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『O-279. 浦上-イオニアの反乱劇(ヒスティアイオスの脱兎)』  作者: 誘凪追々(いざなぎおいおい)
▶第一幕(01/12)「里心」
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・第一幕「里心」その1(前)



<O-276(紀元前500/499)年><晩夏><アジア大陸の某砂漠(ペルシャ高原の奥地)にて>



 ――砂漠の砂ってやつは、風が無ぇときにただ眺めるだけなら、大して駄々もこねねぇしなかなか美しいもんだなんて柄にもなく思ったりもするが、風が吹いてちょっとでも舞い上がろうもんなら、まったく始末に負えねぇ。目に入れば痛くて開けてられねぇし、口に入ればジャリジャリと不愉快極まりねぇ。せっかく洗った気に入りの上着も、とたんに埃まみれにしやがる。

 んなのは、海辺にある砂浜と似たようなもんだろなんて言いやがる奴もいるだろうが、俺に言わせりゃ、熟練の売女ばいたと未通の乙女ガキを比べるようなもんだぜ。嘘だと思うなら、お前さんもいっぺん、大陸アジアの奥地まで来てみな。エーゲ海のちんけな砂場しか知らねぇガキには、迷子になりそうなほど途方もねぇ遊び場だろうぜ、ここは。


 俺だって、故郷くにの砂浜が恋しいんだ。目の前には水平線まで輝く真っ青な海が広がり、後ろにはオリーブやらブドウやらの濃い緑が広がりやがる、その間の申し訳程度に横たわる白い砂浜って奴をよ、寝転がる女の白ぇ柔肌のごとき砂浜って奴をよ。


 イオニア(浦上)はほんとに良い場所さ、ペルシャ帝国の隅々まで旅したこの俺が言うんだから間違いねぇ。あそこはアラビアのように暑くなく、スキュティアのように寒くなく、エジプトのように乾いてなく、インドのように湿っていない。光も水も土も草木も、すべてがちょうど良いんだ。

 だから、あそこに住んでるやつはそれだけで勝ち組なのさ。逆に言やぁ、そっから離れた俺は負け組って訳だ。


 ならなんで、それほど恋しい故郷くにを離れたかって? 簡単な理由さ、この俺が優秀すぎるからだ。いや冗談ではなくな、出る杭ってやつは打たれる仕組みになってんのさ、このふざけた世界は。

 あれはもう、今から十年以上は前になる。ペルシャ帝国の三代目になった大王・ダレイオスは、インドからエジプトに及ぶ広大なアジア大陸を攻め従えると、残る北の大地・スキュティアにも侵略の手を延ばした。あの極寒の、草しか生えてねぇような荒野に、凶暴だが勇敢な遊牧民が大勢暮らしやがるガチガチに厳しい大地だ。

 そこへ向け、大王・ダレイオス自らが馬を駆り、帝国全土から招集した精鋭揃いの諸民族軍を従え、大遠征の途についたのだ。


 当時の俺が暮らしてたイオニア(浦上)地方の国々も、むろんこの遠征に兵士を差し出し従軍させられた。俺も自分てめぇが支配するミレトス(柔①)市の部隊を率いて出陣した。

 俺らギリシャ(倭)民族に期待されたのは軍船の供出だったから、俺も数十隻からなる船団を指揮して、スキュティアとの国境になってるイストロス川(※ドナウ川)のほとりまで進み、そこに他のイオニア(浦上)人とともに巨大な船橋を架けたんだ。大王たちペルシャ軍はそいつを渡ってスキュティアの大地に入り、奥へ奥へと進軍していった。

 そして俺らイオニア(浦上)人には、「大王が帰ってくるまでこの船橋が破壊されないようここで見張っていろ」と厳命された。


 しかしだ、スキュタイ人は生粋の遊牧民どもだからな、自分てめぇらの全財産を車や家畜の背に乗せると、スキュティアの大地の奥へ奥へと退いていきやがった。しかも水や食糧がある大事な場所を自らの手で焦土にしながらだ。おかげで、大王とペルシャ軍はそれを追いかけていったんだが、あまりに広い荒野であるため、敵をまるで補足できねぇままついには困窮し、スキュティアの征服を諦め「全軍撤退せよ」との命令が下された。

 すると、スキュタイ人の一部が先回りして俺たちが待つイストロス川(※ドナウ川)のほとりに現れ、俺たちが守る船橋を破壊してペルシャ軍を殲滅してやろうじゃねぇかと持ちかけてきやがった。

