いせとば -異世界から飛ばされてきたのでいす-
異世界から、現代日本に飛ばされてきた美少女のお話です。
楽しんで書きました。どうぞ、よろしくお願いいたします。
【1】
伊勢くんが、電話中に「伊勢神宮に行きたいんやけど」と言いだしたので、土曜日のデートは伊勢参りに行くことになった。
今は春休み。高校の卒業式は終わっていて、あたしと伊勢くんは、四月から大学生になる。
「なんで、お伊勢さん?」
「鳥羽ちゃんなあ。赤福の本店、行ったことある?」
「ないなあ」
「昨日の夜。おかんと赤福の話しとったら、めっちゃ行きたなった」
「ええけど……」
「行きたない?」
「ううん? けっこう遠出になるから、どうかなあと思っただけ」
「大丈夫やて。おれがついとるし!
朝はよう出て、日帰りするつもりやけど。どお?」
「ええよ。こまかいことは、LINEで決めよっか」
「うん」
電話が終わってから、階段を下りてリビングに向かった。
美夏ちゃんの姿はなかった。
あたしと美夏ちゃんは、この家に二人で住んでいる。
あたしたちの家がある志摩町の片田は、「アメリカ村」と呼ばれていたことがある。由来は、明治時代の終わりから、第二次世界大戦が始まるまでの間に、アメリカに移住した人が多くいたから……らしい。
小学一年生までは、母さんと美夏ちゃんとあたしの三人で、神奈川に住んでいた。そのせいかどうかはわからないけれど、あたしの方言は、アクセントがおかしいらしい。標準語でもしゃべれるけれど、方言でしゃべれるようになってからは、標準語は使わないようにしていた。まわりの人に驚かれたり、遠まきにされたりするのが嫌だったから。
うちには父さんがいない。あたしたちを一人で育ててくれた母さんは、今はアメリカにいる。あたしが中学二年生の時に、中国人とアメリカ人のハーフの男の人と再婚してからは、パパの仕事に合わせてアメリカと中国を行ったりきたりしている。日本に帰ってきた時には会えるけれど、それ以外は、電話かLINEのやりとりだけだ。
あたしと美夏ちゃんの共同の銀行口座には、毎月一日ごろに、パパからお金が振りこまれる。たまに日本で会えた時には、パパは、あたしたちのことをすごく気づかってくれる。だから、あたしはパパのことが嫌いじゃなかった。
本当の父親とは、一度も会ったことがない。母さんからは、結婚には向いていない人だったとだけ聞かされていた。
廊下に戻って、奥の和室まで歩く。板ばりの廊下が、あたしの重みで、ぎっぎっと鳴った。
「美夏ちゃん。開けてええ?」
「ええよ」
襖を開ける。もう三月なのに、ぶあついはんてんを着た美夏ちゃんの背中が見えた。
美夏ちゃんは、奥の壁にくっつけて置かれた、大きな座卓に向かって座っている。あたしは腰をかがめて、畳の上に座りこんだ。
六畳の部屋は本棚だらけだ。ここは美夏ちゃんの仕事場で、寝室は二階にある。
中学生のころから英語が得意だった美夏ちゃんは、大学を出てから、ずっと翻訳の仕事をしている。勤め先の会社は鵜方にあるけれど、週の半分くらいは在宅で働いている。
美夏ちゃんがノートパソコンから手を離して、あたしの方に体を向けた。
「どうしたん?」
「ごめんね。仕事中に。
あたし、土曜日に伊勢まで行ってくる」
「ええ? なんで? 誰と?」
「伊勢くん……。行きたいんやって。今さっき、決まったことなんよ」
「大丈夫? 高校生が二人で迷子とか、やめてよ」
「もう高校生ちゃうよ。卒業したし」
「そやったね。伊勢くんのこと、母さんには言った?」
「ううん」
「まあ、言うても心配さすだけか。夏まで、帰ってこられんしね……。
行ってもええけどね。連絡だけは、ちゃんとつくようにしとってよ」
「うん。わかった」
「ねえ、美春。進路決まってよかったね」
「なーに? 急に……」
「大学に受かった時は、ほんまに、ほっとしたわ。母さんは、美春が中学生の時から日本を離れとったし。どうにもならんかったら、私の責任よねって、思うてたから」
「美夏ちゃんの責任なんて、なんもないよ。あたしは、美夏ちゃんのこどもやなくて、妹やし」
「そうは言うけどね。十も年下やと、娘みたいに感じてしまうんよ。
春休みやからって、あんまし開放的にならんでね。気をつけて、いってらっしゃい」
「うん」
***
伊勢くんと、伊勢神宮に行く日。
あたしが乗ったバスには、伊勢くんは乗ってこなかった。
伊勢くんは大王町に住んでいる。同じバスに乗れなくても、鵜方まではそれぞれで行こうと決めていた。
鵜方駅前でバスから下りて、伊勢くんの姿を探した。
ターミナルの近くにある売店の前で、立ちどまっている伊勢くんを見つけた。すぐ横に行って、声をかけた。
「伊勢くん」
「おー。鳥羽ちゃん」
「なにか、買うん?」
「いや。見とっただけ」
伊勢くんは、紺色のダッフルコートを着ている。下は黒のジーンズで、靴はコンバースのスニーカー。黒いリュックをせおっている。
あたしは、赤いジャンパーの下にベージュのトレーナーを着て、赤と黄色のチェックのスカートをはいている。靴が伊勢くんと色ちがいのおそろいになってるけれど、これは、とくにねらったわけじゃなかった。肩からかけた帆布のバッグには、お財布とスマホ、ハンドタオルとポケットティッシュ、小さなくしとかを入れている。
「かわいいなあ」
「そお?」
「これ、ワンピース? スカート?」
「スカート。おかしない?」
「ぜーんぜん。かわいい。かわいい」
「ありがと……」
てれてしまった。伊勢くんは、くったくなく笑っている。
とくにお化粧したりはしないで来てしまったけれど、伊勢くんは、まるで気にしていないみたいだった。
あたしが伊勢くんと知り合ったのは、高校に入ってからだ。
伊勢くんは、ちょっと変わっている……と思う。男の子にしては長めの髪は、前髪は横一直線。後ろも切りそろえられていて、おかっぱみたいに見える。
漫画やアニメが好きで、自分でも、小説を書いてるらしい。あたしには、まだ読ませてはくれないけれど。ネットで発表してると教えてくれた。
「リュックの中は、なにが入っとるん?」
「ノートパソコン。あと、あれや。ガイドブックとか」
「パソコンを持ってきたん?」
「ちっちゃくて、軽いやつな。バイト代で買うた」
「すごいなあ」
二人でバスに乗って、伊勢神宮に向かった。かなり時間はかかるけれど、それでも、電車よりもバスの方が早い。
家を出てから二時間くらいで、内宮に続く宇治橋までたどりついた。
大きな鳥居の前で一礼してから、ふくらんだような形の橋を渡る。足をすべらせないように、気をつけて歩いた。
伊勢くんについていくと、小さな橋があった。渡ったところに、手を清める場所があった。すごく混んでいて、列ができている。
「伊勢くん、知っとる? 五十鈴川で、お清めできるところがあるって」
「あー、御手洗場な。えーと……。ここをまっすぐ行って、右やな」
「ありがとー」
「なんも」
「あっ。ここやね」
あたしが思っていたよりも、ずっと広いところだった。五十鈴川を挟んで、向こう側に森が広がっている。
石畳は、川に向かって下がっている。低いけれど大きい、三段の階段になっていた。
下の段まで下りて、川の水で手を清める。水は冷たかった。あたしが出したハンドタオルを、伊勢くんと二人で使った。
「ありがとうな」
「ううん」
すぐ近くに、門のようなものがあった。お社はないけれど、木の板でぐるっと囲われている。
「これは、なんやろね。『瀧祭神』やって」
「五十鈴川の神さんやな。地元の人は『お取次ぎさん』て、呼ぶんやて」
「へー。お参りしてこ」
あたしとお参りをしてから、伊勢くんが歩きだした。
「このまま行こか。はじめに『しょうぐう』をお参りしたい」
「しょうぐう?」
「正しい宮と書いて、しょうぐう。天照大御神の神さんが祀られとる」
「日本で、いちばん有名な……有名っていったら、おかしい? メインの神様よね」
「うん。合っとるよ」
五十鈴川から離れて、せまい道を進んでいく。
緑の葉っぱの間から、金色の光が見えた。
「待って」
「鳥羽ちゃん?」
砂利道から外れた、木がたくさん生えているところに、誰かがいる。
小さなこどもだ。隠れたがってるみたいに、小さな体をもっと小さくして、木と木の間にしゃがみこんでいる。
「伊勢くん。あそこ……」
「んー?」
「ちっちゃい子が……。あたし、ちょっと行ってくる」
「待ってーな。おれも行くわ」
「立ち入り禁止やんね? ここ」
「しゃーない」
足もとに散らばってる落ち葉を踏んで、こどもに近づいていった。
あたしが光だと思ったものは、こどもの髪の毛だった。ゆたかな、としか言いようのない、長くて多い金髪が、腰のあたりまでのびている。
「泣いとるん? どうしたん?」
話しかけてから、日本語わかるんかな?と思った。
濃い紫のワンピースから、真っ白な、細い手足が出ている。血管がすけて見えるんじゃないかと思うくらいの白さは、日本人の肌には見えなかった。
