⑥
「ごはんできたよ。ほら、起きて。」
そうベットの上の透に声をかけ揺すり起こすと、寝ぼけた顔を上げた彼が、俺いつの間にか本当に寝てた?と言いながら目をこすってあくびをする。
「なんかこうして結希に起こしてもらうの新鮮。」
「透は晃と違って、目覚ましのかけ忘れや二度寝しないで毎朝ちゃんと自分で起きてたしね。シュウ兄みたいにその辺で寝落ちとかもしなかったから。起こしてあげるって機会がなかったよね。そういえば。」
そう口にして結希は、そういえばいつも眠そうと言うかぼーっとしてるように見えたけど、透がこんな風にだらだら横になって寝落ちとか見たことなかったなと思った。掴みどころがないというか、マイペースでなんかやる気ない感じに見えるけど、透ってやることはなんでもきちんとこなしてたし、結構しっかりしてて、こんなんなくせに透がいてくれるなら大丈夫って安心感があったんだよな。わたしの足りないところとか指摘してきて、しれっと済ませて、何事でもないように、代わりにやっといたからとか言ってきてさ。そういうとこ生意気でもあったけど、晃に手が掛かった分、透がきちんとしてくれてて助かってたところが大きくて。何かの時には晃の面倒見てくれたりとか、やっぱお兄ちゃんなんだなって感じるところがあって。こうやって思い返してみると、わたしかなり透に助けられてたな。わたしが一方的に、透を子供扱いしようとして独り相撲をとっていただけで、透はきっとわたしをバカにしようとかそんな気もなく当たり前に色々やってくれていて。なんでも自分でやらなきゃいけないって思い込んでたから、自分がやらなきゃいけないことをできてない事を指摘されたり、代わりにやってくれたことに拒否反応起こしちゃってたけど、本当は腹を立てるんじゃなくて感謝しなきゃいけなかったんだろうなと思う。なのに、当時のわたしは・・・。そう思い至って、自分のどうしようもなさがまた浮き彫りになって、結希は胸が締め付けられた。
「はい、チーズ。」
そう透の声がして、気が付くと彼が自分に身体を寄せて自撮りをするようにスマートフォンをかまえていてパシャリと音がして、結希は頭の中がパニックになった。
「記念写真。」
そう言って、今度はテーブルに並べた食事を撮る透を見て、結希はなんだかなと思う。本当、自由人。でも、そんなマイペースな透の姿に気が抜けて、塞ぎがちになっていた気持ちがまた戻ってくる。ほら、写真撮ってないで冷める前に食べなよと声をかけて、結希は自分もテーブルに着いて、二人でいただきますをして食べ始めた。
「今更だけど、ここでご飯食べてて良いの?夕飯、用意されてるんじゃない?」
ふと気になってそう口にして、結希は自分の言ったことで自分の胸がちくりと痛んだ。できるだけ家族揃って食事をすることが藤倉家では当たり前だった。それは修助の方針で、家族がちゃんと家族であれるように、バラバラにならないようにというおまじない。この前、晃もここでご飯食べてったけど。でも、あの日は休日で、お昼だったし。お昼は例外。でも、今日は夕食。晃の時とは違う。ついさっきまでそのことがすっかり頭から抜けていたのに、こうして透と二人食卓を挟んでみて急にそのことが頭に過ぎって、結希は透が食卓に揃わないことを修助がどう思っているんだろうと思って胸がざわついた。
「塾の後、友達とファミレスで食べるからいらないって言ってあるから平気。もう俺も晃も高三だし。昔ほどうるさくないよ。朝は相変わらず基本皆で揃ってを強制されてるけど、夜はけっこう友達と外食とかもするし。別に門限決められてないから。結希と違って俺達男だしね。そこまで過保護にはされてないっていうか。一応、連絡は入れないと怒られるけど。それだけ。」
そうどうでも良さそうに透が言うのを聞いて、結希はそういうものなんだと思って何だか気が抜けた。そしてそれ以降は特に何か話すことなく二人で静かに食事を摂って、結希は何だか不思議な感じがした。沈黙は怖い。相手が何を考えているのか解らなくて不安になる。普段なら、晃のように色々話してくれていた方が落ち着く。だけど、透との何も喋らない静かな食事は何故か落ち着いて、凄くホッとして、何かを喋らなければと思うこともなく、何も話さなくてもいいと言うことが結希にはとても楽に感じた。それはこうして向き合ってる相手が透だからだよなと思う。透だから、子供の頃からずっとこの調子で一緒にいた相手だから、安心できる。これが透だから、彼のマイペースでぼんやりした雰囲気に流されて、自分も自然体で良いんだと思える。肩肘張るのがバカらしくなる。なんだか、人と一緒にいてこんなに落ち着くの久しぶりだな。そんなことを考えて、このままが続けば良いのにと思ってしまう自分がいて、結希は少し寂しくなった。
