④
中学三年生の終わりから、高校卒業までの約三年間、結希は晃達の家に居候していた。苦労性の長男、修助。マイペースな次男、透。やんちゃな三男、晃。そんな、両親を亡くして兄弟だけで暮らしていた藤倉家に招かれて、結希も本当の家族のように一緒に過ごしていた。
兄弟との出会いは結希が中学二年生の時。共働きの両親に代わりずっと面倒を見てくれていた祖母が亡くなり、家に独りぼっちが久しくなって気が塞いでいた頃のこと。祖母が亡くなってすぐは、結希の面倒を見なくてはと少しは思っていたらしい両親も、祖母のスパルタ教育の賜で結希が家事全般一人で余裕でこなせることを知って、以前と同じようにほとんど帰ってこなくなって。いや、祖母が生きていた頃は祖母が、自分の子供を放置する親があるかと度々両親を怒っていたから、たまにとはいえ定期的に帰ってきていたのに、それが本当に全然帰ってこなくなって。自分はいらない子なんだなと実感して辛かったとき。親に心配して欲しくて、怒られてもいいから構って欲しくて、どうせ自分がいなくなってもあの人達は気付かない、そう思いながらもプチ家出を実行しようとしたときだった。
思えば、祖母はとうに両親を見放していて、両親が結希の面倒をちゃんと見ることはないと思っていたに違いないと思う。だから、結希が保育園児だった頃から、泣いても喚いても身の回りのことを一人でできるように教育し、家のことをさせ、買い物も手伝いをさせ、そうやっていつ結希が一人になっても困らないように厳しく躾けたのだと思う。祖母が、結希が生まれた時から結希名義の口座を作り、少しづつそこに自分のお金を移していたのも。でも幼かった結希には祖母の厳しさが辛くて辛くて、いつだって苦痛でしかたがなかった。他の子供達が遊んでいる中、なんで自分だけお婆ちゃんと毎日こんなことしなきゃいけないんだろうと、保育園で、学校で、同じ年頃の子供達の輪に入れない自分がいて、周りの子達の会話についていけなくて、皆が羨ましくて、苦しくて。孤立して、寂しかった。悲しかった。辛かった。だから小さい頃は毎日泣いてばかりいた。でも、泣こうが叫ぼうが祖母は結希を甘やかしたりしなかった。だから結希はずっと祖母が嫌いだった。祖母がいなくなるまでずっと嫌っていた。いなくなってから、厳しくてもちゃんとできたときには凄く褒めてくれたなとか、やらないと叱られるけど上手くできなくても怒られたことなかったなとか、できるようになるまで何度も丁寧に教えてくれたなとか、お祝い事は必ずご馳走とプレゼントを用意して祝ってくれたなとか、色々、色々、祖母がどれだけ自分に愛情を注いでくれていたのか実感が湧き出てきて、祖母の厳しさは全部こうなることを予測していて、自分のためにしてくれていたのだなと解って。でも、もうごめんなさいもありがとうも言えなくて、結希は一人きりの家の中でどうしようもないほど塞いでいた。愛が欲しかった。親から愛されたかった。愛されているという実感が欲しかった。だから、どうせそんなものはないと思いながらも家出しようと思った。家出しても気が付いてくれないのなら、そのまま消えてしまっても良いと。自分なんてどうなっても良いと思っていた。だから家出と言うにもあまりにも軽装で、ただそこら辺に出掛けるだけのような格好で、結希は普段行かない方面へ当てもなく歩いていた。
そうして通りがかった公園で、小学生の虐め現場に居合わせて、つい。本当につい、なんとなく。ただその虐めの光景が結希の何かに触れて、結希の中で何かがぷちんと音を立てて切れて。気が付くと結希はいじめっ子達を蹴散らしていた。そして、助けたいじめられっ子はとても生意気で、助けてもらったくせに言った台詞は、ありがとうでも、助かったでもなく、人の喧嘩に割って入ってくんなよこの暴力女、お前どこ小だよ。で、結希はカチンときて、一対多で囲まれて一方的にボコボコにされて何が喧嘩なの、助けてあげたんだからお礼くらいいなさいよ。それにわたし中学生だから、なんて言い返して、それに対しまた、中学生って大人だろ、お前みたいなチビが中学生な訳ないじゃん大人ぶんなよとか返されて、どんどん言い合いがエスカレートして、暫くそいつと激しい口喧嘩を繰り広げて。それが晃との出会いだった。