ポシェットみたいな、小ぶりの布のかばんを肩からさげている。
こどもが顔を上げた。
「えっ……」
ものすごい美少女だった。ぱっちりした二重の、大きな目。小さめの鼻と、つんととがった、形のいい唇。まるで、お人形みたいだった。
「かわいい!」
「おー。かわいい子やな」
「すみれ色の目やね。外国の映画に、出てきそうやね……」
「はあーっ! やっと、言葉わかる方に会えたでいす!」
「えっ? え、なに?」
「うわーん!」
声を上げて泣きながら、あたしに抱きついてくる。
頭がくらっとした。こんな小さなこどもに抱きつかれたりするのは、あたし自身も小さかった、こどものころ以来だった。
「え、どうしよ……。大丈夫。大丈夫よ。
落ちついたら、あなたの名前を教えてくれる?」
しくしく泣いていた女の子は、しばらくすると、だんだん冷静になってきたみたいだった。
あたしにしがみついていた手から、力が抜けていく。
白い手が、ほっぺをぬらした涙をごしごしと拭いた。
女の子が立ち上がる。小さな足は、動物の皮で作られたような靴をはいていた。
「わたしは、ミエーラ・テレマカシ・なんちゃらかんちゃら・サンキュー・グラシアス・アサンテでいす」
なんちゃらかんちゃらの部分は、さらっと耳から流れていって、聞きとれなかった。
「な、長いなー……」
伊勢くんが、しぼりだすような声で感想を言った。
「縮めよか。うーん。『ミエちゃん』って呼んでも、ええかな?」
「いいですよいー」
「ねえ。今、『サンキュー』入っとったよね?」
「あったな」
「テレマカシとグラシアスも、聞いたことがあるような……。『ありがとう』って意味やなかった?」
「そやったかな」
「お父さんとお母さんは、どこかな? 誰かと、一緒に来たんよね?」
「ちがいます」
「……ほんまに?」
「ホンマ?」
「えっとね。『本当ですか?』って、きいたの」
「ああ! あい」
「そしたら、年は? 今、いくつ?」
「わかりません……」
「えぇー? ほんまに?」
「あい……」
「あたしの名前は、鳥羽っていうの」
「トバ?」
「うん」
「おれは、伊勢です」
「イセ。どうもでいす」
「もっと教えて? ミエちゃんのこと」
ミエちゃんの話をよく聞いていったら、こんなことがわかった。
ニポン村の祠をお参りしていたら、気分が悪くなって倒れてしまった。目が覚めたら、ここにいた。来た時は、まっ暗だった。
明るくなってから、見かけた人に話しかけたけれど、誰とも言葉が通じなかった。
この世界に飛ばされてきた気がする。こころぼそい。
お手洗いに行きたい。
「トイレか! それは、急いだ方がええな」
ミエちゃんの手を引いて、あわててトイレを探した。
「そんでね、パンツを下ろして……。って、わかるよね?」
「すそよけのことですかい?」
「すそよけ?」
「パンツ……」
「う、うーん? ごめん。わからんわ。……ええと、おしっこしたら、手を洗って、出ておいでね。鍵のかけ方はわかる?」
「わかります」
「じゃあね。外で、待っとるから」
トイレの外には、困ったような顔をした伊勢くんがいた。
「どう思う? ミエちゃんのこと……」
「うーん……。おれの正直な感想は、『いせかいてんせい』っぽいなあー、やな」
「いせかいてんせい?」
「『異世界』と、『転生』な」
「あー。『異世界転生』。そういう言葉があるん?」
「言葉っちゅうか、ジャンルやな。違う世界へ飛ばされたり、違う世界から飛ばされたり……」
「それにしては、日本語うますぎとちゃう?」
「せやな」
「あと、言葉がぜんぜん通じんかったっていうけど。あたしたち、ちゃんと会話できとるよね?」
伊勢くんの返事はなかった。遠くを見るような目をして、なにか考えているみたいだった。
「伊勢くん?」
「あーっ。そうか!」
「うん?」
「伊勢は観光地や。外国の人がようけおるやろ。ミエちゃんが日本語で話しかけても、外国の人には通じんかったんや!」
「なーる。日本語がわかる人に話しかけへんかったから、ってことやね」
「ほんまの迷子かもしれんし、ゆっくりお参りしよか。その間に、保護者の人がミエちゃんを見つけるかもわからん」
「そやね」
トイレから出てきたミエちゃんと合流して、正宮に向かった。
ミエちゃんは、きょろきょろとまわりを見回している。
「ニポン村にある、お社さんに似てますねい……」
「そっちにも、同じようなもんがある?」
「ありますねい」
伊勢くんの質問に、まじめな顔でうなずく。嘘をついているようには見えなかった。
「ここからは、静かにお参りしようか」
「せやな」
「あい」
長い階段をのぼって、一人ずつお参りをした。
「厳かやったね」
「な。ほんまやな」
「伊勢くんは、伊勢にはしょっちゅう来とるん?」
「どやろな。年に数回くらい……やな。おかんがおとんとデートする時に、よう伊勢に行ってたいう話を、こどものころから聞かされててん。
家族で来る機会は、多かったかもな」
内宮の中をゆっくり歩きまわってから、伊勢神宮を出ることになった。
宇治橋を渡って、鳥居をくぐる。駐車場に止まってる観光バスを見て、ミエちゃんが「うわーっ」と声を上げた。
「鉄のイノシシがいるですよい!」
「おかんが持っとる、昔の漫画で見た言葉や!」
「もっと近くで見たいですねいー」
「やめときなさい。ぶつかったら、死んでまう」
「えっ。おそろしいですねい……」
「おかげ横町で、ごはんにしよか」
「うん。ええよ。
ミエちゃん。おなかすいとる? お昼ごはん、食べようか」
「いいんですかい?」
「うん」
「ふわあー。ありがたいですねいー」
風がでてきた。白い雲が、すごい早さで動いていく。
ミエちゃんが、くしゅんとくしゃみをした。
「寒そうやな。上着、買うたるわ」
「ええの?」
「うん。ジャンパーみたいなん、あるかな」
雑貨屋さんで、こども用のはんてんを買った。色や柄は、ミエちゃんが自分で選んだ。
お昼は、伊勢くんが探してくれた定食屋さんで食べた。
その後は赤福の本店に行って、三人分の赤福を頼んだ。
「これ、できたて?」
「やと思うで」
「う、うみゃーい! うみゃい。うみゃいぃー」
「泣いとるわ。大丈夫?」
「三重県人としては、うれしいことやな」
伊勢くんは、にこにこしている。
それから、伊勢くんは家族に、あたしは美夏ちゃんに、お土産の赤福を買った。
「ちょっと、ええかな。ついてきて」
「うん?」
あたしたちをうながした伊勢くんが、伊勢神宮の方に向かって歩きだした。
どこまで戻るのかなと思いながらついていった。伊勢くんが足を止めたのは、参宮案内所の前だった。
「迷子の届けって、出てますか?」
「いいえ。今日は、ありませんね。そちらのお子さん?」
「いや。この子は、ちゃいます。いとこの子です」
「なにか、お心当たりが?」
「この子くらいの年の外国の女の子が、五十鈴川の御手洗場のところにおって。一人で泣いとったんです。おれらについてきたんで、迷子なんかなと思うて、気にしとったんですが。途中で見失ってしまいました」
「そうでしたか。わざわざ、ありがとうございます」
「これ、おれの電話番号です。もし、その子を探しとる人がいて、見つけられへんようなことがあったら、どういう状況やったかくらいは、お話できると思います」
手作りの名刺を案内所のスタッフの人に渡すと、あたしに「行こう」と言った。
「伊勢くん。今の、なに?」
こわい顔をしている。伊勢くんが、あたしを見た。
「おれらがミエちゃんと出会ってから、三時間以上は経っとるよな。せやのに、迷子の届けがない……」
「迷子やなくて、一人で、ここまで来たのかもしれんよ。親も、ミエちゃんがここにいることを知らん、とか」
「そうやとしたら、ますます、ミエちゃんの話の信ぴょう性が増すな」
「異世界転生?」
「そお。ミエちゃんな。鳥羽ちゃんに抱きついて、わーわー泣いとったやろ。これが演技なら、天才子役や。
おれらの後ろから、『ドッキリでしたー』って、テレビクルーが出てこなあかん」
「そやね」
「親に黙って、伊勢まで出てこられるような子は、ああいう泣き方はせんやろ……」
「そう、かも。そしたら、どういうこと……?」
「わからん」
あたしと伊勢くんは、顔を見合わせた。
「伊勢くん。どうするん?」
「そうなあ」
「このままやと、あたしたち、誘拐犯になってしまうのやない?」
「けどな。鳥羽ちゃん。ミエちゃんの親が、本当にこっちの世界におるのか、おれには確信が持てん」
「おらんとしたら、あたしたちが、どうにかしてあげんと。警察に預けるとか……」
「そやな。……まいったな。なあ、ミエちゃん」
「あい?」
「おれらと行くのと、知らないおじさんやおばさんに世話してもらうんと、どっちがええかな?」
「イセとトバと、いっしょにいたいですねい」
「そうかあー……。鳥羽ちゃんとこ、どうやろうか。居候さしてあげられへんかな」