「結希は、まだ兄さんのこと好きなの?それとももう吹っ切れた?彼氏、いたみたいだし。」
食事を終えた透からの唐突な問題提起に、結希は一瞬何を言われているのか理解できなくて、顔を上げまじまじと彼を見つめてしまった。
「もし、兄さんが奥さんと上手くいってないって言ったら。それで離婚するってなったら、結希は兄さんと一緒になりたいって思う?」
そう透に感情の読み取れない表情でじっと見つめ返されながら言われて、結希は頭の中が混乱した。シュウ兄が奥さんと上手くいってない?シュウ兄が離婚する?それでわたしが?ない、ない、ない。そんなのムリだよ。いくら離婚したとしても、わたしがシュウ兄に会うなんてもうできるわけないじゃん。わたしがシュウ兄のお嫁さんとかさ。そんなの・・・。そう頭の中で自分が修助のお嫁さんになる未来を強く否定しているのを認識して、その中にお嫁さんになりたいけどなれるわけはないという気持ちは全くなくて、ただひたすらそれを否定している自分がいて、結希はとっくに自分の中で結論は出ているんだなと思った。自分はもうシュウ兄のお嫁さんになりたいなんて思っていない。やっぱり自分の中にあるのは家族に対する執着で、あの中にいたかったという未練で。わたしのシュウ兄に対する恋心はもう、わたしの中にはないんだ、そう思う。自分は選ばれなかった。その時点でもう失恋はちゃんとしていて。それでも家族で居たかった、それを否定された痛みだけが深く深く残っていて。それが今もとても痛い。それだけ。シュウ兄に会いたくないのは、自分を否定されるのが怖いから。シュウ兄に迎えに来て欲しいのは、ただ家族だった頃に戻りたいだけ。わたしが求めてるシュウ兄はもう男の人じゃなくて、お兄ちゃんとか、お父さんとか、そんな存在。ただ、傷つけて悪かったって、独りぼっちにして悪かったって、やっぱりユウも家族だよって、そう言って欲しいだけなんだ。そう実感して、結希の中に急激に虚しさが押し寄せてきて、わたしは本当バカだなと自分に呆れたような気持ちになった。
「ごめん。結希。俺、知ってたんだ。結希が兄さんと付き合ってたって。結希が大人になったら結婚するはずだったのに。兄さんが裏切って・・・。俺、知ってたのに、どうすれば良いのか解らなくて。結希の味方になってあげられなくて。だから、ごめん。」
俯いてそう言う透を見て、結希は一瞬何を言われたのか頭が追いつかなくて、少し遅れてその言葉の意味を認識して、思わず驚きの声を上げてしまった。その声に反応して透が顔を上げる。目が合って、透の目が意味が解らないと言っていて、結希は勢いよく、違うから、わたしシュウ兄と付き合ってないし、結婚の約束なんかしてないからと言って、よけい透に困惑されて、なんだか焦ったような気持ちになった。
「兄さんのこと庇ってるの?」
「庇ってないよ。本当に、シュウ兄とはなんともなかったし。」
「キス、してた。」
そんな透の返しを聞いて、驚きに結希は固まってしまった。
「俺、見たんだ。あの時俺、まだ小学生だったし、寝ぼけてたけど。でも、ハッキリ覚えてる。喉渇いて目が覚めて。下行ったら、結希と兄さんが話してて。結希が大人になったら結婚するって話ししてた。それで・・・。何してんの?って声掛けたら、結希、兄さんのこと押しのけて、凄い勢いで走って部屋に戻ってって。付き合ってなかったなら、なんであんな話ししてたの?なんで、キスなんかしてたの?子供だったからって、そういうこと解らないわけじゃないから。嘘、つかないでよ。」
そう真っ直ぐ何処か責めるように透に見つめられて、結希は息をのんだ。でも、それは明らかな誤解で。誤解以外の何でもなくて。だから、一つ呼吸をおいて、説明をする。
