⑨
仕事から帰って、自宅のドアの前にしゃがみ込んでいる晃を見付けて、そのやさぐれた雰囲気に、結希は思わず息を呑んだ。
「晃、どうかしたの?」
そう声をかけ、声に反応し顔を上げた晃の目が酷く荒んでいて、結希は背筋に寒気が走った。
「ごめん。結希。今日だけ、今だけで良いから匿って。今、家に帰ったら、俺、確実にあのくそ女ぶん殴って病院送りにしそうだから。結希以外、頼れるとこがない。こんな状態で行けるとこなんて。だから・・・。」
そう言って俯く晃が酷く怒っているように感じるのに何だかとても傷ついて泣いているように見えて、結希はいいから中に入りなよと彼を部屋の中に促した。
いつもお喋りが止まらない晃が全く口を開かない。酷く重苦しく黙り込んだ晃はピリピリした空気を発していて、なんか余程のことがあったんだろうなと思う。あのくそ女って、きっとシュウ兄の奥さんだよね。いったい何されたんだろう。晃は短気なとこあるけど、本気で怒ることはそうそうないのに。まして、ここまで怒りがおさまらないみたいなのは見たことがない。単純だから謝ってちょっとおだてるだけで基本すぐ機嫌直るし。それが、家に帰ったらぶん殴って病院送りにしそうとか言っちゃうぐらいどうしようもない状況って、本当、何があったんだろう。そう思うが、でも今は何も聞かずそっとしておこうと思って、結希は着替えて夕食の支度をすることにした。
ふと、あの様子だと晃、何も言わずに家飛び出してきちゃったんだろうななんて思って、結希は透に晃が家に来ている旨の連絡を入れた。とりあえず落ち着くまでうちで預かってるからなんて、本当はこういうことはシュウ兄に言った方が良いんだろうけど、わたしシュウ兄の連絡先知らないし、と開き直ってみる。でも、もし連絡先を知っていたとしても、シュウ兄には連絡しなかった気がする。今、折り合い悪いみたいだし、シュウ兄も短気なとこあるから頭ごなしに晃のこと怒って無理矢理連れて帰るとかしそうだし、知らせない方が良いと思うから。そんなことを考えて、結希は心がざわついた。透の言い方だと、シュウ兄との折り合いの悪さってわたしが皆と知り合う前からみたいなんだよな。でも、一緒にいた頃は仲良いように見えてた。透も晃も、シュウ兄のこと嫌っているようには見えなかったのに。いや、嫌いではないのか。嫌いじゃないから、嫌なところがあっても一緒にいて。色々許して、我慢してでも一緒にいて。それが、我慢できなくなって家を出ようって計画を立てるに至るなんて、きっとよほどのことなんだよね。わたしには解らないけど。そう考えると、わたしはそんな感情を抱けるほど家族と過ごしたことがないからなんて、結希は少し寂しい気持ちになった。でも、二人はそれだけ辛かったってことは想像できる。わたしには解らない痛みを二人が抱えてきたことは。積み重ねてきたことは。だから、晃のアレは昨日今日のことじゃなくて、沢山の積み重ねでたまっていたものが、何かのきっかけでもうどうにもならないくらい溢れだしてしまったのかもしれない。でも、その場で爆発させないで、ここまで逃げてきたと考えると、晃は凄く頑張ったんだなと思って、結希は凄く彼を褒めてあげたいような気持ちになった。
だから、元々考えていたメニューをもう少し豪華にしてあげようかななんて結希は思った。元々、元気が出るようにって晃の好きな唐揚げは作ってあげるつもりだったけど。それに+してだし巻き卵を作って。サラダをやめて青菜の辛子和え。春菊あれば大徳寺和えでも良かったんだけど、春菊ないし、だし巻きで卵使うし、辛子和えで良いよね。あとは、味噌汁をお吸い物に変更して。焼きおにぎりも作ってあげようかな。これじゃ、野菜が足りないかな。でも、唐揚げの下にキャベツの千切り敷くしまぁいいか、なんて、そんなことを考えながら料理する。
調理を終えて、晃の様子を見るついでにテーブルを拭きに行くと、不機嫌そうにまだ黙り込んでいる彼から怒気が薄れているのが見て取れて、結希は、ご飯食べる?と声をかけた。声に反応し視線を向けた晃が、少しだけ表情を和らげて食べると返してきて、結希はそれに笑いかけて応え、テーブルに食事を並べた。