「ええよ」
「あっさりやな。ええの?」
「うちは、親もおらんしね。美夏ちゃんさえ、オッケーしてくれれば」
「よかった。そしたら、帰ろうかあー」
「うん。行こう。ミエちゃん」
「トバ……。『親もおらん』とは、どういう意味ですかねい?」
「そのまんまよ。あたしと美夏ちゃん……姉は、二人だけで暮らしとるの」
ミエちゃんは、あたしの顔を見て、じっと考えこんでいるみたいだった。
「ミエちゃん?」
「トバのお母さんとお父さんは、どこに?」
「母さんは、アメリカにいたり、中国にいたり。日本にも、年に二回くらいは帰ってくるわ。父さんのことは、あたしにも、ようわからんのよ」
「そうなんですねい……」
「あ、母さんは再婚しとってね。その人のことは、『パパ』て呼んどるよ」
「パパ……」
つぶやくような声だった。ミエちゃんには通じなかったかも……と思った。
片田のバス停からの帰り道で、大きな夕やけを見た。
バス停の先にも続いているパール街道は、ここから北西に向かう上り坂になっていて、夕日がきれいに見える場所のひとつだ。それもそのはずで、この道の正式な名前は「ゆうやけパール街道」という。
「きれいですねいー……。世界の終わりに見る景色みたいですねい」
「悪いけどな。こういう景色なら、しょっちゅう見とるわ」
「ほんとですかい! はー。わたしは、こんな美しい国に飛ばされてきたんですねい……」
ミエちゃんは、首をめいっぱいのばして、西の空を見上げている。
「元の世界には、夕日はなかったん? こういう、赤い……夕暮れの景色」
「なかったですねい。いつもうす暗くて、うす明るい……。
朝とか昼とか夜とか、言葉としては知っていますがねい。ここへ来て、はじめて、ちゃんと理解した気がしますねい」
「太陽がない、ってこと?」
「かもしれんな」
「すごい世界やね……」
「向こうは暑い? 寒い?」
「どっちでもないですねい。過ごしやすいでいす」
「夏も暑くないんか。それって、どうなんやろな。味気ない気もするわ」
「そやね。そろそろ、行こうか」
ミエちゃんは、あたしたちの後ろを歩きながら、何度もふり返っていた。鮮やかな赤い空に、すっかり夢中になってるみたいだった。
「海、見てく? すぐよ」
「うみ! 見たいですねい!」
「帰りのバスからも、見えとったけどね」
家を通りすぎて、海をめざした。
堤防に続く坂道の手前で、伊勢くんがあたしの手を握った。それから、自然に手をつなぐことになった。
びっくりしてしまって、なにも言えなかった。その場に立ちどまって、伊勢くんを見つめていると、困ったような顔をされてしまった。
「嫌やった?」
「ううん」
「ミエちゃんも、つなごか」
「えっ? あ、あい」
「どっちがええ? おれか、鳥羽ちゃんか」
「トバ……」
ほっぺを赤くしたミエちゃんが、おずおずと手を差しだしてきた。かわいかった。
「かわいいなあ。ふふっ」
ぎゅっとつなぐと、握りかえしてきた。小さな手は、冷たかった。
「つめたい。あたしが、あっためてあげるからね」
「あっ、ありがとうでいす……」
堤防の上から、青と緑がまじった海を見下ろした。
「浜まで下りる?」
「ええよ。寒いし」
「そやな。風が強いわ。……ミエちゃん」
ミエちゃんの目には、涙がたまっていた。
「かなしくなった?」
「なんでしょうねい。なんだか、むねにせまって……。
この向こうには、わたしの知らない世界があるんでしょうねい……」
あたしの家まで、二人を案内した。
「お邪魔します」
「美夏ちゃんは、たぶんおらんと思う。
家で仕事しとる時と、会社でしとる時があるの」
「そうなんや」
夕ごはんを作った。
お皿の用意と配ぜんは、伊勢くんとミエちゃんが手伝ってくれた。
かんたんにできるカレーライスと、卵のサラダを低いテーブルに並べた。三人で、声をそろえて「いただきます」と言った。
「ミエちゃん、どう? 食べられる?」
「おいしいでいすー」
「鳥羽ちゃんのごはんは、あいかわらずうまいなー」
「そお?」
「めっちゃうまい。おかわりしてええ?」
「ええよー」
「もらってくるわ」
お風呂に入れてあげようと思って、ミエちゃんを浴室につれていった。
二人とも服は着たままで、シャワーの使い方を教えようとした。お湯を出したら、ミエちゃんが挙動不審になってしまった。
「蛇から、お湯がでてるー」
「蛇とちゃうよ。シャワーっていうの」
「こわーい……」
うるうるした目で見上げてくる。きゅーんとした。
「一緒に入ろうか。いい? あたしと一緒で」
「もちろんでいすー」
「おれ、リビングにおるわ」
ぬれた金髪が、肩や背中に張りついている。
白い胸はたいらで、十才くらいのこどもの体に見えた。
「せまいけど、一緒につかろうか」
「あい」
「おしりをつけてええからね」
「はあー。ごくらく、ごくらく……」
「お風呂は、あったんよね?」
「ありましたねい」
「シャワーは、なかった?」
「なかったですねい」
「……なんかね。ミエちゃん、あたしの妹みたい」
「えっ。あ、ありがとう?」
「かわいい」
「てれてしまいますねい……」
ミエちゃんには、きょうだいはいないのかなと、ふと思った。でも、きかなかった。いないような気もした。
明るくふるまっているけれど、ミエちゃんの中には、なにか、ふかい……孤独の影みたいなものがあるように感じていた。
あたしには、美夏ちゃんがいたから。父さんがいないことも、母さんが仕事で家をあけることが多かったことも、しょうがないことだとあきらめることができた。
だけど、たぶん……。ミエちゃんには、誰もいなかった。
小さな手をとって、お湯の中でつないでみた。ほかほかとあったかくて、あたしは満足した。
「トバ?」
「なんもない。あったまったね。上がろうか」
あたしのパジャマを着せたミエちゃんと、リビングに戻った。
伊勢くんが、キッチンで洗いものをしてくれていた。
「お皿、洗ってくれとるん? ありがとー」
「どういたしまして。お風呂、終わったんか」
「うん」
「どきっとしたわ。髪ぬれると、ぺたーんて、なるんやな……」
「ぺたーんって」
笑ってしまった。
「や。ふだんは、ふわっとしとるから」
「くせっ毛やからね。
ドライヤーで乾かすわ。ミエちゃーん。おいで」
ミエちゃんは、ドライヤーに怯えた。
「いやーんです。風が、かぜが、ぶわあーって」
「あはは。かわいいー。逃げんといてー」
「ふわわわわ……」
「あかん。わろてまう」
「見せものでは、ないのでいす!」
「ごめんな。がまんするわ」
「ふぃーん……」
しぶい顔をしてるミエちゃんの髪を、ていねいに乾かしていく。しばらくしてからのぞきこむと、もう慣れたのか、気持ちよさそうに目をつぶっていた。
「パジャマ、ぶっかぶかやな。買うてやらんと……」
「そやねえ。昔の服、とっておいたらよかった」
「妹がおったらよかったんやけどな。弟しかおらんわ。しかも、二人も」
「伊勢くんとこは、男兄弟だけやもんね。うちは、美夏ちゃんと二人で……。
母さんがね、たまに、ぽろっと言うとったわ。『男の子もほしかったね』って」
「うちのおかんも言うな。似たようなこと」
「そうなん?」
「うん。おれらのお嫁さんだけが、楽しみなんやって」
「そお……」
リビングの本棚を見ていたミエちゃんが、「おや」と言った。
「こくごじてん……」
「わかるん?」
「あい。辞書ですねい。読んでもいいですかねい?」
「どーぞ」
「ありがとうでいす」
国語辞典をテーブルに置くと、自分のかばんから、なにかのケースを出してきた。
ぱかっと開けると、眼鏡が入っていた。ものすごくぶあついレンズの眼鏡だった。それをかけて、ぱらぱらとめくり始めた。
「ちょっ……。ごっつい眼鏡やな」
「ミエちゃん、目が悪いん?」
「遠くは見えるのでいすが。近くが見えづらいのでいす」
「ぶあついレンズやなー」
「さまになっとるね。学者っぽい」
「そういやあ、津市に、えらい学者がおったよな」
「えっ。知らん。誰?」
「誰やったかな……。あ、『たにがわことすが』や」
「わからん。教科書に載っとる?」
「いやあー。載ってへんのやないか。
江戸時代の人や。日本で、初めて国語辞典を作ったんやって」
「すごい人やないの。なんで、知らんかったんやろ」
「本居宣長は有名やけどな。たにがわさんは、まあ、知る人ぞ知る……偉人なんやろうな」
「そのお話、とっても興味がありますねい」
「ほんまに?」
「あい!」
「そしたらな、津市に資料館みたいなんがあったはずやから。つれてったるわ」
「ありがとうでいすー」
廊下の床が鳴る音が聞こえた。
少しして、リビングに美夏ちゃんが入ってきた。
「あら。かわいい子がおる」
「お邪魔してます」
伊勢くんとミエちゃんが、同時にしゃべった。
「いらっしゃい。伊勢くんは、まあええとして。
こっちの子は、お友だち? だいぶ年が離れとるみたいやけど」