「それは透の勘違いだよ。あの日、シュウ兄、学生時代の友達に飲みに誘われて。シュウ兄は色々気にして断ろうとしてたけど、わたしが、たまにははめ外しておいでよって言って、送り出して。シュウ兄、なんだかんだ言って嬉しそうに出掛けて行ってさ。だけど、シュウ兄はプチ同窓会みたいなつもりで出掛けていったそれが実は合コンだったらしくて。そこで、その年で実質子持ちとかありえないとか、男として終わってるだとか散々言われたらしくて、めちゃくちゃ凹んで帰ってきたの。しかも、やけ酒したのかかなり酔った状態で。酔っ払いがぐだぐだずっと合コンでぼろくそ言われたこと愚痴ってて、あまりにも可哀相だったから。だから、わたしが大人になってもシュウ兄がモテないままで独身だったら、わたしがお嫁さんになってあげるって言っただけ。シュウ兄も、じゃあその時はユウに嫁になってもらおうかなとか言って、いつも通りヘラヘラ笑っててさ。全然、お互い本気じゃなかったし。その場のノリというか、冗談だから、あんなの。キスだって、別に、そんなんじゃない。シュウ兄、酔ってて、本当酩酊状態で。とりあえず水飲ませようと思って、水とりに行ってる間に寝ちゃっててさ。なんとか起こして、どうにか水を飲まさせて・・・。寝ぼけてて夢現状態だったか、酔ってて人違いしたかで。だから、アレは事故だよ。シュウ兄は覚えてないし。そんな話ししたことも、あの時わたしにしたことも、シュウ兄は覚えてなんかない。だから、なかったのと一緒。わたしはシュウ兄と付き合ってなんかなかったし、結婚の約束なんかしてないから。わたしは、確かにシュウ兄のこと好きだったよ。でも、一方的にわたしが片想いしてただけなの。それで、失恋したの。勝手に。告白して断られたわけでもなんでもなくて。何もする前に、シュウ兄は別の人と一緒になることを決めて。だから、別に裏切られてなんかないから。シュウ兄は本当に何も悪くないから。」
そう言って、やはり口にすると苦しくて、結希は俯いてぎゅっと両手の拳を握った。ふと、晃と話をしたときのことが頭に過ぎる。わたしが皆の前から姿を消したのがシュウ兄のせいじゃないって解って、透も晃みたいに怒るのかな。そう考えて、胸が締め付けられる。透はあの時、わたしがシュウ兄に裏切られて傷ついてたと思ってたんだ。そう思うと、当時透から届いた、兄さんに彼女できたからって結希はいなくならないよねというメールの意味が違って見える。あの時は、失恋をからかわれているんだと思った。でも本当は心配して、わたしがいなくならないか不安になってそんなメールを送ってきたのではとないかと思う。そう思うと本当にどうしようもなくなって、申し訳ない気持ちが溢れてきて・・・。
急に透が食器を乗せた折りたたみ式の机を横にずらして、ベットから掛け布団をとってそれを被せてきて、結希はあまりにも予想外のそれに頭が混乱した。
「俺、何も見てないから。そん中なら見えないから。だから、我慢しなくていいから。」
そう相変わらず単調で感情の読めない透の声が降ってきて、結希は何故か力が抜けた。透は怒ってない。透は心配してくれてるんだ。そう思うと胸が詰まる。自分が酷いことをして、傷つけて。自分の方が晃や透を裏切ったのに。シュウ兄のことしか考えてなくて、二人の気持ちを考えないで。わたしは二人に酷いことしたのに。そう思うと泣きたくなって、透の、俺洗い物してくるからと言う声を聞いて、涙が溢れてきて。結希は被せられた布団の中で静かに泣いた。ごめんね。そう思う。ありがとう。そう思う。透の気遣いが身に染みるから、本当にどうしようもなくなって。どうにもならなくて。結希はただただ布団の中で泣き続けた。
暫くして、布団越しに透が背中をつけて体重をかけてくる感触が伝わってきて、結希は意識を彼に向けた。
「俺も晃も、結希が兄さんのこと好きだって知ってた。結希、俺達にはあれしろこれしろうるさいくせに、兄さんには甘くてさ。兄さんばっかズルいって思ってたし、兄さんは俺達と違うっていうのはあからさまで。それに、なんていうか、本当、俺達からしたら兄さんと結希が父母みたいな存在だったから。ずっと、あのままが続くと思ってたんだ。結希は兄さんと結婚して、本当に俺達の姉さんになるんだって、勝手に思ってた。だから、結希が最後に家に来た日、俺達に何も言わないでどっかいっちゃったあの時、俺は裏切られたと思ったんだ。きっと、晃も。俺は結希には怒ってないよ。結希が逃げたくなる気持ち、解る気がするし。でも、晃はずっと結希に怒ってたから。俺、言っちゃったんだ。晃に、結希がいなくなったのは兄さんのせいだって。俺が見たことも。俺の勘違いだったとしても、俺からしたらそれが真実だったし。俺の主観で全部、晃に話しちゃったんだ。だからさ、ごめん。俺、よけいなことしたよね。」
そう言った透が身を捩る気配がして、彼の背中が自分から離れて結希は少し寂しいような気がした。でも、被った布団越しに耳元で自分の名を呼ぶ彼の声が聞こえて、それがなんだか自分が知っている彼の声とは違った響きに聞こえて、結希はなんだか変な感じがした。
「これ、凄く持って帰りたい。」