そんなに声を荒立てて誰かと言い争ったのは初めてだった。なんでこんなに苛つくのかわからなくて、怒鳴り散らすことが止められなくて、自分の中のありとあらゆる憤りを吐き出すように結希は晃に向かって言葉を吐き出しぶつけていた。晃も晃で全く一歩も引かなくて、口喧嘩は二人が疲れ果てるまで続いて。それが終わった後、結希はなぜかとてもスッキリした気持ちになっていて、改めて傷だらけの晃の姿を目の前にして、手当てしてあげると言っていた。別にいいと言いつつも、晃ももう激しく反抗する元気はなくて、結希の押しに負けて渋々と言った様子で手当てされるのを受け入れて。俺んちすぐそこだからと、晃に促されて結希は彼の家に足を運んだ。それが始まりだった。
初めて結希が足を踏み入れた時の藤倉家は酷いありさまだった。掃除は行き届いていないし、洗濯物は取り込むだけ取り込まれて山になっていて、かろうじて水回りは片付いて洗い物は溜まっていないだけであとはほったらかしの状態。それは祖母に厳しく躾けられ常に綺麗にしていることが当たり前だった結希には信じられない光景で、思わずなんでこんな状態になってるのと口にしてしまうほどだった。そこで両親が亡くなっていることや、唯一成人していた長男が、意地で年の離れた弟達の面倒見ると言って施設に預けたり地方にいる親戚に養子に出すことを拒んで、兄弟三人暮らしだということだとか、その他もろもろ藤倉家の事情を知って。家事全般生活のほとんどが修助頼りだと言うことを知って、結希は、少しはあんたもなにかしなさいよと晃を怒鳴っていた。そしてまた口喧嘩。二階の自室にいた透がうるさいんだけどと降りてきて、彼も捕まえて説教大会になって。できないなら教えてやるからお前等ちゃんと家事をしろと、まだ小三なのにこんなことできるわけないだろという反論は、わたしは保育園児の頃からやってたわと切り捨てて、結希は二人を働かせて家の片付けをしていた。片付けが終わった頃にはすっかり遅い時間になっていて、修助がふらふらで帰ってきて、結希は思わず、バカじゃないの、そんなやつれてまで一人で抱えないでちょっとは弟達にやらせなさいよと、初対面で彼に説教をしていた。そしてカチンときた様子の修助と口論になって。勝った。というより、修助が倒れた。そして途方に暮れた透と晃にとりあえずご飯を作って食べさせて、起きてきたらお兄ちゃんに食べるように言ってと修助用に消化の良いものも用意して。このまま兄ちゃんが死んじゃったらどうしようと泣き出してしまった晃を慰めて、透も一緒に話し合いをして。結希は暫く藤倉家に通って二人に家事を教えることになった。最初、それに修助はいい顔をしなくて、何処の子かしらないけどうちのことに口出さないでくれと険悪な態度で、彼とは顔を合せる度口論ばかりしていた。でも、弟達のやる気と勢いに押され、就活やなんやと忙しくなってきた時期も重なってそれ以前よりずっと家のことに時間を割けなくなったことで、結希の家事スキルの高さに助けられていることも否定できなくなってきて、だんだん修助も受け入れるようになっていって、最終的には根負けして完全に受け入れた。
そうやって藤倉家に通うようになって、結希は気持ちが明るくなった。心が軽くなって、毎日が楽しくて。でも、いつも藤倉家を後にして一人きりの家に帰って、自分がどうしようもなく独りぼっちだという現実にうちひしがれた。透や晃達との時間が楽しければ楽しいほど、家に帰るのが辛くて苦しくて、どんどん帰りたくないという気持ちが膨らんで。時間に気が付かないフリをして長居しようとして、でも結局、そろそろ帰らなくて良いの?といつも誰かが言ってきて。わざと気付かないふりをしていたことは隠して、いつもそこで帰っていた。そんなことを繰り返していたら、だんだん二人の方がもうちょっといないの?とか、一緒に飯食ってけば良いのにとか言い出すようになってきて、最初のうちは明るいうちに帰る約束でしょなんてその言葉に後ろ髪引かれながらも帰っていたのに、だんだん流されて、長居するようになっていって。