「え、ええっとおー」
「ミエです。よろしくでいす」
「よろしくね。私は鳥羽美夏です。……で? どういう経緯で、こうなったん?」
「ええとね。話せば、長くなるんやけど……」
「ぎゅっと縮めて、教えてくれる?」
「あー、うん。伊勢神宮で、迷子かと思うて話しかけたら、別の世界から飛ばされてきた子やったんよ」
「美春、どうしたん? 真顔で、おかしなこと言うたね」
「やって。ほんまに、ほんま……みたいなんやもん。
伊勢くんが参宮案内所で確認してくれたんやけど、誰も、ミエちゃんのことを探してへんかったんよ。つまり……」
「迷子やなくても、自分から家出してきた可能性はないん?」
「わたしは、家出はしていません」
「ご両親は? ご家族は、どこに住んどるん?」
「いません。誰も、いません」
美夏ちゃんに答える声は、それまでとは違って聞こえた。
あたしの目からは、ミエちゃんが、いきなり大人になったように見えた。びっくりして見つめているうちに、また、あどけないミエちゃんに戻っていた。
美夏ちゃんはなにも言わなかった。黙ったまま、ミエちゃんと見つめ合っている。
「どうも、嘘をついとる顔やないね」
「美夏ちゃん。うちで、しばらく住まわせてあげられへん?」
「ええよ。うちも訳ありの家やからね。
ここで暮らしとるうちに、親のことや、住んでいた場所のことを思い出したりするかもしれんしね」
「そやね! そうなったら、ええね」
「ミエちゃん。あなたのこと、もっと教えてくれる?」
「あい。自分で言うのは、はずかしいのですがねい。元の世界では『天才言語学者』と呼ばれていましたねい」
「おー」
「日本語、上手やね。勉強したん?」
「いいえ。わたしは、ニポン村で育ちました。これは……ニポン語は、わたしにとっては、母語であり、第一言語でもあるのでいす」
「あらら……。ずいぶん、難しい言葉を知っとるんやね」
「あややー。それほどでも」
ミエちゃんがてれた。
「ニポン村は、小さな、まずしい村でいす。
こちらへ来て、びっくりしました。見たことのないものばかりで……。
わたしは、この世界の名前が知りたいのでいす」
「世界……。地球とか?」
「チキュウ?」
「うーん。それ、世界の名前かなあ」
「まあ、とりあえず地球でええんやない?」
「この場所は、なんという名前なんでしょうかねい?」
「ここは、三重よ」
「ミエ?」
「ここの地名な。三重県」
「ミエケン……」
「この国のことは、わかるん?」
「すみません。さっぱりでいす」
「ここは、日本国っていうんよ」
「美夏ちゃん。国、いる?」
「つけても、おかしないよ。パスポートには、『日本国旅券』て書いてあるわ」
「あー。正式な呼び方は、日本国ってこと?」
「法令はないし、『日本』とも呼ぶけどね。『日本国憲法』が『日本憲法』やったら、おかしな感じしない?」
「するわー」
「そうですね」
「ここは、日本国の三重県の志摩市の志摩町の片田という場所なんよ。これに番地がつくと、住所になるんよ」
「ジュウショ……」
「いきなり言われても、わからんよね。少しずつ、慣れていってくれたらええからね」
「ありがとうございます。ミカさん。
あのう。イセと、イセジングウには、どんな関係があるんでしょうかい?」
「ない。なんもない。ええと、ないわけやないんやけど。
おれの伊勢は名前で、伊勢神宮の伊勢は地名なんや」
「はー」
「鳥羽っていう地名もあるんよ」
「そうなんですかい! ややこしいですねい」
「やっ。そうでも……ないで」
「もしかして、こっちのこと、ほとんど知らんかったりする?」
「うん。車もシャワーも、知らんかったよ」
「大変やなあ。そしたら、三重の写真を見せたげよか」
美夏ちゃんが、本棚からアルバムを持ってきた。
「観光した場所とか、うちのまわりとか……。私と母が撮った写真なんよ」
ミエちゃんの前に広げて、見せてくれた。
「シャシン。はー、すごい……」
「これなー。うちからすぐの浜に、ある日、とつぜん打ち上げられとったんよ」
美夏ちゃんが指さしたのは、さっき見た浜に、平べったい船のようなものが乗り上げている写真だった。
「メガフロート!」
伊勢くんが、大きな声を上げた。
「あ、わかる?」
「話だけは、聞いたことあります。これ、いつですか?」
「2002年。美春が生まれる前よ」
「なんで、こんな写真持っとるん?」
「撮ったからやわ! いさんで撮りに行ったわー」
「わ、わからん……。お姉さん、何才でした?」
「九才……やね。小学三年生。おばあちゃんに、インスタントカメラを買うてもらってね。一人で撮りに行ったんよ。
伊勢くんは、知らんかな? あたしたち、美春が生まれてから、神奈川に引っ越して暮らしとったんよ」
「え。ほんまですか?」
「うん。神奈川に六年おったんよ。
片田から離れても、これのことは、えらく印象に残っとってね。おばあちゃんも、まだ元気やったし……。
こどものころから泳いどった浜に、とんでもないものが来たいう感じやったね」
「たしかに。大きいですしね。
これ初めに見つけた人、びびったやろなー」
「片田じゅう、大さわぎよ。あたしのまわりだけかもわからんけど。
大人は大変やったろうけどね。こどもらは、撤去されるまで、しょっちゅう眺めに行っとったね。
千葉の方から来たんやったかな……。行ったこともないような遠くから、はるばる流れついてきたんやと思うと、不思議でね。前ぶれもなく、急に、目の前に現れたような感じやったから」
「そうだったんですねい。不思議なことが起きたのですねいー」
「それ、見ててええよ。ごめんね。ちょっと、仕事の電話してくる」
美夏ちゃんは、リビングから廊下に出ていった。
お茶とお菓子を出してあげようと思って、キッチンに行った。
「麦茶で、ええかな……。あと、ビスケット」
お盆にのせて戻ると、伊勢くんが困ったような顔をしていた。
「どしたん?」
「寝てもうとる」
伊勢くんにもたれかかるようにして、ミエちゃんが寝息を立てていた。
「ほんまやね。そうっと、寝かせたげて」
「起きへんかな」
リビングのラグマットの上に、ミエちゃんを寝かせてあげた。
大きなまぶたに、長いまつげがびっしり生えている。きれいな寝顔だった。
「かわいいなあ」
思わず、口からもれた。
「せやな」
「お人形さんみたい。見て? ほっぺ、ぷくぷく」
「おれ、アイドルとか、まったく興味なかってん。けど、こう……ミエちゃんを見とると、人が人を推す気持ちが、ひしひしとわかるわ」
「わかる! かわいいよねえー」
「あっ、でもな。おれは、鳥羽ちゃん推しなんは、変わらんから」
「あたし推し? それは、わからんかったわ」
「けっこー、ぐいぐい行っとったと思うんやけどなー」
「初めのころは、あんまし話さんかったやない。伊勢くんと同じクラスになったの、二年の時やったし」
「おれは、一年の時から知っとったよ。鳥羽ちゃんのこと」
「え、そうなん?」
「美化委員で、花壇の世話しとったやろ。かわいい子おるなーって、教室から見とった」
「こわっ」
「なんでや」
「話しかけてきたら、ええのに。じーっと、見てたん?」
「見とったな。中学の時に、ええなーと思うてた子がおったんや。でもな、いざ話しかけてみたら、なんか、思うてたのとちゃうかったことがあって。
遠くから見とる方が、気楽やったんかもわからんな」
「ふうん……。お布団、用意するわ」
「手伝わして」
「ありがとー」
「どこにあるん?」
「二階の押し入れ。あたしの部屋で寝てもらおうと思うとったんやけど……。もう、寝てもうてるし。今日は、リビングでええかな」
踊り場のない、まっすぐな階段を上がっていく。布団が入ってる押し入れは、廊下から開けられるところにある。
押し入れの扉の前まで行って、伊勢くんに声をかけようとした時だった。ふわっと、後ろからハグをされた。
「……伊勢くん?」
そんなに強い力じゃなかった。でも、たしかに、あたしを抱きかかえている。
「美夏ちゃん、おるよ」
「うん。ハグしたかってん」
なにか言う前に、ぱっと体が離れた。
「どきどきした」
「おれも」
「あのねえ……」
「あかんかった?」
「ううん」
「えーっと。布団は?」
「ここ」
下ろした布団にミエちゃんを移動させた。リビングを暗くする。
あたしがキッチンに行くと、伊勢くんがついてきた。
「鳥羽ちゃんの部屋、行ってもええかな」
「うん。お茶持ってくわ」
二人とも、ひそひそと小声で話した。
あたしの部屋に入ってもらった。
お盆を丸い座卓に置いて、押し入れから座布団を持ってきた。
「座ってええよ」
「ありがとう」
麦茶の入ったコップを、伊勢くんに渡した。あたしも取って、ぐーっと飲んだ。
「神奈川のこと。知らんかった」
「あ……うん。あんまし、こまかいこというても、しゃあないかなって」
「べつに、ええんやけどな。おれな……。鳥羽ちゃんは三重育ちなんやって、勝手に決めつけとったかもしれん」
