれており、ポスターの下部には彼女が発したと思しき文字列が刻まれている。


「お父さんは何してたの?」

 

少女は父に向かってそう尋ねている。

 徴兵ポスターだ。

 答えは決まっている。


『国のために兵士として勇敢に戦ったのさ』


 きっと絵の中で彼はそう雄弁に語るだろう。それに続けて「お父さんは最前線のスティヴァリ基地で~」と武勇伝が続くかもしれない。とにかく、国としてはその答えを望むだろう。

 しかし、これはそんな兵士の物語ではない。

 国のために戦った名誉ある兵士たちの話ではない。

 自分のために戦った、エゴイズムに満ちた醜く、汚い人間の物語だ。

 非国民で、国家の敵。

 彼等はきっとそのポスターに唾を吐きかけただろう。そして言う。


「武勇伝として語れるような物語は、あそこにはなかった」と。


 ならば、どうしてそんな場所にいたのか尋ねてみようではないか。


「君たちは何のために戦ったのか?」と。


ポイント・ブクマお願いします! 喜びます!

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