 このため、イオニア(浦上)人の指揮官たちは会議をし、どうするか激論となった。この時、ケルソネソス(津軽半島)のミルティアデスを筆頭とする連中は、「スキュタイ人と手を組み、ペルシャ軍をここで殲滅すべきだ」と主張したが、俺を筆頭とする連中は、「ここで大王・ダレイオスを裏切るのはペルシャ人に根深い恨みを残し、あとあと酷ぇ報復を受けるに違いねぇから、むしろ恩を売るべきだ」と主張した。

 結局、この俺の意見が通り、俺たちは船橋を壊すふりしてスキュタイ人を騙くらかすと、大王とペルシャ軍が戻ってくるまで待つことにした。するとほどなくして、スキュタイ人の追撃からギリギリ逃げてきた大王・ダレイオスとペルシャ軍が現われたんで、俺らはすぐさま船橋を架け直し、連中を無事帰国させるのに多大な貢献をしたって訳さ。


 命拾いした大王・ダレイオスはこの件をおおいに感謝し、特にこの俺には「格別の報償」ってのを下さると言われた。そこで、俺はトラキア(陸奥)地方にあるミュルキノス(咲花)って土地を所望した。あそこは交通の便が良いのに加えて、有望な鉱脈があるらしいことを知ってたからな、前々から目を付けてたんだ。

 そこで、ペルシャ軍の力も使ってあの土地を手に入れ町造りを始めたんだが、ここで大王に告げ口しやがった奴がいてな。そう、この俺が優秀過ぎるから、「あんな良い土地を与えて野放しにでもしちまったら何を仕出かすか解らねぇ」って訳だ。

 おかげで、当時サルディス城に留まって居た大王は俺を呼び寄せると、「これよりペルシャ本国に帰るため、汝も同行せよ」と命じ、有無を言わせず遥か遠くのスーサの都まで連れ去ったという訳さ。大王は、「有能で忠実なるヒスティアイオスの助言をいつでも聞きたいので、朕のすぐ傍に暮らせ」なんてな理由で王宮近くに豪華な邸を与えてくれたんだが、こいつは態のいい軟禁で、それを証拠にその後二度と俺にイオニア(浦上)へ帰る許可は出なかった。


 ったく、命の恩人になんて酷ぇことしやがるって話だが、とにもかくにも俺は大王と帝国に特別扱いはされていたため、移動を除けば自由に暮らせたし、ペルシャ人の高官連中とも親しく交流することが許されていた。ここは世界中から多種多様な民族や文物が集ってくる場所だからな、それはそれで刺激的な日々であったことは否定しねぇ。

 それが数年程度だったら、楽しくも思えただろう。けどよぉ、そいつが十年以上も続いたんだ。あの懐かしいはずの潮風も、今じゃどんな匂いだったかうまく思い出せねぇ始末だ。かわりに、アジアの乾いた砂風を嫌というほど嗅いだが、残念ながらいつまでたってもこれが懐かしいだなんて思えやしねぇ。


 諦めの心と、望郷の念、こいつが寄せては返す波のように、俺の心を揺さぶりやがる。忘れられるもんならとっくにそうしてたが、あいにくとそんな都合のいいもんじゃないらしい。

 特に、なじみの顔を見ちまうとな、おまけに故郷くにの話を聞かされるとな、どうにもたまらなくなっちまうんだ。――


※ この物語の本文において、古代ギリシャの地名に日本の地名等を併記させていますが、これは古代ギリシャにあまり詳しくない方向けに日本の似ていると思われる地名等を適当に添付してみただけのもの(例:「アテナイ(山口)市」「アッティカ(長州)地方」など)ですので、必要ない方は無視していただいて問題ありません。


※ 古代ギリシャ世界には統一された暦がなく、唯一それに該当しそうなものとして「オリンピックの第○回目の第○年目」という表記法がありました。そこで、この物語でもオリンピックの第一回目が開催された年(紀元前七七六年)から数える方法(例:O-276年(=初開催から二百七十六年が経った年)、O-280年(=初開催から二百八十年が経った年)など)で表記しています。


※ 古代ギリシャ世界の一年の区切りは基本的に夏でしたので、現在我々が使っている西暦では二年に跨がることになってしまうため、例えばO-276年の年は「紀元前500/499年」、O-279年の年は「紀元前497/496年」などと表記する慣例になっていますので、この物語でも「O-276(紀元前500/499)年」や「O-279(紀元前497/496)年」というような形で表記しています。

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