旦那様は激レアキャラ
マルガリータによる、交渉というかせめて少しだけでも会話したいという思惑とは裏腹に、結局その日は夕食の時間になっても、黒仮面の男は戻らなかった。
それどころか、マルガリータが部屋で待っている事すら忘れているのではないかと思い始める位に、一目も会えないまま、既に五日が過ぎようとしている。
これはもう、もしかしなくても性奴隷パターンは除外しても大丈夫かもしれない。
その目的で買った奴隷ならば、普通五日間も放置しないだろう。
毎朝ダリスが、それはそれは申し訳なさそうに主人の不在を告げる。
聞き慣れてしまったその台詞を、いつもより早く起きた六日目の朝である今日も、同じ様に耳に入れる事になった。
(今日は、何をして過ごそうかしら……)
最初の二日間こそ、部屋でじっとしていたものの、何の変化もないまま迎えた三日目からは、マルガリータは屋敷内を、比較的自由に動き回るようになっていた。
黒仮面の男と話を出来ないが故に、使用人達の誤解を解くこともままならず、相変わらず客人扱いのマルガリータに対して、ハーブティを試し飲むだけの実験台と呼ぶにはリスクもなく簡単すぎる作業をこなす以外、仕事を振ってくれる気配は見られない。
もちろん、屋敷内をゆったり散策していても、咎められることはない。
これなら奴隷に堕とされる前の、伯爵令嬢時代の方がよっぽど忙しかった。
毎朝、ダリスは黒仮面の男と会って会話を交わしているようだし、普段傍近くに仕えているはずの従者であるアルフと顔を合わせる事も多いので、ずっと帰ってきていない訳ではなさそうだ。
(今日こそはと思って、かなり早起きしたはずなんだけど……もしかしなくても、避けられてる? 何故?)
これはもう、マルガリータが黒仮面の男にわざと避けられているとしか思えない、遭遇率の低さだ。
ぶつぶつと考えながらも、自然と手は動く。
口に運ぶバルトの作る朝食は相変わらず絶品で、文句が霧散してしまうのも問題だった。
黒仮面の男とマルガリータが会えないのは、使用人達のせいではない。
それなのに、毎朝食堂で迎えてくれるダリスとバルト、そして部屋まで来て身支度を手伝ってくれるアリーシアの表情は毎回申し訳なさそうで、問い詰められる雰囲気ではなかった。
黒仮面の男の、身の回りの世話を中心に行っているアルフやハンナを見かけては、それとなくスケジュールを聞いてみたりもするのだけれど、ダリス同様「旦那様はお忙しくて」やら「照れ屋で」やらの言葉の後に、必ず「申し訳ございません」と深々と謝られてしまうから、それ以上聞く事も出来ない。
二人とも、きちんと主人とのコミュニケーションは取れている様子なので、やはり屋敷内で黒仮面の男に遭遇できていないのは、マルガリータだけと言うことになる。
(五日間、この屋敷の主人であるはずの人物と遭遇率ゼロパーセントだなんて、どんなレアキャラよ……)
遠い目をしながら、初日以降マルガリータの食べきれる量にきちんと調節された朝食は美味しく戴き、食後の紅茶に口を付ける。
「……今日も美味しい」
「それはようございました。マルガリータ様は、こちらの香りお好きらしいと旦那様がブレンドされておりましたが、本当なのですね」
ミントティーの爽やかな香りに「ほぅ」と息をつくのと同時に、自然と漏れた感想を拾ってアリーシアが微笑む。
「え?」
「庭園で熱心に見ていらしたからと、言っておられました。まだ試していない物だったらしく、随分試行錯誤された様です」
「そう、なのですか……?」
この屋敷に来た次の日。
初めてダリスに屋敷を案内して貰った後、一人でハーブ園を訪れたのは五日前。
ミントの香りに惹かれて、ふらふらと近付いたのは確かだ。
けれどあの場所には、庭師のディアン以外には誰も居なかった。
ミントが好きなのは確かではあるのだが、ディアンが黒仮面の男に報告しなければと思うほど熱心に見ていた覚えはない。
むしろ勝手に触るなと怒られ、ディアンの迫力のある容姿にびっくりした事もあり、そこまでミントに対して、興味は集中していなかったはずなのだけれど。
あの一瞬で、私がミント好きだと察したのだろうか。
出来すぎる使用人達が、逆に怖い。
マルガリータは、黒仮面の男と一言も言葉を交わせてもいないのに、向こうにはマルガリータの一挙手一投足まで、筒抜けているような気がしてならない。
(私はまだ、名前すら知らないのに!)