二人で食事を初めて、普段はうるさいほど話しかけてくる晃が黙々とご飯を食べている様子が落ち着かなくて、結希は話題を探してみた。食べている顔を見れば、普通に喜んでるのも解るし、食事を楽しめるくらいにはもう平気だと言うことも解るけど、それでも晃との食事でなにも会話がないのがもの寂しく感じて。普段はうるさいウザいと思ってるけど、大人しくされたらされたでダメなんだなと思うと結希は何だか可笑しく思えた。
「何笑ってんだよ。」
不機嫌そうに晃が呟く。
「元気になったっぽくてよかったなって思ってさ。美味しい?」
そう適当に笑って返すと、不機嫌そうだった顔が崩れて、あぁとかうんとか言いながら視線を逸らし、気まずいというか、ちょっと恥ずかしそうにぼそっと、めちゃくちゃ美味いと呟く晃を見て、結希は、晃のこういうとこは可愛いんだよなと思って、何だか暖かい気持ちになった。晃は本当わかりやすいし、扱いやすい。透じゃこうはいかないんだよな。機嫌の良し悪しがまずわかり辛いし。まだ良い方は多少解るけど、悪い方は本当解らない。晃は適当にあしらっても大丈夫だけど、バレても、ごめんごめんで笑っとけばちょっと不機嫌になるくらいで済んじゃうし。でも、透は適当にあしらおうするとすぐ見抜いて、ちゃんと話し聞いてないでしょ、別にいいけど、とか言って冷めた目で見てくるんだよな。その別にいいけどが本当にどうとも思ってないのか、本当は怒ってるのか全然読めなくて、怖い。そういうとこ、晃の方が楽なんだよな。扱い雑で大丈夫だから。そんなことを考えていて、ふと透から同居に誘われたことを思い出して、結希は今の晃との話題にはそれが丁度良いかなと思った。
「そういえば、高校卒業したら晃と透、実家出るんだって?」
そうきくと晃が、透から誘われた?と聞いてきて、結希は、透はまだわたしに話ししたこと言ってなかったのかなと思った。
「この間。わたしも一緒に住むかどうかはまだ決めてないけど。」
そう返すと、晃が心底ありえないという風に、一緒に住まないの?と怒鳴ってきて、結希は眉根を寄せた。
「わたしだって仕事してるし、都合あるし。引っ越しって結構大変なんだよ。一人暮らしでやってけてるのにわざわざ同居する必要なくない?」
つい、考え中とか言ってしまうと、晃のワガママで横暴な部分が出てきてごり押しで同居に持っていかれてしまう気がして、結希は、本当はその提案に心惹かれているものがあるのを隠して、同居に前向きではないように言って彼を突き放してしまった。
「うわっ。透、中学の時から計画立ててそのためにずっと結希のこと探してたのに。一緒に住まないとか、結希、ひでー。」
あーだこーだ言い合いになることを予想していたのに、そう晃がどん引きしたように予想外の返しをしてきて、結希は疑問符を浮かべた。透が、中学時代からわたしを探してた?計画立てて?晃のその言い方だと、透はわたしと同居する計画立ててわたしのことずっと探してたの?中学生の頃って、つまり、わたしが藤倉家との交流を完全に断ってしまった時からってこと?え?なんで?どういうこと?そんなことが頭の中をぐるぐる回って結希は訳がわからなくなった。
「わたしのこと探してたのって晃じゃなかったっけ?透もわたしのこと探してたの?わたしてっきり、晃が透にわたしのこと話したから、透もわたしに会いに来ただけかと・・・。」
そう口にして、晃がハッとして、しまったというような顔をして、視線を逸らす。
「あー。えっと・・・。」
そう気まずそうに頬を欠いて、何か取り繕おうと考えているような素振りを見せて、結局何も思い付かなかったようで、晃が溜め息を吐く。
「本当は、結希のことずっと探してたのは透の方。俺も探すようになったのは結構最近。俺は、ずっと結希に腹立ててたからさ。探すとか以前にずっと、ヘソ曲げてたし。結希が謝ってくるなら許しってやっても良いけど、俺から探すとか会いに行くとかありえないと思ってたから。でも、まぁ、少し気が変わって、それに、彼女と別れたりもあって時間できたし、就活であっちこっち行くし、ついでになら探してやっても良いかなって・・・。」