「気にせんとって。神奈川は六年、三重は十二年よ」
「うーん……。けどな。向こうに友だちとか、おったやろ?」
「おったけど……。こどもやったから。母さんが三重に戻りたいて思うたんやから、ついていかんとって、思うたよね」
「お姉さんは?」
「美夏ちゃんは、すごく喜んどったよ。
あたしも……なんやろ。そこまで嫌やとは、思わんかったかな。
お盆とお正月には、こっちへ帰っとったから。ぜんぜん知らない場所とは、思うてなかったし……。おばあちゃんのこと、大好きやったしね。いろんな事情があったんやろうけど、いちばん大きな理由は、おばあちゃんが病気になってしもうたからやと思うんよ。
それより、ミエちゃんのことを話した方がええんやない?」
「せやな」
「ほんまに、異世界から飛んできたんかな。どう思う?」
「おれは思うとるよ」
「そお……」
「鳥羽ちゃんは?」
「あたし? 半々……やね。日本へ旅行に来た人たちの、こどもかもしれんよ。迷子になってもうて、ショックで、言葉もわからんようになって……」
「ミエちゃん、日本語わかるやんか。他の言葉がわからんくなっとるとして、日本語がわかる理由は?」
「そしたら、もともと日本に住んどる人たちの、こども?」
「そやったとしたら、知らんことが多すぎると思うで」
「たしかに。シャワーも知らんかったわ」
「車を見て『鉄のイノシシ』は、ないやろ……。どの国で育ったとしても、車くらいは知っとるはずや。秘境とか、人類未到の地にでも住んどったんかな?」
「それって……。こことは別の世界なんかなって、思うてしまうよね」
「せやな。鳥羽ちゃんは、なんかある? 他に、気になること」
「あたし? いろいろ、あるけどね……。
そもそも、ミエちゃんは何才なん? 本人にも、わからんらしいけど」
「それやな。正直、話してるかぎりでは、大人でもおかしないゆうか……」
「謎やね」
「謎やな」
伊勢くんと一階に下りて、美夏ちゃんの部屋に行った。
「美夏ちゃん。少し、時間ある?」
「ええよ。開けて」
襖を開けて、伊勢くんを先にして和室に入った。
「すいません。お仕事中に」
「大丈夫よ」
美夏ちゃんが仕事の手を止める。あたしたちに向かって座り直した。
伊勢くんが座るのを待って、あたしも横に座った。
「ミエちゃんの話?」
「うん。ミエちゃんをどうしてあげたらいいのか、わからないの」
「やろうね。私にも、わからんからね」
「えー……」
「こうしよか。明日、私が交番に行って、『伊勢で、こういう女の子を見かけました』って、話してくるわ」
「えっ?」
「連絡先を伝えておいたら、ミエちゃんの親から連絡がくるんちゃう? 探してくれていれば……やけどね」
「美夏ちゃんも、ミエちゃんは別の世界から来たって、思うん?」
「どうやろね……。そうかも、とは思うよ。
日本語は上手やから、ここで暮らすことはできるやろうけど。本当は、どこで生まれたんやろうね。ただの迷子という感じは、せえへんね」
「そっか……」
「交番に預けてしまったら、たぶん、二度と会えへんやろうね……。ミエちゃんの話が本当なら、誰も、彼女を迎えにはこうへんよ」
「うーん」
「それは、困りますね」
「ミエちゃんは、私のいとこの子ってことにしよう。近所の人には、それで通すわ。
警察には、ミエちゃんと伊勢で見た子が似ていたから、気になっとるとでも話せば、そうおかしくは聞こえんと思う」
「美夏ちゃん。それ、伊勢くんが参宮案内所の人に言うたのと、まったく同じ……」
「あらら」
「気が合いますね」
「思考回路が似とるんやろうね」
美夏ちゃんがにこっと笑って、伊勢くんも笑い返した。あたしだけが、なんだか、内心はらはらしていた。
「すいません。おれ、そろそろ帰らんと」
「そうやね。気をつけて帰るんよ」
「はい」
「あたし、そこまで送ってくる」
「ええて。逆に心配なるわ。またな。鳥羽ちゃん」
「あ、うん……」
「車で送ろうか?」
「まだ、バスあるんで。ありがとうございます」
「またね」
「うん。ごはん、ごちそうさまー」
【2】
ミエちゃんがうちで暮らし始めてから、一週間が経った。
その間に、二人で家の近くを歩いてまわったりした。
片田稲荷にも行った。この神社の入り口には、すごい数の赤い鳥居が並んでいる。小高いところにある祠には、数えきれないほどたくさんの狐の置物が祀られている。
ミエちゃんは、少しこわがっていた。
今日はミエちゃんとなにをしようかなと思いながら、一階にあるミエちゃんの部屋に向かう。
美夏ちゃんの仕事場のとなりにある洋室は、母さんが寝室として使っていた部屋だ。母さんが再婚して家を出てからは、ずっとがらんとしていたけれど、今はミエちゃんが寝泊まりしている。
「ミエちゃん。なにしとん?」
「トバー。これはですねい、スワヒリ語をニポン語に翻訳するという、立派なお仕事なのでいす」
「……はい?」
「なにか、用事ですかい?」
「ううん。ごめんね。邪魔しちゃって」
美夏ちゃんの仕事場の襖を開けた。いなかった。
リビングに行くと、美夏ちゃんはコーヒーを飲んでいた。
「ミエちゃん、仕事をしとるって」
「ああ。それね、私が頼んだんよ」
「でも……。ミエちゃんは、どう見ても、こども……」
「そやね」
「そやねって」
「メールでのやりとりなら、相手方にはわからんのよ」
「う、うわー……」
「正直、助かったわ。スワヒリ語がわかる人が産休でお休みしとって、誰も翻訳できんようになっとったのよ。社長が大喜びしとるわ」
「ほんまに、合っとるん? 間違ってへん?」
「私の友だちの、日本語がわかるケニア人の女性に頼んで、ミエちゃんと電話で話してもらったんよ。ちゃんと通じとったわ」
「ええーっ! すごいなあ」
「読み書きできて、しゃべれるなんて、相当努力したんやと思うわ。天才言語学者ゆうんも、ほんまかもしれんね」
「そお……」
「ただねえ、おかしいっていうか……。なんでやろと思うことがあって」
「うん?」
「英語はわからんのよ。話しかけてみたんやけどね。えらい嫌そうな顔されたわ」
「英語が、わからない……。伊勢で外国の人に話しかけて、ぜんぜん言葉が通じんかったって、言うとったわ」
「あの見た目やったら、英語かフランス語、イタリア語かと思って、全部試してみたんやけど。あかんかったね」
「他は、ドイツ語とか、スペイン語とか? 言葉は、いくらでもあるし……」
「そうやね」
「どうして、日本語と、スワヒリ語だけわかるんやろ?」
「わからんけどね。私は、大助かりやわ」
「よかった、ねえ……」
***
次の日の朝。伊勢くんから電話があった。
「おはよ」
「おはようさん。ミエちゃん、どうしとる? 元気?」
「元気よー。翻訳の仕事を始めたんやって」
「マジか!」
「マジなんよ。スワヒリ語がわかるんやて。
伊勢くん。この後、うちにくる?」
「行く、行く。このまま、話しながら行くわ」
「あぶないよ」
「準備するだけ」
「美夏ちゃんが、気になることを言ってたの」
「んー?」
「ミエちゃん、英語やフランス語は、わからんのやって」
「へー。お姉さんが話しかけたん?」
「そお。ただねえ、嫌な顔をしたんやて。ミエちゃん」
「ふーん……」
「まったくわからんのやなくて、なんか……。ふくみがあるゆうか、そんな風に感じたんよ」
「なんか、あるんかもな。まあ、そのへんはおいおい……。ケッタで行くわ」
「うん。わかった」
「また、あとでなー」
電話が切れた。
あたしは、もやもやとしていた。少しだけ、不安でもあった。
伊勢くんは、ミエちゃんのことを、自分のこどもみたいにかわいがっている。美夏ちゃんも、すごくよくしてあげている。
ミエちゃんと出会ったことで、二人の心の中に、あたしの居場所がなくなってしまったような気がしていた。
「こんなん、あかんわ……」
ミエちゃんがとてもかわいいから、よけいにみじめな気持ちになるのかもしれなかった。きれいな二重のまぶたを、うらやましいと思いながら見てしまう時がある。
長い髪を三つあみにしてあげたりするのは、好きだった。やわらかな金髪の手ざわりが気持ちよくて、いろんな髪型を試した。ポニーテールにしてあげることもあった。
あたしが髪をいじってる時のミエちゃんは、いつも嫌な顔ひとつしないで、おとなしくしてくれている。
あたしの髪は、くせっ毛で、長くのばすとまとめづらいから、のばそうとは思わなかっただけなのに。今になって、のばしておけばよかったなあと思い始めていた。
「べつに、金髪になりたいわけや、ないけどな……」
電話から四十分くらいで、伊勢くんがうちに来た。
「いらっしゃい」
「お邪魔しますー」
伊勢くんとリビングに入った。ミエちゃんは、正座をして待っていた。
「イセー。こんにちは!」
「こんにちは。元気そうやな」
「おかげさまで」
「お? 眼鏡が変わっとる」