ある日、修助に見つかって怒られた。いつもは修助が帰ってくる前に帰っていたのに、その日は予定より早く帰ってきて。酷く叱られて、約束が守れないならもううちに来んなと言われて。透と晃が庇ってくれたけど、そういう問題じゃないって二人も怒られて。その過程で、結希が弟達の同級生じゃないことを修助はようやく認識して、でも中学生だからって女の子が夜道を一人は危ないだろって、今までもこんな遅くなってたのか、親御さん心配してるだろ、一緒に行って俺からも謝るからなんて心底呆れたような苛ついた口調で言われて。そんな当たり前の心配をされたことがなんかぐっときて、何かが耐えきれなくなって、結希はごめんなさいと謝って泣いてしまった。結希に泣かれてたじろいだ修助が弟達から責められて、それに苛ついた修助はお前等も反省しろと弟達を一蹴して。そんな怒った調子のままの修助に、結希は連れ出されて無理矢理帰路を歩かされた。
そして家に着き、結希は修助に家に帰ったら独りぼっちだということを知られてしまった。それまで怒っていた調子の修助の怒気が一気に収縮してなんとも微妙な雰囲気を漂わせて、結希は気まずくなって黙り込んだ。
「この不良娘。親がいなくてバレないからって、遅い時間まで出歩いてんじゃねーよ。」
そう言った修助の声は優しかった。
「言っとくけど、俺が怒ったのはユウの事心配してだからな。うちからの帰り道、ユウになんかあったら俺は嫌だし。あいつらもショック受けるから。だから、自分の事ちゃんと大切にしろ。小学生じゃなくても、ユウは女の子なんだから。ちゃんとしなきゃダメだからな。あと、家に一人だと色々心配な時もあるだろ。だから、これ俺の連絡先。」
そう言って修助が名刺を差し出してきて、結希はおずおずとそれを受け取った。
「なんかあったら連絡しろ。何もなくても、ユウが連絡したかったら連絡してきて良いから。弟達の面倒見てくれてる分、お前の面倒は俺が見てやる。でも、次約束破ったらうち出禁にするからな。ちゃんと約束守れるなら、いくらでもうちに遊びに来てて良いから。だからな。もう約束破るなよ。」
そう言って帰っていく修助の背中を見送って、結希はなんとも言えない気持ちになった。もらった名刺の存在感がとても大きくて、それはまるで宝物のように思えて、心が温かくなって、苦しくて。その日は全然眠れなかった。
そしてそれ以来、修助がぐっと優しくなった。考えてみればそれは同情だったんだろうなと思う。今日は早めに帰れるから、送ってってやるから飯食っていってもいいぞとかメールをくれたり、休日に弟達と一緒に遊びに連れて行ってくれたり。弟達に対してと同様に結希にも自分の時間を割いて。家のこと色々してくれてるからとか、弟達が世話になってるからとか理由をつけて、結希が気負わず甘えられるように仕向けてくれて。当時の結希は本当にそれにすっかり甘えきっていた。甘やかされていると気が付かないで、完全に甘えきっていた。
そして、中学三年生の秋。藤倉家に入り浸るのがすっかり日常になって、両親が全く家に帰ってきていないことが全く気にならないくらい、両親のことは頭の中から抜け落ちてしまっていた結希の前に現実が帰ってきた。一応受験生。進学について親と連絡は取り合っていたし、三者面談の時にはちゃんと学校に現れたから、完全に存在を忘れていたわけではなかったが、それでも自分の生活と全くかけ離れたところにいる、いてもいなくても変わらない存在感しかない両親。逆にいない方が色々手続きとか面倒じゃないんじゃないかなんて思ってしまうほど、結希にとってどうでも良い存在と成り果ててしまっていた両親が、その日は家に揃っていた。学校から帰ってきた結希の存在に目もくれず、なにか言い合いをしている二人を見て、結希は冷めた気持ちになった。でも珍しく親が帰ってきてるから、今日は藤倉家にはいけないなと思って、その旨をメールする。修助からは、両親が帰ってきてよかったなといった趣旨のメールが返ってきて、晃からはそんなの関係ないだろ、なんで来ねーんだよと言った文句が返ってきて、透からは解ったとだけの素っ気ない返事が返ってきて。