そうぶつぶつ言って、晃が、ハーッと大きな溜め息を吐いて、今のなし、これはちげーからと言ってきて、結希は何が?と思った。ようは、わたしに捨てられたと思ってふて腐れてたし、自分からは探しに行くもんかって意地張ってたけど、それをやめて探してくれたってことだよね。晃の言いたい事はちゃんと真っ直ぐ伝わってきてると思うけど、それじゃ不正解なの?なんて思う。
「ちげーから。ついでに仕方なくとかじゃねーから。透には出遅れたけど、俺だって、結希に会いたかったし。腹立ててたのも、ショックだっただけで、怒ってねーから。今でも、俺達の前から消えたこと、納得はいってないけど。でも、昔のこととかもうどうだって良いから。こうやってまた会えたし。最初はあんななったけど。それでも結希は昔のまんまで、全然変わってなくて。今はこうして一緒にいれて。ホッとしたっつーか。嬉しかったし。」
そうなんか必死になって言う晃を見て結希は、晃が素直だ、と妙に感動した気持ちになった。素直にものを言うのが恥ずかしいのか、顔を赤くしてしどろもどろ言う姿がなんかかわいい。大丈夫、解ってるよ、解ってるから。でも、頑張れ。なんて、見ていてなんか励ますような応援するような暖かい気持ちになってくる。そして、
「俺は、結希のことが好きだ。だから、もういなくなるなよ。」
そう勢いよく前半を言って後半少しいじけるように尻すぼみしながら視線を逸らして言う晃を見て、結希はもう耐えられなくなって顔がにやついてしまった。
「晃、そんなにわたしのこと好きだったの?なに、その態度。いつも上から目線の偉そうなかまってちゃんのくせに。素直な晃とか気持ち悪。でも、かわいい。凄くかわいいんだけど。」
もう笑いが堪えきれなくて、結希が口を押えてそう言うと、晃が怒ったように顔を赤くして、うるさいと叫ぶ。
「かわいいとか言うな。人が頑張って。その・・・。気持ち悪いとかいうんじゃねー。」
そう怒鳴ってふて腐れたように黙り込む晃を見て、結希は笑いながらごめんごめんと謝った。完全にふて腐れた晃がジトッと睨んできて、結希は更に、だからごめんってば、ごめんよ、と続けて、彼が何か諦めたように溜め息を吐いてそっぽを向くのを見て、彼がもう怒ってないことを認識して、小さく笑った。ほら、カッとなったって晃はすぐ収まる。これが怒って家出てきて、時間経っても怒気が収まらないとか、本当何があったんだろ。そんなことを考えて、結希はまた少し心配な気持ちが膨らんできた。
「ココアでも飲む?」
「コーヒー。砂糖はいらないけど、牛乳多めで。」
とりあえず一息つこうと声をかけると、晃が、そうまだ機嫌は直ってないからなと言うような声で返してきて、結希は、そんな態度とっててもコーヒー一口飲んだ頃にはもうすっかり元通りなくせにさと思った。
実際その通りで、用意したコーヒーを一口飲んでもうすっかり機嫌が元通りになった晃に、結希は水を向けた。
「ところでさ、何があったの?」
そうきくと、晃の顔がまた少し怒りに歪む。
「俺の大事なもの勝手に捨てやがったんだよ。あのクソババァ。」
そう吐き出す晃に、またあんたそこら辺に転がしててゴミと間違えられたんじゃないの?なんて言って、あからさまに怒気を増した彼に睨まれて、結希は背筋が凍った。結希が怯えたのを見て取って、晃がハッとして、悪いと言ってシュンとする。
「あ、いや。わたしこそ、何も知らないのにごめんね。晃はそれ、ちゃんとしまってたのに捨てられたからそんなに怒ってるんだよね。ごめんね。」
そう結希はつい昔の感覚で小さい子を相手にするように、でも真剣な気持ちで謝って、ちょっとだけ、今の晃にこの言い方はまずかったかなと思って不安になった。でも晃が、それに気分を害した様子なく、別に結希は悪くないからと言ってきて、その元気のない様子に、結希はなんだか胸が締め付けられた。
「チョコ食べる?」
「いらねー。」
「コンビニで何か買ってこようか?何がいい?」
「だから、いらないから。変に気を遣おうとすんなよ。あいかわらず、慰め方めちゃくちゃへただな。」