「美夏ちゃんが『ごつすぎて、かわいそう』って。鵜方まで車でつれていってくれて、かわいい眼鏡を買うてくれたんよ」
「おー。よかったなあ」
「よかったでいすー。ありがたいことですねい」
「ミエちゃん。翻訳の仕事を始めたんやって?」
「あい。元の世界では、わたしがわかる言葉、三十種類以上ありました。
でもですねい、この世界では、ちゃんと使えそうな言葉は、ニポン語とスワヒリ語だけだったですよ。残念ですねい」
「お、おう……。その二つがわかるだけで、じゅうぶんすごないか?」
「そうですかねい」
「残りの二十八種類の言葉は、また別の世界の言葉ってこと?」
「その可能性は高いですねい。まだ、あらゆる言葉を調べたわけではないのでいす。他にも、わたしにわかる言葉があるといいのですがねい……」
「仕事は忙しいんか。いつまでに終わらせなあかんとか、ある?」
「今月いっぱいだそうでいす。まだまだ、余裕はありますねい」
「そっか。なあ、鳥羽ちゃん。三人で鳥羽に行かん?」
「ええけど。なにしに?」
「水族館に行きたい」
「鳥羽水族館か。ええよ」
「スイゾクカン?」
「そお。めっちゃ楽しいとこ」
「でも……。あたしもう、あんましお金ないよ。伊勢くんは?」
「バイト代が入ったから。おれが持つわ」
「三人分?」
「もちろん」
「わーい」
「本気で喜んどるよな」
「もちろん!」
鳥羽水族館では、ゆっくり楽しんだ。
ミエちゃんは、歩く度に感心している様子だった。
アシカのショーを見た。お昼は、水族館の中のレストランで食べた。
水族館を出てから、フェリー乗り場に行ってみた。
ちょうど、鳥羽と伊良湖の間を往復する伊勢湾フェリーが、遠くから近づいてくるところだった。遠目でも大きなフェリーを見て、ミエちゃんが「わーっ」と言った。
「ふね! あれが、ふねなんですねい!」
「船も、なかったん?」
「小さなものなら、ありましたねい。かいでこぐ、二人乗りの」
「そうなんや」
「川はありましたねい。海は、見たことがなかったでいす。はわー。ふね……」
ミエちゃんがあまりにも興奮しているので、急いで切符を買って、フェリーに乗ることになった。
「伊良湖まで、五十五分やって。ちょっとした旅気分やな」
「そやね」
「けっこー、揺れるな。ミエちゃん、大丈夫か」
「あい!」
伊勢くんの提案で、伊良湖港から菜の花ガーデンまで、一時間くらいかけて歩いた。
ミエちゃんは、長い距離を歩くことに慣れてるみたいだった。むしろ、あたしたちの方がへろへろになっていた。
一面の黄色い菜の花を見て、ミエちゃんはまた興奮していた。
「はな! はな! すごいですねい!」
「菜の花やー」
「ええ時に来たね」
「な。ここ、愛知県やで」
「アイチケン……」
帰りのフェリーに乗って、鳥羽へ戻った。
それから、歩いて真珠島まで行った。
博物館を見てから、ショップに行った。伊勢くんが、本物の真珠がついたキーホルダーを三つ買った。
伊勢くんからキーホルダーをもらったミエちゃんは、すごく喜んでいた。かばんのひもにキーホルダーをつける姿を見て、つれてきてあげてよかったと思った。
【3】
「なにかに呼ばれてる気がするのでいす」
大学の入学式まで、あと三日になった金曜日の朝。
ミエちゃんが、あたしに訴えてきた。
「なにか、って?」
「わかりません……。でも、行かなくてはいけないと思うのでいす」
「どこに?」
「伊勢神宮でいす」
「ちょっと、待ってね。伊勢くんに連絡するわ」
伊勢くんに送ったLINEは、お昼になっても既読にならなかった。
「ごめんね。伊勢くん、忙しいみたい」
「そうですかい……」
「あたしと、二人で行く?」
「いいえ。できれば、イセとトバと、三人で行きたいでいす」
「そお……。わかったわ」
午後一時を少し過ぎたころに、電話がかかってきた。
「伊勢くん」
「ごめんな。バイト中で、わからんかった」
「ごめん。切った方がええかな?」
「や。休憩中やから」
「よかった。あの……。ミエちゃんがね、伊勢神宮に行きたいんやって」
「今日?」
「みたい……。バイト、何時まで?」
「あと一時間で終わる。そしたらな、ケッタで行くわ。待っとってもらえるかな」
「うん。ええよ。ごめんね、忙しいのに」
「ええて。またな」
午後三時になる前に、外から、自転車が急に止まるような音が聞こえた。
急いで階段を下りて、玄関からサンダルで出ていくと、汗だくの伊勢くんがいた。全身で息をしていた。
「そんなに、急がんでも……」
「ミエちゃんは?」
「おるよ。美夏ちゃんには、まだ言うてない」
「おれから話すわ」
玄関の土間にサンダルを脱いで、上がった。
廊下からリビングに入る。美夏ちゃんはキッチンにいた。
「伊勢くん。いらっしゃい」
「お邪魔します。お姉さん。今から、三人で伊勢に行ってきます」
「えっ? こんな時間から?」
「すいません。どうしても、行かなあかんのです」
「ミエちゃんのために?」
「はい」
「まあ、ええけどね。警察のお世話になるようなことや、ないよね? 美春」
「ない、ない!」
「帰りは? 何時になるん?」
「わからん……」
「ほんまに、大丈夫なん?」
「大丈夫。伊勢くんが一緒やから」
「そお? じゃあ、お願いね。伊勢くん」
「まかしといてくださいやー」
「不安やわー……」
「なんでですかっ。お姉さんっ」
「あたし、ミエちゃんを呼んでくるわ」
片田から、バスで伊勢神宮に向かった。
浦田町で下りた。午後五時には、三人で宇治橋を渡っていた。
「急いだ方がええな。六時で閉門や」
「ミエちゃん。どこへ行きたいん?」
「わたしがめざめた場所……。川に面していて、ゆるい階段があるところ」
「御手洗場やな」
「行こう!」
御手洗場には、人気がなかった。
五十鈴川が流れる音以外は、なにも聞こえない。
「来たけど……。どうしたら、ええんかな」
あたしの横にいる伊勢くんを見て、きいた。返事を聞く前に、伊勢くんの顔がこわばるのが見えた。
「鳥羽ちゃん。川、見てみ」
「えっ?」
視線を戻して、あたしは息をのんだ。
たたずんでいる人がいる。川のすぐ近くだ。
「なっ、なんで? 誰も、おらんかったのに……」
「わからん。急に出てきたようにしか、見えんかった」
あたしたちに背中を向けているので、後ろ姿しか見えない。
白い着物を着ている。白い袖と裾はしぼられていて、動きやすそうだった。
細い腰に巻かれた赤い帯は、ひらいた花のような丸い形になっている。今までに、一度も見たことがなかった結び方だった。
長い黒髪が肩の下までのびている。女の人だと思いかけた時だった。草履をはいた足を動かして、あたしたちに向き直った人の姿は、まだ幼さの残る少年に見えた。
「遅かったな。待ちくたびれたぞ」
少年がしゃべった。ごくふつうの声に聞こえた。
でも……。ひらめくように感じたことがあった。
この人は、たぶん、人間じゃない……。
思わず伊勢くんを見た。ミエちゃんの肩を抱くようにして、厳しい目で少年を見つめている。
顔を戻して、一歩前に出た。それでも、あたしと少年の間には、数メートルの距離があった。これ以上は、近づいてはいけないというか……。違う。そうじゃない。
近づけなかった。
あたしが感じているのは、畏れだった。
「あなたは、誰?」
「わしは『渡し守』だ。
『ここではない、どこかへ行きたい』と心から願う者の前に現れて、その願いを叶える役目を担っている」
「どこか? それは、どこにあるの?」
「この世界とは異なる次元にある、別の世界だ」
「別の世界……? それは、なんていう世界?」
「わしは『彼岸の国』と呼んでいる」
「願いを叶えるって、どうやって?」
「彼岸の国で生きられるように、その者を向こうへ飛ばす」
「飛ばす……」
「命ごと、体を移動する」
「わかったような、わからんような……。ここにおる女の子を、この世界に飛ばしたのは、あなた?」
「そうだ」
あたしの問いかけに、『渡し守』はあっさり答えた。
ミエちゃんが、あたしの後ろから、前へと進んでいった。ゆらっとしたような動き方で歩いていく。長い髪が、生きものみたいに揺れた。
いつもはにこやかな口もとは、きつく結ばれていた。ミエちゃんは、怒っていた。すごく。
「おかしいですねい! わたしは、ここへ飛ばされる時に、あなたに会ったりはしていないでいす!」
「おまえの場合は、他の者とは事情が異なる」
「さっぱり意味がわからないでいす」
「おまえは、おまえの運命に導かれて、ここへ来た。……まあ、わしがそうしたんだが」
「あなたは、ごうまんですねい……」
ミエちゃんの声は、ふるえていた。
「あなたは神様かもしれませんがねい、人を、自分勝手に、あっちこっちに飛ばしていいとは思いませんねい!」
「わしには、わしの考えがある」
「それは、あるでしょうねい。わたしにも、わたしの考えがありますからねい。
あなたに、どんな立派な考えがあるかは、わたしにはわかりませんがねい!