それを見て結希はなんだか癒やされた。外が完全に暗くなった頃、両親の話し合いが終わるまで部屋にいようと思って、一人受験勉強をしていた結希の耳に、言い争いがヒートアップしてきた両親の声がハッキリと聞こえてきた。それは聞きたくなくてもどうしようもないほど部屋に入り込んできて、これは外にまで漏れてるんじゃないかなと思う。この様子じゃ久しぶりの家族団らんなんて夢のまた夢だななんて思って、どうしようも無い気持ちになってくる。こんな両親といるくらいなら、藤倉家に行っていつも通りを過ごしていたかった。そう思うが、心の何処かでやはり親の存在を求めている自分がいて、親に何かを期待してしまう自分が抑えきれなくて、結希はただずっと部屋で二人の言い争いが収まるのを待っていた。ただ待つ時間は長かった。両親の声のせいで勉強も手に付かなかった。何もしないで怒鳴り合う両親の声を聞いていると、否応なく二人が離婚について話しているのが解って、なんとも言えない気持ちになった。そして二人が争っている論点が離婚の是非ではなく、自分をどうするかということだということが解って悲しくなった。もう自分のいないところで両親が離婚することは決まっていて、二人とも違う相手がいて。だから、自分の存在はどちらにとっても邪魔でしかなくて。このまま一人暮らしさせておくにも家の維持費や生活費はどうするんだとか。大学卒業までの教育費負担はともかくそんな余計な金は出せないから、養育費払うからそっちが引き取れみたいな押し付け合いの繰り返し。そんな出口のない、結希の気持ちや意思は無視したままで繰り広げられる両親の口論についに耐えきれなくなって、結希は家を飛び出していた。
飛び出したからといって、行く当てなどなかった。今日は行かないと言ったのに、藤倉家に行くわけにもいかなかった。久しぶりに両親が帰ってきて、久しぶりに本当の家族で団らんを自分が過ごしていると思っている修助にこんなこと知られたくなかった。こんな惨めな自分を晃や透に見られたくなかった。親がいなくなっても兄弟がいる。大切にしてくれる誰かがいて、一緒にいてくれる誰かがいて、普通にワガママ言って喧嘩して、そういう当たり前ができる藤倉兄弟がどうしようもなく羨ましくて、羨ましくて、自分が惨めでどうしようもなくて。結希は涙が止まらなかった。泣きたくなくて、必死に堪えて、でも止めることができなくて。嗚咽が漏れて。それを必死に抑え付けて。抑え付けながら、人気がない方に走って、走って、走り続けて。誰もいない公園に辿り着いて、堪えられなくなって結希は叫んだ。一度叫んでしまえばもうそれは止まらなくて。叫び続けて、ぐしゃぐしゃに泣いて、泣いて、泣き続けて、疲れ果てて泣き止んだ頃、一番見つかりたくない相手に結希は見つかって、また涙が溢れてきた。
「ユウ。どうした?何があった?」
酷く狼狽した修助がそう言いながら駆け寄ってくる。なんでシュウ兄がわたしを見付けるんだろう。お父さんでもお母さんでもなくて、なんでシュウ兄なの。なんで。そんなことが頭の中を駆け巡って、理不尽に怒りがこみ上げてくる。でも、その怒りはちゃんとした形をなさなくて、結希の口からはちゃんと言葉にならない言葉で、ただたどたどしく嗚咽に紛れて、お父さんとお母さんが離婚するってって、そんなことしか出てこなくて。自分は本当にいらない子だったなんて言えなかった。お父さんにもお母さんにも連れて行ってもらえない邪魔な子なんだなんて言えなかった。親が離婚するその先は、考えるだけで涙が溢れてきて止まらなくて・・・。
「解った。解ったから。とりあえず帰ろう。な。こんなとこで泣いてたってどうしようもないし、親も心配してんだろうし。ついてってやるから、とりあえず家に帰ろう。」
そう酷く優しい声で言う修助は何も解っていないと結希は思った。でも、大人しく言うことをきいて、彼に促されるまま彼に手を引かれて家に帰るしかなかった。
