奴隷のドレス事情
「マルガリータ、出て来たのか」
「こんにちは、ディアン。旦那様の許可は取れていないのですけれど、来てしまいました」
向こうが会おうとしてくれないとは言え、主人の許可が取れていないのに奴隷が勝手に動き回るのが、良い行動とはとても言えない。
けれど、ダリスもアリーシアもここを訪れる事に賛成してくれていたのだから、少なくとも絶対に近寄ってはならない場所ではないはずだ。
ディアンは、蕩けるような笑顔で嬉しそうに迎えてくれているし、黒仮面の男と相対する日までは、もう少しだけこの仮初めの平穏を味わわせて貰おう。
「マルガリータ、一人?」
「皆さんお忙しいのに、私にずっと付き合わせるなんて出来ません」
「ここで穏やかに過ごすことが、マルガリータの役目だ。それに付き従う事を、付き合わされるとは言わないだろう?」
「……穏やかに過ごすのが、役目? それはきっと、私の事ではないはずです。旦那様の恋人と間違われているのだと思うのですが……誰も信じてくれなくて」
「恋人!?」
「旦那様にお会いできず、なかなか誤解が解けなくて困っています」
「何故、そんな話になっているんだ……」
驚き戸惑った様子で、首を傾げながらぶつぶつと考え込むディアンの姿に、何か変なことを言っただろうかと、マルガリータもつられて首を傾げる。
「ディアン?」
「俺……いや、旦那様に恋人はいない。いずれ、そうなればいいとは思っているが……。マルガリータが、恋人と間違われているという事はない、から」
「そうなのですか? それでは私は、一体どなたと勘違いされているのかしら」
「いや、だから……そもそも別に、誰とも間違われている訳では……」
ディアンが目頭の辺りを押さえ、ぼそぼそと何かを伝えようとしてくれているのはわかった。
けれどその困った様な表情から、黒仮面の男から何か口止めでもされているのかもしれないと推測する。
ディアンを困らせたい訳ではなかったし、恋人と間違われているのではないという収穫もあった。
これ以上聞くと迷惑になると判断して、マルガリータは言葉を最後まで聞き終わる前に、話題を別へと逸らすことにする。
元々ここへは、ハーブの様子を見に来たのだ。
「ラベンダーの花が、綺麗に咲いていますね。この間は、まだ蕾だったのに」
おあつらえ向きに、視線の先に小さく揺れる紫色の花を見つけ声を上げる。
ハーブは、花を咲かせる前の早い段階で利用してしまう物が多いけれど、やはり女子としては小さく咲く花を見るのも好きだ。
特にラベンダーは良い香りがするし、花はポプリとしても使える。
何より育てやすく、真奈美も狭い一人暮らしのワンルームマンションのベランダに植えていた植物の一つなので、愛着がある。
するりと横をすり抜けて、うきうきと駆け足でハーブ園の中へと足を踏み入れるマルガリータの姿に、ディアンが苦笑する気配が背後から伝わって来た。
(ちょっと、わざとらしかったかしら?)
ラベンダーの近くまで来て、覗き込むように香りを楽しみながらも反省していると、ディアンがゆっくりと近付いて来て、マルガリータのすぐ隣に立った。
その整った横顔をちらりと見て、ディアンはゲームの攻略対象ではなかったはずなのに、どこに立っていてもスチルになりそうな顔面偏差値の高さに、見惚れてしまいそうになる。
と同時に、どこかでこの輪郭を見た事があるような既視感にも襲われた。
マルガリータは箱入りの伯爵令嬢だったので、親しい男性の友人は多くない。
ちなみに、男っ気皆無の生活を送っていた真奈美の方は、友人と呼べるような男性の知り合いは一人も居ないので、言わずもがなである。
比較的最近見た様な気もするし、随分昔だった様な気もする。
つまりは、ただの気のせいという所が正しいのかもしれない程に、ふんわりとした感覚だったので、それ以上抱いた既視感の答え合わせをする事は出来なかった。
「ここでの生活に、不自由はしていないか?」