あなたは、わたしの人生を狂わせたのでいす!
本人の許可なく、人を異世界に飛ばしまくっては、あかんのでいす!」
「『あかん』とか……。胸熱」
「ぐっとくるわ」
「緊張感がないなるから、外野は黙っとれなのでいす!」
「怒られてしもたわー」
「マジのやつやな」
「声量を落としても、だめなのでいす!」
「すいません」
「ごめんね」
「わかってくれれば、いいのでいす。
『渡し守』さん。あなたには、わたしを、ニポン村に帰す義務があると思いますよい!」
ミエちゃんが叫んでも、『渡し守』は平然としていた。さめた目で、ミエちゃんを見つめている。
「おまえ、この世界で生きて苦しんだか。本当に、元の世界に戻りたいか?」
「あいー……?」
ミエちゃんの怒りが、しゅーんとしぼんでいくのが見えた。
「あれっ。どした? ミエちゃん」
「くるしい? くるしくは……なかったでいす。むしろ……」
「むしろ?」
「楽しかった、ですねい」
「ミエちゃん。こっちの世界のことも、好きになってくれたん?」
「そっ、それはあ……。あい。好きですねい」
『渡し守』が片手を上げた。なにかが起きるのかと思って、びくっとしてしまったけれど、ただ自分の頬をなでただけだった。それは、人間っぽいしぐさに見えた。
「飛ばされたというのは誤りだ。おまえは、ただ帰ってきただけだ」
「帰ってきた……?」
「おまえは、この世界で生まれた命だ。縁あって、彼岸の国で育つことになった。
彼岸の国で長く過ごした者は、それぞれに定められた時を経なければ、元の世界には帰れない。わしは、おまえの時が満ちたのを感じて、おまえをここへ帰した。それだけのことだ。
ここが気に入らないなら、向こうに戻してやってもいい。だが、今戻れば、おまえは二度とここには帰れない。
どうする? 戻るか」
「……えっ」
「三分だけ待ってやる」
「えらく短いですねい……」
「おまえら、時間をはかれ。わしは時計は持っていない」
「おっとー。上からやな。びっくりするわ」
「タイマーではかるわ。はい、スタート」
「スタート?」
「始まりってことよ。……二分四十秒ー」
「それな。将棋の、残り時間を読み上げる時の感じな」
「あ、わかってしもた?」
時間はどんどん過ぎていく。ミエちゃんは、なにも言わずに立ちつくしている。
スマホを持つ手が、汗ばんでくる。
横にいる伊勢くんの顔を見た。今はもう、笑ってはいなかった。
「一分。ミエちゃん。あと、一分よ」
本当に、別の世界から来た子だった。
あたしたちが知らない、遠い、不思議な世界で育った子だった。
そやけどね……。ミエちゃん。あなたが生まれたのは、この世界やったんやて。
太陽と月があって、赤い夕日が美しく見える、この世界が、あなたのふるさとやったんよ。
「……あたし、泣きそう」
伊勢くんの手が、あたしの背中にふれるのを感じた。ぐっと力がこめられて、くずれそうな体を支えてくれた。
「決めるのは、ミエちゃんや。おれらは、黙って見守ってやらな」
「ミエちゃん! もう、三十秒しか」
「帰らないでいす!」
「ミエちゃん……。うれしいけど、それ、本当に本気で?」
「本気でいす。向こうでは、誰も、わたしを待っていないのでいす」
「ミエちゃん。やけになったら、あかんで」
「伊勢くんの言うとおりよ。よーく考えた方が、ええんちゃう?」
「イセ。トバ。ありがとう。でもですねい、ほんとは、考えるまでもなかったのでいす。
わたしは、親に捨てられたんでいす……」
「ええっ?!」
あたしと伊勢くんの声が、かぶった。
「わたしが、まだ赤ちゃんだったころのことでいす……。金髪の女の人が、ニポン村にやってきました。そして、村長にわたしを預けて、去っていったのでいす。
事情は知りません。でも、大きくなってから、村長から話を聞いたわたしは、その女の人が、わたしのお母さんだと思いました。
その日から、長い苦しみが始まったのでいす……。どうしてわたしを捨てたのかと、お母さんを恨みました。ずっと憎んでいました。
だから、金髪の人たちが話す言葉だけは、ぜったいに学ばないと、心に誓ったのでいす……!」
「そやから、英語やフランス語がしゃべられんかったんやな! 納得したわ!」
「ミエちゃんの話は、本当なん? あなたは、わかっとるはず」
「おおむね合っているが。かんじんなところが抜けているな」
「どういうことや?」
「この娘の母親が、なぜ、わしに我が子を預けたのかという理由だ」
「もったいぶるなや。さっさと話さんかい!」
「伊勢くん。言葉が、あれな感じよ」
「……すいません」
「母親は戦火のさなかにいた。敵の進軍に怯えながら、この娘を生んだ。
そして、神に祈った。この娘を救ってほしいと、強く願った。
その願いに引かれて、わしは、母親の前に姿を現した。
無事に逃がしてやることはできるが、二度と会うことはかなわないと伝えた。それでもいいと答えたから、逃がした。それだけのことだ」
「それって、いつの……どこの話や」
「1944年のポーランドだ」
「ひえっ……」
「ななじゅう……七十七才?!」
「彼岸の国では、時の流れが異なる。湿った葉から一粒ずつ落ちる滴のように、ゆっくりと年をとる。
ここで生きるなら、まっとうに年をとって死ぬ。向こうの方が、ずっと長く生きられる」
「ポーランド……」
あたしたちをふり返ったミエちゃんは、びっくりしたような顔をしていた。
「それは、この世界にある国なんですかい」
「ある! ある!」
「そうですかい。そしたら……。そしたら、わたしは、ここに残るですよ」
「そうか。向こうには二度と戻れないが、それでいいのか」
「あい。ひとつだけ、質問があります。あの、金髪の女の人は、わたしの……」
「おまえの母親だ。おまえを抱いたままの母親を、向こうに送った。
わしが一度に送れる命の数には、かぎりがある。赤子を送ることは、めったにないことだ。特例として、おまえの母親を同行させた。
おまえの母親は、時間が許すかぎり向こうの村を見てまわって、もっとも大切にしてくれると感じた村におまえを預けてから、1944年のワルシャワに戻った」
「第二次大戦中のワルシャワって、ねえ……」
「そのころの日本も、そうとうやばかったやろうけどな。『ワルシャワ蜂起』って、教科書で読んだ気するわ」
「なんですかい? それは」
「待ってね。スマホで調べたげる」
「やめとこうや。鳥羽ちゃん」
「どうして?」
「ミエちゃんは、ポーランド人とはかぎらんやろ。
あのな……。ミエちゃん。この世界では、大昔から人と人が争ってきたんや。小さいもんから、大きいもんまで、数えきれんほど、たくさんの戦争があった。
1944年のワルシャワも、戦場やった。ミエちゃんのお母さんが、ミエちゃんの無事を、神さんに祈るしかない状況やったんや。
それだけ、わかっとってくれたら、ええ」
「そうでしたか……。そうだったんですねい。
ありがたいこと、だったんですねい……」
ミエちゃんの大きな目から、涙がぽろっと落ちた。
「お母さんは……お父さんは、わたしを、愛してくれていたんですかねい……」
「愛してたに決まっとるて!