家に着いたとき、玄関先まで聞こえてくる両親の声に、結希は二人ともわたしが飛び出したことすら気が付いてないんだなと思って、悲しいを通り越してもうなんの感情も湧いてこなかった。ただ、自分の手を握る修助の手に力が入って、その手が震えていて、結希はぼんやり彼を見上げた。見上げた彼の顔は見たこともないほど怒りに満ち満ちていて、その目は真っ直ぐ玄関のドアの先、きっと両親のことを睨み付けていて、結希はその怖ろしさにびくついて一気に意識が現実に戻ってきた。ハッとした修助が、一瞬申し訳なさそうな顔をして、腰をかがめて結希と視線を合わせてくる。そうやって結希の顔を覗き込んだ修助はいつも通りで、でもその目は何か強い意志を持っていて、結希は思わず背筋が伸びた。
「なぁ、ユウ。ユウも本当にうちの子になるか?」
そうきかれて、考えるより先になりたいと答えていた。それをきいた修助は結希に優しく笑いかけて立ち上がり、うっしと何か気合いを入れて、背筋を伸ばして、一回深く息を吐いてから、インターホンを押して・・・。そこから先のことは結希はほとんど知らない。ただ、最初は出てきた両親に修助がいつも通りの人当たりの良さで、結希が一人で出歩いてるのを見付けたから送ってきたといった趣旨のことを言って、いつもうちの弟達が世話になっててだとかなんやかんや言いながら家に上がり込んで。ユウは疲れただろ、何も心配しなくて良いからゆっくり休んでろとか言われて、部屋に追いやられて。修助がなにか両親と話し合う声だけが聞こえてきた。両親が二人で話していたときと違って声を荒立てるような様子もなくて、何かを話しているのは聞こえてくるのに何を言っているのかは解らなくて、でも、大丈夫だと思った。大丈夫だと思って、何だか気が抜けて、気が付けば結希は眠っていた。そして、次の日には結希は藤倉家の居候になることが決まっていて、荷物を纏めて藤倉家に引っ越しをしていた。
居候になってからの結希は間違いなく藤倉家の家族だったように思う。最初から結希もこの家族の一員だったかの様な自然さで藤倉家に溶け込んでいた。血のつながりとか、一人だけ他人とか、そんなこと意識した事なんてなかったし、自分がここにいるのがおかしいなんて思ったことはなかった。自分と彼らの関係を親子兄弟だとか思ったことはなかったけど、そういう意味ではいつだって意識は他人だったけど、でも、三人と一緒にいるのが当たり前だった。そこに違和感なんて感じたことはなかった。藤倉家は当たり前に結希の帰る場所だった。でも・・・。
『気持ち悪い』
頭の中で女性の声が響く。修助の彼女の声。紹介されて、初めましてでそれを言われた。皆はきいていないところでぼそっと。その冷たい声が頭から離れない。
一緒にキッチンに立って、結希は彼女から常識がないと言われた。結希の存在はありえないと。本当の姉でもないくせに、晃や透へのあの接し方はおかしいと。修助は優しいから結希を居座らせてくれたし何も言わないけど、本当は迷惑でしかたがないんだと。そもそも男兄弟しかいない中に血のつながりもない女子が一人、それだけでも世間の目がどんな風に見るのか解ってるのか、それまでどれだけ結希の存在が修助の負担になってたのか想像したことあるのか、赤の他人の結希が藤倉家に居ることは赦されない。なのに、我が物顔で居座って、皆に色目使って気持ち悪い。そんなことを言われて結希はそんなことないって否定したかったが、でも、修助のことが好きだったことは確かで、それを表に出していたつもりはないがそれがバレているのなら、彼女からしたらそんなの嫌なのは当たり前で、自分の彼氏のことを好きな女が当たり前のように家に入り込んで傍にいるなんて、そんなの受け入れられないのなんて当たり前で。だから、言われていることはもっともなんだと思って、結希は何も言い返せなかった。言い返せない自分が苦しかった。