出ない答えに考えを巡らせる事を早々に諦めて、ラベンダーの花と香りを楽しんでいたマルガリータに、ディアンが心配そうな声を掛けてきたので、驚いて顔を上げる。
「不自由だなんて、全く! むしろ、良くして頂き過ぎています」
「なら良いが……」
「あ、でも不自由とは少し違うのですけれど、戸惑っている事はありますね」
「どんな事だ?」
「このお屋敷に来て以来、毎日私用に新しいドレスが用意されているんです」
「……? それの何がいけない?」
「毎日ですよ、毎日! 今日でここへ来てから六日目ですから、今来ているこのドレス六着目なんです」
「良く似合っている」
「ありがとうございます……じゃなくてですね!」
異常さが全然伝わっていなくて、思わず声を上げてしまう。
きょとんとしているディアンには、本当にマルガリータが何を訴えているのかがわからない様だ。
毎朝、アリーシアが「旦那様からです」と運んで来るドレスは、どれも高品質だとすぐにわかる肌触りで、且つマルガリータの身体にぴったりと馴染む為、恐らく専用に用意されたオーダーメイドである事がすぐにわかった。
しかも、普段着と言い切るには難しい、綺麗なデザインと着心地の一品ばかりだ。
元伯爵令嬢という立場だったからこそ、それが決して安い買物でないこともわかるし、その品質も正しく理解出来る。
奴隷であるマルガリータに、支給されるべき物ではない事は明らかだった。
今日までは、恋人と間違えられているからかもという予想だったけれど、どうやらそうではないらしい。
例え、誰か恋人ではないものの黒仮面の男にとって大切な人と勘違いされているのだと仮定したとしても、この品質の物を贈られる頻度が、毎日というのは高すぎると思う。
いくら黒仮面の男が、金持ちの道楽息子だったとしても、「いい加減にしろ」と親やら周りからたしなめられてしかるべきだ。
毎朝毎朝、新しい最高級ドレスを贈られ、普段着として着せられる奴隷の身にもなって欲しい。
居たたまれないし、誰かの手伝いをしたくても汚すのが怖くて、正直余り動けない。
それになにより、後でどんなしっぺ返しで不幸が押し寄せてくるかを想像すると、不安しかなかった。
三日続いた辺りで、アリーシアにはもういらないと黒仮面の男に伝えて欲しいと懇願したのだけれど、「旦那様の甲斐性ですから、貰っておけばよろしいのです」と笑顔で返され、失敗している。
だが、その甲斐性を発揮しなければならない相手は、絶対に奴隷のマルガリータじゃない。
アリーシアが伝えてくれないならば、本人に直接会えた際に絶対に断ろうと決意しているのに、びっくりするほど黒仮面の男に会えない。
ちなみにダリスにも頼んでみたけれど、アリーシアと一言一句同じ回答が返ってきた。
この屋敷の使用人達が、とても優秀なのは間違いないはずなのに、どうしてマルガリータの事をここまで勘違いしたままで居られるのか不思議でならないし、金銭感覚もだいぶずれている気がする。
自慢ではないが、マルガリータだってそれなりに力のある伯爵家の元令嬢で、それなりのレベルのお金持ち貴族として、十七年間を過ごして来た。
真奈美の記憶が甦った事で、多少平民に近い感覚も手に入れてしまったけれど、それでも貴族と言えども際限なく金銭を使えるはずがない事や、どの程度までなら使っても大丈夫なのかは知っている。
この屋敷には過度な調度品はなく、抱えている使用人も少ない。
品物の一点一点、使用人一人一人にはきちんとお金を掛けていることから、使うべき所にちゃんと使える位の余裕があるのだろうとも思う。
ここが別宅なのだとして、本宅の規模や貴族位がどれ程のものか予想は付きにくいけれど、この屋敷の雰囲気を見る限り、お金があっても無駄に贅沢な暮らしをするようなタイプではなさそうだ。
だからこそ、使用人達はようやく黒仮面の男が連れて来た大切な人だと思われる女性への贈り物に関して、苦言を呈するどころか、歓迎の姿勢を取っているのだろう事もわかる。わかるのだけれど。
(旦那様が大切にしたいのは私じゃない、って所だけ何故わかってもらえないの!?)
