共振する読者たちと作者たち
寝かせた空き缶の上に板を置き、その上で複数のメトロノームを揺らしたらどうなるか、知っているだろうか。
はじめは別々に、それぞれ勝手に揺れ動いていたメトロノームたちが、まるで空気を読み合うように不規則に揺れ、あるタイミングで動きが完全に同期する。
カチカチカチカチという音だったのが、だんだんとカッチカッチになり、やがてカッカッとなる。
知らない人は、「メトロノーム 同期」とかで検索してみると良い。
一つ二つと言わず、いくつものバラバラに動き出したメトロノームたちが、足並みをそろえていく様子を見ることができることだろう。
この実験を行うときの肝は、足場をある程度自由にすることです。
というのも、この現象はメトロノームの揺れるときの反作用で地面が揺れて、それが地面を通して相方に伝わるからこそ起こるから。
当たり前のことだけど、意思のないメトロノームたちが空気を読んで合わせているなんてことでは決してない。
特別なことではなく、単純な物理現象なのだ。
さて、日本人はとかく「空気を読む人種だ」と言われることが多い。
個性的な一人がいたとしても、基本的に「出る杭は打たれる国民性」だ。
まあその点に関して私の考えは「日本人が勝手に言ってるだけ」と思っているわけだけど。
でも、やはり過度に空気を読む人たちというのは、異様に映ることがあるのかもしれない。
なぜこのようなことが起こるのか、少し考えてみる。
すると、先ほどの実験でのポイントが、そのまま生きてくるのではないかと思う。
それぞれの持つ固有の振動を、他者に伝えるような、何かが必要ではないかということだ。
多分それが、日本人がよく口にする「空気」というものだ。
そう考えると実は、これは「空気」というよりも「足場」なのかもしれない。
つまり日本人が突出しにくい人種だと言うことは、私たちの足場は、とにかく揺れやすいということになる。
別にこれは、日本が地震大国と言われることには関係しないだろう。
物理的な足場のことではなく、精神を支える足場。
言い換えると、信念とか宗教とか、そのあたりになるだろうか。
しっかりした宗教の上に立っている人たちは『教え』の影響は多分に受けるが、その分『他者』に同調するのを避けることができるのかもしれない。
無宗教の私にはよくわからない感覚だが。
さて、私たちのことを考えよう。
私たちは、どのような土台の上に立っているだろうか。
日本人?
あるいは、仏教か、それとも神道か。
あるいはそれらにキリスト教も混ぜた、カクテルのような土台だろうか。
君たちは一つ重要な要素を忘れている。
私たちは「小説家になろう」という土台の上に立っているのです。
長編小説家などは、ただ書いたものを投稿するだけで他の人の作品など読みもしないという人たちもいるかもしれない。
だけど少なくとも、私のこの話を読んでいるということは、あなたが作者である限り、あなたと私は同じ土台の上に立っていることになる。
私が書いた、どうでも良いような一つのエッセイは、ほんの僅かに土台を揺らす。
百人のうちの一人ぐらいが「私はこう思う」という形で別のエッセイを書くかもしれない。
そこまで至らなくても、元々書こうと思っていたもののうち、数パーセントぐらいなら、ずれが修正されるかもしれない。
何回も何回も、そういうことが繰り返されることで、自然と揺れが同期していく。
気がついたら、みんな似たようなことしか言っていない。なんてことにもなりかねない。
なろうの文化に染まっていない人が、小説家のなろうのランキングを見たときに「気持ち悪い」と感じる理由は、実はそのあたりにあるのだと思う。
誰かが指揮を執っているわけでもないのに、みんな同じような作品しか書いていない。
気持ち悪いぐらいに足並みがそろっている。まるで集団行動の演舞を見ているかのようだ。
だけどそれは、別に誰かがコントロールしているわけではないのだ。
作者は読者に影響を与える。
読者は作者に影響を与える。
それぞれが、それぞれの思うがままに、それぞれの最良を求めた結果……
勝手に、足並みがそろっていくというだけ。
別にこれが、良いことだとか悪いことだとかを決めつける気はありません。
ただ、事実としてこうなっています。
売れたいと思うなら、一度周囲の『揺れ』を吸収して取り込むべきかもしれません。
別に、勉強しようとかそういうつもりで読まなくても大丈夫。
こんな作品は嫌だとはねのけるのではなく、一度素直な気持ちでランキング上位の作品を観察してみるのも……
なんて、思いました。