天使の卵
春が近づいてきたある日のこと。
「姫、今から国外へと逃れます」
侍女が言いました。
いよいよ、国を出るときが来たのです。
しかし、姫は憂鬱でした。
あれから魔王に出会うことが出来ないまま、今日という日を迎えたのです。
姫はどうしても、魔王と話がしたかったのです。
(あの時、私が恐れなかったのなら……)
後悔しても、どうしようもありません。
時間を戻すことは出来ないのですから。
姫は決心しました。
(避難の迷惑に、なるかも知れないけれど……)
避難するための馬車から、こっそり抜け出します。
どうしても、このまま国を出ることは出来ませんでした。
◆◇◆◇◆
避難する人たちの声が遠ざかって行きます。
本当にこれで良かったのか、姫は自分でも分かりません。
トボトボと歩いていると、秋に蛇と出会った池に差し掛かりました。
もう、あたたかい春が近くまで来ています。
「あの蛇は、冬を越えることが出来たのかしら?それとも、もう、国外へと逃げてしまったのかしら?」
そう言えば、あの蛇の目も、魔王を封印した魔法使いと同じ、赤い目をしていたと、姫は気づきました。
思いながら、そっと池を覗きます。
すると、池に自分の姿がうつりました。
そして、その後ろに──!
ハッとして、姫は振り向きました。
あんなにも探していた魔王が今、目の前に立っているのです。
ポロポロと涙が溢れました。
「……何故、泣くのだ? 恐ろしいからか」
感情のない声で魔王が問いかけます。
「いいえ、いいえ……」
姫は何を言えばいいのか分からなくなり、そのまま黙っておりました。
「何故、国を出ない?」
魔王が訊ねます。
眉を寄せるばかりの姫。
「お前がここにいると、私は眠りにつけないのだ……」
言いながら、自分の鋭く長い爪を見せるように、手を伸ばす。
「早く出ていけ、切り裂かれたいか?」
姫は恐ろしくなり、息を飲みました。
すると今度は池の中から、笑い声が聞こえて来ます。
「ふふふ。人を切り裂くなんて、お前に出来るのかい?」
見ると、秋に出会った小さな蛇でした。
魔王は蛇を見ると、眉間にしわを寄せ、答えます。
「また、お前か。言われた通り箱の中で、寝ていただろ? 誰かが勝手に、私を起こしたのだ」
「ああ、知ってるよ。何もかも」
言って、蛇は人に姿を変えました。
赤い瞳に、ひょろひょろとした体。
真っ黒のローブを羽織り、そのローブからは真っ直ぐの長い黒髪が腰の辺りまで、流れ出ています。
魔女はくくっと笑い、魔王に言いました。
「今回は、今までとは違うのだよ。そこにいる姫に、私は助けられてね。この国を出る前に、恩返しをしなくちゃいけないのさ」
言って懐から、姫が切り与えた、金色の髪を取り出しました。
魔女は言います。
「お前さんの髪で、私の子ども達は、凍えずに冬を越すことが出来た。ありがとう」
赤い目を細め、魔女は顔をしわくちゃにさせながら、笑いました。
姫はその言葉にほっとして、答えます。
「良かった。心配していたのです。今、どうしているのかと……」
「助けてくれた、お礼をしなくてはいけない」
言って、魔女は持っていた髪を空中に投げ、呪文を唱えます。
金色の髪はクルクルと丸まると、キラキラと光ながら、大きく成長しました。
「切った髪をもとに戻すことは出来ないが、この国から魔王を追い出すことは出来る」
にやりと笑う魔女。
顔を歪める魔王。
そして──。
「いいえ、魔女さま。それは、やめてください」
姫はそう言って、魔女にすがりつきました。
その言葉に二人は目を丸くします。
「魔王さまは、私たちの憎悪を食べていらっしゃるのだと聞きました。その、魔王さまに酷いことは、しないで頂きたいのです」
それに、と姫は続けます。
「魔王さまは、私を助けて下さりました……」
覚えておられますか?と上目遣いで訪ねられて、魔王は戸惑い、後ろに下がりました。
その様子を見ながら、魔女が笑いだし言葉を繋ぎます。
「あはは……。全く姫にはかなわない」
魔法をかけ終わった金の髪を手に、しかし魔女は魔王の目の前に立ちました。
「これは『卵』だ。持つがいい」
言われて、怯む魔王。
「私は生き物に触れられない。触れば壊れてしまう……」
しかし、魔女は卵を魔王に押し付けました。
「これは、普通の卵ではない。姫の力が籠った卵だからな」
魔王が卵を受け取るとともに、卵にピシリっと亀裂が入り始めました。
「……っ」
卵が割れると、中から光の妖精と夜空のような黒い髪、春の空のような青い目の天使が生まれます。
大きな艶やかな瞳を、眩しそうにしばたたかせました。
「……可愛いっ」
姫が思わず叫びます。
天使達は、無邪気に笑いながら、魔王に小さな手を伸ばしますが、魔王は後ろに下がり怯みました。
庇うために出した手には、鋭どい爪。何もかもを引き裂くその爪に、天使が手を触れました。
「…………っ」
───パキンッ!
軽い音とともに、爪が折れ魔王は目を見張りました。
魔女は薄く笑います。
「人の憎悪に、対抗するのは、人の《無償の愛》だと、前にも言っただろう?」
魔王は困った顔で、魔女を見ました。
「姫は、私を救った時と同じように、魔王のお前を救いたいと思った。心から愛する者を、彼女の力が危害を加えるわけはないだろう?」
天使達に触れられた爪や角が、地面に転がり、金の粒となって消える。
「お前は再び人になったのだよ」
天使達が空へ舞い、キラキラと光る粉を振り撒くと、枯れ果てた木々や草花が、次々と芽吹き始めました。
姫はそっと、魔王の手を取りました。
その手が人を傷つけることはもう、ありません。
魔王は、ふと懐かしい妹を思い出し、その名呼びました。
「……はい。なんでございましょう? 私の名前をご存知でしたのね」
ふわりと姫が笑います。
魔王であった少年は、しばらく目を見開き、姫を見ます。
「……!」
懐かしい面影を見つけ、魔王は泣きながら姫を抱き締めました。
◆◇◆◇◆
魔女は、悪魔の木が生えている小高い丘に立ちました。
まわりには草木が生え揃い、春の爽やかな風が吹いています。
老木の木の根本には、『悪魔の種』を納めていた小箱がありました。
「さぁ、最後の仕事だ」
言って、その小箱を持ち上げ、蓋を開けました。
──ひゅんっ。
どこからともなく、再び種が現れました。
それを見てとると、魔女は薄気味悪く口を歪めました。
「人の憎悪は無くなりはしないものだね……」
悲しそうに呟きながら、魔女はパタンと箱を閉めました。