黒仮面の男は屋敷に帰ってきていない訳でも、別宅だからたまにしか顔を出さないという訳でもなく、ただマルガリータが自由に動ける時間にだけ居ない、というのが正しいらしい。
その証拠に、ダリスはこの五日間毎日顔を合わせ、スケジュールを確認している。
いっそのこと、こちらから積極的に探し回れば、案外出会えるのかもしれない。
使用人達に奴隷だと認識して貰えていないので、かなりの自由行動を許されては居たけれど、勝手にうろつくのは気が引けていた。
だから基本的に部屋の中で過ごすか、利用して良いと許可を貰った図書室で本を読むかの二択だったのだけれど、流石にそろそろこの往復も飽き始めて来た。
今日からは少し、違う場所にも行動範囲を広げてみよう。
そうしたら、ひょっこり黒仮面の男と出会えるかもしれない。
本当は黒仮面の男に諸々話を聞いて、ちゃんと許可を取ってから動く、そう筋を通そうと考えていたのだけれど、避けられているというのなら、多少勝手にさせてもらっても構わないはずだ。
(本当に多忙なのだとしたら、知らない内に奴隷が大きな顔で屋敷を闊歩している状況は、ちょっと申し訳ないような気もするけれど……最初に、ちゃんと私が奴隷だって皆に説明しなかった方が悪いって事で……)
アリーシアの話で、庭園でのディアンとの約束を思い出したマルガリータは、今日の行き先をハーブ園に決めた。
本当は、許可を貰ってから仕事として行きたかったけれど、邪魔をするのではなく手伝いに行くのだから大丈夫だろう。
ここ数日通い詰めた図書室にも、植物図鑑や薬草についての本は多かった様に思う。
ディアンは、黒仮面の男がハーブを育てているのは趣味のようなものだと言っていたけれど、熱心に研究しているのは間違いなさそうだ。
日々出されるハーブティの種類も様々だし、徐々にマルガリータが飲み慣れていた通常の茶葉の割合を減らし、真奈美がよく飲んでいたハーブティに近い配合になって来ている。
(ていうか、忙しすぎて顔も合わせられないのに、毎日ハーブティのブレンドは欠かさず出来るって一体なんなの。私はハーブ以下って事? 以下なんだろうなぁ……)
やはりマルガリータに使う時間などない、という事なのかもしれない。
趣味だとしても、これだけ熱心に研究しているのならば、黒仮面の男がハーブ園に現れる可能性は、意外と高い様な気がする。
普通貴族は、自分で植物を触ったり世話したり等しないから、あくまで可能性という所だけれど。
(私だったら、興味のある物なら尚更、自分で育てたいし経過も見たいもの)
仕事が忙し過ぎるというのなら、余計にひとときの休憩を取りに来る可能性だってある。
これだけ研究していて、ハーブにリラックス効果があることを知らない訳はないだろう。
手伝いをするのが一番の目的だけれど、黒仮面の男を探しに行く場所としても、間違ってはいない気がした。
「ダリスさん、今日は庭園に行きたいのですが、外に出ても大丈夫でしょうか?」
「もちろんでございます。今日は良い天気ですし、気分も晴れますよ」
「えぇ、旦那様もお喜びになりますから、ぜひ!」
「あの、一人で外に出ても?」
「畏まりました。では、お昼になったら呼びに参りますね」
念の為にとダリスに許可を求めたら、アリーシアと揃って何故か前のめりに勧められた。
しかも、いつもなら図書室で本を読むだけなのに、ずっと傍に付き添っていてくれそうになるアリーシアを、毎回「大丈夫だから仕事に戻って欲しい」と切々と説得するのに苦労するというのに、簡単に単独行動にも許可が出た。
庭にはディアンが居るから、という事なのかもしれないけれど、何となく腑に落ちないのは、いつも過剰すぎる程にマルガリータの世話を焼きたがるのに、今回だけ引くのが早すぎたからかもしれない。
多少不審に思いながらも、マルガリータが自分で庭園に行きたいと言ったのは確かだし、ディアンの手伝いをしたいとも思っていたので、ここは素直に貰った許可を受け取っておく方が賢明だ。
いつもは朝食後、一度部屋へ戻るのだけれど、今日はそのまま庭へ出た。
相変わらず、綺麗に整えられた芝生の中庭を横目に、ハーブ園への道を辿る。
この五日間、部屋の窓から幾度となくちょうど正面に位置するこの庭を見下ろしていたけれど、いつもディアンが世話をしている後ろ姿ばかりが、目に入って来ていた。