そう怒鳴った晃が、こてんと転がって膝に顔を埋めてきて、結希は戸惑った。
「頭、撫でて。」
ふて腐れたようにぽつりとそう言う晃の頭を眺めて、結希はしかたがないなと思って小さく溜め息を吐くと、ポンポンとそれを撫でてあげた。
「俺、悪くないから。あいつ、解っててそういうことしてくんだよ。前も、雑紙と混ざってて気付かなかったとか言って、写真捨てられて。そん時も、スゲー腹立って。怒ったら泣きやがって。悪気はなかったのにとか何とか・・・。兄ちゃんには、大事なものならそこら辺に置いておくなって、俺が悪いって怒られて。俺、出しっぱなんかしてねーのに、信じてくんなくて。今回だって。全然使ってないみたいだしいらないのかと思ってとか言うあいつのこと擁護して、あいつには、だからって人のものを勝手に処分したらダメだろって、ちょっと小言言うくらいで済ませて、俺に、許してやれって。絶対に許さねーって言ったら、怒られた。そんなに気に入ってたなら、同じの買ってやるからそれでいいだろって。同じの買ってもらったからって、それでチャンチャンになんかなるわけねーだろ。そう言う問題じゃねーんだよ。なんなんだよ。兄ちゃんも。あの女の肩ばっか持ちやがって。マジで、やってらんねー。」
そうぶつぶつ言う晃が泣いているようで、結希はなんとも言えなくて、とりあえず彼が望んだ通り、良い子良い子をするように優しく彼の頭を撫で続けた。
「あんな家、帰りたくない。結希。今日泊めて。」
暫くして、そう呟かれて、結希は思わず嫌だよと応えていた。
「何でだよ。いいだろ、一泊くらい。」
「良くない。ちゃんと帰って。帰ってよ。泊まりはムリ。ムリだから。」
そう必死になって返すと、晃が起き上がって、じゃあいいよと言って立ち上がる。
「結希が泊めてくれないなら、俺、どっかで夜明かすから。」
「いやいやいや、ちゃんと家帰ろう。」
「ヤだ。」
「どっかって言ってもどこ行くの?あんたまだ未成年でしょ。それに、さすがに帰ってこなかったら心配されるんじゃ・・・。」
「だから?そんなん関係ねーだろ。もううんざりなんだよ。兄ちゃんの中途半端な過保護さとかさ。押しつけがましいだけで、全然解ってねーじゃん。解る気もないだろ。あんな奴に心配される筋合いなんてねーよ。兄ちゃんは惰性で心配してるだけで、本当はもう俺達のことなんかどうでも良いんだろ。」
そんな痛々しい晃の叫びを聞いて、結希はカッとして反射的に彼の頬を叩いていた。ハッとしたような顔をして、晃が顔を向ける。
「ちょっとシュウ兄が味方になってくれなかったからっていじけてるんじゃないわよ。家出して、心配かけて。それで何か変わるの?今の状態で、一晩どっかでやり過ごしただけで大丈夫になるの?晃の場合、そんなことしたら、逆に意地張って帰らなくなるんじゃないの?それに、あんたはまだ未成年で、学生で。家出したって一人でどうにもならないでしょ。学校は?衣食住はどうするの?自分の人生一時の感情で台無しにする気?あんた、高校卒業したら就職して家出るんでしょ?なら、そこまでくらい我慢して頑張りなさいよ。たった一年足らずの我慢でしょ。それくらいできないの?それに、今のままここから出てって、家にも帰らなかったら、わたしだって心配だから。凄く、心配するんだからね。」
そう怒鳴りつけて、結希はこれって自分も同じだよななんて思って、何偉そうに晃に対して怒ってるんだろうなんて自分に呆れたような気持ちになった。味方になって欲しかったのに、シュウ兄が味方になってくれなくて、それで勝手に絶望して、逃げ出して。あの頃、なっちゃんや大智がいてくれなかったらわたしはダメになってた。二人が連れ出してくれて、助けてくれて、それでなんとか学生生活をやりきることができて。だから、今、ちゃんと就職して一人暮らしでやっていけてるのに。シュウ兄に捨てられたって、本当は独りぼっちじゃなかったくせに、どうせ自分は一人でいるしかないんだなんて、誰もわたしのことなんてなんて思ってしまっていたなんて。シュウ兄に拘って、他をダメにしていたのはわたしじゃん。そんなわたしがこんな風に晃に怒るなんて、わたしってどうしようもないなと思う。