二度と会えんでも、生きていてくれさえすればええて……。究極の愛や! 本物の親心やで!」
伊勢くんが叫んだ。ものすごい大声だった。
ミエちゃんの見ひらいた目から、涙があふれてくるのが見えた。
伊勢くんが駆けよる前に、あたしの体は動きだしていた。
なんて、かわいい、かわいそうな、こどもみたいなミエちゃん……。
「おいで。ミエちゃん」
「トバー……」
ぎゅうっと、抱きしめてあげた。向こうからも手がのびてきて、あたしの腰にまわされる。小さな体だった。
「おかあさーん! うわーん!」
ミエちゃんは、わあわあ泣いた。
「ここに、いてええんよ……。ミエちゃんなら、ちゃんと、生きていける!」
「そやで! なんたって、ミエちゃんはニポン語とスワヒリ語がわかるんやから!」
「ふ……ふへえ。チュゴク語も、ちょとわかるでいす」
「おっ、ええな!」
伊勢くんが、あたしの体ごと、ミエちゃんをぎゅうっと抱きしめた。どきっとした。
「うぅー。くるしいでいす」
「ごめんな」
伊勢くんが腕を離しても、あたしはミエちゃんを抱きしめたままでいた。ミエちゃんも、あたしから離れなかった。
そのまま、ずっと抱き合っていた。下の方から、すんすんと鼻をならす音が聞こえた。
ミエちゃんが泣きやんでから、体を離した。
「……おらんね」
『渡し守』は、いつのまにか消えていた。
「あれって、妖怪? それとも、神様?」
「どっちでもええんちゃうかな。伊勢は、富士山と並ぶパワースポットや。
ここであれだけ堂々としとるやつは、悪いもんやない……と思うで」
「たしかに」
「鳥羽ちゃん。これ」
藍色の、松阪木綿のハンカチを渡された。
「なーに?」
「めっちゃ、涙でとるで」
「やだ……。ありがとー」
涙を拭いてから、伊勢くんに返した。ミエちゃんは鼻水が出ていたので、ジャンパーのポケットからティッシュを出して、拭いてあげた。
「ずびばぜんねい」
「ええのよ。ミエちゃん、帰ろうか」
「あい。……トバ、イセ。これからも、よろしくでいす」
「もちろんよー」
「帰ろう、帰ろう。赤福買うてってええ?」
「ええよ。ねえ、お参りしてへんね。せっかく来といて」
「せやな」
「明日は土曜日やね。近くで泊まれるところを探して……。また、赤福を食べてから帰る?」
「それもええな」
「いいですねい」
「美夏ちゃんに電話するわ」
美夏ちゃんがため息まじりに許してくれたので、スマホからビジネスホテルの予約をした。二部屋とって、伊勢くんは一人で、あたしとミエちゃんは二人で泊まることにした。
ホテルがある五十鈴川駅の向こうまで、歩いて移動することにした。
歩いている途中で、小さなハンバーガー屋さんを見つけた。なぜか全員テンションが上がって、そこで夕ごはんを食べることになった。
「おいしい? ミエちゃん」
「あいー。なんというか、元気がでる味ですねい」
「な。うまいな。……ハンバーガーを食べながら、言うことやないとは思うんやけど。おれ、松阪牛を本場で食べてみたいんよなー」
「あー。あたしも」
「肉だけなら、いただきもので食べたことあるんやけどな。めっちゃ、うまかったわー」
「ええなー。あたし、ない」
「鳥羽ちゃんにも、いつか食べさしたるわ」
「ふふっ。期待しとく」
「あ、ミエちゃんにもな」
「ありがとうでいす」
「なあ。鳥羽ちゃんは、もし旅行するとしたら、どこへ行きたい?」
「東京の明治神宮やね。あと、島根の出雲大社。日光もええね」
「多いなー。バイト増やさなあかんなー」
「無理せんといてね。あたしも、バイト探そうかなー。
伊勢くんはないん? 行きたいところ」
「恐山やな」
「へー」
「わたしも、行きたいですねい……。迷惑でなければ、でいすけど」
「ぜんぜん! 一緒に行こうね」
「あい……」
「あと、あれやな。二見の夫婦岩も見たかってん」
「それは、明日行ったらええんやない?」
「せやな」
それから、三人でもくもくとハンバーガーを食べた。ふとミエちゃんを見ると、小さな手でつまんだポテトをかじりながら、うるうるしていた。
「どしたん?」
「わたしは、しあわせ者ですねい」
「これからよ。ミエちゃん。
まだまだ、いーっぱいあるからね。楽しいこと」
「せやせや」
「うれしいですねい」
駅の近くにあった洋服屋さんで、三人分の下着と、明日の分の服を買った。買おうと言ったのは、あたしだった。伊勢くんとミエちゃんにも選んでもらった。
鳥羽で遊んでから、伊勢くんにおごってもらってばかりいたので、あたしのお金で買おうと思っていた。二人がお店の中をふらふらっとしている間に、レジまでかごを持っていって、伊勢くんになにか言われる前に払ってしまった。
ホテルに着いたのは、午後八時を少し過ぎたころだった。大人二人と子供一人の宿泊料金を払って、三人で部屋に向かった。
ミエちゃんは、あたしたちのこどもにしては大きすぎるはずだけれど、フロントの人になにか言われたりはしなかった。そもそも、あたしたちが本当に夫婦だったとしても、ミエちゃんみたいな容姿のこどもが生まれるわけがなかった。
泊まる部屋の前で伊勢くんと別れて、ミエちゃんと中に入った。
ユニットバスを順番に使って、ホテルのパジャマに着がえた。
伊勢くんと話したかった。でも、ミエちゃんが眠るまでは、そばにいてあげたいとも思った。
「ねむたいでいす」
「疲れてもうたんやね……。おやすみ」
うつぶせになったミエちゃんが、枕に顔をうめる。すぐに眠ってしまった。
おだやかな寝息を十分くらい聞いてから、廊下に出た。
部屋の鍵は、外からかけた。となりの部屋にいる伊勢くんと話してから、また戻るつもりだった。
黒く塗られた木のドアをノックする。すぐに、向こうから開いた。鍵はかけていなかったみたいだった。
「伊勢くん」
「……なあ、鳥羽ちゃん」
「うん?」
「あ、入ってからでええよ」
あたしを通してから、伊勢くんの手が鍵をかけた。
「鳥羽ちゃんが座ってな。それ」
ひとつしかない椅子を勧めてくれた。あたしが座ると、伊勢くんはベッドのふちに腰を下ろした。
ベッドの上には、伊勢くんがいつも使っているノートと筆箱が置いてあった。ノートパソコンの画面には、外国の景色のような写真がいくつも並んでいる。
伊勢くんは、しばらく黙っていた。黒い目は、あたしを見ているようで、見ていない。
「どしたん?」
「あのな……。おれ、考えとったんやけど。ミエちゃんのお母さんな。ワンチャン、生きとる可能性があるんやないか」
「うっそ! ありえへんて! ミエちゃんが七十七才ってことは……」
「二十で生んだら、九十七才。まったくありえん話とは、言いきれんやろ」
「ほんまやね……。どうしよう?」
「会いたいんちゃうかな……。会わせてやれんかな」
「ええけど。あたしたち、これから大学に通うんよ。つきっきりで、サポートはでけへんよ」
「同居しとるだけでも、すごいサポートやと思うで」
「まあ、それは……。そうかもしれんけど」
さまよっていた目線が、まっすぐにあたしを見た。やっと目が合った。
「旅をしようや」
「はい?」
「夏休みとか。冬でも、春でも。鳥羽ちゃんが嫌でなければ、おれは、ミエちゃんをつれてってやりたいて思うとる」
「ええけどね……。出雲も恐山もすっとばして、ポーランド?
英語、通じる? 通じたとしても、英語で会話する自信ないわー」
「ポーランド語やな。英語と似とる感じもするけど、ようわからん」
「えー……」
「大丈夫や。ミエちゃんがおる! 本人に勉強してもらえばええ」
「あー。たしかに、天才言語学者やもんね。そうか……」
「もう亡くなっとる可能性は高いけどな」
「そやね。けどな……。ほんまやったら、生まれてからずっと聞き続けて、はじめに覚えるはずの言葉を、ミエちゃんは知らんのやね……」
「そやな。かわいそうやな。
おれなりに、調べたんや。ポーランドのこと」
伊勢くんが調べた情報を教えてもらった。
ポーランドの北側にあるバルト海が見られる浜辺は、観光名所になっていること。ショパンの生誕地で、世界的に有名なピアノコンクールがワルシャワで行われていること。ポーランドに住んでいる人のほとんどが、ポーランド人だということ……。
冗談のひとつも出てこなかった。伊勢くんが、ポーランド行きのことを真剣に考えているのがわかった。
「鳥羽ちゃんは、どう思う?」
「行こうか。ポーランド。伊勢くんと話しとったら、楽しみになってきたわ」
「な。パスポート、用意せなあかんな」
「するわー」
「問題は、ミエちゃん本人の分やな……。無戸籍の人が、日本で戸籍を作るには、どうしたらええんやろうな……。パスポートは、戸籍なしには作れんやろ」
「そこはー……。あの妖怪だか神様だかが、なんとかしてくれるんちゃう?」
「あるかもな。やー、でもな。正攻法でやるしかないんかな……。
ミエちゃんの立場は、難民に近い気いするわ。ビザなしやから、密入国したと思われても、しゃあないんかな?」
「かもしれんね」
「まあ、それもこれも……。おれらも、ミエちゃんも、もっと落ちついてからの話に……なるんかな」
「ゆっくりでええよ。あたしたちも、そうやったやん?」
「やな。ごめんな。鳥羽ちゃん。
ミエちゃんと出会ってから、ぜんぜん、二人で会うてへんよな」
「二人っきりで、デートしたらええやない。大学の帰りとか……」
「せやな」
ベッドから立ち上がった伊勢くんが、あたしの手を引いて立たせた。
「そっちに座るん?」
うなずかれた。ベッドに並んで座ると、伊勢くんが少し寄ってきたので、あたしもその分だけ近づいて、二人で、こどもみたいなキスをした。
ふれるだけで、あっけなく離れていった。
のぞきこんだ目の奥には、きらきらと光るものがあった。あたしを見て、やさしく笑っている。
あたし、伊勢くんが好き。大好き。
異世界に飛ばされて、異世界から飛ばされてきた美少女は、あたしの後ろにある壁の向こうで、すやすやと眠っている。
ごめんね。ミエちゃん。
あたしは長いまつげも、ぱっちり二重も、ゆたかな金髪も持ってへんけど……。
伊勢くんだけは、あなたにあげられへんのよ。
「鳥羽ちゃん?」
「んーん? なんもない」
……ミエちゃんが伊勢くんを好きかどうかなんて、あたし知らんけどな!
読んでいただいて、ありがとうございました。
ふだんはピクシブにいます。ピクシブでも小説を投稿中です。よかったら、読んでやってください。