夏の夜
作者が高校時代の時、自分の部屋にアレが出たのをきっかけに書いた作品です。
とりあえず投稿機能に慣れるため、供養のためにあげてみました。
読み返すと文章が稚拙すぎて恥ずかしいですが、個人的には好きな作品です。
夏の夜。開け放った窓から湿った温い風が入り込んできた。
と同時に、あれも入ってきた。
黒くて、素早い、あれだ。
それは前の飲食店から飛んできた。
明かりをつけているため、虫がよく飛んで来るのだが、まさかあれが入ってくるとは思ってもいなかった。
第一、あれが飛んでいる姿を見たことがない。
その黒いものは、私の部屋の壁へと無事に着陸した。
しばし、あれと私の睨み合いが続いた。
喰うか、喰われるか。その極限の状態で、私の心臓の鼓動は早く波打ち、しかし、冷静な判断をすることが出来た。
私はまず、あれが動き出す前に先手を打って出鼻を挫く、という作戦を思いついた。
傍にある雑誌を丸めてすぐに叩き潰す。よし、これでいこう。
私は顔をあれから動かさないように、慎重に雑誌へ手を伸ばした。
その時、あれは私の殺気を察知したのかすぐに動き始めた。しまった、こちらの出鼻を挫かれてしまった。
あれはなんともおぞましい走り方を私に見せつけながら、素早く手の届かない天井へと避難した。なかなかに賢い奴だな、あれでは手が出せない。
ジャンプすればギリギリ届くが、そんな事をしている間に逃げられてしまうだろう。それに、もし潰せたとしても、内臓の飛び出たあれが私の顔に落ちてきたらと思うと……。
怖すぎる。悲惨な結果になってしまう。
仕方なく私は別の方法であれを退治しようと考えた。
天井に止まっているので、近距離攻撃では先ほど考えた様な事になってしまう可能性がある。では遠距離攻撃ではどうだろうか?
今、この部屋にある遠距離攻撃用の武器といえば、座布団、教科書、うちわ、その他置物などである。
だめだ、どれも当たってしまったら誰にも触れる事ができないような代物になってしまうではないか。
この部屋から出る事ができたらスプレーという最強の武器があるというのに、ここから出たらあれの居場所が分からなくなる。もし、取りに行って戻ってきた時に天井から私の顔めがけて飛んできたら……。これも悲惨だな、多分失神してしまうだろう。
部屋から出る事はできない。そして武器は無い。となると手の出しようが無い。入ってきた窓から出て行ってくれるのを祈るばかりだ。
しかし、あれは私の予想に反した、非常にがっかりさせてくれる行動を取った。窓の反対方向にあるエアコンの裏手へとまったのだ。
どうする? 何か良い方法があるか? それともこの部屋から撤退するか?
いや、だめだ、それはできない。寝るところがなくなってしまう。
だけど姿が見えなくなるのは嬉しい事だな。あれを見ているだけでも生理的嫌悪が走る。
少し冷静に考えてみよう。虫というのは光に集まってくるという習性があるな。これを利用したらどうだろうか?
仮に今、この部屋の電気を消してみる。すると、外のほうが街の明かりが多いからそちらへと向かっていく。
よし、完璧だ、これをやれば手を汚さずに追い出す事ができるぞ。
私はゆっくりと、足音を出さずに電灯へと近づいて、紐に手を掛けた。そして、そーっと電気を消した。
よし、真っ暗になってしまったが、あれは外の光に誘われて出て行くことだろう。
ふいに、エアコンのあるほうからかさかさと音が聞こえてきた。
あ! この作戦は危険だ! 相手はあれだぞ! 何をやっているんだ私!
すばやく電気を付け直した。あれはエアコンから少しはみ出たところに止まっていた。
危なかった、危うくやつに騙されるところだった。相手は賢いあれだ、電気を消したところを見計らって私に奇襲をかけてくるに違いない。ふう、一瞬の判断のミスが命取りになるところだった。
あれはすばやい動きでエアコンから離れていって、今度は本棚の後ろへと壁伝いに入っていき、また姿をくらました。
やばいな、もうかれこれ十分以上は戦っている。やばいぞ、私の体力も限界に近づいてきた。まあ体力というよりは精神力だけど……。
お! 良い方法を思いついたぞ! あれ専用のホイホイを持ってくれば良いんだ!
危険だが、電気を消して素早く部屋の外に出る。そして台所にある新しいホイホイを組み立てて、小さい懐中電灯をホイホイにセロハンテープでくっつけて、そして部屋に投げ入れる。
完璧だ! 光に集まるという虫の習性をうまく利用した、我ながらすばらしいアイデアだ!
よし、そうと決まったら早速行動に移る。
私は音を立てずに電気を消して部屋の外に出た。そして急いで台所に向かうと、そこには私の母がいた。
「ねえ、黒くて小さくてすばやい虫を取るホイホイない?」
「ああ、それならこの前使っちゃったよ」
迂闊だった。予想外の展開だ。本日何度目の予想外だ?
もうだめだ。終わった。私は敗北したのだ。あれとの決闘に。私は虫ごときに勝てない弱い人間なのだ。しかも今日、自分の部屋に戻る事が出来ないばかりか寝ることさえ出来ない。いや、今日と言わずにもう一生入れないかもしれない。私は膝を折ってその場に倒れこんだ。
私の人生は、終わったのだ……。
「何? あれがでたの?」
母が死に掛けている私を見てそう言った。
「……うん」
やっとの思いで搾り出したその声は、自分のものとは思えないほど力の無い声だった。
「あんたの部屋にいるの?」
「……うん」
同じ言葉を繰り返す私。なんと惨めなのだろう。ああ、私は一生あれに怯えて暮らさなければならないのか。
あれに負けた者の末路は知っている。私の友人であれに敗北したものがいるが、彼はその後、あれを見る度に嘔吐してしまう重度の過敏症へと成り下がった。
私もそうなるのであろう。いや、もっとひどいかもしれない。
あれを見るたびに失神して、鳥肌という蕁麻疹が出て、過呼吸症候群が発症して、アトピー性皮膚炎になって、肺癌になって、認知症になって、年老いて、死んでしまうかもしれない。
ああ、そんなふうになりたくない。だけどそれ以外に道は無い。
もう、ダメだ――
?
突然、何かの音がした。そしてすぐにドスンドスンと近づいてくる足音が聞こえてきた。
「……倒してきたわよ」
膝を折ったままの姿勢で、私は顔を持ち上げた。
すると、母が新聞紙の先についている内臓が飛び出たあれの死骸を私の顔に近づけて、勝ち誇ったようににやりと笑いながら見せ付けてきた。
――失神した。
母は強かった。