でも、怒られた晃が申し訳なさそうにごめんと謝ってくるのを見て、結希は力を抜いて笑った。晃は偉いな。わたしと違って、ちゃんとこうやって沼に沈まないで切り替えられて。本当に偉い。そう思って、頭を撫でてあげようとして、手が届かなくて、くそっ、無駄にでかくなりやがってと結希は心の中で悪態を吐いた。届かないのが何か悔しくて、背伸びをして更に手を伸ばして頭を撫でようとすると、晃がわざと届かないように背を反らして意地悪く笑って見下ろしてきて、凄く腹が立つ。
「本当、ちっさいな。」
からかうように笑いながらそう言われて、うるさいと怒鳴り返す。
「昔は同級生みたいだったけど、今なら俺の方が年上に見えるんじゃね?」
そう更に追い打ちをかけられて、そんなことはないと言いたいのに実際そう見られそうな気がして言い返せなくて、結希は悔しくて顔が熱くなった。晃だって昔はチビだったくせに。一緒に身長伸ばすぞって、牛乳飲んで運動して頑張ってたのに。なのにさ、一人だけ大きくなって、大人っぽくなって、ズルい。わたしだってさ。わたしだってもうちょっと身長欲しかったよ。せめて百五十は欲しかった。けど、伸びなかったんだからしょうがないじゃん。骨盤の位置正すと身長伸びるって聞いたから、骨盤体操とかやってみたけどだめだったし、もうこの年じゃ諦めるしかないんだからさ。自分が伸びたからって、伸びなかったわたしのことバカにするな。そんな風に心の中で悪態を吐いて悶々としていると、晃が神妙そうな声であのさと言ってきて、結希は彼を見上げた。
「ちゃんと明日には帰るから。一晩だけ、ダメ、かな?明日になれば今よりはずっと気持ち落ち着くだろうし、ちゃんとできると思うから。本当。今回は本当に頭きてて。本当に今帰ったら俺、我慢できない気がして。お願い。絶対、絶対、明日には帰るしちゃんとするから。今日だけここ泊めて。本当、頼む。」
そう言った晃が頭を下げてきて、それまでのどうしようもなくなってしまっていた様子や彼の気持ちを考えて、結希は一つ溜め息を吐いて、しかたがないなと応えていた。
「ちゃんと明日には帰るんだよ。あと、ちゃんと今日は外泊するって連絡入れること。解った?」
そう言うと、晃がパッと顔を上げ、心底嬉しそうに顔を輝かせながら、結希ありがとうと言ってきて、結希は小さく笑って、心の中で本当しかたがないなと呟いた。
折りたたみ式の机を片付けて、来客用の布団を出して、晃の寝床を用意する。晃に付き合ってた奴が泊まるとき用とかで男物の部屋着とか置いてないの?なんて聞かれて、結希はそんなのないよと言い返した。そもそも彼氏泊めたことないし。男の人泊めるとかさ、あるわけないじゃん。布団は友達が泊まりに来た時用だから。なんて思うが、そんなことを言ったらなんかなんかバカにされそうな気がして、結希は着替えなくて嫌なら帰れば?と晃を冷たくあしらった。
「そういえばさ、晃がそんなに怒るって、何捨てられたの?」
そうきいて、晃の答えが返ってこなくて結希は、彼の方を見た。また思いだし苛々で機嫌悪くなったかなと思ったのに、そこに気恥ずかしそうに自分から視線を逸らす彼がいて、結希は疑問符を浮かべた。
「別に、何だって良いだろ。」
そんな様子でそう言われるとよけい気になって、結希は、ニヤニヤしながら、えー凄く気になるんだけどと言って、晃ににじり寄った。
「うっせーな。別にそんな大したものじゃ・・・。」
「え?凄く大切にしてたものじゃなかったの?」
誤魔化そうとする晃に意地悪をしてそう切り返すと、言葉を詰まらせて顔を赤くする晃の反応がかわいくて、よけい意地悪をしたくなって。でも、俯いた晃がぼそりと、結希がくれた時計と言ってきて、結希はその意味が飲み込めなくて間抜けな顔をしてしまった。
「小学校の卒業祝いに。俺と透に色違いでお揃いのやつ、くれただろ。あれを捨てられたんだよ。」
そうふて腐れたように言われて、結希は少し混乱した。