黒仮面の男の出現は、他の場所に居るよりも可能性は高いかもしれないけれど、期待値は大きくはない。
むしろディアンは、ちゃんと休憩しているのかと心配になる位に、ずっと居る。
マルガリータがハーブの研究をしている立場なら、自分で様子を見に来たくなるし、世話をしたいと思うのだけれど黒仮面の男はそうでもないのかもしれない。
ディアンの腕を信頼しているからなのか、やはり身分が高いと自ら土を触ることなど考えつきもしないのか、その両方なのか。
少しずつ育っていく様子を見るのも、植物研究の醍醐味なのではないかと思うけれど、それは真奈美の常識であって、この世界の貴族にとってはそうではない。
(ここで黒仮面の男に会えるかもっていうのは、やっぱり望み薄かなぁ……)
ハーブ園に足を運ぶと、そこにディアンの後ろ姿を見つけた。
腰の辺りまで伸びた黒髪を後ろで束ねているが、風に乗ってサラサラと揺れてとても綺麗だ。
真奈美は少し癖毛体質だったので、サラサラな髪質に純粋に憧れる。
今マルガリータの銀髪は、その点もの凄くサラサラなので、既に憧れを手にできていると言えばそうなのかもしれないけれど、やはり元日本人だったからだろうか黒髪のサラサラ感は特別だ。
ついその立ち姿に見惚れていると、風に乗って話し声が聞こえてきた。
どうやら今日は、ディアンの他にも誰か居る様だ。
もしかしたら黒仮面の男かもしれないと期待をするが、ディアンの向こう側にちらりと見えたのは、アルフの姿だった。
会話の邪魔をしてはいけないと立ち止まって近付くのを止めた為、会話の内容は聞こえなかったけれど、アルフはディアンに対してまるで主人にするかのようにとても丁寧な礼をして、駆け去って行く。
この五日間で、黒仮面の男とは接点さえも持てなかったけれど、使用人達とは随分仲良くなって色々と話をした。
こんなにも気軽に、使用人達とお喋りしていてもいいのかと不安になる位に、皆気兼ねなく話掛けてくれる。
避けられるよりはよっぽど良いし、大変居心地は良いのだけれど、奴隷であるマルガリータの立ち位置は、本当にこれで合っているのだろうか。
アルフは平民出身らしく、普段から姿勢や言葉遣いに気をつけていないとすぐにボロが出るからと、誰に対しても丁寧に接するようにしているのだと言っていた。
それでも、咄嗟の時には気安い言葉や態度が出てしまうようで、バルトによくからかわれている所も良く見るけれど。
だが、庭師であるディアンはアルフとは年齢的には上下があるかもしれないが、身分的には同じようなものだろう。
そんなディアンに対しても、アルフが丁寧な態度を貫いているのは、意外だった。
平民である自分を、傍近くに置くという判断は、そう簡単にできるものではない。何としてでも期待に応えたいし、旦那様の為にだから頑張れるのだと力説していたけれど、気を抜く場所がどこにもないのは大変そうだ。
(アルフや、他の皆の信頼を勝ち取っているらしい事はわかるけれど、そうまでさせる黒仮面の男の人物像が、ちっともわからないのよね。なにせ、全く会えないから!)
黒仮面の男に会うと言うことは、マルガリータの立場が奴隷に正されると言うことでもあるので、本当は会えない方がこのままの状態をキープ出来ると考えると、幸せなのかもしれない。
けれど、そんな仮初めの幸せは長くは続かないものだ。
何より優しくされる期間が長ければ長い程、本来されるべき扱いをされた時が辛いのは、わかりきっている。
傷が浅い内に会って、今の状態が間違っていることを、使用人達に知らしめて欲しい。
アルフは、黒仮面の男の従者だ。
貴族の従者は、いついかなる時も主人に付き従うのが通常なのだけれど、この屋敷の使用人達においては貴族社会の常識が通じない所もあるので、今アルフを呼び止めたところで、黒仮面の男に会えるかどうかは五分五分といった所だろう。
黒仮面の男の行方を知るチャンスのような気もしたけれど、何やら急いでいる雰囲気でもあったし、声を掛けることは躊躇われた。
アルフが完全に庭園から姿を消した頃、立ち止まったままだったマルガリータへと、ディアンが振り返る。
音を立てない様に気を配っていたつもりだったけれど、驚きもせず真っ直ぐにこちらへ向かってくる様子から、ディアンはマルガリータがここに居ることに、早くから気付いていたのかもしれない。