それでも彼女から言われたことを否定して欲しくて、修助に、自分を引き取ったせいて世間の風当たりが強かったかなんてきいて、結希はそんなことをきいたことを酷く後悔した。修助は否定も肯定もしなかった。ただ、困ったような顔をして、ユウもそういうこと考えるようになったかと言って。まぁ、色々気を遣うことはあったけどそんな大したことはなかったよって、それにユウがいてくれて本当助かってたしなんて言われて、結希は、あぁ彼女さんが言ってたことは本当なんだなと実感してしまった。当たり前のように家族のように過ごしてきてしまって、何も考えずにシュウ兄に恋心なんて抱いてしまって。そんなのただシュウ兄が優しくしてくれるから、受け入れてくれるから、甘えきってただけじゃんなんて思う。自分は何も気付かず甘えきってたけど、本当はシュウ兄にとってわたしは負担でしかなくて、迷惑でしかなくて、そう思うと、今まで自分が当たり前だと思っていたものが全部ガラガラと崩れ堕ちてしまって。結希は藤倉家から逃げ出した。
晃や透からのメッセージに返事を返すことができなかった。自分はあそこにいちゃいけない人間なのに、彼らにどう返せば良いのか解らなくて。晃も透もまだ中学生だし。今はまだよく分かんなくてもそのうち二人にとってもわたしは迷惑でしかなくなるかもしれないし、なんて思って怖くなって。いつか、赤の他人のくせにって二人からも拒絶されることが怖くて、苦しくて。でも、いつまでもこのままじゃダメだって、このままでいちゃいけないって。なんとか、ぽつりぽつり二人に返事を返して。意を決して修助に、自分はこのまま藤倉家の一員だと思ってて良いのかなって、皆のこと家族だと思っててもいいのかなってメールを送って、そして。
『そりゃもちろんそう思ってて良いけど。でも、世間的にはお前は他人だし、人によって理解するのが難しいってこともあるから。家出て独り立ちもしたんだし、色々面倒だからとりあえず帰ってくんな。透や晃にとってもその方がいいだろ。』
そんな返事が返ってきて、結希は目の前が真っ暗になった。もうその先は、晃や透からのメッセージに返すこともできなくなった。それを見ることすら辛くて、メッセージの着信音を聞くだけで怖くなって。携帯を解約し、元々使っていた会社とは別の会社で新しく契約し直して、引っ越しをして。
独りぼっちの方が楽だった。誰かが一緒にいてくれるなんて期待しない方が。でも、寂しくて、苦しくて。いつだって誰かを求めていた。でも、その誰かは誰でもいいわけじゃなくて。結局、自分がいたかったのは藤倉の家だったんだって。あそこに帰りたい。帰れない。最初からわたしもあそこのうちの子だったら良かったのに。皆と血が繋がってたら。シュウ兄に恋なんかしなければ良かった。そんなことばかりに心が締め付けられて、苦しくて苦しくて。今も、どうしようもないくらい、辛い。
ねぇ、シュウ兄。うちの子になるかって言った言葉はなんだったの。酔ってたせいかもしれないけど、あの時なんでわたしにキスをしたの。シュウ兄にとってわたしはなんだったの。ただどうしようもなく可哀相だったから、しかたがなく保護してくれただけの、本当はお荷物で迷惑で邪魔でしかない赤の他人だったの?なら、優しくなんかしてくれなければ良かったのに。手なんて差し伸べてくれなくて良かった。どうせ捨てられるなら、暖かい場所なんて知らないままが良かった。藤倉家で過ごした三年間が凄く幸せで、幸せすぎて、わたし、今が辛くて辛くてしかたがないんだよ。自分で暖かい場所を作ろうと思っても、それを失うことが怖くて、怖くて、結局一定以上人と距離を詰めることができなくて、わたしはもう誰の手もちゃんととれなくなっちゃったんだよ。なのに、一人で生きていく事が寂しくて、耐えきれなくて・・・。わたしを捨てたんだから、ちゃんと弟のこともわたしから引き離しておいてよ。なんで晃はわたしを探すのを諦めなかったの。見つけ出して、あんなこと言ってきて。わたしに捨てられたと思って傷ついて。その痛みを一番よく知ってるはずの自分が、そんな晃を見て喜んじゃったのが嫌で嫌でしかたがない。こんな自分は嫌だ。嫌だ。もう晃とも、透とも、シュウ兄とだって関わりたくない。もう、考えたくない。考えたくないのに。わたしの中から出て行ってよ。そんなことを心の中で叫んで、結希は自分の布団に顔を埋めて力の限り強く自分の中の空気を全て吐きだした。