そう言う透がずり落ちて、結希が被っていた布団も引きずられてずり落ちる。視界が開けて、自分のすぐ傍でさっきまで自分が被っていた布団に埋まっている透を見て、結希はなんだかなと思った。本当、自由人。そう思いながら気が抜けて、結希は布団の塊を撫でるように優しくポンポン叩いた。
「ご飯前も占領してたけど、そんなにこの布団気に入ったの?」
そうきくと、もぞもぞ動く布団の塊から、そういうわけじゃないけどと返事が返ってくる。
「なんていうか、落ち着くから。」
少し間を開けて、布団から顔を出した透がそう口にする。
「また来て良い?」
そう聞かれて、結希は何も考えずに良いよと答えていた。それを聞いた透が、少しだけ口角を上げ何処か嬉しそうに少し目を細めるのを見てなんだか暖かい気持ちになる。
「今度は、和食食べたい。肉巻きとか。ひじき煮とか。おひたし。今日、俺の好物作ってくれて嬉しかったけど、久しぶりに結希が作ったそういうのも食べたくてさ。作ってくれる?」
「別に良いけど。食べたければ自分で作ればいいんじゃない?あんたに料理教えたのわたしだし。透も晃も、わたしと同じ味付けで作れるでしょ。」
「作れるけど、結希に作ってもらうから良いんじゃん。久しぶりにさ、本家の味を食べたい気持ち解らないかな。」
そう言う透を見て、結希はそういうものなのかなと思って、ふと祖母が亡くなったときのことを思い出して、そういうものかもなと思った。祖母が亡くなったとき、自分でも同じ味付けて作ることができても、それは何だか味気ない気がして、祖母が作ったご飯が食べたくなって、すごく寂しくなった。もう食べられないと解っているからよけいそれが恋しくなった。わたしがいなくなったとき、透はあの頃のわたしと同じ気持ちになったのかな。なら、もう食べられないと思っていた物が食べられるってなったら、そりゃ食べたいのは当たり前だよね。そう思う。
「あーでも、作ってもらうばっかもアレだし、今度は俺が作る?今日のお礼。」
「え?いいよ、お礼とか。」
「じゃあ、お礼じゃないけど俺の料理一緒に食べて。」
そう言われて結希は疑問符を浮かべた。
「うちじゃ、俺が好きに作る料理食べてくれる人いないんだよね。好み合わなくて。自分のだけ完全に別に作るのも面倒だし、だから他に合わせて我慢すること多くてさ。結希みたいに、俺に気を遣ってくれる人いないから、今。」
ただ淡々と特に何か気にしている風でもなく言われただけなのに、透のその言葉が結希には妙に胸に刺さった。何を考えているか解らない、マイペースで自由人な透だけど、たぶん藤倉家で一番我慢していたのも彼だった。修助には負担を掛けないように気を遣い、自分の希望よりいつも晃のワガママを優先させて。自分が我慢するのが当たり前だから人に何も期待しない、期待しないから自分は一人で好きなようにしてるんだ。透からはいつもそんな雰囲気がどことなく漂っていて。結希にはそれがなんだか寂しく映っていた。だからなんとなく自分は透の方につこうって、透が寂しくないようにって思っていた。透にとってはどうでも良かったのかもと思っていた自分の独り善がりの行動が、ちゃんと彼に届いていたということを認識して、自分が解ってなかっただけで彼はそれを必要としてくれていたのかもと思って。そうするとどうしようもなく自分が彼にしたことが申し訳なくなってきて。でも、自分の中からこみ上げてくるその罪悪感に結希は蓋をした。
「じゃあ、今度、透にご飯作ってもらおうかな。楽しみにしてるね。」
そう言って笑う。久しぶりに、お姉ちゃんの顔をして笑顔を作る。自分の抱える痛みより、自分が与えてしまった痛みが辛い。自分と同じ傷を自分が与えてしまったことが辛い。だから結希は、晃や透が自分と関わっているのを知って修助がどう思うだろうと気にすることをやめることにした。シュウ兄が嫌がろうとなんだろうと、ちゃんと透達と向き合おう。もし、晃ともまた話ができたなら、その時はこの前のことを謝って、ちゃんと話をしよう。そう結希は覚悟を決めた。
「ん。楽しみにしてて。」
そう言って透がまた布団に顔を埋めてしまって、結希は慌てて、ここで寝ないでよと声をかけた。
「動きたくない。」
「動け。そしてちゃんと帰れ。」
「泊まっちゃダメ?」
「ダメに決まってるでしょ。ほら起きて。本当、あんまりダラダラしてると帰れなくなっちゃうから。今気付いたけど、もう結構いい時間だから。ほら、帰る支度して。」
そう言いながら半ば強制的に帰り支度をさせて玄関の外に出す。
「じゃあ、また。」
そう言って去って行く透の背中を、結希はその姿が見えなくなるまでずっと見送った。