「ぐぬぬぬぬ……」と、どうしたらいいのかわからない感情を抱え、本来癒やされるべき場所であるハーブ園の中心で、思わず唸ってしまいそうになる。
マルガリータ自身は、奴隷としてこの先を生きて行く覚悟を決めたというのに、周りがそれを許してくれないこの訳のわからない状況がままならない。
拒否する間もなく、毎日着せられてしまっているドレスが、風になびく度に肌触りの良さを訴えて来るので、本当に困る。
これに慣れたら後が辛い、気持ち良すぎて。
麻のボロボロワンピースの着心地を、まだ身体が覚えている間に、相応の格好に戻して欲しい。
「迷惑だった、のか?」
何故か少し寂しそうに、しゅんとした表情でディアンが問うから、マルガリータはそうではないのだと首を大きく横に振る。
「いいえ、とても有り難くは思っています。ただ先程も言いましたが、ここまで身の丈に合わない位に、良くして頂くと困ってしまうと言いますか、後が怖いと言いますか……」
段々言葉が、尻すぼんで行く。
そう、結局は皆に良くして貰えば貰う程、真実が明らかになった後に向けられるであろう、冷たい視線や態度に耐えきれなくなりそうで怖いのだ。
黒仮面の男が、何故かマルガリータを放置しているのも、使用人達の誤解を解かないのも、最後にマルガリータが深く傷付く顔が見たいからなのではないかとさえ、疑ってしまう。
持ち上げるだけ持ち上げておいて、叩き落とすのが狙いなのではないか、と。
出会ったその日以降、全く顔を合わせていないし、その日も会話らしい会話もしていない。
逆に何も話せていないからこそ、マルガリータの中の黒仮面の男への評価は、上がったり下がったりが忙しい。
「つまり、気に入らなかった訳ではないが、もうドレスは充分だからいらないという事だろうか?」
ディアンには幸いな事に、マルガリータの語尾に隠された葛藤までは伝わらなかった様だが、毎日新しい高級ドレスを贈るのはやり過ぎだ、という所はどうやらわかって貰えた様だ。
(ダリスさんやアリーシアみたいに、受け取っておけば良いという結論に、辿り着かなくて良かった……)
ほっと息をついて、笑顔で頷く。
「そうですね。私には過ぎた贈り物より、ここに新しいハーブが増える事の方が、ずっと嬉しいです」
「装飾品よりも?」
「装飾品なんて、もっと要りません」
「そうなのか……」
ディアンのせいではないのに、何やら深く考え込み始めてしまったので、そっと話題を変える事にした。
今は、ディアンにだけでも、マルガリータの困惑を理解して貰えただけで充分だ。
「そう言えば、私がミントを気にしていたのを旦那様に伝えてくれたのは、ディアンですよね。おかげで今朝、ミントティーを出して頂けたんです」
「……味はどうだった?」
「美味しかったです。香りもとても良くて」
「そうか」
「はい。旦那様はお忙しそうなのに、毎日新しいハーブティを用意して下さって、とても感謝しているんですよ。実験だと言う事は承知しているのですけど、どれもとても美味しくブレンドして下さるので、いつか直接お礼を言いたいのですけれど……」
「実験……? 確かに、ハーブの存在を知らないアリーシアには、そう言ったか……?」
「ディアン?」
「いや、何でも無い。マルガリータ、ドレスの代わりと言ってはなんだが……近々、新しいハーブを仕入れに行こうと思っている。良かったら、一緒に来るか?」
「ぜひ行きたいです!」
ディアンの誘いに、一も二もなく頷いてからはっと気付く。
仕入れと言う事は、町に下りると言う事、すなわちこの屋敷から出ると言う事だ。
庭師であるディアンにとっては、仕事の一つだろうけれど、いくらなんでも奴隷のマルガリータが、主人である黒仮面の男の許可無く、屋敷を離れる事は出来ない。
今だって、屋敷内とは言え、結構勝手な行動をしている自覚はあるのだ。
全く会えないからと言って、何でも自由にして良い訳はない。
主人の命を聞かなかったらどうなるか、マルガリータは胸元の奴隷紋を、ドレスの上からそっと押さえる。
「どうした?」
「外へ出るには、旦那様の許可がないと……」
「それなら、俺から話を通しておこう」
「本当ですか!?」
「あぁ、大丈夫だ。許可が出たら、アリーシアに連絡しておく」
「あの……それなら明日からも、この時間ここへ来ても良いか、聞いておいて下さいませんか? ハーブのお世話も、お手伝いしますから」
「それはもちろん、構わないが」
「良かった。ありがとうございます、何でも言って下さいね!」
こうしてマルガリータは、ようやく屋敷内での仕事を一つ手に入れた。
と言っても、この日からハーブ園に毎日通う様になったものの、なかなか植物を直に触らせては貰えず、ほとんどディアンが世話をするのを、横から眺めているばかりだった。
だがそれでも、真奈美の持つハーブの知識はこの世界でも役に立つ様で、水やりや状態を見ながら話すだけでも、充分役に立っているとディアンには感心されたし、いつも笑って頭を撫でてくれるから、邪魔をしに来ているのではないと思いたい。