「え?だって、晃。あれ。こんなダセーの誰が使うかって・・・。まだ持ってたの?」
そう思ったまま疑問を口にして、晃が悪いかと怒鳴り返してきて、結希はなんだか不思議な気持ちになった。
「とっくになくしたか捨てちゃったんだと思ってた。大切にしてくれてたんだ・・・。」
そう口にして、その事実が自分の中に入って来て、結希はなんだか胸が詰まった。小学生の卒業祝い。自分の時、祖母がこれからは大人の仲間入りをするからと、一生ものとして使える革ベルトの腕時計を贈ってくれて、それが凄く嬉しくて。だから、晃と透にも同じように成人しても使えるようなデザインの、結構値の張るちゃんとした時計を贈った。正直、二人分の時計を用意するのは、こつこつ貯めたバイト代ほとんど使い果たすことになったし、当時の自分にはかなり痛手で。透は普段通りのテンションの低さで普通に喜んでくれたし使ってくれたけど、晃にはダサいだの格好悪いだのめちゃくちゃ文句言われるし、一回も使ってさえくれなくて、かなりショックだったんだよな。なんて当時のことを思い出して、でも、そんなことを言いながらちゃんと大切にしてくれてたんだと思うと結希は嬉しくなった。
「子供の頃はおっさんくせー時計と思ってたけど、今になってみればスゲー良いやつなの解るし。別にそこまでおっさんっぽくないっつーか、普通に格好いいなって。それに、透も最初腕に合わなくて鞄につけてたくらいぶかぶかだっただろ。俺だって、こっそりつけてみたけどサイズ合わなすぎて、何だよこれって思って、しなかっただけで。別に、気に入らなくて捨てたりとかしてねーから。大人になったらつけようって。だから、就職決まって社会人になったら使うつもりで。それで・・・。大切にしまっといたんだよ。結希がくれた、最後の思い出の品だったし。いくら俺でもそんな大切な物、雑にその辺放り出したりとかしてねーから。」
そう何処か必死に言い訳をするように言ってくる晃が本当にかわいく見えて、素直じゃないけどこう素直なところが晃はかわいいんだよななんて思って、結希は顔がほころんだ。
「ありがとう、晃。」
そう、ありがとう。わたしの思い出を大切にしてくれて。心からそう思う。そして、最後の思い出なんて、そんな寂しい思いをさせてしまっていたことに、結希は心苦しくなった。
「また会えたし、もう最後じゃないから。今度は勝手にいなくなったりしない。約束する。だからまた、新しい思い出作って行こうよ。昔みたいに、色々一緒にお祝いして、贈り物して。思い出の品増やしていこう。捨てられちゃったのはもうどうにもならないし。だから、晃が就職先決まったら、就職祝いで新しい時計贈ってあげるからどうかな?今度は文句言われないように、わたしが勝手に決めないで、晃の好きなやつ選んで良いからさ。ね。代わりにはならないけど、それじゃダメかな?」
そうきくと、晃が少し考えるような素振りをして、それでもいいけどと言ってきて、結希は、じゃあ就職先決まったら一緒に買いに行こうねと彼に笑いかけた。そうすると、晃が視線を向け、そっと頬を撫でてきて、結希はその思いがけない行動にたじろいだ。
「結希。俺さ・・・。」
そうどこか思い詰めたような様子で口にする晃が急に男の人に見えて結希は変に緊張した。なんだろう。大きくなっても中身は変わらないっていうか、さっきまで本当にただのかわいい弟みたいに見えていたのに、目の前にいる彼が今は自分よりはるかに体格の良い大人の男性に見えて、鼓動が早くなると同時に少し怖くなって身がすくむ。
「俺・・・。」
そう何かを言いかけて、晃が頬から手をどかして視線を逸らす。
「結希と一緒に買い物行って時計買わせたら、不審者に思われないかな。結希どう見ても社会人には見えないのに良い時計買ってもらうとか。俺が脅してるとか、貢がせてるとか、悪い奴に見られそうじゃない?」
口を開いた晃がそう続けて、結希は一気に頭に血が上った。怒りたいけど、なんか深刻そうな晃の様子に、からかっていると言うより本気でそんなこと考えて悩んでそうで怒るに怒れなくて、行き場のない怒りに肩がぷるぷるする。
「じゃあ、お金あげるから晃一人で買いに行けば?」
「それはヤだ。」
「じゃあ、カタログもらってくるから、その中から選んでわたしが買って渡すとかで良い?それか、もう、通販。」
「・・・。現物見たい。カタログとか通販とか実際どうなのか解んないし。」
「じゃあ、どうしろって言うのさ。ワガママだな。」
もうムカムカが収まらなくて語気が荒くなりながらそう言い放って、結希はムスッと口を結んだ。わたしは腹を立ててます。そんなワガママ言う奴なんかもう知らないんだからね。と、心の中で意気込んで黙り込む結希に、晃がそんな怒んなよと声をかける。
「なんつーか。俺も、結希に贈ったらダメ?結希が大学卒業したときも、就職したときも、実際何も渡せてねーし。俺だってバイトしてるし、それなりに金はあるから。お互い贈り合うなら、そんな変じゃねーんじゃないかなって思うんだけど。」
そう何処か照れくさそうに言う晃を見て、結希はもしかしてそれが言いたかったの?と思って、怒りがどっかに飛んで行ってしまった。
「いいよ、わたしは。卒業も就職もだいぶ前だし、実際その頃一緒にいなかったんだし。それに、晃、高校卒業したら実家出るんでしょ?色々これからお金かかるんだから、わたしになんて使わないで自分のためにとっておきなよ。」
「結希が卒業祝いくれたときだって似たようなもんだっただろ。」
「わたしの場合は、バイト以外にも、毎月親から振り込みもあったし、お婆ちゃんが残してくれた遺産もあったし、生活資金の積み立ては余裕があったんだって。」
「うっせーな。俺が贈りたいんだから贈られとけばいいだろ。」
言い合いをして、最後にそう晃に怒鳴りつけられて、結希は黙り込んだ。
「俺だって、結希になんか形に残る物、持ってて欲しいっつーか。そういうのって大事だなって思ったんだよ、離れてみて。だから。贈られてくれね?」
そうごにょごにょ言いながら気恥ずかしげに自分を見てくる晃を見て、くっそ本当こういう所はかわいいなこいつと思って、結希は折れた。こんな風に言われたら、いらないって言えない。本当、昔かっら晃ってかわいくないけどかわいいんだよな。さすが末っ子?透は透でぼっちでいること多かったからついつい構ってたし、晃のことはなんだかんだでついつい甘やかしちゃって。わたし、本当、この兄弟に弱い気がする。幼馴染みとか腐れ縁とかそう言う言葉では収めきれない、やっぱり自分にとって二人は実の弟のような存在で。改めてこうやって繋がりを持ってみると、家族でいたかったという気持ちが溢れてきて、結希は少し苦しくなった。シュウ兄とはもうムリでも、透も晃もそれを望んでくれてるのなら、二人とだけは、また家族ごっこしても良いのかな。透の提案を吞んで、透と晃と一緒に三人で、昔みたいに和気藹々と・・・。そんなことを考えてみて、でも、ダメだよなそんなことと結希は自分の中に生まれた誘惑を否定した。結局、シュウ兄の時みたいに、二人に誰かいい人ができて、結婚とか考えるようになったら、実の姉でもないわたしが二人のお姉ちゃん然として一緒にいたら迷惑にしかならないもんな。きっと、今のこれくらいの距離が丁度良い。いつでもその時が来たら、勝手にわたしから離れていける。わたしのことなんか気にせず自然と離れていける。それに、二人がわたしから離れていっても、今くらいの距離なら、関係なら、きっと、わたしも置いて行かれたなんて思わないで済むから。だから、同居は断ろう。今のままで良いじゃんって。気軽に遊びに来れば、それでいいでしょって。そんなことを考えて、結希はなんだか寂しくなった。こんなに近くにいるのに、近くに感じるのに、二人がとても遠い。二人が手を差し伸べてくれるのは、二人がまだきっと子供で、ただ小さい頃の記憶を引きずって姉離れできていないだけで。期待しちゃいけない。仮初めのお姉ちゃんの役割を終えたら、ちゃんと二人から離れられるようにしておかないと、傷つくのは自分自身。だからこれ以上は求めちゃいけないよ。わたしは二人の家族にはなれないんだから。そう自分に言い聞かせて、結希は自分の中の寂しさと孤独感を奥へ奥へと押し込めた。